2023年1月22日日曜日

砂漠の幻葬団(3.慕惜)

 砂漠の幻葬団

 

   三.慕惜


 冥界の門のことは砂漠で生きる者ならば誰もが知っている。死を迎えた後に魂は冥界の門を通って冥府へ行くのだ。生前に善行を積み重ねた者は、冥府での審判を経て来世に再び世に生を受けることが許される。逆に、悪行を働いてきた者は、そこで輪廻の輪が閉じられてしまう。だから悪いことをしてはいけないのだよ、というのは大人が子供を叱るときの常套句であった。

 しかし少年は「それはおかしい」と反論した。

「そうやって悪いことをした魂が再生できないとするのなら、この世から生命の総数は減っていくばかりじゃないか」

 千の魂のうち、再び生を受けられるものが九百であるとしたとき、その九百の魂が死を迎えた後、輪廻の輪を繋げられるのは九百よりもさらに少ない数である。それを繰り返していけば、いつか転生できる魂は零になる。

 あるいは、と少年は声に出して考察した。

「善いことも悪いこともしないうちに死んでしまった魂は冥府でどう裁かれるのだろうか」

「生命の総数の減少を補うためにまったく新しく魂が創られるのだとしたら、それは誰がどういう風に何を材料に創るのだろう」

 これらは少年にとっては自然に湧いてくる疑問であったが、それ以外の者たちにとってはそうではなかったらしく、少年の疑問は筋の通っていない主張で圧し潰された。そして少年に反論は許されなかった。「でも」と食い下がる少年に対して、周りの大人や子供たちは拳を振り上げた。

「卑しい生まれの人間は考えも卑しいんだな。この馬鹿が」

 少年は人一倍頑丈であったため、散々殴られたにしては痛みを感じていなかったが、言葉の暴力にだけは抗う術を知らなかった。一人取り残された少年は、血の混じった唾を吐き捨て、天を仰いだ。建物に区切られて狭くはあるが、雲一つない空がそこにはあった。そのようにして少年はまた一つ学びを得るのだった。すなわち、自分は馬鹿であるらしいと。


 少年の名はグラジと言った。

 家は代々屠殺業を営み、卸された家畜を雇い主の求めに応じて解体する。家畜はただ殺せばいいのではない。肉の質を損なわないようにするために、数々の工夫を要した。肉は死んだそばから腐敗が始まるため、血抜きは速やかに行わなければならないし、寄生虫や疫病に冒されていればそれは除かなければいけない。父はまだ幼いグラジを傍らに立たせて家畜を屠殺する方法を見せて教えた。

 そこら中から豚や鶏、牛の叫び声が響いている。特に凄まじいのは殺される直前のものだ。父の巨腕の下で豚は身を捩って逃れようとするのだが、抵抗もむなしく父の包丁が的確に豚の首を切り裂く。血がどくどくと溢れ、地面に血溜りを作っていく。切り裂いた直後も豚は暴れている。しかし次第に活力を失い、やがて動かなくなる。豚の前脚と後脚をそれぞれ縛って棒に吊るし、車を使って移動させ、火で表皮を焼く。筋肉の痙攣で豚が跳ねる。焼けた毛を鉋で削ぎ落とし、豚を地面に下ろす。そして仰向けにしたまま喉から腹にかけて包丁を走らせ、豚を各部位に解体していく。肉と骨と内臓に分けていく。解体する前は多少の個体差がみられたが、解体した後は皆等しく肉と骨と内臓であった。

 その間父は何も喋らなかったが、時折手を止めて、グラジに観察する時間を作ってやっていた。グラジは屠殺の仕方を見て学ぶ。いつか自分も父と同じことをするからだ。どうすれば効率よく家畜を殺すことができて、どうすれば肉を質の良いまま捌くことができるのか。

 解体を終える頃、雇い主の使いがやってきて、父が切り分けた肉を運んでいく。代金は直接手渡さず、近くの台に置いていくのが常だ。使いの男も父も言葉を交わさない。父はその職業故に蔑まれていた。

 夜中に父は蝋燭の前で包丁を研ぐ。包丁は父の大事な仕事道具だ。小さいものから大きいものまで様々あるが、それぞれに相応しい役割がある。父はゆっくりと時間をかけてそれらを一つひとつ丁寧に研いでいく。砥石と刃が擦れる音が静かに響く。蝋燭に照らされた父の顔は仕事をしているときと同様に真剣だった。グラジは父の顔から目を放すことができなかった。

 不意に父がグラジに気付き、目線をこちらに向ける。手招きをする。父の表情が険しいのは生来のものであり、必ずしも感情を反映しているわけではない。グラジは父の隣に立ち、刃研ぎの様子を見ていた。

「お前もやってみろ」

 唐突に父が言った。グラジは驚いたが、頷いた。父は立ち上がり、その場所にグラジが腰掛けさせる。グラジが父を見上げると、父は小さく頷いた。

「まずはこれでやってみろ」

 一番小さな小刀を指さした。グラジはそれを手に取ってみる。見た目の割に重たく感じたのは、あくまでそれが鋼鉄の塊であるからだ。

 父がやっていたように、刃先に手を添えて両手で研いでみる。これでいいのか手応えがわからない。わからないなりに手を動かしてみる。

 唐突に、父が背後からグラジを抱きかかえるように、グラジの手の上に自分の手を重ねてきた。そして、父はいつも自分がやるように、包丁を研いで見せる。角度と力加減を体感させる。そのようにして父はグラジに自分の会得した技を伝えようとしてくれていた。

 父がそのようにするのは、グラジが十歳を過ぎて仕事を始める年齢になったからということもあるが、それ以上に自分がもう長くないことを悟っていたからだ。グラジの母はグラジが生まれてすぐに亡くなっていたので、父は自分が死んだ後はグラジが自力で生きていかなければならないことを案じていた。グラジもそのことは承知していた。

 それから一年後に父が亡くなった。兄弟のないグラジには文字通り身寄りがなかったが、生前に父が生きるための技術を伝えておいてくれたおかげで、一応自力で生計を立てることはできた。ただしまだ十一歳の子供を一人前扱いする者はおらず、彼の生来の鈍さも相まって、グラジの技術は随分安く買い叩かれた。父の雇い主が引き続きグラジに仕事を依頼してきたのは、温情であったのかもしれないし、先行投資という意味合いがあったのかもしれない。


 グラジの一日は夜明け前から始まる。まだ暗いうちから目を醒まし、太陽が上り始める前に朝の身支度は済ませる。日の出と同時にその日のうちに屠殺する家畜が運ばれてくるからだ。

 麻の重いエプロンを着け、父から譲り受けた包丁一式を手に作業場へ行く。椅子に座って待っていると、遠くから家畜の鳴く声が聞こえてきて、それでこれから自分がどの生き物の命を奪うのかを知る。鶏、豚、羊、牛と家畜は様々だが、一様に悲痛な叫び声を上げている。人間の言葉に直せば、死にたくない、とでも言っているのだろうか。命あるものはいずれ皆死にゆく運命にあるが、それを可能な限り遅らせたいと思うのは、あらゆる生命に共通する本能であるし、それはグラジも同じことだ。生きるためには衣食住が必要で、衣食住を手に入れるためには金が必要で、金を得るためには仕事が必要だ。だからグラジは生きるために家畜の命を奪わなければならない。家畜とは殺されるために生まれてきたものである。グラジと家畜はそれぞれの役割を果たすだけだ。

 運ばれてきた家畜は一頭ずつ縄でつながれているので、まずは全員別室に連れていき、柱に縄を結んで逃げられないようにする。それから一頭ずつ順番に屠殺を始める。これらの作業は遅くとも昼前には終わらせないといけないので、効率的にやらなければならない。しかし痛んでいたり毒素を含んでいたりする肉を市場に出してはいけないので、正確にもやらなければならない。グラジは暴れる家畜を力ずくで作業場まで引っ張っていき、かつて父がしていたように、家畜を組み伏せ、可能な限り速やかに首を刎ね、殺すのだ。

 その間、絶えず家畜は鳴き叫んでいる。手がけている家畜が死んでも、別室の家畜が叫んでいるので、音が止むことがないのだ。

 唯一静かになるのは、最後の一頭が死んだ後だ。しかし家畜の鳴き声がなくなった分だけ、余計に、血の跳ねる音や皮を剥がす音、肉の擦れる音が聞こえてしまう。

 全ての作業が終わったあと、廃棄物は袋にまとめて置いておく。それから汲んでおいた井戸水を使って手や包丁についた血や脂を洗い流す。それからすっかり血で汚れた麻のエプロンを脱ぎ、エプロンを水で洗う。赤く染まった水は地面に流す。血と同様土が吸ってくれる。

 仕事が終わった後の午後は近くの食堂で昼食を食べ、買い物をする。市場を歩けば今朝グラジが解体した肉が商品として売られているのが見える。肉は商人を通してそれぞれの客のもとへ届き渡り、食料として人々の胃袋を満たす。料理人の手にかかればご馳走となる。肉を食べる生物は皆、自分以外の命を栄養にすることで生きているものだ。しかし人々のほとんどは自分の手でこれから食すものの命を奪うことはしない。だが、グラジはそれが不公平なことだとは思わない。分業とはそういうものであり、グラジも生きるために本来ならば自分でやらなければならないことを金で解決している。衣服は自分で縫ったわけではないし、家具や食器も自分で作ったわけではない。すべて金で買ったものだ。誰かがやらねばならないことだからこそ、それは仕事になるのだ。

 夜になり暗くなると、かつて父がそうしていたように、グラジは包丁の刃を研ぐ。刃が砥石の上を滑る音は一定のリズムで刻まれる。その音色は落ち着いて良いものだとグラジは感じている。



 ある日、旅人がグラジの作業場を訪れこう言った。

「あんたに仕事を頼みたい」

「悪いが他をあたってくれ」

「まあそう言うなって。話ぐらい聞いてくれよ」

 旅人は作業場の入り口近くの壁にもたれかかっていた。陰になっているため顔つきは見えないが、高くも低くもなく若干掠れた声色をしていた。家畜の鳴き声に負けないよう声を張り上げていた。

「砂鯨が死んだ。それを捌ける奴が欲しい」

「砂鯨の解体はしたことがない」

「知ってるさ。あんたを紹介してくれた人は、それでもあんたなら出来るだろうって太鼓判を押してくれたよ」

「……誰に紹介された?」

「アルタヤという人だ」

「あの人か」

 食肉組合の幹部の男で、グラジの父親の代から世話になっている人だった。グラジが請け負う屠殺の仕事のほとんど全てはアルタヤがまわしてくれたものだ。グラジはアルタヤの面子を潰すことはできないし、したいとも思わない。

「話を聞こう。夕方頃にもう一度来てくれ」

「ああ、わかった。だが、それまであんたの仕事を見ていてもいいか」

「構わないが、見ていて気持ちのいいものでもないだろう」

「ちゃんと仕事ができる奴かどうかは見ておきたい」

「好きにしろ」

 グラジは包丁を振り下ろし、鶏の首を切断した。いつものように、慣れた手順で鶏を解体していく。その一羽が片付いたらまたもう一羽、隣の別室から連れてくる。そして同じように鶏の首を切断する。

 最後の一羽の首を切断したところで旅人が口を開いた。

「やっと静かになったな」

「そうだな」

「この仕事は始めてどれくらいになるんだ」

「親父が死んで十一歳から始めた。もう十五年になる」

「十五年間毎日やってるのか」

「市場が閉まる時はやらない」

「へえ、いつ閉まるんだ」

「夏と冬の祭日だ」

「他には」

「ないな」

「じゃあほとんど毎日みたいなもんか」

「……そうだな」

 旅人は作業場を歩き、視線を動かしながら見て回る。見られて困るものは何もないので、グラジは気にせず鶏の臓物を取り出していた。

「朝っぱらから仕事が終わるまでずっと一人か?」

「牛や羊を解体するときは手伝いが入ることもあるが、基本的に一人だ」

「そうか、そりゃ大変だな」

 大変と言われても、グラジには他の仕事をした経験がないので、今一つピンと来るものがない。日によって屠殺する家畜の種類や数が違うので、その比較の中で作業量が多い日と少ない日は確かにある。しかしアルタヤがその日に終えられないほどの量の仕事をまわしてくることはない。仕事は生活費を稼ぐ上で必要なものであるから、大変だろうが何だろうがやらなければならない。

「それが俺の仕事だ」

「すいぶん真面目なんだな」

 与えられた役割を遂行することを指して真面目と呼ぶのだとするならば、真面目とは敷居の低い表現なのだろう。

「ま、しっかり仕事をしてくれるのは、こちらとしてはありがたい限りだ」

「まだ仕事を引き受けるとは言っていないが」

「うん? 話を聞くって言っただろ、あんた」

「話を聞くことと、仕事を引き受けることは、違うものだろう」

 旅人は一瞬呆けた後、文字通り腹を抱えて笑い出した。

「ああ、そうだ、そうだな。確かに違うよ。あんたの言う通りだ」

 自分はまた何かおかしなことを言ったのだろうか。グラジは眉をひそめ、雑念を振り切るように目の前の仕事に集中することにした。


 仕事が終わった後、旅人は「また夕方に」と言って作業場を出ていった。グラジも仕事道具を片付け、作業場の掃除をしてから遅い昼食を取り、部屋に戻った。自宅は労働者が集まる集合住宅の一室で、作業場から歩いて数分程度のところにある。包丁の手入れをするには短すぎる時間だったので、窓辺に座り、外の景色を眺めていた。

 もっとも、グラジの部屋からは寂れた路地裏が見えるだけで、時折風に吹かれて砂埃が舞うくらいしか視界に変化はない。しかしグラジは飽きることなくじっとその景色を眺めていた。

 やがて辺りが暗くなりはじめた。

 グラジは立ち上がり、作業場に向かった。

「おう、来たか」

「待たせたか?」

「いや、そんなことはないさ」

 時間に余裕は持たせたつもりだったが、旅人の方が早く到着していた。

「話を聞こう」

「ここでか?」

「そのつもりだったが」

「腹が減ったな。飯でも食いながら話そう」

「そうか、ならば行きつけの食堂があるから、そこで聞こう」

「へえ。地元の人間の『行きつけ』なら期待できそうだ」

「お前はどうだか知らないが、俺にとっては美味しい店だ」

「そうか。でもその前に、宿に寄ってほしい。連れがいるんだ」

 外に出るとグラジが先導して歩いた。その後を旅人がついてくる。

 刻々と暗くなりゆく道を人々は家路を急ぎ、あるいは夜の街に向けて歩を進めていた。昼間は商人や住人が行き交う市場も、夜になれば路上に椅子やテーブルが出て、天に星空を抱く酒場となる。酒と油の匂いで溢れるのもそう遠くないことだろう。

 旅人が泊まっているという宿の前に着くと、「待っててくれ」と言って宿の中へ入っていった。それから間もなく旅人が戻ってきて、後から二人の女が現れた。一人は見た目の派手な女で、もう一人は年端も行かない女児である。彼女たちは旅人の妻と呼ぶにも娘と呼ぶにも違和感のある年齢差のように思える。

「じゃあ行こうか。紹介は落ち着いてからだ」

 目が合うと派手な女は会釈をして、子供の方は目を逸らした。

「ああ、腹減ったな」

「こっちだ」

 グラジは食堂の方を指さし、歩き出した。

 道すがら旅人が話しかけてくる。

「ここは随分賑わっているんだな」

 路上で酒盛りをする人々を指してそう言っているのだろう。

「夜になればだいたいこんな感じだ。俺は他の土地に行ったことがないから、他所でも同じかどうかは知らない」

「まあ他も似たり寄ったりだが、程度で言えば俺の知る中ではかなり賑わっている方だな」

「そうか」

「ここは交易路の要衝だから賑わうんだろうな」

「そうか」

「前に来たときはここは素通りしたからな、ゆっくり見る機会ができてよかった」

「そうか」

 それきり話すこともなくなってしまったので、グラジは黙々と歩く。後ろから派手な女が色々喋っているのが、喧騒に混じって聞こえる。子供の方の声が聞こえない辺り、あちらでも一方的に派手な女の方が喋っているのだろう。「迷子になるなよ」と旅人が言えば、派手な女が「うるさいなあ、わかってるわよ」と返す。どうも甲高い声は耳に障って仕方ない。

 明るく騒がしい通りから逸れて、いくらか光と音の程度が和らぎ落ち着いたところにグラジがよく利用する食堂はあった。扉を開けて入れば、表通りほどではないが、客たちが酒と食事を楽しみながら談笑する声が溢れている。

「グラちゃんいらっしゃい……あら」

「おかみさんこんばんは、四人席は空いていますか」

 調理場から顔をのぞかせた女主人はグラジを見て一瞬驚いて見せたが、すぐに笑顔になった。

「奥の席が空いてるよ」


「さて」

 テーブルの上にそれぞれの飲み物が並んだところで旅人が切り出した。

「改めて話をする機会を作ってくれて、礼を言おう。ありがとう。この出会いが良いものとなることを願っている」

 旅人がコップを掲げるのに合わせて、グラジ含め他の三人もそれぞれコップを掲げ、飲み物に口をつけた。この辺りではヤシの実の蒸留酒が一般的だ。

「何はともあれ、自己紹介からだな。まず俺はアルフィルク」

 胸に手を当てアルフィルクは名乗った。グラジは頷き返す。

「こっちがルシャ」

「よろしくね」

 派手な女、改めルシャは目を細めて会釈をする。

「で、こっちがマユワ」

 子供はじっとこちらを見つめていた。その黒い瞳には鏡のようにグラジの顔が映っている。

「この子は喋れないのか」

「いや、そんなことはない。ただ喋らないだけだ」

「そうか」

 子供に懐かれるような見た目をしていないことは自覚しているので、特に気になることではなかった。グラジは目線をアルフィルクに戻す。

「俺はグラジだ」

「ああ、よろしく。いい仕事を期待しているよ」

「まだ仕事を引き受けるとは言っていない」

「けど、恩人からの紹介なら断る気もないだろ」

「むう」

 それはそうなのだが、それをアルフィルクに言われるのは違う気がして、しかしその違和感を適切に言葉にすることができず、グラジは押し黙ってしまう。

「まあいいさ――さて、本題だ」

 アルフィルクは骨付きの鶏肉の照り焼きを齧りながら話し始めた。

「ここから北に砂船で三刻ほど行ったところに砂鯨の死体がある。それを解体してもらいたい」

「死んだのはいつだ」

「一昨日の昼間だ」

「明朝にここを発ったとしても、着く頃には死後丸三日か」

「出発は早いに越したことはないが、特に急いでいない。あんたのタイミングに合わせるよ」

 砂鯨は体のあらゆる部位が金に代わる生き物であるから、余すところなく有効活用するなら出発は早い方がいい。時間が経てば経つほど肉は鮮度を失い、それ以外のものも痛んでいくからだ。だからアルフィルクの急いでいないという発言に、グラジは違和感を覚え、質問をする。

「目当ては何だ」

「全部、と言いたいところだが、獲れるものだけでいい」

「そうか。肉がどれだけ使い物になるかは、見てみないとわからないな」

「その辺りの加減は素人にはさっぱりわからないから、専門家に任せる」

「その砂鯨はあんたらが飼っていたのか?それとも狩ったのか?」

「いいや、どちらでもないね。拾い物さ」

「拾い物だと?」

 アルフィルクは肩をすくめて飄々と答える。

「そう、拾ったんだ。野生のものが野垂れ死んだか、死んでご主人に見捨てられたか、わからんがな。砂船を走らせていたら、砂鯨の死体があった。捨てておくのももったいないから、解体して金になるものは金にしようと考えた。けど俺たちには砂鯨を解体する技術も道具もない。だから専門家を雇おうと考えた」

「それはよく出来た話だな」

「だろう? 俺もそう思うよ」

 アルフィルクは鶏肉を酒で流し飲むと、酒のおかわりを頼んだ。グラジは腕を組んでアルフィルクたちを見回した。ルシャとマユワは黙々と手を動かし、食事をしている。

 野盗や危険生物のいる砂漠を女と子供の三人で旅をしていて、見渡す限り砂しかない広大な砂漠で偶然砂鯨の死体を見つけ、これ幸いと近くの街に寄ってアルタヤから紹介を受けて今ここで仕事の依頼をしている。こいつ達は何者だ?

 訝しがるグラジの心中を見透かしたように、先回りしてアルフィルクが答える。

「俺たちは砂漠の葬儀屋だ。最近始めたばかりだけどな」

「何だそれは」

「葬儀屋だよ葬儀屋。死んだ奴は誰であれ、家族や友人ってのがいるだろ。その縁者に向けて葬儀をするのさ。で、葬儀代としていくらか頂戴する。健全な商売さ」

「うわあ、胡散臭い」

「うるさいな、実際そうだろ」

 横から入ったルシャの茶々に、鬱陶しげにアルフィルクが返すが、その返事に対してルシャが何も言わないところから察するに、文字通りの意味で言えば彼らはそのようなことをしているらしい。

「それは商売になるのか」

 グラジは感想とも質問とも取れるような呟きを思わず吐露してしまう。アルフィルクはそれを聞き逃さずに拾い上げる。

「そう思うだろ? でも、意外となるんだよなあ、それが」

 アルフィルクは身を乗り出し、嬉々として語り出す。

「砂漠を旅するってのはとても危険な行為で、どんなに旅慣れた奴でも、どんなに屈強な奴でも、死ぬときは死ぬ。そういうもんだ。で、まあ死んだ場所次第ではあるが、死体を連れて長旅ができない場合は、遺された連中は死体をその場に捨て置くしかないこともある。仕方ないとは言え気持ちのいいことじゃないよな。そんな時に俺たちがささっと行って、ぱぱっと葬儀をやったら、遺された人間の気持ちもいくらか晴れるってもんだ。

 あるいは一人旅か全員まとめて死んだか、いずれにせよ生き残りが一人もいない場合もあるな。そんな時は死んだという事実すら遺族に知られずに、死体は砂漠に埋もれていくしかない。けど俺たちがいれば、少なくともその事実といくらかの遺品を遺族に送り届けてやることができる。手間賃はそのときに回収できる」

 どうだ、とアルフィルクは目で語りかけてくる。

「それで、死んだのが砂鯨だった場合は、誰かに横取りされる前に解体して自分のものにしてしまうということか」

「そういうことだ」

 あまりに荒唐無稽な話だ。グラジは呆れてしまう。こんな話は聞き流すに限るのだが、久々に飲んだ酒がどうやら口の滑りを良くしてしまっているらしい。グラジは率直に思ったことを口にしてしまう。

「お前は嘘をついている」

「というと?」

「この広い砂漠で都合よく死体に出くわせるわけがないだろう」

 そう、喩えて言うなら粒に紛れた金の粒を拾い上げるようなものだ。確率は零ではないかもしれないが、限りなく零に等しい。それよりも砂漠で待ち伏せて旅人を襲っている方がよほど現実的だ。それをこの三人でやっているというのも中々現実的ではない話ではあるが。

「それにもう一つ、おかしい点がある。砂鯨が死んでいたのが本当だったとして、どうしてそれがいつ死んだのか断言できるのか。偶然死体を見つけたというなら、死んだ瞬間がいつかはわからないはずだ」

「ふむ、なるほどな。あんたの言い分は正しい。その通りだ。けど俺たちはちょっと特別でな、生き物が死んだことをただちに知る術がある」

「そんな都合のいい話があるものか」

「その部分はこちらもあまり大っぴらにしたいところじゃないんでね。別に信じてもらう必要はない。肝心なのは、砂船で三刻ほど行ったところに砂鯨の死体があること、俺たちはその死体を解体したいと思っていること、そしてその役割をあんたに依頼していること、この三つの事実だ。あんたが答えなければいけないのは、『はい』か『いいえ』の二択だ」

「悪行の片棒を担ぐ気はない」

「別に悪いことはしていないさ。砂鯨が死んだことに俺たちは関与していない。それは断言する」

「それが信用できないと言っている。砂鯨を狩ったなら素直にそう言えばいいだろう。そう言わないのは何かやましいところがあるからじゃないのか」

「おい、今回の件があんたの恩人の紹介だとしてもか。あんたの恩人はあんたに嘘つきを紹介するような、いい加減な奴だってのかい」

「あの人を悪く言うのは違うだろう」

「じゃあこの仕事、引き受けてくれよ。報酬は弾むし、あんたはアルタヤさんの顔を立てられる。いいじゃないか。まあ確かに理解しがたい部分があることはわかるが、一から十まで何でも納得しないとできませんやりませんじゃあ世の中をうまく渡っていくのは難しいぞ」

 沈黙。

 グラジとアルフィルクは睨み合ったまま動かない。

 ルシャとマユワは黙々と手を動かし、食事を進めていた。二人の話に口を挟む気はないらしい。

 やがてグラジはため息をつき、言った。

「明日一日時間をくれ。アルタヤおじさんに確認する」

「今日はそこが落としどころだな。何も考えてない馬鹿じゃないってのは、人間としてはいいことだ」

 よし、とアルフィルクは座り直すと、杯を逆さにして酒を飲み干すと、元気よく「おかわり!」と女主人に声をかけた。


 運ばれてきた杯を受け取ると、アルフィルクはいやに人の良い顔で女主人に礼を述べた。それからぐっと杯を傾け、ひと息にほとんど飲み干してしまった。よく飲む男だとグラジは思う。

「ここはいい店だな」

 それは独り言かグラジに語りかけたものか。判断に迷うグラジをよそにアルフィルクは続ける。

「隅々まで掃除が行き届いていて、客も、この辺りにしては行儀が良い方じゃないのか」

「他の店には行かないから、わからない」

「へえ」

「父が死んでからはこの店以外に行く理由もきっかけもなかった」

「母親は?」

「物心がつく前に死んだらしい」

「そうか」

 溶けたチーズが乗った蒸かし芋を指で摘んで口に運ぶ。

「アルは行儀が悪い。フォークを使いなさいよ、フォーク」

「細かいこと言うなよ。口に入れば全部一緒だろ」

「ごめんなさいね、見苦しくて」

 ルシャが申し訳なさげにして見せる。アルフィルクの世話をする様は親が子にする振る舞いのように見え、親しげだった。

「お前たちは夫婦なのか」

「違う」「それはない」

 アルフィルクとルシャは即座かつ同時に否定してみせた。心なしかルシャの方が否定の度合いが強かったように見えるが、あくまでそれはグラジの印象の域を出ない。

「そうか」

 グラジは視線を卓上に戻し、豆のスープに口をつける。食べ慣れているが、落ち着く味だった。

「あんたってさ、ズレてるよな」

 アルフィルクが呆れたように言った。

「どういう意味だ」

「いや、いい。なんか、こう……説明しづらいな。ルシャ、頼む」

「私に振らないでよ」

「何がどうずれているんだ」

「ずれているっていうか、不思議な感じはする。世間の常識に染まらない、みたいな」

「わからない。どういうことだ」

「具体的にどうと言われると、ねえ」

 ルシャは唸って考え込んでしまった。グラジとしても人を困らせることは本意ではないので、こういう時にどうしたらいいのかがわからなくて、戸惑ってしまう。

 こういうことは昔からよくあった。思ったことを思ったまま素直に口にすると、しばしば相手を困らせてしまうのだ。しかし普通の人たちには、そういうことがないらしい。

「この人がおかしいんじゃなくて、アルとルーが勝手に期待して、期待を押し付けているだけだよ」

 誰の声かと思った。しかしアルフィルクとルシャの視線がそちらに向けられるのを見て、それまで一切喋らなかった子供のものだと知った。名は確かマユワといったか。

「勝手に期待したくせに、応えてくれなかったのをこの人のせいにするのは、すごく理不尽なこと」

「そうだぞ、ルシャ」

 アルフィルクが意地悪くにやけてルシャを指さしている

「なんでアルにがそっち側になってるのよ」

 アルフィルクとルシャが言い争いを始める。もっとも、アルフィルクがルシャの言葉尻を面白おかしく取り上げからかっているだけで、会話の内容そのものに特に意味はないらしい。アルフィルクもルシャも険悪な様子には見えず、むしろ言い合いを楽しんでいる風にすら見える。グラジには経験のないやり取りだった。

 そんな二人をよそにマユワは黙々とゆっくりとパンを齧り、蒸かし芋を食べている。口に入れたものを飲み下すと、マユワはグラジの方を向いて言った。

「美味しいね」

「そうだな」

 マユワはフォークで鶏肉に胡桃をまぶして焼いたものを刺し、持ち上げる。

「このお肉はあなたが殺した動物のものなの?」

「どうだろうな」

 マユワは言葉を飾らない性質らしい。グラジは思わず目を背け、胃の辺りが重くなるのを感じた。

「市場に卸した後のことは俺にはわからない。だから、この肉は今朝俺が手を掛けたものかもしれないし、そうではないかもしれない。俺以外にも屠殺を生業にする人間はいるからな」

「そう」

 アルフィルクとルシャはお互いを言い負かそうとしてどんどん声が大きくなっていく。もはや二人ともグラジのことは視界に入っていないようだった。

「あのね」

 唐突に聞こえたマユワの声は、二人や周囲の客の喧騒に紛れそうだった。グラジはマユワの方に耳を寄せた。マユワの方も少しだけ体をグラジの方に傾けた。

「あんな風だけどアルは優しい人なの。アルの言うことを嘘と断言できなくて迷うんだったら、信じてあげてほしい。アルはあなたを裏切らないから」

 それは難しい話だとグラジは思った。しかし、アルフィルクという男がルシャとマユワの二人には信頼されているらしいということだけはわかった。


「もっとあんたの話を色々聞きたかったんだがな。こっちで盛り上がってしまった。悪かったな」

「いや、構わない」

 食堂を出た頃にはすっかり夜もふけていて、普段のグラジならとっくに眠りに就いている頃だった。

「明日の夕方、またあんたの所に行くよ。そこで返事を聞かせてほしい。仕事を引き受けてもらえるなら、そのまま出発するから、そのつもりでいてほしい」

「もし俺が引き受けなかったらどうする」

「どうするかね。まあその時に考えるかな」

「わかった……いずれにせよ、明日の夕方だな」

「いい返事を期待しているよ」

 アルフィルクは手を振り歩き出し、既に先に行っていたルシャとマユワの後を追っていった。



 夜中に訪ねるのは失礼なので、明朝仕事が始まる前にしよう。グラジがそう考えて自宅に戻ると、家の前にアルタヤが立っていた。アルタヤはグラジに気付くと、

「遅かったな」

 もたれかかっていた壁から身を起こした。

「あの男に会ったか。お前のことだから一晩考えさせろとか、そんなことを言ったんだろう」

 グラジは頷いた。

「中で話をしよう」

 グラジはアルタヤを部屋に上げると、ランプに明かりを灯した。質素なテーブルを挟んで二人は向かい合って座る。アルタヤは部屋の中を見回した。

「お前の父親が亡くなってもうどれくらいになる」

「次で十五年になります」

「早いもんだな」

「おじさんにはいつもお世話になっています」

「こっちも助かっているよ。誰かがやらないといけないことをやってくれているんだからな」

「いえ、俺にはこれしかできないので……」

 グラジはアルタヤに頭が上がらない。いつも仕事を紹介してくれるだけではなく、亡くなった父に代わって父親のように接してくれるからだ。この街でグラジを一人の人間として扱ってくれるのは、アルタヤと先ほどの食堂の女主人くらいである。

「さて本題だ。今日は突然のことで驚いただろう。前もって言っておけばよかったんだがな、言う機会がなかった。けどお前なら話ぐらいは聞いてやるだろうとは思っていたよ」

「はい」

「この仕事、引き受けるのか」

「疑わしい点があったので、一旦保留にしてあります」

「そうか」

 アルタヤはさもありなんと苦笑する。そのような反応をするほどにアルタヤはアルフィルクと親しい仲なのだろうか。グラジ自身にはアルフィルクに信用できるところがほんの少しもなかっただけに、アルタヤの反応は理解しがたいものだった。

「あれは野盗の類ではないのですか。もしそうなら、おじさんの紹介でも引き受けることはできません」

「どうしてそう思った」

「砂鯨の死体を見つけたと言っていましたが、死んだ日時を具体的に言いました。発言が矛盾しており、嘘をついているとしか考えられません。嘘をつく理由を明かさないのは後ろめたいことがあるからだと解釈しています」

「そりゃそうだろうな。奴にはそこの説明ができないさ」

「はい、そこを問い詰めたら、あれは俺の質問に答えず、おじさんの紹介だということを強調して迫ってきました」

「強引な奴だ――いや、最初から俺にやらせる気だったな」

「どういうことですか」

「いや、こっちの話だ」

 アルタヤはこめかみを指で揉み、嘆息した。それから顔を上げ、グラジの方を向いた。

「俺がアルフィルクにお前を紹介した経緯を話すのが手っ取り早いな。少し長くなるが、付き合え。明朝の仕事のことは考えなくていい」

 今日はよく人と話をする日だとグラジは思った。思えばアルタヤとこんな風にじっくり話をするのも初めてだった。



 奴と知り合ったのは先月のことだ――そんな口上でアルタヤは語り始めた。

 先月、アルタヤは仕入れの帰路にあった。砂船に羊を乗せていた。新しく契約した酪農家のもので、珍しい品種の黒羊だった。羊の世話や砂船の航行は三十人の部下に任せ、アルタヤは船室で黒羊の売り先と売値について考えているところだった。

 そこに部下の一人が駆け込んできた。

「おやっさん、大変なことになった」

 羊の一部が今朝から調子が悪いのは聞いていたのだが、急に容体が悪化したという。性質の悪い病気の可能性もあり得る。そうであるならば、今すぐ手を打たなければならない。

 アルタヤは部下に停船の指示を出すとともに、自分は家畜を納めてある船倉へ向かった。畜舎代わりにしている船倉は改造により採光や換気に工夫をしているものの、やはり砂船の構造上、十分に衛生的であるとは言い難い。しかし家畜を効率よく運ぶためにはやむを得ないことだった。だが、その妥協が今は裏目となる可能性がある。

 船倉に着くと件の黒羊たちは既に息も絶え絶えに横たわっていた。既に飼育担当の者が件の黒羊たちを隅の区画に隔離した後である。

「どうしましょうか」

「ふむ」

 唸ってみたものの、やるべきことは一目瞭然だった。この黒羊たちは助かる見込みがないし、残りの家畜に及ぼすかもしれない影響を考えれば、今すぐこの黒羊たちは放棄するべきである。それに二の足を踏むのは、これが珍しい品種で、仕入れるのに中々に苦労したからである。しかし逡巡する理由がそこ以外にないと自覚したならば、それはもはや迷う理由にはならない。

「砂船を停めて、この黒羊たちは船から降ろす。おいお前、操舵室に行って伝えてこい。それから残った者で、黒羊を降ろす準備と、残りの家畜たちの状態の確認だ」

 アルタヤの指示で部下は各々行動を開始する。それからアルタヤはため息を一つついた。家畜を長距離輸送する場合には必然的に伴うリスクであるから、もちろん覚悟はしているが、いざ現実になるのは心地の良いものではない。今回は運がなかった。そう割り切るしかないだろう。


 家畜を全て調べるのは想定以上に時間がかかった。その間に件の黒羊たちは全て死んでしまった。死因が病によるものか、炎天下で水も食料も与えられなかったことによるものなのかは不明であるが、砂船から降ろす判断をした時点で黒羊たちに未来はなかった。生き残った他の黒羊は、全体の半数程度だった。半数でも残せただけも良しとすべきだろう。他の家畜たちも特に問題はないようだった。

 そう結論付けることができたころには日が傾き、辺りが暗くなってきていた。出発は明朝にして、今晩はここで一泊することにした。

 食肉を扱う者にとって、輸送中に家畜が死んでしまうことは決して珍しいことではない。だからそういう場合には死んだ家畜をその場で食肉に変えてしまうのが大抵なのだが、今回は疫病にかかっている可能性がある以上、食べるのは危険である。

 黒羊の死体を見下ろしながら部下の一人が言った。

「あれはどうしましょうかね」

「どうしようもない。ここに残して砂漠に還すしかないだろう」

「もったいないですね」

「諦めろ。欲を出して冥界の門をくぐりたいなら止めないがな」

「せめて毛や皮だけでも使えないんですかね」

「そういう半端な未練が良くない結果を招くことになる。諦めると決めたならすっぱり忘れるんだな」

「へえい」

 焚火を囲んで盛り上がる若者たちにアルタヤが声を張り上げた

「明日は夜明けと同時に発つぞ。おいお前たち、盛り上がるのも程々にしておけよ」

 部下たちは口々に了解の意を唱えたが、本気で言っているかどうかは唱えた本人のみぞ知ることである。やれやれ、と呟き、アルタヤは砂船の船室に戻った。


 夜明けの気配が東の空に滲む頃、アルタヤは目を覚ました。もっとも、アルタヤを起こしたのは白む空ではなく、船外で部下たちが揉める声である。

 部下たちは皆アルタヤよりも年下で、最も下の者は自分の子供と同じくらい年が離れている。喧嘩が起きた際には仲裁するのも年長者の役目と引き受けていた。

「お前ら朝っぱらから何をしている」

 𠮟りつけるように声を張り上げ扉を開けた。するとそこでは確かに若者たちが対峙していたのだが、一方はアルタヤの知らない男だった。

「おやっさん、葬儀をさせろっていう変な男が」

「あんたがこいつらの上司か」

「……何者だ」

「どうも、葬儀屋をやっているアルフィルクという者だ。最近この辺りで誰か死んだんじゃないか?」

 男はいかにも砂漠を旅する旅人といういで立ちだった。日光を遮る外套と、その下に薄いシャツ。靴と麻のズボンは厚手で、地面からの熱の照り返しに備えている。教会の奥に引きこもる祭司は青白い顔をしているものだが、それとは似ても似つかないものだった。

「いや、人間は死んでない。昨日、うちの商品がいくつかまとめて駄目になったがな」

「商品?」

「ほら、あれだよ」

 アルタヤが黒羊の死体を指さすと、アルフィルクは頷いた。遠目には黒い塊にしか見えないものだ。

「ごみの山かと思ったよ」

「金にならないんじゃごみと何も変わらんさ」

「あれは何だ?」

「西方のそりゃあもう珍しい黒羊さ。運ぶ途中で死んじまった」

「ああ、確かによく見れば手足っぽいものが突き出てるな」

「で、葬儀屋の兄さんよ。あれの後始末をしてくれるのかい」

「ああ、そうだ。人間じゃなかったのはちょっと想定外だがな」

「少しは言葉を選んだ方がいいと思うぞ」

「これからは気を付けるよ」

「だが、あれに手を付けるのはやめておけ。病気持ちだ」

「そりゃ災難だったな。けど――」

「あんたがあれに手を出した結果、街に病気を持ち込んでくることになると、こっちが迷惑するんだ。そういうわけで、死体漁りはやめておけ」

「そうかい、そりゃあてが外れたな」

「そういうことだ、残念だったな。じゃあ、俺たちはそろそろ行くよ」

「結局あの黒羊たちは好きにしていいってことでいいんだな」

「……お前があれをどうするつもりか次第では、こっちにも考えがある」

 アルフィルクと他にいるはずの彼の仲間が、黒羊の死体から何らかの病に罹って死ぬのはアルタヤたちの知るところではないが、その前に街に立ち寄り悪疫を持ち込んでくるのは困りものだ。ましてやそれがきっかけで流行り病になろうものならば、街の将来に関わる事態となる。大方アルフィルクの方は、黒羊が病で死んだというアルタヤの言い分を疑っているのだろう。それを説得する明確な根拠も、そもそも意思もないので、アルタヤとしても話し合いを続ける気はない。

 要はアルフィルク側が手を引いてくれればいいわけで、それが叶わないなら実力行使もやむを得まい。アルフィルク側にどれだけの仲間がいるのかわからないが、こちらは三十人、そこそこ大所帯なので数で劣ることはそうそうないだろう。

 アルタヤが部下に目配せをすると、部下たちはアルタヤの意を汲み、アルフィルクを囲んだ。彼の仲間が出てくる気配がないのが不気味なので、事は慎重に進めなければならない。

「おいおい、やめてくれよ。俺は別に喧嘩は強くないんだ。こんな大人数に取り囲まれたら死んじまう」

「そうなりたくなければ大人しく引き下がることだな」

「あんたらが思っているようなことはしないさ。最初に言っただろ、俺は葬儀屋だ。わかるか、葬儀屋。葬儀屋の仕事は、死んだ奴の弔いを手伝うこと。死体漁りはおまけだ。おまけがついてなければ残念だなって思うけど、所詮おまけだ。そこで死んだ奴がいるなら俺たちの仕事は変わらない」

「教会に異端者が葬儀の真似事をしているって垂れ込んでおいてやろうか」

「おっと、それは勘弁してほしいね」

「そうだろう。だったらここは手を引いておけ。こちらも揉め事は起こしたくない」

「へえ、気遣ってくれるなんて、あんた、いい奴だな。そこを見込んで頼みたい。なあ、黒羊の葬儀をやらせてくれよ」

「俺たちがいなくなった後で好きなだけやれ」

「葬儀ってのは遺された奴がいるところでやらないと意味がない」

「知るか」

「ちゃんと見張ってないと、俺が病気を街に持ち込むかもしれないぞ」

「貴様」

「でも揉め事も起こしたくないんだろ。出るとこ出るのは、俺たちのやることを見届けてからでも遅くないんじゃないのか」

 この状況で物怖じしないアルフィルクの胆力には感心する。アルフィルクはじっとアルタヤを見据え、返事を待っていた。

 三十人は数の面では劣らないと思っていたが、その考えは甘いのかもしれない。それがアルフィルクの強気な態度の根拠であるとするならば、警戒しておくべきだろう。アルフィルクは「俺たち」と仲間がいることを明確にほのめかした。

「仕方ない、付き合ってやろう。詳細を聞かせろ」

「いやあ、話の分かる人で助かるよ。場所はどこがいい。俺があんたらの船に入った方が安心か?」

「いや、俺がお前たちのところに行こう」

 それからアルタヤは部下たちに向かって言った。

「一刻だ。一刻経っても俺が戻ってこなかったら、街に戻って自警団に伝えろ。アルタヤが野盗に殺されたってな。いつでも発てるよう準備しておけ」

「信用されてないな、俺」

「当たり前だろうが」

「ま、いいだろう。一刻もあれば十分だ」

 アルフィルクは右手を挙げ、アルタヤにこちらに来るよう促した。部下の一人が「おやっさん一人じゃ」と言いかけたのを、アルタヤは制した。



 案内されたアルフィルクの砂船は小型のもので、せいぜい数人が乗れる程度のものだった。すなわち数で言えばアルタヤたちの方が圧倒していることは明らかだ。小賢しいガキだ、とアルタヤは舌打ちをする。

「戻ったぞ」

 アルフィルクが呼びかけると、砂船の陰から女と子供が顔を出した。

「あれで俺たちは全員だ」

「冗談だろ」

「いいや本当だ。俺たちはこじんまりとした葬儀屋なのさ」

「よくわからん奴らだ。よくそれで俺たちに接触しようと思ったな」

「相手を選んで商売できるほどの余裕もないんでね。駄目そうなら逃げるだけさ」

「死体漁りがしたいなら、俺たちがいなくなってからやればよかっただろうが」

「だからさっきも言っただろう。葬儀ってのは遺された奴がいるところでやらないと意味がないって」

「押し売りでやる葬儀にどんな意味があるんだか」

「意味はあんたらが見出すもんさ。俺たちは機会を提供するだけ」

「勝手な奴だ」

「そのお節介が人を助けることもあるかもしれないさ」

 話しながらアルフィルクと女は木箱や板で即席の椅子とテーブルを作った。

「簡素なもんで悪いが、まあ座ってくれ」

 アルフィルクはアルタヤを促し座らせる。そしてテーブルを挟んだ向かい側にアルフィルクと女子供の二人がそれぞれアルフィルクを挟む形で座った。

「こっちがルシャで、こっちがマユワ。葬儀を主に取り仕切るのはルシャだ」

「初めまして」

 フードの下から覗く顔は小娘に近い年頃のものだったが、目鼻立ちの整った美しい女だった。

「具体的な段取りはルシャと話し合って決めてもらうとして、先にやらなきゃいけないのは」

「こんな茶番に付き合う意味について、だな」

「違うね、お互いが何者かってところからさ」

 はあ、とアルタヤはため息をついた。

「俺はアルタヤ、この近くの街で食肉組合で仕入れと卸を担当しているしがないおじさんだ。知り合いから珍しい品種の羊が入ったと聞いて、実物を見て、仕入れて帰る途中だったが、不幸にも仕入れ品が死んで、今に至る。俺たちはさっさと戻って損失分の穴埋めをしなきゃならん。こんなところでのんびり世間話をしている余裕なんか、本当はないんだ」

「へえ、食肉組合でねえ。この仕事は長いのか?」

「ああ、十四で働き始めてから三十年間ずっと一筋だ」

「死ぬまでずっと続ける気か」

「まあ、そうだな。この辺りの人間は家業を代々受け継いで暮らしてきた。きょうだいも家の仕事を手伝うのが慣習だ」

「で、あんたもその例に漏れないと」

「そういうことだ」

「そりゃ立派なことだ。まあ、それだけ長く続けてりゃ、黒羊どもが死んでも損得勘定にしか頭が行かなくなるか」

「可哀相なことになったとは思うさ」

「けど仕方なかった、どうしようもなかった」

「そういうことだ。慣れるってのはそういうもんだ。いちいち感傷に浸っている暇はない。それに、家畜として扱っている時点であれらはいずれ死ぬ運命にある。死ぬのがちょっと早くて、死に方がちょっと違っただけの話だ」

「そうかい」

 アルタヤの話をルシャは頷きながら、マユワはじっとアルタヤの顔を見つめながらそれぞれ聞いていた。アルフィルクはその様子を横目で確認する。それから視線をアルタヤに戻し、

「仕方ないってのは便利な言葉だな」

 ため息交じりに呟いた。アルタヤが口を開く前に続ける。

「臭いものに蓋をすることを正当化してくれる」

「蓋をしないと臭くて頭がおかしくなる仕事だからな」

「流石に三十年目のベテランが言うと説得力が違うね。そこの辺り、若い連中はどうなんだ」

「みんなそれぞれ折り合いを付けていくよ。折り合いを付けられなきゃこの仕事は務まらん。折り合いの付け方に巧拙はあるが」

「そこは本人任せか」

「そうだ。いくら教会が生物の命を奪うことにお墨付きを出したって、結局心の問題だからな。最後は自分で自分を説得しなければならん。それができなければ、結局自分の仕事がなくなるだけだ。けど、傍で寄り添ってやるぐらいのことは、周りの人間にもできることだ」

 今度こそアルフィルクは腕を組んで唸ってしまった。

「あんたみたいな人が上についているなら、いよいよ俺たちは余計なお節介をしていることになりそうだな」

「そうだな、余計なお節介だな。しかしお前たち、ただのごろつきにしては随分道徳的だな」

「そろそろただのごろつきじゃないって信じてくれたかい」

「見た目よりも話の通じる奴だってことは認めてやろう」

「それはどうも」

 アルフィルクは手を上げて肩をすくめる。その様子を見ながらアルタヤは感心していた。

「何の話をしているのかよくわからないんだけど」

 アルタヤに、というよりはアルフィルクに向けてルシャが訊ねた。アルフィルクは腕を組み、どこから話したものかと思案したうえでおもむろに喋り始めた。

「そうだなあ。食肉組合ってのは何をする人間の集団か知っているか」

「肉を作って売る集団でしょう」

「そうだ。その仕事の中には当然、家畜を殺すことが含まれる。食肉文化には鶏、豚、羊、牛、そういった生き物を継続的かつ大量に殺すことが欠かせない」

 ルシャが頷くのを横目で確認し、アルフィルクは続ける。

「けど、それを実行する側には相当な心理的な負荷がかかる。想像できるか? 殺生はよくないと小さい頃から教わった連中がその手で命を奪うんだ。一頭一頭が殺される間際に断末魔をあげていくのを聞き続けるんだ。そういう矛盾とどう折り合いを付けるか、って話」

「教義や法で行為を正当化できても、心の救済まではできないってことだ」

「わかったか、ルシャ」

 アルフィルクとアルタヤの二人の説明を受けて、ルシャは一応理屈としては理解したようであった。

「さて時間を取らせて悪かったな。今回はもう俺たちに出る幕はなさそうだ」

 アルフィルクが切り上げようとしたところをアルタヤが制する。

「おいおい、聞きたいことを聞くだけ聞いておしまいか」

「時間を取らせたお詫びも兼ねて、あんたに知りたいことがあるなら答えるが」

「お前たちは何者だ」

「ただの葬儀屋なんだがね。でもそれで納得してもらえるものでもないわな」

「わざわざ教会の目につくことをして何になる。しかも女子供を連れて砂漠をうろうろする奴がまともなわけがないだろう」

「それ、答えないと駄目か」

「俺がちょっと寄り道して帰るだけで、お前たち全員よくて牢屋行きだってことを忘れるなよ」

 アルフィルクは手を挙げ、降参の意を示した。

「わかった、わかった。マユ、すまない。ちゃんと話さないと解放してもらえなさそうだ」

 隣のマユワと呼ばれた子供の方にアルフィルクは言った。

「いいよ、別に。どうせ信じてもらえないから」

 マユワはそう言って顔を背けてしまった。

「俺たちには生物の死をただちに探知する術がある」

「ほう」

「生物が死ぬと冥界の門が立つっていうだろう。この子――マユワには冥界の門が見えるんだ。」

 アルタヤは一瞬呆気に取られた後、鼻で笑ってしまった。嘘をつくにしても、もう少しましなものがあるだろうに。

「ほら」

 マユワが顔を背けたまま呟いた。

「まあ、信じろってのが無茶な話だな。そりゃそうだ。けど実際そうなんだから、そうとしか答えられない」

「何か証拠はないのか」

「そうだなあ。黒羊が死んだ翌朝に俺たちが駆け付けたこととかどうだ。そもそも俺たちがあんたらを見つけたきっかけは、ばかでかい冥界の門が立ったからなんだよな」

「お前が見たのか」

「いいや、俺もルシャも見えない。マユだけが見える。でもマユが立ったって言うのなら、立ったんだよ」

「どうせ昨晩俺たちが焚いていた焚火の明かりや煙が見えていただけだろう」

「そう捉えるのが普通だよなあ。実際見えたしな」

 アルフィルクは頭を掻き途方に暮れてしまう。その様子を見ながらアルタヤは考える。

 アルフィルクが嘘をついているか否か。口ぶりは真実を述べているように見えるが、内容を真実と認めることはほとんど不可能だ。その話しぶりも真実を述べている風に装うことは十分可能な範疇であろう。総じて言えば嘘をついていると見なすのが適切であるように思うが、嘘と断じきる根拠もない。そういう意味では、お互い主張が平行線を辿ることになるだろう。切り口を変えなければならない。

「仮にその子に冥界の門が見えるとして、なんで葬儀屋なんだ。もっとましな能力の活かし方がありそうなものだが」

「あんた、冥界の門が見えてしまう子の生き辛さなんて想像したことがないだろ」

 想像したことなどあるわけがない。そう言いかけた言葉を堪え、アルタヤは想像力を働かせてみる。人々が見えないものを見えると言い張ったらどうなるか。

「嘘つき呼ばわりされるだろうな」

「そうだ、今さっきあんたがしたように、鼻で笑われるわけだ。でも笑われるだけならまだましさ。正確に生物の死を言い当てられる、って言い換えれば、どうだ。これならわかるか」

 アルタヤは目を瞑り、その様子を想像してみる。マユワが指さした方角には必ず死体があるということだ。

「……死神扱いされるってことか」

「順番は逆なんだけどな。マユが冥界の門が立ったと言ったから死ぬんじゃなくて、死んだから冥界の門が立った。けど、普通の連中にはその区別なんかつかない」

「それは難儀な話だ」

「ま、冥界の門が見えた結果、他にも色々あるんだがな。いずれにせよ、この子はもう普通の人間社会の中じゃ暮らしていけないのさ。けど生きるためには飲むもの食べるものが必要だ。道に背かず生きていこうとしたら、やっぱり金かそれに代わるものが必要になる。それで俺たちにできることってのを考えたら、葬儀屋に行き着いた」

「俄かには信じがたい話だな」

「そりゃそうだ」

 アルタヤは腕を組み、考える。もし冥界の門が見えるとしたら。その仮定が真とするならば、それはさぞかし生きにくいことだろう。しかし仮定そのものがやはりそもそも信じがたい。それが普通の感覚だからこそ、冥界の門が見えるというこの子供は生きにくいわけだ。見えないふりをして生きていく道もあったのかもしれないが、そういう生き方は常に嘘をつき続けることになるので、そちらもそれなりに困難だということは想像に難くない。この部分については、これ以上は押し問答になる。再度切り口を変えなければならない。

「どうしてあんたらはその話が信じられる。自分で見えるわけじゃないんだろう」

「そうだなあ、助けられたから、だな」

「助けられた?」

「そう。冥界の門を通りかけたところを引き戻してもらった。俺も、ルシャも」

 アルタヤがルシャに目を向けると、ルシャはアルタヤの方を見て頷いた。

「体験したことのない人間に信じろってのが無茶なのはわかっている。けど、そう言い張る人間がいるってことだけは確かな事実だ」

「その子にあんたらが騙されてるって可能性は」

「否定できないだろうな。でも、もしそうなら俺たちは随分幸せな夢を見させてもらっているよ」

 アルタヤはため息をついた。話にならない。

「あんたらがその子に陶酔するのは勝手だが、そこに他人を巻き込むな」

「だから葬儀屋という商売の範疇で話を進めようとしたんじゃないか」

「葬儀屋としての正当性にまで踏み込まないなら、口先だけでそれらしいことをやって見せるだけの詐欺と区別がつかないだろうが。

 これは年長者としての忠告だ。早晩、あんたらの『商売』は破綻するぞ。手を引くなら早い方がいい。それで、もっとまっとうに生きられる手段を探すべきだ」

「ご忠告どうも」

「まったく」

「で、結局俺たちは見逃してもらえるのかい」

「どうしたもんかな」

 ここまで聞いたことを総合的に判断してアルフィルクの一連の話を信じるか否かで言えば否であるが、野放しにして街に有害な存在かと言われればそれも違うように思う。死亡した黒羊の肉や皮を街に持ち込まない限りは、という条件付きであるが。結局のところ、正体が彼らの語る通りであるかどうかは確かめようがないが、常人のようにまっとうに職を得て働くことができないことは確かなようである。そういう意味では彼らもまた生きることに苦労している若者というわけだ。アルタヤは生来の面倒見の良さが頭をもたげるのを自覚し、自制しながら言葉を選んでみる。

「お前ら、もし仮に今回俺が葬儀を引き受けると言っていたとしたら、代価に何を要求するつもりだったんだ」

「そうだなあ。金目のものなら何でもよかったが」

「いくらだ。言ってみろ」

 アルフィルクは呆気に取られていたようだが、おもむろに指を三本立てて見せた。

「ふむ、いいだろう。その倍を出してやる」

「ずいぶん気前がいいな。何が狙いだ」

「砂鯨の死体を見つけてこい。なるべく早くだ」

「おいちょっと待て、砂鯨なんかそう簡単に死ぬもんじゃないぞ」

「生き物なんだから、いつかどこかで死ぬ砂鯨が出てくるだろ」

「そりゃそうだが」

「期限を定めずに待っていてやる。悪い話じゃないだろ。いくら死体漁りで食ってると言ったって、お前らじゃ砂鯨の死体なんか手の付けようがないだろう。しかし俺たちに話を通せば砂鯨を解体できる奴を紹介してやれるし、そうすればお互いいくらか金になる」

「で、あんたからしてみればこっちの言い分を検証すると共に、俺たちの首に縄を着けられる」

「俺としてはどっちでも構わないんだがな。お前らが砂漠で野垂れ死のうが知ったこっちゃないが、機会をくれてやる。どうする、やるのかやらないのか」

「いいだろう、やってやるよ。別にやましいことはしていないしな」

「よし言ったな。砂鯨を見つけたら俺のところに来い。住所は……口頭でいいか」

 アルフィルクが頷くのを確認し、アルタヤは食肉組合の住所を告げた。

 もしアルフィルクの言う通り、彼らが生物の死をただちに探知できるというならば、「見つけた」と言って見せてくる砂鯨の死体は死後間もないもののはずだ。砂鯨の狩とは多くの人員と多大な危険を伴うものであるが、それらを介さずに砂鯨の死体が手に入るならば、費用対効果の面で極めて優れている。もっとも砂鯨の死体のうちどこまで商品になるかは状況次第であるが、少なくとも骨や髭は使い物になるだろうし、それだけでも十分である。そうして恩を売ってアルフィルクたちを囲い込むことができれば、商売上の恩恵は計り知れないものとなるだろう。アルフィルクたちが砂鯨の死体を用意できなければ、彼らの話は全て嘘だったというだけの話だ。半日ほど足止めを食らった以上の損失はない。

「なるべく早く連絡するようにしたいもんだな」

「期待しないで待っているよ」

 このようにしてアルタヤはアルフィルクたちに見送られ、戻っていった。


「――で、今朝、ひと月ぶりにあいつがやって来て、砂鯨を見つけたと言ってきた」

 夜はすっかり遅くなっていた。もう日付を跨いだ頃だろうか。

「グラジ、お前にはあいつの言葉の真偽を確かめてきてほしい。それでもし本当に砂鯨がいたのなら、その場で解体するのも頼みたい」

「もし、嘘だったら」

「その時はあいつらの砂船を奪って逃げてこい。お前の体格ならできるだろ」

「それはわからないですが」

「うちのひよっこ共よりずっと頼りにしているよ」

「……おじさんがそう言うならば」

「お前にとっても外の世界に出てみるいい機会になるだろうよ。どんな結果になるにせよ、色々見て聞いて考えておいで」

 アルタヤに優しい声色でそう言われてしまったら、グラジはそれ以上もう何も言えなくなってしまう。



 昼に俺のところに来い。砂鯨の捌き方を教えてやろう。あと、専用の包丁もくれてやる。

 別れ際のアルタヤの言葉に従い、翌朝、グラジはアルタヤのもとへ向かった。

「こっちへ来い」

 グラジの顔を見るなりアルタヤは顎で促し、二人は母屋から離れた物置へ行く。物置はずいぶん古びていたが、中は見た目に反して綺麗に整えられていた。大きな布や太いロープ――砂船の航行に使うものたちだ――を横目に奥へ進むと、壁には一本の巨大な刃物があった。長い柄とそれと同じくらいの長さの刃があり、合わせればグラジの肩にも届くだろう。

「立派なものだろう」

「はい」

「これはお前に譲ってやろう」

「そんな、俺には受け取れません」

「どうせ俺にはもうこれを振り回す体力がない。物置の奥で埃を被せておくよりも、誰かに使ってもらった方がこいつも幸せだろうよ」

 食肉を扱う者にとって包丁は仕事道具であるが、鯨包丁は殊更特別なものだ。かつて砂鯨は砂漠で最も偉大な動物であるとして、それを狩る者は大いに尊敬されていた。鯨包丁は砂鯨に打ち勝つ者の象徴として特別な意味を持ち、食肉を扱う者であれば一家に一本、父から息子へ受け継がれていく。グラジにとっては遠い異国のような伝統だった。

「ほとんど骨董品のようなものだが、道具としての性能は保証する」

 それはそうだろう。遠目にも明らかなほどに、刃はよく研がれていた。アルタヤが現場を退いたのは十数年前のことと聞いているが、その後も一人で時間のあるときに研き続けていたのだろう。アルタヤはそのようなものをグラジに譲り渡そうというのだ。

「そんな顔をするんじゃない。俺はお前に渡したくて渡すんだ。ありがたく受け取っておけ」

「……はい」

「さて、それじゃあ始めるか。持ってみろ」

 アルタヤに促され、グラジは鯨包丁の柄掴んでみる。巨大な鋼鉄の刃はずしりと重たいものだったが、見た目以上に重たく感じられた。手放してはいけないと、グラジは柄を強く握る。

 それから正午を挟んだ数時間、アルタヤは鯨包丁の振るい方に始まり、砂鯨を解体する手順や注意点を説明した。

「実物を使いながらやるのが一番いいんだがな、そればかりは仕方ない。大体の流れはわかったか」

「はい」

「砂鯨といっても結局のところ、皮、肉、血、骨、内臓の複合体に過ぎない。それらを切り分けるのがお前の仕事だ。お前なら問題なくできるだろう」

「おじさん、ありがとうございました」

 深々と頭を下げるグラジに、アルタヤは一言「おう」とだけ応えた。


 日暮れが近くなった頃、アルフィルクが作業場に現れた。

「依頼されていた件、引き受けよう」

「そうか。改めてよろしくな」

 差し出された手をグラジは握り返した。



 ***



 夏至と冬至にそれぞれ行われる祝祭は、それぞれ生と死を象徴しているとされている。あらゆる生命の誕生を喜び、死んでいった命たちを悼むのだ。祝祭の成り立ちは、これを取り仕切る教会の者たちが詳しいが、住人の多くにとっては大した問題ではない。大いに歌い、笑い、非日常を楽しむのだ。

 そんな宴の最中に儀式は行われる。といっても形式ばかりのもので、その意義は教会の古書の中で語られるのみであるが。

 かつて旅の途上でこの地に辿り着いた聖人は、病のため死の淵に瀕していた。聖人は弟子たちを集め、自分の亡骸はこの地に残して東方を目指すよう言い、眠りについた。弟子たちは必死に聖人の回復を願い、祈りをささげたが、異国の地にまで故郷の神の慈悲がもたらされることはなかった。代わりに弟子たちの祈りは砂漠の精霊に届き、精霊は祈りを捧げる弟子たちに語りかけた。曰く、五つの命を捧げよ、さすれば彼の男の命を死の淵から掬い上げん、という。弟子たちは話し合った末に、自分たちが連れてきた奴隷の中から生贄を選び、捧げた。かくして聖人は死の淵から蘇ることができた。聖人は五つの命の献身への感謝から、弟子の一人にこの地に留まり、後に訪れる人々に彼らのことを語り継ぐよう命じた。

 儀式はこのような故事に倣って行われる。冬至の祝祭では聖人のための五つの命――すなわち鶏、豚、羊、牛、砂鯨――を砂漠の精霊に捧げ、夏至の祝祭では聖人の復活を祝うのだ。



 ***



 日暮れと同時に砂船は砂上を滑るように走り出した。まだ熱を孕んだ風が帆を膨らませ、舳先は北を向いている。アルタヤから譲り受けた鯨包丁を傍らに置き、グラジは船尾の近くに腰を下ろしていた。

 アルフィルクは慣れた手つきで帆を操りながら、マユワに細かく方角を確認していた。マユワがひとつの方角を指さすと、アルフィルクは頷き、その方角へ砂船が進むよう帆を操る。

 竜骨が砂面を擦るときを除けば砂船はおおよそ揺れることなく進み、乗り心地は悪くない。

「こんばんは、グラジさん。隣、いいかしら」

 目線を上げてみれば、ルシャが風にそよぐ髪を手で抑えながらグラジを見下ろしていた。

「構わない」

「それじゃあ失礼するね」

 ルシャがグラジの隣に腰を下ろすと、砂船はわずかに左右に揺れ、すぐに落ち着いた。

「それは何?」

 ルシャは鯨包丁に目を向けた。鯨包丁だ、と告げると、ルシャは、わあ、と感嘆の声をあげた。

「こんな大きな包丁、見たことない」

「そうだろうな。俺も初めてだ」

 ルシャが布に包まれた鯨包丁を覗き込んでいる。その瞳には好奇心が宿っているのが見て取れた。目元に落ちる影が深い分、まつ毛の長さが際立つ。整った鼻筋は余計なところも足りてないところもなく、美しいものだと感じる。

「今日の昼間に、アルタヤおじさんから貰った」

「たしか、あなたの雇い主の人だっけ。こんな素敵なものをくれるなんて、とても気前がいい人なのね」

「気前がいい……いや、そんな表現をするのはおじさんに失礼だ」

 グラジは顎に手を当て、熟考して言葉を選んだ。アルタヤはたしかに心優しい人ではあるが、根本は生粋の商売人であり、価値のあるものを簡単に人に譲り渡すような人ではない。そこには必ず損得勘定が入る。だから、気前がいいというのは適切な表現ではない。しかし、だからといって、グラジ自身がアルタヤの大事な鯨包丁に見合うだけの価値がある人間だとも思えない。鯨包丁を譲り渡してくれた以上、アルタヤ自身はグラジに何かしらの価値を見出したはずなのだが、それが何なのだかグラジにはわからない。そういう意味では、グラジにとって鯨包丁は分不相応な贈り物だった。

「俺は、また、おじさんに恩を受けてしまった」

「また?」

「親父がまだ生きていた頃から、ずっとだ。おじさんは俺に仕事を与えてくれた。それだけでも申し訳ないのに、死んだ親父に代わって俺を息子のように扱ってくれる」

「いい人だね」

「いい人……ああ、そうだな。おじさんは『気にするな』と言ってくれるが、俺は――一生をかけて受けた恩に報いていかなければならない」

「受けた恩ねえ……ありがたく貰っておいて、ありがとう、でいいんじゃないのかしら。そんな一生をかけて、だなんて大げさなことを言わずに」

 この世は交換関係で成り立っている。だから受けた恩に見合う何かを返さなければ、釣り合いが取れてない。グラジは自分の「ありがとう」という言葉に価値があるとは感じられない。これは所詮ただの言葉だ。グラジが礼を述べたところでアルタヤの懐には銅貨の一枚も入らない。それよりも、一頭でも多く家畜を解体し、アルタヤのために働いてみせた方が彼のためになるだろう。

「俺は、それでいいとは思わない。受けた恩には行動で返さなければならない」

「ふうん」

 それきり会話が途絶える。ルシャはグラジの隣に腰を下ろしたまま星空に右手を伸ばし、空を掻くような仕草をしている。それは手の届かないものを掴もうとしているようにも見えた。不思議なことをするものだとグラジは思う。やがて満足したのか、ルシャは腕を下ろし、空を見上げたまま目を閉じた。鼻腔が呼吸に合わせて微かに膨らみ、震えていた。

「ねえ」

「なんだ」

「そんな風にじっと見られると、恥ずかしい」

「そうか。それはすまなかったな」

 ルシャがそう言うので、グラジは目線を前に戻した。

 息を吸って、吐く。それを五回ほど行うほどの間を置いてから、ぽつりとルシャが言った。

「私の顔を見て、何か思うことでもあったの?」

「特には何も……いや、綺麗な顔をしているなとは思ったな」

 ふっ、と呆れた風にルシャは鼻で笑う。

「そんなはっきりと言われたのは初めてだわ」

「そうか」

「ねえ、グラジさんっていつもそんな風なの?」

「そんな風とは」

「言われた側がどう思うかはお構いなしに、思ったことをそのまま言っちゃう」

「迷惑だったか」

 ルシャは首を横に振った。

「別にそんなことはないけど、普通は……ああ、またマユちゃんに怒られちゃうわね。でも、まあ、うん、普通は、自分がこう言ったら相手がどう反応するかを予想して、言葉を選ぶわよ」

「そうか、そうなのだろうな、普通は。俺は、そうだな、取り繕うというのが下手なのだろう」

「それはわかるわ。そうでしょうね」

「だから、俺は自分が思ったことを思った通りにしか言えない。それでよく他人を怒らせてしまう」

「あなたも苦労しているのね」

「いや、別に苦労と感じたことはない」

 苦労というよりは、申し訳なさが先立つのだ。グラジが他人を怒らせたくて怒らせているわけではないように、その人もまた怒りたくて怒っているわけではないはずだから。相手に不本意な反応を強いているのが自分自身だからこそ、申し訳ない気持ちになる。

「ねえ」

 二人のあいだにできた間を埋めるようにルシャは切り出した。

「グラジさんのこと、もっと教えてよ。興味が湧いてきた」

「俺のことなんか知ってどうする」

「どうもしないわよ。ただ、知りたいなって思っただけ」

 そう言ってこちらを覗き込むルシャの目から好奇の光がこぼれていた。先ほど鯨包丁に向けていたものと同じ類のものだ。グラジはその目から思わず顔を逸らしてしまう。

「ね、いいじゃない」

 グラジが顔を背けて離れた分の距離をルシャが詰めて近寄り、見上げるかたちで覗き込んでくる。大きな瞳には星が映り込み瞬いているようで、意識が奪われかけていることをかろうじて自覚する。

「俺に、近づくと穢れるぞ」

 苦し紛れに出たのはその言葉だった。昔、多くの大人や子供たちがグラジを指さしそう言ったものだ。

 言われたルシャの方も、最初はきょとんと呆けていたが、遅れて頭で理解できると、随分ばかなことを言われたと気付き、たちまち腹が立ってくる。

「穢れるですって?」

 ルシャがさらに距離を詰めてくるので、グラジは思わず身を捩って逃れてしまう。ルシャは口元に笑みこそ浮かべているものの、目は笑っていない。グラジはぞっとするほど手に冷たいものが当たるのを感じる。視線を落としてみれば、ルシャの小さな手がグラジの拳の上に置かれている。それは氷の塊ようだった。

「これで私の何が穢れるっていうのかしら」

「わからない」

「お願いだから、そんなくだらないこと、言わないでよ」

「くだらないことなのか」

「人間が人間に触ったぐらいで穢れるなんてこと、あるわけないじゃない」

「でも皆が」

「皆って誰? あなたが言うところのみんなが『グラジに触ったら穢れる』っていうから穢れるの? じゃあ今、私の何が穢されたのか、教えてよ」

「それは、俺にもわからない」

 幼い頃から生まれや育ちが卑しいと言われてきた。子供同士の無邪気さで仲良くなった子たちは、帰宅後に親に諭され翌日にはグラジと距離を置くようになるのが常だった。屠殺業を営む家の子は、生まれつき全身が家畜の血にまみれ、その手は数多の命を奪った罪に染まっている。皆はそう言うが、もちろん幼い頃のグラジは家畜の血を浴びたことなどなかったし、家畜の命を奪ったこともなかった。だからグラジが「違う」と訴えても返事は暴力でなされた。

 果たしてグラジは穢れているのかいないのか。穢れている証拠はないが、穢れていない証拠もない。グラジにはわからないが、自分より賢い人々が「グラジは穢れている」と言うのであれば、そうなのだろう。成長して父親の後を継ぎ、屠殺業に就いてからは、実際に数多の家畜を手にかけ、その手は確実に血に染まってきた。目を瞑れば家畜たちの断末魔の叫び声が鼓膜に生々しく蘇る。少なくとも殺された家畜たちはきっとグラジのことを赦さないだろう。あの作業場がグラジの居場所だ。

「わからないってことはさ、本当は穢れてないかもしれないってことじゃない」

 ルシャに覗き込まれるとグラジは居心地が悪くなる。痛みには強い性質だと思っていたが、この居心地の悪さだけはどうにも耐え難い。

「俺は」ルシャから目を逸らしたまま、喉から声を絞り出す。「お前みたいな美しい人を穢したくない。だからそういう可能性があるのなら、お前は俺に触れるべきではないんだ」

 グラジの拳に乗せられたルシャの手がぴくりと震えた。逸らした目をルシャに戻してみれば、ルシャの目が丸くなっている。

「……あなたって本当に面白いわね」

 ルシャは立ち上がると、足早に船室に戻っていってしまった。

 グラジはようやく一息をつくことができた。そして不意に、遠巻きにアルフィルクとマユワが一連のやり取りと見ていたことに気付いた。グラジと二人の目が合うと、アルフィルクがマユワに「ありゃ一体何だ」と訊ね、マユワが「さあ?」と興味なさげに答えていた。



 アルフィルクが言った通り、ぴったり三刻で砂船は砂鯨のもとへ辿り着いた。

 辿り着いて見た砂鯨は重力に押し潰されて平たく伸びていた。頭から尾びれまでの長さは牛数頭分にも相当するだろう。もしまだ生きていて、噂で聞く通り地表に浮かんでいるとすれば、グラジを見下ろしていたことだろう。今まで捌いてきたどの家畜よりも大きかった。

「どうだ、大きいだろう」

「ああ」

「でも、砂鯨の中じゃまだ小さい方だ」

「そうなのか」

 グラジの隣でアルフィルクは腰に手を当て言った。

「どうだ、やれそうか」

「やってみなければわからない」

「手伝いは必要か」

「できるなら頼みたい」

「よしわかった。指示は任せる。ルシャやマユワもあてになるなら使え」

 グラジは頷き、手にした鯨包丁の布の包みを外した。

 はたしてアルフィルクの言う通り砂鯨はあった。砂鯨を見つけたからこそアルタヤを訪ねたのだろうから、砂鯨があること自体は不思議なことではない。しかし、砂鯨が死後さほど日にちが経っていないことには驚いた。ここから街までの往復の時間やアルタヤやグラジを説得する時間から逆算すれば、この砂鯨は死後間もなくアルフィルクたちに発見されたことになる。運がいいか、あるいは彼らの言う通り生物の死を探知する術があるか。一つの事例で判断するのは尚早というものであろう。

 いずれにせよ、確かなことは、今目の前に解体すべき砂鯨があるということだけである。仕事として請け負ったからには、やるべきことはやらなければならない。アルフィルクたちを見極めるための時間はまだある。

「さて」

 グラジは砂鯨を見上げる。

 砂鯨はうつ伏せの状態で死んでいた。小さな家畜であれば解体しやすい姿勢に動かすことができるが、砂鯨は巨体であるので今の状態のまま取りかかるほかにない。アルタヤに教わった通りの手順で進めていくことにする。

 まず砂鯨の下腹に鯨包丁の刃を水平に刺し込み、横に引く。赤黒い血が溢れて砂を濡らした。砂鯨の自重に任せて血が抜けきるのを待った後、砂鯨の背にのぼり、刃を垂直に立てて尾に向けて進めていく。


「大したもんだな。手際がいい」

 アルフィルクが腰に手を当て、感心して呟く。その傍らでマユワはじっと唇を一文字に結んだまま、グラジが包丁を振るう様を見ていた。

 グラジの仕事の前では砂鯨とは骨と肉と皮の集合体であり、生前に砂鯨が積み重ねてきた歴史が顧みられることはない。もちろん彼にそのような悪意がないことは知っているし、野生の生き物の過去に思いを馳せる方がどちらかといえば普通ではないことはマユワも承知している。しかしそれでも、かつて心を持っていた者が物のように扱われる様子を見るのは気分のいいものではなかった。知らなければそれはただの砂鯨なのかもしれないが、冥界の門を通る様子を見届けた以上、もはやただの砂鯨と同じように見ることはできない。

「船室に戻るか?」

「ううん、いい。見てる」

 しかし今グラジが砂鯨を解体していることは、肉食動物が他の生物を殺して食べるのと何が違うのか。何も違わない。マユワたちは砂鯨の肉などを市場に卸して日銭を稼ごうとしていて、その肉は結局誰かの胃袋に収まるのだ。生きるためにしていることという点ではまったく同じことだ。もしも今ここで感じる気分が悪いと感じるならば、それはただの欺瞞でしかない。グラジはマユワの代わりにそうしているのと同義である。この空と砂漠の狭間でアルフィルクと共に生き続けようと願うのであれば、この気分の悪さは受け入れなければならないものである。

「マユ」

 名前を呼ばれてマユワはアルフィルクを見上げる。アルフィルクは目線とグラジと砂鯨に向けたまま続けた。

「お前、また変なことを考えていただろう」

「……うん」

 グラジは鯨包丁を振るい、手際よく砂鯨を肉と皮に切り分けていく。魂を失った肉体は抜け殻であり、ただの物体でしかない。グラジは冥界の門の門番を彷彿とさせるように、ひたすら淡々と作業を進めていく。

「なあマユ、俺たちは自由を知らない。けれど、不自由であることは身をもって知っている。うんざりするほど、嫌というほど知っている。俺たちの人生はままならないことだらけだ。たくさんのことを諦めてきた。これから先も、失うものがたくさん出てくるだろう。だから、もし不自由じゃなくなれれば俺たちは自由になれるって、そんな夢を見てしまいそうになる」

 アルフィルクが苦々しそうな顔をしていることは、見なくてもわかる。

「けど、自然の仕組みの中で生きている限り、俺たちが完全な意味で不自由から解放されることはない。結局のところ、俺たちはどうやったって、この世界の中で生きる以外の生き方はないし、世界を統べる法則に抗うことはできない。これからも不自由を強いられ続ける。だから、たぶんだけど、もし自由というものがあるならば、それは不自由の中にあるんだろうな」

「生きるって難しいね」

「難しいな」

 マユワはじくじくと胸が膿んで痛む心地がする。結局最後は仕方ない、と納得する、あるいは諦めることになるのだが、今この瞬間感じた痛みだけは誰にも否定できないものだ。いつか痛みに慣れてしまう時が来たとしても、せめて痛いと感じたことだけは忘れたくない。

 皮を剥ぎ始めたグラジが作業の手を止め、アルフィルクに向かって手を挙げた。手助けを求めているようだ。

「じゃあ、行ってくる」

 そう言い残してアルフィルクはグラジの方へ駆けていった。グラジが身振りを交えてアルフィルクに説明し、アルフィルクが頷き了解している様子がうかがえた。アルフィルクは全身で皮の端を掴んで引き、できた隙間にグラジが鯨包丁を刺す。

 砂鯨はこのようにして解体されていく。マユワは、その砂鯨が冥界の門を通るまでの束の間に、彼が伝えてくれたその生涯を思い出す。彼もまた誇り高く立派な志の持ち主だったのだ。

 もしもあの砂鯨に、「あなたの死骸は私たちが好きに切り刻んで市場で売り払う」と伝えたら、彼はどう応えただろうか。マユワは考えてみるが、すぐに意味のない問いであることに思い至った。他者の意思や感情は他者のものであり、憶測はどこまでいっても憶測でしかない。彼がどう応えたとしても、マユワたちは自分たちの都合でそのようにすることを変えないのだから、この問いは自己正当化以上の意味を持たない。

 アルフィルクはマユワと一緒に堕ちていってくれる。そのことを申し訳ないと思う時期はとうの昔に通り過ぎていた。



 満月が天頂に到達する頃に、やるべき作業の最低限が終わった。

 砂鯨はおおよそ骨と肉と皮に切り分けられた。この後は、切り分けたものの中から市場に卸せそうなものを選別する作業に取りかかるのだが、砂船の容量には限りがあるため、金になりそうなものを優先して厳選しなければならない。

「複数回に分けて運ぶってのはできないのか」

 アルフィルクの問いにグラジは首を横に振る。

「いや難しいだろう。夜が明けて気温が上がれば、肉や皮はすぐに痛んでしまう。往復するのもそれなりに時間がかかる」

「骨は長持ちするんじゃないか」

「肉や皮よりはましだろうが、どうだろうな」

「わからないのか」

「ああ。砂鯨は初めてだったし、そもそも解体した後のことは他の人たちにすっかり任せていたからな」

「そうだよなあ。ま、仕方ない。できる限りのことをやろう」

 アルフィルクが膝を叩いて立ち上がると、グラジはその後に続いた。アルフィルクは歩きながら体を捻って後ろを向き、休んでいたマユワとルシャに向かって呼びかける。

「マユ、ルシャ! 獲物を運び込めるよう、砂船の片付けをしておいてくれ」

「了解」

 ルシャが軽く手を挙げてそれに応えた。

「行こう、マユちゃん」

 マユワはルシャに手を引かれて立ち上がった。

「あれだけ大きかったのに、何とかなるものだね」

「うん」

「マユちゃんは血がどばーって出るのは大丈夫だった? 私はしんどく感じるところもあったな」

「それは別に大丈夫」

 冥界の門を通る前後ではもっと酷い光景が繰り広げられることもある。死体が死に物狂いで抵抗しない分だけ、砂鯨の解体の方がまだ穏やかというものだ。

「そっか。……ねえ、ちょっと質問なんだけどさ」

 ルシャは作業の手を止めた。神妙な面持ちである。

「私ね、あの人に『俺に触れるとお前が穢れる』って言われたんだけど、どういう意味だと思う?」

 マユワはルシャから手元の作業に目線を戻す。

「さあ。その通りの意味なんじゃないの」

「あの人くらいで穢れているというのなら、私たちなんてどうなっちゃうのかしらね」

 ルシャは冥府との繋がりを得た中指に目を落とした。その様子を横目で見て、マユワはぽつりと呟く。

「あれは、綺麗なものが良いものだという無意識と無自覚の表れ」

「無意識で無自覚ねえ。そんなの、まるでただの子供じゃない」

「そう、ただの子供。無垢で純粋。まだ何も知らない人。だから自分がやっていることの意味や重みにも無意識で無自覚。愚かさを理由に考えることを放棄し、正当化している。そして何よりも、そうすることを自分で選んでいると思っている」

 一度口に出してみると言葉がどんどん溢れてきて、マユワ自身が戸惑ってしまった。

「マユちゃんは、あの人が苦手なの?」

「そうかもしれない。たぶん、自分に似ているから」

「マユちゃんに?」

「そう。自分の意思ではままならないことに振り回されているところが似ている」

「ふうん。人間なんて多かれ少なかれそんなものだと思うけど」

「そうなんだけどね」

 いつの間にか作業の手が止まっていたことに気付き、マユワは再び手を動かし始める。グラジに自分自身を投影して自己嫌悪に陥るなど、しょうもないにも程がある。グラジはたまたま知り合っただけの他人であり、それ以上でも以下でもない。この仕事が終わればまた三人に戻るだけだ。彼がどのような生きづらさを抱えていたとしても、それは彼自身の問題でしかない。

 だから首を突っ込み過ぎない方がいいのだが、ルシャはそうでもないらしく、じっと考え込んでいる。

「みんなもっと楽に生きればいいのにって思うんだけど、私がおかしいのかな」

「楽に、って?」

「なんていうんだろう。誰かに何かしてもらったら『ありがとう』って言えばいいし、それで必要以上の恩義に縛られる必要はないじゃない。その人だってしたくてしたんだろうし。あるいは、誰かに何か悪口を言われたって、それはその人が勝手にそう言っているだけで、世界中の全員がそう言っているわけじゃないでしょう。そりゃ人間だからしがらみはあるし、それに多少はとらわれていたとしても、一方で自分の気持ちや意思というのもきっとあるんだし。ほら、いつかマユちゃんが言ってくれたみたいに、自分がそういう風に感じたということ以上に確かな事実はないって思うの。だから、その感覚に素直になれたらいいんじゃないかなって。大事なのはこれまでがどうだったかじゃなくて、これからどうするかだから。そういう未来を考えるときに、しがらみが足枷になるのはもったいないなって思っちゃう」

 言葉を探しながら喋っているうちに、ルシャは自分で納得がいったらしく、うん、うん、と頷きながら力説していた。

 たしかにルーの言う通り、とマユワは思う。しかし一方で、過去があるから今の自分がある以上、過去の存在そのものを否定することはできないとも考える。しがらみから解き放たれることと、しがらみを忘れることは同じではない。

「あの人に足りてないのは、未来そのもの。五年後や十年後に幸せでいる自分自身が描けていないし、それを描くという発想すらない。過去のなかで生きていて、そのことに安心しきってる」

 自分が飛べることを知らない鳥籠の中の鳥は幸せか不幸せか。鳥籠の中の鳥を見て可能性が奪われているように見えるのは、見ている側が鳥に可能性があることを知っているからこそで、そのことを知らない立場であれば最初から選択肢などなく、道は常に一本道である。そこに不満や不幸は生じようがない。

「口に出さないだけで、本当は他にやりたいこととかやってみたいこととかってあるのかなあ」

「そういうのは彼自身が考えること。今の自分は偽りで、本当の自分がどこかにいるはずなんて、それこそ呪いみたいなものだよ」

 だから放っておくのがいいよ、とマユワは言外に含ませた。

 基本的に自分のことは自分でどうにかするものであり、他者は不干渉であるべきだ。しかし、その隔たりを乗り越えて寄り添ってくれる人がとてもありがたいものであることもマユワは知っている。そういうことをしてくれるから特別な人になるのか、あるいは特別な人だからそういうことをしてくれるのか。どちらが先かはわからない。

 ルーがグラジにとってのそういう人になってくれることを自分は期待しているのだろうか、とマユワは自分に問う。おそらくそうなのだろう。人の人生はその人のものであるから、幸せになるのも不幸せになるのもその人の勝手であるが、救われる人は少ないより多い方がいい。どうも自分はグラジに自分を重ねすぎているようだと、マユワは反省する。



「ま、こんなところだな」

 砂船に荷を運び終えたところでアルフィルクは言った。夜明けはまだ遠く、黒く塗り潰された空には無数の星々が瞬いている。月や星の明かりが地表を青白く照らしていた。

 結果として砂鯨の体の大半は残していくことになった。肉は痛みが少なく、かつ高値で売れそうな部位を選んだ。骨と皮は大きさと市場での希少さとの兼ね合いで判断した。

「悪いな、せっかく切ってもらったのに。ほとんど残していくことになってしまった」

「いや、構わない」

 一晩かかった仕事を終えてみて、グラジはいくらか疲労していたものの、特に達成感はなかった。わかっていたことであったが、砂鯨を解体するということは他の動物を解体することと大差ないものだった。体が非常に巨大であるからそのぶんの手間や苦労はあったが、アルタヤに教わった通り、肉体としての基本的な構造に変わりはなく、解体のための手順も同様だった。アルタヤの教えやアルフィルクたちの手伝いのおかげもあっただろうが、おおむね躓くところもなく仕事を終えることができた。

 こんなものか、とグラジは思う。

 砂鯨とは砂漠で最も偉大な生物であるとされている。だから砂鯨を解体することは、他の動物とは違って特別な名誉であるとされてきた。アルタヤも若い頃に砂鯨を捌くことで一人前と認められたという。しかしグラジ自身はそのような名誉とは無縁であった。だが、まったく興味がなかったかと言われれば嘘になる。アルタヤから鯨包丁を譲り受けたことは存外に自分にとっては誇らしいことだったらしい。

 かちゃり、と胸の内で枷の外れる音が聞こえた気がした。

「出かける前に食事にしよう。さすがに疲れたな」

 アルフィルクは腕を回してから手を腰に当て、伸びをする。ルシャとマユワが食事の支度を始め、捨て置くことになった肉を小さく切り分けたり、簡単な椅子や机が設えたりする。グラジが手伝いを申し出ようとすると、アルフィルクたちが手で静止するので、グラジは所在なさげにその場に立ち尽くすしかなかった。

「楽にしていたらいいじゃない」

 すれ違いざまにルシャが呟くように言ったので、グラジは思わず振り返った。ルシャは木箱を両手で抱えたまま立ち止まっていた。顔はグラジの方には向けずに続ける。

「あなたは頼まれた仕事を立派にやり遂げて、私たちの中で一番疲れているはずなんだから。ゆっくり休んでよ」

「いや、俺は別にこれくらいでは」

「でも」

 ルシャがそう言いかけたところで、マユワが横から現れ、グラジのズボンの裾を引いた。

「こっち。手伝って」

「ああ、わかった。何をしたらいい」

「火を大きくしておいて」

 マユワはグラジに木筒を渡した。それに息を吹き込んで空気を送り、おこした火を大きくしろというのだ。

「薪は船の中にあるから。必要なら足しておいてね」

「わかった」

「あなたは、そういう風に何かに束縛されているほうが安心できる人だものね」

 一拍置いてグラジが返す。

「……そうなのかもしれないな」

「かもしれない、じゃなくて、そうなんだよ」

 それはグラジに向けられた言葉であったはずなのに、言ったマユワ自身が苦しそうにしていた。マユワは唇の端を噛み、俯いている。そんなマユワの様子を見て、ルシャも困惑し、かけるべき言葉を見失っていた。

 どうやら自分はまた何かしてしまったらしい。

「すまない」

 しかしグラジの言葉はすぐに風に流されて消えていってしまった。

「ごめんね、これは私の問題。あなたは関係ないの」

「しかし」

「何でもかんでも自分のせいになるほど、あなたは他人を左右できる人じゃないよ。あなただけじゃなく、みんなそうだけど。……火、よろしくね」

 マユワがいなくなった後でグラジは木筒に息を吹き込みはじめた。火は大きく燃え上がり、熱気がじりじりとグラジの顔を焼く。額にうっすらと汗が浮かんでいる。役割に没頭するうちにグラジはようやく安心できた。

 いつの間にかルシャは抱えていた木箱を足元に置き、不機嫌そうにグラジのそんな様子を見ている。

「どうかしたか」

「別に。何でもない」

 不貞腐れたように、ルシャは吐き捨てた。マユワは自分には他人を左右できるほどの影響力はないと言っていたが、明らかに自分の態度が二人を怒らせていたところを見ると、マユワの言っていることは間違っているようにグラジは思ってしまう。

「すまなかった」

 しかしその言葉が余計にルシャに怒らせてしまう。

「ああもう、もっと堂々としていてよ。まあ私がこうなってるのはあなたのせいなんだけど、あなただけのせいでもなくて。なんていうのかなあ、あなたは卑屈すぎて、見ててもやもやするの。なんですぐ謝るのよ。あなた何も悪いことなんかしてないじゃない。私がもやもやしてるのも私が勝手にそうなってるだけなんだから、一々こっちの顔色なんかうかがわないでよ」

 そういう風に言われてしまうと、グラジは返す言葉を失ってしまうと同時に、既視感にも襲われていた。その正体は何だっただろうか。記憶の中で「グラジ」と呼びかける声は申し訳ないほどに優しい声色である。その声の主は、アルタヤと食堂のおばさんだった。

 どうして、今思い出すのがこの二人なのか。

「ちゃんと人間をやってよね。人間なんだからさ」

 グラジは人間をやるとはどういうことか訊ねたいと衝動的に感じたが、また叱られる気がして、何も返せずにいた。そんなグラジの様子を見かねてルシャは何か言いたげにしていたが、やがてため息をついた。

「……火。任されていたんでしょ」

 グラジは得も言われぬ不快感が胸の内に生じたのを感じた。他人に呆れられることには慣れていたつもりであったが、失望されるのは初めてであったように思う。

 ――一体、何なのだ。自分などに何を期待しているのか。思えば最初からそうだった。この女、ルシャは俺に普通や常識とやらを要求してきて、俺がそれに当てはまらないと知ると「興味を持った」などと言い出し、そうかと思えば勝手にがっかりする。挙句に「あなたのせいなんだけど、あなただけのせいではない」「ちゃんと人間をやってよね」などという意味の分からないことを言い出す。言っていることが滅茶苦茶ではないか。

 この腹の底がむず痒くなる感覚は、グラジにとっては初めてのものだった。

「何よ。何か言いたいことでもあるの」

「いや、別に。……俺にもよくわからない」

「眉間に皺が寄っているじゃない」

「む、そうなのか」

「うん。鏡があれば見せてあげたいくらい、すごく皺が寄っている。うわあ、すごい、へえ、ここまで皺が寄ることってあるのね」

 そう言ってルシャは吹きだした。

 この女は一体何なのだ。何がおかしいのだ。

「はあ、面白い。ちゃんと腹を立てて、そういう表情もできるんじゃない。ああよかった。笑いすぎて涙が出そう」

「俺は腹が立っていたのか?」

「知らないわよ。私はあなたじゃないんだから。でも私の目にはそういう風に見えたってだけ」

「お前は一体何なのだ。よくわからん女だ」

「あら、もしかして、私に興味が湧いた?」

 にやついた顔でルシャはグラジを見上げる。そのきらきらと輝く目が苦手だ。無視することができない。

「そうかもしれない。ルシャ、お前は俺が知っている人の誰にも似ていない。お前に見られると胸がざわざわする」

 唐突に名前を呼ばれてルシャの体が跳ねた。

「ずっとお前呼ばわりだったから、名前を覚えられていないんだと思ってた。ああびっくりした」

「そんなことはない。ただ、名前で呼ぶ必要がなかっただけだ」

「必要がなくたって人には名前があるんだから、名前で呼んだらいいじゃない」

「そういうものか」

「そうよ。グラジさんってそういうところがズレてるよね」

 人のことを名前で呼ばない、というのは自省してみてたしかに思い当たるところがあるものだった。なぜ自分は人を名前で呼ぶことがほとんどないのか。グラジは考えてみて、ただちに答えに気付く。それは、グラジ自身が名前で呼ばれた経験がほとんどなかったからだ。両親を除けば、アルタヤと食堂のおばさん以外に自分のことを「グラジ」と呼んだ人はいなかった。皆、グラジのことを「お前」と呼んできた。だから、自然とグラジも人に呼びかけるときは「お前」となった。

 そのことを思いつくままに語っている間、ルシャは頷きながら、うん、うん、と耳を傾けていた。そしてグラジが全てを語り尽くした後、ルシャは一言こう訊ねた。

「グラジさんって元々よく喋る人なの?」

「どうだろうな。よくわからない」

「寡黙な人なのかと思ってたけど、今、話を聞いてて印象が変わったわ」

 ルシャは柔らかく笑う。

「どうも俺はルシャの前だと調子がおかしくなるようだ」

 グラジがそう言うと、ルシャはまた目を丸くして見せた。

「ねえ、それってどういう意味なの?」

「今まで感じたことのない気持ちを立て続けに感じる。なんだろうな。よくわからない」

 今晩だけで何度、わからない、と言ったことか。グラジは戸惑ってしまう。

「そう。へえ、そうなの。そうなんだ。やっぱりあなたは面白いわ」

 ルシャは上機嫌でいる。どうやら今度はルシャを怒らせずに済んだらしい。どうしてそういうことになるのかまではグラジにはわからないが、人が嬉しそうにしていて不愉快だということはない。

「おい、お前ら、くっちゃべってないで、働け」

 遠くからアルフィルクが声を張り上げる。

 はあい、とルシャが返事をして、

「また後でゆっくり話をしましょ」

 とグラジの耳元で囁いた。




 促されるままに、いただきます、と皆で言葉を揃えた後、焼いた砂鯨の肉に歯を立てた。アルフィルクとルシャが「美味い」「美味しい」と感嘆をもらす一方で、グラジとマユワはただ黙々と肉を咀嚼していた。鯨包丁で切った感触と同じように、砂鯨の肉は弾力性があり、噛み応えのあるものだった。火で溶けた脂が溢れて舌の上に広がる。確かに美味いものだが、それ以上のものは特にない。こんなものか、こういうものか。

 そうして食べ終えた後にルシャは立ち上がり、尻に付いた砂を手で払った。

「ねえ、発つまでまだ時間があるでしょ」

「ああ。どうせ今すぐ戻ったって市場は開かない」

「じゃあアレやっていい?」

「おう」

 ルシャは大きく伸びをし、左手を空に伸ばし、指を開いたり閉じたりする。アルフィルクも立ち上がり、食事の後片付けを始める。火には薪を足し、湯を沸かす。

「何が始まるのだ」

「俺たちなりの区切りの付け方、かねえ」

 どういうことだ、と言いかけたところで、ルシャが、ねえ、とグラジに呼びかける。

「グラジさんは仕事で、その、家畜を殺した後ってどうしてるの?」

「なるべく早く皮を剥ぎ、肉を切り分ける」

「いや、それはそうなんだろうけど、私が言いたいのはそういうことじゃなくて。鶏、豚、羊、牛、それらにも命ってのはあるわけじゃない。死んだものに対して何かこう、冥福を祈るようなことっていうのはやるの?」

「やらないな。やっている暇がない」

「一度もないの?」

「ああ」

「これまで一度も?」

「そうだが」

 そっか、と心なしか寂しげに呟いた後、ルシャはグラジの目を見つめ、言った。

「グラジさんは死後の世界ってどう思う?」

「どう、とは」

「そうだなあ、まず、死後の世界というものがあると思うかどうか。それから、冥界の門をくぐり抜けるということについてどう考えているか、かな」

「ふむ」

 よくわからない問いではあるが、問われたからには答える必要がある。

「俺が自分自身でこの目で見たわけではないから、死後の世界や冥界の門が実在するかどうかはわからない。わからない以上、そこから先を考えることは、その内容が何であれ、妄想と同義になるだろう。だが、皆があるという前提で物事を語るのであれば、あるのではないか」

「最後、なんだか急に曖昧な話になったわね。けど、わかった」

 ルシャはグラジの前に踏み出し、グラジの手を取る。左手の中指が相変わらず異様に冷たい。

「すごく変なお願いに聞こえるかもしれないんだけどね、さっきグラジさんに解体してもらった砂鯨くんのことについて、

これから少しの時間の間だけでいいから、考えてみてほしいんだ」

「砂鯨の何を考えたらいい」

「それは、何でもいいの。これから私が見せるものを通して、何か感じたり考えたりすることがあればいいなって思うから」

 グラジが自分の眉間に皺が寄るのを感じる。意味がわからない。

「付き合ってやってくれ。ルシャなりに考えて言ったりやったりすることだ」

 アルフィルクに助け舟を出されてルシャは唇を尖らせ、そのままグラジに背を向けてしまった。そして歩き出し、グラジたちから遠のいていく。

「葬儀屋として俺たちが何をしているか、見せてやる」

 アルフィルクはルシャの方を向いたまま口の端を上げた。

「グラジ、お前のためにやるんだからな。よく見て考えろよ」

 見ればわかる、ということだろうか。グラジは腕を組んでルシャがこれから行うことをじっと見てみることにした。



 グラジは馬鹿だ。

 ルシャは心の底からそう思う。そして同時に、少し前までの自分にもよく似ているとも思った。自分の感情に無自覚で、孤独であることにも気付いていなかった頃の自分だ。生死の狭間で偶然マユワに出会い、そこで自分自身に気付かせてもらえたことは、ルシャの人生においてまったくの幸運というほかにない。

 嫌なことや未練や後悔はたくさんあった。一方で貴重なものも多く受け取ってきた。もしも、と起こり得なかった未来の可能性を数えて悔やむこともあるが、心の痛む過去を否定したら今の自分は自分自身ではないだろう。そうして全ての経験に感謝の気持ちを持てる程度には、ルシャは自分の人生を肯定している。だから、今度は自分から他の人へ、今まで貰ってきたものを返す番だと考えている。

 グラジの心は美しいと思う。水晶のように透き通っており、彼が経験してきたどんな過去もついにグラジの心を穢すことはできなかった。もっとも、透明すぎるが故に、グラジ自身には何も見えていない。本当はそこにグラジの心があるのに、本人がそのことに気付いていない。

 グラジの顔と体の半分が焚火に照らされて明るくなっていた。マユワやアルフィルクも同じようにルシャの方を見ている。

 雲一つない空には地平線まで全てを埋め尽くす星があり、光の粒たちはそれぞれの色を持って瞬いていた。そして西の方に満月が傾いている。夜明けは遠くないだろう。朝になればいつもの日常に回帰していく。今は束の間の特別な時間だ。

 凍てついた砂漠の風を胸いっぱいに吸う。ゆっくり吐き出しながら喉を震わせる。そうして紡がれるのは、眠りゆく全てのものたちが素敵な夢を見られるようにと願う子守歌である。 夢の中では辛いことも苦しいことも寂しいこともない。ただ優しい音色に包まれていればいい。そうして死者は永遠に眠り、生者はやがて訪れる明日に目覚めるのだ。

 ルシャは左手の冥府と繋がる中指を振り下ろした。その動きに従い、星々のうちのひとつが流星となって夜空を滑り降りる。星の光は雫となって滴り、地表の砂漠を濡らした。ひとつ、またひとつと降ればそれはさながら雨のようであり、たちまち地表にもう一つの星空を映しだした。現実ではあり得ない空間のなかであれば不思議なことのひとつやふたつくらい起こってもおかしくないのかもしれない。そう錯覚してくれたらいい。

 しかしルシャ自身、今のこの光景はただのまやかしに過ぎないことを知っている。星が降ることに意味はない。星が降ったところでなんだというのか。現実の何かが具体的に変化するわけではない。ただ不可知の法則を借用して見せただけの無意味で無害な手品だ。しかし、その結果、人の心の内に生じた動揺や、不可知の法則が実在するという認識それ自体は、その人の心を変えるきっかけにはなるかもしれない。

 祈るような心地でグラジの方を見る。グラジは微動だにせずルシャの方を向いていた。今この瞬間、その目で何を見て、その頭で何を考えているのだろうか。

 隣でマユワが何かを言ったらしい。グラジの顔がマユワの方に向けられて、それから再びルシャの方に向いた。ルシャの耳には届かないが、どうやら二人は何か話をしているらしい。そんなやり取りを、アルフィルクが背後から見守っていた。悪がきが何か企んでいるときのような意地の悪い笑みを浮かべているのだろう。


 ルシャの歌声が冷たい空気を伝って耳に届いてくる。柔らかく優しい歌声だった。それが子守歌であると気付くのに時間がかかった。それほどに、このような優しい歌はグラジにとって縁のないものだった。

 わからない。

 なぜ、ルシャが突然子守歌を歌い出したのか。ルシャは自分に何を伝えようとしているのか。今、自分には何が期待されているのか。自分はどうしたらいいのか。このままルシャを見続けていれば答えはいずれ現れてくるのだろうか。ルシャが見ていろというならば、今はそれに従うほかにない。

 やがてルシャは歌いながら舞い始めた。すると、視界の端を何かが過ぎていくのが見えた。最初は気のせいかと思ったが、その後も何度か、ちら、ちら、と過ぎていくので、見間違いではないらしい。

 夜空を何か光るものが通り過ぎていく。虫か鳥か、発光する生物――それだけでも十分珍しいのだが――かと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。光るものの正体が夜空に浮かぶ星であると気付いたとき、グラジは我が目を疑った。しかしそうと気付いてしまえば、それ以外の解釈は得られなかった。

 文字通りの意味で、星が天から降り注ぎ、砂の上に滴り落ち、光の粒としてその場に残っていた。そういうものが次から次へと降り注いでいく。光の雨である。

 今、自分は何を見ている? これは一体何なのだ。

 見知った現実が非現実へと塗り替えられていく。ここではないどこかへ連れていかれる。自分が知らないものを見たり知ったりすることが恐怖であるとグラジは初めて知った。

「大丈夫だよ。あなたがあなたのままであることに変わりはないから」

 焚火越しにマユワが語りかけてきた。異変はグラジたちの足元までは到達しないようで、その点には安心する。

「あのね、あなたに謝らないといけないことがあるの」

「なんだ」

「昨日か一昨日に、一緒にごはん食べたでしょ。そのときに、『このお肉はあなたが殺した動物のものなの?』なんてひどいことを言ってしまって、ごめんなさい」

 一瞬何のことかと思ったが、食堂での一場面を思い出す。

「いや、それは事実だろう」

「ううん。あれは私があなたを傷つけるつもりで言ったの。少しでもあなたを罪悪感で苛むことができればって、意地悪をしたの。たくさんの動物の命を奪い続けてきたあなたのことが、苦手だった。ううん、正直に言えば今でも慣れない。

 頭じゃわかってるの、そういう仕事も必要なんだって。けど、どうしても私は死ぬ側の肩を持ってしまう。殺された子たちの怒りや悲しみ、嘆き、そういったものを無視することができない。私はそういうのがわかっちゃうから」

「どういうことだ」

「私はね、冥界の門が見えるの。生き物が死んだ時に冥界の門が立つの。それでね、その立場でいうと、あなたの仕事場ってすごく歪な場所なの。断続的に、幾重にも冥界の門が立っていて、不自然に命が消費されている場所。見える側からしてみると、そんな場所にずっといられるというのは常軌を逸しているとしか言いようがない。でもあなたはそういうのがわからない人だから仕方ないし、さっきも言った通り、人が生きていくうえではそういう仕事が求められていることもわかる」

 グラジは黙ってマユワの話を聞いていた。光の雨が降る、降る、降る。滴った雫は地表にもう一つの星空を作り出していた。

「だから、私があなたにひどいことを言ったのは、ただの八つ当たり。ごめんなさい」

 鎮魂の子守歌が、痛いことも、苦しいことも、寂しいことも、全て忘れて眠れと歌っている。

「……お前たちに出会ってから、驚くことばかりだ。今、お前が言ったことも、信じろという方が難しい。冥界の門が見える人間など見たことも聞いたこともない」

「そうだよね」

「でも、もし本当にそうだというなら、教えてほしい。俺が殺してきた動物たちは、何か言っていたか?」

「直接は聞いたことがない。ただ、遠くから痛いとか、苦しいとか、どうしてとか、そういう感情が伝わってきただけ」

「そうなのだろうな。あの動物たちに意思というものがあるとすれば、そう感じるのが当然だ」

「……だから、自分が穢れているというのも仕方ないことだと思うの?」

「ああ」

「今の仕事を辞めたいと思ったことはない?」

「ないな」

「どうして」

「それ以外に生きていく術がない」

「もし他に生きていく術があったら?」

 考えてみたこともなかった。しかし、少しの間考えてみて、ただちに結論は出る。

「いや、それでも俺は――今の仕事を続けるのだろうな」

 グラジの頭に浮かぶのはアルタヤと、そして父だった。

「俺は、アルタヤおじさんを、父を裏切ることができない」

「どうして」

「今の仕事を辞めてしまったら、彼らとの繋がりがなくなってしまう」

「その仕事をすることが、その人たちとの絆になっているのね」

「そうだ」

「それがあなたの自由を奪う鎖になっていたとしても」

「ああ」

「そのために、これからも動物を殺し続けるの?」

「そうだ」

「何千、何万の屍の山を築き続けるの?」

「ああ、そうだ」

「そう」

 もし仮にグラジが今の仕事を辞めたとしても、他の誰かがその仕事を引き継ぐだけで、人の社会がある限り、家畜が殺され続けることに変わりはない。誰がそれをやるか、というだけの話だ。やれるだけの意思と能力のある人間がいるならば、その者がその仕事を務めるのが自然というものだろう。少なくともグラジには動物を殺し続ける理由がある。

「私には、あなたのそういう生き方を否定する権利はない。けどね、きっとルーはそれを嫌がると思う」

「俺には関係のない話だ」

「そう、それはただのルーのわがままだから。あなたがそれに付き合う必要はない。でも、あなたがそれに付き合いたくないと思うかどうかとは、たぶん別の話なんだと思うよ」

 星々の宇宙の中心でルシャが踊っている。美しい光景だった。

「ねえ、あなたがこの世で一番怖いことって何?」

「……何だろうな。わからない」

「私はね、大事だと思うものや、愛しく思うものが傷つけられたり失われたりするのがね、一番怖い。自分が死んじゃうよりもずっと怖い」

 マユワの言葉の最後は消え入るようだった。

「だからね、私はあんまり大事なものを増やしたくないの。失って傷つきたくないから。もしそんなことが起こったら、って想像しただけで、胸が張り裂けそうになる。それと比べたら、自分が痛かったり苦しかったりすることなんて、全然怖くない。自分の心や気持ちなんて、どうとでもできるから。でも、自分以外の大事なものが損なわれるのだけは、どうにもならないの」

「それは……わかる気がするな」

 アルフィルクがアルタヤを引き合いに出して仕事を引き受けるよう迫ったときを思い出す。あれは嫌だった。

「私たちはよく似ているんだと思う。私もあなたも、これ以上大事なものを失いたくない者同士。一度大事だと認めてしまったものを諦めることができない」

 大事なものが損なわれるのは怖いことだ。しかしそれ以上に怖いのは、変わりゆくことだとグラジは思う。自分が大事なものを大事と思えなくなるのが怖い。それはこれまで積み重ねてきた自分の過去を否定するようなものである。

 砂鯨を解体してみて、こんなものか、と何の感慨も湧かなかった。それが嫌だった。そう感じたとき、自分の中で何かが変わってしまったように思った。砂鯨に対して夢を見ていたつもりも、期待していたつもりもなかった。ただ、漠然と予想していた結果が、現実という確定的な事実になってしまった。そういう意味で、取り返しのつかないことが起こってしまったように感じられた。

 そして今この瞬間も、グラジがこれまで知らなかったことを見せつけられている。ルシャがグラジの中の何かを変えようとしている。足元が揺らぐような錯覚があり、心臓の鼓動がにわかに早まる。

「お前たちは俺をどうしたいのだ。依頼の通りに砂鯨を解体してやっただろう。それ以上何を望むのか。これ以上俺から奪わないでくれ」

「あなたは今、私たちに何を奪われたと感じているの?」

 もし今回の依頼を受けずにいれば得られたであろう平穏である。あの暗い部屋の中で毎日毎日、家畜を殺し続けていたかった。鮮やかに家畜どもの喉を切るとき、グラジは父を思い出す。父が愛用していた包丁たちで牛や羊や鶏の肉を裂き、血の滴る音は十数年の年月を経ても変わらないものだった。グラジはあの部屋で家畜を食肉に加工し続けるはずだった。そうしてグラジは年を取り、いつか死ぬはずだった。

「私たちはあなたから何も奪わないよ。あなたが気付くだけ。今まであなたが見ないふりをしてきたり、無意識に無視してきたりしたことに。それらは今になって突然現れるわけじゃない。あなたが私たちと出会うずっと前から、最初から、そこにあったもの。あなたの中にずっとあったものだよ」

 グラジは自分の手のひらを見る。かつて、父がグラジに包丁の研ぎ方を教えた時、父は背後からグラジを抱くように、グラジの手に自分の手を添えて砥石と刃先を擦り合わせてみせた。グラジの手は父の手にすっぽり隠れてしまい、感触だけで手の動かし方を学ばざるを得なかった。その頃と比べれば、自分の手はすっかり大きくなったものだ。あの頃の父と比べてどちらの方が大きいだろうか。それはどちらでもいい。比べられるくらいグラジが成長し、そのぶん父の死が過去になったという事実がグラジを動揺させる。

 グラジの父はグラジが十一歳のときに亡くなった。その日の朝、いつもならグラジよりも先に起きているはずの父が起きておらず、グラジが様子を見に行くと、父はベッドの上で冷たくなっていた。夜、寝る前に「おやすみ」と告げた時にはまだ息があったから、グラジが眠っている間に息を引き取ったことになる。

 泣き方もわからず途方に暮れていると、家畜を卸しに来たアルタヤの使いが不機嫌そうに現れた。グラジと父を一瞥すると、男はさっさと部屋を出ていった。それから間もなくアルタヤが現れ、部下たちに命じて父の遺体をどこかへ運び去っていった。

 ――お前、たしかグラジといったな。お前の父親は、残念ながら亡くなってしまった。これからお前は一人で生きていかなくてはならん。父親の後を継いで、立派に生きていくんだぞ。

 アルタヤは床に膝をつき、目線の高さをグラジに合わせたうえで、そう言った。グラジは自分が独りであることを覚悟した。

 仕事を始めたばかりの頃は父を想い、包丁を振るっていた。家畜たちの怨嗟の断末魔を浴びるたび、グラジは自分が父に近づけたように感じていた。父を感じるために自ら進んで家畜たちを押さえつけ、刃先を家畜の首に押し当て、引いた。アルタヤはグラジの仕事ぶりを喜んでくれた。そうしてグラジの手は血にまみれ、穢れ、いよいよグラジに近づく者はいなくなった。

「……ルシャは、なぜ歌い踊っているのだろう」

 星々の湖の中心で歌い踊る人を見ている。水面の上を風が吹き抜けるが、乾いていることかろうじてそこがまだ砂漠であることを教えてくれる。夢のような光景と比べて自分のなんと場違いなことか。

「それは、自分で考えてみて。考えることを諦めないで」

 グラジは自分に問う。

 俺は間違っていたのだろうか。世の中の連中が俺を指さし嘲ってきたことに対しては、仕方ないし当たり前だと思ってきた。しかしそれでも、父の跡を継ぎ、立派に、必死に、仕事をしてきたことは、少なからず誇りに思っていたことだったが、それが間違っていたのだろうか。マユワの言う通り命を理不尽に消費することに意味を見出していた自分は間違っていたのか。

 罪人の子であるがゆえに、グラジの手には生まれつき見えない枷がかけられていた。いつの時代の祖先がどのような罪を背負ったのかはわからないが、祖先が犯した罪を償うことが救いの道であるという。その罪滅ぼしのためにグラジの家は代々屠殺業に従事してきた。少なくともそういうことになっている。一旦そういうことにしておこうと取り置きにしていたことを、グラジは思い出す。

 なぜそのようにしたのか、なぜ今までそれを忘れていたのか。さらに記憶を遡れば答えは自明であった。「なぜ自分たちが犯したわけでもない罪を父や自分が償うのか」と父に訊ねた時、父が困った顔で首を横に振ったからだ。父はただ黙ってグラジの傷の手当てをしてくれた。その傷は、街で子供たちにいじめられてできたものだった。すり傷などいくらできても痛くはなかったが、父を困らせるのは胸が痛かった。

 しかし、今になって思う。なぜ父は幼いグラジの問いに何も答えず、ただ黙って首を横に振ったのか。グラジの主張に賛同しても、そこに未来がないからだ。たとえ本当は自分たちが祖先の罪を肩代わりする必要がなかったとしても、世間が都合よく鬱憤を晴らせられる対象を手放すはずがなく、祖先の罪の名のもとにあらゆる不利益を強いてくるはずだからだ。その証拠に、グラジの主張はいつも暴力で封じられてきた。罪に対する暴力は制裁と言い換えて正当化される。

 だから父は代わりにグラジに生きる術を教えることに全力を注いだ。いつか自分が死んだ後にもグラジが一人で生きていけるようにと願いを込めた。

 家畜をただ効率よく殺すだけではいけない。屠殺した家畜がその後どういう処理を経て市場に出回るのか。そのとき、より高値で取引されるためには何が大事なのか。あるいは自分たちの雇い主が自分たちに何を期待していて、それに対して自分たちはどういう仕事をするべきなのか。そういった社会や市場という仕組みの中で自立するための方法や心構えを、父はグラジに丁寧に教えた。それこそが父の知る唯一の自立した生き方だった――グラジの中でちゃり、ちゃり、と鎖が擦れる音がした。違和感があった。その正体を探るべく、さらに思考を深めていく。

 暖炉の火と、その前で包丁を研ぐ父の横顔。その横顔は火のゆらめきに合わせて影が揺れていた。父がグラジに気付き、顔を上げる。グラジのもの言いたげな様子を察し、父はこちらに来るよう呼びかける。そうしてグラジは父の傍らに座り、昼間に思いついたことを話してみる。父は包丁を研ぎながらじっとグラジの話に耳を傾けていた。それに対して何か返事や感想を言うわけでもなく、ただ黙ってグラジの話を受け止めていた。それがグラジにとってとても心地が良かった。砥石と刃の擦れる音が耳に心地よく、いつの間にか眠っていたグラジは父の手でベッドに運ばれていった。父はその大きな手でグラジの頭を撫でていった。

 思えば父がグラジの思いつきを否定したのは、身に覚えのない罪を贖うことの理由を問うたときだけだった。

 もし父がそれを肯定したら、グラジはどうなっていただろうか。行き着くところは世間に対する反発と敵対心であり、その末路には破滅しかない。だから父はあの問いだけには否と答えたのだ。言い換えれば、それ以外の問いは否定されていなかった。

 父はグラジに何を期待していたのか。何のために生きる術を教えたのか。思い出しうる限りの父の振舞いを総合的に勘案したとき、ひとつの可能性に行き着く。

 すなわち、生きる術を身につけて自立することは目的ではなく過程であり、その先で自分の考えや気持ちを自然な形で持つことが期待されていたのではないか。少なくとも、ただの腕の良い屠殺業者にさせることが目的だったようには思わない。

 この考えを保証する根拠はないが、否定する根拠もない。ただ怖いのは、そういう考えを持つことで、いよいよもって父の遺志を歪めることになるのではないかということだった。結局のところ、父が亡くなっている今、父が真に期待していたことが何だったのかなど確かめようがない。その確かめようがないことについて、あれやこれやと妄想を膨らませて自分にとって都合の良いように解釈するのは、それこそ冒涜的なように思う。

 考えすぎて頭が痛くなってきた。グラジは今自分が何を考えているのかもわからなくなってきた。

 ルシャの歌は終わりに近づいていた。砂漠に滴った星の光はだんだんと弱まり、元の砂漠に戻ろうとしている。夜空を滑り落ちたはずの星々は最初から動いていなかったとでもいうように、それぞれが元の場所で瞬いている。夢を見ているようだった。しかし頭の中に鈍い痛みを伴って残る疼きは嘘や偽りではない。

 皆、俺に好き勝手なことを言い、期待してくる。俺はただ、これ以上何も変わらず、何も失わずにいたいだけなのに。

「それが、あなたの本音なの?」

 グラジが無自覚にこぼした呟きを、マユワが拾い上げる。

「そうだね。過去に安心できる幸福な瞬間があったなら、その瞬間に留まって永遠になれたらどんなにいいことかって、私も思う」

「……わかっているさ。永遠に不変なものなどない」

「自分が望んでも望まなくても、時間の流れはあらゆるものを変えていってしまう。過去はどんどん遠のいていく。そして、無慈悲にも未来がやってくる。だからね、私たちは自分の足で歩かないといけないの。それでも未来を怖れて立ち止まりたいなら、自分自身の時間を無理やり止めるしかないってみんな考える。でもね……すごく残酷な話をするけどね、それでも時間って止まってくれないんだよ」

 嫌になっちゃうよね、とマユワはため息をついた。

「みんなそれぞれ何かしらの制約を背負っている。それは生物の種としての肉体的な制約かもしれないし、あるいは生まれた環境に由来するものかもしれない。家畜に生まれた動物たちはいずれ人間のために殺されるし、あなたも、『穢れ』という言葉が自然と出てくるような背景を背負っている。私も、アルも、ルーも、みんな、程度に大小はあるかもしれないけど、それでも何かしらの制約を背負っている。運命や宿命といった言い方もされるそれらに対してどう向き合うかは、みんな手探りで模索するし、その結果覆せる場合はあるかもしれないし、ないかもしれない。けど、完全に無視することはできなくて、どんなに疎ましくてもうまく付き合ったり対処したりしていくしかない。そういう意味で、この世界で生きるものたちはみんな不自由。可哀相になるくらいに」

「そうだな」

 グラジを制約するものは、卑しいとされる血筋だけではない。父への想い、父がグラジに向けてくれた想い、アルタヤへの恩義、その他大事だと思うすべてのもの。そういったものが鎖となって手足に絡みついて枷となっている。しかし、その重さや息苦しさが生の実感につながっている。鎖に縛り付けられているからこそ、今自分がここに在ると感じられるし、ここに在る理由にもなる。

「ねえ、ルーがなんであなたにこだわっているかわかる?」

 歌い終えたルシャがゆっくり顔を上げる。遠くてよく見えないが、グラジの方を向いているようだった。

「それはね、あなたが自分では何も選んでいないから。自分の心や気持ちに基づいて判断していないように見えるのが、ルーにとっては我慢できないこと。何かを選ぶことは自由であるための最低条件。だから、不自由に甘んじているあなたのことを見て、やきもきしているの」

「何だそれは」

「そう、あなたは何も選んでいないわけじゃない。今のままでいることを自ら進んで選んでいる。だから、そういう在り方を容認できないのは、ルーのただのわがまま。あなたからしてみればただのとばっちり。私は、あなたがルーのわがままに付き合う必要はこれっぽっちもないと思う。放っておけばいい。勝手に言わせておけばいい。ルーが勝手に、あるかどうかもわからないあなたの本当の気持ちとやらにあなたが気付いて、それに素直に本当にやりたかったことを選べるようになったらいいなって期待しているだけ」

「無茶苦茶な女だ」

「お気の毒さま」

「そう言いながらお前はよく解説してくれるのだな」

 グラジが横目を向けると、マユワは唇を尖らせてそっぽを向いてしまった。

「……私にとってルーはもう『どうでもいい人』じゃなくなっちゃったから。ルーがやりたいことは、私のできる範囲で手伝ってあげたいって思っただけ」

「そうか」

「あのね、お節介はこれで最後にするけどね。私はあなた自身も、ルーがもう『どうでもいい人』じゃなくなってるんだと思ってるよ」

「どういうことだ」

「だって、さっきからルーのこと、名前で呼んでるじゃない。私のことはずっと『お前』だけど」

「むう」

 グラジに言わせればそれは名前で呼ぶきっかけの問題でしかないのだが、マユワの中では名前を呼ぶことは特別な意味を持った行為であると捉えられているらしい。

「誰かの期待に応えたいって思うのも立派な自分の意思のひとつだと思うよ。生きていると大事なものが増えていくから、大変だよね」

 喋り疲れた、と最後にそう言って、マユワは一切口を閉ざしてしまった。

 ルシャが戻ってきた。不安げな眼差しでグラジを見上げている。グラジもじっとその目を見返す。

 やがて痺れを切らしたルシャが問う。

「どうだった?」

「正直に言えば、よくわからない。ただ、色々考えて、思うことがあった」

 ルシャの期待に背かない回答になれているだろうか。

「よくわからない、か。ううん、ま、とりあえず無駄ではなかったみたいだから、とりあえずそれで良しとしようかしら。あとでその『色々』の内容、詳しく聞かせてね」

 そう言って笑うルシャからグラジは目を逸らした。

 一連のやり取りを岩のように押し黙って見ていたアルフィルクが立ち上がり、号令をかける。

「よし、それじゃあそろそろ帰るか」

 東の空がほのかに明るくなりつつあった。望むと望まざるとに関わらず、朝は万人に等しく訪れる。




 アルタヤは寝ずに待っていたらしく、グラジたちの顔を見ると呻き声を上げながら伸びをし、立ち上がった。

「本当に砂鯨を拾ってきたらしいな」

「そうでなけりゃ最初からあんたのところに顔なんか出さないよ」

「そうなんだがな」

 アルタヤは頭を掻きつつため息をついた。

「もう卸す準備は始めさせている。昼には市場に出回っているだろう」

「わかった」

「分け前の話だが、お前たちとこちらで半々だ」

「もう少しどうにかならないか」

「グラジの技術料と、こちらの流通経路を使わせてやる分。それらを考えればずいぶん譲歩してやっていると思うがな」

「それを言われちゃぐうの音も出ない」

 アルフィルクが両手を挙げ、アルタヤは頷いた。

「さて、こっちが本題なわけだが――グラジ、お前の見立てはどうだ」

 アルフィルクたちは詐欺師か否か。それを確かめるのがグラジの役割だった。

「はい、彼らの言う通りたしかに死後間もない砂鯨の死体がありました。砂船での往復時間や俺たちと接触する時間を加味すれば、砂鯨が死んですぐに砂鯨を発見したと捉えるべきです」

「問題はそれがただの偶然か、何らか要因に由来する必然だったか」

「少なくとも俺が彼らから聞いた話の範囲では、おじさんの話と矛盾はなかったです。それから、得体の知れないものも見させられました」

「なんだそれは」

「うまく説明できないのですが、星がたくさん降って天地がひっくり返ったような、不思議なものでした」

 グラジは身振り手振りを交えて夜明け前に見たルシャの歌と踊りを説明してみせるが、アルタヤは首を傾げ、その首はなかなか元に戻らない。

「お前まで頭がおかしくなったか」

「……そう思われても仕方ありません」

「しかし、お前がそう言うのなら、そういうものがあったのだろうな」

「俺たちの言うことを信じる気になったかい?」

 得意顔のアルフィルクをアルタヤは一瞥する。

「馬鹿を言え。冥界の門が見える、なんて話があってたまるか。少なくとも、法螺話ということにしておいた方がお互い都合がいいだろうが」

「そうだな。俺たちもお尋ね者にされるのは都合が悪い」

「いいか、俺はまだお前たちのことを信用していない。今回事実としてかろうじて認められるのは、お前たちが金になる程度には新鮮な砂鯨の死体を見つけてきたことと、グラジが不可思議な体験をしてきたこと、この二点までだ」

「そうだな。そこから先は俺たちも論理的な証明のしようがない。信じるか信じないか、あるいはどこまで信じるか、そういう態度の問題だ」

「少なくとも俺としては、お前たちがこの街に害を与える存在でなければ、それでいい」

「まだ俺たちがそういう有害なごろつきに見えるか?」

「グラジの様子を見れば、そうじゃないことぐらいはわかる」

「それはどうも。なあグラジ、お前ずいぶんこの人に信頼されているんだな」

 アルタヤからの信頼を正面から受け止められるほどにはグラジは自分のことを認めていない。ありがたいやら恥ずかしいやらで、グラジは俯いてしまう。しかしそんなグラジの様子に介することなく、アルタヤが言う。

「当たり前だ。こいつが赤ん坊の頃から見てきた間柄だ」

「ずいぶん昔からの付き合いなんだな。グラジの親父さんが亡くなってからはあんたが親代わりだったってことは聞いていたが」

「そうだ」

「そりゃ、さぞ可愛かろうな」

「ああ、自慢だ」

 はっきりと言い切る。

「なるほどねえ。そうやって溺愛してりゃ、グラジもあんたから逃げづらくなるし、手元に置き続けられるだろうよ」

「なんだ、何が言いたい。俺がグラジを騙しているって言いたいのか」

「いいや、そうじゃないさ。あんたがグラジを心から可愛がっているのは事実なんだろう。けど、俺の目から見て不思議なのは、どうしてそこまでグラジに入れ込むのかってことさ。早くに親父さんを亡くし、天涯孤独になったグラジ少年が、そんなに可哀相だったか? 損得勘定で動く商売人の鑑であるというあんたが、可哀相、なんて感情だけでそこまでするかね」

 アルタヤは瞬間的に頭に血が上る心地がしたが、ここでアルフィルクのふざけた横っ面を殴り飛ばしても何にもならない。深呼吸をし、冷静であるよう努める。

「お前に俺の何がわかる。俺は商売人である前に、そもそも一人の人間だ」

「そうだな。あんたの考えていることなんか、俺にはわからないよ。けど、これだけは俺が言っておきたいんだ。グラジは、可哀想だって一方的に憐れまれるだけの奴じゃないよ」

 だから、いい加減子離れをしろ。アルフィルクは言外にそう意図を込めた。アルフィルクの目にはそれほどにアルタヤがグラジに対して過保護であるように見えたらしい。アルフィルクがアルフィルクなりにグラジのことを考えているのであれば、それはアルタヤとしては否定する道理がない。

 アルタヤは椅子に座り、腕を組む。

「ふん、一丁前に偉そうなことを言いやがって、若造が。だから今回、グラジに行かせたんだろうが」

 アルフィルクは唇の端を上げた。計算通り、とでも言いたげな顔だった。

「ああ、そうなんだろうな。で、あんたがそう言うってことは、これからもグラジを借りていいってことだな」

「グラジがそうしたいと思うことを止める権利なんか、俺には最初からないさ」

「ということだ。これからよろしくな。それから、グラジ、お前いい人に育てられたな」

 アルフィルクに肩を叩かれたグラジはきょとんとしている。

「おじさん、話が見えません」

「グラジ、お前がこれからの身の振り方を好きに選んでいいってことだよ。俺としてはこれからもうちの仕事を続けてくれたらありがたいけど、もしお前がアルフィルクたちと一緒に行きたいというなら、俺に止める権利はない。そうしたらいい」

「あるいは、お前が望むなら、これまで通りあの作業場に居続けてもいい。まあ、俺たちとしてはお前に一緒に来てもらって、獲物を見つけたらすぐに解体できるようにしておきたいのが本音だがな」

 背筋が凍るような心地がした。好きにしろ、とはつまり、アルタヤを裏切るような選択をしたとしても構わないということだ。アルタヤの中では、そうされても困らないと考える程度にグラジの価値が低いということか。それ以上に違和感があるのは、あたかも最初からそういう段取りだったかのように、アルタヤとアルフィルクがグラジの処遇について合意している点だ。いつから自分はアルタヤに見捨てられていたのか。

「俺は、あそこを離れるつもりはありません」

「ほう、なぜだ」

「俺にとっては、あそこが居場所です。おじさんの下が居場所です」

「そう言ってくれるのはありがたいんだがな」

「どうしてですか。どうして、突然そんなことを」

「突然じゃないさ。ずっと考えていた。お前はもっと広い世界に出るべきだ。この街にいる限り、お前は一生貶められ続ける。それが忍びないんだ」

「そんなこと、俺にとってはどうということはありません」

「グラジ、蔑まれることに慣れるな。俺が言えた義理ではないかもしれないがな」

 アルタヤは自嘲気味に鼻で笑う。

「親父さんを亡くしたばかりの頃のお前はまだ子供で、俺みたいな大人の手がないと生きていけなかった。しかし、今のお前はもうその頃の子供じゃない。立派な大人だ。自立できるだけの、社会という人同士の営みの中で生きていけるだけの技術はもう身につけている。お前の腕だったら、お前を必要とし求めてくれる人がきっとどこかにいる。そう確信していたよ」

「俺はこれからもおじさんの役に立ちたいです。そう認めてくれるだけの腕が俺にあるというなら、これから先も使い続けてくれればいい。どうして俺をおじさんから遠ざけるようなことを言うんですか」

 グラジは毅然としてアルタヤに反論する。その様子はグラジが幼かった頃からは変わらない。昔からグラジは頑固者だった。一度そうだと思ったり決めたりしたことは、曲げようとしない。

「なあ、横からで悪いんだけどさ」

 アルフィルクが小さく手を挙げながらアルタヤとグラジの間に割って入った。

「別にいいんじゃないのか、今の仕事を続けさせてやったって。それだけ慕われていれば親代わりとしては本望だろう。こいつは自分が置かれた状況を全て理解した上で、あんたと一緒にいることを選んでいるんだ。別にあんただって、グラジがこれ以上一緒にいて困ることなんかないだろう」

「当たり前だ」

「じゃあいいじゃないか。俺としては、必要になった時に手を貸してもらえればそれでいいんだ」

 なあ、とアルフィルクはグラジの方に向き直る。

「どうだ、これからも仕事を引き受けてくれないか。お前の腕は十分信頼に足る。それは今回の件でとてもよくわかった」

「おじさんに迷惑をかけない範囲なら、俺は構わない」

「だ、そうだ。これ以上何か問題があるか?」

 アルフィルクは振り向きアルタヤの顔を見る。苦虫を嚙み潰したような顔だった。

 ――こういうのはマユの領分なんだがな。仕方ない。

 アルフィルクは内心で呟き、ため息をつく。

「なあ、あんた、今幸せか?」

「何だ突然。突拍子もないことを言い出しやがって」

「訊いているのはこっちだ。幸せ? 不幸せ? どっちだ?」

「ああ、幸せだよ。お前みたいな生意気なのがいなければもっと最高だがな」

「そうか、なら結構。じゃあグラジの幸せについてはどう思う?」

「それはこいつが決めることだ。ただし少なくとも、生まれたときから祖先の罪というグラジには何の非もないことで貶められることは不幸だろうと思うよ。でもこいつにとってはそれが当たり前のことだから、理不尽だという感覚すらない」

「なあ、あんた、今矛盾したことを言っているって自覚はあるか。幸せかどうかを決めるのがグラジ本人なら、不幸せかどうかを決めるのも本人だろう。なんでグラジの生まれや育ちを不幸だって決めつけているんだ。一度でもこいつがそんなことを言ったか」

「普通に考えりゃそうだろう」

「でもあんたはグラジに幸せになってほしいと考えている」

「当然だ」

「じゃあなんでこの街に蔓延る差別や偏見と戦わなかった。あんたがこの街でどれくらいの権力者で、この街にどんな思い入れがあるのかなんて知らないが、そんなにグラジの置かれた環境を哀れに思うなら、変えてみせろよ。

 ああ、でもあんたはこう言うんだろうな。『簡単に覆せないくらい根深い問題なんだ』ってな。そうなんだろう。人間の無意識ってのはそういうもんだ。あんた一人が奮闘したところで覆りはしないだろうし、下手したらあんた自身の立場も危うくなるのかもしれない。だからあんたは戦うのではなく逃げる方を選ぶんだ。ただし逃げたのはグラジじゃない、あんた自身だ。わかるか。あんたがあんた自身に向ける目を塞ぎ、グラジのために、を口実にグラジが望んでもないことを善意のようなもので押し付けるんだ。なるほどな。そういうことか。なあ、言っちまえよ、本当はグラジを見ているのがしんどいんだろう。グラジが自分を慕えば慕うほど罪悪感を刺激されて苦しいんだろう。だからグラジがあんたではなく俺たちを選んでくれたらほっとするんだ」

「貴様」

 アルタヤはアルフィルクの胸倉を掴み上げるが、アルフィルクは冷めた目でアルタヤを見返す。

「あんた、自分が許せなくて嫌なんだな。無力な自分が。グラジを差別と偏見の目から救ってやれない自分自身が。けどなあ。それこそ、グラジには関係ない話だろう。自分が楽になるためだけにグラジを見捨てるなよ」

 アルタヤは鼻息荒くアルフィルクを睨みつけている。

「なんかさ、ちゃんと伝わってなかったみたいだから、もう一回言ってやるよ。グラジは、可哀想だって一方的に憐れまれるだけの奴じゃないよ」

「お前にグラジの何がわかる」

「あんたこそ、グラジの何をわかっているつもりだ。……あのさ、自分以外の人間のことなんか、誰にもわからないよ。自分のことすら自覚できているか怪しいのに。わからない中で、手探りで輪郭を確かめ合って、自分の感覚とすり合わせて、それでようやくなんとなくお互いのことがわかってくるもんだろう」

 アルタヤは舌打ちをしてアルフィルクを突き飛ばした。態勢を崩したアルフィルクが床に尻もちをつく。

「どうだグラジ。お前の大好きなおじさんがこんなことを考えて、苦しんでいたって知っていたか」

 グラジは首を横に振る。

「ああ、俺も知らなかった。今、煽ってみて初めて知った。でも、必ずしも見えていないだけで、人には皆それぞれ悩みや苦しみってのがあるもんだ」

 アルフィルクが立ち上がる。尻を手で叩き、埃を払う。

「俺の見た範囲ではあるが、グラジ、お前は自分のことを知らなすぎる。だからお前に外の世界を見せようとしたアルタヤさんの行動自体は正しいものだと思うよ。あの作業場で動物を屠殺し続けるのも、俺たちと部分的にでも一緒に来るのも、そりゃお前の勝手だけどさ、自分が何かを感じることや何かを考えることを放棄するのは間違っていると、俺は思うよ。俺の信念や価値観の尺度に照らし合わせて言えば、そう思う」

「……お前たちといれば、俺は俺自身のことを知ることができるか」

「そりゃお前次第だな、グラジ。でも、少なくともルシャはそういうことには積極的に協力してくれそうではあるな」

 満月のような眩い笑顔のルシャがグラジの脳裏に浮かぶ。それからグラジの胸の内に去来するのは、父やアルタヤへの恩義である。

 グラジは思う。つくづく自分は恵まれている。こんなにも自分のことを思ってくれる人がいることに対する感謝の念は言葉では言い表し難い。何とかしてその恩義に報いたい。その恩義の報い方は、恩人の望みを実現すること以外に思い当たるものがない。もしアルタヤが、自分が差別や偏見から自由になることを望んでいるというならば、それに応えてみよう。それが本当の意味での彼らの望みに応えたことになるかどうかはわからない。わからないからこそ、手探りで色々試してみるほかにない。

「おじさん」

 グラジはアルタヤの前に進み出て立つ。アルタヤは体格の良い方ではあるが、グラジはそれ以上の体格をしている。

「正直に言えば、俺にはまだわかりません。どうしておじさんが俺に対してそこまでよくしてくれるのか。しかし、俺はやっぱりおじさんを裏切りたくないし、おじさんが困る顔も見たくないです。だから、今はまだ、おじさんが望むから、という理由でしか行動できません。でもいつか、自分の言葉で、おじさんと話ができる日が来たらいいなと、よくわからないしなんとなくだけど、思います」

 いつの間にかアルタヤから逸れていた目を戻してみると、アルタヤはグラジが今まで見たこともないくらい優しい顔をしていた。




 それから何度か、グラジはアルフィルクに頼まれて行動を共にする機会があった。しかし砂船が辿り着く先で砂鯨を目にすることはなく、大抵の場合は旅人や砂兎などの死体があるだけである。それどころか、死体を見つけられないこともたまにあった。しかし総じて言えば、マユワの指さした方角には何らかの生物の死体があった。これほどの確率で死体の在処を指し示せるのであれば、冥界の門が見えるという主張にもいくらか信憑性が出てこないでもない。

 最初に死体を発見したとき、まずマユワが一人で砂船を下りて歩いていく。「一人で行かせて危なくないのか」とアルフィルクに訊ねるが「大丈夫だ、問題ない」と呑気に構えている。マユワは何もないところで立ち止まり、数十分ほどただじっと佇んでいる。それから砂船の方に戻り、アルフィルクに何かを話しかける。何の話をしているのか。グラジが聞き耳を立ててみてもよくわからない。「あれはあの二人だけの特別な儀式みたいなものだよ」背後からルシャが言う。

 その後は死体に手を付けることになるのだが、その前には皆で死体に黙祷を捧げる。死体が人間でも、それ以外の生物でも平等に行う。それがグラジには解せなかった。

 死体は死を迎えた瞬間から死体だ。それが生きていたのはもはや過去のことであり、そこにあるのはただの肉塊でしかない。仮に魂というものがあると仮定するならば、そこにあるのはただの抜け殻だ。死に方によっては違うのかもしれないが、少なくともグラジが知る限り、死にゆく生物というものは風船から空気が抜けていくように、本人の意思にかかわらず生気を失っていくものだ。耳を劈く断末魔、死に抗おうともがく手足、そういったものが次第に弱くなっていき、やがてあらゆる活動が停止する。そのようにして生物は死体となる。その後は肉塊として朽ちていくのみである。だから、死体に何か祈りや願いを捧げたとしても、その死体に何かしらの変化が生じることはない。黙祷に費やす時間の分だけ、無駄に死体を痛めることになる。

「ま、効率性だけを考えたらそうなんだけどな」

「死んでいったものたちの孤独に寄り添いたいの。たとえ自己満足だとしても」

「立ち止まって、ゆっくり考えてみるのも悪くないんじゃないかな」

 グラジがふと疑問に思ったことを口にしてみると、三人から口々にそう言い返されてしまい、グラジは閉口してしまう。グラジ自身には理解しがたいことではあるが、黙祷することに意味や価値を見出す者がいることだけは理解した。

 街へ戻る砂船の上で、グラジはルシャと語り合う。グラジの生い立ちのことを語ることもあれば、ルシャの過去の話を聞くこともあった。冥界の門の前で死者の魂に触れた結果、左手の中指から冥府に属するものとなり、永遠に熱を失った代わりに、星を降らせる魔法を得たことも聞いた。

「嘘だと思う?」

 意地悪く笑うルシャは、グラジの手を取り、左手の中指を握らせた。ルシャの中指はグラジの手の熱を奪い続け、たしかに温まることはなかった。他の指はやがてグラジの体温と等しくなったというのに。

 それからルシャは中指を折り、星を一つ、二つと動かして見せた。中指の動きに応じて星が降る様は、とても不思議なものだった。

「世の中には不思議なことや、知らないことがいっぱいある。だから、面白いし、飽きない」

「そうだな」

「昔は、知らないことがあるというのが嫌で、たくさん勉強したわ。でも、『全てを知る』というのは不可能だと知った。そう悟ったら、もっとたくさん知らないことが出てきた」

「それでも、ルシャは俺よりもたくさんのことを知っている」

「そりゃ、たくさん勉強したもの。本当に、たくさん」

 ルシャは得意げだった。

 ――ねえ、知ってる?

 そんな切り出し方で、ルシャは古今東西の歴史的な出来事や自然の法則についてグラジに語る。ルシャの話は要領を得ないこともあったが、おおむねグラジにとっては新鮮であると同時に、長年疑問であったことに対する回答になることもしばしばあった。

 グラジの方からルシャに質問することもあった。そのすべてにルシャが満足に回答できるとは限らなかったが、ルシャは一生懸命自分の知る範囲のことでグラジのからの質問に回答した。

 ある時、ふとルシャはこう言った。

「大婆様のことを思い出すな」

「ルシャの育ての親だったという人か」

「そう。あの人は同時に私の先生でもあったんだよね。たくさんのことを教わったよ」

「まるで、今の俺とルシャの関係みたいなものか」

「そう! 私が先生で、グラジが生徒」

 人差し指を立てて声を弾ませた後、ルシャはグラジの方を見て提案する。

「そうだ、今度、文字の読み方と書き方を教えてあげる」

「それはありがたい」

「うん、それがいい。次までに勉強できるものを用意しておくね」

 ルシャの楽しげな顔。苦手だと感じていたその顔は、いつの間にか苦手ではなくなっていた。

「どうかした?」

「いや、なんでもない」

 そう、と呟いたそばからルシャは宙を見上げてグラジに文字の読み書きを教える段取りを考え始めていた。



(了)


2021年12月18日土曜日

砂漠の幻葬団(2. 流者)

 

  砂漠の幻葬団

 

   二.流者

 

 何故、人は『何故』と問い、理由を求めるのだろうか。理解し納得することは安心や喜び、満足などをもたらすが、突き詰めて言えば、その理由は本能に帰結する。人として生まれた以上、数多の知識を得てより高い視点に立ち、誰よりも彼方の地平の先を見たいと思うことは、根源的な欲求である。少なくともルシャにとっては、これが自身を支配する行動原理だった。いつからそうだったのかと問われれば、ルシャはこう答えるだろう。最初からだ、と。

 人が抱きうるありとあらゆる問いの中で、最も多くの人々の関心を引き、尚且つ解を得ることが困難なものは何か。それは、死後のことである。この世に生を受けた者は例外なくいずれ死を迎えるというのに、死んだ後のことは誰も何も知らない。この世には数多の宗教があり、いずれももっともらしい言説を唱えているが、その真偽は人類史が始まって以来未だ明らかになっていない。何故か。生から死へは常に一方通行だからだ。死の扉を開けることは容易いが、一度開けたら最後、何人たりとも引き返すことはできない。死後に何があるのかを報告する人も記録もないので、死後の世界は謎に包まれている。これほど身近にありながら正体がまるで明らかになっていないというのは、実に魅惑的だ。ルシャが死の虜になるのは必然だったと言えるだろう。

 

 物心がついた頃から、砂漠の娼館がルシャの家だった。女が中心となる世界だが、そこにルシャの実母はいない。実母が誰かも知らない。何人かいた似た境遇の孤児たちと一緒にルシャは育った。そこで育った孤児たちは、男児であればやがて娼館の小間使いか用心棒となり、女児であれば娼婦となるのが常である。子供たちは娼館の外に世界があることを知っていても、そこで生きる術は知らない。年上の兄さんたちや姉さんたちは、皆そうして生きてきた。

 孤児たちに言葉を教えたのは大婆と呼ばれる年老いた元娼婦だった。その娼館では三十歳を過ぎると客を取るのが難しくなり、三十五歳を過ぎればもはや娼館内に居場所がないのが普通なのだが、その大婆は五十歳を過ぎるまで数多の贔屓の良客を抱えていたという。

 何故彼女がその年まで娼婦として現役として活躍できたのか。答えはその知識と話術である。彼女は客から聞いた話や譲り受けた本を漏れなく記憶し、さらに、得た知識と知識を紐づけ演繹的に導出される確定的事実を踏まえることで、娼館に居ながらして地域の情勢や数多の自然法則など世界のあらゆることに精通していた。その知識を言葉巧みに物語に仕立て上げて語ることで客を楽しませていたのだ。時を重ねるごとに肉体は衰えるが、彼女の知識と話術はむしろ冴えわたるようになり、客たちの心を掴んで離さなかった。

 そんな昔話を年老いた大婆はルシャたちに聞かせ、最後にこう締め括るのだ。

「お前たちも必死で頭も働かせれば、私みたいに長生きできるんだ。男も女もみんなね、馬鹿な奴から死んでいくんだよ」

 客から性病をもらって娼婦として働けなくなった数多の女たち。取り入る相手を間違えて居場所を失った小間使いたち。あるいは相手の実力を見誤り、返り討ちにされた用心棒たち。大婆は早死にしていった者たちの名前を一人ずつ挙げていき、彼らがいかに愚かだったかをぶつぶつと呟く。そんな呟きを真面目に聞く必要はないので、孤児たちはそそくさと教室を後にするのだが、ルシャがそうしようとすると大婆に咎められるので、ルシャだけはじっと耳を傾けている。

 野生の世界では一度の失敗が命取りとなるように、娼館の世界でもたった一度のつまらない失敗で命を落としてしまうことは日常茶飯事であった。もっとも、他人の失敗に対して後から批評することは容易いが、判断の際にその選択が誤りであることが見えていないからこそ、誰も彼もが道を踏み外してきたのだ。もう少し思慮深ければ、過去の失敗例を知っていれば、避けられた不幸だっただろうに。しかし馬鹿どもは馬鹿であるが故にそれを怠ったのだ。目先の快楽に溺れ、研鑽を怠ったが故の、当然の結末である。人生には数多の分岐路があり、どの道も先は暗闇に閉ざされているが正解の道は常に一つである。か細く正しい道筋を照らすのは知恵という名の光なのである。

「ルシャ。お前は子供たちの中でも人一倍賢い子だ。きっとお前は私みたいに長生きするだろうよ」

 そう言って大婆はルシャの頭を撫でたが、その手は皺枯れて震えており、死の気配は確実に大婆の背後ににじり寄ってきていた。

 ルシャが数え年で十二を迎える頃から大婆は妄執に取りつかれるようになり、十三を過ぎた頃にはすっかり現実と妄想の区別がつかなくなっていた。そして十四のときにとうとう大婆は死んだ。最期は娼館の階段から転げ落ちて頭が割れるというものだった。ついに彼女は死から逃れることはできなかった。叡智の光が照らした道筋は細く細く伸び続けた結果、最後には途切れていたのだ。

 かつては賢者として敬愛された大婆だったが、晩年の奇行のせいで彼女の死を悼む者はほとんどいなかった。死体は葬られることなく生ごみ同様に扱われ、ごみ捨て場に捨てられた後は焼かれたか埋められたか、その行く末をルシャは知らない。

 

 さて時の針は少し巻き戻り、まだ大婆が呆けておらず、ルシャが数え年で十だった頃のことである。ルシャは高熱の病に侵され死にかけていた。原因は不明、五日経っても症状は悪化するばかりで、故に有効な手立ても見えない状況だった。医者は早々に匙を投げ、周りの大人たちも病をうつされてはかなわんとルシャを遠ざけた。それを見た子供たちも大人たちを真似て一切ルシャには近づこうとはしなかった。

 一人部屋の中、ルシャは意識が朦朧として何も考えられない。ただ漠然と、自分はこのまま死んでいくのだろうと感じていた。 大婆は「きっとお前は私みたいに長生きするだろう」と言っていたが、どうやらその予言は外れそうだ。

 死んだらどうなるのだろう。ルシャの知る死者はいつだって寂しく打ち捨てられていた。砂漠の真ん中に放り捨てられて、そのまま砂風に晒されるのだろうか、鼠に足を齧られたり鳥に目玉を突かれたりするのだろうか、そしてそのまま己という存在が消え失せていくのだろうか――怖かった。からっぽな穴に落ちていくようで、もう二度と戻ってこれないのが怖かった。ここはろくでもない場所だけど、命が惜しくないと思うほどには絶望していない。生き延びてやりたいことがあるわけでもなくとも、それでも、理由もなく死ぬのは怖かった。

 かみさま――もしもかみさまがいるのなら、私を助けてください。助けてくれるなら、何でも差し上げます……。

「ほう、何でもと言ったね」

 聞きなれた皺枯れた声。ずっと瞼は開いていたつもりだったが、ようやく頭が大婆の存在を認識したらしい。

「手に負えないと思ったら放ったらかしか。まったく酷い奴らだね。可哀想に、ルシャや。お前ほど賢い子でも運のなさには勝てないものだね」

 大婆様、助けて……。

「おっと、勘違いしないでおくれよ。私はお医者様じゃない。そのお医者様が駄目だと言ったのだから、お前はきっともう駄目なんだよ。私みたいなただの婆にできることなんざありゃしないよ。

 かかか、おそろしいか、怖いか。そうだろう、そうだろうねえ。でも、これがお前の運命なんだよ。諦めな。せめてお前がくたばるまで、私がそばに居てやろう。どんなに賢くても運が悪ければ死んでしまう、ということをこの目で確かめてやろうじゃないか」

 そう言って大婆はルシャの額の手ぬぐいを、新しく水で冷やしたものと取り換えた。小さく千切った柘榴をルシャの唇に当て、それからチーズをひと欠片口に押し込んだ。そんな介抱を一日に五度か六度ほど行い、その度に「お前はもうすぐ死んでしまうのだ、可哀想に、可哀想に」と呪いのように囁いた。

 死を目前に夢と現の間を往復していると、ルシャは自分の中にある魂の輪郭を感じられるようになる。暗黒の宇宙の中に浮かぶ茜色の小さな塊がルシャである。死が余計なものを削り取ったおかげで、今やその輪郭はくっきりと浮かび上がり、これ以上なく純度の高い魂となっていた。死の恐怖に精神を削がれてもなお最後まで残ったルシャの本質、それはすなわち自由であること。それこそが自分自身であることを悟った。ルシャは自分を束縛する一切のものを否定する。あらゆる理不尽に抵抗し、憤る。それがたとえ運命と呼ばれるような、人智を超えたものであったとしてもだ。

 なぜ私はこんなところで死ななければならないのか?

 その問いに対峙した時点で答えは出ていた。これが何人に一人がかかる病なのかは知らないが、自分が望んでその一人になった覚えがない以上、運命や運のなさといった思考放棄に陥る気はない。故に、ここで自分が死ぬこと自体が間違っている。ただし「かみさま」はルシャに理不尽を強いた側だ。医者も、周りの大人も、子どもたちも、自分を見放した側だ。頼れるのは自分しかいない。ルシャは自分の全存在を賭けて、この理不尽に抗わなければならない。

 ――かかか、そうだそうだ。賢さなんざそれ自体はただの張りぼてだ。内側に無尽の欲を抱えてこそ、それは初めて役に立つ。自分の欲を満たすという役に、ね……。

 はたして大婆が本当にそう言ったのかはわからないが、ルシャが死の淵から這い戻ると、大婆はじっとルシャの瞳を覗き込んでいた。

「戻ってこれたか。悪運の強い子だね。しかしそれもまた才能というやつだ。大事におしよ」

 ようやく上体を起こすことができるくらいまで回復した頃になって、大婆はおもむろに昔話を始めた。まだ十代だった頃に、彼女も大病を患い生死の境を彷徨ったのだという。寝て覚める度に、自分がまだ生きていることを確かめるために、心臓に手を当て百まで脈を数えた。そしてこう思ったのだという。

「こんなところで死んでなるものか、生きて、生き延びて、それで私を見捨てた連中を今度は私が見捨ててやるんだ、ってね。誰も自分のことなんか助けちゃくれない。この世で頼れる確かなものは、自分だけだ」

 だからお前は誰よりも強く賢くあらねばならないんだよ。

 大婆は魂の同士を得たかのような目でルシャを見つめたが、ルシャ自身は言葉にし難い違和感を覚えていた。しかしその正体が何であるかを言語化するにはまだルシャは幼かった。

 

 大婆が遺していった大量の書物は、結局ルシャが引き取ることになった。娼館の人々にとって大婆が遺した書物とは、彼女が打ち立てた功績の源泉となるものであったが、自分たちの手には余るもので、そのくせ煮ても焼いても食えず、買い取ってくれる商人もいないものだった。焼き払ってしまうことが一番簡単な処分方法であるとわかっていたが、簡単にそうしてしまっていいような代物ではないことくらいは、学ぶことを諦めた連中でもさすがに理解できたようだ。では、誰ならばあの紙の束を有効活用できるだろうか。大婆の最良の弟子たるルシャに委ねるのが良いだろう。そう結論付けられるのは必然だったと言えよう。

 かくして齢十四にしてルシャは娼館の中でもっとも上等な個室を得ることになった。そのせいで姉さんたちにはずいぶんいじめられることになったのだが、大量の知識に囲まれる生活の有難味に比べれば取るに足らないことである。

 壁を埋め尽くす十台の本棚にはほとんど隙間なく書物が詰め込まれていた。古今東西の自然科学、歴史、文化、芸能など、内容に選り好みの痕跡は見られなかった。基準は世界の在り様を明らかにするものであるか否か、ただそれだけである。これらは大婆が人生をかけて集めてきたものだった。数多の男たちが、大婆の気を惹こうとして貢いだのだろうが、彼女のお眼鏡にかなったものだけが本棚に居場所を得ることができたのだった。

 手に取った書物の全てに大婆の注釈やメモがそこかしこに記入されていた。そこから窺い知れる彼女の思考は一貫して、いかに世界の仕組みを明らかにするかに向けられていた。しかしその動機は、彼女がかつて述べたところの「私を見捨てた連中」への復讐であり、何をどう語れば客どもが喜ぶかを考察する記述も多々見受けられた。良客を抱えて娼館一の稼ぎ頭になれば周囲から尊敬もされるだろうし、事実彼女はそうだった。しかしせっかくの知識を復讐のために使うのはとてもつまらないことだとルシャは思うが、大婆にとってはつまらなくない大事なことだったのだろうとも思う。どうしたって自分が大婆と同じにはならないだろうと悟るのは、そういう時だ。

 大婆と同じにならないのであれば、自分は一体何者になるのだろうか――茫洋たる知識の大海を泳ぎながら考えるが、ついぞ答えは得られない。ただ、「私は私にしかならない」ことだけがわかっていた。少なくとも、ルシャは知識をただの道具のようには扱わない。

 まだ大婆が健在だった頃、彼女が教室でルシャたちに語って聞かせた世界の在り様は、数多の法則が織り糸の如く縦横に交差する一枚の巨大なタペストリーのようだった。近づいて見てみればミニアチュールのように小さな法則の一つ一つが絡み合って事象を形成しているが、一方で、引いて見てみれば破綻も無駄もない完璧な一枚絵がそこにある。調和と秩序によって裏打ちされた美しさは、幼いルシャの心を十二分に掴んだものだ。そんな美しいものをどうしてただの道具のように扱えようものか。

 姉さんたちが客と行為に及んでいる間の真夜中に、ランプの灯りを頼りにページを捲る。その時だけは、窓から香る甘ったるい匂いも気にならなかった。

 

 十六になり、ルシャは初めての客を取った。しかしその客は記憶にも残らない男だった。かろうじて、貧相な体の弱気な青年だったことだけは覚えている。商家の三男坊だったか。使い慣れない口説き文句でルシャの容姿を褒めていたような気もするが、何と言っていたのかは思い出せないし、そもそも記憶に留めておく気すらなかった。

 それから何人かの客を取っていくうちに、ルシャはいくつかのことに気付いた。一つ目、男とは存外純朴な生き物らしく、下手な口説き文句でもルシャが微笑んで「嬉しい」と言うと、二歳か三歳の子供よりも素直に鵜呑みにすること。二つ目、何を根拠としているのかは知らないが、ルシャよりも自分の方が優れた存在だと信じて疑わないこと。そして三つ目、彼らにとっての世界とは目に見える範囲のことしか指さないということ。ルシャの倍以上長生きしていてもその程度のことしか知らず考えないというのは、驚き呆れることではあったが、娼館で生きる姉さんや兄さんたちのことを思えば、むしろそれが普通のことなのだろうと合点が行った。あの大婆ですら、魂の品格という点でいえば彼らと大差なかったのだから。ほんの少しでも甘い期待を抱いていた自分と決別することができた、という意味では必要な学びだったと言えるのかもしれない。

 近頃は娼館が狭く感じられるようになってきた。娼館は鳥籠に似て、中にいる間はやり方を間違えない限り平和だが、自由はない。窓の外は、いくつかの建物を除けば、ただ空と砂漠が広がるのみであるが、それが世界の全てではないことをルシャは知っている。その彼方には広大な世界があることを知っている。自分とは異なる人種の人々がおり、異なる文化が栄えていることを知っている。しかしそれらは大婆がそう語ったから、大婆の遺した書物にそう書いてあったから知っているだけで、ルシャが自分の目で確かめたわけではない。

 ルシャは想像する。空の下、大手を広げて歩く自分を。五感の全てで未知の世界を体験し、見知らぬ人々と語り合う。魅惑的な話を聞く代価は自分が持つ知識を披露することであり、決して自分自身の体ではない。広い世界のどこかには知識とはそれ自体が貴ぶべきものであると理解している人がいるはずで、そういう人と出会えたらどんなに素晴らしいことだろう。そうでなくても、せめて、自分の外見ではなく内面に関心を払ってくれる人がいたらどんなに。

 思いがけずか弱い自分を発見し、まだ可愛いところもあるものだと感心するが、それは同時に忌むべきものでもある。しかし存在を否定すべきものではない。認識し、超越すべきものである。

「十八歳。そのときまでに、一人で生きていくためのものの全てを手に入れる」

 悲痛な声で泣き叫ぶ自分の中の自分に言い聞かせるように、ルシャは呟いた。自分を買い取るだけの金とそれに代わる金目の宝石等、広い砂漠を旅するための知識と装備、そして自分が最期まで自分自身であるための揺るぎない意思と覚悟。そのためには、大婆の遺した知識は残らず自分のものにして、自分の手足として使えるようにならなければならない。

 そう考えれば残された時間は決して長くないし、心の痛みに苦しんでいる時間すら惜しい。ルシャは読みかけていた本と向き合い、大婆の注釈を咀嚼しながら文章を読み進めていく。言葉の一つ一つがルシャに浸透して血肉となる。

 

 

 ルシャが十七歳と少しになった頃にルシャの運命を変えることなる男はやってきた。男はぼろぼろのマントを頭からかぶっていた。浮浪者だろうか。番をしていた兄さんなら追い払うはずだが、何やら上機嫌で男を館内に連れてきた。ルシャは吹き抜けの受付場を五階の欄干から見ていた。

「一晩泊まらせてほしい。代金はこれで足りるだろうか」

 ドン、と重い響きを伴わせて金の詰まった袋を台の上に置く。なるほど、兄さんもいくらか握らせてもらえたのだろう、とルシャは合点がいった。娼館の長を務める婆も気味が悪いほどに愛想の良く甘ったるい声を出す。

「どんな娘をご所望で」

「大人しくて口数の少ない娘がいい」

「左様でございますか、ええ、ではすぐに向かわせますので、部屋でお待ちください」

 ルシャは身支度を整えるべく自室に戻る。あのような客は姉さんたちが最も警戒する類のものなので、必然的にルシャが相手をすることになる。身なりに似合わない大金は大抵の場合汚れているものだ。

「ルシャ、お客様だよ。大人しくて口数の少ない小娘をご所望だ」

 そう振舞えと言われて振舞うぐらい造作もないことだ。気弱で小動物のような小娘がこの世界で生きていけるはずなどないのだが、客が望むのならばそれに合わせるのも仕事である。

 

 ルシャが部屋の前に着くと、ちょうど湯運びの妹と入れ違いになったところだった。

「お疲れ様」

 妹は小さく頭を下げて去っていった。彼女がまだ幼い頃には、ルシャがおしめを替えてやったこともある。

 さて。深呼吸をして、気持ちを整える。大人しくて口数の少ない娘の皮をかぶる。そのような娘ならば、するであろうこと、言葉づかい、反応を想像し、態度で形にする。

「失礼します」

 いつもより少し高めの、小さな声色で声をかけ、部屋の中に入る。男はぼろのマントを床に放り捨て、布で自分の体を拭っているところだった。赤銅色の肌、白髪、顔全体に深く刻まれた皺はまさしく老人なのだが、首から下の肉体は無駄なく鍛え上げられており、顔つきよりもずっと若いことを想像させる。長くなった無精髭はそれだけ長旅をしてきた証拠なのだろう。

「来てもらったところ申し訳ないが、貴女にやってほしいことは何もない。強いて言えば、何もしないことを頼みたい」

 何もしないとは何か。

 すなわち行為をしないことはもちろん、何も訊ねず、しかし部屋からも去らず、ただそこに居ること。部屋の外の監視役たちの目を騙し、滞りなく行為がなされているように見せかけ、普通の客を装うこと。そうして彼に自分一人の時間を作らせること。寝るか、何か作業をするかまでは図りかねるが、いずれにせよルシャに期待されているのはそのようなことなのだろう。ただし、そのような時間と空間は、彼にとっては大金を払う価値のあるもののようだった。

「承知しました。では窓辺の席だけお借りしますね」

「なるほど、貴女はずいぶん聡い人のようだ。話が早くて助かる」

「何か飲み物や食べ物が必要になったらどうぞ遠慮なく申し付けください」

「貴女も自分の欲しいものがあれば用意するといい」

「お気遣いいただきありがとうございます」

 男は黙々と湯と布で体を清めていく。ナイフを剃刀代わりにして、器用に髭を剃っていく。長く伸びた髪を紐で一本にまとめて結い上げれば、険しい眼光の奥に澄んだ理知の片鱗が見えるようになる。

「若い娘さんにじろじろと見られるのは恥ずかしいものだな」

 言われて初めてルシャは男を凝視していたことに気付き、慌てて目を逸らした。

 男は灯りを消すと、そのまま寝入ってしまった。男の寝息は静かであった。

 娼館に来て行為に及ばない客というのは決して珍しいことではなかった。宿代わりに娼館を使う場合もあるし、客自身が肉体的に不能で雰囲気だけ味わいに来る場合もあるし、あるいは何か預かり物や伝言を頼まれる場合がないこともない。理由が何であれ、客の事情に干渉しないのはルシャたちにとって確実に守るべき教訓のひとつである。しかしこの男の場合、宿代わりに娼館を使っているのだが、振舞いは今まで見てきたどの客よりも上品であり、口ぶりの端々から知性がにじみ出ている。

 この人は一体何者なのだろう。

 寝息が深いことを確かめて、ルシャはそっと立ち上がる。顔が月明かりから隠れたところにあるせいで、顔つきはよく見えない。荷物は大きな革袋が一つ、遠目にもずいぶん年季が入っているのがわかる。客に興味を持たないのは娼館で長生きするための知恵であるが、一度芽生えた好奇心はすくすくと育っていく。この人はどのような世界で生きている人なのだろう。

「貴女は口数こそ少ないが、大人しくはないようだ」

 目を閉じたまま、小さいがはっきりとした声で男は言った。

「私のような客は、たしかに変わっているかもしれないが、別に珍しくはないだろう」

「貴方ほど自分を特別と思わないお客様は珍しいですよ」

「なるほど、それはそうかもしれない。いや、貴女がそう言うのならそうなのだろう」

 男は身を起こすと、これまでの自分の旅路を語りだした。合間を見て「なぜ突然そんな話を」とルシャが訊けば「貴女の顔にそう書いてあったから」と事も無げに答える。別に隠すようなことでもないからね。と添えて。

 男は魔術師だった。東の国から西の国へ渡る途中だったという。知人の紹介で西の国のとある侯爵に招聘されるのだそうだ。彼は星天の位相からその人の運命を予知し、伝えることができる。運命が見えない人にとってはそれだけでも十分に価値ある情報だが、しかしそれだけではただの占星術師でしかない。男が魔術師である所以は、運命を読み取ることに加えて、魔術の力で星天の配置を操作し、人の運命を変えることができる点にある。その人が巨万の富を望むのならばそのように星天の位相を変えてやればいいし、戦での勝利を願うならばその未来に導けるようにしてやればいい。

「では、貴方は自分の未来も望むがままにできるのですね」

「この魔術は自分には使うことができないものなのだよ。世界というのは実にうまくできている。法則を知ることは、本当の意味での魔法の力を失うことなのだ」

「あら、そういうものですか」

 法則、すなわち世界を動かす仕組みを知らない人にとっては魔法であり、知っている人にとっては魔法ではない。魔法ではないそれはつまり彼のみが知っている知識や知恵である。

「もし法則を知ることができたのならば、それは他のあらゆる望みも及ばないほど幸せなことなのでしょうね」

「ほう、貴女はそう思うのか」

 顔を近づけ問いかける男の目がルシャの中にある何かを確かめようとしている。ルシャは思わず後ずさりしたが、そのことに気付かないほど無意識的な反応だった。

 どう返事をするかで、ルシャの運命は大きく分かれるだろう。

 そう直観的に予感した。ほんの一瞬だけたじろいだものの、しかし返すべき答えは揺るがない。思えば高熱で死にかけたあの日から、ルシャが進むべき道は決まっていて、あとはそれをどう歩くかだけが人生で考えるべきことだった。ルシャは唾をのみ込み、唇を開く。

「はい」

「ふむ、そうか、そうか――そうだとするならば、さぞかしここは生きにくい場所だろうね。貴女のような人が何も思わないわけがないだろうから」

 それは男の率直な感想だったのだが、岩に水が浸みるようにルシャの心に響いていく。生きにくい、ああ確かにそうだ、ずっと感じてきたあの感覚はそう表現すればよかったのか――しかし、こういうときほど自分の心を無防備にしてはならないのだ。いつでも逃げられるように退路だけは確保しておかなければならない。勘の良い娼婦が男の望む答えを口にしているだけである可能性を捨てさせてはならない。

 そんなルシャの葛藤すらも男は見抜き、そして気付かないふりをしてくれる。ルシャはついに観念する。今の自分はこの人には敵わない、と。この人に嘘やごまかしは通用しない。

「――実は、十八になったらここを出ていこうと考えています」

「なぜ十八歳まで待つ必要がある?」

「小娘一人が鳥籠を出て生きていくためには相応の備えが必要でしょうから」

「はたして本当にそうだろうか。どんな備えをしても死ぬときは死ぬだろう。金も尽きればおしまいだ。貴女もそれがわかっているから、とりあえず十八歳までは我慢しようなどと自分に嘘をついてごまかしているのだね」

「嘘だなんて」

「では十八歳までに具体的に何をどれだけ準備するつもりだったのだろうね。路銀はいくら用意して、尽きた後はどう生計を立てるつもりだったのか。水や食料の継続的な入手方法は。考えれば備えに十分な水準などないことぐらいわかるだろう」

「……つまり女一人が娼館を離れて生きるのは無理だということですか」

「無理だ。もとい、男一人でも無理な話だがね――誰にも無理なことだから、人は社会という共同体を作ってきたのだよ。貴女に必要なのは志を共にできる仲間であり、それを得るための人との関わり方だ。貴女は真理に憧れる以前にただの人間に過ぎないのだということを、もっと自覚するべきだね」

 使っている言葉こそ直接的で容赦ないが、それに反して口ぶりは優しく諭すようだった。ルシャは父も母も知らないが、もし父親というものがいたとしたらこのように叱られたのだろうかと錯覚しそうになる。口に出せばいよいよ後戻りができなくなると予感しつつ、ルシャは問わざるを得ない。

「私はどうすればいいのでしょう」

「私ならば貴女をここから連れ出すことができる。ありがたいことに金に困らない暮らしはしているからね」

「そうすることに、貴方にどのような利があるのでしょう」

「知を貴ぶ同志が鳥籠から解き放たれて自由になること以上に喜ばしいことはない」

 嘘だ。

「もし一緒に来るならば、私が知っている秘密を貴女に教えてあげよう。この秘密を私一人だけのものにしておくのは、いい加減荷が重たかったところなのでね――まあ、考えてみるといい。もし仮に私が話していないことがあったとしても、貴女が選ぶべき道がどちらかは自明だと思うがね。転機は突然訪れるものだし、もし人生で備えるべきことがあるとすれば、こういう突然の転機に対して自分がどう振舞うかを覚悟しておくことだ。金も仲間も覚悟の後からついてくる」

 明日の日没後、私は発つ――それまでに貴女が意思を示すならば、私が貴女の身請けをしよう。

 そう言い残して男は再び横になった。

 

 こういうとき、大婆ならどうするのだろう。ルシャは考える。おそらく、いや間違いなく、断るだろう。大金を出してルシャの身請けをすることに一体何の得があるものか。同志が自由になること、と男は言ったがそれはどう考えても割に合っていない。そして何よりも、もし男とルシャの本質が類似しているのであれば、志を同じくする者と連帯することに意義は見出さないはずだ。求道者は誰も歩かない道を往くからこそ常に孤独であるし、孤独であることを厭うならばそもそも道を求めない。孤独の痛みに苦悶することはあっても、孤独から逃れたいとは決して思わない。故に、男の言う身請けの理由は嘘で、真意は別にある。そして、男はルシャがそれを看破することも見透かしており、それでもなおルシャが自分と共に行くことを確信している。

 ルシャは窓辺で月を見上げる。冷えた柘榴を口に運ぶ。甘みと酸味が喉を下るのを感じる。やはり自分と大婆は違う道を行くことになるのだ。いつかは大婆と道を違えるとは予感していたが、それがこんなにも早いタイミングで訪れるとは思っていなかった。しかし男の言葉を借りれば、転機とは突然訪れるものなのだ。金も仲間も後からついてくる。ルシャが進むべき道は決まっていて、あとはそれをどう歩くかだけが人生で考えるべきことだ。

 このまま娼館の中で飼い殺されることと、一人で砂漠に飛び出して野垂れ死ぬことと、素性の知れない男の甘言に乗って死ぬのと、どれがまだ望ましい死に方か。せめて自分が腹を括って選んだ死に方でありたいものだ。

 指についた柘榴の汁を舐め取ると、ルシャはそっと部屋を抜け出し自室に戻っていった。旅に用意すべきものはほとんどなく身一つでいいが、妹たちに残せるものがあれば選んで残してやりたかった。十八歳の旅立ちの日に向けて貯め込んでいた宝石や貴金属など、上等なものはほとんどないが、美しいものに憧れる子供にとってはきっと価値あるものだろうから。そうしてルシャは子供たちの寝室をまわって贈り物を枕元に置いてやる。実際に喜ばれるかどうかは知らない。

 

「身支度は済んだかね」

「着替えぐらいしか用意すべきものがないですから、すぐに終わりました。それから妹たちにお別れもしてきました」

「そうか」

 部屋に戻ると男は目を覚まし、蠟燭の灯りを頼りに本を読んでいるところだった。

「朝になったら、ええと名前は知らないが、あの一番偉い婆さんに貴女の身請けをする旨を伝えておこう」

「きっと喜ぶでしょうね」

「そうなのか」

「私、どうやら娼婦としてはあまり優秀ではなかったようなので」

「人には得手不得手というものがあるからね」

「――あの」

「なんだね」

「今さらですが、私、これから貴方を何とお呼びしたらよろしいでしょうか」

「そうか。お互い名前も名乗ってなかったか」

 名前も知らない人間同士が身請けに合意するというのも馬鹿な話だな、と男は苦笑した。

「ズィブと呼んでくれ。貴女は」

「ルシャと申します」

「ああ、西方の国の言葉では『光』という意味だそうだね」

「はい、もう亡くなってしまいましたが、育ての親がつけてくれた名前です」

「なるほど。東方の国の言葉では、さすらう人、という意味にも取れるね」

「あら、そうなのですか」

「こう書くんだ」

 ズィブはルシャを呼び寄せると、机の上に指で文字を書いた。生憎ルシャは東方の文字まではわからなかったが、流者、と書いたらしい。

「光を求めてさすらう人とはなかなか面白いですね」

「あるいはさすらってついに光を得る人かもしれないね」

 つまらない言葉遊びだ、とお互い鼻で笑い合う。

「ズィブさんのお名前の由来は」

「どこかの国の言葉で嘘つきという意味らしいね」

「まあ。少しくらい隠そうとしたっていいのでは」

「すでに知られてしまっているものを隠す意味はないだろう」

 そう言ってズィブは肩をすくめた。

 夜が明け、日が暮れてルシャが娼館を発つ時間となった。結局いくらでルシャの身請けが成立したのかルシャは知らない。べらぼうに高くはなかっただろうが、極端に安いこともないだろう。ただ、婆の満足げな顔を見れば、相場よりもいくらか色がついたのだろうということは察せられる。ズィブはまるで気に留めていないようではあったが。

「お前を貰ってくれるなんて良い御仁だね」

「ええ、この機を逃すと二度と来ないような気がして」

「そうかい。ま、うまくおやりよ」

 ズィブが呼びつけた鯨車に御者の手を借りて乗り込んだ。揺られ始めてから振り返ってみれば見送ってくれる人は誰もいなかった。

 

 それからルシャはズィブに連れられて砂漠中を旅してまわった。西の国の侯爵に招聘されて赴く途中だったと聞いた記憶があるが、旅路は南北を往復し、時には東に進路を取ることもあった。しかし全体的に見れば、少しずつ西方へ向かっていた。別に急ぐ話でもないからね、とズィブが笑って言ったのは半年が経った頃だったか。

 ズィブは砂鯨の背の上で自分の知ることを惜しげもなくルシャに語って聞かせた。大婆の遺した書物の記述と一致するものも数多くあったが、やはり初めて知ることも多く、知識を得る度に世界はますます広くなっていった。ルシャが疑問に思ったことには丁寧に答えてくれたし、答えがない問いには互いの頭が回らなくなるまで付き合ってくれた。

 よく晴れた雲のない夜には星天を操る魔術も見せてくれた。あそこ、と無数にある星から一つ選んで指さし、上から下へ指をおろすと、見えない糸に引っ張られるように星が白い軌跡を描いて夜空を滑り落ちた。ルシャも真似して指を走らせてみるが、虚しく宙を切るだけで、遥か彼方で星々は燦々と輝いている。

「形だけ真似しても駄目だ。目で見て、目で見えないものを視るのだよ。見えるものは全体の中の、ほんの一部にしか過ぎない。見えないところでもきちんと法則は働いているのだから」

 ズィブが星を降らせるとき、その背後ではどのような力学が作用して、ズィブの指はその力学のどの一端に働きかけているのか。

「知らないことだらけだろう。本を見ても、人の話を聞いても、知らないことわからないことばかりがルシャの目の前に現れる」

「うん、おかげで飽きない」

「無邪気なものだね。けれど、いつかそれが歯痒く感じられる時が来るだろう。手っ取り早く答えが知りたくなる時が来るだろう。それが知られるなら悪魔に魂を売り渡してもいいと思える時が来るだろう」

「とうの昔に売り渡したつもりでいたけれど」

「私なんか取るに足らないつまらない人間さ。本物に失礼が過ぎる」

 ズィブが指を振ると、その指先の軌道に合わせて星が夜空を踊った。ルシャはその不思議を解き明かせずにいる。

 

 ズィブという新たな師を得てルシャはずいぶん多くのことを知り、相対的に知らないことは少なくなってきたように感じられてきた。もちろんそれはただの錯覚でしかないし、一度熟考した問題も考察の視座を変えてみれば新たな気付きがあるものだ。しかしそれでも、世界に対する新鮮味が薄れてきたように感じてしまう自分がいることも事実だった。そうなれば自ずとズィブと交わすべき言葉も減る。気付けば三日間口をきいていなかったということも珍しくない。

 ズィブの魔術の秘密は相変わらずわからないままだったが、一方で、ズィブの魔術は星を動かす以外のことは何もできないものらしいことも察せられた。ただ、天で瞬く星の光を上から下へ、右から左へ、ずらして見せることそれ以上でも以下でもない。もちろんそれだけでも十分恐ろしいことなのだが、しかしそれだけだ。

「つまらないことだと思うかね」

「星を動かせるなら他にももっと色々できそうなものだって思うよ、正直」

「そうだね。でも、私に許されたのはここまでだったんだ」

「悪魔と交わした契約」

「そう。私が差し出した価値がその程度のものだったということだ」

 ズィブの語る悪魔とやらが何かの比喩なのか、あるいは文字通りそのままのことを指しているのかルシャにはわからない。しかしズィブの表現をそのまま引用すれば以下の通りである。かつてズィブが占星術師として駆け出しだった頃、若かった彼は星天の真理を欲するあまり、悪魔の囁きに耳を傾けてしまった。悪魔はズィブが気付いた時には背後に立っていて、真理の扉に触れる機会の代償にズィブの一部と悪魔の一部を交換することを要求してきた。

「交換のチャンスは一度だけで、当然やり直すことはできない。何を差し出せばどの程度の見返りがあるのかもわからない。ただ、差し出したものが自分にとって重要であればあるほど、悪魔が私に与えてくれるものは真理に近づきうるものだという。要は、真理に近づけるかもしれないという根拠もない可能性のために、自分自身にどの程度の犠牲を強いることができるか、ということが問われていたわけだ。ああ、そうだとも、こんな話に耳を傾けること自体がばかげている。ばかげていたんだ」

「でも、貴方は悪魔に自分の一部を差し出した」

「そう、自分の舌をだ」

 ズィブが口を開けて舌を出すと、それは細長く顎の下まで伸びて、全体が濃緑色に染まり、先端は深く割れていた。明らかに人間のものではないが、普段、喋っているぶんには他者に気付かれることはまずない。

「この舌を得て以来、何を食べても砂を噛んでいるようだし、何を飲んでも泥水を舐めているように感じられたのだ。でも、この秘密は誰にも知られるわけにはいかなかった。だから、人と食事の席を共にするときなどは、必死で笑顔を繕ったものだよ」

 悪魔は人間の舌を得て、さぞ食事の喜びを知ったことだろう。魔界で自慢して見せびらかしていたかもしれない。

「ルシャ、君は私の話が嘘だと思うかね。この舌も、星を動かす力も、ただのつまらない手品だと思うかね。私の話を信じてくれるだろうか。いや、信じてくれなくても、悪魔はたしかに存在したし、私は真理の扉の一端に触れることができた。そして星を動かす術を知ったのだ。これは確かな事実なのだ」

 この話をするとき、ズィブは幼く怯えた子供のような目をする。ルシャの細い腕にすがりついてくる。ルシャはズィブの頭を抱いてやり、白髪に覆われた頭を撫でてやる。ズィブはルシャの腕の中で、自分の身に起きたことを整理しようと努めるが最後には疲れて眠ってしまう。そして悪夢にうなされる。そんな様子を見ていると、ルシャは人の心がいかに脆くはかないものであるかを思い知らされる。

 ルシャがズィブの言い分をそのまま信じているかと問われれば、答えは否である。確かなことはズィブが任意に星を動かすことができる、正確には動かしているように見せることができること。そして、ズィブの舌が決して作り物ではなく、たしかに本物であること。その二点のみである。この二点の間に関係性があるとすれば暗喩に満ちたズィブの話が答えであろう。しかし、そもそもこれらを関連付けることが適切かどうかもわからない。ただ確かなのは、ルシャが普通に生きている限り、絶対に知りえない法則が存在していることだけだ。この世のあらかたのことを知り尽くしてしまった今、明かされていない謎は明かされていないというだけで魅力的だ。自分はなんと愚かなのだろうとルシャは自虐的に笑む。

 このようにしてズィブの秘密を共有したことで、ルシャとズィブの旅の目的の半分は達せられた。旅の終焉がそう遠くないことはおのずとお互い察せられることだった。

 

 ルシャたちが砂漠の西端の街を訪れたとき、街は聖人の再生を祝う祭りの最中にあった。誰も彼もが花冠を頭に乗せている。砂漠の街にあって色鮮やかな光景を目にできるのは、それだけ西の国が近く生花を輸入することができるからだ。

 思わず「綺麗」と呟いたルシャに、ズィブは「何がいい?」と声をかけるが、ルシャは黙って首を横に振る。

 宿に入り、食堂でルシャは羊の肉のスープを飲む。ズィブは水を飲む。他愛もない話をするが、すぐ会話は途切れてしまう。旅を始めてもう一年半になった。

「君に渡したいものがある」

 意を決したズィブの申し出にルシャは思わず身を固くするが、いつか訪れる未来がついに訪れたのだと思えば、あとは腹を括る他にない。

「一年半。君にとってどうだったかはわからないけど、私にとってはあっという間だった。しかし、とても充実した時間だった。長い時を生き、これからも生き続ける私にとって、君と過ごした日々は忘れ得ぬものとなることだろう。

 君が真に私と秘密を共有するに足る人物かどうか、見定めようとしてきたけど、ついに答えは出た。君は合格だ。君は知識への敬意を常に持ち、驕れることなく、しかし卑屈になりすぎることもなく、真理を求め続けてきた。学知の信徒として模範とも呼べる生徒だった。もう私から君に伝えるべきことは何もない。君はもう幼い女の子ではなく、世界の厳しさを知ったうえで己の意思で道を決めて、決めた通りに道を歩く力を得ている。君ならもう一人で新しい仲間を見つけて、自分の人生を生きることができるだろう」

 周囲の喧騒は遠のき、ズィブの言葉がまっすぐルシャの耳に届く。一年半の年月を経て、ズィブはいくらかくたびれて老けたように見える。

 ズィブは懐から小さな袋を取り出した。手のひら大のその口は麻紐で固く結ばれている。

「これは?」

「悪魔と邂逅を果たすための秘薬だよ。かつて私に世界の秘密の一部を教えてくれた悪魔だ」

「大昔に貴方はこれを使ったのね」

「古代の王国の遺跡を訪れたときに見つけたものだよ。伝承が真実かどうかは自分で試してみるしかなかった。結果はろくなものでなかったがね」

「そんなものを愛弟子に送るなんて、ひどいお師匠様だわ」

「だから分別がつくまで待ったんだ――人が観測し分析できる範疇のことであれば言葉で教えることができるが、そうでないものはそれができないのでね。もし君が、人の道を踏み外してでも真理を求めるというならば、選択肢ぐらいは用意してやろうと。それが、私が君に与えられる最後のものだ」

「貴方は私にどうしてほしいの?」

「自由であってほしい。あの娼館という鳥籠が君にとって手狭だったように、そろそろ私と共にいるのも、君という鳥にとっては手狭になる頃だ。だからこれを手向けとして、終わりにしよう」

「そう、わかったわ」

「恋人たちの別れ話みたいだ」

「キスもしたことないのにね」

 馬鹿々々しい、下らないと肩をすくめ合い、杯を掲げて酒と水をそれぞれ飲み下した。

 

 匙で一掬い分の粉を水に溶かし、飲み下す。それだけで魂は肉体を離れ、不可知の事柄に触れることができるようになる。特別な儀式も呪文も要らない。

 簡単だろう。ええ、簡単すぎて拍子抜けするくらい。

「やめるなら今のうちだが」

「私ならやると確信しているから秘薬を渡したのでしょう。こうなると見込んだから、私の身請けをしたのでしょう。何を今更」

「いくら私でも、そこまで思い切りよくはできないな」

 宿屋の一室。二人部屋のベッドにルシャとズィブは並んで座っていた。祭りは日が暮れてからもなお賑やかで、喧騒は止む気配がない。月明かりとかがり火の光が窓の外から差し込むおかげで、室内は灯りをともさずとも手元が十分に見えている。

「ルシャ、君は悪魔に何を願う」

「死の向こう側。死んだ後のことはどうしてもわからないから」

「そうか」

 幸運を祈る、とズィブが言ったことを最後に二人の会話は途切れた。ルシャの手には粉を溶かした水が入ったコップがある。これを飲み干せばいいだけだ。

 意を決し、一気に水を飲み干した。いくらか苦味があった以外はただの水と変わりないように感じられる。何も起こらない。拍子抜けしてズィブに声をかけようとして、異変は唐突に訪れた。胃の底が熱く焼けるようで、心臓が激しく鼓動を始める。汗が全身から噴き出す。しかし深夜に行く砂漠のように肌寒く、視界は明滅する。ズィブが何か叫んでいるようだが、耳鳴りがひどくて聞き取れない。全身の感覚が失われゆく中で、せめて呼吸だけはと肺に空気を送り込む。そこから先のことは覚えていない。真理に憧れる以前に、自分は所詮ただの人間に過ぎないという、自明の事実を今更認識するという愚かさが、意識が途切れる直前ルシャの胸の中にあったことだった。

 

 

 うすぼんやりとした意識の中、ルシャは舟に乗っていた。ルシャ自身は舟に乗った経験がないのだが、書物で得た知識から察するに、舟に揺られるとはこういうことなのだろうと感じられるような揺られ方だった。

 手首にかけられた枷は誰がいつ着けたものなのか。よくよく見てみれば今自分は灰色の襤褸を身にまとっている。

 自身の状況が明らかになるにつれ、周りの状況も明らかになってくる。薄灰色の空の下、濃灰色の泥の沼を、白色の舟が泳いでいく。振り返れば、ルシャと同じく襤褸を頭からかぶった骸骨がおり、枯れ枝のような櫂を操っていた。ルシャは声を出そうとして、声が失われていることに気付いた。足首には鎖と重石がつながれており、逃げることは叶わない。

 ああ、ルシャ。愚かなルシャや。お前は賢い子だと思っていたのにねえ……。

 ねっとりと耳にまとわりつくような声は忘れようもない。ルシャの最初の師にして、誰よりも死を恐れ、そしてついに死から逃れることのできなかった大婆である。どこから聞こえるのか。舟を漕ぐ髑髏の空洞の喉からだ。

 どうしてこっちに来ちまったんだい。お前はみっともなく「かみさま」に縋ってまで死から逃れたいと思っていたじゃないか。それがどうして自分から冥界の門に赴くような真似をしちまったんだい……そうさねえ、お前が馬鹿だからだ。どうしようもない大馬鹿者だからだねえ。

 反論を試みようにも、声が失われて手足も縛られているのだから、どうにもすることができない。ただ大婆の侮蔑と呪いの言葉を浴びるがままにしていることしかできない。お前は馬鹿だ、愚かだ、と延々と罵られていると心がみるみる間に衰弱していくのがわかる。零せる涙もない。

 ――どうだい、ここがお前の願った「死の向こう側」だよ。何も無いだろう。まぁ、正確にはまだ「向こう側」ではないんだがね、大した違いじゃあない。お前はこれから冥界の門を抜けて、冥府に行くんだ。そこでお前の魂を炉に溶かして、いよいよお前という存在が消えてなくなるのさ……ま、お前が死の奴隷になりたいと願うのなら話は別だ。魂の消滅を免れる代わりに冥府の住人と契約を交わせば、お前の魂は一旦助かるだろうよ……ああそうさ、私がそうしたようにねえ……。

 からからから、という音は大婆の笑い声か、風で骨と骨がぶつかり合う音だったか。大婆が冥界の門の名を口にしたときから、舳先の指し示す方角にうっすらと巨大な門の陰が見えていたが、ルシャが門の存在の認識を強めれば強めるほどに、門はくっきりと輪郭を浮かび上がらせていった。あの門をくぐればいよいよ戻れなくなるということは、本能的に察せられた。しかし、察したところで抗う術はない。

 りん、と鈴の音。

 不意にルシャの耳に届く。それは涼しく鮮やかな青色の音だった。鈴の音はたちまち視界全体を覆っていた灰色を押し流し、本来の正しくあるべき色と姿に塗り替えていく。すなわち、空は雲一つない透明で濃い青色に、沼は消え失せ黄色い砂漠に、ルシャは枷や鎖で縛られてなどおらず、襤褸は下ろしたての白紗のローブである。乾いた風が吹き抜けて、大婆のふりをした骸骨は砂となり崩れていった。白銀色の美しい門がルシャの目の前に立っている。

 鈴の音がもう一度。ルシャの意識は完全に覚醒し、宿の一室で意識を失う直前にことも思い出していた。幻覚薬と毒薬を混ぜ合わせて秘薬と呼んだものを飲んだ後、ルシャは人ならざる者のように叫び苦しみのたうち回り、喉を掻き毟って髪を振り乱した。そんなルシャから、ズィブは逃げ出した。ズィブはルシャを助けるのではなく見捨て、自分の罪に背を向けたのだ。ルシャの心は凪いでいた。ズィブがみっともなく取り乱した挙句、逃げ出したことに何も思わないかと言えば嘘になるが、ズィブと共に娼館を出ると決めた瞬間から、いつかこうなることは決められていたことだ。せめて最後まで堂々としていてほしかったものだが、ズィブの内面が幼い子供のように脆く弱いものであると知っていれば期待できるはずもない。

 砂を踏む小さな足音が近づいてきて、ルシャの隣で立ち止まった。鈴の音の主もそれだろう。そこにいたのは黒いローブをかぶった幼い少女だった。その瞳は夜闇よりも暗く、底が見えない。もし娼館で暮らしていれば、湯運びの仕事を始めるくらいの歳だろうか。悪魔は様々な姿かたちを取るのだろうが、ずいぶん可愛らしい姿も取れるのだなと感心する。

「こんにちは」

 ルシャが声をかけるが返事はない。代わりに少女は手を伸ばし、指先をルシャに向けた。ここまで来て何を怖れることがあるものか。少女の求めに応えて、その細く幼い指先に自分の指先を当ててやる。そうして指先同士が触れた瞬間、少女は目を見開き、手を引いた。

「あなた、どうやってここにきたの?」

「どうって。あなたに会えるっていう薬を飲んで来たのよ」

「ふざけてるの?」

 少女は怒りと侮蔑と警戒心に満ちた瞳でルシャを睨みつけた。ルシャが想像していた悪魔とはもっと狡猾で飄々としているものだったが、その想像と異なる反応を見せつけられて、少女が悪魔ではない可能性に思い至る。しかし悪魔ではないならば、彼女は何者なのか。ただの女の子であるはずもない。

 少女自身もルシャを見定めようとしていた。彼女にとっての常識が何であるのかはわからないが、ルシャがそれに反する形で今ここにいるらしい。じっとルシャを観察しているが、ルシャがあまりにも無防備できょとんとしていたものだから、ついに悪意があるわけではないのだろうと判断したらしい。

「ここは、死んだ魂が冥界の門のむかえをまつところ」

「死んだ魂」

「そう。でも、あなたは死んでない。まだ生きてる。どういうことなの?」

「……普通に生きていたら届かない境地に辿り着きたくて。悪魔と取引をしてでも辿り着きたくて。それで、あの人がくれた薬を飲んだのよ」

「意味がわからない」

「そう、そうだよね」

「なんでたかが薬ひとつでその境地に辿りつけると思えたの?」

「信じていたから」

「何を? 誰を?」

「それは」

「あなたは今、どんな意味で『信じる』っていったの? いつから考えることをやめてたの?」

 少女は淡々と怒りを滲ませて畳みかける。ルシャは問われたことの一つにも答えられない。なぜズィブが自分に一定程度の嘘をついていることを知りながら、それをわざと見過ごしていることも自覚しながら、何もしなかったのか。いつから自分にはこの道しかないと思い込んでいたのか。自ら選んだ道だから悔いはないが、道が一本しかないと思い込むのは浅はかにも程がある。ルシャは、私は、何をいつから思い違いしていたというのだろうか。

「とりあえず、時間がないからついてきて」

 ルシャの返事を待たずに少女はルシャの手を握る。白銀色の門に背を向け歩みだそうとして、背後から声がかかる。

「姫よ、どこへ行く」

 低く皺枯れた声に呼び止められて振り返れば、そこにいたのは本物の悪魔だった。身に纏う黒色のローブは少女のそれと同じ種類のもののようだが、容貌は異形の者である。顔つきは黒山羊そのもので、頭部から生える濃灰色の角も山羊のそれに似た形をしている。体はローブに隠れて見えないが、裾から覗く手は異様に細く、枯れ枝のようだった。指先でつまむように青い灯のランタンを吊るしている。

 少女はルシャと悪魔の間を遮るように立つ。

「この人は死んだ人じゃないよ」

「ならばなぜここに居る」

「知らない。けど、死んでないなら門をくぐるべきじゃない」

「帰るべき肉体は残っているのか?」

「知らない」

「もし残ってないなら、狭間を彷徨うことになるが」

 悪魔は少女を姫と呼び、少女もそれを否定しない。二人は初対面ではないようである。しかし、悪魔の方はともかく、どうやら少女はルシャのことを助けようとしてくれているらしい。ルシャを置き去りにしたまま話は進む。

「この人は薬を飲んでここに来たって言ってる」

「外道の業か」

「よくない方法なのはそうだけど、でもまだ死んでない」

「死にたくて外法に手を出したのやも知れぬぞ。どれ、当の本人に訊いてみるのが早かろう」

 悪魔は枯れ枝の指の先を少女の背後に立つルシャに向けて問う。

「人間の娘よ、何を求めて外道の業に手を出した」

 少女はルシャの手を強く握り、相手にすべきではないと訴える。しかし、この問いに背を背けるべきではないと、ルシャの魂が訴える。己の非を認め、頭を垂れて詫びたところで見逃される保証はないし、何より自分に嘘をつくべきではないと直観的に感じる。

「私は、全てを知りたかった」

「ここに来れば知り得ぬことを知れると考えたか」

 ルシャは頷いた。悪魔は指先で顎髭を撫でつつ思案する。

「たしかに生者のままで知り得ぬこともあろう。ここは通常生者が足を踏み入れることができない場であるからな。しかし、そもそも何故全てを知ろうとする。人の時間は有限で世界を織りなす法は途方もない。人に与えられた時間は全てを知るには短すぎる」

「時間が不十分であることと、憧れることは別じゃないかしら」

「さもありなん。人が身の丈に合わぬ願いを持つことは珍しくない。それは我もよく知っておる。ふむ、ふむ。ならば重ねて問おう。全てを知るとは何を以て果たされるものか?」

「それは」

「未知、すなわち未だ知らざるものが存在しなくなった時こそ、全てを知ったと呼ぶに相応しい。しかし、未だ知らざるものが存在しないことをどう判断するのか。不在を証明することは、たしか人間の表現では悪魔の照明と呼ぶのだったかな。もっとも、その限界も外道の業に頼れば超えられるものなのかもしれぬが」

 悪魔は続ける。

「不可能を不可能と知りながら、想像の中でしか到達し得ぬ全知の境地を夢想し焦がれる在り方は、控え目に言って現実を生きているとは言い難い。言葉を選ばずに言えば、正気ではない。何がそなたを駆り立てる。あるいは、何を怖れ何から逃れようとしている」

「何からって、別に私は怖がってなんか」

「ふむ、そうか。そうか、そうか。そなたには怖れるものがないか」

 ひとしきり考え込んだ後、悪魔の中で結論が出たらしい。何を一人で納得しているのか、ルシャの何を見定めたのか。ルシャは居心地が悪い。

「まあ、いいだろう。それよりも娘よ、これからどうするのだ。姫の導きに従えば滞りなく現世に帰れることだろう。ただし何も得ることはできないがな。どうだ、せっかくここまで来たのだから、少しこちらの世界を巡ってみないか」

「こんな奴の話に耳を傾けないで」

「そう言うな姫よ。姫が一緒にいてやれば帰り道に迷うこともあるまい」

 姫と呼ばれた少女は顔を背けただけで、悪魔の言うことを否定したわけではない。つまり悪魔の言ったことは嘘ではないということだ。彼らは一体何者なのか。今仮に悪魔と呼んでいるこの存在も、ルシャの想像する悪魔とは異なるもののような気がしてくる。

「何を企んでいるのかしら」

「少しは自分の頭で考えるといい。問えば答えが返ってくると思うな。返ってきた答えが正しいと思うな。己の目と頭で真偽は判断せよ。己の意思で道は選べ」

 ルシャは舌打ちをする。

「わかってるわよ、それくらい――行く。せっかくここまで来たんだから」

「ということらしいが、構わんかな、姫」

「もう知らない」

 そう言って顔を背ける割に、少女はルシャから手を離さずにいてくれる。

「運が良いな、娘よ」

「昔からよくそう言われる」

「姫に感謝することだ」

 この子は一体何者だろう、と疑問に思うが、他にも思うことがありすぎて、今は掘り下げる余裕がない。

 枷と鎖から解放されて以来、未だかつてないほど頭のもやは晴れ、澄んだ思考ができるようになっていた。

 何がそなたを駆り立てる。あるいは、何を怖れ何から逃れようとしている――。

 怖れるとは何だろう。もちろん言葉の意味は知っている。しかし自分自身が何かを怖れたのは、遠い昔のことであったような気がする。

 黄色い砂漠は凪いでルシャの心の内を映していた。

 

 間近にあったはずの白銀色の門はいつの間にか遠のいていた。ここは何が起こっても不思議ではなく、どんなことでも起こりうる場所だ。大婆の幻影がそれを冥界の門と呼んでいたことを思い出す。だから、それを冥界の門と捉えるのがおそらく適切で、それが目の前にあるのだから冥界の門は存在すると理解するべきなのだろうか。

 冥界の門。死を迎えた魂は死神に導きに従い、冥界の門を通って冥府へ行く。砂漠で生まれ育った者であれば誰もが教わることだが、その真偽を確かめた者は誰もいない。親が、大人が、子供たちに自分たちが教わったように教えてきた。誰が最初にそれを言い出したのかは誰も知らない。ルシャが悪魔だと仮に呼んでいた山羊頭は、正しくは死神と呼ぶべきなのか。

「我は悪魔か死神か? 知らんな。どう呼称されようが我は我だ。好きに呼べばいいし、そもそも人間からしてみれば、悪魔も死神もほとんど差がないだろう」

 山羊頭自身にとってはどうでもいいことのようだった。

 山羊頭を先頭にして、その後ろをルシャと少女が手をつないで歩く。進む先には白銀色の門、すなわち冥界の門がある。太陽のない青空は四方の全てが澄み渡って雲一つなく、空を縁取る砂漠の地平線は円く、そしてその砂漠は起伏どころか砂紋一つなく平らだった。ルシャと少女の二人分の足跡が山羊頭とルシャと少女の後に続いている。穏やかで平和な空間と時間だった。そんなときには普段忘れていたことが思い出されてくる。

 ――思えば色々なことがあったような気がする。娼館は生まれたときから騒がしく、常に誰かがいた。大婆がいて、年上の姉さんや兄さんがいて、同い年の子たちがいて、年下の妹や弟たちがいた。彼らの顔と名前は思い出そうとすれば思い出せるが、そこに懐かしさはない。他に生きる術を持たない者たちが寄り添い合っているだけで、選べるものなら皆もっと幸せな場所を選んだことだろう。それぞれがやり場のない怒りや憎しみを抱え、散々ぶつけ合った末に、ぶつけ合っても何も解決しない不毛さに閉口していた。まだ自分の中で折り合いをつけることができない妹や弟たちが夜中に泣いてぐずると、ルシャが抱いてあやしてやったものだ。ルシャもかつては同じく泣いていたはずだが、それはいつのことだったか。記憶にない。

 記憶。遡って遡って辿り着くのは最初の記憶だ。それは何か。何だったか。砂漠の風に吹かれながら、少女に手を握られながら思い出す。原初の記憶に父や母につながる手がかりはないものかと期待した。しかしついにそれは見つけられなかった。ただあったのは、暗い部屋の中で同い年の子たちと同じベッドに押し込まれていたときのことだ。蒸し暑く、誰かが漏らした尿の臭いが充満していた。常に誰かが泣いていて、それで眠りを阻害された他の子が泣いていた。ルシャは漠然と、うるさいな、と思いじっと耐えていた。朝になれば水や食べ物を与えてもらえるし、ベッドから出ることができる。夜が明けるまで一秒一秒を数えていた。

「なにか、思いだせた?」

 隣で少女がぽつりと呟くように訊ねた。訊ねられて、ここはもうあの暗い部屋の中ではないことを自覚する。

「まだずっと小さかった頃のこと。暗くて狭い部屋にね、同い年の子たちと一緒に押し込められてたな、って」

「そう」

「それでね、朝が来ると子守役の兄さんか姉さんが部屋の鍵を外して扉を開けてくれるの。廊下を歩く兄さんや姉さんの足音が聞こえてくると、私は体を起こして。鍵をかちゃかちゃ鳴らして外す音を聞いてそわそわして。それで扉が開くと、隙間から眩い朝日が射し込んで、新鮮な朝の匂いが滑り込んでくるのよ。どうせ半日後にはまたそこに戻されてしまうんだけど、明るい世界が開けて、そこに向かっていく感覚は嫌いじゃなかったな」

 少女はじっとルシャの話に耳を傾け、小さく頷き続けてくれた。

「たくさんいたんだけどね」

「誰が?」

「同い年の子たち。もう顔も名前も思い出せないけど、何人か仲の良かった子たちもいたわ。けど、みんな死んでしまった。あの部屋を生き延びられる子はほんの一握りだったから」

「そんなにひどいところだったの?」

「子供はたくさん生まれるけど、生まれた子の全員を養えるほど豊かな場所じゃなかった。だから大人たちは、口には出さなかったけど内心、子供が減ってくれたら助かるって思ってたのよ。必要最小限の世話だけやって、それで死んでしまう子がいるならそれまでの話。

 朝を迎えて部屋に光が射して、お互いの様子が見えるようになって初めて死んでる子がいることに気付く。そんなことは珍しくなかった。ああ、死んじゃってたからこの子おもらししてたんだね、って変なところで納得もしちゃったりしてた」

「そうだったの」

「でもね、それが私たちにとっては当たり前で普通のことだったのよ。……なんでそれが『当たり前で普通のこと』だと思っちゃっていたのかな」

 当たり前で普通のことどころか、むしろ自分は恵まれているとすら思っていた。もし娼館で拾われていなければ、とっくに野垂れ死にしていたはずの命だ。昼間の陽射しや夜間の冷気に晒されたり、草の一本も水の一滴もない砂漠に放り出されることを思えば、屋根があって、一応でも自分たちを養ってくれる人たちがいる場所は、ありがたがることはあっても決して忌み嫌うべきではない。だから、そこでどんな目に遭うとしても、死なずに生きていられるのならば、まだましなことなのだ。そのはずなのだが。

 ルシャの鼻先から涙が滴り落ちる。いつの間にかルシャの足は止まっていて、俯いていた。自分が泣いていることを自覚したら、ますます涙は溢れて止まらない。どうして自分は泣いているのだろう。わからない。わからないが、ルシャは自分の中で何かの蓋が外れた気がしている。蓋をしていた穴から噴き出すこれは一体何なのだろう。ルシャは自分で自分に問う。私は、いつからこの感情を殺していたのか。いつから絶望することすらやめていたのか。自分の足元にはどれだけの数の兄弟姉妹の死体が埋まっているのだろうか。

 幼いルシャが大きくなって、ルシャ自身が子守役になったとき、朝に扉の鍵を外すのが憂鬱だった。今朝はみんな生きているだろうか。死んでいる子がいないだろうか。ルシャが祈っても祈らなくても、弟や妹たちは一定の頻度で死んでいった。死んだ子供は、他の生きている子供たちが部屋を出ていった後でルシャが片づけた。尿やよだれで汚れた布団を取り換えるのと同じように、死体となった弟あるいは妹を持ち上げて、運んだ。そして娼館で出る様々ななごみと同じように、ごみ捨て場に放り捨てた。衰弱して死んだ子供とは、驚くほど軽い。

 死者を弔う風習があることなど知らなかった。その存在は、十四になって大婆の書斎を引き継いだ後に書物の中で知った。死者のために手間暇をかけることは、暮らしに余裕がある人々のぜいたくだと思った。ズィブと共に旅する中で喪服を着た人々を見かけた時も、書物で知った儀式は本当にあったのだなと思うだけだった。悲しいという気持ちはいつの間にか麻痺していて、そういう気持ちがあることを忘れていた。悲しいことは当たり前で普通のことだった。この世には死が溢れているものだし、そして大婆の言葉を借りれば馬鹿な奴から死んでいくものだ。死んだ方が悪い。

 かつてルシャが高熱で死にかけた時のことを思い出す。病魔が全身を蝕んだ結果、死は眼前にあり、為す術もなかった。嫌だ嫌だ、死にたくないと、「かみさま」に全てを捧げる覚悟を示しても「かみさま」は何もしてくれなかった。自分の中の生命の炎を必死で守り、夢うつつに眠りと目覚めを繰り返す中でまだ自分の心臓が動いていることを確かめて、ルシャに理不尽を強いる全てを呪い、憎み、そして自分以外の何者も信じられなくなった。確かなものは自分の意思と心だけで、それ以外のものは何も信用に値しない。そういうものだと、そのとき幼いルシャは諦めた。そんな自分を、今、遠くから大人になったルシャが見つめている。

 高熱で死にかけたルシャを、娼館の兄さんや姉さんたちは見捨て、弟や妹たちも兄さんと姉さんたちを真似して見捨てた。大婆だけがルシャの世話をしてくれたが、しかし抱きしめてはくれなかった。誰も、ルシャの孤独に、寂しさに、寄り添ってはくれなかったのだ。ルシャが本当に求めていたのは、ルシャの手を握って包んでくれる温かい手だった。今、ルシャの手を握ってくれているような、自分以外の誰かの手だった。

「孤独は人をおかしくさせる。どんな病気よりも、人の心と体を壊していく。寂しいことを忘れてしまったら、人はもう壊れていくしかない」

 少女は手に力を込めて呟いた。そうなのだろう、とルシャは思う。娼館にはたくさん人がいたが、寂しくなかった人はいなかったのだろう。兄さんも、姉さんも、弟や妹たちも、大婆も、そしてルシャ自身も皆そうだった。

「私はどうしたらいいんだろう」

「それは、私には答えられない」

 気づけば、山羊頭はルシャと少女のだいぶ先を歩いていた。少女はルシャの手を引き促す。歩いた先に何があるのか。冥界の門が彼方に建っている。

 

「ねえ、質問してもいい?」

「なに」

「あなたは何者なの?」

「答えたくない」

「面倒くさがるな、姫よ」

 先導する山羊頭が笑いながら言った。

「こんな場所にいる少女が只者であるわけがないだろう」

「じゃああなたが代わりに説明して」

「とのことだが、構わないか?」

 ルシャの沈黙は肯定である。

「この御方は冥府の女王の系譜に連なる姫君である。我らの女王は失われて久しかったのだがな。生まれ変わりが現れてくれて我々は安堵しているのだ」

「そんなの私の知ったことじゃない」

「気配は女王のそれなのだがな。少なくとも、生と死の狭間を自由に往来できることが証拠であろう」

「ただの偶然」

 思えばズィブの話はかなりの眉唾物だったが、今ルシャの眼前で繰り広げられた会話も同じくらい信じがたいものである。しかし今のこの場自体が非現実である以上、どのようなことも起こりうるものだ。あり得ないということはあり得ない。

「そのお姫様はここで何をしていたの?」

「死んだ生きものの魂は冥界の門を通って冥府に行く。その前に、話をきいてあげてるの」

「別にそのようなことはする必要などないと思うのだがな」

「あなたにはわからないよ」

 そう吐き捨てる少女は、ルシャの目には、失望の念が色濃く浮かんでいた。山羊頭と少女の間には埋め難い溝があるようだった。

 ルシャは話を戻す。

「お話を聞いてあげて、それでどうするの?」

「どうもしない。ただ、きくだけ」

「えっと、それって」

「意味がないと思う?」

 少女にとってはとても大事な意味があるのだろうが、生憎ルシャにはそれがわからない。だからその旨をそのまま伝えるしか取るべき反応が思いつかない。

「あなたにとっては意味があるのかもしれないけど、私にはそれがわからない」

「そうかな。さっきまでのあなたならそうだったかもしれないけど、今のあなたならわかると思うよ」

「ほう、それは興味深い。是非解説願いたいものだ」

 山羊頭にはわからなくて、ルシャにならわかると少女は言う。一体何を根拠に彼女はそう言うのか。でたらめな願望を語るような子ではないだろうから、論理的な推論なのだろう。しかしルシャ自身には自覚できる気配がまるでない。

「今すぐわからなくても、きっと気付けるから。行こう」

 少女はルシャの手を引く。三人の旅は続く。

 

 

 二度目に辿り着いた冥界の門は、最初に見た時と比べていくらかこじんまりとしているように見えた。日の光を照り返した白銀色は眩く荘厳で、ルシャの何倍もの背丈であるのだが、一度目に見たときはただ圧倒され、恐ろしく感じるものだった。しかし今はそんなことはなく、ただの美しい門、それ以上でも以下でもない。凪いだ砂漠の中にぽつんと立っている。

「確認なんだけど、これは本物の冥界の門なの?」

「そうだ」

「ふうん……触ってみてもいい?」

「やめておけ。魂が溶けるぞ」

「溶けるとどうなるの?」

「根源に還る」

「へえ」

「試してみても構わんが、取り返しはつかんぞ」

 そう言われてルシャは伸ばしかけた手を止めた。

「死をむかえた魂は、この門を通って冥府に行くの。人も、それ以外も、みんなそう」

「通らなかったらどうなるの?」

「そのうち風化してなくなる。魂は、肉体という器に収まっていて初めてひとつにまとまっていられる。でも、それがなくなってしまったら、どんどん拡散して、薄まっていく。自分が誰かがわからなくなって、わからないこともわからなくなって、それで考えることも感じることも何もできなくなって、最後は何もないのと同じになる」

「しかし冥界の門を通ってあるべき場所に還れば、坩堝の中で眠りに就き、そしていつか新たな肉体を得て再生することができる」

 ルシャは冥界の門を見上げる。彼らの話が正しいとするならば、ルシャの魂もここから出たことになるし、仮に前世というものがあるのだとしたら、過去にルシャだった者もかつてこの門をくぐったことになる。当然身に覚えはない。

「どの魂もこの門から生まれてきたから、たとえあなたが憶えてなくても、魂が憶えてる。それがわからないのは、あなたがまだ生きてるからだよ」

「……わからないなあ。私って一体何なのかな」

 親を知らず、帰るべき場所もなく、知への憧れが虚構だったことを思い知らされ、自分が孤独であることにすら気付けなかった。そんな自分が持っているものとは一体何なのか。何もない。

「からっぽなのが虚しく感じるのは、どうして?」

「今までやってきたこと、価値があると信じてきたものが揺らいで、何を信じればいいのかわからないから」

「信じるってなに?」

 少女は真っ直ぐにルシャを見つめている。黒い瞳はどこまでも深く、闇の奥にルシャの顔が見える。この少女には、自分がこう見えているのかと驚くほどに、瞳の中のルシャは弱々しい。

 信じるとは何か。それはつまり選ぶことであって、頼ることではない。何を是とし、価値あるものとし、己の中心に据えるかを、己の意思と責任で選ぶことである。

「あなたが今まで経験してきたことのすべてが本当に虚構だったの? あなたの心が感じたものもまやかしだったの? あなたが嬉しいと感じたという事実、悲しいと感じたという事実、美しいと感じたという事実。それら以上に確かなことなんてないと思うよ。……あとは自分で考えて」

 そう言いながら、少女は握る手にきゅっと力を込めた。

 ルシャは目を閉じる。子守役の兄さんと姉さんが部屋の扉を開けるときに差し込む黄色い朝日。大婆が語る世界のあり様は緻密であると同時に荘厳なものだった。ズィブと共に見た数多の景色たち。熱病の最中、大婆が口に押し込んだ柘榴の甘酸っぱさ。大婆の書斎で読んだ書物の中でルシャは数多の抽象世界を渡り歩いた。

 それら美しいものが飛来する一方で、子供たちが押し込められた暗い部屋で、誰にも気付かれず忘れ去られるように死んでいった弟や妹たちのことが浮かんでくる。彼らは最期に何を思っていたのだろうか。熱病で苦しんでいた時に自分が感じていた孤独と同じものを感じていたのだろうか。娼館で数多向けられてきた荒んだ瞳の数々。ズィブも縋れるものを求めていた。大婆が書物に注釈やメモを記すとき、彼女はどのような痛みを堪えていたのだろう。皆、光を望み、そして明日を恐れていた。目を、耳を塞ぎながら、あらゆる痛みをなくしてくれる奇跡を求めていた。皆がそうであるように、ルシャもまた同じく、怯えながら願っていた。

 可哀想に。

 誰も彼もが哀れで、可哀相以上に言うべきことがルシャには思いつかなかった。

「……さて、来たぞ」

 山羊頭がルシャと少女の背後を見遣って言った。砂の擦れる音が存外間近であることに肝が冷える。山羊頭の視線の動きに従って振り返ってみれば、砂漠を這う骸骨がいた。灰色の襤褸を頭からかぶり、隙間からルシャを睨んでいる。ルシャに白骨の指を伸ばしている。

「大婆様」

 ルシャ、ルシャ、と骸骨はルシャの名を呼び続けている。骸骨とルシャの間を遮るように、少女が一歩進み出る。

「これは、あなたの魂を読みとって、弱みに付けこもうとしてるだけのものだよ。門をくぐるのが怖くて、死んだことを認められなくて、事実から逃げつづけて、でも消え去りたくもなくて。すべてを拒みつづけて、そしてついに何にもなれなかったものたちの、なれの果て」

 骸骨は激しく顎を揺らして少女を威嚇する。可哀相、とルシャは素直に思う。この世には一体どれだけの孤独な者がいるのだろうか。

「この人はまだ生きてる。あなたたちと同じにはならないよ」

 ルシャ、助けておくれ。私を助けておくれ。殺される、こいつらに連れていかれる。いやだ、いやだ、死にたくない。死ぬのは怖いんだ。

「関係ない人を引きずりこんだって、あなたたちは救われない。……もうゆっくり休んで」

「姫よ、もうよいか?」

「うん。連れていってあげて」

「承知した」

 山羊頭は砂に落ちている影から背丈ほどの大きさの鎌を引き抜いた。刃の色は冥界の門と同じく白銀色に輝いている。それを見た骸骨は、後ずさりし逃げようとするが、山羊頭の足の方がずっと速く、すぐに鎌の切っ先は骸骨の喉に掛かった。息をのむ音が聞こえたのは気のせいか。振り返った骸骨の目とルシャの目が合う。助けて、と訴えかけてくる。

 ルシャは乾いた口内と唾で湿らせてから、少女に問う。

「ねえ。大婆様はちゃんと冥界の門をくぐれたのかな」

「わからない」

「もし大婆様が、自分が死んだことを認めずにいられたとしたら」

「……あなたが考えているみたいに、あんなふうになっている可能性は、ある。否定することはできない。けれど、そうかもしれないと思わせるために、ああいうのは人の弱みに付けこむの。本当のことは誰にもわからない。もし仮にその大婆様だったという人が混ざっていたとしても、もうあなたにできることは何もない。これ以上迷わないように、ちゃんと連れていってあげるべき。だから変なことは考えないで」

 冥界の門が開く。隙間から冥府の冷気が靄となってあふれ出て、黄色の砂々が触れたそばから凍てついていく。靄は骸骨の体にも至り、音もなく包んで融かしていく。骸骨はかぶりを振り、声にならない叫び声をあげるが、靄はまとわりついて離れない。

 ルシャ、ルシャ、私を助けておくれ。少しでも可哀相だと思うなら、どうか、どうか……。

 りん、と鈴の音が鳴る。涼しく澄んだその音は、先刻ルシャを救ったあの音だった。

「これ以上、この人にしつこくするなら、こっちもそれなりのことをしないといけなくなる」

 お前たちはいつもそうだ! お前たちなんかに私の気持ちがわかるものか! 引っ込んでいろ!

「他の人の気持ちなんて、誰もわからないよ。みんな、自分の気持ちだってわからないのに」

 うるさい、黙れ! ……ああ、ルシャや、お願いだよ、お願いだ、助けておくれ。私の手を握っておくれよ。どうか私の――

 白銀色の刃が宙を走り、骸骨の声は唐突に断たれた。靄が落ちる骸骨の首を優しく包んで融かしていく。

「埒が明かなそうだったので、終わらせることにした」

「うん……」

 ルシャは今、自分の眼前で繰り広げられた光景を、ただ呆然と見ていることしかできなかった。なぜ自分は身動きを取れずにいるのだろうか。今、心に引っかかっているものの正体は何なのだろうか。答えはすぐ近くにあるはずなのに、正体が掴めずにいるのがもどかしい。わからないまま、直観がやれと言っていることに従う。

 ルシャは一歩、二歩と進み出る。冥府の靄に触れてはいけないことは察せられるので、細心の注意を払いつつ、間もなく靄に融けゆく骸骨の手に近づく。

「姫よ、止めないのか」

「あの人が自分で自分になることを選んだのなら、止めるべきじゃない。……そんな気がする」

「ふむ」

 そんなやり取りを聞き流し、そして骸骨の手に自分の右手を伸ばした。きっと良くないことが起こるのだろうが、それでもルシャは自分の魂に懸けてそうしなければならない。

 ルシャの中指がほとんど消えかけた骸骨の手の甲に触れたその瞬間、かつて一人の人間だった頃の思念が一気に流れ込んできた。その人は砂漠のとある街の屋敷で、小間使いとして働く女だった。ある晩、酔った主人に手籠めにされ、子を孕んだが、その事実が明るみに出る前に、粗暴な男たちの手によって嬲り殺された。彼女はなぜ自分がそのような目に遭ったかわからなかった。苦しく痛い記憶だけが残った。世の全てを恨み、死を受け入れられず、ただ救いと復讐を求めていた。

 いつの時代の記憶だったのかルシャにはわからない。ただ、かつてそのような人がいたことだけを知った。一度知ってしまったら、もう知らなかった頃には戻れない。その存在はルシャの一部として刻まれた。

「その人が大婆様って人じゃなくて、がっかりした?」

 ルシャは首を横に振る。氷よりも冷たくなった右手の中指を、左手で握りしめる。ルシャ自身の温もりで、見知らぬ死者の孤独を温める。

 知ったところでどうにもならないことをなぜ知ろうとしたのか。知らずにいることの方が、怖いからだ。この世界にはたくさんの悲しみや孤独があり、それらを抱えたまま死んでいく人がたくさんいる。人の悲しみや孤独がなくなることはないだろうが、そういうものは少しでも減ったらいいなとルシャは素朴に思う。

 

「さて、そろそろ我は冥府に戻ろう。娘よ、何か得るものはあったか?」

 山羊頭はルシャに問う。冥界の門は閉じられ、辺りは再び凪いだ砂漠に戻っていた。

「自分のちっぽけさを思い知ったわよ」

「そうかそうか。では私から土産代わりに面白いことを教えてやろう」

 山羊頭はルシャの右手を指さした。骸骨に触れた中指は、見た目こそ特に変わったところはないが、骸骨に触れた時からずっと氷のように冷たいままだった。

「その中指には冥府の瘴気が残ってしまっている。もう二度と人の温もりを取り戻すことはない。そなたの中指はもう我ら冥府の一部となった。言い方を変えれば、そなたはその中指を通じて冥府とつながっている」

「そうなんだ」

「つまり、そなたは今、本来人の身であれば知り得ない不可知の法に属するものが、自身の一部となっている。結果的にだが、そなたは中指という代償を支払って、相応の対価を獲得する資格を得た状態であるというわけだ」

「わざわざ教えてくれるなんて、親切なことね」

「我は冥府の番人であるからな。番人が価値とするのは公平であることだ。天秤は常に釣り合っていなければならない。代償を支払った者には相応の報いがあるべきだと信じているよ」

「そういう意味なら、もう十分得たと思っているけど」

「元々あったものに気付いただけだろう。それは何かを得たとは言わん。さて、そういうわけだから、自分が何を得たのかは考えてみるといい。その中指でしか感じられないことがあるはずだ」

 ルシャは自分の右手の中指をしげしげと眺めてみるが、やはり見た目に変わったところはない。山羊頭は対価に該当しないと言ったが、やはり自分の心に気付けたことはルシャにとっては非常に重要なことだった。中指の冷たさは、人の抱える孤独の象徴だ。この冷たさがある限り、ルシャはもう孤独を忘れることはないだろう。

「姫は何かあるか?」

「ない」

「そうか。我々はいつでも姫の帰還を待っているよ」

「……私の帰る場所はそこじゃない」

「今はそれでもいいだろう。だが、それでも、我々は待っているよ」

 少女は苛立ちを隠さずに顔を背けてしまった。

「どうも私は言葉の選び方が下手なようだ。人の心とはわからんものだな」

 そう言う山羊頭は寂しそうに見える。見た目が悪魔のような分だけ、奇妙に見える――とふと思ってルシャは思い出した。ルシャがズィブと同じ秘薬を口にしたのだとしたら、ズィブが取引をしたという悪魔とは何だったのか。

「ねえ、教えてほしいんだけど」

 ルシャは山羊頭にズィブのことを伝え、彼がかつて悪魔と取引をして、舌と引き換えに魔術を得た話をした。

「ふむ。生憎その悪魔とやらは知らんし、少なくとも我々自身ではないが、心当たりがないわけではない」

「というと」

「先ほどの魔物は千切れた魂の寄せ集めだったわけだが、普通、冥界の門を拒否した魂は拡散して風化するのが常だ。寄せ集まって一つの塊になることなどまずあり得ない――と言えば察しはつくかな」

「誰かが干渉したってこと」

「そうだ。ここには魂を弄ぶことに喜びを見出す連中もいるものなのだ。そういう連中にとって、彷徨う魂など玩具以外の何物でもない。『生きたまま彷徨う魂』などという珍しいものを見かけた日には、さぞかし愉快だったことだろう」

「そう……答えてくれてありがとう」

「ただの仮説に過ぎん――さて、他にはもうないかな?」

 ルシャは首を横に振り、山羊頭は頷いた。

「ではさらばだ。次に会うのは、そなたが死ぬときだろうな。それまでは、もう二度と来るでないぞ」

 冥界の門が開き、山羊頭はその隙間に身を滑り込ませる。

 

 門が閉じた後にはルシャと少女の二人が残された。

「目がさめたら、市場の東のはじっこに来て。渡すものがあるから」

「渡すもの?」

「あなたは、あの骸骨みたいななれ果てたちに目をつけられてしまった。あの人は自分たちに優しくしてくれるって、思われてしまっている」

「触れてしまったから?」

「そう。あなたはそういう人だから、そうせざるを得なかったんだけど、でも、人の心はたくさんの孤独を抱えられるほど頑丈にはできていない。さっきやったようなことを、あと何度かやったら、あなたの心はきっと壊れてしまう。けど、向こうはそんなことに構ってくれない。あなたはこれからずっと、隙を狙われつづけることになる」

「その度に追い払い続けろってこと?」

「けど、それはとても大変なこと。だから、あの子たちが寄ってこれなくなるように、おまもりをあげる」

「なんであなたはそこまでしてくれるの?」

「わたしは、わたしのやるべきことをやってるだけ」

 ルシャと少女はその場に座り、手をつないだ。役目を終えた冥界の門は消え失せ、四方の全てが空と砂漠だけの同じ景色となった。この長かった夢も終わりに近づいている。

「ここは静かでいいね」

 時が止まっていたルシャの世界は再び動き出した。日が暮れて、月が昇る。変わりゆく景色は美しいものだと思う。見上げれば無限の星々があり、それはかつてズィブと見た景色と同じものだった。

 形だけ真似しても駄目だ。目で見て、目で見えないものを視るのだよ。見えるものは全体の中の、ほんの一部にしか過ぎない。見えないところでもきちんと法則は働いているのだから。

 ズィブの言葉が思い起こされる。あの時は意味がわからなかったが、今なら体がそれを理解している。右手を空に伸ばし、中指を折り曲げる。すると、引っかかる何かがあった。その手応えを失わないように、そっと、ゆっくりと引いてみる。星が一つ、夜空を滑り落ちる。

「できた」

「流れ星を作れるようになったの?」

「そうみたい」

「ふうん」

 ズィブがそうであったように、ルシャもまた星を降らせることしかできないのだろう。そして、それができたところで不可知の法の片鱗も知れた気がしない。ズィブも同じだったことだろう。わけがわからないまま、そういうものとして行使することしかできない。

 昔のルシャであれば、躍起になってその謎を解き明かそうとしたことだろう。そうすれば、自分が死から逃れる術が見つかるかもしれないからだ。しかし今は、そうしようとは思わない。世界は広く、自分が知り得ないことがあっても、それでも世界は法則に従い規則正しく秩序を持って動いていることがわかるからだ。その美しく壮大な細密画が汚されることも損壊することもなく、そこに在り続けていることが、貴い。

「次に会ったときには、名前、教えてね」

 ルシャがそう言うと、少女は一瞬眉を顰めたが、小さくため息をつき、いいよ、と言った。

 夜が明けていく。星々は明るくなりゆく空に薄く溶けていき、眼前の空が赤く焼けていく。この世界には悲しいことが溢れているが、そういうことに左右されない世界の頑丈さにほっとして、癒される心地がする。

 澄んだ空気を胸いっぱいに吸い、腕を上げて伸びをする。大手を広げて、全身で朝日を浴びる。ルシャの世界は光に満ちた。

 

 

 長い夢から醒めて、ルシャは自分が昨晩ズィブの秘薬を口にした続きにあることを思い出した。意識を失う間際に見た通り、ズィブは既にいない。部屋が荒れ果てているのは、ルシャ自身の仕業だ。散々暴れたのだろう、腕や足が痛み、見てみればところどころ痣になっていた。

 こちらが現実であることを認識すれば、たちまち夢の記憶は薄れて消えていく。色々なことがあったが、自分を助けてくれた少女のことだけは忘れてはいけない。約束したこともあった。

「市場の、東の端」

 吐瀉物で汚れた服やシーツを片付けて、身支度を整える。太陽はまだ低く、街は昨晩の祭りが盛り上がった分だけ目覚めが遅いようだった。市場もようやく店が開き始めた頃だ。

 宿を出る。所々に酔いつぶれて寝ている人がいる。祭りの熱気は遠い昔のようで、しかしじきに再び日常が戻ってくるのだ。夢が醒めきる前に、ルシャは歩き、足を速め、駆け出していく。左右を見ながら市場に入る。

 屋台で朝食を取る人がいて、露店に品物を広げる行商人がいて、食材を仕入れに来た小間使いがいて、そういった人々の間を縫ってルシャは東の端を目指す。

 夢の中でした約束は所詮ただの夢の中のことであって、現実ではないのかもしれない。しかしそれは、確かめてみなければわからない。わからないことだが、きっとあの夢は現実のことだとルシャは予感している。右手の中指が氷のように冷たいままでいることが、期待する根拠だ。

 市場の中央広場を過ぎて、東の道に入り、進むほどに人はまばらになる。そして、市場の出口が見えたとき、そこに白いローブをかぶった少女がいるのが見えた。傍らには灰色のマントを被った男がいるが、それはいい。

 駆けてくるルシャに先に気付いたのは男の方だった。男は少女の方を向いて、口を動かす。それから男は再びルシャの方を見て、遅れて少女がルシャの方を見た。夢で見た、あの美しい黒色の瞳がルシャを捉えた。

「急がなくてもよかったのに」

 こんな風に全力で走ったのは、思えばルシャの人生で初めてのことだった。膝に手をつき、激しく肩を上下させて息が整うのを待つ。

「夢じゃ、なかった」

 それが嬉しい。

「これがマユの言ってた奴か」

「うん」

「へえ」

 男は顎の髭を指で弄りながらルシャを眺めまわした。率直に言って、ルシャは不快だった。しかし今はそれよりも、やらなければならないことがある。

 ちりん、と鈴の音が鳴る。少女が手を差し出すと、その手の平の上には鈴が乗ってた。特に変わったところのない、普通の鈴のように見える。

「紐か何かで結んで、常に身につけておいてね。そうしていれば安全だから」

「ありがとう」

 鈴を渡すと、少女は用が済んだとばかりにルシャに背を向けようとするので、ルシャは慌てて呼び止める。

「あの、名前! 教えてくれるって約束したよね。私はルシャ。ルシャっていうの。ね、あなたの名前は?」

「……マユワ」

「そっか、そうなんだ」

 眉を顰めて、嫌そうな顔をしている様子に傷つかないかと言われれば嘘になるが、本気で拒絶されているわけではないことは察せられる。もし本気で拒絶するなら、夢の中でルシャとっくに見捨てられているはずだ。

「マユが他人に名前を教えるのか。あんた、気に入られたんだな」

「べつに気に入ってない」

 先ほどから度々会話に割って入ってくるこの男は一体何者なのか。ルシャは男と目が合う。

「おう、やっとこっちを見たか」

 男は、にっ、と唇の端を上げて笑った。嫌な奴だとルシャは思う反面、油断ならない男だとも思う。

「あんた知ってるか。卵から孵ったばかりの雛ってのは、最初に見たものを自分の親だと思い込む習性があるんだ」

「知ってるけど」

「今のあんたは、まんまそれだなって思った」

「何が言いたいのよ」

「好きだからでじゃれつくだけじゃ、懐いてもらえないってことだ」

「何よそれ」

「ま、それはどうでもいい。それよりもあんた、朝飯は食ったか? まだなら一緒にどうだ。奢ってやろう」

 

 パン、山羊のチーズ、鶏肉の蒸し焼き、蜂蜜を溶かしたミルク。それらを屋台の前に置かれたテーブルの上に並べて、三人は席に着く。男とマユワが並び、彼らを向かい合うようにルシャが座る。ルシャの目から見て、二人は親子のようにも年の離れた兄妹のようにも見える。

「アルフィルクだ。で、こっちがマユワ」

「ルシャよ」

 簡単に名乗り合った後、三人は朝食に手を伸ばす。アルフィルクと名乗った男がパンをちぎって口に運びつつ、話を続ける。

「昨晩は大変だったらしいな」

「そうね。色々あったものね。で、なんであなたがそれを知ってるの?」

「そりゃ、マユが話してくれたからな」

 マユワはチーズを小さくちぎって口に運びつつ、時折ミルクを飲んでいる。二人の会話に自分から参加する気はないらしい。

「あなたたちは親子? それとも兄妹? どういう関係なの?」

「仕事仲間であり家族でもある、みたいな感じかねえ。マユ、何て言うんだろうな、こういうの」

「知らない」

「じゃあ聞き方を変えるわ。あなたたちは何をしている人たちなの?」

「そうだなあ。それも答えるのが難しいんだが、ううん。強いて言えば、死体漁りになるんかね」

「それは素敵なお仕事ね」

「どうも」

 ルシャの嫌味はさらりと流される。

「とりあえず、あなたたちの仲がとても良いことはわかったわ」

「俺たちは運命共同体だからな――さて、場も温まってきたところで本題だ。ルシャさん、あんた、これからどうするんだ」

「旅の連れには逃げられちゃったし、行くあても何もないわ」

「そうかそうか、災難だったな。じゃあこれも何かの縁だ、俺たちと一緒に来ないか」

「三人で仲良く死体漁りをするの?」

「いやあ、その商売はそろそろ限界が見えてきてるんだわ」

「一生の仕事にはなりそうにないものね」

「そう。野垂れ死んでる奴なんかそうそういるもんじゃないし、何より周りの目が痛い」

 そう言ってアルフィルクは目の動きで周囲を見るようルシャを促す。ルシャは何気ないふりを装いながら辺りを伺ってみて、合点がいった。賑わいつつある市場の中で、道行く人や露店の店主など、何人かがこちらを睨みつけている。

「だから、新しい仕事を始めようとしているってわけだ」

「ふうん」

「けどなあ、その仕事ってのが俺たち二人だとなかなか始めにくくてだな。そんな折に、マユがあんたを拾ってきた」

「拾ってない」

「ものの喩えだ」

「で、何を始めるのよ」

「うん、葬儀屋だ。これなら死体に近づいたって怪しまれない。しかし一方で、葬儀屋を名乗るなら顧客が満足する葬儀ってのをしなきゃならん」

「死体漁りをやめる気はないのね」

「まあ、色々理由があるんだわ」

 アルフィルクは肩をすくめるが、マユワ絡みの事情なのだろうということは察せられる。ほんの僅かであるが、マユワの横顔が曇ったからだ。

「そこで、あんたの助けを借りたい」

「私は何をしたらいいのかしら」

「上手いこと葬儀を取り仕切って、ご遺族様を満足させてほしい」

「一番肝心なところじゃない。そんなのやったことないわよ」

「やったことがある奴の方が珍しい」

「いや、でも、人を弔うってよくわかんないし」

 いつかズィブとの旅先で見た喪服の集団を思い出す。葬儀を取り仕切るのは、人望や徳のある人がやるべきものではないのか。ルシャが読んできた書物でもそう書いてあった。

「もう、あなたは知ってるはずだよ」

 マユワが口を開いた。

「死んでしまった人はもう生き返らないし、門を通っていくしかない。けど、残された人が、ぽっかり空いた心の穴に折り合いをつけられるかどうかは、別の話。ゆっくり自分と向き合って、また前を向けるようになるための時間や機会が必要なときもある。もしそれがなかったらどうなるかって、あなた自身が一番よくわかってるはず」

 どうなるか。人は狂うのだ。

「別に難しいことじゃない。あなたができるやり方でやったらいい。大事なのは、残された人の寂しさに寄り添えるかどうかだから。それがどういうことか理解したあなたになら、頼んでいいと思った」

 マユワはじっとルシャの目を見た。それは夢の中で向けられたものと変わりない。

「俺は見ての通り、そういう柄じゃない。というわけで誰かふさわしい奴に頼みたいってわけだ」

「マユワちゃんならとても上手にできそうだけど」

「ううん、私には向いてない。私は死者に近すぎるから、優しい嘘をついてあげられない」

「優しい嘘?」

「死んだ人の魂が天国に行けるとか、生者の祈りが魂を導くとか、そういうの」

「私だって別に信じてるわけじゃないよ」

「でもあなたは、門を通ることを拒否した魂がどういう風に壊れていくのかとか、門を通った後の魂がどんな風に溶けていくのかとかまでは知らない。だから、天国で安らかに暮らす魂がある世界を想像することができる。けど私にはそれができない」

「よしそこまでだ。うちのお嬢様をあんまりいじめないでやってくれ」

 アルフィルクが割って入って、話は唐突に終わった。マユワが小さく、ごめん、と呟き、アルフィルクがマユワの頭に手を乗せ撫でてやる。

「残酷な真実と甘美な嘘のどちらが慰めになるかは人次第、ってことかしらね」

「そういうことだ」

「ううん。正直に言うとね、まだよくわからないのよね。人を弔うっていうのもそうだし、私に務まるのかもそうだし、あなたたちの言うことを信じていいのかも」

 ミルクの入ったコップを両手で包みながらルシャは言葉を続ける。

「けど、やる。やるわよ。どうせ元々行くあてもないし」

 それに、ルシャが自分の人生で考えるべきことは、どう歩くかだけだ。葬儀屋として新たな一歩を踏み出すならば、最初にやるべきことは何か。それは決まっている。ルシャの直観に後付けで理由がついてくる。

「こういうことをやるなら、最初に行きたい場所があるんだけど」

「どこだ?」

「それはね――」

 ルシャがアルフィルクとマユワに耳打ちをすると、二人は肯定の意で頷いた。

 

 

 砂船の舳先を東に向けて走らせること約半月、ルシャが慣れない力仕事で手足に細かい傷を作っているうちに砂船はルシャの育った娼館のある街に辿り着いた。ルシャがズィブと一年半かけて辿った旅路は砂蛇のようにくねくねと折れ曲がっていたが、目的地を定めて一直線に進んでみれば、そう遠く離れていたわけではなかったらしい。

 風向きが変わって、嗅ぎ慣れた甘い香りが漂ってくる。懐かしさはない。ただ胸中に飛来するのは、弟や妹たちのことだ。元気でやっているだろうか。

 日没は間もなく訪れる。激しい西日を薄目で見遣りつつ、ルシャたちは娼館の正門の前を横切り、壁沿いに裏手の方に回る。勝手口からしばらく歩けば、街のごみ捨て場がある。ルシャもかつては何度となくごみを持って往復した場所だ。そこに溜まったごみは、やがてごみ捨て人がまとめて砂漠の僻地に運び、再度捨てる。そして風や砂に晒されて風化したり、砂漠の生物たちの餌になったりして、自然に還っていく。それらの中には、ルシャが自分の手で捨てていった弟や妹たちも含まれるし、あるいは兄さんや姉さんたちが捨てていった娼館の住人たち、そして大婆も含まれる。

 今日のごみは既に運ばれた後らしい。広い敷地にごみはほとんどない。

「ちょっと歩くけど、付き合ってね」

 ルシャは振り返り、アルフィルクとマユワに告げる。二人は黙って頷いてくれた。

 

 ルシャが先頭を歩き、アルフィルクとマユワがその後に続く。街の灯は今は後方遠くにある。今夜も娼館は賑わっていることだろう。しかしその嬌声がここまで届くことはない。砂と風と星と月だけがここにはある。半月前にマユワたちと歩いた凪いだ砂漠とは異なり、ここには様々な砂漠の生命の息吹が密やかに聞こえる。

 約半刻ほど歩き、ルシャは足を止める。何もない砂漠の中だった。

「うん、ここにしようかな」

 指と指を絡めて手の平を反らし、天に突き出して伸びをする。まだ生温い空気を胸いっぱいに吸って、吐き出す。右手の中指は今も冥府の冷気を帯びており、右手首にはマユワからもらった鈴が結び付けられている。りん、という鈴の音がルシャの耳元で小さく響いた。

 右手の中指に意識を集中させる。不可知の力学を探り当てる。

 色々なことがあった。散々道に迷って、たくさん彷徨ってきた。未練や後悔がないかと言われれば嘘になるが、それでもそのとき選べる道は自分で選んできた自負だけはある。

 かつて大婆はこう言った。ルシャ。お前は子供たちの中でも人一倍賢い子だ。きっとお前は私みたいに長生きするだろうよ。

 ルシャは大婆が期待したような賢さは持っていなかったかもしれないが、不思議な縁と運に恵まれて、今もこうして生きている。命を落とした兄さんや姉さんたち、あるいは弟や妹たちは、ルシャが持っていたものを持っていなかったのだろうか。そうだとするならば、なぜルシャだけがこうも特別なのか。わからないし、そこにはそもそもきっと意味もない。意味を求めることにも意味がないのだろう。あるのは結果という事実だけだから。結果としてルシャは今この場に立っている。

 右手の中指の先端を、見えない糸に引っ掛ける。手の平で空を撫でるように糸を引けば、星が一つ夜空を滑り落ちて、光は砂漠の地表に注いで落ちた。光の痕跡は砂漠の表面に残り、星が瞬くように光も明滅している。

 ルシャは身を翻し別の糸を探り当てる。弦を弾くように指を走らせれば、先ほどよりも速く星がまた一つ降って地表に滴り落ちる。右手を振り上げ、下ろせばまた一つ。

 右手の中指という指揮棒を振るたびに、星はルシャの意に従いその身を躍らせる。星々は雨となって夜空を滑り落ち、落ちた分だけ地表は星々の斑点で埋まり、天地は混然一体となる。空にも地にも星の海が広がった。

 死者の魂が行く先は、決して幸福なものではない。マユワに言わせれば、ある魂は冥府で魂の坩堝に還り、またある魂は逃避の末に消散してしまうらしい。その真偽を確かめる術はないが、おそらくそうなのだろう。しかしそれでも、坩堝に還った魂が安らかに眠ってくれたらいいなと思う。人知れず、誰にも看取られることもなく、あるいは惜しまれることもなく、そうして死んでいった娼館の家族たちは数多いたけれど、そのうちの一体どれだけが無事に冥界の門をくぐれたことだろうか。彼らの死に際を思えばルシャは胸が痛くなる。彼らが息を引き取ったそれぞれの瞬間、自分は何を考え何を感じていたか。何も考えていなければ、何も感じていなかった。麻痺して感情の失われた心には何も届かなかった。

 そんな彼らを想い、過去を取り戻すように、そしてそれが気休めに過ぎないと知りながらも、祈りが時を越えて過去に遡り死にゆく彼らに寄り添ってくれる夢を見て、ルシャは胸の前で手を組み、肺に空気を溜め、ゆっくりと喉を震わせる。

 夜に寝付けない弟や妹がいたとき、ルシャはその子を背負ってよく娼館の屋上に出た。星空を見せながら、子守歌を歌ってやった。いつからかやらなくなってしまったが、そんなことをやっていた。娼館で暮らす者たちは誰もが親を知らない。それにも関わらず、なぜルシャは子守歌を知っていたのか。忘れていた記憶がまた一つ掘り起こされて、かつてルシャがまだ幼い頃、ルシャ自身がその子守歌に安らいでいたことを思い出す。歌ってくれていたのは、そう、大婆だった。優しい歌声だった。

 ルシャの歌声は夜空に響く。歌声はその場にいたアルフィルクとマユワの二人にしか届かない。冥界の門がある生と死の狭間の世界や、門を通った先にある冥府までは決して届かない。

 大婆が死んだことを告げられた日、実を言えばルシャは動揺していた。しかし娼館の中で、兄さんや姉さんは嬉々として大婆が死んだことを喜んでいた。これでやっと静かになる、目障りだったんだよな、と散々な物言いで、ルシャが可哀相とでも口にしようものならば、果たしてどのような目に遭ったか想像に難くない。娼館の中での失敗は自分の死に直結する。道を間違えないためには、兄さんと姉さんに混じって、大婆を悪し様に罵るしかなかった。ルシャが心の痛みを感じなくなったのは、思えばそれからだった。そして今、そのことを思い出してしまった。

 数多の兄さんや姉さんたち、弟や妹たち、そして大婆を踏み台にし、見殺しにして今のルシャがある。罪悪感の重苦に苛まれながらも、今この瞬間こうして生きている。明日も、その先も、死なない限りルシャは生き続ける。そうしてしまう。過去や罪の重さに押し潰されそうになりながらも、ルシャの心臓は鼓動を止めない。高熱で死にかけたあの時ルシャ自身が強く望んだ通り、ルシャはこれからも生き続けるのだ。

 ルシャが歌を歌い終えると、地表の星々は光を失い、辺りは元の夜の砂漠に戻った。胸の痛みや苦しみこそが、ルシャが今生きている証だった。そして、ルシャの心の内とは関係なしに営みを続ける世界の在り様は、ルシャを孤独にさせながらも、そこに居ることを否定せずにいてくれるものだった。

 ルシャは振り返る。そこにはアルフィルクとマユワがいる。これから先、どこまで彼らと共にいられるだろうか。

「終わったよ」

 ルシャがそう言うと、アルフィルクは軽く手を挙げ、マユワは小さく頷き、それぞれ応えてくれた。

 

(了)

初稿:20211027

第二稿:20211030