2021年2月11日木曜日

砂漠の幻葬団(1. 砂鯨 another side)

  心臓と胃袋の間あたりを撫でられるような違和感。強いて喩えるならばそんな不快さでマユワは目を醒ました。窓の外を見なくても、どの方角に冥界の門が建ったのかはわかる。
 マユワは上体を起こし、むかむかする腹を手でさする。こうしたところで少しも良くはならないのだが、気休めくらいにはなる。
 そんなマユワの気配を察して、隣で寝ていたアルフィルクも目を醒ます。
「死んだのか」
「うん、すごくおっきいの」
「……砂鯨か」
「たぶん」
「水はいるか?」
「ちょうだい」
 アルフィルクが降りる弾みでベッドが軋み、反動でマユワの体が軽く上下に揺れる。その揺れですら今は気持ち悪い。水差しからコップに水を注ぐ音は近いような、遠いような、はたしてベッドからテーブルまでの距離はどの程度だったか。無意味な思索だが、今は意識を少しでも逸らさないと嘔吐してしまいそうだった。
「ほら」
「ん……」
 受け取った水を半分ほど飲み、一度喉に通す。それからもう一度、今度は最後まで飲み干した。夜の冷気で冷えた水が胃に広がるのがわかる。その清涼さはいくらかマユワの気分を和らげてくれた。
 その間にアルフィルクは身支度を整える。部屋を出て、別室のグラジとルシャにも声を掛ける。俄かに宿の二階は物音で溢れるようになった。
 私も準備しないと……。しかし体は動いてくれない。冥界の門はいつも不快を伴うやり方で己の存在をマユワに伝えてくるが、今回は特にひどい。ただ冥界の門が大きいだけでなく、そこに伴う思念が色濃いのだ。愛にせよ、憎しみにせよ、込められた気持ちの濃度が並大抵ではないようだ。マユワの手足は蝋で固められたよう重たく、動かそうという意思に反して体が応えてくれない。
「無理するな、じっとしてろ」
 部屋に戻ったアルフィルクが準備の手を止めずに声をかける。
「マユの分はいつも通りでいいな。反応はなくていい。違うなら言ってくれ」
 マユワは小さく頷いた。いつも通りでいい。その頷きをアルフィルクが見ていたかどうかはわからないが、どのみち沈黙は肯定を意味する。
 暗い部屋の中、灯りもつけずにアルフィルクは手際よく出発の準備を進める。行って帰ってくるまでは最長で四日程度を見積もる。その間の水と食料、仕事道具一式、その他雑貨類。適宜グラジとルシャに指示を出し、部屋を出入りする。一連の準備の一部として、アルフィルクはマユワの寝間着を脱がせた。
「汗、かいてるな」
 水差しの水を布に含ませ、マユワの背中や腋を拭う。体から熱が抜けていく感覚がマユワには心地良い。一通り全身を拭い終わると、新しい下着に替えて出立用の衣服を着させる。着替え終わる頃には、気分はだいぶ良くなっていた。
「団長、準備できたぞ」
「わかった、行こう――マユ、歩けるか?」
「もう大丈夫」
 グラジとルシャに続いてアルフィルクとマユワも部屋を出る。

「門はどっちだ」
 アルフィルクに問われ、マユワはある方角を指さした。グラジが帆を操り、舳先をそちらに向ける。マユワの目には白銀色の光を淡く帯びて輝く巨大な門が砂漠の彼方に見えているが、他の三人はそうではない。しかしマユワがあると言うのだから、あるのだ。
 今宵はよく晴れているが月のない夜だった。どこまでも続く星々の海を空に仰ぎながら砂船は走る。その間は誰も喋らない。グラジは風を読んで帆を操り、ルシャは荷物に背もたれて空を見上げ、アルフィルクは船の先端に座り込み、マユワはアルフィルクのマントの陰に座って舳先が指し示す冥界の門を見つめている。
 冥界の門が建ったということは、その近くで何者かが命を落としたということだ。砂漠の旅には常に危険が伴うので、たとえ砂鯨だろうが、いつ誰が命を落としたとしても、決して不思議なことではない。一人旅だろうが、二人以上の旅だろうが、危険性に差はない。熱病、毒蠍、野盗など、砂漠には危険が溢れている。
 一人旅をしている者が死んだのならば、その亡骸は自然のままに任せるよりも、人の手で弔い、砂ではなく人間の社会に還した方が良いものはそうしてやるのが良い。二人以上の旅の場合、全員が死んでいれば同じく弔うべきだし、もし生き残っている者がいれば極力平和裏に事を進めるのが良い。すなわち、話し合いだ。交渉が成立すれば手間賃を貰う代わりに街まで生き残った人間を運ぶし、遺体も場合によってはその場で弔う。
 無論、アルフィルクたちのこれらの活動は誰かに頼まれてやっていることではないし、善意でやっていることでもない。各自ができることを繋ぎ合わせたら、葬儀屋のようなことをするのが一番仕事として形になったというだけのことだ。
「この辺りでいいよ」
 発ったときには親指ほどの大きさでしかなかった冥界の門が、すっかり見上げるほどになるまでに砂船は近付いた。白銀色の門柱は冥界の風を浴びていくつもの細かい傷を負っている。しかし門扉の方は、同じく白銀色であるにもかかわらず、そこに傷はなく、代わりに死神の国の文字が細かく刻まれている。門はまだ開いていないらしい。
 アルフィルクに手を引かれてマユワは船を降りる。冥界の門までは歩いて数十歩の距離だった。
「じゃあ、行ってくるね」
「おう」
 マユワはアルフィルクに小さく手を振った。砂船の縁でルシャも手を振っているのが見えたので、そちらにも手を振り返す。
 冥界の門が建ったときの不快感はだいぶ収まっていたものの、いざ門の前に立つとやはり腹の底がざわざわする。しかし今用事があるのは冥界の門ではなく、すぐ近くにいるはずの死者の魂だ。マユワは目を閉じ、耳を澄ませ、額の辺りに神経を集中させる……。
 さり、さり、さり……。砂の擦れる音が聞こえてきた。それは彼方からやってきたというよりは、すぐそばに来ていたことが不意に意識上に浮かんだと言うべきものだった。足音の主はずっと前からそこにいて、マユワが遅れてその事実を察知したのだ。だから瞼を開いてみたときに、目の前に砂鯨がいたとしても、それは驚くべきことではない。
 美しい砂鯨だった。娘と呼べるほど若くはないが、老女と呼ぶにはまだ早すぎる。冥界の門と対峙する横顔は凛として静かだった。自分が死んだ事実は既に受け入れており、ただ静かに冥界の門が開くのを待っているようだった。やがて冥界の門が開き、そこから現れる死神が彼女を冥府に導いていくことだろう。
 生者が死者と関わる術を持たないのと同じように、死者もまた生者と関わる術を持たない。だから、今この瞬間、砂鯨自身からしてみれば、彼女は何も無い世界の中に佇んでいる。すぐそばにマユワがいることなど知る由もない。マユワはその様子をそっと見守り続けていてもよい。しかし、穏やかな見た目や佇まいとは裏腹に、砂鯨の心の内には罪の意識と愛慕の情が激しく渦巻いているのが見て取れて、無視し難いものだった。
 マユワは手を伸ばし、砂鯨に触れた。指先から砂鯨の熱が伝わってくる一方で、砂鯨も自分が触れられたことを認識する。一瞬驚いた様子だったが、どうやらマユワを迎えに来た使者と誤認しているらしい。
「ごめんね、違うの。私はあなたを連れていく人じゃない」
 では、あなたは一体……? 
「生者と死者のあいだを漂ってるだけの……ただの人間」
 ……何か特別な事情があるようですね。しかしきっと何か意味があって、あなたは私の前に現れたのでしょう。
「ううん、私があなたに与えてあげられる意味なんて、何もないよ。私ができるのは、あなたという存在を認識し、記憶することだけ。私が見聞きして理解しうる限りのあなたの像を、私の中に複製する。それ以上のことはできない」
 そういうことをあなたが望むならば、だけど。そう付け加えて、マユワは砂鯨の反応を待つ。
 砂鯨はしばらく逡巡した後、言葉を探しながら語り始める。砂鯨に触れたマユワの指先から、砂鯨の思念がマユワの中へ注がれていく。

 百年分の記憶がマユワの中を駆け巡る。砂鯨の半生のほとんどは砂漠の旅であった。生まれたばかりの頃こそ他の兄弟や親と砂漠を放浪していたが、ある時からは家族と離れて人間に飼われて砂漠を旅するようになった。主となった人間は、マユワが数えた限りで四人ほどいた。
 一人目は行商人の男だった。一番目の主にとって砂鯨はと砂漠を旅するための足であると同時に資産だった。買われてから十年ほど経ったある日、異国の彫刻物を買う資金を作るために砂鯨は市場で売られた。砂鯨は主に対して彼女なりの親しみを持っていただけに、何の躊躇いも労いもなく売られた時には大変悲しかったものだ。
 二人目の主も行商人の男だったが、こちらは砂鯨をとてもよく扱ってくれた。砂鯨に白く可憐な花を意味する名前を与え、朗らかに笑いながらその名を呼んでくれた。砂鯨は男を背に乗せて砂漠中を隅々まで旅した。危険な目には数えきれないほど遭ってきたが、砂鯨と男は共に助け合い、危機を乗り越えてきた。
 出会ってから三十数年後、二人目の主は若い妻を娶り、東西の貿易の要衝となる街の一角に居を構えた。蓄えた財をはたいて家と商店を手に入れたのだ。行商人として大成したのだから、実にめでたい話である。砂鯨も敷地の中に専用の小屋を貰ったものの、主と寝食を共にすることはなくなった。朝と晩に小間使いの小僧が雑穀と水を運んできてくれるし、毒蠍に襲われる危険もない。安全と平和が約束された退屈な日々を手に入れることができた。
 それから二年後、主人夫婦に長男が生まれた。彼が後の三人目の主となる。砂鯨は彼が乳飲み子だった頃から成長を見守ってきた。一人で歩きだし、言葉を発し始めるようになる頃から彼は砂鯨の元を頻繁に訪れるようになった。最初は母親や召使いを引き連れてだったが、一人で来るようになるまでにさほど時間はかからなかった。
 人間と砂鯨では寿命が三倍以上も差があるので、砂鯨の時間感覚から比べると人間は実に驚くべき速度で成長するように見えるものだ。男の子が少年となり、青年となるまでの十五年間は、かつて旅をしていた頃の日々とは違った新鮮さと面白さがあった。
「いつか君と一緒に、父のように行商の旅に出たい」
 その声色は父親によく似ていると砂鯨は感じた。そして、果たして青年の夢は叶うことになる。
 二人目の主は、彼の息子が二十歳を迎えた年に天寿を全うした。葬儀の間、砂鯨は小屋から出ることはできなかったが、彼女なりのやり方で主の死を悼んだ。数えてみれば、五十年以上の付き合いだった。
 父親の跡を継ぎ、息子は商会の当主となったが、新しい当主は信頼できる幹部にその座を譲ると、自分は行商の旅に出ると宣言した。この辺りのくだりは砂鯨が三人目の主となった青年から聞いたことだったが、砂鯨にとっては重要な話ではない。肝心なのはおよそ二十数年ぶりに旅に出られたということだ。広大な砂漠に躍り出る瞬間は心も踊るものだとつくづく感じた。
 砂鯨にとって、三人目となる新しい主は赤子の頃から見守ってきた人であり、息子同然の存在だった。しかし彼は二人目の主に見た目も気質もよく似て、砂鯨を最良の相棒として扱ってくれた。旅を続けるうちに彼は砂鯨が初めて彼の父親と出会った時の年齢となり、ますます砂鯨は懐かしくなっていく。そして当時無意識に感じていた恋心を思い出し、意識し始めるのにさほど多くの時間は要さなかった。
 季節を経る毎に青年は日に灼け、逞しくなっていく。目尻に刻まれる皺が深くなっていくのは、それだけ彼が行商人として経験と苦労を積み重ねてきた証拠である。しかし砂鯨の名を呼ぶときの声は変わらず甘く優しいのだ。彼に名を呼ばれ、触れられるだけで砂鯨は幸せだった。彼を乗せて砂漠をどこまでも行けたらいいなと思う。もちろん人間と砂鯨とでは流れる時間の早さが違うので、いずれ死が二人を隔てる日も来ることだろう。その最期の日まで一緒にいられたらいいと砂鯨は思っていた。そして、その願いが儘ならないものであることも、知っていた。
 ある晩、焚火の傍らで彼は砂鯨にもたれて座りながら語った。
「僕と君が行商を始めて、もう三十年くらいになるね」
 そうですね。
「最近、よく思うことがあるんだ。父は、ちょうど今の私と同じくらいの年で母と結婚をした。若い頃は、なぜ父はもっと早く身を固めなかったのか不思議に思ったものだけど、気付けば私もこんな年になってしまってね、今ならわかるよ。君とする旅はすごく楽しいんだ。いつまでも続けていけたらと思って、やめるのが惜しくなる」
 ……。
「けどね、私も年だ。もう長旅に耐えられるような体力はないよ。だからね、父がそうしたように、私も私の旅を終わらせようと思うんだ。どこかの街に家を買ってね、君と一緒に余生を過ごしてみたい。そう思うんだけど、どうだろう?」
 ……ああ、既に意中の人がいて、あなたの中ではもう旅は終わっているのですね。
 彼は砂鯨の予想を裏切らず、婚約した女性の話をし始めたが、それは砂漠を吹き抜ける風と同じで聞き流すべき雑音だった。そんな話は聞きたくないし、知りたくもない。
 薄々予感はあった。商談と称して酒場に行ったものの、いやに帰りが遅くなる日がここ数ヶ月は多かったし、行く先々の街で受け取る便箋の中にはなぜかいつも同じ香りの手紙があった。それは前の主が妻を娶る数か月前の状況と酷似していた。
 人間と砂鯨では流れる時間の早さが違うのは、嫌というほどわかっているはずだった。人間は人間の時間を生きるし、砂鯨には砂鯨の時間がある。生まれた時から見守ってきたはずの男の子は、いずれ自分よりも先に逝ってしまう。同じ時間を生きられるのは砂鯨の生涯の中の一部だけだ。
 砂鯨は永遠を欲していた。愛する人、魂を補い合う人との終わらない日々が欲しかった。死が二人を隔てるのであれば、後を追えばいい。しかし現実はもっと残酷で、そもそも彼は砂鯨を愛しておらず、永遠にしたいとも思っていなかった。人間の時間の中で人生を歩んでいたのだ。しかしそれは仕方ないことなのだろう。何せ、人間と砂鯨だ。根本的に種族が違う。人間である彼が人間の女と番になるのはとても自然なことなのだ。
 五十数年前もそんなことを無意識に考えた。その結果、小屋という名の牢獄を与えられた。愛した男が知らない女のものになるのを見てきた。安全と平和で蓋をした地獄に突き落とされた。愛した人に別れを告げて旅に出る自由すら得られなかった。その苦しみを思い出すと、砂鯨は気が狂いそうになる!
 そんな砂鯨の心中など彼が知る由もなく、ついに婚礼の日は訪れた。彼とは親子ほどに年の離れた花嫁は純白のヴェールを被っており、一切の穢れを知らない生娘であった。彼は花嫁を愛おし気に見つめ、花嫁も精いっぱいの愛を彼に向けて見つめる。そして二人は仲睦まじく手を取り合い、花びらの舞う道を歩き出した。彼の商売仲間や花嫁の縁者が道の両脇に立ち、二人の新しい門出を祝福する。人間の言葉が聞き取れないと感じたのはこれが初めてだった。
 そこから先のことは覚えていない。発揮し得る限りの暴力を発揮し、そして全てが終わったとき、愛した人は砂鯨の胸の中で息絶えていた。ついぞ砂鯨が望んだ永遠は手に入らなかった。

 辛苦の末にようやく幸福を迎えた老商人に突如降りかかった災厄は、よりにもよって、彼に長年仕えてきた砂鯨の錯乱によって引き起こされた。実に不幸な事故である。妻になるはずだった女は「あの砂鯨は八つ裂きにして殺すべきだ」と主張したというが、砂鯨の所有権は故人にあり、所有者が死んだ後の所有物の扱いは人間の法に従わなければならない。故人の血縁は既に一人残らず亡くなっており、また、件の女もまだ法的な婚姻関係は結んでいなかった。よって、故人の遺産を相続する者はいない。以上のことから砂鯨を含む故人の遺産は公正に売却処分され、売却益は国庫に納められることとなった。妻となるはずだった女はその決定を知ると気が触れて、とても人間とは思えないような怨嗟の声を上げたというが、以後その行く末を知る者はいない。
 換気のために開けられた小さな穴からは町人の噂話を囁く声がいくらでも聞こえてくる。ひどい雑音だった。砂鯨は光も射さない暗い部屋に閉じ込められていた。暗闇の中で終わりのない夢を見ていた。
 遥か遠くの未来、人間の娘に生まれ変わった砂鯨は、愛した男に再会する。前世の記憶はないが、魂で結ばれた二人であるから、再会は必然だった。砂鯨だった娘は人間の言葉で愛を囁き、自分の気持ちを伝える。男は娘の気持ちに応え、力強く娘を抱きしめてくれる。そんな自分たちを砂鯨は遠くから見ている。そして然るべき疑問に気付く。あの人に抱かれている女は誰で、今思案している自分は誰なのだろう。どちらが本当の私なのだろう。しかしこれは問いが既に解となっている。すなわち、あの人に抱かれている女は自分以外の誰かであり、今思案している自分こそが自分自身なのだ。その事実に気付いた瞬間、一切が砂となり崩れ落ちる。そこは広大な砂漠で、灼熱の太陽が燦々と輝き、自分は砂鯨である。砂鯨の身でありながら人間を愛してしまっただけでなく、嫉妬と憎悪に駆られて彼の命まで奪ってしまった、愚かで罪深い砂鯨である。砂鯨は砂鯨以外の何者にもなることはできないというのに。そしてハッと目覚めてみれば暗闇の中である。光のない部屋に閉じ込められて久しいことを思い出す。前方に外の光が扉の輪郭を縁取っているのが見える。いつか扉が開くことがあるのかもしれないが、今は閉ざされている。砂鯨は再び眠りに落ちる。雑音が煩い。
 長い時間を経た後、砂鯨は砂鯨商人の市場に連れていかれた。遠い昔、数えれば八十年以上前に、一時期身を置いていた場所だった。砂鯨は砂鯨として三度売りに出されたのだ。また誰かが砂鯨を買い、その人と主従関係を結ぶことになる。死ぬことも許されず、砂鯨は長い時を生きる。
 ――そんな折に現れたのが、ほとんど子供と言っても差支えのない少年だった。後に四人目の主となる者である。
 なぜか少年は他にたくさんいる同朋ではなく、その砂鯨を選んで足繁く通っていた。毎度必ず少年は砂鯨の頭に手を乗せる。そして何か独り言を呟く。数分、あるいは小一時間、日によってまちまちだが、彼は忙しい時間の合間を縫って砂鯨の元を訪れているようだった。足音で少年を判別できるようになるまでそう多くの時間はかからなかった。
 心を閉ざすように瞼も閉じていた砂鯨だったが、あまりに熱心に足を運ぶものだから、一度だけ薄く瞼を開いてみたことがある。いったいどんな物好きなのだろうか。
 そこにあったのは瞳である。少年の瞳は砂鯨と同じように疲弊していたが、その奥には絶えることのない旅への憧れが息づいているのが見えた。それは二人目の主、砂鯨が最初に愛した人が持っていたものだった。同時に、三人目の主、砂鯨が命を奪ってしまった人も持っていたものだった。それと同じものを、この少年も瞳に宿していた。純粋無垢な憧れは、尊いものであると同時に眩すぎるものだ。砂鯨は嘆息する。なぜ、どうして、自分の前には同じ瞳の人たちが現れ続けるのだろう。
 もし人間が信じるところの神なるものが在るのだとしたら、彼あるいは彼女は、砂鯨に啓示を与えているのかもしれない。それを読み解けば、少年が現れた意味もわかるのかもしれない。しかし砂鯨に信仰はなく、あるのは空と砂漠と万物を統べる法則である。偶然は偶然でしかなく、そこに意味はない。少年が砂鯨を欲し、砂鯨商人が少年に砂鯨を売却することにしたのならば、砂鯨の意思とは関係なしに、再び旅は始まる。広い砂漠をどこまでも行くのだ。
 檻の戸が開かれる。出口は黄色く眩く輝き、少年の影が立っている。さあ、旅に出よう! 未知が俺たちを待っている! 差し伸べられた手に、砂鯨は自らの頭を寄せる。
 いつか終わることが約束された旅へ、さあ、参りましょう……。
 かくして少年イトと砂鯨の旅が始まった。

 およそ五年の時間をかけて、イトと砂鯨は砂漠の街々を巡った。イトが地図につけたバツ印は無数にあり、それらがイトの旅の痕跡である。もっとも、砂鯨からしてみれば、どれも数年から数十年ぶりに訪れる馴染みの場所だったのだが、まだ幼いイトにとっては訪れる場所の全てが新鮮であり、そして次第に飽きて失望するものでもあった。どこへ行こうが、魔法も奇跡もない。あるのは結局同じ人間だけだ。
 それはそうだろう、と砂鯨は思う。栄枯盛衰はあれども、人間がいるところには必ず人間の営みがある。ある程度衣食住を効率化させることができたら、余暇時間で文化的な営みや戦争的な営みを行うのが人間という生き物だ。それはどの地域で暮らそうが変わらないものである。期待が外れてがっかりするのは可哀相ではあるが、そもそもの期待が間違っているのだから仕方ない。
 そしてイトはついに最後の街にバツ印をつけた。もうこれ以上行くべき場所はない。次に訪れる街は、どこであれ、決して初めての場所ではありえない。
 バツ印で埋め尽くされた地図から顔を上げると、イトはぽつりと呟いた。
「行けるところまで行ってみるか」
 砂鯨はイトの真意を測りかねたまま、イトの望むままに進路を南に向けて砂漠を泳いだ。最後の街は砂漠の南端にあったので、地図の端に向かって進むことになる。
 当たり前のことだが、行けども行けども砂漠である。何もないどころか、進むほどにますます太陽は高くなり、垂直に降り注ぐ日光が容赦なくイトと砂鯨を焼いた。砂漠の砂は一粒一粒が太陽の欠片のようであり、砂鯨の分厚い皮膚を貫通して熱を伝えてくる。いくら砂漠に生きる砂鯨といえども、死のリスクが無視できないほどの存在感で脳裏に浮かぶのだから、一介の人間に過ぎないイトは如何ほどか。
 街から離れれば離れるほど、戻るにも同じだけの時間がかかる。水と食料、それから自身たちの体力の残量を正確に見極めなければならない。さもなくば、イトも砂鯨も砂漠の真ん中で野垂れ死ぬことになるだろう。それにもかかわらず、イトは前へ前へと突き進んだ。
 日が沈み、月が昇る。月が沈み、日が昇る。日が沈み、月が昇る、そして再び月が沈み、日が昇る。慣れ親しんだはずの砂漠の日常であるにもかかわらず、イトが熱に浮かされたように南を目指し続けるものだから、砂鯨は困惑し、そら恐ろしくさえあった。
 私たちは一体どこに向かっているのでしょう? あるいはそもそも、どこかに辿り着くのでしょうか?
 砂鯨の疑問などイトが知る由もなく、イトはただひたすらに前だけを目指していた。
 ――何度目とも知れない夜明けを迎えたとき、不意に吹いた風は今まで嗅いだことのない香りを孕んでいた。それは砂鯨の背中に乗っていたイトにも分かったらしい。
 永遠に続くかと思われた砂と空の景色の彼方に、イトと砂鯨が知らない何かがある。それは一体何か。わからない。わからないことに、砂鯨は興奮する。百年以上生きてきて、世界の事は何でも知っていると思っていたのに、まだ知らないものがあったなんて!
 そしてついにそれは現れた。
 これまで空の境界は砂の乾いた色で描かれているものだった。しかし、この日初めて砂鯨は、空より色濃い青色で空が区切られているのを見た。オアシスで見た湖とは比べ物にならないくらい広大な水の塊だった。果てが見えない。砂漠と同等か、もしかするとそれ以上に広いのかもしれない。
「これが、海か……」
 イトの呟いた言葉で砂鯨は海というものを知った。
 波打ち際でイトと砂鯨は並んで佇んでいた。潮の香りは瑞々しく、寄せて返す波が引いた後にはいくつもの泡が残り、弾けて消えていく。その途中で、新たな波が泡を飲み込み、イトと砂鯨の足元にまで迫ってくる。
 砂鯨はここが己の限界だと悟る。これ以上先に砂鯨は進むことはできない。砂鯨という種族ゆえの限界だ。砂鯨は目を瞑り、潮騒に耳を傾けた。瞼越しに暮れなずむ空の茜色を見た。
 しかしイトはおもむろに立ち上がると、靴を脱ぎ、一歩、もう一歩と歩み出る。濡れた砂はイトの足の形に沈んで跡となる。寄せた波によりイトは足首まで海水に浸る。そして波が引くと、足跡は薄らいでいた。もう何度か波をかぶれば足跡は完全に消えてなくなるだろう。
「冷たいな」
 イトはそう言って笑った。今まで聞いたことのない、朗らかな声だった。砂鯨の方を振り返り、目を輝かせた。
「やっぱり世界ってまだ広い」
 砂鯨はその瞳に再び恋をして、絶望する。

 砂漠の北端は曇天の下に純白に輝く山々を臨んでいた。西端では彼方に果てのない花畑が広がり、石がむき出しになった荒地が砂漠と花畑の間を隔てていた。東端には石畳の始点があり、そこから続く人工的な道は異国の文明の存在を示唆していた。
 砂漠の境界を辿る旅は、否応なしに、砂鯨に己の世界の輪郭を自覚させた。こうして見てみれば、広大に思われた砂漠も、より大きな世界の一部でしかない。砂鯨は砂鯨であるがゆえに、そこから先に出ることはできない。しかしイトは違う。二本の足で砂漠の外に出ていくことができる。二本の手で、不可能を可能に変えていくことができる。
 しかしイトは砂漠の境界で長時間彼方を眺めた後に、必ず砂鯨の方を振り返りこう言うのだ。
「よし、帰ろうか」
 その顔は十二分に満足したというよりは、何かを諦めたものに見えた。彼は何を諦めたのか。考えるまでもない。砂漠の先に行くことだ。それを諦める理由になったのは砂鯨以外にあり得ない。砂漠の先に行くためには砂鯨を手放さなければならないが、その選択をイトが否定したのだ。砂鯨は自身がイトの可能性を妨げていることを自覚せずにはいられない。しかしその一方で、イトが自分の夢よりも砂鯨と共に過ごす時間を選んでくれたことに、喜びを感じなかったかといえば嘘になる。砂鯨が望んだ永遠を垣間見た気がした。しかしそれが醒めない夢だと信じられるほど砂鯨も若くはない。年甲斐もなく見た束の間の夢と自覚していることを免罪符に、今しばらくは夢に浸っていたくなる。
 イトと砂鯨は砂漠の境界から先に行かないことを選んだが、踵を返した砂漠の内側にイトと砂鯨の居場所はなかった。これまでの主たちとは違って、イトは自身の生計を立てる術を知らなかったのだ。その日を生き延びるために、多くの人々の恨みを買うようなこともやらざるを得なかった。そんなことを繰り返していれば行き場所を失うのは必然である。かくしてイトと砂鯨は、街から街へと逃げるように転々としていた。
 このままでは自分たちはどこにも行けなくなってしまう。その前に手を打たなければならない。
 イトも砂鯨も了解していることだったし、現にイトはそのために行いを改め、まっとうに生きようと努力していた。しかし我慢ならなかったのは砂鯨の方である。
 イトが人々の住む街の一角に根を下ろすということはつまり、イトが様々な人と関わるようになるということである。イトと砂鯨の二人で完結していた世界に部外者が立ち入ることを意味する。それは砂鯨の臨んだ永遠ではない。むしろ、遠からぬ将来に、かつて愛し憎んだ男たちが砂鯨にした仕打ちと同じことをイトも行うことを示唆している。その可能性に怯えた砂鯨はイトに近づく人間を追い払ってしまう。そしてそのことをイトに窘められる度に、幾度となく自己嫌悪に陥った。イトと砂鯨が共に生きる先に明るい未来は見えなかった。
 もしも二人の気持ちが同じであるならば。イトが砂鯨と同じく、永遠に魂を共存させあう仲であることを望んでいるならば。もしそうであるならば、二人が行く先は一つしかない――愛情と焦燥が溢れて止まらなくなった末に、ある晩、砂鯨はイトを押し倒した。
 愛しい人よ、どうか私の気持ちを汲んでください。私はあなたが恋しくて愛しくて仕方ないのです。あなたと私が永遠に結ばれるには、もはや共に冥界の門をくぐる他にないでしょう。
 しかしその願望はイトの生存本能によって裏切られる。そして同時に、束の間の夢と自覚することが免罪符あったのに、それを失念していたことを思い出した。たかが砂鯨の分際で思い上がりも甚だしいだけでなく、同じ過ちを繰り返しかけたのだ。以来、砂鯨はただの砂鯨に徹することにした。燻ぶり続ける熱情から目を背け逃げるように、砂鯨は考えることをやめた。

 ――毒蠍というのは気を付けていないと刺されてしまうのに、いざ自分から探そうとするとなかなか見つからないものでした。しかし昨晩。私は、ついに自分の死に場所を見つけたのです。
「……」
 私は愚かでした。他の兄弟や同朋たちと同じように、ただ人に飼われるだけの砂鯨でいられたらどんなに良かったでしょうか。
「後悔、してる?」
 正直に言うと、わかりません。強いて言うならば、私が私に生まれてしまったことが最大の罪だったように思います。特に、大切な人の命を奪ってしまったことについては、もう何と言っていいのかわかりません。でも、もし時の針を巻き戻して最初からすべてをやり直したとしても、同じことをしたのではないかと思います。そうとしか思えない自分はきっと異常なのでしょうね。
「そっか……ねえ、今の話、イトって人に伝えてほしい?」
 こんな話を知らされてどうしろというのでしょう。どうもしなくていいですよ。……それでも、もし私が望むことがあるとすれば、こんな愚かな砂鯨のことなど忘れて、彼には彼にしか行けないところに行ってほしく思います。もうこれ以上私のために選択肢を狭めてほしくない。私は私という存在を消滅させてしまいたいのです。
「でも、あなたは私に全てを教えてくれた。あなたが教えてくれたことは、私はずっと覚えてるよ。私が記憶している限り、私の中にあなたが存在し、あなたが何かを想っていたという事実はなくならない」
 そうなのですよね。消えてなくなりたかったはずなのに、あなたに全てを話してしまった。だからきっと、私も誰かにこの気持ちを知ってほしかったのでしょう。百年抱えてきたこのどうしようもない気持ちを誰かと分かち合いたかった。理解なんてされなくていい。ただ、露と消えゆくのが淋しかった。私という存在の痕跡を、この世界のどこかに刻んでおきたかった――。
 砂鯨は全てを語り終えたようだった。もう砂鯨に触れた指先からはマユワの中に何も流れ込んではこない。あとはこのまま静かに消えゆくことだけを望んでいる。罪も後悔も、全てが砂鯨の生きた証だった。
 そのタイミングを見計らったかのように、冥界の門がゆっくりと音もなく開く。夜の砂漠の冷気が生温く感じるほどに鋭く凍てついた冥界の瘴気が吹き込んだ。その瘴気を爪先で裂いて現れたのは黒いローブを頭から被った異形の者だった。手には青い炎を灯したランタン。死者の魂を冥界に導く死神である。
「冥府の姫か」
「姫って呼ばないで」
 死神は枯れ枝のような指先を顎に当てて黙考していたが、彼なりに結論は出たらしく、返事もないままに話題を変えた。砂鯨の方に顔を向ける。
「汝の魂は流転し再び現世に還ることもあるだろう。その時まで暫し休むといい」
 ……私は人を殺めました。その罪はいかに裁かれるのでしょうか。
 砂鯨の告白に対し、死神は首を傾げ、理解に苦しんでいるように見えた。しかし生じ得る可能性に思い至り、合点がいったようである。
「成程、汝はそれほどまでに人間の価値観に毒されたか。汝が人間を殺めることと、鷲が兎を食い殺すことに一体何の差があるものか。象が逃げそびれた土竜を気付かず踏み殺すのと何が違うのか。人間の死は罪となるが、兎や土竜の死が罪とならないのだとしたら、それこそまさに人間の傲慢というものだ。人間が人間の世界の法と秩序に従うのは連中の勝手だが、それに汝のような砂鯨が従うというのは、私には道理の通らぬことに思えるが」
 そう、なのでしょうか……?
 戸惑う砂鯨に対し、死神は指を立てて言葉を続けた。
「罪だの裁きだの都合の良い言葉で己を偽るのは関心せんな。つまるところ、汝自身が汝自身を許し難く思っているに過ぎないのだろう。それは汝自身の内で解決すべき問題であり、我々の関知するところではない」
 もう他にないか? と死神は砂鯨に促すが、砂鯨は一言、いいえ、と静かに返した。
「では行こう。姫も壮健でな」
 死神は踵を返し、砂鯨を先導して冥界の門をくぐる。その後に砂鯨が続く。砂鯨はついにマユワの方を振り返ることなく、瘴気の海の中に消えていった。間もなく門扉は開いた時と同じように、ゆっくりと音もなく閉じた。そして役目を終えた冥界の門は、煙が空に溶けていくように消えていった。
 マユワは一連のやりとりに一切口出しせず、干渉もしなかった。マユワは冥界の門が見えるだけで、それ以上でも以下でもないからだ。死者の魂が死神に導かれて冥界の門をくぐる、という自然な営みは妨げられるべきではないし、マユワ自身にも妨げるつもりはない。
 それよりも今は、一刻も早くアルフィルクのもとに帰りたかった。何者であれ軽薄な一生涯を生きる者はない。その記憶を余さず引き継いで平気でいられるほどの余裕はない。
 暗い砂漠の中でマユワは孤独だった。心が凍えてしまう前に、あの砂船に帰らなければならない。心労で重たくなった足を力いっぱい引きずり、マユワは歩き出した。立ち止まれば涙が溢れて止まらなくなるだろうし、そうなったら歩くことができなくなるだろうから。

「おかえり」
 アルフィルクはマユワの手を取り砂船に引き上げた。勢い余ってマユワはアルフィルクの胸に頭から突っ込んでしまうが、そのままくっついて離れようとはしない。マユワがこのように甘えてくる時とはほぼ間違いなく重たい記憶を背負ってきた時なので、アルフィルクも何があったのかは訊ねない。代わりに右手を挙げてグラジとルシャに合図をする。マユが落ち着くまで待機せよ、と。
 マユワはアルフィルクの腕の中で、小さな肩を大きく上下させ、嗚咽を零した。砂鯨の記憶にあったことはもはや我が事であるが、マユワの心はその記憶を余さず受け止められるようには作られていない。心の器に収まりきらない分が嗚咽となり、涙となって溢れて流れる。人間のように泣くことを知らなかった砂鯨の代わりに、マユワが百年分の涙を流すのだ。
 アルフィルクからしてみれば、マユワは砂船を下りた後、砂漠の一点にしばらく立ちつくし、戻ってきただけに過ぎない。しかし、その立ちつくしていた間に、マユワはアルフィルクが経験しようのないことを経験し、抱えきれない程の何かを無理やり抱えて戻ってきたのだ。アルフィルクにはそれが何なのかはわからないが、マユワを信じていた。
 小一時間が経って、ようやくマユワの嗚咽は収まり、話ができる程度に落ち着いてきた。マユワの中を荒れ狂っていた愛憎の感情もようやく心の器に収まる程度には鎮まってきた。
「もう、大丈夫」
 そう言って顔を上げたマユワは、アルフィルクの目には大人びているという形容を通り越して、くたびれて疲れた老女のように見える。しかしそれでもマユワの本質が変わることはないとアルフィルクは知っている。
「……おっきな砂鯨だったよ。砂鯨の女性」
「そうか」
 アルフィルクはマユワの頭を撫でる。手の平に簡単に収まってしまうくらい、小さな頭だった。

砂漠の幻葬団(1. 砂鯨)

  砂鯨が死んだ。出会ってから八年間を共にした家族だったが、毒蠍に刺されてあっさり死んでしまった。近くの街まではさほど遠くはないので、砂漠で野垂れ死にしてしまう不安はないが、余計なことを考える必要がない分だけ余計に悲しみが募る。
 夜が明けて朝日が砂鯨の巨大な体を照らす。改めて、死んでしまったのだな、と青年は思う。砂鯨はもう泳がない。青年を運んで砂漠を旅することもしない。これからは、青年は自分の足でこの広い砂漠を旅しなければならない。だから、さっさと立ち上がり荷物をまとめて、とりあえず街まで戻って次の旅の準備をしなければならないのだ。砂鯨の死体は置き去りにすることになるが、一人で弔うには巨大すぎるし、そもそも砂漠で命を落とした生物がそのまま野晒しにされることは珍しいことではない。死体はやがて干乾び、砂に埋もれて地に還る。この広い砂漠にはそうやって置き去りにされた死体で溢れているものだ。
 それでも立ち上がれないのは、それだけ砂鯨が青年にとってかけがえのない家族だったからだ。目を瞑れば脳裏に昨日のことが生々しく蘇る。毒蠍に刺されて苦しむ砂鯨の鳴き声が。激しくのたうち回り、青年自身が叩き潰されそうになったことが。しかしその苦悶も間もなく鎮まったことが。それから一晩通して弱々しく震えていたことが。そしてついにぴくりとも動かなくなり、夜の冷気で岩のように固く冷たくなっていったことが。そして、その間、青年は砂鯨に対して何もしてやれなかったことが。
 俺がもっと気を付けていれば、毒蠍なんかに刺されなかった?
 もしも時の針を巻き戻すことができたならば、と青年は叶いもしない妄想に耽る。

 太陽が天頂近くまでやってきた頃、青年は巨大な影に覆われた。その少し前から何人かが砂を踏む音は聞こえていたのだが。
「お前はまだ生きているな」
 野太く低い声が青年に呼びかける。
「団長、まだ生きているのがいる」
「おう、そうか」
 青年が顔を上げると、こちらに背を向けて立つ大男と、その大男が顔を向けている先からやってくる別の男が見えた。二人とも熱除けの白いマントとフードを被っていた。
「こりゃ毒蠍にやられちまったか。運がなかったな、あんた」
 団長と呼ばれた男が砂鯨に手を当て言った。運がなかったな、という言葉にはそれ以上の他意はなかった。
「運がなかった……ああ、そうなんだろうな」
 青年は呟いた。朝からずっと時の針を巻き戻し続けてきたが、青年自身ついに砂鯨の死を避けられる未来は見えなかった。何が悪かったのか? 強いて言うならば、運が悪かった。たまたま砂鯨の進む道の上に毒蠍がいて、毒蠍は自分の身を守るために砂鯨の腹に尾針を刺し、そして砂鯨は死んだ。それ以上でも以下でもない。。
「で、あんたらは何だ? 金目のものなんか持ってないぞ」
「砂鯨からは色々なものが採れる。肉、皮、骨、肝、髭。無駄なものはほとんどない」
「……それは勘弁してくれ。大事な家族だったんだ」
「しかしもう死んでしまったのだろう」
 大男は語尾を上げた。沈黙が流れる。大男の言っていることは何一つ間違っていないからこそ、青年は何も言い返せなかった。
 沈黙を破ったのは団長が大男の脛を蹴る音だった。
「お前はなぁ、少しは言い方ってモンを考えろ」
「……気を悪くしたのならすまない」
「言い方を取り繕ったところで、あんたたちの目当てが砂鯨の死体だってところに変わりはないわけだ」
 とことん運がないもんだ、と青年は毒づいた。かけがえのない家族を亡くしたに留まらず、その死さえも冒涜されようとしているのだから。
「こいつに指一本でも触れてみろ。お前ら全員ぶっ殺してやる」
 懐のナイフは殺傷を目的としたものではないが、人を殺めるには十分なものだ。しかし一対二ではそもそも分が悪い。せめてどちらか一人とでも刺し違えられれば上々か。それで砂鯨のところへ行けるならば、それも悪くはないのかもしれない。
「ほら話がややこしくなった」
「すまなかった」
「ま、いいけどさ」
 さて、と団長が青年に向き直る。敵意がないことを示そうと、軽く両手を挙げている。
「とりあえず、話をしよう。前向きな話だ」

 団長を名乗る男、アルフィルクの話を要約すると以下のようになる。
 まず彼らはこの辺りで葬儀を執り行う集団だという。青年イトのように不幸な事故で旅の相方を亡くす旅人は珍しいものではなく、そんな時には彼らがやってきて葬儀を行うのだ。死者を弔いつつ、近くの街まで遺された人々を送り届ける仕事をしている。そしてその見返りが、たとえば砂鯨の体の一部なのだという。
「俺たちが来なくても別の誰かがやって来て、結局砂鯨をバラすだろう。ただしそいつらは俺たちみたいに話し合いをしてくれる連中じゃあないだろうな。あんた、間違いなく殺されるよ」
「葬儀屋と死体漁りの盗賊は、何が違うんだか」
 吐き捨てるイトに対してアルフィルクは明るく笑う。
「何も違わねえな」
「せめてこいつももっと遠くで死んでいれば、あんたらみたいなのに見つからなかったかもしれないのにな」
「さあ、それはどうだかね。どこで死んでも俺たちはきっとあんたたちを見つけていただろうよ」
「嫌な奴だな」
「よく言われる――で、どうするんだ?」
 どうする、と言われてもイトからしてみれば選択肢は一つしかない。拒否したところで、力ずくで砂鯨を奪われるのが関の山だ。そうなるくらいならば、せめて平和裏に事を済ませる方がまだ賢い。しかしアルフィルクたちがあくまで葬儀屋を名乗り、形だけでも交渉の体を取るならば、せめて腹いせにその偽善で飾った面の皮を剥いでやろう。
「一つだけ条件がある」
「何だ?」
「喉響骨をくれ」
 砂鯨の喉響骨とは発声器官であるが、加工すれば骨笛の素材になるものだ。骨笛の中でも砂鯨の喉響骨で作ったものは、砂鯨の個体の絶対数の少なさ故に希少であり、最高級のものになれば貴族の邸宅一戸分の値が付くこともある。人の拳大しかない大きさであるにも関わらず、砂鯨の部位の中では最も高価なものだ。
「いいだろう。他には?」
「いや、それだけでいい」
「ずいぶん控え目なんだな」
 喉響骨の要求を控え目と表現するあんたらの方が控え目だがな、とイトは内心毒づいた。なるほど偽善の皮はなかなかに分厚いらしく、本物となって久しいようだ。そう判断するほうが妥当と解釈せざるを得ない。イトは鼻を鳴らし、吐き捨てる。
「どうせ一人で持てるものなんかたかが知れている」
「懸命だ」
 パン、とアルフィルクは手を叩く。
「よし、じゃあ交渉成立だな」
「その代わり、ちゃんとこいつを弔ってくれるんだろうな」
「任せとけ。あんたの気の済むようにしてやるよ」
「……俺のことはいいから、ちゃんとこいつを送り届けてやってくれ」
「ん、まあそうだな――おい、グラジ! 砂船からマユワとルシャを呼んできてくれ!」
 グラジと呼ばれた大男はアルフィルクに応えることなく砂船へ戻っていった。その後をアルフィルクが追っていく。
 風が吹き、砂が舞う。砂鯨の巨体に薄く砂が被さる。もう二度と動くことのない様子に、お前本当に死んじまったんだな、とイトは呟くが、今朝から数えて何度目の呟きかはわからない。何かの拍子にぶるっと身を震わせて体を起こしてもおかしくないくらい、砂鯨の体は生々しく横たわっていた。
 さく、さく、と砂を踏む足音が二人分。イトの背後で立ち止まったが、振り返る気にはならなかった。その意図を察してか、立ち止まった二人もイトに声を掛けることはしなかった。結果、沈黙が流れる。
 さっき、アルフィルクって奴が大男に誰かを呼んでこいと言っていたっけな。誰だったか。まあ、いっか……。
「気を遣ってくれているのかもしれんが、話しかけてもらっても構わない」
「そうですか」
 振り返るとフードとマントを羽織った若い女と、それよりさらに若い齢一桁に見える少女が立っていた。
「ご挨拶に参りました。此度の葬儀を執り行いますルシャと、こちらがマユワです」
 ルシャと名乗った女に続いて、マユワが頭を下げる。
「……こいつが目当てだってんならわざわざ葬儀なんかやらなくてもいいだろうに。さっさとバラしてしまえばいいんだ。あんたらも暇だな」
「意味なんてないって、思ってる?」
 訊ねたのはマユワだった。夜闇よりも暗い瞳で見据えられ、イトは思わず目を逸らしてしまう。
「さあ、どうだか。こいつの魂が行き場を失って悪霊になっちまったら可哀相だなって思うけど、正直、葬儀でこいつが救われるかどうかなんてわからねえよ。大体、俺はお嬢ちゃんたちが何者かも知らねえし。それでも、やらないよりはやった方がいいんだろうなって思うよ」
「そう。じゃあ最後のお別れの言葉、考えといて」
 それだけ言い残してマユワはイトに背を向け、一人でさっさと砂船に戻っていってしまった。
「気を悪くしないでくださいね」
「別にいいよ」
「そうですか――さて、葬儀は日が暮れて、星が瞬きだした頃に始めます」
「俺は最後にお別れの言葉を言えばいいのか?」
「いいえ、それには及びません。貴方は見ているだけで結構です」
「何だそりゃ」
「でもその代わり、あの子の言った通り、最後のお別れの言葉は考えておいてください。そしてそれを、ちゃんと胸の中に浮かべておいてください。ただそれだけで結構です」
 真に力強い想いは言葉に出さずとも伝わるということだろうか? 馬鹿馬鹿しい。
「あんたらが何をしたいのかさっぱりわからんな」
「これは貴方のための葬儀ですよ。貴方が明日からちゃんと前を向いて歩けるようになるための儀式です。彼女は死んでしまったけど、貴方はまだ生きていて、明日も明後日もこれからずっと生き続けます。今の貴方にとっては残酷な話かもしれませんが」
 偽善者め、とイトは内心毒づいた。
「……ま、やりたいようにやってくれ。俺はきちんとあいつを見送ってやれればそれでいい。あいつの魂がきちんと浮かばれてくれるならもうそれ以上何も求めない」
「そうですか。ならば私からはこれ以上何も言いません――が、あと一点だけ。団長からの言伝ですが、日が暮れるまでウチの砂船で休んでいても構わないとのことです」
 では、とルシャは頭を下げ、踵を返した。
 再び一人になる。イトは砂鯨の体に額を当てて目を瞑った。冷たくも温かくもなく、少しだけ固くなった砂鯨。溜息、それから溢れる虚無感。
 最後のお別れの言葉、だって?
 さようなら、今までありがとう、これからは俺一人で頑張るよ?
 何を思い浮かべても軽薄で馬鹿らしくなる。今のイトに必要なのは、そんな綺麗事ではなく、過去を改編し、毒蠍に砂鯨が刺されない未来に作り替える力だ。過去を取り消して現在を捻じ曲げる魔法だ。砂鯨の死そのものが塗り替えられない限り、この虚しさは消えない。それから目を背けて語る「お別れの言葉」に一体何の意味があるものか。綺麗事で済ませられるほど、俺の魂は安くない……! 拳に力がこもることにイトは気付かない。

 日中の砂漠は一面黄色の世界であるが、夜になると一転して薄灰色の世界になる。空と砂漠の境界も融けて混ざり合う。空に瞬く星の色は一様ではなく、赤色、青色、白色に黄色と様々であり、そこに濃淡が加わった結果、地表よりも遥かに賑やかである。
「月のない夜は星がよく映えますね」
 呟いたのはルシャである。フードを脱いだら腰まで届く栗色の髪が夜風に揺れた。歩くたびに、シャン、と鳴るのは足首に付けた鈴による。踊子の衣装に身を包んだ姿は、昼間に見た姿とは異なる印象を醸し出していた。
「他の連中は?」
「男二人は邪魔者が来ないように離れたところから見張っていて、マユワちゃんは裏作業ですね」
「裏作業?」
「冥界の門からやってくる死神に魂を引き渡す役です」
「何だそりゃ」
「生あるものは死ぬとその体から魂が抜けて、魂は死神に導かれて冥府へ行くのです」
「それは知ってるけど、そうじゃなくてだな」
「彼女はそういうことができる特別な子なんです」
 イトは眉を顰めた。
 死者の魂が冥界の門を通って死後の世界に旅立つことは、この地域では昔から信じられていることだが、もちろん普通は死者の魂も冥界の門も見ることのできないものである。たまに「それらが見える」と言い張る者もいるが、そんな奴らは例外なくペテン師か狂人のいずれかだ。だから実際には、死者の魂は冥界の門を通って死後の世界へ行く、ということにしておいて、それ以上は言及しないのが普通だ。
 ルシャはおこした火の前に座り、イトを呼び寄せる。揺れる火がルシャの頬に影を落とし、鼻梁の高さを証明していた。
 イトは火を挟んでルシャと向かい合うように腰掛ける。
「さて、儀式を始める前にお願いがあります。貴方と砂鯨の昔話を教えてくださいませんか?」

 ルシャに促されるまま、イトは砂鯨との出会いを語り始める。
 イトはここから遥か東、砂漠に侵食されかかった農村で生まれた。上に五人の兄姉と、下に二人の弟がいた。祖父の代までは農業で生計を立てられていたが、年々進む砂漠化は村をじわじわと蝕み、イトの物心がつく頃には、父や兄姉は畑に向かうよりも、遠くの街に出稼ぎに行くことの方が多くなっていた。そのため、家の仕事は残った母やイトを含めた幼い子供たちが担うことになっていた。そのような事情はどこの家族でも同じことだったので、水汲みや炊事に洗濯、乳飲み子の世話など一通りのことは、この農村で生まれ育った者ならばできて当然のことだった。
 代わり映えのしない家事に毎日を追われる中での楽しみは、たまに帰郷する父や兄姉が語る出稼ぎ先での出来事である。もっとも、彼らが語ることの大半は、いかに仕事が大変でつまらなくて、苦労に見合う対価が得られないものであるか……つまり愚痴であるのだが、その語りの合間に異国の風が吹くと、イトは父や兄姉に「もっと詳しく聞かせて」と食いついては鬱陶しがられていた。
 たとえば父が砂鯨宿の建築現場で肉体労働に勤しんでいると、遥か遠くの北国からやってきた高貴な人々の一団とすれ違うことがあった。砂鯨の背の上、白絹のヴェールを三重に重ねた天蓋の輿に乗っていたのは一団の中で最も位の高い人であろう。父はすれ違いざまにその人の横顔を一瞬見ただけであったが、その様子はとても印象に残るものだったという。曰く、その人は白く痩せこけていて病人のようであり、幼くも年老いているようにも見えて不可思議だった。しかし真に父の印象に残っていたのは、天蓋の薄闇の中で紅い瞳が光を帯びて輝いていたことだった。すれ違いざまの一瞬のことだったので、もう一度確かめる機会はなかったという。
 あるいは、姉が奉公する貴族の屋敷には、砂漠を超えた遠く西方の国から持ち込まれたものが数多く収蔵されていたという。姉の足りない語彙力では微細を描写するには不足であったが、かえってその曖昧さがイトの想像力を刺激した。たとえば彼女が見たある本は、小指の爪よりも小さいのに百頁以上もある本であったという。とても本としての機能を有しているとは思えないのに、蜘蛛の糸くらい細い金糸の刺繍で装丁されているというのだから、ますます本としての目的がわからない。姉は「貴族様ってホント暇よね、わけがわからないわ」と理解を投げ出すが、イトはそうではない。その本には何が書かれているのか、誰が何のために作ったのか、そういうところに気が向いてしまう。
 こういった話を聞くたびに、イトはいつか自分が出稼ぎに出る日のことを夢に見た。もちろん出稼ぎであるのだから、家族のために一生懸命働かなければならないのだが、見知らぬ土地で見知らぬ人や物に出会うことに変わりはない。父や兄姉が体験したように、いつか自分もふとした拍子に未知なるものに出会い、世界の広さと可能性をその目で、その耳で、その手で、鼻で、舌で、肌で、全身で感じる日が来る。イトはその日を心待ちにしていたのだった。
 それからいくつかの年月が流れ、イトが十二歳になった年の冬、イトは父に連れられて初めての出稼ぎに出た。父の紹介で煉瓦焼き職人の手伝いをすることになったのだ。仕事柄、熱風渦巻く窯のそばを行ったり来たりするため、真夏の炎天下に立っていたときよりも汗をかくような仕事だったが、イトは懸命に取り組んだ。いつか父や兄姉が語ったような出来事がイト自身の身に起こると期待して、日々親方の理不尽な叱責にも耐えた。しかし、その時がついに訪れることなく、季節は春になり、迎えにきた父に連れられて、何枚かの銀貨を懐にイトは帰郷した。銀貨は一枚残らず母に取り上げられた。
 次に行った倉庫での荷運びの仕事でも、その次に行った教会の建築の仕事でも、さらにその次に行った街道整備の仕事でも、何も起こらなかった。日々理由もなく叱責されながら小銭を稼ぎ、一銭残らず家に納めるだけの帰郷。腹立たしいことに、帰った次の日には言外に早く出稼ぎに行ってこいと責め立てられるのだ。
 十四歳になると、父からは「仕事はもう自分で探せ」と突き放されるようになった。イトはその場しのぎのような仕事を転々として過ごすようになった。しかしそれでは自分の食い扶持を維持するのに精いっぱいで、故郷には手ぶらで帰らざるを得ない。事情を母に説明するが、母はあからさまに残念がった。イトはその横っ面をぶん殴ってやりたくなる衝動に駆られ、しかし寸前のところで堪えた。そんなことがあって、イトの心は家族と故郷から離れていった。出稼ぎと称して向かった交易の要衝となる大きな街では、同じような年ごろと境遇の少年たちと不満を燻ぶらせあう日々を過ごすようになるのだった。

 砂鯨は砂漠を旅するうえで欠かせない生き物だ。移動を楽にしてくれるだけでなく、背に乗れば地面から遠ざかるので、照り返しの熱で体力を奪われることもなくなるからだ。加えて性格も大人しく従順な個体が多いため、旅の相棒としてこれほど優れた生き物は他にない。一般的には、砂鯨はそのような生き物であるとされているが、何事にも例外はつきものだ。
 砂鯨の市場ではありとあらゆる種類の砂鯨が売買されている。出自は問われない。人工的に交配して養殖した砂鯨も、自然で生きていたところを密猟者が攫った砂鯨も、あるいは誰かが誰かから盗んだ砂鯨も、押し並べて等しく檻に閉じ込めて売買されている。どんな過去を持っていようが、砂鯨は大人しく従順なので、一度躾をしてしまえば、たちまち快適な乗り物に早変わりする。故に砂鯨の買い手はその砂鯨の出自を気にしないし、砂鯨商人も商品が売れるならば出自は気にしない。たまに砂鯨の一頭を指して「これは盗まれた私の砂鯨だから返してほしい」と訴える者もいるが、それは詐欺の常套句なので相手にしてはいけない。
 イトもいつか自分の砂鯨を持ちたいと考えていたが、砂鯨を買うことは決して安い買い物ではなく、十代の少年ならば二年間は必死に貯蓄に励んでようやく手が届くかどうかというものだ。
 しかし、その『訳ありの砂鯨』は、市場の隅の、暗く目立たない場所で売られていた。イトが砂鯨商人にその訳を訊ねると、砂鯨商人は投げやり気味にこう吐き捨てた。
「こいつはご主人様を殺したのさ。ぷちっとね」
「砂鯨の事故なんて珍しくないだろう?」
「事故じゃない、殺人だ。こいつはこいつの意思でご主人様を殺したんだ」
「へえ……」
「とんでもないじゃじゃ馬さ。このまま売り手がつかないんじゃ、バラしちまった方がまだ元が取れるってもんだ。どうだい少年、お前くらいの年のガキなら、多少訳ありの方が手を出しやすいんじゃないか?」
 大人しさと従順さ故に人に飼われてきた砂鯨が飼い主を殺す状況がどのようなものか、イトには想像がつかなかった。よほど性格に難のある砂鯨だったか、よほど飼い主が砂鯨の恨みを買ったか、はたまたその両方か。いずれにせよ、砂鯨――あの巨躯で砂漠と悠然と泳ぐだけのでかぶつに、人間じみた喜怒哀楽の感情が存在すると仮定しなければ成り立たない話だ。
 イトは件の砂鯨に目を向ける。檻の中で死んだように横たわるそれは、ただの岩のようであり、他の檻にいる砂鯨との違いは見出せない。時折尾びれを震わせるが、その動きも緩慢で、世の恨みや辛みを知っているとは到底思えない。
「しばらくはここに置いておいてやるよ。少年、そいつに興味あるんだろう」
「いや、別に」
 そう返事しようとした矢先、砂鯨商人は別の客に声を掛けられ、そちらへ向かっていってしまった。
 取り残されたイトは少しだけ迷った後に、檻を回り込み、訳あり砂鯨の前にしゃがみ込んだ。イトに気付いていないのか、砂鯨は目を閉じたまま動かない。
 じっと耳を傾けていると、砂鯨が呼吸する音が聞こえる。吐息で地面の砂粒がかすかに震える。そのリズムはイトが呼吸するときよりもずっとゆっくりで、深呼吸をして溜息をするようにも見える。
「お前、飼い主を殺したんだってな。よほど嫌な奴だったんだろうな」
 想像の中の『ご主人様』は、ちびで、でぶで、禿げ頭の、中年の男だった。甲高い声で砂鯨を罵り、手にした鞭や棒で砂鯨を叩く様子を想像した。砂鯨からすればそんなものはきっと痛くも痒くもないのだろう。刃物で切ったり刺したりでもしないと、砂鯨が痛がることはないのだろう。それほどに砂鯨は巨大で、人間は小さいものだ。
 改めて砂鯨の巨体を眺めてイトは思う。逆に、何をしたら砂鯨に殺されるなんてことがあるんだ、と。生来、イトは想像もつかないことに対して好奇心を抱く性質であった。
「お前のことに興味が出てきたよ。何があったんだろうな」
 砂鯨は黙して答えない。
 小一時間をそんな風に過ごした後、イトは立ち上がり、砂鯨商人に一声掛けて去っていった。
 それから何度となくイトは訳あり砂鯨のもとに通った。砂鯨は常に檻の隅でほとんど死んだように横たわっていた。他の砂鯨たちは所在なさげに檻の中をうろうろしたり、道行く客に視線を投げかけたりしていたりしたが、訳あり砂鯨だけはその場から一歩も動こうとはしなかった。その様子は何かにじっと耐えているようにも見えた。一体何に? 飼い主を殺した件と関わりがあるかどうかはイトにはわからないが、この砂鯨自身の事情に関することなのだろうと判断せざるを得なかった。
 砂鯨の鼻息が砂紋を描くのを見ながら、イトは故郷でよく見かけた野良犬のことを思い出していた。その野良犬は家々を回っては残飯をせびっていた。もっともどの家も貧しく、野良犬に食わせるような残飯はなかったのだが、たまに近所の老夫婦が気まぐれで残飯を与えていた。そのせいで野良犬は哀れな鳴き声を出していれば飯にありつけることもあることを学習してしまった。当時はうるさく迷惑にしか感じていなかったが、今にして思えば野良犬にとっては鳴き声を出し続けることが生きるための唯一の手段だったのだろう。あの痩せ細って虚ろな目をした野良犬は、自分なりに生きるための手段を考え実行していたのだ。野良犬ですらそうなのだから、砂鯨が同じように自分なりの哲学を持っていたとしても、もしかするとそれはおかしなことではないのかもしれない。
 そう考えたとき、イトは自分でも気付かず砂鯨に手を伸ばしていた。表皮は冷たく、柔らかく、そして滑らかだった。そのとき初めて砂鯨は瞼を開いた。闇夜よりも暗いのに透き通った硝子のような瞳だった。
 イトが件の砂鯨を買うことを決意するのにそう多くの時間はかからなかった。一度決意してしまえばやるべきことは限られていたので、イトが悩んだり考えたりすることはほとんど何もなかった。
 イトが「あの砂鯨を買いたい」と砂鯨商人に宣言すると、「三ヶ月までなら待ってやろう」と言質を得ることができた。路地裏で同年代の少年たちと愚痴を言い合う時間は仕事に充てた。朝から晩まで働く合間に市場へ通い、砂鯨に会いに行った。砂鯨は変わらず岩のようにじっと動かずにいたが、イトの砂を踏む音が聞こえると、尾びれをそっと波打たせるのだった。
 砂鯨を買うための資金が溜まったのはちょうど約束の三ヶ月目だった。銀貨を数え終えた砂鯨商人は「頑張ったな」と口端を持ち上げた。

「……そんなことがあって、あいつと旅立ったのが八年前のことだ。それからも、まあ色々あったが、特に大したヤマもオチもないな。季節や世相に合わせて東や西を行ったり来たりだ」
 これで終わりとばかりにイトは両手を挙げた。
「旅立ってから故郷には戻られたのですか?」
「いや、戻ってない。戻る理由がない」
「彼女が元の主を殺してしまった理由とは何だったのでしょう?」
「さあ、知らないね。ぶっ殺したくなるくらい嫌な奴だったってことなんだろう」
「そうですか……」
「他には何かあるか? なければ、もういいだろう。そんな風に俺たちは出会い、旅をして、あいつは昨晩死んで、そして今に至る。特に面白くも何ともない、平凡な過去だ」
「でもあなたにとっては」
「そう、特別。唯一無二。しかしそれは俺にとっては、の話だ。そして、今日会ったばかりのあんたには分かられたくない話だ。もうはっきり言うけどな、心に土足で立ち入られるのはさ、正直辛いんだよ」
 それきりイトは口を閉ざしてしまった。その口が開くことはもうないのだろうと、トーワは見切りをつけた。間をつなぐために、焚火に木片を足す。木の爆ぜる音。細く立ち上る煙は星空に溶けて消えていく。
 トーワがイトに対して個人的に言いたいことや言えることは山ほどあるが、それを口に出すことは間違いなく今は適切ではない。優しく触れられることにすら心が傷つくならば、そっとしておく他にない。思い出も、痛みも、悲しみも、全てイト自身のものである以上、今しがたイト自身が言った通り、赤の他人が無闇に触れるべきものではないのだ。
 おそらく――トーワは思案する――おそらく、私の予想が正しければ、彼は砂鯨が元の主を殺してしまった理由を知っている。そして、その理由が彼と砂鯨の仲を更に特別なものにしたのだ。だから、彼は急に言い淀み、話を切り上げた。人の心とは、喩えて言うならば、玉ねぎのようで、幾重にも層が重なり形成されている。心の外側は人に晒すことができても、深層に近づけば近づくほど、心は秘匿されていく。彼に関して言えば、家族との確執や未知と旅への憧れは他人に話して差支えのないものだが、砂鯨との絆は差支えのあるものだった。だけど――。
 トーワは首を横に振る。深呼吸をして、自分の役割と、為すべきことの優先順位を確認する。すなわち、第一は深く傷ついたイトの心が立ち直るきっかけを作ることであり、彼と砂鯨の間に何があるのかを知ることは今この瞬間の自分の役割ではない。そして、立ち直れるかどうかは、究極的にはイト自身の問題だ。本人自身に立ち直る気がなければ、トーワたちがどれだけ手を尽くそうがいつまでも悲嘆に暮れ続けることだろう。
 時の流れが過去に逆巻くことはない。それを可能にするいかなる手段もない。死者が蘇る奇跡もない。一度生じた事象が覆ることはなく、ただ事実を事実として受け止め適応していくしかない。それがどんなに辛く苦しく受け入れ難いことだったとしても、万人に等しく明日は訪れてしまう。そしてあらゆるものが過去となっていく。時の流れる速度で現在は過去と隔てられていく。
 しかしそれでも、魔法は存在する。時を戻すことはできないが、幻と夢を見せて心を騙し癒すことはできる。その上で、イトが何を信じるか。要は選択の問題だ。
「そろそろ、始めましょう」
 雲も月もない夜空には無数の星が瞬いている。魔法を使うのにこれほど相応しい夜もなかなかないものだ。


 昼間に吹いた風は夜には凪いでいたが、その痕跡は砂紋として砂上に残されていた。四方を見渡せばいくつかの足跡以外はすべてが砂紋である。砂紋は星々の光を受けて淡い陰影を地表に作り出すことでその凹凸を示していた。
 ルシャが歩く度に足首の鈴がシャンと鳴る。小さな足跡が砂紋の上に新たに刻まれる。その背中は小さく、広大すぎる砂漠に紛れて消えてしまいそうにも見えるが、白銀の腕輪が僅かな星の光を眩く照り返し、三日月のように鋭く夜闇に傷をつけているおかげで、イトはその背中を見失わずに済んでいる。
 ルシャは十分に開けた場所まで歩み出ると、跪き、合掌した。口早に精霊への祈りの言葉を囁く。凪いでいた風が南から北へ、脈打つように柔らかく吹いた。
 ルシャが立ち上がる。空を見上げる。無数の星々を目で追い、今この場に相応しいものを探し出す。小さい星は力不足だが、あまり大きすぎると他の星を掻き消してしまう。青い星は静かであるが同時に冷たく、赤い星は温かいが同時に騒がしくもある。調和を保つことは大事であるが、しかしそれだけでは取るに足らないものに留まってしまう。調和を破壊しながら再構築し、より大きな唄に育てていかなければならない。
 息を吸う。凍てつくような空気がルシャの肺を満たし、手足の先まで冷えていく。心を澄み渡らせ、意識を手放す。ここから先、身体は精霊の依り代となる。森羅万象を統べる法に従い全ての事は為される。ルシャの意思の介在する余地はない。全ては在るがままに、為すがままに。心臓の鼓動のリズムは大気の鳴動と同期し、ルシャは無限の星空を見上げつつ同時に空から己自身を俯瞰する。手足の指先まで精霊の霊気が満ちたとき、ついに唄が喉から溢れ出る。指先は空を撫で、つま先が弧を描き、鈴の音が脈打つように鳴り響く。
 いくつかの星々から地表に向けて光が降り始めた。最初は一つ、二つ、次第に雨のように降り注ぎ、細く垂れた光の糸々は砂紋と結びつき、円い印を残す。印は元の星々の赤、青、白、黄それぞれの色を反映させ、淡くゆったりと明滅する。そんな印が地表のあらゆる場所に刻まれ、砂漠は星空を映す鏡となった。天地の区別はもはやなく、先刻まで地平線だった場所も天地の星々が混ざり合う。
 それらの光景を、イトは息を呑んで見つめていた。地表に投影された星の光たちは無秩序にちりばめられているように見えたが、そこに意味があると気付くのに多くの時間は要さなかった。すなわち、譜である。ルシャの喉が紡ぐアリアの音程やリズムが、砂紋に落ちた星の光と同期していた。地表の光の全てが過去から未来に至る全ての音楽を記述していた。
 シャン、シャン、とルシャが舞う度に鈴が鳴る。すらりと伸びた手足が宙を舞い、アリアが風に乗って砂漠中に響き渡る。その響きはイトの鼓膜を心地よく揺らし、時間の感覚を麻痺させる。もうずっと長い間、幻想の星海の中を漂っているような錯覚に陥っていることに気付くが、しかしどれくらい前からここにいるのかもわからなくなる。始まりと終わりが喪失し、永遠に今この瞬間が続けば、それはつまり時間の停止にも等しくて――不意に舞うルシャとイトの目が合い、彼女は目で訴える。
(別れの言葉を!)
 はっと我に返ったイトは心に言葉を浮かべる。昼間にマユワとルシャに言われた通り考えたものもあったが、それは直観的に今この瞬間は相応しいものではないと感じた。ありがとうも、さようならも、違う。もっと他に言うべきことが、砂鯨に届けるべき言葉があるはずだ。そしてそれは、無意識的にイトは知っている。後はイト自身に自覚されるのを待っている。
 天の星々と地の星々の狭間でイトは立ち尽くす。ルシャのアリアが終わる時が葬儀の終わる時であり、その瞬間、砂鯨の魂は冥界の門をくぐることだろう。今ならまだ砂鯨の魂はこの幻想の宇宙を漂っていて、イトの言葉も届くかもしれない。一縷の望みが今ならまだあるかもしれなくて、その可能性すらも絶たれるのはもう間もない。地表に落ちた星の印は徐々に輝きを失いつつある。地平線と重なり合った印は既に光を失った。もはや迷っている暇もない。束の間見た永遠は錯覚だった。
 イトの半端に空いた口が言うべき言葉を探している。言うべき言葉は既にそこにある。後はそれに相応しい音を当ててやるだけだ。天の星々、地の星々、四方を取り巻く地平線、彼方に砂船、舞うルシャ、耳に響くは精霊の歌声、そして目に留まったのは砂鯨の死骸。小山のような体躯は八年前に砂鯨商人の檻で会った時と変わらない。走馬灯のように駆け巡る八年間の思い出。唯一無二の家族だった。否。家族という形容では語りきれないほどに浅からぬ仲であり、イトと砂鯨は二人で一つだった。お互い欠けた魂を補い合っていた。人はそれを愛と呼ぶのだろう。砂鯨がとっくの昔に自覚し、イトが今初めて自覚したものだった。
 動悸は激しく、息は吸うほどに苦しく、見開いた眼は瞬きすることを忘れていた。醒めゆく夢の終わりに掠れた声でイトはついに言葉に出会う。それは「ごめん」の一言だった。お前が死んだとき、悲しむよりも先にほっとしてしまってごめん、と。


 イトが砂鯨と続けてきた八年間の旅路は目的も目指すところもなく、ただ流されるがまま東から西へ、西から東へと移動するものだった。旅立った当初こそ、見知らぬ土地へ行けば想像を超える出会いがあるかもしれないと期待に胸を膨らませたものだが、そんなものがついに現れることはなかった。砂漠はどこまで行っても砂漠だったし、行く先々で肌の色や言語に違いはあれども、そこにいたのは同じ人間だった。そんな失望を繰り返し、ついに地図上にある町や村の全てを訪れてしまった。砂漠から先に行けばもっと新しいものがあるのかもしれないが、砂鯨は砂漠に生きる生物であり、砂漠を離れて生きる術はない。砂鯨と共にある限りイトは砂漠の外に出ることができなかったが、砂鯨を捨てる可能性は微塵もイトの頭にはなかった。世界にはイトと砂鯨の二人きりであり、お互い以上に大事にすべきものはない。
 一方、閉ざされた砂漠の中に二人の居場所はない。二人で居続けるためならば悪事に手を貸すことも厭わなかったからだ。わずかばかりの路銀を懐に抱えて夜中に街から逃げ出すことも少なくなかった。遠のく街の灯りを振り返りつつ、「もうあの街には行けないな」と砂鯨に語りかけたものだ。風が止むと風ではなくただの空気になってしまうように、二人もまた彷徨い続けることで、かろうじて二人で共にある状態を維持することができていた。
 こんな暮らしがあと何年続くのだろうか――砂鯨の背に揺られていて、ふと考える瞬間は少なくなかった。五年、十年、二十年。イトも砂鯨もいずれ老いていく。そうでなくとも、こんな日陰者の生き方をしているのだから、いつ野垂れ死にしてもおかしくない。イトは自分が死ぬこと自体に未練はないが、砂鯨を残していくことは心残りだった。残された砂鯨は野良に還り、またどこかの砂鯨商人のもとで商品として売り出されてしまうのだろうか。
 そう考えると、こんな暮らしは長く続けるべきではないという結論に至る。どこかの街に根を下ろし、定職を見つけ、家を持つ。所帯を持つことまで想像するのは流石に妄想が過ぎるとしても、砂鯨と二人で安定して暮らせる場所を見つけるべきだ。もはや旅に対して無邪気な憧れを抱ける年でもない。
 しかし、ふらりと訪れた青年と砂鯨に土地と建物を分けてやるお人好しなどそうそういるものではない。それどころか、大昔に人の恨みを買った時のことが噂としてどこからともなく囁かれ始め、すぐに家探しや仕事探しどころではなくなってしまう。その結果、これまでそうだったように、夜闇に紛れてこっそり逃げ出さざるを得ない。そして、たまに情けを掛けてくれる人が現れたとしても、砂鯨が嫉妬に駆られて追い払ってしまうのだ。巨体で親切にしてくれた人に迫り、圧殺する寸前でイトが間に入って食い止めたことは、決して一度や二度ではなかった。
 砂鯨のイトに対する態度が変わってきたのはおよそ一年前、旅立ってから七年目のことだった。きっかけが何だったのかは思い出せない。積もり積もったものが我慢の限界を超えて少しずつ溢れていった、というのが実態だったのだろう。いずれにせよ、イトが気付いた頃には砂鯨はすっかりイトのことを愛していた。
 四六時中常にイトの傍を離れようとせず、体をイトに擦り付け、甘えたような鳴き声を出す。砂鯨は元々人に懐きやすく、そのような挙動をすることはそう珍しいことではないのだろうが、たとえば旅の途上でたまたま関わりを持った人を追い払おうとする、といったようなことが起こってしまうと、流石に度が過ぎていると判断せざるを得なかった。
「お前、最近どうしたんだよ」
 イトが頭を撫でてやると、砂鯨は満足げに深く息をついた。イトの苦悩などまるで知らず、今この瞬間が永遠に続くものと信じて疑わないようだった。しかしその呑気さに心がささくれ立つ。つい気が立って言葉が荒くなる時もあったが、砂鯨の悲し気な鳴き声を聞くと、たちまち苛立ちは消え失せ、申し訳なさの方が先立ってしまう。そして途方に暮れる。
 七年間を共に過ごしてきて、砂鯨に砂鯨なりの感情があることを疑う余地は今更ない。問題は、どの程度複雑な感情を有し得るかを想定することだ。人間であれば、喜怒哀楽を基本的な感情の幹として、そこから枝葉が分かれて得も言われぬような感情が果実としてなることもあるだろう。純粋な喜怒哀楽とはそうそうあるものではなく、往々にして、嬉しいけど悲しい、腹立たしいけど楽しいといった、相反する感情が同時に心に去来することも少なくない。人同士ならば自分自身のことから類推して、相手も自分と同じように複雑な感情を有し得ると想定するのは自然なことだが、はたしてその類推を砂鯨にも当てはめてよいものか。おそらく大多数の人がそうであるように、イトもまた、砂鯨に対して人間と同等の複雑な感情が生じ得るとは想定しなかった。どんなに大事な家族だとしても、砂鯨は所詮砂鯨である。人と砂鯨の間には種族の壁があり、その壁を跨いで夫婦になるなどというのは神話の世界で十分だ。
 しかしイトはその考えが誤っていると思い知らされた。ある晩のことだった。
 その日、砂鯨は特にイトに対して甘え、じゃれついていた。砂鯨の巨躯でじゃれつかれるのは、一歩間違えば死に直結し得るものだが、少なくともこの七年間はそのような危険に晒されることはなかったのだ。
 しかしその晩は違った。砂鯨はイトの頬に頭を擦り付け、そのままイトを押し倒した。そしてイトの上半身を押さえつけ、くぉん、くぉん、と悲しみの声で鳴いていた。その様子は遥か昔にイトが捨てた、故郷の弟たちを思い起こさせる。弟たちも互いに喧嘩してはイトの胸の中でいかに自分に非がないかを訴えたものだ。
「どうしたんだよ、本当に……」
 イトは仰向けになりながら砂鯨の頭を撫でてやる。そして離れるよう砂鯨の頭を軽く叩いて合図を出したが、砂鯨は鳴き続けるばかりで一向に動こうとはしなかった。それどころか、ますます強く頭を擦り付けてくる。肺が圧迫される。肋骨が軋み、内臓が居場所を失いつつあるのを感じる。
 唐突に訪れた生命の危機はイトに一切の思考を許さなかった。あの砂鯨がどうして突然こんなことを、と考える暇などない。本能が死を恐れる。殺されたくない、死にたくない。ただその一念で、イトは砂鯨の頭を力の限り殴りつけた。しかし人と砂鯨とでは体格に歴然たる差があり、巨躯にはびくともしなかった。それでもイトは砂鯨の頭を殴り続ける。殴り続けた。
 体にかかる圧力は唐突に途切れた。朦朧とする意識の中、必死に肺に空気を送り込む。遅れて今更痛みが全身を駆け巡る。視野はしばらく明滅していたが、次第に収まり像を結ぶようになってきた。そこに至ってようやく、イトは自分の身に起こったことについて考える余裕が出てきた。
 一体何が起こったのか。イトは砂鯨に押し倒されて、殺されかけた。そう、砂鯨はイトを殺そうとしたのだ。そして、それを途中で思い留まった。
 七年間の軌跡を思えば俄かには信じがたいことだったが、そうとしか表現せざるを得ない。首だけ起こして辺りを伺うと、砂鯨は少し離れたところで蹲り、イトの方を見つめていた。いつもの見慣れた黒い双眸に浮かんでいたのは。憔悴の色だった。今の状況に閉塞感を感じ、もがき苦しんでいたのはイトだけではなかったということだった。
 砂鯨はのそりと起き上がると、再度イトの傍にやってきた。そして今度は優しくイトの頬に頭を擦り付けた。
 それ以来、砂鯨がイトを襲うことはなくなった。また、イトに近づく人を追い払うこともなくなった。すっかり砂鯨らしい砂鯨になり、イトと砂鯨の間には見えない境界線が引かれたのだった。
 イトは砂鯨の背に揺られ、どこまでも続く砂色の地平線を見つめながらぼんやりと思い出す。いつだったか、砂鯨商人が「この砂鯨は訳ありだ」と言っていた。すっかり忘れていたが、この砂鯨は前の主を己の意思で殺しているのだ。今なら何があったのかは大体想像がつく。
「人と砂鯨だもんなあ……そりゃあ、無理だよ」
 イトと砂鯨が共に行く先には破滅しかないが、そこから逸れる道もない。終焉に向かってゆっくりと一人と一匹は旅を続けていた。


 砂紋に刻まれた最後の印が消えると、辺りは元の夜闇に包まれた。イトは肩を上下させながら大きく呼吸をしていた。心臓の脈打つ音は未だ収まらない。
 砂鯨が毒で弱っていく数時間のあいだ、イトは砂鯨の傍にいたが、傍にいただけで何もしなかった。もちろん言い訳ならばいくらでも出てくる。たとえば、助けを呼びに街まで徒歩で行ったとしても、戻ってくるまでに半日はかかるだろうから、毒蠍に刺された時点で既に手遅れだった、など。持ち合わせに解毒薬などあるはずもなかったし、どう足掻いても手遅れであることに違いはなかった。しかし、「これはもう手遅れだ」と見切りをつけるのが、あまりに早すぎた。冷静で現実的な判断といえば聞こえはいいかもしれない。しかしそれでも、もっと何かしてやれることはないかと考えるべきだったのではないだろうか。
 混乱していた、戸惑っていた、憔悴していた、それらはいずれも偽りではない。しかし、それらに紛れて、ほんの一匙分の安堵があったこともまた真実だった。もしこのまま砂鯨が死んでしまえばどうなる? イトの行き詰まった状況が変わるきっかけになる。イトは砂漠の外へ出て行ける、旅をやり直すことができる! そんな可能性に一瞬でも心が揺らいでしまった。その事実は、イトが砂鯨と過ごしてきた八年間に対する冒涜であり、そんな気持ちが自分の中に一瞬でも芽生えたことなどあってはならないことである。故に、イトは、即座に忘却し、考えることを放棄した。砂鯨を助けたり、苦痛を和らげたりするための方策もろとも、考えることを放棄したのだ。そして、イトが呆然としている間に、砂鯨は事切れた。このようにしてイトは砂鯨を見殺しにした。
「酷すぎる」
 そう呟く自分自身をイトは軽蔑した。イトと砂鯨は魂の片割れのように互いで互いを補い合ってきたはずだし、そのことに安らぎを感じてさえいたはずなのに、今やその自負やすっかり空虚なものになってしまっていた。
 歌と舞を終えたルシャはイトの前を素通りし、再び火をおこしていた。ちりん、ちりんと鳴る鈴の音がいやに響いて聞こえてくるのは、誰も何も喋らないことの証左である。
 ルシャは紅茶を淹れていた。外套を羽織り、コップを両手で包んで暖を取る。背後でイトが呆然と立ち尽くしているのは知っているが、声は掛けない。イトが自身の心の奥底に見つけた真実が何であれ、それと対峙するのは本人がすることであり、部外者であるルシャたちが立ち入るべき領域ではない。
 見上げれば空には先刻と変わらず星々が瞬いている。静かな夜が戻ってきている。
 天は地上にひしめく生き物の個別の心を斟酌などしない。世界は森羅万象を統べる法則と秩序に従い、流転していく。死んだ者は肉体と魂に分かれ、肉体は地に還り他の生物の命の糧となる。魂は冥界の門を通っていく。人も、砂鯨も、あらゆる生物においてもその道理に例外はなく、抗う術はない。道理の絶対性を嘆き、憎み、怒りを振り向けても、天が地上にひしめく生き物の個別の心を斟酌などしない以上、心なるものを得てしまった者は、溶岩のように煮え滾る苦汁を嚥下し、堪え忍び、受け止めていく他にない。それができなければ心を手放すしかない。
 ルシャは紅茶を飲み干すと、二煎目を淹れた。そろそろ日付を跨ぐ頃だろうか。夜明けはまだ遠い。


 夜明けは唐突には訪れない。無限の星々の背景にあるのは漆黒の宇宙だ。それが東の方から次第に紫紺、藍色を得ていく。星の光は夜闇が薄らいでいくとともに目醒めつつある空の色と同化していく。それと時を同じくして空全体が赤く焼けていき、太陽が地平線から顔を覗かせる。
 射し込んだ光がイトの瞳を貫いた。砂鯨の巨躯を照らし出し、曲線の輪郭を浮かび上がらせた。
「夜が明けたな。気持ちの整理はついたか?」
 焚火の火を踏み消しアルフィルクが立ち上がる。傍らにはグラジとマユワ、ルシャ。
「これで整理がついたように見えるか?」
「見えないな。しかし、関係ない」
 イトは目を逸らし、薄れゆく夜闇に目を向けた。アルフィルクはそれを黙認と受け取る。
「グラジ、始めるぞ」
「わかった」
「死んでからもう丸一日以上経っている。使えない部位は捨てろ。砂漠の野ネズミどもにくれてやれ。俺たちの取り分は使えるところだけでいい。細かい判断と指示はお前が出せ。ただし二秒以上迷ったら俺に聞け。判断してやる」
 男二人がそれぞれ長柄の鯨包丁を手に歩みだし、イトの傍らを通り過ぎた。
 砂鯨の解体はまず尾鰭から頭に向けて一直線に刃を入れることから始まる。厚い皮は砂漠を生きる砂鯨が日光の熱から身を守るために発達したものだ。断面は真っ白であり、日光を照り返すと実に眩く、思わず目を細めるほどである。手頃な大きさに皮を区切ったら、今度はアルフィルクとグラジが二人がかりで皮と皮下の肉を切り分ける。一人が皮を引っ張り、もう一人が刃を差し入れて皮を剥ぐのだ。そうして剥き出しになった砂鯨の肉は死後一日以上経過したにも関わらず瑞々しく波打っていた。
 しかし日の下に晒された以上、肉は刻一刻と干乾びていく。夜が明けて間もない今は夜の冷気が腐敗を遅らせてくれているが、気温が上がればそうはいかなくなる。ただちに血抜きをして、乾燥させるのに最適な状態にしなければならない。同時に各種臓物も摘出し、部位毎に整理し後々活用できるものはそれぞれに合った保存方法を適用してやらなければいけない。また、食用の部位は街に戻った後、市場で売るのだが、毒蠍の毒に冒された箇所は商品にはならないので、その見極めも正確にやらなければいけない。作業の優先順位、廃棄するか否かの判断は砂鯨の状態を見ながらグラジが即座に判断し、アルフィルクに指示を出す。
「団長、人間が食うには危険だが、家犬に食わせる分には売り物になりそうだ。どうする」
「あの街で犬を飼う金持ちなんざ指で数えるくらいしかいない。捨てろ」
 砂鯨の解体の枠外の問題はこのようにしてアルフィルクが逆に指示を出す。その間、二人は手を一切止めない。作業は滞りなく進められなければならないのだ。
 みるみるうちに砂鯨が小さく切り分けられていくのをイトは眺めていた。心の内が凪のように静まり返っているのは、あまりの手際の良さに感心しているからだった。砂鯨の体とは骨と肉と血と皮の複合体なのだということを嫌というほど思い知らせてくれる。共に過ごした八年間を思い出して感傷に浸る余地がない。人の手で解体されるか自然の生物により食い散らかされるかという差はあれども、死んだ生物とはこのように分解されて自然に還っていくものなのだ。
 解体作業は一時間程度で終了した。夜の冷気はすっかり消え失せ、じりじりと地表から熱がせり上がってきている。アルフィルクとグラジは小分けにした肉や皮を砂船に運び込み、ルシャとマユワが布で臓物の血抜きをしたり骨を磨いたり、その他細かい作業を行っている。グラジとアルフィルクの判断で不要とされた残骸は小山となって砂鯨が死んだ場所に積まれていた。毒に冒されたであろう肉や皮、使い道のない骨など。これらはこのまま捨て置かれて、砂を浴びて、やがて地に埋もれていくのだろう。あるいはその前に砂漠の生物たちが齧っていくのかもしれない。
「はい喉響骨」
 唐突に声を掛けられ振り返ると、マユワが拳大の白骨をイトに突き付けていた。昨日、イトがアルフィルクたちを試すために、喉響骨をよこせと言ったことを今更思い出す。
 手を差し出し、イトはそれを受け取った。マユワが丁寧に磨いてくれたのだろうが、喉響骨には肉片が一切残っていなかった。見た目に反して喉響骨は軽く、脆そうに感じた。懐に忍ばせるには少し大きすぎるので、何かしらの工夫が必要だが、案は今すぐには出てこない。後で考えるか……。イトが顔を上げるとマユワは既に立ち去った後だった。
「さて、朝飯にするか! 落ち着いたら準備するぞ!」
 ルシャがイトを一瞥する。しかし、それにイトが気付いて目が合う直前にルシャは顔を背けた。その様子を遠巻きに見ていたアルフィルクが溜息をつく。グラジとマユワは黙々と自分の作業をこなしていた。

 朝食は砂船の影で食べることになった。火をおこし、今切り分けたばかりの砂鯨の肉を焙る。各自が鉄串とナイフで肉塊を切り分け、塩と胡椒を振りかける。イトを除く四人が食べている。
「どうした、食べないのか?」
 肉を咀嚼しながらアルフィルクがイトに声を掛ける。
「嫌がらせか?」
「そんなんじゃないさ。お前、もう丸一日以上何も食べてないだろう。だから食べ物を分けてやろうって言っているんだ。獲れたての砂鯨の肉なんか滅多に食えるもんじゃないぞ。ほら、食えよ」
「八年間を一緒にした家族をか?」
「そうだ」
 一口大に切られた砂鯨の肉を鉄串に刺してイトに突き出す。それは砂鯨の胸肉だったかもしれないし、鰭肉だったかもしれないものだ。それをこいつらは食っている――イトは全身の毛が逆立ちかけるが、即座に顔を横に背け、吐き捨てる。
「……いらない」
「そうかい。じゃあ好きにしろ」
 イトに突き出した肉をアルフィルクは一口で頬張った。三度、四度と咀嚼し、嚥下する。砂鯨の肉はアルフィルクの食道を通って胃に到達し、小腸に至る過程で分解され、ターチスの体に吸収されていく。同じことが、グラジの、ルシャの、マユワの、それぞれの体内で行われている。鳥や牛を食べるのと全く同様の、自然の営みだ。デリカシーに欠けるという一点を除けば、何もおかしいことではない。
「ねえ、普通の食べ物だって」
「口出しするな」
 堪らず申し出たルシャをアルフィルクが即座に窘める。イトとアルフィルクは睨み合う。しばらくお互い押し黙った末に、イトは努めて冷静に言葉を選ぶ。
「確かに、喉響骨以外は好きにしていいとは言った。でも、よりにもよって俺の目の前で家族を食って、挙句俺にも食えってか。頭おかしいだろ、あんた」
「なんだ、傷心の坊やはいい子いい子されて慰められたいのか」
「疲れるから無意味に煽らないでくれ」
 悪かった、とアルフィルクは両手を挙げる。しかしイトを睨みつける目付きは変わらない。
「砂鯨は死んだ。遺体はこの通りもうバラバラだ。時間は無慈悲に流れて今日は来たし、今この瞬間も太陽はしっかり動いている。やがて日が暮れて夜になるだろう。そしてまた朝が来る。俺たちも、お前も、生きている限り腹は減るし、行動しないと生きていけない。死にたくなければ動くしかない。お前の感傷に付き合うほど俺たちも暇じゃないんだよ」
 砂鯨の死を悼む時間なら十分くれてやっただろう、とまでは言わない。代わりに長い沈黙が流れる。イトが先に手を出しても、ただちにアルフィルクに組み伏せられるだろう。そもそもアルフィルクを殴り飛ばしても何も得られるものがない。真に殴りたいのは自分自身なのだから。
「人は――」
 ぽつりと呟くように、マユワが沈黙を破った。その目は揺れる焚火を見ている。そして焚火の彼方に何かを見出しているようだった。
「人は、誰もが自分の物語の中にある。どんな生き物も、うまれて、生きて、死んでいくけど、そこに意味や理由を求めて彷徨うのは人間だけ。生きてる中で色々なことを見て、聞いて、考えて、気付いて。そうして見出した意味や理由が、人の物語を作っていく。でもね、物語に支配されているうちは人は自由になれない。物語を自分で語らなければ、あなたは自由になれない」
 そして一呼吸を置いた後に、マユワはイトに向き直り、一言訊ねた。
「あなたは何を選ぶの?」
 過去に囚われるか、未来を見るか。ここに至ってイトははっきりと悟った。アルフィルクたちは一貫して、未来を見て生きろ、と言っているのだ。そして同時に、未来を見て生きるために過去から自分を解放しろと。
 瞼を閉じれば砂鯨の面影が浮かぶ。イトに砂鯨とは一体何だったのか。最初は、砂漠を旅するための足だった。砂鯨商人で砂鯨が前の主を殺したと聞いてからは、砂鯨そのものに興味が湧いた。それから数年間、共に旅をする過程で、二人で世界から孤立していった。互いに互いがいないと生きていけない関係になった。しかし、いざ砂鯨から求められるとイトはそれを拒絶し、挙句砂鯨を持て余すようになった。砂鯨が死ぬと、悲しいと感じる片側で安堵もした。そして今、砂鯨の死骸が目の前でいいように切り刻まれ、焼かれて食われているのを看過している。改めて自問する。砂鯨とはイトにとって一体何だったのか。ただの家畜か、はたまた大事な家族か。しかし問うて即座に察する。この種の分類に意味はない。事の本質はイトにとって砂鯨が何者かということではなく、砂鯨を捨ててこれからの未来をのうのうと生きていく自分を自分自身が許し、受入れ、認められるかどうかだ。
「罪は消えない。過去はなくならない。時間は遡らない。顔を背ければ、目を瞑れば、少しは紛らわせられるかもしれないけど、でもそんなのはただのまやかし。どんなに時間が経っても、一度起こったことはなかったことにはならない。過去に、罪に、後悔に圧し潰されて、それでも卑しく、惨めったらしく、しぶとく、死に損ないながら人は生きていくんだよ」
 喋り過ぎた、と消え入るように呟くと、いよいよマユワは黙り込み、砂鯨の肉を食べ始めた。小さな歯でしっかりと肉を食い千切っている。
 イトは懐に仕舞った喉響骨の存在を強く意識する。この際、砂鯨に対する義理や悔恨は一旦捨て置くとして、これから自分はどうするのだろう。どうしたいのだろう。そこには色々な道がある。たとえば砂鯨に懺悔し、贖罪しながら生きる道がある。あるいは、砂鯨のことは一切振り返らず、自由気ままに生きる道もある。道は無数にあるが、しかしイトが選べる道は一つだけだ。そして、不思議とそこに迷いはない。これから自分がどう生きるか。すなわち――。
 イトは火で焙られる鯨肉の前に立つと、鉄串とナイフで肉を切り分けた。肉が柔らかいのか、ナイフの切れ味が良いのか、撫でるだけで肉は切れた。その感触は現実感を喪失させる。
 手の震えは止まらないが、恐る恐る肉を口に運ぶ。口に含んだ瞬間、甘い香りが構内に広がる。肉の柔らかさを舌で味わい、しっかり咀嚼し、飲み込む。砂鯨の肉が喉を通り、胃に滑り落ちていく。砂鯨を血肉に変えて二人は同化するのだ。そしてようやく、イトは声を殺して泣いた。
「食べ終わったらここを発つぞ。正午前までに戻らないと、市場が閉まっちまう」
 アルフィルクはぶっきらぼうに言い放った。彼は砂鯨の死やイトの葛藤を特別扱いしない。
 いち早く食事を終えたグラジは立ち上がる。そのまま作業の続きに戻っていこうとしたが、ふと思い立ってイトに向き直り、声を掛ける。
「知り合いに楽器職人がいるが、紹介は必要か?」
 意図を測りかねる、といった様子でイトは赤らんだ目をグラジに向ける。見かねたアルフィルクが仕方なしに補足を入れる。
「喉響骨はそのままだと脆くて壊れやすいから、加工して笛にしちまうんだよ。金具で補強したり専用のケースが付いたりするから、これからの旅で携帯するのに都合がよくなるんだ。まあ、笛として吹くにはそれなりに練習する必要があるけどな」
「……頼む」
「わかった。市場に卸すのが終わったら紹介しよう」
 必要なことを言い終えると、グラジは今度こそ自分の作業に戻っていった。その間にルシャとマユワも十分食べて満足したようだ。だいぶ大きかった砂鯨の肉の塊も、すっかり小さくなっていた。
「残りはお前が始末しておけ。寝るなら砂船の中で適当に横になってていい」
 アルフィルクも立ち上がると自分の作業に戻っていった。
 その後、イトは長い時間をかけて砂鯨の肉をすべて胃袋に納めていった。一片残さず、血の一滴すらもすべて己のものにした。完食し終わった後、イトは胃の辺りに手を当て、目を瞑っていた。

「もういいな? よしグラジ、発つぞ」
 アルフィルクの声を合図にグラジが砂船の帆を張る。砂漠の風を受けて砂船はゆっくりと走り出す。やがて風に乗り、砂面を滑るように走り出した。
「これからどうするの?」
 切り捨てられた砂鯨の残骸を名残惜し気に見ていたイトに、マユワが問いかける。
「あの街から一番近い端っこは西だからな。西の方に行って、砂漠の外に出てみるよ」
「そう」
 マユワのその一言がイトには優しく響いて聞こえた。だから、胸の底に残る疑念を晴らさずにはいられない。
「……なあ、お嬢ちゃんは昨晩、冥界の門であいつの魂を送り届ける役目ってのをしていたんだろ? その……どうだった?」
 マユワは黙して中々答えない。豆粒よりも小さくなった砂鯨の残骸を見ながら、答えを選んでいるように見える。
「ちゃんと門をくぐっていったよ。未練なく、後悔なく、堂々と。綺麗な砂鯨だなって思ったよ」
「そうか」
「うん」
「……正直言うとさ、俺、まだお嬢ちゃんたちのこと、そんなに信用してないんだわ。悪い人たちじゃないってのは流石にわかる。でも、都合のいい幻を見せられて誤魔化されているんじゃないかっていう疑念は拭えない。本当は、あいつは俺のことを恨んでいたんじゃないかって、そんな可能性がずっと頭にある。だからさ、もし本当にあいつが未練も後悔もなく旅立っていったっていうなら、確証が欲しいよ」
 口に出した瞬間からイトは知っている。そんな都合の良い確証などあるはずがない。それを出せと迫るのは、弱さの表れ以外の何物でもない。だからマユワが呆れたように向き直るのも仕方のないことだ。
「……もし仮に彼女があなたを恨んでいたとして、それであなたのやることって変わるの? あなたの言う『確証』があったとしたらあなたは信じるの?」
「悪い、つまらないことを訊いた」
「もっとちゃんとしてね。あなたはもう一人きりなんだから」
 それきり二人は黙って吹く風に身を委ねた。

 すっかり砂鯨の痕跡が見えなくなった頃、唐突にマユワが訊ねた。
「ねえ、彼女の名前って何だったの?」
 真剣な眼差しだった。その黒い双眸は、どことなく砂鯨に似ているような気がした。
「ヴィネ――夜明けの星の名前から取った」
「そう。ありがとう」
 なぜ礼を言われるのかは解せないが、マユワは満足しているように見えた。

概要

本館には置けない長めの作品置き場です。

跡地はこちら