2015年1月8日木曜日

アンブロシアの仮面

 0.夢の始まり


学校から帰宅すると、いつもだいたい夕方五時前だ。それから夕飯までおよそ二時間。軽い睡眠を取るには十分な時間だ。宿題は夜に寝る前にやればいい。
部屋に入るなり鞄を放り出し、柔らかいベッドに倒れこむ。階下から母親の、「皺になるから制服は脱ぎなさい」という声にくぐもった声で答え、もう僅かしか残っていない理性をたたき起こして上着とスカートだけは脱いでおく。ハンガーに掛けている余裕はもはやない。顔を壁側に向け、膝を畳み、背中を丸め、意識を聴覚から遠ざけ、次第に近づく眠りの気配にじっと気を向ける。
ああ、もうすぐ来る。
眠る自分を眺める自分がいる。眠る自分はうつらうつらと授業で習った余弦定理のことを思い出しながら、脳内に描いた円がいつの間にか2つ、3つに増えて、不可思議な幾何学無用を描いていることに気付いていない。それに気付いているのは、眠る自分を眺める自分だけだ。思考が眠る自分の支配を脱して自由に駆け回るようになったとき、思考の軌跡は未知の世界の骨格を築き、そこに次第に肉がついて色が付く。こうして夢の世界は出来上がる。
今日は一体どんな夢になるのだろう――夢の世界を満喫することこそが、私の唯一の楽しみと言っても過言ではない。もちろん幸せな夢ばかりでもないし、悪夢を見た日には寝汗をたっぷりかいていることも珍しくない。しかし夢の世界というものは、夢であるくせに、どんな現実よりも生々しい。その生々しさが恋しくてまた夢の世界に回帰していく。おかげで夢ばかり見ている。夢の中で生きた時間の方が、現実を生きた時間よりも長いくらいだ……――。



1.暗い森の中で


そこは暗い森の中だった。枝葉が空を厚く覆っているせいで、今が昼か夜なのかさえわからない。私はただぼうっと立っていた。立っていたことにふと気付いたというほうがおそらく正確だ。魂を得た私の体は一方向に向けられる。
城。そう、城だ。私は城に行こうとしていたのだ。何のために? 仮面舞踏会に参加するために。
足元がふわふわと柔らかいのは降り積もった濡れ葉のせいなのか、まだ意識がおぼつかないせいなのか。いやに生温い森の吐息が首筋を撫でる。
遠くにぼんやりとした灯りが漂っている。白いような、黄色いような、あるいは橙色にも見えるようなそれは、明確に私を導こうとしていた。あれは決して悪いものではないと、私は直感的に思う。
私が歩き出したのを確認したのだろう。灯りは中空でくるりと円を描いた後、淡い軌跡を残しながら私を先導した。
風一つ吹かない森の中は、おそろしく静かだった。音という音が全て森の柔らかさに吸収されている錯覚さえ覚える。生々しい感覚の夢だった。
歩き、歩き続け、このままで大丈夫なのだろうか、と不安に思い始めた頃、彼方に森の出口が見えてきた。
灯りは自分が役目を終えたとでも言わんばかりに、出口に近づくにつれて次第にうっすらと薄らいでいき、やがて消えた。
振り返ればほとんど虚無であるような暗闇がある。さっきまであそこにいたのかと思ったら、急におそろしい気がしてきた。
「こんばんは」
息が詰まる程驚いた。向き直ると、カンテラでこちらを照らすメイドが立っているのが見えた。フードを被り、厚手のコートに袖を通している。ボタンを留めず開かれたコートから見えるエプロンドレスのおかげで、かろうじて彼女がメイドであることがわかったのだ。
「あなたをお迎えに参りました」メイドは色のない声で言った。「さあ、参りましょう、オデット様」
――それが自分の名前であることに気付くのに少し時間を要した。しかし一度気付いてしまえばそれ以上の違和感はなかった。私ことオデットは頷く。私は城へ行くのだ。
「もう他のお客様は来ているの?」
「私がお城を発ったときにはまだ殆どいらっしゃいませんでしたが、もういくらか時間が経ちましたので」
「そう、ありがとう」
メイドが一瞬立ち止まる。何か返す言葉を探していたようだが、結局そのまま歩き出してしまった。そしてそれっきり彼女は喋らなくなってしまったので、私もこれ以上喋るのは控えるようにした。
森の外はすっかり暗くなっていた。しかし日が暮れてからまだ間もなかったらしく、空の一端にはまだほんのりと赤みが残っていた。その反対側では丸い月がまだ低空を漂っているのだった。
砂地だった道は背丈より少し高い生垣の角を曲がった所で石畳に変わった。馬車一台分の道を挟むように作られた生垣はよく手入れされており、ここがもう城の敷地内であることに気付かされる。ならば肝心の城はどこにあるのだろう――辺りを見回し、じっと目を凝らしてみてようやく、夜闇にシルエットが溶けていることに気付いた。そして、思いの外すぐ近くまで来ていることも知った。
いつの間にか足が止まっていたらしい。先を歩いていたメイドが少し離れたところで振り返りこちらの様子を伺っている。
「ごめんなさい」
私が詫びると、代わりにメイドは懐から仮面を取り出し被ってしまった。どのような仮面なのかはわからないが、メイドが仮面をつけるとそれまでわずかに聞こえていた息遣いまでもが遠のいてしまった気がした。
「ねえ、私は自分の仮面を持っていないんだけど、どうしたら」
「ご心配は不要です。あとでちゃんとご用意しますので。――それよりも、急ぐことにしましょう」
メイドは踵を返し、心なしか早足で歩き始めた。


裏手の通用口から城の中に入ると、肉を焼く芳ばしい香りが嗅覚を刺激した。
等間隔で灯りが並ぶ石壁の廊下は途中で曲がっており、その先は見えない。
ここまで案内してくれたメイドの姿は、ここにきてようやくちゃんと見ることができた。結い上げられた栗色の髪からはほんのり赤みがかった耳がのぞいていた。小ぶりな耳だった。顔の上半分を白灰色の無機質で平坦な仮面が覆っていたが、下から見上げていると仮面と顔の間には僅かばかりの隙間が空いておりそばかすのある顔であることがわかったが、すぐに彼女はこちらを見下ろしてしまったために、のっぺりとした面と向き直ることになってしまった。
薄いが形の良い唇が踊る。
「城の中では可能な限り素顔を見られないようにしてください。今宵は仮面舞踏会の宴の日、素相が見えてしまうのは興が削がれる、というのが我が主の意ですので」
「わかった」
そう答えたものの、しかし今の私には顔を隠す術がない。外着一枚、手ぶら。そこまで思ってから、そもそも自分には仮面舞踏会に参加する上でのドレスも靴もアクセサリーも何もないことにようやく気付いた。先ほど彼女が「心配不要」と言ったのは、そういったところも含めてのことだったのだろうか。
「間に合わせで恐縮ですが、ひとまずこちらをご利用ください」
彼女は着ていたコートを脱ぎ、私に着せた。フードは目深に被る。なるほどこうすればいくらか顔は隠れるのだろう。――彼女の匂いもした。
「不愉快でしょうがご容赦くださいませ」
私の返事を聞く前に彼女は歩き始めてしまった。慌てて後を追う。しかしいつ人と出くわすかわからないから、私は俯き、彼女の足元だけを見ながら歩いた。
厨房前を通り過ぎると、次第にオーケストラの演奏が聞こえるようになってきた。私の知らないワルツの曲のようだった。
もう舞踏会は始まっているのだろうか?
ホールにつながる扉が開くと、一気に音の津波と人々の気配が押し寄せた。入れ替わりで空き皿を持ったウェイターが入ってきたので、壁に身を寄せてやり過ごす。
(絶対はぐれる……!)
反射的にそう思うと同時に、私の手はメイドの裾を掴んでいた。彼女は振り返り、仮面越しに私を見下ろしていた。しかし私の不安を察してくれたのだろう、私の手を遠慮がちに握ってくれたのだった。自分がこんな大それたことをしていいのかと戸惑っている気配さえ見えた。しかし彼女の行為が失礼であるわけがない。力を込めて握り直すと、間もなく彼女は歩き始めた。
壁沿いに目立たないように歩いていた。人々は談笑に夢中になり、ウェイターたちも自分の仕事に忙しく、誰も私たちが歩いていることに気付いていないようだった。
花崗岩で作られた石床は相当丁寧に磨かれているらしく、シャンデリアの絢爛な光をそのまま反射させているように見えた。ホールの隅のオーケストラ一団は次の曲を演奏し始めている。
ホールを出て、階段を登るとようやく人の気配も弱まった。そしてそのまま私は階上の一室に連れていかれた。
「お好きなものをお選びください」
壁の三面全てに仮面が掛けられていた。色も形も様々で、飾り眼鏡のようなものもあれば、ほとんどフェイスマスクみたいなものもある。
「どれがいいかしら」
彼女を見上げて尋ねてみる。彼女は一瞬思案した後、首を横に振りながらこういった。
「仮面はオデット様の心そのもの。私が仮面選びに携わるべきではないのです」
「そんなこと言われたって私にはわからないもの」
「仮面が決まったら、それに合わせてお召し物を決めましょう」
彼女は私の手を離し、その手で私の背中を押した。振り返ったときにはもう扉は閉められている。仮面を選ぶしかないということだ。
「どうしようかな」
ほんとにどうしよう。
仮面舞踏会に参加する、という目的意識ばかりが先立つあまり、なぜ仮面舞踏会に参加するのか、仮面舞踏会に参加してどうしたいのか、といった前後の動機が空っぽであることに否応無しに気付かされる。改めてここは夢の中だったことを思い出す。
(なんかパッとしない夢だなあ)
急に冷めた心地がしてしまう。
経験則的に、夢が夢であると気付いたときには、現実世界の自分の目覚めが近い時である。だから間も無く夢から覚めるのだろうと思った。
しかし、部屋の中はしんと静まり返ったまま、私が夢から覚める気配はない。
たくさんの仮面がじっと私を見下ろしている。
どうやらこの夢はまだ私を逃がしたくないらしい。
「……変なの」
釈然としないまま仮面選びに取り掛かることにした。
しかしいざ仮面を選ぼうとすると、思っていた以上に迷ってしまった。仮面とはなんとなく自分の素顔を隠すだけのものかと思っていたが、そうではなく、新しい自分の顔を選ぶことと同じことだと気付いてしまったからだ。
仮面を通じて私は私のなりたい顔になれる、というのは少々誇張しすぎたところがあるかもしれないが、本質的な意味では相違はない。もし自分以外の何かになれるとしたら、何になりたいのだろう。自分以外の何かになりたいと思ったことはあっても、特定の何かになりたいと思ったことは実はあまりない。
じっとしていても埒が明かないので、適当に仮面を一枚取り被ってみる。鏡があればよかったのだが、生憎そういったものはここにはないため、仮面を被った自分を想像してみて判断するしかない。
想像してみる。何か違う気がする。
そうしてとっかえひっかえしているうちに、頭の中には仮面舞踏会でダンスしている自分の姿がだんだんと生まれていった。あの絢爛なダンスホールの中でダンスをする自分、というのは気恥ずかしい気もするがそこまで嫌な心地がするものでもない。しかしだんだん関心はダンスしている自分そのものよりも、一緒にダンスをする相手に寄せられていっていた。その相手は自分より背が高く、細身で指が長い。まるでさっきのメイドのような。
(……バカだ)
自分の思考の暴走に呆れながら手に取ったのは、額から顎先までが隠れる薄ピンク色の優しい表情をした仮面だった。被ってみると不思議な安心感がある。やはり自分の顔が隠れるというのは、どんなに変な顔になっても相手にばれないという点で良いものだと思うからだ。
(しかしそれはつまり、つい変な顔になってしまう可能性があって、さらにそれが相手にばれると嫌だと思っているということであってだね)
……なぜこうも理屈っぽくなってしまうのか。
いずれにせよ仮面は決まった。これでいいと思った。色々理由を挙げることはできるが、つまるところは勘である。
部屋の扉を開けると、彼女が振り返り、こちらを見下ろし微笑んだ。何か言ってくれるのかと思いきや、彼女はそのまま歩き出し、それから足を止めて私が来るのを待っていた。追いかけてみると、彼女は歩き始める。これがおそらく彼女にとって一番心地の良い距離感なのだろう。そう気付いたら、なるほどそれも悪くないかな、という気がした。

仮面に合わせて着るものは決める、とメイドが言った通り、彼女は私のドレスを要領よく決めていった。派手すぎず、地味すぎず、しかし決して無難というわけでもないそれは、私の目にもとても良いもののように見えた。
彼女は私を浴室へ追いやり、その間に装飾品や靴などを揃え、私の体が乾く頃にはすっかり準備が整っていた。
さすがにここから先は彼女一人の手には余ったのだろう。浴室から出ると彼女のほかにもう二人メイドがおり、彼女の指示の下で私は実に効率よく装飾されていったのだった。文句や感想を言う間もなく私の身支度は完了する。
「とてもよく似合っております」
「あなたのセンスが良いのよ、きっと」
「さあ、参りましょう」
いよいよ仮面舞踏会に赴くのだ。
わくわくするか、と問われれば、そうでもない、というのが正直なところではあった。私が仮面舞踏会に参加することはある意味で運命として定められたものであり、それについて良いという感覚も悪いという感覚もない。仮面舞踏会に参加することそれ自体が目的であり、私の到達点だった。妙な話であるのかもしれない。いや、十分に妙な話だ。なぜならば、仮面舞踏会に参加した後のことがまったく思い描けないからだ。
この物語は、私が仮面舞踏会に参加した時点で終わる。その先はない。無意味という有意味性。そう言ってしまうと、それは少々言葉遊びが過ぎるのかもしれないが。
「ここまで連れてきてくれてありがとう」
「務めですので」
「そうよね」
彼女がそう応えるのは、今までのやりとりからなんとなく予想はしていた。彼女とは個人的に親しくなりたい気もしたが、彼女は所詮私の夢の中の登場人物で、想像の産物だ。夢であるとわかっている夢は、どこか味気ない。
「ねえ――」
名前を教えてよ。
尋ねようと振り返ったときには、もう彼女も他のメイドたちもおらず、ただ私一人だった。


2.舞踏会の夜

ホールの入口で散々左右に往復した挙句、結局私が取った行動は、誰にも気取られぬようそっとホールに入り、壁際で飲み物片手にすっかり疲れたフリをすることだった。
私はさっきまで踊っていて、今は一休みしているところなのです――だから誰も話しかけないでいただきたい、と。
そんな私の気持ちがどこまで態度に表れていて、尚且つそのことを周りの紳士淑女たちが汲んでくれたのかは定かではないが、私は沈黙を守ることができた。
曲の終わりから次の曲の始まりまでの間は実に慌ただしく、仮面を被った人々が忙しく交差している。
この舞踏会はいつから始まっていて、そしていつ終わるのだろうか。不意に湧いた疑問を今すぐ解消する術はない。
ただじっと待っていれば、いつか誰かが解散を宣言するのだろうか。あるいは一人また一人と散っていき、やがて自然と終わりを迎えるのだろうか。いずれにせよ「終わるのを待つ」以外にないらしい。しかしそれはそれで味気ないのもまた事実だろう。
せっかくの機会なんだから、踊ってみればいいじゃない。どうせ夢の中なんだし。
試しに心の中で言葉にしてみるが、やはり気が乗らない。気が乗らないならば無理して踊る必要もないだろう。だからじっとするのだ、ぼうっとするのだ。そして無為に時間を過ごすのだ。そうしていればいずれ夢から醒めていつも通りの日常に戻るだろう。
壁に寄りかかり、目を閉じる。前を横切る人の気配、遠くで誰かと誰かがぶつかった音、決してミスのないプロフェッショナルの演奏。
そして瞼越しに見えたのは真っ黒なダンスホールで踊り狂う真っ白な傀儡たちの姿。
ハッとして目を見開けばそこは豪華絢爛なダンスパーティー。一瞬だけ見えたその光景は悪夢というよりは真実の姿を捉えたものだったように思えた。
(……気持ち悪い)
通りかかったウェイターにグラスを預けると、壁に手をつきつつ外へ向かう。新鮮な空気が必要だった。
「お嬢さん、大丈夫かな」
「気分が優れなくて?」
途中、何人かが私に声を掛け、中には背中に手を添えてくれた人もいたが、私はそれらの全てを無視した。愛想良くそして体裁良く断る余裕もなかった。
バルコニーまで出ると気分は多少良くなった。心臓の鼓動もいくらか落ち着いてきた。しかし頭の中はさっきの光景がまだこびりついて仕方ない。
深呼吸を一つ。足りなかったのでもう一つ。バルコニーの縁を両手で掴み、両足で石床をしっかり踏んでいる感覚を意識しながら、思い出す――。
真っ黒なダンスホールはよくよく思い出してみればさっきのダンスホールとまったく同じ構造をしていた。ただ配色が決定的に異なっていた。しかしそれも、壁が黒かったというよりは、暗闇に覆われていたという方が正確だろう。普通のシャンデリアが明るい光を放つように、その世界のシャンデリアは暗い闇を放っていたのだ。写真で喩えるならばネガとポジを反転させたようなものだった。そしておぞましかったのは真っ白な傀儡たちだった。彼らは楕円を繋げたような四肢を振りまわしていた。とてもダンスなどと呼べたようなものではなく、そこにはリズムもステップもなかった。個性も人格もなかった。彼らはただの人形だった。
もちろんそれだけならば私はここまで動揺したりなんかしない。一番堪えたのは、その光景があの豪華絢爛な仮面舞踏会の本質であることがわかってしまったからだ。一度そう認識してしまった以上、もうあの仮面舞踏会はそういう風にしか見えない。
(なんか……すごく嫌だ)
無意識的に仮面に手をかける。手をかけてから、自分もまた仮面を被っていることを思い出した。
「仮面を外すのは止めておいた方がいい」
澄み通る声が私を諌める。
「誰?!」振り返った私の手首が捻り上げられる。
「最初に言われただろう、城の中では仮面を外すなと」
「いたい……」
「――すまない」
解放された手首をさすりながら声の主を見上げる。髪さえ覆い隠す黒のマスクに、暗色のタキシードを着た青年である。
「仮面を外してはいけない」
「……どうして」
「仮面を被っている限り、君は安全だからだ」
「意味が分からない」
「分からなくていい。ただ僕の言うことを信じてくれればいい」
混乱と唖然ならば後者が僅かに勝った。突然表れたこの青年は何者なのかや、仮面が持つ重要性についてなど分からないことは様々あれども、ただ癪なのはそういう疑問を素通りして「ただ僕の言うことを信じろ」と言われたことだった。一体、どうして、私はこの人の言うことを鵜呑みにせねばならないのか。掴まれた手首が痛みで以て相槌を打つ。
「手荒な真似をしてすまなかった。……君はとてもわかりやすい顔をするんだな。仮面を被ってるのに」
ここが笑いどころをばかりに青年は私の反応を待つ。
知るかそんなもの。
――OK、わかった。青年は手を挙げて降参する素振りを見せた。
「さあ、質問を受け付けよう」
「仮面舞踏会って何」
単刀直入。それくらい興奮していたと言っても差し支えない。
「いきなり来たね」
最初からいくらか違和感はあったが、ここに来ていよいよ確信した。これは異常事態であると。まず、ここはただの私の夢の中ではない。その根拠は、私の意思による支配が及ばないからだ。夢の中の大抵は思い通りになるのに、この世界はその点において明らかに異質だった。そして一番の決め手は、黒マスクの青年という明確な他者が存在することだ。彼は私の意識的・無意識的な想像の産物ではない。故にここは、一切が私の想像で賄われるはずの夢の世界ではあり得ない。
単なる夢の世界でない、ならばここは何なのか。この世界の中心は間違いなく仮面舞踏会だ。仮面舞踏会という舞台を中心にこの世界は構築されている。ならば仮面舞踏会には一定の役割ないし機能があるはずだ。故に問いは、誰が何のために“仮面舞踏会”を開いているのか、ということに集約される。
「それは一概には答えられないな。簡潔に説明するには複雑すぎる」
「説明してよ」
「無茶を言うね、君は――ここは喩えて言うなら、次元の裂け目みたいな場所だ。意識空間の落とし穴と言った方が正確か。さっぱりわけがわからない、うん、そうだろう。
そうだな。構造として直感的にわかりやすいのは、夢魔が作り出した悪夢空間かな。夢を操る悪魔が人々を悪夢に誘い込み、君がそれに引っかかってしまった、という具合だ。この空間にやってきてしまった人々はここに囚われているうちに、この空間の一部になってしまい、空間の形成に一役買ってしまう。そうしてどんどん人を取り込んでいって、巨大化したのがここだ。」
「なんていうか、ゾンビ映画みたい」
「ミイラ取りがミイラになっている点ではそういうことだね。理解が早くて助かるよ」
黒マスクの青年は微笑んだ――ような気がした。
「さて、そうなると俄然気になるのは、この世界からの脱出方法だ。先に僕の答えを述べよう。結論から言えば、ある。鐘が三度鳴り終わるのを待てばいい。それで舞踏会は終わり、お開きになり、君は元の世界に帰れるだろう。君は何もしなくていい。ただ鐘が三回鳴るのを待てばいい。ただそれだけでいい」
青年はあっけらかんと言ってのける。その軽い口ぶりとは裏腹に、どこか荒んだ気配も感じられる。
「簡単な話だろう?」
青年はバルコニーの縁に腕を乗せた。
「あなたは随分ここについて詳しいのね」
「そうだね」
「ここはもうながいの?」
「日にちを数えるのはとうの昔に諦めた」
彼の言葉の最後は夜風に飲まれて消えていった。
たった三回、鐘が鳴るのを聞き遂げれば元の世界に帰れるのに、日にちを数えるのも諦めるくらいながくここにいるこの青年は、この世界に囚われた人なのだろう。
それからしばらく私たちは二人並んで夜景を眺めていた。夜景と言っても点々と並ぶ松明の明りの他は、一面闇色だった。森の影と山の影は多少色合いが異なったがいずれにせよ暗いことに変わりはない。月と星々はただ沈黙している。
「ねえ、そうだ」不意に青年が身を起こす。「踊ろうよ」
「……嫌だ」 。
踊るということは、あのダンスホールに戻るということだ。先ほどの一瞬の光景を思い出して身震いをする。
「ある程度この世界に馴染むことも、ここで生き延びる上では必要なことだ」
「そうなの?」
「彼らは異質なものには手厳しい――だから仮面はきちんと被らなければいけない」
差し出された手のひらは絹の白手袋に包まれていた。しかし生地越しにもなかなか線の細い指をしていることがわかった。
指先を彼の手のひらに当て、びくっと驚き、それからおずおずと再び指を伸ばす。その間、彼はただじっと待っていてくれた。
「ダンスの仕方」
「ん?」
「やり方がわからない」
「適当でいいよ。踊ってるフリでいいんだ。どうせ誰もお作法なんか気にしてないし、知りもしないんだから」
さあ、行こうか。
彼が優しく私の手を引いた。
「せっかくの仮面舞踏会だ。楽しもう」
皮肉と諦念の混じった、寂しい声だった。


ホールに足を踏み入れても、私たちに目を向ける人はいなかった。皆、踊ることに忙しい。人の流れはせわしなく無秩序で、一体の巨大な軟体生物が蠢いているようにも見える。
入るタイミングが掴めず足踏みをする私をよそに、黒マスクの彼は私の手を引き、いとも容易く人の流れに溶け込んでいった。
「君は何も考えなくていい」
彼が小声で囁く。
右、左、前、後ろ――最初は訳も分からず運んでいた足も、しばらくするとそこには一定のリズムがあることに気付いた。ある程度基本的な法則がわかれば、いくらか余裕も生まれてくる。
「飲み込みが早いね」
心なしか彼は嬉しそうに言った。そしてすぐに、悪戯心を含んだ声色で、
「じゃあ、これはどうだ」
と、彼は私から手を離し、視界から一瞬のうちに消えた。驚く間もなく私の体は宙に浮かび、急に高くなった視野には無数の人の頭が飛び込んできた。
一瞬の無重力。
ひゅっとおなかの底が竦み、私は彼に抱きかかえられる。
仮面の青年の瞳は好奇で満ちている。
――どう、驚いた? と。
それが無性に腹立たしかったので、つま先で彼の靴を思い切り踏んでやった。

数曲を踊り終えたところで重苦しく鐘が鳴った。一度目の鐘の音である。
近くの階上で鳴ったのであろう、鐘の音はホール全体に響き、床までも震えているようだった。
その最中、彼の足がぴたりと止まる。
「……ごめん、行かなきゃ」
「え?」
問い直す間もなく彼は私から身を離した。追いすがる私の手は宙を掴み、彼はあっという間に人の影に隠れてしまう。
「待ってよ――」
人々の間に肩をねじ込み、人々を押し分け、黒マスクを追いかけようとするが、行けども行けどもそこに彼はいない。鐘の音はタイムリミットのようで、一つ鳴り終わるごとに急き立てられる心地がする。
そして最後の鐘が鳴り終わり、次の曲が始まってしまう。人々は一斉に踊り始め、逆に私の方が突き飛ばされる形になってしまった。
やっとのことで壁際まで逃れる。そこでようやく沸々と怒りが湧いてくるのだった。彼は自分から踊ろうと誘っておきながら、突然いなくなったのだから。彼にも何か理由があったのかもしれないが、それよりも先に、一人取り残されたことの理不尽さに腹が立つ。そしてそれからすぐに寂しさが際立つのだった。最初にダンスホールに足を踏み入れた時よりも、私は孤独になっていた。
「まったくどうしてみんなすぐにいなくなってしまうのだろう」
森の外で出会ったメイドといい、先ほどの黒マスクの青年といい、彼らは突然現れては一方的に去っていってしまう。
あと二回。
口の中で呟く。あと二回、鐘が鳴ればこの夢から醒めることができるはずだ――彼の言葉通りならば。きっとすぐには忘れないだろうが、それでも虚構の世界の出来事としていずれ記憶の片隅に追いやられていくだろう。間もなく過去のものとなる。黒マスクの青年はここに残されてそれっきり。そうなることに一抹の罪悪感を感じないでもないが、そもそもこちらには何の責任もないことだ。
このままどこかでじっとしていれば全てが事足りるのだろう――深呼吸をして息を止め、数を数える。十まで数えたところで息を吐き、それはそのまま溜息となる。
何ができるわけでもないが、このまま見ないフリでいるのは良心の呵責に耐えかねる。だから自分への言い訳として彼を助ける方法を探すフリをする。清々しいほどに偽善である。偽善だから何だというのか。偽りではない善とは何だというのか。
(と、決めたはいいものの)
何から始めようか。何をするにしても、黒マスクの青年を探しださないことには何も始まらないであろう。
人探しという具体的な目的ができたことで、ようやく私にいくらかのやる気が出てきたことは否定できない。


3.白蝶の仮面の少女

ホールにいる人々は皆踊り狂うことしか頭にないらしい。下手に声を掛けようものならば、「そんなことよりも踊りましょう」と手を握られかける始末だった。
逃げるようにホールの外に出て扉を閉めると、途端に周囲は静寂に包まれた。照度は落ち、廊下の奥や階段の先など、暗がりへつづく場所がいくつも点在していた。
おそらく彼はもうホールの中にはいないのだろう。だから暗がりの中に足を踏み入れていかなければならないのだが、結局運次第という意味でどれを選んでも同じことのように思われた。
ならばせめて道に迷わない場所を選ぶべきである。せめて壁伝いに歩くようにすれば、またここに帰ってくることができるだろう。
そういうわけで左手の壁に沿って歩き続けること数分。すっかり舞踏会の音は遠くなり、前にも後にも暗がりしかない。等間隔で並べられたランプの灯りだけが頼りである。たまにある扉もそっと押し開いてみるが、物置であったり書庫であったり、あるいは通用口の入り口であったりして、人の気配はまるでない。
予想していたとはいえやはり無謀だった感は否めないだろうか――。
角を曲がる。曲がり切ったところで何か柔らかいものとぶつかった。小さな悲鳴。
「ごめんなさい」
反射的に謝罪の言葉が飛び出し、次いで「私ってばぼーっとしてて」と間に合わせの言葉を続けながら今しがたぶつかったものを見る。
それは小さな少女だった。真っ白なワンピースに白い蝶の仮面をつけている。仮面舞踏会の参加者だろうか。
「大丈夫?」
私が手を伸ばすと彼女は無言で私の手を握り立ち上がった。その手はすっかり冷え切って冷たかった。
「どこか怪我とか――」
「うん、大丈夫! ありがとう」
溌剌とした声で少女は言う。あまりに場違いな明るさだったので私はどきっとしてしまった。
私よりも首二つ分小さい少女はじっとこちらを見上げている。仮面の奥の瞳は好奇に満ちていた。そしてその瞳は私の頭の天辺から足の爪先までじっくりと見回す。直感的に嫌な予感がした。
「ねえ、私と踊りましょうよ」
「えっ」
「ね、いいでしょ?」
少し拗ねたような甘え声。私は思わず答えに窮してしまった。
気まずい沈黙が流れる。
「ねえってば」
腕を引かれたその時、私の背後から声がした。
「お嬢様。お客様が困っていらっしゃいますよ」
「あ、オルデアだ」
そこにいたのは、私を森から城まで案内し、私のドレスを選んだメイドだった。彼女は彼女がお嬢様と呼んだ少女をじっと見つめている。
「そんな怒らなくたっていいじゃない」
「怒ってはいません。ただお客様の嫌がることをするのはいかがなものかと」
「え、あなた嫌だったの?」
少女が首を傾げる。言外に、まさかそんなことはないでしょうね、と言いたげに。
しかし同時に、オルデアも私の背中に手を添える。これで察しろと言わんばかりに。
二者の板挟みに混乱した私が咄嗟に口にしたのは、これだった。
「さっきまで踊っててね、少し疲れてしまったの」
語尾が消え入るように弱々しくなってしまったのは、ほとんど嘘だと告白しているようなものだと思った。
しかし少女は少し間を置いた後にむくれたのだった。
「むー、しょうがないなあ」
「ごめんなさいね」
「じゃあ、後で踊ろうよ。私、あなたとダンスがしたいの」
「ええ、そうね」
「約束だよ」
少女が右の小指をピッと突き出したので、私は何気なく自分の小指をそれに絡めてしまう。背後でオルデアが焦った気配を見せたのはそのすぐ直後のことだった。
「ふふ、約束約束! じゃあね!」
少女はくるりと身を翻し、手を振って廊下の彼方へ駆けていってしまった。
すっかり少女の気配がなくなってから私は振り返ろうとした。しかしそれとほぼ同時にオルデアは私の右手を掴み、そして舌打ちをした。
見てみれば私の右の小指――今さっき少女と指きりげんまんをした小指――は真っ黒に変色していた。意識してみれば小指の感覚もなくなっている。思わず悲鳴が零れる。
「何これ」
「……とりあえず命に別状はないですが、厄介なことになりましたね」
「え、それってどういうこと」
「詳しい話は後にしましょう。とりあえず今はどこか休めるところに」


「あなた、オルデアって言うのね」
「ええ」
粗末なところですが、と通されたのは使用人の休憩室だった。今は他の使用人はおらず、私とオルデアの二人きりだった。
「その名前に記憶はありませんか?」
「え?」
「……いえ、何でもありません――今はそれよりも」オルデアは私の手を取る。「痛みはありませんか」
「痛みはないけど……感覚自体がない」
「指は動かせますか」
「えっと」
意識を集中させてみると――指を動かしているという感覚はある。しかしそれが何かに触れているという感覚はない。
「何これ、すごく変な感じ」と呟く私をよそに、オルデアはひとまず安堵の表情を浮かべた。
「指を動かせるということは、それはまだあなたのものだということですね。ならばまだ取り返せる」
強烈な違和感を覚える。
取り返せる? それはつまり。
「私は小指を取られたの? あの子に?」
「そうです」
「なんで」
「あなたが気に入ったんでしょうね。だから、あなたとダンスをする約束の約束手形として、指を持っていった」
なんだそれは、と言わんばかりに私は仮面の下で顔を歪めた。しかし今はそれよりも尋ねなければならないことがある。
「ねえ、あの子は何なの?」
「我が主でございます」
「この仮面舞踏会の主催者ってこと?」
「厳密には違いますが、ほとんどそのようなものと考えて差し支えないでしょう」
「……あなた、自分のご主人様に対して結構反抗的なのね」
「所詮私は我が主の手の平の上なので、私のやっていることなど取るに足らぬものです」
それはどこか諦めきっているような口調だった。その様子に直感的にピンと来るものがあったが、その正体が何なのかを考える前にオルデアが言葉を続けた。
「時間がないので手短にいきましょう――あなたはホールに戻って我が主と一曲踊ってください。ダンスをしているとき、おそらく我が主から色々お願いや質問をされるでしょうが、全てノーと答えてください。絶対にイエスと答えてはいけません。我が主の全てを拒否してください。
そして、きっと焦れた我が主は最後に『あなたのお願いを一つだけ叶えてあげるから』という“約束”を持ちかけてくるでしょう。
そうしたら、『指を返して』と言ってください。もし我が主がごねたとしても、一緒にダンスをするという“約束”を果たしたことを主張すれば、我が主といえどもあなたに指を返さざるを得なくなるでしょう――ここはそういう場所ですから」
「そういう場所」
「そうです。
きちんと指を取り返し、一曲踊り終えたら我が主から離れてください。それで全てが事足りるでしょう」
「ねえ、もし指を取り返すことができなかったらどうなるの?」
「あなたの指は我が主の所有物となり、それに伴ってあなた自身も未来永劫この城に留まることになるでしょうね」
その迷いのない口ぶりは、一切の異論を挟むことを許さなかった。
「まぁ、こうなってしまったものは仕方ありません。正しいことを正しいようにやれば問題は起こりません――あなたもこれ以上厄介事に巻き込まれたいとは思わないでしょう」
「それはそうだけど」
「じゃあ早速行動しましょう」
パン、とオルデアが手を叩く。
「ちょっと待って」
「何でしょう」
咄嗟に呼びとめたものの、明確な質問があるわけではなかった。気になることやわからないことはそれこそ山のようにあったが、どれから手をつけたものか、という具合である。
迷った結果、一番胸に残った質問がこれだった。
「――なんでオルデアはそんなに私に良くしてくれるの?」
「それは……あなたがあなただからですよ」
「どういうこと?」
首を傾げる間もなくオルデアは私を立たせた。これでもう話は終わりだと言わんばかりの振る舞いである。
「さあ、行きましょう。あなたはこんなところにいるべきではないのだから」
オルデアに促されて私は立ち上がった。黒マスクの青年を探しに出たはずがどうしてこんなことに、と思いながら。


4.小指の約束

白蝶の仮面の少女はホール入口の扉の横で壁にもたれかかって爪ををいじっていた。
私の気配に気づくと少女はぱっと顔を上げる。
「待ってたよ」
そして少女は、はい、と手を差し出した。何のことかと思いあぐねていると、たちまち少女の機嫌が悪くなる。
「ちゃんとエスコートしてよ、もう」
膨れる少女にこちらもいくらかカチンとくるところはあったが、今はそうしている場合ではないと自分に言い聞かせる。
私は少女の手を取った。それは相変わらず氷のように冷たい。
「さあ、行こうよ」
少女は無邪気にはしゃいでみせる。

扉を開けると先ほどと変わらない盛り上がりがホールを包んでいた。人々は一秒をも惜しんでくるくると回っている。
その中に少女はいとも容易く飛び込んでいき、引っ張られるように私もその中に入っていく。
少女は当然のように女性のステップを踏み始めたので、私が男性のステップを踏むことになる。先ほど一緒に踊った黒マスクの青年のステップを思い出しながら踊ってみるが、所詮付け焼刃に過ぎず、幾度もミスをしていまう。その度に少女は、しょうがないなあ、といった風に私の試行錯誤を見守るのだった。
何曲か経ち、いくらか慣れてきた頃、おもむろに少女が話しかけてきた。
「オルデアってばあなたのことを随分気にかけているのね」
「そうかな」
「――あのね、オルデアは私の最初のお友達なの」
少女は、お友達、という言葉に一際強い力を込めた。
「大事なお友達なの。素敵なお友達」
「……へえ」
「ね、あなたとオルデアって知り合いなの?」
「いいえ、今日初めて会ったのよ」
「ふぅん……でも、オルデアはあなたのことを知ってるみたいだったけど」
「まさか」
「気のせいじゃないと思うけどなあ……」
少女は物言いたげな様子で口ごもる。
「素敵な人だと思うわ」
「ね、そうでしょ!」少女がパッと顔を輝かせる。「オルデアは少し口うるさいところもあるけど、でも絶対に私を裏切らない優しい人よ」
「あなたはオルデアが好きなのね」
「うん!」
無邪気で無垢すぎて、それは私にとっては眩しすぎるものだった。
「でもねー、私はあなたともお友達になりたいと思っているのよ」
「え?」
「お友達。ね、私たち、お友達になろうよ」
来た、と思った。オルデアの忠告を思い出す。白蝶の仮面の少女のお願いや質問にはすべてノーと答え、拒否しなければいけない。
「それは――できないわ」
「なんで?」
「だって、私はいつまでもここにはいられないから」
「なんで?」
「なんでって……」
裏返せば少女はこう言ったのだ――ここに残れと。
率直に言って、私はぞっとした。ここに取り残されることそのものも嫌なことであったが、それ以上に、その選択が少女にとってはまるで軽いものであることが否応なしに伝わってしまったことにぞっとした。
この少女には根本的に相手の気持ちや都合を理解するという発想がない。自己中心的であることに何の迷いもないどころか、そもそも自覚すらない。だから、自分とは相容れないだろうと思う。
「むぅ……どうしたらいいんだろ」
仮面の下で私が眉を顰めていることなど、この少女には知る由もないのだろう。彼女は少し俯きながら考え込み始めてしまった。
それから不意にパッと顔を上げる。
「ね、やっぱり私はあなたとお友達になりたい。でも、あなたは嫌だっていう。だからね、どうしたらいいかなーって考えたんだけどね。まずはお互いのことを知ることから始めた方がいいと思うのよ」
「……たぶん気は変わらないと思うけど」
「そう? やってみないとわからないじゃない――どうせ時間なんていくらでもあるんだし、のんびりやろうよ」
長丁場になるらしい。それだけで私は辟易としてしまう
「ええと、じゃあまず私から。えー、でも何から話したらいいんだろう。うーん……そうだなあ。
私ね、このお城の城主の娘なの。お父様、お母様、お兄様、それから私の四人家族。自分で言うのもあれだけど、領民のみんなに愛されているのよ。だってみんな仮面舞踏会に遊びに来てくれるもの。あ、この仮面舞踏会ってね、お父様が私のために開いてくれたものなんだよ。私、生まれつき体が弱くて、お城から外に出たことがなかったの。毎日退屈でね。そんな私のために始まったのが仮面舞踏会」
「ただの舞踏会ではなくて」
「そう。招待状を出してお招きする舞踏会じゃ迂闊に断ることもできないけど、参加自由の仮面舞踏会なら来るも来ないも自由! ――お父様はね、領民のみんなに自分で参加したいと思って来てほしかったんだ」
それはあまりに甘い想定であるように聞こえた。領民にとって、領主が主催する仮面舞踏会は、たとえ匿名性が担保されていたとしても“気兼ねなく”参加できるものだろうか。
「たくさんたくさんお客さんは来てくれたんだけどね、でもやっぱりお友達が欲しいの。ほら、お客さんとお友達ってやっぱり違うじゃない。わかるでしょ?」
「…………」思わず同意しかけるところをぐっとこらえる。
「だから私はオルデアとお友達になれて本当に嬉しかったんだ。
――オルデアは仮面舞踏会に来ていたお客さんだった。私が一人でいたところにオルデアの方から話しかけてきてくれて、一緒に踊ったんだよ。私たちは相性がいいって一発でわかった。すごく気が合ったんだもの。私が欲しいと思ったタイミングで欲しいステップを踏んでくれるんだから。
曲が終わった後、私は勇気を出して、『お友達になってください』って言ったんだ。そうしたらオルデアは『喜んで』って言ってくれた。だから、オルデアとずっと一緒いられるように、オルデアはうちで雇うことにしたの」
……オルデアは少女と友達になったことを後悔しているのだろうか。最初は何気ない同情心だったのかもしれない。しかし結果的に、この世界に囚われることになったことも事実だろう。
「私はオルデアが好き。オルデアが大事にしているものは、私にとっても大事なもの。だからオルデアが気に入っているあなたのことは、私も大事にしたいんだ」
「友達なら友達の指を取っていったりなんかしないわ」
「それは……ごめんね。でもそうしないと、あなたが私に会ってくれなくなるって思ったから」
少女がしょぼくれる。そこに悪意はない。だからややこしい。
「ねえ、怒ってる?」
「……怒ってはいないよ」
「そっか、よかったぁ」
「でも指は返してね」
少女は俯いた。簡単に返す気はないらしい――予想通りではあるが。
「あの指切りは、あなたとダンスをするっていう“約束”だった。だからちゃんとダンスが終わったら指は返してもらうからね」
「なんでそんな意地悪言うのよ……」
「あなたのやり方が強引だから」
一通り話をしてみてわかったことが一つあった。この白蝶の仮面の少女の中にはオルデアしかいないということだった。少女はオルデアに精神的に強く依存している。
少女が私にこだわっている理由は、オルデアが気にしているからで、それ以上でも以下でもない。少女自身には私に対する興味はない。彼女にとって私は「オルデアのお気に入り」なのだ。
そんなことは私の知ったことではない――率直に言って、私は少女に対するヘイトが溜まっていた。しかしそのせいで、少女の我慢の限界の見極めを誤ってしまったのは、私の手落ちであったと言わざるを得ない。
「決めた、私、絶対あなたに『お友達にして』って言わせる」
あからさますぎるほどの、対抗心。
「あなた、オルデアのこと何も知らないんだよね」
「……さっき初めて会ったばかりだもの」
「オルデアってば可哀想!」
わざとらしく、大きな声で少女は言ってのける。……何のことだかわからない。訝しんでいる私に少女は続ける。
「オルデアとお友達になった後ね、オルデアは私に昔のことを話してくれたの。自分はどこの誰で何をしていた人かって。
――オルデアはたった一人のお友達に忘れられて、居場所を失って、それで旅して来た人だって言ってた。オルデアはその子が物心ついた頃からずっとお友達で、いつも一緒に遊んで、その子が親に叱られたときは一晩中慰めたりしていたって。でもその子が成長して大きくなるにつれて、いつの間にかオルデアは忘れられていったんだって。その話をしたときのオルデアは、本当に寂しそうだったな」
「それと私に何の関係が」
「鈍いなあ! その子があなただって言ってるの」
「証拠は?」
「さあ。でも、オルデアのあなたに対する態度は普通じゃないよ。ずっとオルデアと一緒にいるけど、あんなオルデア、初めてみたもん。オルデアがそんな特別な態度を取るのはな何故かって考えらたら、あなたがオルデアを忘れてしまった『お友達』だから。それしか考えられないよ」
少女は自信満々で言い切った。
少女の話は所詮少女の憶測でしかないが、まったく的外れでもないように思う。たしかにオルデアの態度は、彼女がもともと親切な人であることを差し引いても、私に対してとても良くしてくれたものだっただろう。
なるほど理屈は通っているのかもしれない。しかし、私自身にその記憶がない。どうやら私はオルデアのことをすっかり忘れてしまっていて、もっと言えば忘れてしまったことすらも忘れてしまっているらしいのだから、まるで思い当たるところがないのはある意味当然と言えば当然だ。だが身に覚えのないことを事実と認めることはできない。
「ねえ、思い出した?」
「――さあ、身に覚えがないわ」
「あっそう。可哀想なオルデア! あなたがオルデアを裏切っても、私は絶対にオルデアを裏切らないんだから!」
そのとき、二度目の鐘が鳴った。
私と少女はじっと睨み合う。仮面の奥の瞳は、私に対する憤怒で溢れていた――そしてそれは彼女自身が私に対して向けた初めての感情でもあった。
鐘が鳴り終わる。いつの間にか演奏も止み、次のワルツに向けて周囲の人々が動き出していた。
「あ、そうそう。ダンスに付き合ってくれてありがとうね。はい、小指。返すよ。返してほしかったんでしょ。約束だもんね」
じゃあね、と手を振って少女は人ごみに紛れてしまった。
右手の小指の感覚が戻っていることに気付く。見てみれば確かに元通りに小指がくっついていたのだった。


5.オルデアの選択

使用人の休憩室に戻ると、そこにはオルデアと白蝶の仮面の少女がいた。
少女はオルデアの膝の上に座り、首に腕を巻き付けているところだった。
オルデアの目はまず私の右手に向く。そこに元通り指があることを確認して、ひとまず安堵の表情を浮かべるのだった。
「ね、ちゃんと返したでしょ?」
得意げに少女が言う。
「お嬢様の我儘に付き合っていただきありがとうございました」
「ねえ、オルデア。聞きたいことがあるんだけど」
私がそう言うと、オルデアは俄かに首を傾げた。同時にオルデアの膝の上の少女の口元が意地悪く歪んだ。
「オルデアは私のこと、知ってるの?」
「……どういうことでしょうか」
「質問を変えよっか――オルデアが私の友達ってどういうこと?」
オルデアの動きがピタリと止まる。少女はそんな状況にわくわくしているように見えた。仕掛けた悪戯に対する反応を待っているような素振りであった。
しかしそのオルデアの様子は、彼女の中で様々な感情が激しく渦巻いた結果表面上は平静になってしまっている、そんな風に見える。
あまりにぴくりともしないので、少女がオルデアに視線を向けて様子を伺った。
「お嬢様――変なこと言いましたね」
「変なことじゃないよぅ。オルデアが昔言ってた、最初のお友達がこの人なんじゃないかって話をしただけだもん」
少女は頬を膨らませたが、ただちにただならぬ状況であることに気付いた。
オルデアは肩を震わせていた。それは傍目から見ていても明らかなほどであった。ただしそれが怒りによるものなのか、悲しみによるものなのかまではわからない。
「……お嬢様。それはお嬢様だけにお話しする大事な秘密だって言いましたよね」
「確かに言ってた言ってたけど」
「二人だけの秘密にするって約束しましたよね」
「したけど、でも……」
「お嬢様。私はがっかりしました」
努めて冷静に振る舞おうとしている分、オルデアは相当怒っているらしい。少女は、でも、だって、と繰り返していたが、オルデアの無言の圧力の前にとうとう屈する。
少女は項垂れたままじっとしていたかと思うと、次第にうっすらと姿が薄らいでいき、やがて消えてしまった。
「後でフォローしに行かないと」
オルデアは軽くため息をついた。どうやら見た目ほどは怒っていなかったらしい。それよりもむしろ、しょうがいないなあ、と少女を可愛く思っている気配さえ感じられた。
「多少腹が立ったのは事実ですが、本気で怒るほどのものでもないですから――さて」
オルデアがこちらに向き直る。
「大きくなったね。きっとあなたは覚えていないんでしょうけど」
「本当なんだ」
「私は一目見てわかったよ」
「…………」
それからオルデアは懐かしさに身を任せて昔話をし始めた。
たとえば幼稚園のお絵かきでオルデアの絵を書き、先生や両親にひどく心配されたこと。二人で一緒に川辺で遊びをしたこと。それから夜、布団の中で一緒に物語を考えたことなど……。
それらのエピソードは最初こそピンと来なかったものの、次第におぼろげな記憶が鮮明になっていく。
幼い頃の窓辺、一枚の紙に二人でお絵かきをして遊んだ記憶。それは、傍目には一人で遊んでいるように見えただろうが、あの時、私たちは確かに一緒だったのだ。
――オルデアは私の友達だった。想像の中の友達だった。しかし大事で素敵な友達だった。
「オルデア」
成長した私は、現実の友達を得ていくにつれて、いつしか彼女のことを忘れてしまった。そして忘れたことさえも忘れてしまっていた。
「仕方ないことだよ」
オルデアは首を横に振る。
自然と、私の手はオルデアに伸びていた。手、腕、そして肩。懐かしさと申し訳なさがないまぜになった心地でオルデアの肩を抱いた。
「オデット、あなたは何も知らないまま元の世界に帰るべきだったのに。懐かしさに抗えなかったよ」
ごめん、とオルデアが呟いた。
私には彼女の胸の内が痛いほどわかってしまった。
なぜ彼女が自分の正体を隠すようにしたのか。もしも私がオルデアのことを思い出してしまったら、私はきっと何もなかったことにして元の世界に戻れることはないだろう。言い換えればそれは、暗にオルデアがこの世界から脱出できないことを告白していた。
それでも尋ねずにはいられない。
「一緒に帰ろう」
「それはできない」
「なぜ」
「あの子は私の友達だから」
そっか、わかった、元気でね。そういう風に言う気がまるで起きないのは、ここが明らかに良くない場所だからだ。
傀儡のように人々が踊り狂う仮面舞踏会はいつまでも続くのだろう。オルデアはその永遠の時を、地縛霊と化した少女と共に過ごすことになる。
私が何も知らなかったならばまだしも、今はもう違う。
どうすればいいのだろうか。
一つ、オルデアのことをすっかり忘れてしまう。これは論外。
あるいはオルデアを少女から切り離し、オルデアを連れ帰る。
……いずれも最適解ではないように思う。
「どうしたらいいんだろう」
「というより、あなたにはどうしようもないことだよ」
「どうして」
「あなた一人の力でどうにかするには、この世界は歪み過ぎている」
それは諦念に満ちた言葉だった。
「私はあなたに幸せになってほしい。オデット、あなたは私の初めての友達だから」
――そっくりそのまま言い返してやりたい、と思った。
「私はオルデアを諦めない」
「……馬鹿な子。あなたは昔っからそうだった」
オルデアは立ち上がり、私の肩を押して突き放した。
「さようなら」
そしてオルデアは壁に立てかけてあった鏡に手を触れると、そのまま鏡の向こうへ行ってしまった。鏡の表面はとぷんと波打ち、間もなく静まり返る。
その後を追おうと私も鏡に触れたが、それはただの鏡でしかなかった。


6.鏡の回廊

オデットが誰もいなくなった休憩室を後にし、残り少ない時間の中でオルデアを助け出す方法を模索しようと足掻き始めた頃のこと――。
オルデアは鏡の回廊を通り、白蝶の仮面の少女――アンブロシア――を探していた。しかし探していたと言っても、おおよその場所の検討はついている。彼女が不貞腐れたときは、いつも行く場所があるのだ。
オルデアが歩く廊下の左右には合わせ鏡になった鏡が等間隔で並べられている。右にも、左にも、無数のオルデアが並んでいるのだった。
ここは山深蒼緑の城ミ・ルシェに隠されたもう一つの世界であった。表のミ・ルシェで華やかかつ盛大に仮面舞踏会が催されている頃、ここは深海の奥底のようにひっそりと静まり返り、あらゆるものが眠りについて夢を見ているのだ。
無数の鏡が一つ、また一つと夢を見始める。
それはこの城の記憶の再演であった……。

【庭師グレゴリーの記憶】

庭師のグレゴリーが働き始めてちょうど十年目になる頃、領主夫妻に長子が生まれた。
連日連夜、近隣の諸侯の使いが祝いに訪れ、また領民たちも公子の誕生を我が事のように喜び、贈り物をしようと城を訪れていたのだった。
グレゴリーが知る限り、庭がこうも賑わうことは初めてのことで、最初の頃こそ戸惑ったものの、こういうときこそしっかりと庭を手入れして見栄えの良いものにしておかなければならないと、ますます仕事に精を出していたのだった。

しかしそんなお祭り騒ぎも半年もすればすっかりおさまってしまうのが世の通りだ。
「グレゴリー、精が出るわね」
「やや、奥方」
台に上って高枝の手入れをしていると、公子を連れた領主夫人が散歩がてらグレゴリーに話しかけてきたのだった。
腕の中の公子はすやすやと眠っているが、見るたびに大きくなっているのがわかる。
「ぼっちゃんも大きくなりましたね」
「そうね」
それからグレゴリーが会釈すると、夫人は散歩に戻り、グレゴリーもまた仕事に戻るのだった。

そんな穏やかな日々がひと月、ふた月と流れ、いつしか季節が一巡りする。
公子が初めてはいはいをした、立った、言葉を喋った、という報告は噂として城内を疾風のように駆け巡り、半刻もしないうちに城の誰もが知り、そして喜ぶ。グレゴリーには城のメイドの一人で間もなく夫婦の契りを結ぶ女性がいたが、彼女と共に未来の主人の成長を我が子のことのように喜んでいたのだった。

公子が三歳になる頃、領主夫妻が第二子を授かったことが公にされた。
三年前と同様に皆が喜び、その誕生をまだかまだかと待ち侘びた。
そしてある満月の晩、夫人は第二子を生んだが、その知らせの伝わりは疾風どころか泥のように鈍かった。グレゴリーがその知らせを聞いたのは、第二子が生まれてから二日も後のことであった。
「どうしてすぐに教えてくれなかったんだ」
しかし彼女は複雑そうな顔をするのだった。それから辺りを見回し――それは誰か家の外で聞き耳を立てていないかどうかを探るような動きだった――、私の耳に顔を近づけた。
「お嬢様にはお顔がないんですって」
「顔がない、だって?」
「そう」
どういうことかと問い質したが、どうやら彼女も事情がよくわからないらしい。ただ、正常な生まれではないこと、そしてそのことは決して公にされるものではないことではあるらしい。なるほどそれならば、領主夫妻の第二子誕生の知らせが全然出回らなかったことも納得ではある。しかし同時に、自分たちは知るべきではないことも知ってしまい、きっと今後は平常ではいられないことも察せられるのだった。そして何よりも、領主夫妻の心中を慮れば慮るほど、心苦しくなるのだった。

三年前であれば誕生祝にとひっきりなしに来客が絶えなかったのに、今回は葬式のようにひっそりとしていた。
巷では、領主一家の二人目の子供は死産だったらしいという噂がまことしやかに流れ、いつしかそれが真実となっていた。しかしその“真実”が領民の領主に対する敬愛を一層深める結果となったのは、皮肉なことだったと言わざるを得ない。
グレゴリーは、すっかり寂しくなった庭を手入れしながら、城の窓を見上げるのだった。第二子が女の子であるらしいというのは妻から聞いていたことであったが、彼がその子の姿を見ることは、とうとう叶わなかった。


【執事ダニエルの記憶】

奥方の出産に立ち会ったメイドが、青ざめた顔で書斎に飛び込んできた。
その様子に領主とダニエルは冷たい汗をかく。
「お子様がお生まれになられました。女の子です。ですが――」
顔がない。
彼女はそう言った。

産室に飛び込んでいった領主の後を追うと、未だかつてないほど重苦しい空気が部屋を包んでいた。奥方の痛ましくそしてか細い嗚咽が事の重大さを物語っている。
領主はメイドたちを掻き分け、人垣の中心へ行くと、生まれた我が子を見て膝を崩したのだった。
「旦那様」
産婆が申し出る。
「僭越ながら、婆やの経験から申し上げまして、お嬢様が人並みの幸せを得ることは難しいかと存じ上げます。かくなる上は……厳しい判断も止むを得ないかと」
その選択肢を提示することが産婆としての自分の責任であると言わんばかりに、産婆の態度は堂々たるものだった。
しかし領主が取った選択は、生まれてきた赤子を殺すことなく育てるというものだった。
ダニエルは、心優しい領主らしい判断であると思うのと同時に、それが更なる茨の道を彷彿とさせるもので、今後はもう安泰な時間は流れないだろうとも思うのだった。
「……ここにいる者は、此度の件をくれぐれも口外しないように」
「ですが、城の者、皆がお子様の誕生を心待ちにしておりました。どうやって伝えれば――」
「生まれつき生死を彷徨う難病を患っていた、という噂をひっそりと立てよ」
我が子に関する暗い噂を指示することがどれだけ心苦しいことか、ダニエルには想像してもしきれないものだった。
「この子にはアンブロシアと名付けよう」
尊大にも不死の象徴の名を冠した少女は、かくしてこの世に生を受けたのだった。

アンブロシアの誕生を境に、ダニエルの目から見て明らかに領主夫妻の振る舞いは変化した。領主は一層熱心に公務に励み、奥方は一層心優しく周囲や子供たちを気遣うようになった。それは彼らの徳の高さの表れであると同時に、彼らの心が確実に病んでいっている証拠でもあった。
たとえば、巷でお嬢様は死産だった、という噂がまことしやかに囁かれているという話を聞いても、領主は眉ひとつ動かさなかった。そうか、と一言返事をしただけで羽根ペンを再び走らせる。

「ぼく、将来医者になって、アンブロシアの病気を治すんだ」
領主夫妻の長男であるマスケラは、事あるごとにダニエルにそう言った。八歳とは到底思えない決意の固さである。
「ええ、是非そうしてください」
そう言いながらダニエルは何とも言えない虚しさを感じるのだった。
机に向かって背を丸めるマスケラを見ながらダニエルは思い出す。あの日、アンブロシアが生まれた日に見た彼女の顔を。
(あれは、病気とかそういう類のものではない……)
そこには顔が“無かった”。虚無の暗闇が赤子の顔の上半分を覆っていたのだ。

アンブロシアは尖塔で“大事に育てられた”。立ち入れるのはごく一部の者たちに限られていたのだった。
ダニエルはそのごく一部の者たちには含まれていなかったが、領主からは度々彼女が“健やかに”育っていることを聞いていた。

そうして年月が流れ、間もなくアンブロシアが十二歳の誕生日を迎える頃、領主はダニエルにこう言った。
「仮面舞踏会を開こうと思う」
「それは――」
「いつまでもあそこに閉じ込めておくのはあの子が可哀想だからな」
アンブロシアは、顔が無い以外は普通の子供と何も変わらなかったという。普通の子供と同じように、泣き、笑い、怒り、悲しむのだ。
数ある催し事の中でなぜ仮面舞踏会なのかと問うのは野暮というものだ。
「領民や近隣諸侯など、身分問わず幅広い人々を招待してほしい。舞踏会の名目は適当にしてくれて構わないが、あの子の誕生日を祝うのにふさわしい催し事にしてくれ」
「かしこまりました」
この十数年の間に、領主もダニエルもすっかり老けた。髪の半分近くは既に白髪であったし、目尻に刻まれた皺は深いものだった。


【世話付きパーニャの記憶】

馬車が門をくぐり中庭に入っても、そこには人気というものがまるでなく、喪中であるかのようにひっそりと静まり返っていた。
(そろそろお姫様が生まれるって聞いてたんだけどなあ)
パーニャが訝しがっているうちに、馬車は城の入り口に着いた。

パーニャがアンブロシアの世話付きに選ばれたのは、彼女が領主に信頼されている人からの紹介だったからだ。
「彼女は主人に忠実で賢く、そしてよく気が利く娘です」
パーニャに言わせればそれは少々誇大された部分があったが、誰かが誰かに人を紹介するときというのは大抵そういうものだ。
しかし彼女が世話付きに選ばれた一番の理由は、彼女には城の知り合いがおらず、また身寄りもいないからというものであったことは彼女が知る由もない。

メイド長に連れられて尖塔の螺旋階段を上っている間中、パーニャは内心ため息をついていた。
(あんまりいいお仕事じゃなさそうだなあ)
仰せつかった仕事は、アンブロシアの世話をすることだった。「乳は出ませんが」とおずおずと申告すると、メイド長はパーニャを一瞥して「乳母は別にいます」と言った。
生まれたばかりの姫君の世話付きになれることは一般的には名誉なことであったが、それを初めて城に来た小娘に任せることの異例さや、喪中のように辛気臭い城の雰囲気から察するに、並ならぬ事情があることはなんとなくわかっていた。極め付けはこの尖塔だ。明らかにアンブロシアは城から隔離されていることの証左だった。

最上階の小部屋がパーニャの仕事部屋であった。清潔に整頓された部屋で、隅には白いカーテンに包まれたベッドがある――あそこに我が主がいるのね、とパーニャは思った。
パーニャたちに気付いた乳母が立ち上がり、黙礼する。肌の色艶の割に目の下の隈は色濃く、良い母乳が出せる乳母であるかというと、一抹の不安を感じるところがあった。
「……さて」
ぱたんと閉じ、パーニャと二人になったところでメイド長が重い口を開いた。
「これから何があっても声を出さないこと。よろしいですね?」
「はあ」
キッと睨まれてパーニャは背筋を伸ばし直した。
「こちらへ」
メイド長はベッドのカーテンをめくり、パーニャを呼び寄せる。
体を包むタオルは真っ白で、窓から差し込む明りを眩く照り返していた。その隙間から除く手はまだぷっくりと小さい。しかし、その顔は禍々しいほどの闇色をしていた。驚きすぎて悲鳴さえ出ない。
「つまり、こういうことです」
「病気、ですか」
「わかりませんが、少なくとも今すぐ感染(うつ)るという類のものではありません」
合点が行ったような、がっかりするような――思うことは色々あるが。
「お嬢様のお世話の役目、引き受けさせていただきます」
「……理解が早くて助かります。ありがとう。こちらも手助けできる限りのことはするつもりです――あなた、見た目よりも賢いのね」
心底意外そうに言われたのがパーニャにとっては一番衝撃的だった。

城の姫君がこうも公に出来ない秘密を抱えているならば、世話付きに求められる条件は、何よりもまず周囲と縁故がなく、身寄りのない人間であることだ。なぜならばそういう人間には秘密を漏らす相手がいないし、そして――。
(もし逃げ出しても口封じに殺してしまえばいい)
図らずも俗世と縁を切ることを余儀なくされたパーニャであったが、自分でも驚くほど冷静だった。
最初こそアンブロシアの暗闇は薄気味悪かったものの、数日も経てば見慣れるものであったし、特に害があるものでもないことがわかった。
定期的にアンブロシアのおむつを換え、アンブロシアがぐずれば抱いてあやしてやり、眠ればその間に部屋の掃除を済ませる。仕事といえばそれくらいのもので、その割にもらえる給金は満足以上のものだった。元々身寄りもなく、未来もない人間だったことを思えば、この待遇は十分すぎるものだ。
片や乳母はと言えば、数週間おきに入れ替わっていた。ふるい乳母たちがどうなったかはパーニャの知るところではない。

アンブロシアが城の中でどういう扱いを受けているかは、定期的にアンブロシアの部屋を訪れる人々の態度で察せられた。
しかし、訪れる人々の種類が限られるようになってくると、次第に彼らとは仲間意識が芽生えるようになり、時々の来客も心待ちになるものだった。

年月は流れ、アンブロシアは成長していった。
普段は白い包帯で顔を覆っているが目は見えるらしく、たびたび窓から上半身を乗り出しては周囲の山や空、列をなして飛ぶ鳥を指差し、そしてパーニャの肝を冷やした。その振る舞いは普通の子供と何ら変わるところがない。それだけに、城の人々がアンブロシアを少なからず忌まわしいものと思っていることが腹立たしい。
パーニャがアンブロシアを育てるにあたって気を付けていたのは、部屋に鏡を置かないことだった。もしアンブロシアが自分の顔を見れば、その普通ではないものにきっとひどく傷つくだろうと思ったからだ。

アンブロシアがひっそりと四歳の誕生日を迎えたある日の午後、ごんごんと扉を叩く音がした。それは知り合いがノックするものよりもずっと荒々しく、パーニャは咄嗟にアンブロシアをベッドの陰に隠した。
「ねえ、アンブロシア! アンブロシア! いるんだろ」
甲高い子供の声だった。
「ぼくだ、マスケラだ。君のお兄ちゃんだよ」
どこかで話を聞きつけたのだろう。アンブロシアの兄がやってきたのだ。
パーニャは扉を押さえ、しゃがんで扉の向こうの少年の高さに口の位置を合わせる。そして扉の隙間から語り掛けた。
「坊ちゃん、恐縮ですがお嬢様にお会いすることはできません」
「……お前、誰だ」
「アンブロシア様のお世話をさせていただいておりますパーニャと申します」
「開けろよ」
「できません」
「ぼくの命令が聞けないのか」
「ご主人様からそう仰せつかっておりますので」
背中にアンブロシアの視線が突き刺さっているのを感じる。
ながい沈黙だった。
「わかった。お父様にお許しをもらってきてやる」
「是非そうしてください」
「アンブロシア! また来るからね!」
いつの間に来ていたのだろう、アンブロシアはパーニャの肩に腕を乗せた。そして声を発しようとしたその間際、パーニャはアンブロシアを抱きしめ、声を出せないようにした。
アンブロシアが胸の中で何かを叫んでいるが、どうやらそれは外には漏れていなかったらしい。
やがて妹からの返事を諦めたマスケラが、重い足取りで階段を下りていく音が聞こえた。
十二分に時間が経った頃、ようやくアンブロシアを解放してやる。腕を離すや否や、アンブロシアは激昂した。

それから定期的にマスケラがアンブロシアの部屋を訪れた。パーニャが「お父様の許可は得られたのですか」と尋ねても、彼は黙して答えなかった。
だからマスケラを追い返すことがおそらく正しいことであったのだろうが、兄が妹に会いたいと思う気持ちを咎める道理が一体どこにあるというのか。
アンブロシアの世話付きを任された人間の責任として、扉を開けて会わせてやることだけはできなかった。しかし扉越しの会話ならば、とパーニャは目を瞑ることにした。
幼い兄妹が一枚の分厚い木の扉を挟んで話をするのを見ながら、パーニャはアンブロシアをただただ憐れむのだった。
マスケラとアンブロシアの件は間もなくメイド長に知られることになったが、パーニャが説得した結果、メイド長も見逃してくれることになった。

アンブロシアが十二歳の誕生日を迎える日のちょうど一か月前、パーニャは城で仮面舞踏会を開催するという話を聞いた。日付はちょうどアンブロシアの誕生日だ。つまり対外的な名目はともかく、内実的にはアンブロシアの誕生日祝いとして開催されるものだ。
「仮面舞踏会?」
首を傾げるアンブロシアにパーニャは説明する。次第にアンブロシアの顔は明るくなっていき、パーニャが説明を終えた後、アンブロシアは第一声、
「ここから出てもいいの?」
と色めき立った。
「ご主人様に感謝しなければなりませんね」
「うん!」
――アンブロシアにとってはこの部屋が彼女の世界だった。アンブロシアが外に出たいと思ったことは一度や二度ではないどころか、ほとんど常だった。アンブロシアが外に出たいと喚き、パーニャがそれをなだめるののがいつものことだった。

それからの一か月間は非常に慌ただしいものだった。
まずは仮面作りと、舞踏会に来ていくドレスや靴、その他アクセサリー選び。それからダンスの仕方や男性にエスコートされる上でのマナーなどを一から練習した。
もちろんパーニャ自身にもそういった舞踏会や社交の場でのマナーに関する経験がなかったので、まずはパーニャ自身がそれらに詳しい人から教わり、それをアンブロシアに教えるという流れであった。
尖塔の最上階、二人きりの小部屋で伴奏もなくステップを踏む。お互い下手だから足が絡み合って転んだのは数知れず、その度に面白くて二人して大笑いするのだった。

「ねえ、どう?」
白いドレスは控え目な見た目であるが、よく見てみればとてもよく凝った作りになっているのだった。アンブロシアのためにしつらえた白蝶の仮面は、パーニャが予想した通りとてもよく似合っていた。そして、彼女の暗闇をしっかりと覆い隠していた。
アンブロシアがその場でくるりと回ってみせると、スカートの裾がふわりと膨らんだ。
「とてもよく似合ってますよ」
パーニャは目を細める。
十二年という年月は、長いようであっという間だった。ここまでのアンブロシアの人生は必ずしも幸せなものだったとは限らないかもしれないが、それでもパーニャにとっては何物にも代えがたいものだった。


【料理長ジャックの記憶】

こんなに大きな催し事だなんて、何年振りだろうか――
「腕が鳴るってもんだ」
丸太のような腕の袖をまくり、ジャックは鼻を鳴らした。
今宵は仮面舞踏会。数日前から仕込んでいた食材たちは今や作業台の上にずらりと並び、あとはそれらを調理するだけだった。
ただ美味しい料理を作るだけではいけない。舞踏会の進行に合わせて出来立ての料理を提供できるよう、逆算しながらコックたちに指示を飛ばさなければならない。
来場者たちの舌と喉を潤すことこそがジャックの役目であり、料理人としてのプライドを実践する場であった。

料理は当初の予想よりもずっと早いペースで消費されていった。
ホールから次の料理を催促する声が右から飛べば、間髪入れずにローストチキンが焼き上がった知らせが左から飛び込んでくる。
「よし持ってけ!」
ジャックは快哉を叫ぶ。
忙しく、一瞬たりとも気が抜けないが、その緊張感はかえって興奮を促し、未だかつてないほど集中力が高まる。そんなジャックの気迫は厨房全体に伝わるのだった。
山盛りだった大皿が空き皿となって返ってくるのを見るのは実に愉快だ。

――――深夜、静まり返った厨房。初めての仮面舞踏会はかくして盛況のうちに終わりを迎え、ジャックは厨房で一人佇んでいた。
「お疲れ様でした」
「や、どうも」
声を掛けてきたのは執事のダニエルだった。
「お客様には好評だったようですよ、料理。旦那様も褒めておいででした」
「そりゃありがたい」
「今後、仮面舞踏会は定期的に開かれるとのことです」
「そうですかい」
「――嬉しそうですね」
「まあ、そうかもしれませんな」
ジャックは自分の口元が緩んでいることに気付いたが、敢えて隠そうとも思わなかった。ここまで心地よい疲労感に包まれたのは、もしかすると生まれて初めてだったかもしれない。
「次もよろしく頼みますよ」
「お任せを」
次回はどんな料理を出そうか。早くもジャックは次の舞踏会で出す料理のことで頭がいっぱいになるのだった。


【バイオリニストサヴェーラの記憶】

弓を構えた瞬間、それがとても良い曲になるのがわかった。
指揮棒が振り下ろされ、それに合わせて最初のフレーズを奏で始めれば、後は流れるようにワルツを演奏するだけだった。
仮面舞踏会と聞いたとき、何か怪しい集まりではないかと思ったが、それはただの杞憂だった。演奏台の上からでも皆が心からこの場を楽しんでいることがわかったからだ。
色とりどり、形も様々な仮面たちがくるくると舞い踊る様子は傍目に見ていて単純に面白いものだった。

……そんな仮面舞踏会はその後定期的に開かれることになったのだが、いつからだっただろう、淀みが生まれてきたようにサヴェーラには感じられた。
明確なものがあったわけではない。ただ、演奏のリズムに対して、微妙に合っていないテンポで踊る人たちが現れ始めたのだ。
始めは不慣れな人たちかと思ったが、一向に上達する気配がないどこか、他の人たちとダンスをする気配さえもない。
率直に言って、それは目障りなものだった。美しかった調和に混じったノイズ。今はまだ無視しようと思えばまだ無視できるものであったが。

しかし淀みは舞踏会が開かれる度に増えていった。それは違和感を通り越してもはや異質さと呼んで差支えのないものにまでなっていた。
彼らは一か所にまとまって踊るフリをしながら仮面舞踏会に“寄生していた”。
一体彼らは何がしたいのか。サヴェーラには解せない。ただひたすらに気持ちが悪かった。そしてそれは楽団全員が感じていることでもあったのだった。

そしてその淀みが最高潮に達した日のこと。
舞踏会も半ばを過ぎた頃、突然ホールに鉄の鎧を身に纏った騎士たちが押し入ってきた。
何が起こったのかわからず皆が混乱に陥る中、誰よりも早く反応したのは淀みの一団だった。彼らは身を翻し、まだ騎士の姿のない出入り口から脱出を図る。しかしそこも騎士たちに塞がれてしまうと、今度は懐から刃物を取り出し、騎士たちに切りかかった。悲鳴をかき消すように剣戟の音が鳴り響く!
サヴェーラは演奏台の上にいたために、ホール全体の様子がよく見え過ぎてしまった。騎士たちは攻撃してきた者に反撃するだけでなく、無抵抗の参加者たちにまでその切っ先を向けていた。
その混乱の最中、どこかで落ちた火が絨毯に引火し、たちまちホールは炎の海に包まれる。
騎士たちは撤退し、扉を閉めてしまう。
熱気と煙に包まれたホールの中、周りの人間たちは一人また一人と倒れていく。
そしてとうとうサヴェーラも倒れてしまった。


【武器商人ザンドの記憶】

ザンドが、山の中のとある城で仮面舞踏会をやっているという話を聞いたのは決して最近のことではなかったが、そこが商売上役に立つという話を聞いたのは最近のことだった。
合言葉は「紅い月の夜」。
「後はうまくやりな」
と情報屋の男はザンドの肩を叩いた。
参加資格不要の仮面舞踏会を開くなど、ここの領主はよっぽど間抜けで酔狂なのだろう。そこは普段はお近づきにはなれないような高貴な方々と商談をするには格好の場だった。誰が最初に始めたのかはわからないが、その仮面舞踏会は裏取引の商談や密談の場として使われていることは、裏世界の人間にとってはすっかり常識となっていることだった。

「紅い月の夜には血のように赤いワインが似合うのでしょうな」
「面白いことを仰る方だ――どれ、あちらへ行きましょうか」
ホールの片隅、怪しまれない程度に適当なステップを踏みながらザンドたちは商談を行う。
普段店を構えていてば一日に数個の商品が売れれば御の字であるのに、ここに来れば数百単位の商品をやり取りすることができる。得られる儲けは桁違いだった。
(なるほど、そりゃ俺みたいなのが集まってくるわけだ)
口元に浮かべた笑みは仮面に隠れるのだから、なお都合がいい。

しかしそんな美味しい場は長続きしないのが世の常だ。
ある舞踏会の晩、突然騎士たちがホールに踏み込んできたのだ。
(ちっ、引き際を見誤ったか)
ザンドたちが大儲けするということは、どこかで誰かが割を食うということだ。その負債は正義の看板を背負って復讐にやってくる。大方、不正の温床となっている仮面舞踏会を粛清せよ、という決議が中央議会で内々に決定され、秘密裏に実行されたというところだったのだろう。
最後の逃げ場もとうとう騎士たちに塞がれ、いよいよ進退に窮した折、室内のどこかから火の手が挙がった。それはたちまちホール中を包んだのだった。


【公子マスケラの記憶】

――夜が明け、全てが燃え尽きた後、マスケラは瓦礫を押しのけ立ち上がった。
「アンブロシア、アンブロシア!」
ところどころからまだ煙がか細く立ち上っている中、マスケラは妹の名を呼び彼女を探していた。
アンブロシア――月に一度の仮面舞踏会の日にしか会えない彼の妹。彼女は白蝶の仮面の通り、蝶の如く軽やかに彼の腕の中で踊る子だった。
太陽が天頂を通って西の山の稜線に沈む頃になっても、マスケラはアンブロシアを見つけることができなかった。あるのはただただ無数の仮面たちのみだ。

やがて日が暮れ、紅い月が昇る。
マスケラは瓦礫の海の上にとうとう膝を突いた。見渡す限り瓦礫、瓦礫、瓦礫。
「アンブロシア、君にもう会えないのか」
ぽつりと呟いた自分の言葉を直ちに自分で否定する。否、断じてそんなことは認めない。

「君と合えるのが仮面舞踏会だけだというならば、父上に代わって僕が何度でも開いてみせる」

マスケラは自分に不思議な力が漲っていくのを感じた。仄かに青く光る魔力の潮流が全身に行き渡るのだ。
腕を天に突き出し力を込める。周囲の瓦礫が、朽ちた仮面たちが、かたかたと揺れ出し浮き上がる。死者の魂は己の仮面を憑代にして再び体を得る。瓦礫たちは罅割れの痕跡もなく元の城の形になおっていく――。

――――。

――。

アンブロシアが目を覚ますとそこはオルデアの膝の上だった。冷たい青灰色の月の光がさめざめと降る窓辺。
アンブロシアは無言のままオルデアの膝の上で泣き続け、オルデアはそんなアンブロシアの髪をただ優しく撫で続ける。


7.魔力の泉

長い螺旋階段を上る間、私の意識はオルデアとリンクしており、彼女が鏡の回廊で見たものは私と共有されていた。それはかつて同一のものだったことの名残か。少なくともオルデアは私にこの城の過去について知ってもらいたかったように思えた。
この城や、それぞれの人々が持つ過去について私は何も言うべきではないだろう。それでも一言感想を述べるならば、痛ましいの一言に尽きる。何が正しいことなのか、オルデアやアンブロシアたちはどうあるべきなのか、そういったことがすっかりわからなくなってしまっていた。
尖塔の長い螺旋階段を上った末に私は小さな部屋を見つけた。そこは、アンブロシアの部屋だった。
「オルデア」
彼女は窓辺のベッドに腰掛けていた。その膝の上ではアンブロシアが丸まっている。
「不貞腐れ方があなたとそっくりなのよ、この子」
……私も、親に叱られたときはいつも押し入れに逃げ込み、そこで丸くなっていたものだ。その時の姿はちょうど今のアンブロシアのようだったのだろうか。
「オルデアはここにいて幸せなの?」
「ここが居場所だとは思ってるわ――どんなにいびつな世界だったとしても。あなたも見てきたのでしょう」
仮面舞踏会に寄生する無数の矮小な悪意を土壌として、兄マスケラの妹アンブロシアに対する妄執で作られた永遠の仮面舞踏会。自我のない仮面たちは傀儡のようにただひたすらに踊り狂い、まだ悪意に侵されていなかった頃の仮面舞踏会を繰り返し繰り返し追憶し続ける。それは彼が妹と再会するための舞台として作られたものだ。
「ねえ、一つ聞きたいんだけど」
「なあに?」
「マスケラはアンブロシアと再会できたの?」
「ああ、そのこと――」
オルデアの声が俄かに曇った。語るか語るまいか、少しだけ逡巡した後、ここまで秘密を共有したならば最後まで教えるべきだろうとオルデアは考えたのかもしれない。
「二人は会えたわ。そして、マスケラはアンブロシアを受け入れることができず、心をなくした」

***

溢れる魔力はマスケラの意のままに働き、あの平和だった頃の仮面舞踏会を寸分違わず再現してみせた。
魔力の胎動がゆっくりと静まり、やがて収まる。そこは見慣れた自分の部屋だった――マスケラは自室を飛び出す。階段を滑るように下り降り、立ち話をする仮面の紳士淑女を押しのけ、アンブロシアの名を呼びながらいつも待ち合わせていた大鏡の前に辿り着いた。
「アンブロシア!」
その声に彼の妹がハッと振り返る。白蝶の仮面に白のドレス。ぼうっとした淡い光に包まれているその姿は、泡沫のように曖昧であった。
マスケラは今しがたまで自分を包んでいた魔力と同じ波動を彼女から感じ取り、彼女こそがその力の源泉だったことを理解した。
「お兄様」
「もう一度、君に会えた」
マスケラはアンブロシアの手を取り、その感触が嘘偽りのないものであることを確かめる。アンブロシアもまたマスケラの手を握り返した。
「アンブロシア、僕と踊ってくれないか」
「はい、喜んで――」
ダンスホールの扉を開くと、あちこちの硝子装飾のそれぞれに小さな灯りが宿り光の雨が降っていた。いつものワルツであるのに既にどこか懐かしい。
吸い付くようにぴっとりと合わさった両の手のひら、それからつま先、彼らは一対で一体の動物のようだった。目配せし合うだけでお互いの思考、気持ち、そして至上の歓喜が伝わり合う。
一度踊ったくらいではちっとも満たされない。だから二人は何度も何度も舞い続け、幾度鐘が鳴っても踊り続けた。
そしてとうとう最後のワンフレーズを踊り終え、最後の鐘が鳴る。
もうこれでおしまいなのだろうか――一抹の寂しさが兄妹の胸中を交差する。
「僕はアンブロシアと一緒にいたい」
今や仮面舞踏会の支配者はマスケラとアンブロシアの二人だった。彼らが望むものは全てが実現する。何者にも妨げられない。

これ以上満ちる余地がないくらい満ち足りた心地でアンブロシアはベッドに仰向けになった。腕を伸ばし、兄の頬を撫でる。
マスケラはゆっくり仮面を外し、初めてその素顔をアンブロシアに晒した。
「綺麗なお顔」
アンブロシアはうっとりと甘い微笑みが浮かべる。
マスケラの手はアンブロシアの白蝶の仮面に向けられる。アンブロシアはぴくりと体を震わせ、身を固くした。
「駄目かい?」
――仮面は決して外してはなりません、とパーニャにきつく言われたことをアンブロシアは思い出す。何故かと尋ねてもパーニャはとうとう教えてくれなかった。
しかし今、アンブロシアは心が揺れていた。マスケラに全てをさらけ出してしまいたい。己の身を貫く衝動はアンブロシアの手に負えるものではなく、戒めを守る心はとうとう押し負けてしまう。
アンブロシアは頷き、顎を少し上げた。
マスケラの嘆息。
震える指が白蝶の翅に触れ、持ち上げる。青い月の光が、仮面の下のアンブロシアの顔を照らしていく。さやけき月光でも照らされない虚無の暗闇が露わになる。禍々しく、忌避感を免れ得ない、蠢く暗闇が。
――冷たく凍っていく顔を見るアンブロシアの不安な心地は筆舌にし難い。
「どうしたの?」
「アンブロシア、その顔は……」
努めて優しく振る舞おうとするその声は、隠しようもなく震えていた。
その瞬間、マスケラは全てを理解していた。なぜ両親や使用人は自分にアンブロシアの存在を隠したのか、なぜマスケラがアンブロシアの存在を知った後も頑なに会わせなかったのか、なぜ実の兄妹でありながら仮面舞踏会でしかアンブロシアと会うことができなかったのか、そしてなぜアンブロシアの仮面が外されることがなかったのか。全てはアンブロシアの秘密を隠すためだった。それはマスケラに対してだけでなく、アンブロシアの秘密を知る資格のない全ての者に対して秘匿されてきた秘密であった。
「なんて惨い……」
絞り出された言葉は、アンブロシアの耳には侮蔑の言葉として聞こえてしまった。たとえそれが、妹の不幸な生い立ちを憐れみ嘆いたものであったとしても。
アンブロシアは手で顔を覆って泣きじゃくる。虚無の暗闇がその手を慰めるように優しく包む。
「違うんだ、アンブロシア――」
マスケラが差し伸べた手をアンブロシアは手厳しく振り払う。そしてマスケラを突き飛ばし、部屋を飛び出していった。
アンブロシアが風よりも速く螺旋階段を下り降りる一方、マスケラの踏む石段は粘りつくように靴の裏に絡みつく。マスケラが生み出した城であったはずなのに、今やミ・ルシェの主はアンブロシアただ一人であるようだった。待って、とアンブロシアを呼ぶ声は虚空にこだまし届かない。

人のいなくなった広間にアンブロシアが滑り込む。勢いそのままに大鏡の前に立ち、宙からランプを取り出し鏡を照らした。
そこに映るのは、初めて見る己の素顔だった。蠢く虚無の暗闇がそこにあった。明らかに常人のものではない、異様で気味の悪いものがそこにある。
そうか、全てはこれを隠すためのものだったのか、とアンブロシアは悟った。世話付きパーニャの機転か誰かからの差し金かわからないが、アンブロシアが育ったあの部屋には鏡というものがまったくなかったことに改めて気づく。自分の体、それもすぐ近くの顔に、こんな秘密が隠されていたことなどまったく知らなかった。
騙された、裏切られた、と腹を立てるが、この怒りのやり場はどこに向ければいいのだろう。
アンブロシアは指先から魔力の糸を飛ばし、城の奥からパーニャの仮面と魂を射抜いてこちらに手繰り寄せる。パーニャは仮面を憑代に、青白い霊体となってアンブロシアの前に現れる。
もの言わぬパーニャの亡霊は虚ろな顔で俯いている。アンブロシアの罵声にもぴくりとも反応しない。それは、ただのパーニャの形をした人形でしかない。
この裏切り者……!!
カッとなったアブロシアは、パーニャの仮面を掴み、地面に叩きつけ、仮面を粉々に踏み割ってしまう。憑代を失ったパーニャはうっすらと薄らいでいき、間もなく消え失せてしまった。そしていよいよアンブロシアは復讐する相手をなくしたことに気付いた。
「アンブロシア!」
その時ようやく追いついたマスケラが、壁に手をつき肩を上下させている。
「嫌! 来ないで!」
一層激しくアンブロシアの虚無の暗闇がざわめき、一層強くアンブロシアの魔力は高まった。脈打つ怒気は心臓が高鳴るたびにますます激しくなる。
「みんな嫌い!」
悲鳴のような叫び声は衝撃波となって周囲の一切を吹き飛ばし、マスケラの体も背後の壁に叩きつけられた。マスケラは一瞬のうちに呼吸を失い、体から力を抜けていくのを感じる。しかしそれは、単に意識が遠のいていくだけでなく、自分の魂が強烈な力で束縛されていく感覚でもあった。アンブロシアが力任せに自分を押さえつけ、城に埋めてしまおうとしているのだとわかった。自分がだんだんただの城の一部になっていくことよりも、アンブロシアに誤解されたまま消えていくことの方がよっぽど辛いことだった。
じくじくと膿んだように顔の表面が傷む。アンブロシアは自分の顔を覆う暗闇が魔力の泉であり、自分はその力を使いすぎたのだとわかったが、そんなことよりも胸の内の方が痛くてたまらなかった。

かくしてアンブロシアはミ・ルシェにただ一人取り残されることになった。
その強大な魔力故に果てることも叶わず、ただいたずらに仮面舞踏会の夜を繰り返すしかなかった。
記憶はやがて風化し、なぜ自分がここにいるのかも忘れてしまった。楽しかった仮面舞踏会の記憶だけが、彼女のただ唯一の憧憬であった。

***

広間の大鏡の前でオルデアが語り終えると同時に、大鏡は再び元通りのただの鏡に戻ってしまった。
「可哀想なアンブロシア」
オルデアがぽつりと呟く。
「いつかあの子の魔力が枯れ果てたとき、あの子は解放されるんじゃないかって思ってるのよ」
「それまでどれくらいの時間がかかるの?」
「さあ。でもいつかきっと」
――あなた一人の力でどうにかするには、この世界は歪み過ぎている。
オルデアが言った言葉を思い出し、その意味をいまさらになってかみしめる。それでも何か、どうにかできる余地があるんじゃないかと頭を巡らせるが、アイデアは何も浮かばない。

三つ目の鐘が鳴る。重苦しく、腹の底に響くような鐘の音は今宵の仮面舞踏会の終演を知らせるものだった。

「時間切れ。さあ、お帰りなさい」
「…………」
私は元の世界に帰り、オルデアはほとんど永遠みたいな時間をここで過ごす。結局これしかないのだろうか。気持ちのいい結末とは到底言えるものではないが、現状それ以上のものが出てこない。オルデアを諦めない、と啖呵を切った自分は結局口だけで終わってしまうのだろうか。そう思うといささかばつが悪い。
「あなたともう一度会えるなんて思わなかった」
「そんな寂しくなるようなこと言わないでよ」
私はもう二度とオルデアと会うことはないのだろう――そう思うと喉の奥がきゅっと苦しくなる。
「送っていくわ」
彼女もまた名残惜しげに言ってくれるところが嬉しい反面、己の無力さが悔しくなってしまうのだった。

――オルデアぁ、どこぉ……

遠くからアンブロシアの、眠たいような鳴き声のような掠れ声が聞こえてきた。
我儘で自分勝手なお嬢様に対する反感がすっかり孤独な少女を憐れむ気持ちにすっかり変わっていることに気付き、そしてそんな自分が少しだけ嫌になる。
「オルデア、いなくならないでよ……」
影を泳いで移動してきたアンブロシアは、物陰から現れ、オルデアの背中にぎゅうと抱き着いた。白蝶の仮面はしっかりとオルデアの顔に張り付いている。
「お客様のお見送りに行って参ります」
「えー、そんなのいいよ」
アンブロシアはオルデアの脇から顔を出し、思いっきり顔を顰め、舌を突き出した。
「私、あの子嫌ーい」
「……お嬢様、お客様に失礼です」
「私は気にしてないから」
オルデアが心苦しげに眉を顰めるだけで私は十分だった。
「見送りもいいよ。……じゃあね」
あまりもたもたしているといつまでも出ていける気がしなかったので、思い切りよく足を踏み出した。
元の世界に戻って目覚めてしまえば、自分はまたオルデアのことを忘れてしまうのだろうか。せっかく思い出せたのに。だから、忘れないようにしよう、もう二度と……。


来ていたドレスや仮面を元あった場所に返し、着替え直して城を出ると東の空がすっかり白じんでいた。あれほど賑やかだった仮面舞踏会はすっかり終わり、城全体が眠ったようだった。
中庭を通って裏門を抜ける。振り返って見上げてみれば、そこには冷たい石の壁が空高くにそそり立っている。
「おおい」
私を呼ぶ声がする。それは黒マスクの青年だった。
「無事に乗り切ったようだね、よかった」
「よくも私を置き去りにしてくれたわね」
「急用ができてしまってね――悪かったと思ってる」
「まぁ、もう済んだことだからいいけど」
「送っていくよ。あんまり長い間は無理だけど」
「無理しなくていいよ」
「君を送っていきたいんだ」
「……そう」
青年は肩を上下させていた。相当急いで走ってきたのだろう。
どうして彼はそこまでしてくれるのだろう、と考えて、そして考えることをやめた。
「舞踏会はどうだった?」
「色々なことがあったよ。一言じゃ語り切れない」
「そうか――でも、君が本当に無事でよかったと思う」
「助けてくれる人がいたから」
もしも、最初に会ったのがアンブロシアだったら、私はどうなっていただろうと思うと、ぞっとする。彼女の可哀想な身の上に同情して、安易に「お友達になってあげる」などと約束をしていたら、きっと無事に城を出られることはなかったのだろう。しかし、だからと言って、アンブロシアと共にいることを選んだオルデアが、罠にかかった可哀想な囚われ人であるかというと、それも違うように思う。それは選択の余地のない選択だったのかもしれないが、結果的に彼女はそれを受容した。片や私は、アンブロシアの友達になるかならないかという最低限の選択の余地があった上で、一つの選択をした。理想を言えば、オルデアも、そしてアンブロシアも、皆が救われるのが良かったのだが。
決して最善とは言えない結果に終わってしまったことを、仕方ないと正当化するにはきっと時間がかかるだろうし、そもそもそうすることに私の良心がどこまで耐えられるかというと、それは未知数である。
「あなたにもお世話になった」
「……そっか」
無言だが、お互いの距離感を噛み締め合うような時間が流れる。
一歩、一歩が愛おしい。

小橋を渡り、森の入り口が見えてきた頃――。
ズン、と大地が揺れ、森から無数の鳥がはばたいた。
何事かと振り返ると、それは今まさにミ・ルシェが瓦解していく最中であった。尖塔が折れ、落ちて地響きを鳴らす。
土煙が立ち込める中、漆黒の巨人が立ち上がる。その頭は雲にも届く勢いで、黄金色の双眸を旋回させて何かを探している。
「――ッ! 走って!」
黄金色の双眸が私と青年を捉える。
地を這う大蛇のような黒い腕が、石畳を巻き上げながらこちらに迫ってくる。
あれは怒り狂ったアンブロシアだった。漲る魔力が際限なしに解放した結果だ。
漆黒の巨人の表皮から離れた黒い粒が鴉の姿を成し、次々と私たちに襲い掛かってくる。硬い嘴が容赦なく頭や肩を突き、皮や肉が啄まれ、その痛覚に思わず悲鳴を上げてしまう。

――やめて、やめてよ、アンブロシア!

青年が叫ぶがそれは怒りで我を忘れたアンブロシアにはまるで届いている気配がない――青年は舌打ちをする。そして、
「オデット、君は僕が守る」
青年は漆黒の巨人に向き直る。鴉たちがいっせいに青年を取り囲んだ。
「走って!」
「嫌だ!」
「走れ!」
黒い腕が瞬く間に押し寄せ、青年を掴む。一瞬のうちに青年の体は空高くまで持ち上げられ、鴉に啄まれた黒マスクが剥がれ素顔が露わになる。
頬にそばかすのある、女性の顔。苦しげに顔を歪め、唾を飛ばしながら私に「逃げて」と叫んでる。
初めて見る顔だが、それが何者かなど、わかりきったことだった。
「オルデア!」
オルデアは巨人の手の中で身を捩るが、巨人はびくともしない。そうしているうちに、巨人の拳からアンブロシアが身を起こし、オルデアの頬を両手で包み、額と額を重ねる。その顔から溢れる虚無の暗闇が、泥のようにオルデアの頭に降りかかる。
「オルデア、ひどいよ……私を捨ててここから出ていくつもりだったんでしょ」
「違う……私はあなたを裏切ったりなんかしない」
「嘘つき。じゃあなんで男の人の格好までしてお城を抜け出したの。メイドの格好のままじゃ私の目を逃れることができなかったからだよね」
「信じてよ、嘘じゃない、私はただ」
「うるさあい!」
アンブロシアから噴き出した暗闇がオルデアの全身を包み込んだ。
ヘドロのように垂れた暗闇が飛沫となって私の足元近くまで跳ねた。


***

……その後のことはよく覚えていない。
ただ一つ確かなこと。それは、私はあそこから逃げ出した、ということだった。
オルデアを見捨て、我が身可愛さを第一に、みっともなく、腰を抜かしながら森の奥まで逃げてきた。
出口が針の穴よりも細くなり、手元も見えない暗黒となり、何も考えられずただ歩き通し、気が付いた時には私は森の中の少し拓けた場所にいた。
朽ちた大樹には体がすっぽり収まりそうな洞があった。私はそこに身を忍び込ませ、ぎゅっと膝を抱えて目を閉じた。


8.夢の終わり

身体を起こすとそこは柔らかいベッドの上だった。夏場の遅い日暮れの名残が、窓の外にあった。
「ごはんだよ。……まったく、この子は本当に寝てばかり」
母だった。

今さっきまで見ていた夢のことは鮮明に思い出せる。
山の奥深くにある古城、艶やかな仮面舞踏会、鏡に映し出された様々な人々の記憶、そしてそれらをすべてかき消すような巨大な漆黒の体躯、その拳に囚われた男装の麗人、そしてその人が自分にとってかけがえのない人であったこと。
「オルデア」
涙が玉となって滴る。

私は自分のことが許せない。

せめてこの名前は忘れてはならないと、メモにきつく書き記した。

(了)

***

38,397字。
長期RP村、<a href="http://redabyss.sixcore.jp/abyss/sow.cgi?vid=224&cmd=vinfo" target="_blank">深海国(赤)224 とある仮面たちの舞踏会</a>に寄せて。