2009年8月11日火曜日

魔女のいる風景

  一.


 森には魔女がいて、悪い子は魔女に誘拐されて食べられてしまう。悪戯をした時、夜遅くまで起きている時、大人はそう言って子どもを叱りつける。この辺りの子はみんなそういう風に言い聞かされて育ってきた。
 森は村の外れにあり、鬱蒼と茂っていて中に入れば昼でも薄暗い。誰も近寄りたがらない。みんな、魔女がいると信じているから。口先では魔女なんていない風に言っているけれど、無意識の内に誰もがみんな魔女を恐れている。
 その昔、魔女狩りというものがいたる所で行なわれた。教科書に載るくらい昔の話だ。魔女とは堕落し邪なものに溺れた人間を指し、邪悪な魔術を試み、悪魔と交わり人に害を為すものだと言われている。彼女らを社会的に排除する試みとして行なわれたのが魔女狩りであった。しかし実際は魔女狩りという名の下にいわれのない罪で多くの人々が魔女裁判にかけられ例外なく殺されていった。まったく野蛮で非文明的な所業であったとして教科書では専ら批判されている。もちろん僕らは当時を生きたわけではないので実際のところはわからない。もしかしたら本当に魔女というものがいて、彼女たちは魔術を用いて人を誘惑し苛ませてきたのかもしれない。だとしたら怖い話だと思うし、魔女狩りに走ったのももっともな話だと思う。
 この村の森にいるという魔女は、その時代の迫害から逃げて森に隠れ住むようになったのだという。それに伴い森は怖れられるようになる。これに対して当時の人々、つまり僕らの先祖は、魔女を怖れて森に足を踏み入れようとしない一方で魔女が森から出てきたら勇敢にもひっ捕まえてやろうと待ち構えていた。そうやってずっと待ち構えているうちに時代は流れ、今に至る。悪魔と交わり魔術を用いるという意味での魔女はそもそもいなかったと信じられた今日、ただの人間だった魔女は森のどこかで白骨となっていることだろう。その無念さは如何ほどのものであるだろうか。想像に難くない。そんな経緯があるからこそ、僕らは胸の奥底で魔女を恐れている。
 魔女に名前はない。魔女は魔女という名前で呼ばれ、抽象化される。魔女という概念が一人歩きし、箒に乗って空を飛ぶ。そのようなものとして子どもたちは言い聞かされて育つ。小学校で教育された子どもたちは科学を知り、魔術なんてあり得ないものであるとして魔女の存在が否定されると、いよいよ魔女は具体性を一切持たない象徴となる。このようにして歴史は空想になる。
 魔女は本当にいたのか。あるいは、魔女と呼ばれてあの森に追いやられた人は過去に存在したのか。
 それについて今日ではもはや誰も関心を持たないし、そもそも疑問としても自覚されない。たとえ冷静に考えてみれば行き着く疑問であってもだ。
 満月の晩、僕はリュックを背負って家を抜け出した。月明かりを頼りに道を辿り、森へ行く。静かな夜だった。ふくろうも鳴かない夜だった。星は無数に瞬き、月は天頂にあった。魔女が箒に乗って空を駆けるにはおあつらえ向きの夜だった。


 二.


 森に入るといよいよ真っ暗になったので、ランプで辺りを照らしながら歩く。
 どこかの木の根元で人骨がさびしく転がっているのを見ることができれば僕は納得するつもりだった。それが一番わかりやすい証拠だ。そうでなくても、どこかに人がいた痕跡があれば十分だった。魔女と呼ばれた人がかつて存在したことを確かめられさえすればそれで、僕の疑問や好奇心は満たされる。
 灯りをあちこちに照らして歩くがそれらしいものは見つからない。森の中はいよいよ静かで草を踏む音さえ草木に吸収されて消えていくようだった。ぷんと香る森の匂いにも鼻は慣れた。来た道も今や遠く、ほとんどさ迷うように歩いている。もう戻れないのではないかという予感がぺたぺたと肩を叩く。
 やがて遠くに青白い光が浮いているのが見えた。それに向かってまっすぐ歩くうちに、それが森の出口であることがわかる。
 そうして森を抜け出すと、そこは拓けた原で、まだ森の一部であった。梢で縁取られた夜空には相変わらず星は瞬き月は天頂にある。しかし着目すべきは小さな屋敷である。二階の一室に黄色い光が灯っている以外は暗く沈み、鎮座している。魔女の館に来てしまったと気付くのに時間はかからなかった。
 辺りを見回し、もう一度明るい窓辺に目を遣る。すると、今度はカーテンが開かれており、黒い人影が立っていた。人影は僕をじっと見据え、窓を開くと身を乗り出した。
 こんなところで何をしているの、お上がりなさい。
 長い髪を垂らし、ひどく落ち着いた声で言う。魔女はこんな真夜中に僕のような子どもが一人で立っていることについて、何の驚きも持っていないようだった。だが僕はと言えば本物の魔女を目の当たりにすることは想定していなかったので、必死でどうするか考えていた。魔女が子どもを鍋で煮る話や妖しげな薬の実験台にする話ばかりが頭に浮かび、考えを悪い方へ悪い方へと押し流していく。
 このように僕が固まっているうちに魔女は一階へ降り玄関を開け、再び「お上がりなさい」と先ほどと同じ口調で言う。現れた魔女は三十歳にならないくらいの女性で、とても魔女らしからぬごく普通の格好をしていた。暗色のフレアスカートとブラウスだ。
「そんなところに突っ立ってると、狼や死霊に食い殺されるわよ」
 微かに笑ったように見えて僕はいよいよ引き返せなくなる。魔女に食い殺されるのと同じくらい、狼や死霊に食い殺されるのはごめんだ。生活感のあるランプの灯りに吸い寄せられるように、僕は魔女の家に足を踏み入れる。


 魔女は僕をダイニングの椅子に座らせると、ミルクをミルクパンでことことと煮出し始める。棚から黄金色の蜂蜜が詰まった瓶を取り出し、蓋を外す。そうするうちにミルクは泡を吹き始め、魔女は火を止める。カップにミルクを注ぐ。遠目にもわかるくらいもうもうと湯気が立つ。魔女はカップにスプーンですくった蜂蜜を入れ、ゆっくりぐるぐるとかき混ぜ溶かす。カップにそっと口を近づけ、二、三回息を吹きかけちょっとだけ口に含み、味見をする。うん、と頷く。そして仕上げに棚から小さな壺を取り出し、中から赤い木の実を取り出しカップの縁に添えた。魔女はこちらをくるりと振り返り、カップ片手にこちらへやって来る。そしてカップを僕の目の前に置き、僕の向かいに座る。
「温かいうちに飲みなさい」
 と魔女はぶっきらぼうに言うのだった。小さな赤い木の実がアクセントとなる蜂蜜ミルクは仄かに黄金色で、先ほど魔女が口をつけたところはちょうど手前側にあった。僕はカップを両手で構え、すすすと半回転させてから口元に運ぶ。カップの縁からそっと上目遣いで魔女を覗くと、魔女は窓辺に目を遣りぼんやりとしている風だった。魔女の蜂蜜ミルクはぞっとするくらい甘くて優しい味だった。
「その荷物」
 魔女がリュックサックを指差し訊ねる。
「家出でもしてきたの?」
「まあ、そんなところかな」
「だったらここは家出する先としてはあんまり良い場所じゃないわね。ご両親はむやみに心配させるものじゃないわ。それを飲んだらおうちに帰りなさい」
 そう言ったっきり魔女はぷいと顔を逸らしてしまう。
「帰り道がわからない」
「来た道を辿るだけでしょう。ここまでは一本道だったはずよ」
 とっさに口を開いた僕に魔女は何でもないことのように言ってのける。
「でもここまで来るときは、たくさん道があるように見えたから……」
「そんなはずないでしょう」
「見えたんだよ、本当に」
 自分でも驚くくらい、僕は頑なだった。魔女は「この子は本当に家が嫌で家出してきたのね」という風に僕を眺めるが、もちろんそういうことではない。ただ純粋に、あの暗い森にもう一度足を踏み入れるのが嫌なだけだった。森と魔女の家であれば、灯りと蜂蜜ミルクの分だけ魔女の家に軍配が上がる。それだけのことだ。
「じゃあ、朝になったら帰りなさい。明るくなれば帰れるのでしょう」
「わかったよ」


 三.


 魔女は僕を二階の彼女の部屋の向かいに通した。元は客間だったというその部屋は小奇麗に片付けられ、ベッドにも窓辺にも埃一つ積もっていなかった。
「クローゼットの中に着替えとかあるから、好きに使って構わないわ」
 それだけ言い残して魔女は部屋から出て行ってしまう。そして向かいの部屋に入っていく音が聞こえたきり僕は一人になる。
 ベッドに、小さなテーブルに、クローゼットと窓とカーテンがあるだけの質素な部屋だった。クローゼットの中には魔女の言った通り白い清潔なパジャマがあった。ちょうど今日の昼に干して日の光をいっぱいに浴びたかのように、柔らかく、いい匂いがした。
 カーテンを開き、窓を押し開くときんと冷えた夜の空気が足元に降り、深呼吸をすれば肺に冷気が満ち満ちる。星は瞬き月は天頂に。屋敷とほぼ同じ背の高さの森は四方をぐるりと取り囲み、ところどころにぽっかりと空いた穴がそのうちのどれかが出口に通じていることを示していた。狼も死霊も今は眠っていることだろう。
 僕はリュックをベッドの足元に置くと、シャツを脱いだ。タオルを一枚取り出し、水差しの水を垂らして湿らせ、体を拭く。特に首と脇と腰周りや足をよく拭き、クローゼットのパジャマに着替える。ベッドに腰掛けるとても今すぐには眠れそうになかった。そして、ふう、と一息つくと、ぼんやりとした心地で蜂蜜ミルクの味を思い出すのだった。
 魔女は今も森で生きていた!
 確かなのはその事実だ。もちろんあの女性は、僕が魔女と呼ぶその人ではない可能性も十分考えられるが、おそらくその線は薄い。こんな満月の魔女が空を飛ぶのにおあつらえ向きの夜に、森の隠れ家に居を構える女性に出会った! これで魔女でなければ嘘というものであろう。少なくとも僕が信じるには十分な理由だった。
 僕は魔女のことを調べなければならない。そのためにパパやママが眠っている隙を突いて家を抜け出してきたのだから。
 僕は靴を脱ぎ、裸足になる。音を立てずにそっと部屋を出る。廊下を挟んだすぐ向かいが魔女の部屋である。ドアの隙間からこぼれる灯りを確かめ、耳をそば立てるが音はしない。ならばと細心の注意を払ってドアのノブを捻り、押す。息を殺して覗いてみた先で、魔女は机に向かってペンを走らせているのだった。顔は見えない。時折顔を上げてインク壺にペン先を浸している時以外は息をしていないようだった。その姿はずっと昔に遠い街に嫁いでいってしまった隣家のお姉さんを思い出させた。その人も、遠い国の恋人に宛てて長い手紙を書いていた。よく晴れた日も、ひどい雨の日も。だから、その懐かしさにふっと気が緩み、僕は声を掛けてしまう。
「ねえ、誰に手紙を書いてるの?」
 はっと魔女が振り返る。一瞬だけ目を丸くさせていたが、すぐに目を細め関心などないという風に顔を背ける。
「手紙なんか書いたって、こんなところに郵便屋さんなんて来ないわ」
「じゃあ何を書いてるのさ」
「日記よ。日課なの」
「ちょっと読ませてよ」
「日記は誰にも読ませないから意味があるのよ」
 そう言って魔女はペンを置くと、立ち上がり、僕のために椅子を引くのだった。僕はそれに腰掛ける。魔女はベッドに腰掛けると、僕を一瞥してから脚を伸ばす。形の良い桃色の爪が十個並んでいた。
「何か訊きたいことでもあるのかしら」
「別に」
「そう」
 魔女は窓の外に目を遣る。
「あなたは魔女なの?」
「君が魔女だと思うならそうなんでしょうね」
「じゃあ魔女だ」
「魔女なら子どもを油で煮て食べるわよ」
「あなたは子どもが嫌いな魔女なんだ」
 魔女はふっと鼻で笑う。
「そんなこと言う子は初めてだわ」
「じゃあ何人か人が来たことがあるんだね」
「君みたいな好奇心旺盛な子どもから道に迷った旅人、国のお役人、どっかの教会の神父様とシスター、魔女志望の女の子」
 魔女は指折り数えては懐かしそうに目を細め、ぺろりと唇をわざとらしく舐めてみせる。
「みんな食べちゃった」
「嘘だ」
「うん。人間なんて食べてもおいしくないものね」
「魔術を使わなければ、悪魔と交わったりもしないの?」
「魔術なんて使えないし、悪魔なんて見たこともない。悪魔みたいなものはたくさんあるけどね」
「じゃあ」
「じゃあ私は一体誰かって? 君たちと同じ人間じゃないかしらね。ただだらだらと三百年くらい長生きしてるってだけよ」
「人間はそんなに長生きしない」
「そうね。だったら私は何なのかしら」
 さして興味がある風でもなく魔女は呟くように口にする。
 もしも魔女の言った通りであるならば、三百年のうちに何度も繰り返された疑問であったことだろう。口にするのと同時にわからないという答えが返ってくる程に、繰り返された問いかけだ。
「それはここに来た人みんなが訊ねてきたけれど、反応は十人十色だった。もっとも、どんな反応をしてもみんなには一晩頭を冷やしてもらってからお引取り願ったわ」
「大変だね」
「本当に」
「あなたは、本当は普通に生きたかっただけだったんだ」
「それは誰だってそうじゃないかしら」
「魔女だなんて濡れ衣を被せた世間が憎くて仕方なかった」
「――随分知った風な口を利くのね」
「ずっとあなたのことを考えてきたから」
 口に出してから頭の中で繰り返す。ずっとあなたのことを考えてきたから。嘘偽りはない。
 魔女はやれやれと肩をすくめ、
「三百歳超えてから告白されるなんて思ってもなかったわ。部屋に戻りなさいよ、坊や。あと、大人に対する口の利き方も気をつけなさい」
 あくまで穏やかな口ぶりでそう言うと、それっきり僕のことを無視してしまった。


 五.


 森には魔女がいて、悪い子どもは魔女がさらって食べてしまう。鍋でことこと煮込んで悪魔のソースで味付けをして、ナイフとフォークで上品に食べてしまう。
 森に魔女がいるという話は、魔女狩りの折に森に魔女が逃げ込んだという記録に基づく。もちろん魔女という種族は存在しないので、記録が正しいならば森に逃げ込んだのはいわれのない罪をかけられたごく普通の女性のはずだった。彼女は森をさ迷い雨や朝露の雫と木の実で飢えを凌ぎ、やがて力尽き息絶える。
 僕はずっと彼女のことを想っていた。なんて可哀想な“魔女”! 僕は心の底から魔女のことを哀れに思っていた。世界に一人ぐらい、彼女の側に立つ人間がいたっていいじゃないか。誰かが話の種に魔女の名を口にする度にそう思った。そういう話をする人にとっては、魔女というものは明らかに自分たちとは違う側の存在である。ましてや魔女に対する畏敬の念なんてあるはずもない。「魔女に喰われちまうぞ」なんて下卑たもの言いでからかわれる度に、僕は腹を立てた。社会に抹殺された者の声を聞き記憶する人間が世界に一人くらいいたっていいじゃないか。そう思った。


 翌朝、僕が目を醒ますと魔女はとっくに起きていて、台所に立っていた。
「おはよう」
「あら、おはよう。よく眠れた?」
 魔女はさしたる興味もない風に訊ねた。魔女は野菜を切っている。フライパンに火をかけ卵を割りスクランブルエッグを作る。
「座りなさい。もうすぐできるから」
「おもてなしはちゃんとするんだね」
「魔女だって客人に対する最低限の礼儀を欠かしたりなんかしないわ」
「あなたは魔女なんかじゃない」
「どうでもいいわ、そんなこと」
 魔女は後ろ向きに手を横にぷらぷらと振ってみせる。
 卵はフライパンの上で小気味良い音を立て、その香りがこちらまで漂ってくる。
「普段は何をして過ごしてるの?」
「本を書いたり散歩をしたり。買い物は街まで行くし、ちゃんと税金だって納めてるわ」
「現実的なんだね」
「いつまでも鍋で薬草を煮てなんかいられないものね」
 魔女はテーブルの上に料理を並べる。ライ麦のパン、三色鮮やかなサラダ、湯気の立つコーヒー。魔女は黙々とそれらを口にする。いつもそうしているように、黙々と食べる。
「そういえば名前ってないの?」
「名前? エニ。役所に書類を提出するときにはその名前だわ。住所は森の中、十数年に一回名前が変わるのよ。書類の中の私は年を重ねるけど現実の私はいつまでも二十八歳のままだから」
「七十歳のおばあさんだと思ったら二十八歳でした、なんてみんなびっくりするものね」
「それを見越して二十何歳かで私は次の私を生むのよ」
「戸籍上ね」
「そう。いい時代になったわ」
「書類上の手続き一つで社会的に抹殺されることはなくなったから」
「生身の私を指差して魔女だと言う人もいなくなったし」
「たまに僕みたいな例外がいるけど」
「たしかにそういう非科学的な人がまだちらほらいるわ」
 エニは鼻で笑い、コーヒーを啜る。
「食べ終わったら帰りなさい。君くらいの年の子が一晩帰らなかったら、今頃家中大騒ぎしてるはずだから」
「大丈夫だよ」
「子どもを誘拐した魔女だなんて汚名、ごめんだわ」
「ちゃんと僕が説明する」
「子どもの言い分は大抵信用されないものよ。大人はもっともらしいストーリーしか信じない」
「そう、大人は都合の悪い真実よりも都合の良い嘘を信じて土台にして歴史にするんだ」
 エニは気が抜けた風に立ち上がり、テーブルの上の皿を片付け始めた。
「さ、もう帰りなさい」
「いやだ。帰らない」
 僕は断固として椅子に座る。膝の上で拳を握りしめる。
 エニが台所で片付け物をしている間中、僕は押し黙って椅子に座っていた。僕はずっとこうしていたかったのだと気付いたからだ。森に住まう魔女と永遠に暮らすのだ。ひどい我侭だし性質の悪いストーカーと何も変わらない行動であるけれど、僕自身退くわけにはいかなかった。だって今を逃したら次に彼女に会える保証なんてないから。僕は魔女に恋をしているのか? いいや違う、そんな安いものじゃない。
 片付け物を終えたエニは僕を見下ろし、
「勝手になさい」
 と言うと二階の自室に戻っていってしまった。


 五.


 昼を回る前にエニが街まで買い物に出ると言うので、僕もそれについて行くことにした。
 僕が来た方とは別のところから森に入っていく。木の葉や梢が幾重にも重なる緑の屋根には微かに日が透け、地面に濃緑の影を落とす。エニはスニーカーを履いていた。長い黒髪は歩くたびに左右に揺れる。僕はエニの斜め後ろを歩く。エニは何でもない風に歩く地面は枝や小石で思いのほか凹凸があり、追いつくだけでも難儀するのだ。エニは僕など存在しない風にして歩く。振り返りもしない。だからといって僕はエニが手を差し伸ばし、エニと手をつないで歩くことを望んでいるわけでもない。
 森は十数分も歩くと抜けることができた。小道を少し歩くと大きな通りに出て、そこを左に曲がる。右手側の遠くを貨物列車が緩やかに僕らを追い越して行くのを見ながら歩くうちに街に着いた。村の森を挟んだ向こう側にこんな街があるなんて僕は知らなかった。
 エニはまず金具屋へ行き、何種類かの釘を買った。それから衣服屋へ行って冬物の上着を二つ買った。途中でレストランに入って昼食を食べた。僕はナポリタンで、エニはクリームパスタだ。僕らは街の中では一切口を利かなかった。別に示し合わせたわけではなく、単純に話すことがなかったからだ。言い換えれば会話が必要なかったからでもあるけれど。エニがぐんぐん街中を歩くのを僕が追う。
 午後は古本屋に行き、エニは学術書や小説を何冊か買った。それは僕が持った。それから銀行へ行ってお金を下ろし、市場へ行く。パンに野菜、果物、それから肉を少し。ほとんど機械的に買い物を済ませてから僕らは喫茶店で休憩をする。僕はカフェオレ、エニはアールグレイ。そこでも僕らは口を利かなかった。当たり前だけど、誰もエニを指差して「魔女だ!」なんて言ったりしなかった。ごく当たり前のようにエニは人の間に馴染んでいた。古本屋で買った小説をぱらぱらとめくり、最初の数ページを読んでいた。
 もしもここで、この人は魔女なんだ、と指差し叫んでみたらどうなるだろう。カフェ中の人が僕に注目し、エニを見るだろう。そして各々が肩をすくめたりため息をついたりして、そしてすぐに自分の作業に戻るのだろう。具体性を失った魔女はもはや抽象性の中にしか生きない。ここにいるのはエニという一人の女性だけだ。そう考えると、僕は悲しくなってしまう。
 午後三時を回る頃にエニと僕は喫茶店を出た。やるべきことは一通り済ませたので森に帰るのだ。来たときと同じ道を辿る。今度は左手に線路を見ながら歩く。僕は両手に荷物を抱えて、ひょこひょことエニの背中を追った。早くも日は暮れかかり、影が長く伸びている。森に入るとそこは暗い洞窟を思わせるようだった。僕らは黄金色の出口を目指して黙々と歩く。一本道だった。落ち葉を踏む音は鳥の鳴き声にかき消されてしまう。そして森を抜けると空はすっかり赤く染まっており、魔女の家はぽつんと佇んでいるのだった。
「今日は君がいてくれたおかげでたくさん買い物ができたわ」
 玄関を開ける間際、エニはこちらを振り返りそう言った。
 夕飯はシチューだった。エニが火を用意する傍らで僕は野菜を切る。エニは、なかなか上手じゃない、と僕を褒めた。鍋の底に油を引いて野菜や肉を炒めてから水を入れ、ミルクなどを入れて煮立てる。その間に僕はテーブルを雑巾で拭き、エニは皿を並べる。時々味見をしながらニンジンに火が通るまでの間、僕はエニにいくつか質問し、エニはそのうちのいくつかに答えていくつかには口を閉ざした。
「三百年もの間、何をやってたの?」
「最初の十数年はじっと息を潜めて、ほとんど自給自足みたいな生活だったわ。きのこや木の実や香草に木の皮、その気になれば何でも食べられた。そのうち魔女狩りの運動が沈静化して、戦争が始まって、終わって少し平和な時が続いた。かと思えばまた戦争が始まった。その繰り返しね。でも面白いのは、初めは風船みたいな気球がふらふら飛んでいたのが気付いたらプロペラ機になってたことね。ああ世の中ちゃんと進歩してるんだなって思った」
「そのうち鉄の塊が空を飛ぶよ」
「信じられないわね。けれどありえないことなんてないわ」
「月に人が立つ」
「神の不在が科学的に非の付け所もないくらい完璧に証明される」
「象を乗せて空を飛ぶ蝿が現れる」
「時間を切り貼りする商売ができる」
「全部見れるね」
「羨ましい?」
「ぜんぜん」
「そうね」
「エニは淋しいって思ったりするの?」
「淋しいとか悔しいとか腹立たしいとか、そんなことじゃ死ねなかったわ」
「でも手首を切ったり首を釣ったり睡眠薬を大量に飲んだりすれば死ねるかもしれない」
「そうかもね。でもそれはたぶん今と何も変わらないわ」
「生きてるからこそ僕みたいな非科学的な奇人と話ができる」
「死ねばずっと昔に逝った親兄弟と話ができるかもしれない」
「どっちを選ぶか迷うところだね」
「そうでもないわ」
 そう言ってエニは立ち上がると、鍋からニンジンをすくって固さを確かめる。おたまでシチューをすくって皿に入れる。僕はそれをテーブルまで運ぶ。
 僕とエニは向かい合って座り、どちらともなくスプーンに手を伸ばし食事を始めた。エニを孤独にした糞ったれな神さまに捧げる言葉なんていらない。それは僕が生まれて言葉を覚えてからずっと続けてきた習慣だったけれど、捨てることにためらいはなかった。
「美味しい。うちで食べるものよりずっと美味しいよ」
「そう? それはどうも」
「ねえ、僕の村の人間が僕を探しにここまでやって来たらどうする?」
 エニは食事の手を止めることなく食事を続ける。当然のように焦りもしなければ怒りもしない。
「事情を話して君をお返しするだけよ」
「僕の村の人間は口で言う以上に信心深くて、エニのことをきっと魔女だって思う。そして彼らは信心深いんだけど世間体は気にするから、魔女だって騒ぎつけることなんかしないで、代わりに子どもを誘拐した罪かなんかをでっち上げて社会的に制裁しようとする」
「そういう人たちに囲まれたらきっと私の言い分なんて通用しないでしょうね」
「そうでなくても頭の古い老人がいきり立って森に火をつけるかもしれない」
「それは困るわね」
「どうしよう」
「そう思うなら今すぐ帰って欲しいわ」
 それきり会話は途絶え、後は黙々とパンやシチューを口に運ぶだけだった。エニも僕もわかっているのだ。ここには誰も来ない。だからエニは三百年間も人目から逃れることができたし、役所の人間の立ち入り調査もなかった。ここはエニと同じく現世から切り離された場所だ。魔女を信じていなかったり、魔女を極端に怖がったりする人間なんかが気軽に立ち入れるような場所ではない。
 食後、食器を片付けた後は二人で部屋に戻った。僕はパジャマに着替えた後で先日と同じくエニの部屋に行く。ドアの隙間から覗いてみると、やはりエニは日記を書いていた。きっとこの家のどこかには三百年分の日記があるのだろう。何冊分になるかなんて想像つかない。一年一冊としても最低三百冊だ。棚一つ分に相当するくらいだろうか。その日記の一つ一つにエニの歴史が書かれている。
 部屋に入るとエニは、
「少し待ってて頂戴」
 と言い、ペンを走らせる手を早めた。エニの部屋にはとても落ち着いた雰囲気がある。僕は椅子に腰掛けるとエニの背中をじっと眺めた。細い肩だと思った。
「ねえ、魔女狩りの頃の話をしてよ」
 ペンを置きベッドに腰掛けたエニに言う。嫌そうな顔をするかと思ったけどエニは思いのほかあっさりとそれを口にした。
「そうね、どの辺りから話したらいいかしら」
「魔女狩り前夜から」
「始まる前……それまで私は小さな劇場で歌を歌ってたの。街の裏通りにある寂れた劇場で、名も知れない作家が作ったへたくそな戯曲を歌ったり踊ったりしてた。観客は酔っ払いばかりでね、上手い下手に関わらずごみが飛んでくるようなところだった。私は、こんなところは早く出ていって、いつか大舞台に立つことを夢見てた。
 魔女狩りが始まったのはちょうど今頃の季節だったわ。冬も近くなった頃だった。南の方で起こった運動は瞬く間に私がいた街にも飛び火して、神聖騎士団を名乗る甲冑集団が闊歩するようになったのね。当然そんな具合だから劇場は閉鎖、私は家に引きこもっていたわ。彼らが街中の女の人を引っ張りたてる理由は様々だった。夜中に灯りをつけて何かしているのを見たという目撃談から、なんだかよくわからないでっち上げの物証まで、とにかく少しでも口実があればしょっ引くような、片っ端という言葉がこれ以上似合うこともないやり方だった。
 その頃私にはフィアンセがいたんだけど、彼は毎日倉で息を潜める私を励ましに来てくれていたわ。けどそれが裏目に出てしまった。人に見られていたのね。うら若い男が毎日毎日人目を忍んで倉に出入りしておるんですもの、疑うには十分な理由だわ。
 それで私はあっけなく見つかって、両腕掴まれて広場まで引っ張っていかれた。フィアンセは人ごみに紛れて何か叫んでいたけれど、正直何を言っているのかわからなかった。私も頭が混乱してたし。わかっていたのはこのままだと殺されることだけ。冗談じゃない! って思った。
 私は処刑台の前まで連れてこられて、悪魔みたいな神父の前に膝をつかされた。形式的な問答の末に魔女かどうか調べる儀式みたいなものをやらされて、結果は当然クロ、即刻死刑を宣告された。いろいろ周りからは聞こえたけど、印象深かったのは『アンタのせいであたしの旦那は劇場に入り浸りだったんだ!』っていうやつ。魔術でも何でもないことも魔術にされるのがあの時代だった。馬鹿みたいな本当の話。
 いよいよ処刑という段になって、ぐつぐつ煮えたぎった油が出てきた。私は高台に上らされて油の壺を見下ろした。広場を取り囲む人の顔も良く見えた。あの顔はいくつかある人間の表情の中でも飛び抜けて酷い顔ね。
 処刑人が私を張り付けにしようとして注意を逸らしたそのときに私は処刑人を蹴飛ばして高台から落としてやった。それからどうするかなんてまるで考えてなかったけど、怒号巻き起こる広場を見てたらふっと体が勝手に動いたの。初めて『芸は身を助く』ということわざを実感した。ねえ、何やったと思う? 思いっきり“魔女”を演じてやったのよ。演じがてらたいまつ手にして大立ち回り、高台を降りて油の入った壺を支える噛ませ板を外して蹴倒して、火をつけた。火は扇状に広がって、私に道を示してくれたわ」
「そしてエニは走って逃げた」
「この森までね」
 一息に話して疲れたのか、エニは伸びをして疲れをほぐした。
「ここまで来るのにどれくらい時間がかかったの?」
「半年くらいじゃないかしら。その間、当然私は必死だったわ。家族やフィアンセと連絡を取るなんてもってのほか。逃げて逃げて逃げ続けた。悔しくて泣いたのは思えばその時期だけね。転々と逃げ続けた末に私はこの森に逃げ込んだ。それまでの間に処刑場での一件に尾ひれがついたみたいで、私はすっかり大魔女になっていた」
「だから追手も迂闊に森に手を出すことができなかった」
「実を言うと私自身もうすっかり疲れちゃっててね。捕まって殺されるならそれでもいいかってくらい、心が弱ってた」
「けれど殺されなかった」
「大魔女ゆえに。皮肉なものね。ふらふら歩く内に私は一軒の家を見つけた。この家よ。元は誰かの別荘だったみたいで、入り口の鍵さえ壊してしまえばそこは天国みたいな場所だった。非常用の食料と水があって、代えの服があって、ふかふかのベッドがあって、雨風を凌げる屋根がある! それから三日間は死んだように眠っていた気がする。その間に殺されてたらその時は歓迎してたと思うけれど、幸か不幸か私は生き残ってしまったわけ」
「恨みや憎しみはあった?」
「そういうのは一通り逃走劇の間にやったつもりだったけど、時間が経ってみて思い返してみるとそれなりにはあったわね。本当に魔力があって悪魔と交流することができたら、悪魔に魂を売り渡してもいいって思った。けれど悪魔は三百年間待っても現れやしなかった。時間が経つ内に体はピンピンしてても心が死んでいった。恨んだり憎んだりするのはとても疲れるの。疲れて疲れてそのうち何も感じなくなって、どうでもよくなっていった」
「自分が死んでいることに気付いてないだけだったりして」
「だったら三百年間も生きてた気がした理由に説明がつくわね」
「今日は太陽の下を歩いてジャガイモやニンジンを買ってたけど」
「私はきちんど税金を納めるような、現実的な幽霊だから」
 エニは苦笑した。床の上に形の良い卵型の爪が並んでいる。かつてその足でエニは油の煮えたぎる壺を蹴倒した。
 僕は立ち上がるとエニの前に立つ。エニは背が高いので、ベッドに腰掛けた状態では僕より少し背が低いくらいだった。エニは大人だ。大抵のことに予測をつけることができる。だからエニは僕がエニを抱きしめても驚きもしない。代わりに僕の頭を撫で返してくる。そんな風に色々なものを諦めてきたのだ、エニは。
「もう寝なさいよ、坊や」


 六.


 夢を見る。
 夢の中でエニはとてもにこやかで、僕に見せたこともないような満ち足りた様子だった。
 エニはよそ行きの格好だ。足元には四角いトランクバッグがある。旅行にでも出かけるのだろうか。それはいい。留守は僕に任せて、エニはもう誰にも後ろ指を差されない世界を旅したらいい。僕はエニを笑って見送る。
 それから時間は加速度的に流れ、瞬き一つする間に一年、十年と流れていくようになる。
 エニはとうとう帰ってこなかった。
 ――そんな夢を見た朝はとても寝覚めが悪い。僕は上半身を起こすと今見た夢を振り払うように顔を振った。
 この日で僕がエニの家に居候するようになってから七日目だったはずだ。ここにはカレンダーも時計もないから時間の流れが曖昧になる。夜、満月が天頂にある頃に眠って、朝、日が昇った頃に目を醒ます。眠るという一連の動作で以て一日と見做すとすれば、今日は数えて七回目の起床になるということだ。
 それでも季節は確実に巡っているらしく、この日は窓を開けてみると吐いた息が白くなっていた。手早く着替え、下へ降りる。するとエニはサラダを盛って卵を焼いている。おはよう、と言うので僕も、おはよう、と返す。いつもの光景だ。
「今日は薪を取りに行きましょう」
「今朝は息が白くなってた」
「秋に入ってから初めて息が白くなった日に薪集めをするのが習慣なのよ」
 食後、エニと僕は森に入っていく。エニは相変わらずぐんぐんと森の中を進んでいき、僕はその後を追うので精一杯だった。この日は街へ続く一本道を途中で逸れた。森の木々が一層密に絡み合う中をエニは鉈を腰に下げて進んでいく。それはとても勇ましく見えた。
 やがてエニと僕は小さな湖のあるところへ出る。
「へえ、こんなところがあったんだ。でもここって家まで遠くない?」
「薪はこの辺りのものを使わないといけないの」
「なんで?」
「森に入ると色々決まりごとがあるものなのよ」
「それを破ると森の神さまに叱られたりするの?」
「そうよ。逆らうと酷い目に遭うの」
 それだけ言うとエニは手近な木の枝に鉈を振り下ろし始める。小気味の良い音を立てて枝が落ちる。落とした枝を拾うでもなくエニはさっさと次の枝に移っていく。僕の仕事はエニの後についていって、エニが切り落とした枝を集めることだった。三十本一束で麻の縄でまとめて担げるようにして、湖の前に置く。
 エニは僕が来てから買い物などの作業が楽になったという。人手が二倍になるということは一度に運べるものの量が二倍になることだからだ。しかしそれは決してなくてはならないものというわけではない。僕とエニはいつでも別れることができる。僕はいつでもエニの家を出て行くことができる。お互いそれを前提とした上での共同生活だった。いつまでもこんな暮らしを続けていられると思うほどには僕は無邪気じゃない。僕らはほんの些細なきっかけで昨日まで思いもしなかった方向へ向けて歩かなくてはいけなくなることが多々あるものだ。だから僕らは、今日と同じ明日を迎えるために決まり事を守る。エニは秋になってから初めて息の白くなった日に薪を取りに行くし、僕は決してエニの前を歩いたりしない。暗黙のルールに気付いたら、それに気付かないように振舞わないといけなかったのだ。
 しかしエニならきっとこう言うだろう。暗黙のルールに則ったって、ある種の暴力的な力で明日は捻じ曲げられたりするものだ、と。エニがかつてエニの街を追われたように。
 それでも僕らが儀式を大事にするのは、先の見えない明日よりも甘く貴い昨日を嗜好するからだ。儀式に則る限り同じ未来が約束されると信じられるならば、僕らは喜んで儀式に殉じる。
 昼前に一度薪を家まで運び、昼食を食べる。
「ここは静かでいいね」
「そうね」
 ライ麦パンを口に運ぶ。一週間もずっと一緒にいれば大概のことは訊けてしまうので、専ら他愛もない話が主になる。世間で知られる一般的な魔女信仰批判、春と夏の境目の定め方、きのこの美味しい炒め方。
「ねえ、僕らはずっとこんな感じなのかな」
「居候風情が何を言うのかしら」
「僕の体が成長して、大人になって、いつかエニよりも老けて見える。そして老人になってぽっくり先に逝ってしまうんだ」
「私が君の糞尿の世話をするのね」
「エニは僕を家の裏に埋める」
「そして君が来る前と同じ生活に戻る」
「何も変わらない」
「何も変わらないわ」
 エニは黙々とパンを口に運ぶ。
「でも、記憶は残る」
「街で嫌な接客のされ方をしたとか、くじを引いたらアタリが出たとか、それと同じレベルの記憶ね」
「特別な記憶にはならないの?」
「記憶に貴賎はないわ」
「日記の一ページを飾るという意味において」
「そう、『子どもが迷いこんできた』『街まで買い物にでかけた』と同じこと。どちらも十一文字で書き表せる」
「僕ならエニのこと忘れない」
「私なら君のことは忘れるわ」
「どうして」
「ずっと憶えていいてもらえるなんて、傲慢も甚だしいことよ。人の記憶は幻みたいなものだから」
「ひどいと思わない?」
「ひどい話ね」
「僕はすごく傷ついた」
「可哀想に」
 エニはコーヒーを飲み干した。
「けれどそれだけよ。時間は絶えず私たちの頭上に降り積もって、過去を全部覆い隠してしまうの。大抵の人は、覆い隠されたと感じる頃には時間も残されていないのだけどもね」
「でもエニには時間がある」
「絶望するのにも飽きるくらい果てしない時間がね――さあ、戻りましょう」
 エニは立ち上がり食器を流しに放り込むとまた湖のところへ戻っていく。僕もその後を追う。


 七.


 夜半、エニの部屋を出た後僕は自室に戻らずそっと別の部屋に忍び込んだ。エニのことだから僕の行動ぐらいお見通しだろうけど、何もしないところを見ると別に構わないと思っているのだろう。二階に全部で個室が六室、一階はダイニングとリビングとトイレ、キッチンから出られる家の裏には半地下の食料の貯蔵庫がある。まずは二階の個室を片っ端から当たる。
 目的はエニの三百年分の日記だった。エニとたくさん話をしたけれど結局僕はエニのことをあまりに知らなさすぎる。エニの口から語られることはエニが話しても良いと思ったことに留まるに過ぎない。僕はもっとエニの心の声が聞きたいと思った。生々しいまでの心の叫びを見て、受け止められたら、僕はエニにとってただ一人の人――三百年前のフィアンセにだって負けたりなんかしない――になれるかもしれない。
 エニの隣室は物置になっており、古くなった机やカーテンなど多種雑多なものが山積みにされている。棚には本はなく、代わりに小物が占拠していた。
 残りの三室は全て個室だった。僕の部屋と同様綺麗に整えられ、埃一つついていなかった。エニは朝僕が目を醒ます前に掃除を済ませているのだろう。二階にはなかったので次は一階へ向かう。
 しかし一階はリビングにダイニングがあるのみで僕の見知った部屋しかない。なので家の裏を出て半地下の食料貯蔵庫へ行く。引き戸を開くとしょっぱい香りがした。ランプに灯りを垂らし、中を伺いながら進む。瓶がいくつも並べられている。その一つ一つは漬物であったり果実酒であったり様々だった。当然書物らしきものなど見当たらない。
 どこかに隠し部屋があるのだろうか――例えば屋根裏部屋とか。
 この家のどこかに眠っている三百年分の日記のことを考える。それはエニの歴史の象徴だ。必ずどこかにあるはずだ。必ず。
 食料貯蔵庫を閉じ、家の中に戻る。エニはリビングのソファで本を読んでいた。灯りはつけていない。注意しなければ気付かなかっただろう。
「何か探し物かしら」
 エニは振り返らない。中途半端な嘘は通じないと悟ったのでできるだけ率直に答える。
「エニの日記を探してた」
「嫌よ、日記は誰にも読ませないから意味があるって言ったでしょう」
「僕はもっとエニのことが知りたい」
「全てを知ることとその人を理解することは同義じゃない。知らなくたって私を理解することはできるわ。君にその器があればの話だけど」
「でも」
「それに、君は一体私の何になりたいのかしら。ただ一人の大事な人? 冗談ね。第一、なんで私なのかしら」
「理由なんて必要ない! 気がついたそうだった、それだけだ」
「いいえ必要だしそれは理由にならないわ。思い出しなさい。君は私に誰の影を見ているの?」
「僕が見ているのはエニだけだ。ずっと、最初から」
 エニは僕の言うことをまるで信じていないようだった。背中からそれがありありと伝わってくる。嘘ではないのに。
「まあ、何でもいいわ。君は私の日記を見れば満足するのでしょう。今すぐ私の部屋に行って、心行くまで見たらいいのだわ」
「日記は人に見せないから意味があるって――」
「今の君ならいずれ私の部屋に忍び込むことくらい予測がつくわ。でもよく肝に銘じなさい、他人の日記を読むには文字を解読できるだけじゃだめなの。記憶を共有できない人が読んだって、それはただの文字の羅列でしかないから」
「『子どもが迷いこんできた』『街まで買い物にでかけた』と同じように」
「そう。だから君に文字の羅列を見せたって日記を見せたことにはならないの」
「自信があるんだね」
「もちろん。私と君は同じ屋根の下で暮らしていても、見ているものや立っている場所は全然違うのよ」
「エニがいつまでも僕のことを『君』と呼ぶのと同じこと?」
「そう。君に固有名詞なんていらないわ」
「街ですれ違う人と同じ扱いだ」
「名前は最も短い物語でありそれにまつわる一切を想起させる魔法だから。それを唯一無二と認めたときに初めて人は名前をつけるのよ」
「エニは徹底してるね」
 僕が肩をすくめるとエニは手を振り返した。エニは再び読書に戻る。暗いリビングはエニの息遣いも聞こえないくらい静まり返っていた。
 エニの部屋に向かいながら僕は先ほどのやり取りを反芻し、エニの言い分に一応の納得性を見出していた。なるほど確かに僕なんかがエニの日記を読んでも表面的な事象に触れるに留まるしかないだろう。でも、僕には想像力がある。エニがその言葉に込めた裏にある感情を読み取ることができる。エニは感情を隠すのがとても上手いけれど、決して無感情ではないことは知っている。だからきっとできる。
 そう自分を励まし立ち入ったエニの部屋は、僕が出て行ったときと何ら変わりないようだった。いつも座っているはずの椅子にエニが座っていないだけだ。僕はその椅子に座り、エニの日記に向かい合う。茶色い皮のカバーがかけられたそれはじっと息をひそめているように見えた。傍らにはエニのペンとインク壺がある。壺にはしっかりと蓋がしてあった。エニの机周りにはやはりカレンダーも時計もない。横を向いて見える窓だけが時間の流れを教えてくれる。取るに足らない文房具やハンドブックがエニの机周りを彩っていた。
 僕は一度だけ深呼吸をすると、エニの日記に手を伸ばす。めくる。そして一、二ページ眺めるとすぐに日記を閉じてしまった。
 その“日記”に日付はなかった。更に言えば天気の様相もその日の出来事も書かれていなかった。
 それはDearの一節から始まる長い手紙だった。誰に宛てたものかなんて、口にするのも野暮というものだ。彼女はここで遠い国の人に宛てる長い手紙を書いていた。よく晴れた日も、ひどい雨の日も。
 引き出しを引いてみるとそこには紐でまとめられた長い手紙の束がいくつもしまってあった。丁寧に揃えられているのを見るだけで、彼女がどういう風にそれを扱っていたのかがわかる。それは遠い国に向けて投函されなかった手紙なのか、あるいは遠い国から届いた手紙なのか。


 ――手紙なんか書いたって、こんなところに郵便屋さんなんて来ないわ――。


 最初の晩に彼女がそう言っていたのを思い出す。胸の奥がちくりと痛んだ。エニを魔女にして森に閉じ込めていたのは一体誰だったのだろう。三百年前の神聖騎士団か、森を取り囲んで魔女が出てくるのを待ち構えていた村人か、あるいは悪い子は魔女にさらわれて食べられてしまうと嘯いてきた人たちか。
「気が済んだ?」
 振り向けば入り口に寄りかかったエニがいる。
「会いにいけばいいじゃないか。よそ行きの服に着替えて、トランク用意してさ」
「そうね」
「もうエニを指差して魔女だなんて言う奴なんかいない。エニはエニだ」
「三百年もだらだら生きてるけれどね」
「だったら何だって言うんだ。そんなのもう関係ないじゃないか」
 エニを魔女にしていたのは他ならぬ僕自身だったと気付く。僕が魔女の側に立てる人間であるためには、彼女自身に魔女であってもらわねば困るからだ。気付いてみればまったく情けなくなる話だった。
 エニはぼんやりと窓の外を眺める。
「――会えるかな」
「会えるよ。必ず」
「相変わらず非科学的なのね」
「その方が、希望を感じられることも、時々ある」
「そうかもしれない」
 エニは初めて僕の前で笑った。


 八.


 満月の晩という、魔女が箒で空を駆けるにはおあつらえ向きの夜に僕らは家を後にした。エニはよそ行きの服にトランクという出で立ちで、僕は来たときと同じリュックサックを背負っていた。月はもう天頂になかった。
「入り口まで送ってあげる」
 というエニの言葉に甘えて、エニと僕は並んで森の中を歩く。幾晩か森で過ごしたけれど結局狼も死霊も現れなかった。エニは、でたらめに決まってるじゃない、と何でもないことのように言う。
 来たときは果てしなく思えた道もエニと一緒だったらあっという間だった。僕らは歩きながら多くのことを語った。もう街に行ったときみたいに押し黙ったりなんかしない。
 暗く長い道の出口には朝が迫っていた。そのすぐ手前でエニは立ち止まる。
「じゃあね」
「うん」
 エニは手を差し出す。けれど僕はその手を握らず、エニに抱きついてしまう。声を上げて泣いたりはしないけれど、そうしなければならないと思った。
「落ち着いたら手紙を書くわ」
「ちゃんとDearで始めてくれる?」
「さあ、どうしようかしらね」
 僕は背伸びをしてエニの耳に僕の名前を囁いた。これでもう知らないとは言わせない。
 エニはこれから長い旅に出る。道を歩き、馬車に乗り、列車に乗って船に乗る。そうしてぐんぐん遠くまで行ってしまう。それで良いのだとようやく思えるようになった。僕はエニの数少ない理解者にようやくなり得た気がした。
「さあ、夜が明けきる前に森を出なさい」
 そう言ってエニは僕を突き放した。


 九.


 僕がよろめき振り返るとそこは薄暗い森の入り口があるだけで、エニはもういなくなっていた。僕はふわふわした心地で家路につく。そうして家に着く頃には朝日が顔を出しており、ママが朝食の準備をしていた。そんな格好でどこ行ってたの、と驚き半分怒り半分でまくし立てるのを聞き流して僕は部屋に戻った。そしてベッドに倒れ込む。どうやら僕が家をこっそり抜け出た晩から一日も経っていなかったらしい。つまり僕は真夜中に家出して、明け方帰ってきたというわけだ。
「あんた宛に手紙が届いてるわよ!」
 下からママが呼ぶので、僕は無理やり体を起こして手紙を取りに行く。誰から届いた手紙かはわかるのだ。だから差出人も確認せずに封を切り、朝日を光源にしてしょぼつく目を擦りながら手紙を読んだ。
 Dearで始まるその長い手紙は、遠い国から投函されたものだった。遠い国での暮らし、そこでの驚きや発見を彼女は飽きることなく書き連ねる。脳裏にエニと歩いた街の様子が頭に浮かぶようだった。
 そして手紙の最後にはこう付記されていた。
 ――春先に赤ちゃんが生まれそうです。時間があったら遊びに来て下さい。
 たぶん僕は遊びに行ったりなんかしない。まだ恥ずかしいだろうから。


***


18,794字 2009年8月12日


――「魔女のいる風景 続きの話」に続く。