2021年12月18日土曜日

砂漠の幻葬団(2. 流者)

 

  砂漠の幻葬団

 

   二.流者

 

 何故、人は『何故』と問い、理由を求めるのだろうか。理解し納得することは安心や喜び、満足などをもたらすが、突き詰めて言えば、その理由は本能に帰結する。人として生まれた以上、数多の知識を得てより高い視点に立ち、誰よりも彼方の地平の先を見たいと思うことは、根源的な欲求である。少なくともルシャにとっては、これが自身を支配する行動原理だった。いつからそうだったのかと問われれば、ルシャはこう答えるだろう。最初からだ、と。

 人が抱きうるありとあらゆる問いの中で、最も多くの人々の関心を引き、尚且つ解を得ることが困難なものは何か。それは、死後のことである。この世に生を受けた者は例外なくいずれ死を迎えるというのに、死んだ後のことは誰も何も知らない。この世には数多の宗教があり、いずれももっともらしい言説を唱えているが、その真偽は人類史が始まって以来未だ明らかになっていない。何故か。生から死へは常に一方通行だからだ。死の扉を開けることは容易いが、一度開けたら最後、何人たりとも引き返すことはできない。死後に何があるのかを報告する人も記録もないので、死後の世界は謎に包まれている。これほど身近にありながら正体がまるで明らかになっていないというのは、実に魅惑的だ。ルシャが死の虜になるのは必然だったと言えるだろう。

 

 物心がついた頃から、砂漠の娼館がルシャの家だった。女が中心となる世界だが、そこにルシャの実母はいない。実母が誰かも知らない。何人かいた似た境遇の孤児たちと一緒にルシャは育った。そこで育った孤児たちは、男児であればやがて娼館の小間使いか用心棒となり、女児であれば娼婦となるのが常である。子供たちは娼館の外に世界があることを知っていても、そこで生きる術は知らない。年上の兄さんたちや姉さんたちは、皆そうして生きてきた。

 孤児たちに言葉を教えたのは大婆と呼ばれる年老いた元娼婦だった。その娼館では三十歳を過ぎると客を取るのが難しくなり、三十五歳を過ぎればもはや娼館内に居場所がないのが普通なのだが、その大婆は五十歳を過ぎるまで数多の贔屓の良客を抱えていたという。

 何故彼女がその年まで娼婦として現役として活躍できたのか。答えはその知識と話術である。彼女は客から聞いた話や譲り受けた本を漏れなく記憶し、さらに、得た知識と知識を紐づけ演繹的に導出される確定的事実を踏まえることで、娼館に居ながらして地域の情勢や数多の自然法則など世界のあらゆることに精通していた。その知識を言葉巧みに物語に仕立て上げて語ることで客を楽しませていたのだ。時を重ねるごとに肉体は衰えるが、彼女の知識と話術はむしろ冴えわたるようになり、客たちの心を掴んで離さなかった。

 そんな昔話を年老いた大婆はルシャたちに聞かせ、最後にこう締め括るのだ。

「お前たちも必死で頭も働かせれば、私みたいに長生きできるんだ。男も女もみんなね、馬鹿な奴から死んでいくんだよ」

 客から性病をもらって娼婦として働けなくなった数多の女たち。取り入る相手を間違えて居場所を失った小間使いたち。あるいは相手の実力を見誤り、返り討ちにされた用心棒たち。大婆は早死にしていった者たちの名前を一人ずつ挙げていき、彼らがいかに愚かだったかをぶつぶつと呟く。そんな呟きを真面目に聞く必要はないので、孤児たちはそそくさと教室を後にするのだが、ルシャがそうしようとすると大婆に咎められるので、ルシャだけはじっと耳を傾けている。

 野生の世界では一度の失敗が命取りとなるように、娼館の世界でもたった一度のつまらない失敗で命を落としてしまうことは日常茶飯事であった。もっとも、他人の失敗に対して後から批評することは容易いが、判断の際にその選択が誤りであることが見えていないからこそ、誰も彼もが道を踏み外してきたのだ。もう少し思慮深ければ、過去の失敗例を知っていれば、避けられた不幸だっただろうに。しかし馬鹿どもは馬鹿であるが故にそれを怠ったのだ。目先の快楽に溺れ、研鑽を怠ったが故の、当然の結末である。人生には数多の分岐路があり、どの道も先は暗闇に閉ざされているが正解の道は常に一つである。か細く正しい道筋を照らすのは知恵という名の光なのである。

「ルシャ。お前は子供たちの中でも人一倍賢い子だ。きっとお前は私みたいに長生きするだろうよ」

 そう言って大婆はルシャの頭を撫でたが、その手は皺枯れて震えており、死の気配は確実に大婆の背後ににじり寄ってきていた。

 ルシャが数え年で十二を迎える頃から大婆は妄執に取りつかれるようになり、十三を過ぎた頃にはすっかり現実と妄想の区別がつかなくなっていた。そして十四のときにとうとう大婆は死んだ。最期は娼館の階段から転げ落ちて頭が割れるというものだった。ついに彼女は死から逃れることはできなかった。叡智の光が照らした道筋は細く細く伸び続けた結果、最後には途切れていたのだ。

 かつては賢者として敬愛された大婆だったが、晩年の奇行のせいで彼女の死を悼む者はほとんどいなかった。死体は葬られることなく生ごみ同様に扱われ、ごみ捨て場に捨てられた後は焼かれたか埋められたか、その行く末をルシャは知らない。

 

 さて時の針は少し巻き戻り、まだ大婆が呆けておらず、ルシャが数え年で十だった頃のことである。ルシャは高熱の病に侵され死にかけていた。原因は不明、五日経っても症状は悪化するばかりで、故に有効な手立ても見えない状況だった。医者は早々に匙を投げ、周りの大人たちも病をうつされてはかなわんとルシャを遠ざけた。それを見た子供たちも大人たちを真似て一切ルシャには近づこうとはしなかった。

 一人部屋の中、ルシャは意識が朦朧として何も考えられない。ただ漠然と、自分はこのまま死んでいくのだろうと感じていた。 大婆は「きっとお前は私みたいに長生きするだろう」と言っていたが、どうやらその予言は外れそうだ。

 死んだらどうなるのだろう。ルシャの知る死者はいつだって寂しく打ち捨てられていた。砂漠の真ん中に放り捨てられて、そのまま砂風に晒されるのだろうか、鼠に足を齧られたり鳥に目玉を突かれたりするのだろうか、そしてそのまま己という存在が消え失せていくのだろうか――怖かった。からっぽな穴に落ちていくようで、もう二度と戻ってこれないのが怖かった。ここはろくでもない場所だけど、命が惜しくないと思うほどには絶望していない。生き延びてやりたいことがあるわけでもなくとも、それでも、理由もなく死ぬのは怖かった。

 かみさま――もしもかみさまがいるのなら、私を助けてください。助けてくれるなら、何でも差し上げます……。

「ほう、何でもと言ったね」

 聞きなれた皺枯れた声。ずっと瞼は開いていたつもりだったが、ようやく頭が大婆の存在を認識したらしい。

「手に負えないと思ったら放ったらかしか。まったく酷い奴らだね。可哀想に、ルシャや。お前ほど賢い子でも運のなさには勝てないものだね」

 大婆様、助けて……。

「おっと、勘違いしないでおくれよ。私はお医者様じゃない。そのお医者様が駄目だと言ったのだから、お前はきっともう駄目なんだよ。私みたいなただの婆にできることなんざありゃしないよ。

 かかか、おそろしいか、怖いか。そうだろう、そうだろうねえ。でも、これがお前の運命なんだよ。諦めな。せめてお前がくたばるまで、私がそばに居てやろう。どんなに賢くても運が悪ければ死んでしまう、ということをこの目で確かめてやろうじゃないか」

 そう言って大婆はルシャの額の手ぬぐいを、新しく水で冷やしたものと取り換えた。小さく千切った柘榴をルシャの唇に当て、それからチーズをひと欠片口に押し込んだ。そんな介抱を一日に五度か六度ほど行い、その度に「お前はもうすぐ死んでしまうのだ、可哀想に、可哀想に」と呪いのように囁いた。

 死を目前に夢と現の間を往復していると、ルシャは自分の中にある魂の輪郭を感じられるようになる。暗黒の宇宙の中に浮かぶ茜色の小さな塊がルシャである。死が余計なものを削り取ったおかげで、今やその輪郭はくっきりと浮かび上がり、これ以上なく純度の高い魂となっていた。死の恐怖に精神を削がれてもなお最後まで残ったルシャの本質、それはすなわち自由であること。それこそが自分自身であることを悟った。ルシャは自分を束縛する一切のものを否定する。あらゆる理不尽に抵抗し、憤る。それがたとえ運命と呼ばれるような、人智を超えたものであったとしてもだ。

 なぜ私はこんなところで死ななければならないのか?

 その問いに対峙した時点で答えは出ていた。これが何人に一人がかかる病なのかは知らないが、自分が望んでその一人になった覚えがない以上、運命や運のなさといった思考放棄に陥る気はない。故に、ここで自分が死ぬこと自体が間違っている。ただし「かみさま」はルシャに理不尽を強いた側だ。医者も、周りの大人も、子どもたちも、自分を見放した側だ。頼れるのは自分しかいない。ルシャは自分の全存在を賭けて、この理不尽に抗わなければならない。

 ――かかか、そうだそうだ。賢さなんざそれ自体はただの張りぼてだ。内側に無尽の欲を抱えてこそ、それは初めて役に立つ。自分の欲を満たすという役に、ね……。

 はたして大婆が本当にそう言ったのかはわからないが、ルシャが死の淵から這い戻ると、大婆はじっとルシャの瞳を覗き込んでいた。

「戻ってこれたか。悪運の強い子だね。しかしそれもまた才能というやつだ。大事におしよ」

 ようやく上体を起こすことができるくらいまで回復した頃になって、大婆はおもむろに昔話を始めた。まだ十代だった頃に、彼女も大病を患い生死の境を彷徨ったのだという。寝て覚める度に、自分がまだ生きていることを確かめるために、心臓に手を当て百まで脈を数えた。そしてこう思ったのだという。

「こんなところで死んでなるものか、生きて、生き延びて、それで私を見捨てた連中を今度は私が見捨ててやるんだ、ってね。誰も自分のことなんか助けちゃくれない。この世で頼れる確かなものは、自分だけだ」

 だからお前は誰よりも強く賢くあらねばならないんだよ。

 大婆は魂の同士を得たかのような目でルシャを見つめたが、ルシャ自身は言葉にし難い違和感を覚えていた。しかしその正体が何であるかを言語化するにはまだルシャは幼かった。

 

 大婆が遺していった大量の書物は、結局ルシャが引き取ることになった。娼館の人々にとって大婆が遺した書物とは、彼女が打ち立てた功績の源泉となるものであったが、自分たちの手には余るもので、そのくせ煮ても焼いても食えず、買い取ってくれる商人もいないものだった。焼き払ってしまうことが一番簡単な処分方法であるとわかっていたが、簡単にそうしてしまっていいような代物ではないことくらいは、学ぶことを諦めた連中でもさすがに理解できたようだ。では、誰ならばあの紙の束を有効活用できるだろうか。大婆の最良の弟子たるルシャに委ねるのが良いだろう。そう結論付けられるのは必然だったと言えよう。

 かくして齢十四にしてルシャは娼館の中でもっとも上等な個室を得ることになった。そのせいで姉さんたちにはずいぶんいじめられることになったのだが、大量の知識に囲まれる生活の有難味に比べれば取るに足らないことである。

 壁を埋め尽くす十台の本棚にはほとんど隙間なく書物が詰め込まれていた。古今東西の自然科学、歴史、文化、芸能など、内容に選り好みの痕跡は見られなかった。基準は世界の在り様を明らかにするものであるか否か、ただそれだけである。これらは大婆が人生をかけて集めてきたものだった。数多の男たちが、大婆の気を惹こうとして貢いだのだろうが、彼女のお眼鏡にかなったものだけが本棚に居場所を得ることができたのだった。

 手に取った書物の全てに大婆の注釈やメモがそこかしこに記入されていた。そこから窺い知れる彼女の思考は一貫して、いかに世界の仕組みを明らかにするかに向けられていた。しかしその動機は、彼女がかつて述べたところの「私を見捨てた連中」への復讐であり、何をどう語れば客どもが喜ぶかを考察する記述も多々見受けられた。良客を抱えて娼館一の稼ぎ頭になれば周囲から尊敬もされるだろうし、事実彼女はそうだった。しかしせっかくの知識を復讐のために使うのはとてもつまらないことだとルシャは思うが、大婆にとってはつまらなくない大事なことだったのだろうとも思う。どうしたって自分が大婆と同じにはならないだろうと悟るのは、そういう時だ。

 大婆と同じにならないのであれば、自分は一体何者になるのだろうか――茫洋たる知識の大海を泳ぎながら考えるが、ついぞ答えは得られない。ただ、「私は私にしかならない」ことだけがわかっていた。少なくとも、ルシャは知識をただの道具のようには扱わない。

 まだ大婆が健在だった頃、彼女が教室でルシャたちに語って聞かせた世界の在り様は、数多の法則が織り糸の如く縦横に交差する一枚の巨大なタペストリーのようだった。近づいて見てみればミニアチュールのように小さな法則の一つ一つが絡み合って事象を形成しているが、一方で、引いて見てみれば破綻も無駄もない完璧な一枚絵がそこにある。調和と秩序によって裏打ちされた美しさは、幼いルシャの心を十二分に掴んだものだ。そんな美しいものをどうしてただの道具のように扱えようものか。

 姉さんたちが客と行為に及んでいる間の真夜中に、ランプの灯りを頼りにページを捲る。その時だけは、窓から香る甘ったるい匂いも気にならなかった。

 

 十六になり、ルシャは初めての客を取った。しかしその客は記憶にも残らない男だった。かろうじて、貧相な体の弱気な青年だったことだけは覚えている。商家の三男坊だったか。使い慣れない口説き文句でルシャの容姿を褒めていたような気もするが、何と言っていたのかは思い出せないし、そもそも記憶に留めておく気すらなかった。

 それから何人かの客を取っていくうちに、ルシャはいくつかのことに気付いた。一つ目、男とは存外純朴な生き物らしく、下手な口説き文句でもルシャが微笑んで「嬉しい」と言うと、二歳か三歳の子供よりも素直に鵜呑みにすること。二つ目、何を根拠としているのかは知らないが、ルシャよりも自分の方が優れた存在だと信じて疑わないこと。そして三つ目、彼らにとっての世界とは目に見える範囲のことしか指さないということ。ルシャの倍以上長生きしていてもその程度のことしか知らず考えないというのは、驚き呆れることではあったが、娼館で生きる姉さんや兄さんたちのことを思えば、むしろそれが普通のことなのだろうと合点が行った。あの大婆ですら、魂の品格という点でいえば彼らと大差なかったのだから。ほんの少しでも甘い期待を抱いていた自分と決別することができた、という意味では必要な学びだったと言えるのかもしれない。

 近頃は娼館が狭く感じられるようになってきた。娼館は鳥籠に似て、中にいる間はやり方を間違えない限り平和だが、自由はない。窓の外は、いくつかの建物を除けば、ただ空と砂漠が広がるのみであるが、それが世界の全てではないことをルシャは知っている。その彼方には広大な世界があることを知っている。自分とは異なる人種の人々がおり、異なる文化が栄えていることを知っている。しかしそれらは大婆がそう語ったから、大婆の遺した書物にそう書いてあったから知っているだけで、ルシャが自分の目で確かめたわけではない。

 ルシャは想像する。空の下、大手を広げて歩く自分を。五感の全てで未知の世界を体験し、見知らぬ人々と語り合う。魅惑的な話を聞く代価は自分が持つ知識を披露することであり、決して自分自身の体ではない。広い世界のどこかには知識とはそれ自体が貴ぶべきものであると理解している人がいるはずで、そういう人と出会えたらどんなに素晴らしいことだろう。そうでなくても、せめて、自分の外見ではなく内面に関心を払ってくれる人がいたらどんなに。

 思いがけずか弱い自分を発見し、まだ可愛いところもあるものだと感心するが、それは同時に忌むべきものでもある。しかし存在を否定すべきものではない。認識し、超越すべきものである。

「十八歳。そのときまでに、一人で生きていくためのものの全てを手に入れる」

 悲痛な声で泣き叫ぶ自分の中の自分に言い聞かせるように、ルシャは呟いた。自分を買い取るだけの金とそれに代わる金目の宝石等、広い砂漠を旅するための知識と装備、そして自分が最期まで自分自身であるための揺るぎない意思と覚悟。そのためには、大婆の遺した知識は残らず自分のものにして、自分の手足として使えるようにならなければならない。

 そう考えれば残された時間は決して長くないし、心の痛みに苦しんでいる時間すら惜しい。ルシャは読みかけていた本と向き合い、大婆の注釈を咀嚼しながら文章を読み進めていく。言葉の一つ一つがルシャに浸透して血肉となる。

 

 

 ルシャが十七歳と少しになった頃にルシャの運命を変えることなる男はやってきた。男はぼろぼろのマントを頭からかぶっていた。浮浪者だろうか。番をしていた兄さんなら追い払うはずだが、何やら上機嫌で男を館内に連れてきた。ルシャは吹き抜けの受付場を五階の欄干から見ていた。

「一晩泊まらせてほしい。代金はこれで足りるだろうか」

 ドン、と重い響きを伴わせて金の詰まった袋を台の上に置く。なるほど、兄さんもいくらか握らせてもらえたのだろう、とルシャは合点がいった。娼館の長を務める婆も気味が悪いほどに愛想の良く甘ったるい声を出す。

「どんな娘をご所望で」

「大人しくて口数の少ない娘がいい」

「左様でございますか、ええ、ではすぐに向かわせますので、部屋でお待ちください」

 ルシャは身支度を整えるべく自室に戻る。あのような客は姉さんたちが最も警戒する類のものなので、必然的にルシャが相手をすることになる。身なりに似合わない大金は大抵の場合汚れているものだ。

「ルシャ、お客様だよ。大人しくて口数の少ない小娘をご所望だ」

 そう振舞えと言われて振舞うぐらい造作もないことだ。気弱で小動物のような小娘がこの世界で生きていけるはずなどないのだが、客が望むのならばそれに合わせるのも仕事である。

 

 ルシャが部屋の前に着くと、ちょうど湯運びの妹と入れ違いになったところだった。

「お疲れ様」

 妹は小さく頭を下げて去っていった。彼女がまだ幼い頃には、ルシャがおしめを替えてやったこともある。

 さて。深呼吸をして、気持ちを整える。大人しくて口数の少ない娘の皮をかぶる。そのような娘ならば、するであろうこと、言葉づかい、反応を想像し、態度で形にする。

「失礼します」

 いつもより少し高めの、小さな声色で声をかけ、部屋の中に入る。男はぼろのマントを床に放り捨て、布で自分の体を拭っているところだった。赤銅色の肌、白髪、顔全体に深く刻まれた皺はまさしく老人なのだが、首から下の肉体は無駄なく鍛え上げられており、顔つきよりもずっと若いことを想像させる。長くなった無精髭はそれだけ長旅をしてきた証拠なのだろう。

「来てもらったところ申し訳ないが、貴女にやってほしいことは何もない。強いて言えば、何もしないことを頼みたい」

 何もしないとは何か。

 すなわち行為をしないことはもちろん、何も訊ねず、しかし部屋からも去らず、ただそこに居ること。部屋の外の監視役たちの目を騙し、滞りなく行為がなされているように見せかけ、普通の客を装うこと。そうして彼に自分一人の時間を作らせること。寝るか、何か作業をするかまでは図りかねるが、いずれにせよルシャに期待されているのはそのようなことなのだろう。ただし、そのような時間と空間は、彼にとっては大金を払う価値のあるもののようだった。

「承知しました。では窓辺の席だけお借りしますね」

「なるほど、貴女はずいぶん聡い人のようだ。話が早くて助かる」

「何か飲み物や食べ物が必要になったらどうぞ遠慮なく申し付けください」

「貴女も自分の欲しいものがあれば用意するといい」

「お気遣いいただきありがとうございます」

 男は黙々と湯と布で体を清めていく。ナイフを剃刀代わりにして、器用に髭を剃っていく。長く伸びた髪を紐で一本にまとめて結い上げれば、険しい眼光の奥に澄んだ理知の片鱗が見えるようになる。

「若い娘さんにじろじろと見られるのは恥ずかしいものだな」

 言われて初めてルシャは男を凝視していたことに気付き、慌てて目を逸らした。

 男は灯りを消すと、そのまま寝入ってしまった。男の寝息は静かであった。

 娼館に来て行為に及ばない客というのは決して珍しいことではなかった。宿代わりに娼館を使う場合もあるし、客自身が肉体的に不能で雰囲気だけ味わいに来る場合もあるし、あるいは何か預かり物や伝言を頼まれる場合がないこともない。理由が何であれ、客の事情に干渉しないのはルシャたちにとって確実に守るべき教訓のひとつである。しかしこの男の場合、宿代わりに娼館を使っているのだが、振舞いは今まで見てきたどの客よりも上品であり、口ぶりの端々から知性がにじみ出ている。

 この人は一体何者なのだろう。

 寝息が深いことを確かめて、ルシャはそっと立ち上がる。顔が月明かりから隠れたところにあるせいで、顔つきはよく見えない。荷物は大きな革袋が一つ、遠目にもずいぶん年季が入っているのがわかる。客に興味を持たないのは娼館で長生きするための知恵であるが、一度芽生えた好奇心はすくすくと育っていく。この人はどのような世界で生きている人なのだろう。

「貴女は口数こそ少ないが、大人しくはないようだ」

 目を閉じたまま、小さいがはっきりとした声で男は言った。

「私のような客は、たしかに変わっているかもしれないが、別に珍しくはないだろう」

「貴方ほど自分を特別と思わないお客様は珍しいですよ」

「なるほど、それはそうかもしれない。いや、貴女がそう言うのならそうなのだろう」

 男は身を起こすと、これまでの自分の旅路を語りだした。合間を見て「なぜ突然そんな話を」とルシャが訊けば「貴女の顔にそう書いてあったから」と事も無げに答える。別に隠すようなことでもないからね。と添えて。

 男は魔術師だった。東の国から西の国へ渡る途中だったという。知人の紹介で西の国のとある侯爵に招聘されるのだそうだ。彼は星天の位相からその人の運命を予知し、伝えることができる。運命が見えない人にとってはそれだけでも十分に価値ある情報だが、しかしそれだけではただの占星術師でしかない。男が魔術師である所以は、運命を読み取ることに加えて、魔術の力で星天の配置を操作し、人の運命を変えることができる点にある。その人が巨万の富を望むのならばそのように星天の位相を変えてやればいいし、戦での勝利を願うならばその未来に導けるようにしてやればいい。

「では、貴方は自分の未来も望むがままにできるのですね」

「この魔術は自分には使うことができないものなのだよ。世界というのは実にうまくできている。法則を知ることは、本当の意味での魔法の力を失うことなのだ」

「あら、そういうものですか」

 法則、すなわち世界を動かす仕組みを知らない人にとっては魔法であり、知っている人にとっては魔法ではない。魔法ではないそれはつまり彼のみが知っている知識や知恵である。

「もし法則を知ることができたのならば、それは他のあらゆる望みも及ばないほど幸せなことなのでしょうね」

「ほう、貴女はそう思うのか」

 顔を近づけ問いかける男の目がルシャの中にある何かを確かめようとしている。ルシャは思わず後ずさりしたが、そのことに気付かないほど無意識的な反応だった。

 どう返事をするかで、ルシャの運命は大きく分かれるだろう。

 そう直観的に予感した。ほんの一瞬だけたじろいだものの、しかし返すべき答えは揺るがない。思えば高熱で死にかけたあの日から、ルシャが進むべき道は決まっていて、あとはそれをどう歩くかだけが人生で考えるべきことだった。ルシャは唾をのみ込み、唇を開く。

「はい」

「ふむ、そうか、そうか――そうだとするならば、さぞかしここは生きにくい場所だろうね。貴女のような人が何も思わないわけがないだろうから」

 それは男の率直な感想だったのだが、岩に水が浸みるようにルシャの心に響いていく。生きにくい、ああ確かにそうだ、ずっと感じてきたあの感覚はそう表現すればよかったのか――しかし、こういうときほど自分の心を無防備にしてはならないのだ。いつでも逃げられるように退路だけは確保しておかなければならない。勘の良い娼婦が男の望む答えを口にしているだけである可能性を捨てさせてはならない。

 そんなルシャの葛藤すらも男は見抜き、そして気付かないふりをしてくれる。ルシャはついに観念する。今の自分はこの人には敵わない、と。この人に嘘やごまかしは通用しない。

「――実は、十八になったらここを出ていこうと考えています」

「なぜ十八歳まで待つ必要がある?」

「小娘一人が鳥籠を出て生きていくためには相応の備えが必要でしょうから」

「はたして本当にそうだろうか。どんな備えをしても死ぬときは死ぬだろう。金も尽きればおしまいだ。貴女もそれがわかっているから、とりあえず十八歳までは我慢しようなどと自分に嘘をついてごまかしているのだね」

「嘘だなんて」

「では十八歳までに具体的に何をどれだけ準備するつもりだったのだろうね。路銀はいくら用意して、尽きた後はどう生計を立てるつもりだったのか。水や食料の継続的な入手方法は。考えれば備えに十分な水準などないことぐらいわかるだろう」

「……つまり女一人が娼館を離れて生きるのは無理だということですか」

「無理だ。もとい、男一人でも無理な話だがね――誰にも無理なことだから、人は社会という共同体を作ってきたのだよ。貴女に必要なのは志を共にできる仲間であり、それを得るための人との関わり方だ。貴女は真理に憧れる以前にただの人間に過ぎないのだということを、もっと自覚するべきだね」

 使っている言葉こそ直接的で容赦ないが、それに反して口ぶりは優しく諭すようだった。ルシャは父も母も知らないが、もし父親というものがいたとしたらこのように叱られたのだろうかと錯覚しそうになる。口に出せばいよいよ後戻りができなくなると予感しつつ、ルシャは問わざるを得ない。

「私はどうすればいいのでしょう」

「私ならば貴女をここから連れ出すことができる。ありがたいことに金に困らない暮らしはしているからね」

「そうすることに、貴方にどのような利があるのでしょう」

「知を貴ぶ同志が鳥籠から解き放たれて自由になること以上に喜ばしいことはない」

 嘘だ。

「もし一緒に来るならば、私が知っている秘密を貴女に教えてあげよう。この秘密を私一人だけのものにしておくのは、いい加減荷が重たかったところなのでね――まあ、考えてみるといい。もし仮に私が話していないことがあったとしても、貴女が選ぶべき道がどちらかは自明だと思うがね。転機は突然訪れるものだし、もし人生で備えるべきことがあるとすれば、こういう突然の転機に対して自分がどう振舞うかを覚悟しておくことだ。金も仲間も覚悟の後からついてくる」

 明日の日没後、私は発つ――それまでに貴女が意思を示すならば、私が貴女の身請けをしよう。

 そう言い残して男は再び横になった。

 

 こういうとき、大婆ならどうするのだろう。ルシャは考える。おそらく、いや間違いなく、断るだろう。大金を出してルシャの身請けをすることに一体何の得があるものか。同志が自由になること、と男は言ったがそれはどう考えても割に合っていない。そして何よりも、もし男とルシャの本質が類似しているのであれば、志を同じくする者と連帯することに意義は見出さないはずだ。求道者は誰も歩かない道を往くからこそ常に孤独であるし、孤独であることを厭うならばそもそも道を求めない。孤独の痛みに苦悶することはあっても、孤独から逃れたいとは決して思わない。故に、男の言う身請けの理由は嘘で、真意は別にある。そして、男はルシャがそれを看破することも見透かしており、それでもなおルシャが自分と共に行くことを確信している。

 ルシャは窓辺で月を見上げる。冷えた柘榴を口に運ぶ。甘みと酸味が喉を下るのを感じる。やはり自分と大婆は違う道を行くことになるのだ。いつかは大婆と道を違えるとは予感していたが、それがこんなにも早いタイミングで訪れるとは思っていなかった。しかし男の言葉を借りれば、転機とは突然訪れるものなのだ。金も仲間も後からついてくる。ルシャが進むべき道は決まっていて、あとはそれをどう歩くかだけが人生で考えるべきことだ。

 このまま娼館の中で飼い殺されることと、一人で砂漠に飛び出して野垂れ死ぬことと、素性の知れない男の甘言に乗って死ぬのと、どれがまだ望ましい死に方か。せめて自分が腹を括って選んだ死に方でありたいものだ。

 指についた柘榴の汁を舐め取ると、ルシャはそっと部屋を抜け出し自室に戻っていった。旅に用意すべきものはほとんどなく身一つでいいが、妹たちに残せるものがあれば選んで残してやりたかった。十八歳の旅立ちの日に向けて貯め込んでいた宝石や貴金属など、上等なものはほとんどないが、美しいものに憧れる子供にとってはきっと価値あるものだろうから。そうしてルシャは子供たちの寝室をまわって贈り物を枕元に置いてやる。実際に喜ばれるかどうかは知らない。

 

「身支度は済んだかね」

「着替えぐらいしか用意すべきものがないですから、すぐに終わりました。それから妹たちにお別れもしてきました」

「そうか」

 部屋に戻ると男は目を覚まし、蠟燭の灯りを頼りに本を読んでいるところだった。

「朝になったら、ええと名前は知らないが、あの一番偉い婆さんに貴女の身請けをする旨を伝えておこう」

「きっと喜ぶでしょうね」

「そうなのか」

「私、どうやら娼婦としてはあまり優秀ではなかったようなので」

「人には得手不得手というものがあるからね」

「――あの」

「なんだね」

「今さらですが、私、これから貴方を何とお呼びしたらよろしいでしょうか」

「そうか。お互い名前も名乗ってなかったか」

 名前も知らない人間同士が身請けに合意するというのも馬鹿な話だな、と男は苦笑した。

「ズィブと呼んでくれ。貴女は」

「ルシャと申します」

「ああ、西方の国の言葉では『光』という意味だそうだね」

「はい、もう亡くなってしまいましたが、育ての親がつけてくれた名前です」

「なるほど。東方の国の言葉では、さすらう人、という意味にも取れるね」

「あら、そうなのですか」

「こう書くんだ」

 ズィブはルシャを呼び寄せると、机の上に指で文字を書いた。生憎ルシャは東方の文字まではわからなかったが、流者、と書いたらしい。

「光を求めてさすらう人とはなかなか面白いですね」

「あるいはさすらってついに光を得る人かもしれないね」

 つまらない言葉遊びだ、とお互い鼻で笑い合う。

「ズィブさんのお名前の由来は」

「どこかの国の言葉で嘘つきという意味らしいね」

「まあ。少しくらい隠そうとしたっていいのでは」

「すでに知られてしまっているものを隠す意味はないだろう」

 そう言ってズィブは肩をすくめた。

 夜が明け、日が暮れてルシャが娼館を発つ時間となった。結局いくらでルシャの身請けが成立したのかルシャは知らない。べらぼうに高くはなかっただろうが、極端に安いこともないだろう。ただ、婆の満足げな顔を見れば、相場よりもいくらか色がついたのだろうということは察せられる。ズィブはまるで気に留めていないようではあったが。

「お前を貰ってくれるなんて良い御仁だね」

「ええ、この機を逃すと二度と来ないような気がして」

「そうかい。ま、うまくおやりよ」

 ズィブが呼びつけた鯨車に御者の手を借りて乗り込んだ。揺られ始めてから振り返ってみれば見送ってくれる人は誰もいなかった。

 

 それからルシャはズィブに連れられて砂漠中を旅してまわった。西の国の侯爵に招聘されて赴く途中だったと聞いた記憶があるが、旅路は南北を往復し、時には東に進路を取ることもあった。しかし全体的に見れば、少しずつ西方へ向かっていた。別に急ぐ話でもないからね、とズィブが笑って言ったのは半年が経った頃だったか。

 ズィブは砂鯨の背の上で自分の知ることを惜しげもなくルシャに語って聞かせた。大婆の遺した書物の記述と一致するものも数多くあったが、やはり初めて知ることも多く、知識を得る度に世界はますます広くなっていった。ルシャが疑問に思ったことには丁寧に答えてくれたし、答えがない問いには互いの頭が回らなくなるまで付き合ってくれた。

 よく晴れた雲のない夜には星天を操る魔術も見せてくれた。あそこ、と無数にある星から一つ選んで指さし、上から下へ指をおろすと、見えない糸に引っ張られるように星が白い軌跡を描いて夜空を滑り落ちた。ルシャも真似して指を走らせてみるが、虚しく宙を切るだけで、遥か彼方で星々は燦々と輝いている。

「形だけ真似しても駄目だ。目で見て、目で見えないものを視るのだよ。見えるものは全体の中の、ほんの一部にしか過ぎない。見えないところでもきちんと法則は働いているのだから」

 ズィブが星を降らせるとき、その背後ではどのような力学が作用して、ズィブの指はその力学のどの一端に働きかけているのか。

「知らないことだらけだろう。本を見ても、人の話を聞いても、知らないことわからないことばかりがルシャの目の前に現れる」

「うん、おかげで飽きない」

「無邪気なものだね。けれど、いつかそれが歯痒く感じられる時が来るだろう。手っ取り早く答えが知りたくなる時が来るだろう。それが知られるなら悪魔に魂を売り渡してもいいと思える時が来るだろう」

「とうの昔に売り渡したつもりでいたけれど」

「私なんか取るに足らないつまらない人間さ。本物に失礼が過ぎる」

 ズィブが指を振ると、その指先の軌道に合わせて星が夜空を踊った。ルシャはその不思議を解き明かせずにいる。

 

 ズィブという新たな師を得てルシャはずいぶん多くのことを知り、相対的に知らないことは少なくなってきたように感じられてきた。もちろんそれはただの錯覚でしかないし、一度熟考した問題も考察の視座を変えてみれば新たな気付きがあるものだ。しかしそれでも、世界に対する新鮮味が薄れてきたように感じてしまう自分がいることも事実だった。そうなれば自ずとズィブと交わすべき言葉も減る。気付けば三日間口をきいていなかったということも珍しくない。

 ズィブの魔術の秘密は相変わらずわからないままだったが、一方で、ズィブの魔術は星を動かす以外のことは何もできないものらしいことも察せられた。ただ、天で瞬く星の光を上から下へ、右から左へ、ずらして見せることそれ以上でも以下でもない。もちろんそれだけでも十分恐ろしいことなのだが、しかしそれだけだ。

「つまらないことだと思うかね」

「星を動かせるなら他にももっと色々できそうなものだって思うよ、正直」

「そうだね。でも、私に許されたのはここまでだったんだ」

「悪魔と交わした契約」

「そう。私が差し出した価値がその程度のものだったということだ」

 ズィブの語る悪魔とやらが何かの比喩なのか、あるいは文字通りそのままのことを指しているのかルシャにはわからない。しかしズィブの表現をそのまま引用すれば以下の通りである。かつてズィブが占星術師として駆け出しだった頃、若かった彼は星天の真理を欲するあまり、悪魔の囁きに耳を傾けてしまった。悪魔はズィブが気付いた時には背後に立っていて、真理の扉に触れる機会の代償にズィブの一部と悪魔の一部を交換することを要求してきた。

「交換のチャンスは一度だけで、当然やり直すことはできない。何を差し出せばどの程度の見返りがあるのかもわからない。ただ、差し出したものが自分にとって重要であればあるほど、悪魔が私に与えてくれるものは真理に近づきうるものだという。要は、真理に近づけるかもしれないという根拠もない可能性のために、自分自身にどの程度の犠牲を強いることができるか、ということが問われていたわけだ。ああ、そうだとも、こんな話に耳を傾けること自体がばかげている。ばかげていたんだ」

「でも、貴方は悪魔に自分の一部を差し出した」

「そう、自分の舌をだ」

 ズィブが口を開けて舌を出すと、それは細長く顎の下まで伸びて、全体が濃緑色に染まり、先端は深く割れていた。明らかに人間のものではないが、普段、喋っているぶんには他者に気付かれることはまずない。

「この舌を得て以来、何を食べても砂を噛んでいるようだし、何を飲んでも泥水を舐めているように感じられたのだ。でも、この秘密は誰にも知られるわけにはいかなかった。だから、人と食事の席を共にするときなどは、必死で笑顔を繕ったものだよ」

 悪魔は人間の舌を得て、さぞ食事の喜びを知ったことだろう。魔界で自慢して見せびらかしていたかもしれない。

「ルシャ、君は私の話が嘘だと思うかね。この舌も、星を動かす力も、ただのつまらない手品だと思うかね。私の話を信じてくれるだろうか。いや、信じてくれなくても、悪魔はたしかに存在したし、私は真理の扉の一端に触れることができた。そして星を動かす術を知ったのだ。これは確かな事実なのだ」

 この話をするとき、ズィブは幼く怯えた子供のような目をする。ルシャの細い腕にすがりついてくる。ルシャはズィブの頭を抱いてやり、白髪に覆われた頭を撫でてやる。ズィブはルシャの腕の中で、自分の身に起きたことを整理しようと努めるが最後には疲れて眠ってしまう。そして悪夢にうなされる。そんな様子を見ていると、ルシャは人の心がいかに脆くはかないものであるかを思い知らされる。

 ルシャがズィブの言い分をそのまま信じているかと問われれば、答えは否である。確かなことはズィブが任意に星を動かすことができる、正確には動かしているように見せることができること。そして、ズィブの舌が決して作り物ではなく、たしかに本物であること。その二点のみである。この二点の間に関係性があるとすれば暗喩に満ちたズィブの話が答えであろう。しかし、そもそもこれらを関連付けることが適切かどうかもわからない。ただ確かなのは、ルシャが普通に生きている限り、絶対に知りえない法則が存在していることだけだ。この世のあらかたのことを知り尽くしてしまった今、明かされていない謎は明かされていないというだけで魅力的だ。自分はなんと愚かなのだろうとルシャは自虐的に笑む。

 このようにしてズィブの秘密を共有したことで、ルシャとズィブの旅の目的の半分は達せられた。旅の終焉がそう遠くないことはおのずとお互い察せられることだった。

 

 ルシャたちが砂漠の西端の街を訪れたとき、街は聖人の再生を祝う祭りの最中にあった。誰も彼もが花冠を頭に乗せている。砂漠の街にあって色鮮やかな光景を目にできるのは、それだけ西の国が近く生花を輸入することができるからだ。

 思わず「綺麗」と呟いたルシャに、ズィブは「何がいい?」と声をかけるが、ルシャは黙って首を横に振る。

 宿に入り、食堂でルシャは羊の肉のスープを飲む。ズィブは水を飲む。他愛もない話をするが、すぐ会話は途切れてしまう。旅を始めてもう一年半になった。

「君に渡したいものがある」

 意を決したズィブの申し出にルシャは思わず身を固くするが、いつか訪れる未来がついに訪れたのだと思えば、あとは腹を括る他にない。

「一年半。君にとってどうだったかはわからないけど、私にとってはあっという間だった。しかし、とても充実した時間だった。長い時を生き、これからも生き続ける私にとって、君と過ごした日々は忘れ得ぬものとなることだろう。

 君が真に私と秘密を共有するに足る人物かどうか、見定めようとしてきたけど、ついに答えは出た。君は合格だ。君は知識への敬意を常に持ち、驕れることなく、しかし卑屈になりすぎることもなく、真理を求め続けてきた。学知の信徒として模範とも呼べる生徒だった。もう私から君に伝えるべきことは何もない。君はもう幼い女の子ではなく、世界の厳しさを知ったうえで己の意思で道を決めて、決めた通りに道を歩く力を得ている。君ならもう一人で新しい仲間を見つけて、自分の人生を生きることができるだろう」

 周囲の喧騒は遠のき、ズィブの言葉がまっすぐルシャの耳に届く。一年半の年月を経て、ズィブはいくらかくたびれて老けたように見える。

 ズィブは懐から小さな袋を取り出した。手のひら大のその口は麻紐で固く結ばれている。

「これは?」

「悪魔と邂逅を果たすための秘薬だよ。かつて私に世界の秘密の一部を教えてくれた悪魔だ」

「大昔に貴方はこれを使ったのね」

「古代の王国の遺跡を訪れたときに見つけたものだよ。伝承が真実かどうかは自分で試してみるしかなかった。結果はろくなものでなかったがね」

「そんなものを愛弟子に送るなんて、ひどいお師匠様だわ」

「だから分別がつくまで待ったんだ――人が観測し分析できる範疇のことであれば言葉で教えることができるが、そうでないものはそれができないのでね。もし君が、人の道を踏み外してでも真理を求めるというならば、選択肢ぐらいは用意してやろうと。それが、私が君に与えられる最後のものだ」

「貴方は私にどうしてほしいの?」

「自由であってほしい。あの娼館という鳥籠が君にとって手狭だったように、そろそろ私と共にいるのも、君という鳥にとっては手狭になる頃だ。だからこれを手向けとして、終わりにしよう」

「そう、わかったわ」

「恋人たちの別れ話みたいだ」

「キスもしたことないのにね」

 馬鹿々々しい、下らないと肩をすくめ合い、杯を掲げて酒と水をそれぞれ飲み下した。

 

 匙で一掬い分の粉を水に溶かし、飲み下す。それだけで魂は肉体を離れ、不可知の事柄に触れることができるようになる。特別な儀式も呪文も要らない。

 簡単だろう。ええ、簡単すぎて拍子抜けするくらい。

「やめるなら今のうちだが」

「私ならやると確信しているから秘薬を渡したのでしょう。こうなると見込んだから、私の身請けをしたのでしょう。何を今更」

「いくら私でも、そこまで思い切りよくはできないな」

 宿屋の一室。二人部屋のベッドにルシャとズィブは並んで座っていた。祭りは日が暮れてからもなお賑やかで、喧騒は止む気配がない。月明かりとかがり火の光が窓の外から差し込むおかげで、室内は灯りをともさずとも手元が十分に見えている。

「ルシャ、君は悪魔に何を願う」

「死の向こう側。死んだ後のことはどうしてもわからないから」

「そうか」

 幸運を祈る、とズィブが言ったことを最後に二人の会話は途切れた。ルシャの手には粉を溶かした水が入ったコップがある。これを飲み干せばいいだけだ。

 意を決し、一気に水を飲み干した。いくらか苦味があった以外はただの水と変わりないように感じられる。何も起こらない。拍子抜けしてズィブに声をかけようとして、異変は唐突に訪れた。胃の底が熱く焼けるようで、心臓が激しく鼓動を始める。汗が全身から噴き出す。しかし深夜に行く砂漠のように肌寒く、視界は明滅する。ズィブが何か叫んでいるようだが、耳鳴りがひどくて聞き取れない。全身の感覚が失われゆく中で、せめて呼吸だけはと肺に空気を送り込む。そこから先のことは覚えていない。真理に憧れる以前に、自分は所詮ただの人間に過ぎないという、自明の事実を今更認識するという愚かさが、意識が途切れる直前ルシャの胸の中にあったことだった。

 

 

 うすぼんやりとした意識の中、ルシャは舟に乗っていた。ルシャ自身は舟に乗った経験がないのだが、書物で得た知識から察するに、舟に揺られるとはこういうことなのだろうと感じられるような揺られ方だった。

 手首にかけられた枷は誰がいつ着けたものなのか。よくよく見てみれば今自分は灰色の襤褸を身にまとっている。

 自身の状況が明らかになるにつれ、周りの状況も明らかになってくる。薄灰色の空の下、濃灰色の泥の沼を、白色の舟が泳いでいく。振り返れば、ルシャと同じく襤褸を頭からかぶった骸骨がおり、枯れ枝のような櫂を操っていた。ルシャは声を出そうとして、声が失われていることに気付いた。足首には鎖と重石がつながれており、逃げることは叶わない。

 ああ、ルシャ。愚かなルシャや。お前は賢い子だと思っていたのにねえ……。

 ねっとりと耳にまとわりつくような声は忘れようもない。ルシャの最初の師にして、誰よりも死を恐れ、そしてついに死から逃れることのできなかった大婆である。どこから聞こえるのか。舟を漕ぐ髑髏の空洞の喉からだ。

 どうしてこっちに来ちまったんだい。お前はみっともなく「かみさま」に縋ってまで死から逃れたいと思っていたじゃないか。それがどうして自分から冥界の門に赴くような真似をしちまったんだい……そうさねえ、お前が馬鹿だからだ。どうしようもない大馬鹿者だからだねえ。

 反論を試みようにも、声が失われて手足も縛られているのだから、どうにもすることができない。ただ大婆の侮蔑と呪いの言葉を浴びるがままにしていることしかできない。お前は馬鹿だ、愚かだ、と延々と罵られていると心がみるみる間に衰弱していくのがわかる。零せる涙もない。

 ――どうだい、ここがお前の願った「死の向こう側」だよ。何も無いだろう。まぁ、正確にはまだ「向こう側」ではないんだがね、大した違いじゃあない。お前はこれから冥界の門を抜けて、冥府に行くんだ。そこでお前の魂を炉に溶かして、いよいよお前という存在が消えてなくなるのさ……ま、お前が死の奴隷になりたいと願うのなら話は別だ。魂の消滅を免れる代わりに冥府の住人と契約を交わせば、お前の魂は一旦助かるだろうよ……ああそうさ、私がそうしたようにねえ……。

 からからから、という音は大婆の笑い声か、風で骨と骨がぶつかり合う音だったか。大婆が冥界の門の名を口にしたときから、舳先の指し示す方角にうっすらと巨大な門の陰が見えていたが、ルシャが門の存在の認識を強めれば強めるほどに、門はくっきりと輪郭を浮かび上がらせていった。あの門をくぐればいよいよ戻れなくなるということは、本能的に察せられた。しかし、察したところで抗う術はない。

 りん、と鈴の音。

 不意にルシャの耳に届く。それは涼しく鮮やかな青色の音だった。鈴の音はたちまち視界全体を覆っていた灰色を押し流し、本来の正しくあるべき色と姿に塗り替えていく。すなわち、空は雲一つない透明で濃い青色に、沼は消え失せ黄色い砂漠に、ルシャは枷や鎖で縛られてなどおらず、襤褸は下ろしたての白紗のローブである。乾いた風が吹き抜けて、大婆のふりをした骸骨は砂となり崩れていった。白銀色の美しい門がルシャの目の前に立っている。

 鈴の音がもう一度。ルシャの意識は完全に覚醒し、宿の一室で意識を失う直前にことも思い出していた。幻覚薬と毒薬を混ぜ合わせて秘薬と呼んだものを飲んだ後、ルシャは人ならざる者のように叫び苦しみのたうち回り、喉を掻き毟って髪を振り乱した。そんなルシャから、ズィブは逃げ出した。ズィブはルシャを助けるのではなく見捨て、自分の罪に背を向けたのだ。ルシャの心は凪いでいた。ズィブがみっともなく取り乱した挙句、逃げ出したことに何も思わないかと言えば嘘になるが、ズィブと共に娼館を出ると決めた瞬間から、いつかこうなることは決められていたことだ。せめて最後まで堂々としていてほしかったものだが、ズィブの内面が幼い子供のように脆く弱いものであると知っていれば期待できるはずもない。

 砂を踏む小さな足音が近づいてきて、ルシャの隣で立ち止まった。鈴の音の主もそれだろう。そこにいたのは黒いローブをかぶった幼い少女だった。その瞳は夜闇よりも暗く、底が見えない。もし娼館で暮らしていれば、湯運びの仕事を始めるくらいの歳だろうか。悪魔は様々な姿かたちを取るのだろうが、ずいぶん可愛らしい姿も取れるのだなと感心する。

「こんにちは」

 ルシャが声をかけるが返事はない。代わりに少女は手を伸ばし、指先をルシャに向けた。ここまで来て何を怖れることがあるものか。少女の求めに応えて、その細く幼い指先に自分の指先を当ててやる。そうして指先同士が触れた瞬間、少女は目を見開き、手を引いた。

「あなた、どうやってここにきたの?」

「どうって。あなたに会えるっていう薬を飲んで来たのよ」

「ふざけてるの?」

 少女は怒りと侮蔑と警戒心に満ちた瞳でルシャを睨みつけた。ルシャが想像していた悪魔とはもっと狡猾で飄々としているものだったが、その想像と異なる反応を見せつけられて、少女が悪魔ではない可能性に思い至る。しかし悪魔ではないならば、彼女は何者なのか。ただの女の子であるはずもない。

 少女自身もルシャを見定めようとしていた。彼女にとっての常識が何であるのかはわからないが、ルシャがそれに反する形で今ここにいるらしい。じっとルシャを観察しているが、ルシャがあまりにも無防備できょとんとしていたものだから、ついに悪意があるわけではないのだろうと判断したらしい。

「ここは、死んだ魂が冥界の門のむかえをまつところ」

「死んだ魂」

「そう。でも、あなたは死んでない。まだ生きてる。どういうことなの?」

「……普通に生きていたら届かない境地に辿り着きたくて。悪魔と取引をしてでも辿り着きたくて。それで、あの人がくれた薬を飲んだのよ」

「意味がわからない」

「そう、そうだよね」

「なんでたかが薬ひとつでその境地に辿りつけると思えたの?」

「信じていたから」

「何を? 誰を?」

「それは」

「あなたは今、どんな意味で『信じる』っていったの? いつから考えることをやめてたの?」

 少女は淡々と怒りを滲ませて畳みかける。ルシャは問われたことの一つにも答えられない。なぜズィブが自分に一定程度の嘘をついていることを知りながら、それをわざと見過ごしていることも自覚しながら、何もしなかったのか。いつから自分にはこの道しかないと思い込んでいたのか。自ら選んだ道だから悔いはないが、道が一本しかないと思い込むのは浅はかにも程がある。ルシャは、私は、何をいつから思い違いしていたというのだろうか。

「とりあえず、時間がないからついてきて」

 ルシャの返事を待たずに少女はルシャの手を握る。白銀色の門に背を向け歩みだそうとして、背後から声がかかる。

「姫よ、どこへ行く」

 低く皺枯れた声に呼び止められて振り返れば、そこにいたのは本物の悪魔だった。身に纏う黒色のローブは少女のそれと同じ種類のもののようだが、容貌は異形の者である。顔つきは黒山羊そのもので、頭部から生える濃灰色の角も山羊のそれに似た形をしている。体はローブに隠れて見えないが、裾から覗く手は異様に細く、枯れ枝のようだった。指先でつまむように青い灯のランタンを吊るしている。

 少女はルシャと悪魔の間を遮るように立つ。

「この人は死んだ人じゃないよ」

「ならばなぜここに居る」

「知らない。けど、死んでないなら門をくぐるべきじゃない」

「帰るべき肉体は残っているのか?」

「知らない」

「もし残ってないなら、狭間を彷徨うことになるが」

 悪魔は少女を姫と呼び、少女もそれを否定しない。二人は初対面ではないようである。しかし、悪魔の方はともかく、どうやら少女はルシャのことを助けようとしてくれているらしい。ルシャを置き去りにしたまま話は進む。

「この人は薬を飲んでここに来たって言ってる」

「外道の業か」

「よくない方法なのはそうだけど、でもまだ死んでない」

「死にたくて外法に手を出したのやも知れぬぞ。どれ、当の本人に訊いてみるのが早かろう」

 悪魔は枯れ枝の指の先を少女の背後に立つルシャに向けて問う。

「人間の娘よ、何を求めて外道の業に手を出した」

 少女はルシャの手を強く握り、相手にすべきではないと訴える。しかし、この問いに背を背けるべきではないと、ルシャの魂が訴える。己の非を認め、頭を垂れて詫びたところで見逃される保証はないし、何より自分に嘘をつくべきではないと直観的に感じる。

「私は、全てを知りたかった」

「ここに来れば知り得ぬことを知れると考えたか」

 ルシャは頷いた。悪魔は指先で顎髭を撫でつつ思案する。

「たしかに生者のままで知り得ぬこともあろう。ここは通常生者が足を踏み入れることができない場であるからな。しかし、そもそも何故全てを知ろうとする。人の時間は有限で世界を織りなす法は途方もない。人に与えられた時間は全てを知るには短すぎる」

「時間が不十分であることと、憧れることは別じゃないかしら」

「さもありなん。人が身の丈に合わぬ願いを持つことは珍しくない。それは我もよく知っておる。ふむ、ふむ。ならば重ねて問おう。全てを知るとは何を以て果たされるものか?」

「それは」

「未知、すなわち未だ知らざるものが存在しなくなった時こそ、全てを知ったと呼ぶに相応しい。しかし、未だ知らざるものが存在しないことをどう判断するのか。不在を証明することは、たしか人間の表現では悪魔の照明と呼ぶのだったかな。もっとも、その限界も外道の業に頼れば超えられるものなのかもしれぬが」

 悪魔は続ける。

「不可能を不可能と知りながら、想像の中でしか到達し得ぬ全知の境地を夢想し焦がれる在り方は、控え目に言って現実を生きているとは言い難い。言葉を選ばずに言えば、正気ではない。何がそなたを駆り立てる。あるいは、何を怖れ何から逃れようとしている」

「何からって、別に私は怖がってなんか」

「ふむ、そうか。そうか、そうか。そなたには怖れるものがないか」

 ひとしきり考え込んだ後、悪魔の中で結論が出たらしい。何を一人で納得しているのか、ルシャの何を見定めたのか。ルシャは居心地が悪い。

「まあ、いいだろう。それよりも娘よ、これからどうするのだ。姫の導きに従えば滞りなく現世に帰れることだろう。ただし何も得ることはできないがな。どうだ、せっかくここまで来たのだから、少しこちらの世界を巡ってみないか」

「こんな奴の話に耳を傾けないで」

「そう言うな姫よ。姫が一緒にいてやれば帰り道に迷うこともあるまい」

 姫と呼ばれた少女は顔を背けただけで、悪魔の言うことを否定したわけではない。つまり悪魔の言ったことは嘘ではないということだ。彼らは一体何者なのか。今仮に悪魔と呼んでいるこの存在も、ルシャの想像する悪魔とは異なるもののような気がしてくる。

「何を企んでいるのかしら」

「少しは自分の頭で考えるといい。問えば答えが返ってくると思うな。返ってきた答えが正しいと思うな。己の目と頭で真偽は判断せよ。己の意思で道は選べ」

 ルシャは舌打ちをする。

「わかってるわよ、それくらい――行く。せっかくここまで来たんだから」

「ということらしいが、構わんかな、姫」

「もう知らない」

 そう言って顔を背ける割に、少女はルシャから手を離さずにいてくれる。

「運が良いな、娘よ」

「昔からよくそう言われる」

「姫に感謝することだ」

 この子は一体何者だろう、と疑問に思うが、他にも思うことがありすぎて、今は掘り下げる余裕がない。

 枷と鎖から解放されて以来、未だかつてないほど頭のもやは晴れ、澄んだ思考ができるようになっていた。

 何がそなたを駆り立てる。あるいは、何を怖れ何から逃れようとしている――。

 怖れるとは何だろう。もちろん言葉の意味は知っている。しかし自分自身が何かを怖れたのは、遠い昔のことであったような気がする。

 黄色い砂漠は凪いでルシャの心の内を映していた。

 

 間近にあったはずの白銀色の門はいつの間にか遠のいていた。ここは何が起こっても不思議ではなく、どんなことでも起こりうる場所だ。大婆の幻影がそれを冥界の門と呼んでいたことを思い出す。だから、それを冥界の門と捉えるのがおそらく適切で、それが目の前にあるのだから冥界の門は存在すると理解するべきなのだろうか。

 冥界の門。死を迎えた魂は死神に導きに従い、冥界の門を通って冥府へ行く。砂漠で生まれ育った者であれば誰もが教わることだが、その真偽を確かめた者は誰もいない。親が、大人が、子供たちに自分たちが教わったように教えてきた。誰が最初にそれを言い出したのかは誰も知らない。ルシャが悪魔だと仮に呼んでいた山羊頭は、正しくは死神と呼ぶべきなのか。

「我は悪魔か死神か? 知らんな。どう呼称されようが我は我だ。好きに呼べばいいし、そもそも人間からしてみれば、悪魔も死神もほとんど差がないだろう」

 山羊頭自身にとってはどうでもいいことのようだった。

 山羊頭を先頭にして、その後ろをルシャと少女が手をつないで歩く。進む先には白銀色の門、すなわち冥界の門がある。太陽のない青空は四方の全てが澄み渡って雲一つなく、空を縁取る砂漠の地平線は円く、そしてその砂漠は起伏どころか砂紋一つなく平らだった。ルシャと少女の二人分の足跡が山羊頭とルシャと少女の後に続いている。穏やかで平和な空間と時間だった。そんなときには普段忘れていたことが思い出されてくる。

 ――思えば色々なことがあったような気がする。娼館は生まれたときから騒がしく、常に誰かがいた。大婆がいて、年上の姉さんや兄さんがいて、同い年の子たちがいて、年下の妹や弟たちがいた。彼らの顔と名前は思い出そうとすれば思い出せるが、そこに懐かしさはない。他に生きる術を持たない者たちが寄り添い合っているだけで、選べるものなら皆もっと幸せな場所を選んだことだろう。それぞれがやり場のない怒りや憎しみを抱え、散々ぶつけ合った末に、ぶつけ合っても何も解決しない不毛さに閉口していた。まだ自分の中で折り合いをつけることができない妹や弟たちが夜中に泣いてぐずると、ルシャが抱いてあやしてやったものだ。ルシャもかつては同じく泣いていたはずだが、それはいつのことだったか。記憶にない。

 記憶。遡って遡って辿り着くのは最初の記憶だ。それは何か。何だったか。砂漠の風に吹かれながら、少女に手を握られながら思い出す。原初の記憶に父や母につながる手がかりはないものかと期待した。しかしついにそれは見つけられなかった。ただあったのは、暗い部屋の中で同い年の子たちと同じベッドに押し込まれていたときのことだ。蒸し暑く、誰かが漏らした尿の臭いが充満していた。常に誰かが泣いていて、それで眠りを阻害された他の子が泣いていた。ルシャは漠然と、うるさいな、と思いじっと耐えていた。朝になれば水や食べ物を与えてもらえるし、ベッドから出ることができる。夜が明けるまで一秒一秒を数えていた。

「なにか、思いだせた?」

 隣で少女がぽつりと呟くように訊ねた。訊ねられて、ここはもうあの暗い部屋の中ではないことを自覚する。

「まだずっと小さかった頃のこと。暗くて狭い部屋にね、同い年の子たちと一緒に押し込められてたな、って」

「そう」

「それでね、朝が来ると子守役の兄さんか姉さんが部屋の鍵を外して扉を開けてくれるの。廊下を歩く兄さんや姉さんの足音が聞こえてくると、私は体を起こして。鍵をかちゃかちゃ鳴らして外す音を聞いてそわそわして。それで扉が開くと、隙間から眩い朝日が射し込んで、新鮮な朝の匂いが滑り込んでくるのよ。どうせ半日後にはまたそこに戻されてしまうんだけど、明るい世界が開けて、そこに向かっていく感覚は嫌いじゃなかったな」

 少女はじっとルシャの話に耳を傾け、小さく頷き続けてくれた。

「たくさんいたんだけどね」

「誰が?」

「同い年の子たち。もう顔も名前も思い出せないけど、何人か仲の良かった子たちもいたわ。けど、みんな死んでしまった。あの部屋を生き延びられる子はほんの一握りだったから」

「そんなにひどいところだったの?」

「子供はたくさん生まれるけど、生まれた子の全員を養えるほど豊かな場所じゃなかった。だから大人たちは、口には出さなかったけど内心、子供が減ってくれたら助かるって思ってたのよ。必要最小限の世話だけやって、それで死んでしまう子がいるならそれまでの話。

 朝を迎えて部屋に光が射して、お互いの様子が見えるようになって初めて死んでる子がいることに気付く。そんなことは珍しくなかった。ああ、死んじゃってたからこの子おもらししてたんだね、って変なところで納得もしちゃったりしてた」

「そうだったの」

「でもね、それが私たちにとっては当たり前で普通のことだったのよ。……なんでそれが『当たり前で普通のこと』だと思っちゃっていたのかな」

 当たり前で普通のことどころか、むしろ自分は恵まれているとすら思っていた。もし娼館で拾われていなければ、とっくに野垂れ死にしていたはずの命だ。昼間の陽射しや夜間の冷気に晒されたり、草の一本も水の一滴もない砂漠に放り出されることを思えば、屋根があって、一応でも自分たちを養ってくれる人たちがいる場所は、ありがたがることはあっても決して忌み嫌うべきではない。だから、そこでどんな目に遭うとしても、死なずに生きていられるのならば、まだましなことなのだ。そのはずなのだが。

 ルシャの鼻先から涙が滴り落ちる。いつの間にかルシャの足は止まっていて、俯いていた。自分が泣いていることを自覚したら、ますます涙は溢れて止まらない。どうして自分は泣いているのだろう。わからない。わからないが、ルシャは自分の中で何かの蓋が外れた気がしている。蓋をしていた穴から噴き出すこれは一体何なのだろう。ルシャは自分で自分に問う。私は、いつからこの感情を殺していたのか。いつから絶望することすらやめていたのか。自分の足元にはどれだけの数の兄弟姉妹の死体が埋まっているのだろうか。

 幼いルシャが大きくなって、ルシャ自身が子守役になったとき、朝に扉の鍵を外すのが憂鬱だった。今朝はみんな生きているだろうか。死んでいる子がいないだろうか。ルシャが祈っても祈らなくても、弟や妹たちは一定の頻度で死んでいった。死んだ子供は、他の生きている子供たちが部屋を出ていった後でルシャが片づけた。尿やよだれで汚れた布団を取り換えるのと同じように、死体となった弟あるいは妹を持ち上げて、運んだ。そして娼館で出る様々ななごみと同じように、ごみ捨て場に放り捨てた。衰弱して死んだ子供とは、驚くほど軽い。

 死者を弔う風習があることなど知らなかった。その存在は、十四になって大婆の書斎を引き継いだ後に書物の中で知った。死者のために手間暇をかけることは、暮らしに余裕がある人々のぜいたくだと思った。ズィブと共に旅する中で喪服を着た人々を見かけた時も、書物で知った儀式は本当にあったのだなと思うだけだった。悲しいという気持ちはいつの間にか麻痺していて、そういう気持ちがあることを忘れていた。悲しいことは当たり前で普通のことだった。この世には死が溢れているものだし、そして大婆の言葉を借りれば馬鹿な奴から死んでいくものだ。死んだ方が悪い。

 かつてルシャが高熱で死にかけた時のことを思い出す。病魔が全身を蝕んだ結果、死は眼前にあり、為す術もなかった。嫌だ嫌だ、死にたくないと、「かみさま」に全てを捧げる覚悟を示しても「かみさま」は何もしてくれなかった。自分の中の生命の炎を必死で守り、夢うつつに眠りと目覚めを繰り返す中でまだ自分の心臓が動いていることを確かめて、ルシャに理不尽を強いる全てを呪い、憎み、そして自分以外の何者も信じられなくなった。確かなものは自分の意思と心だけで、それ以外のものは何も信用に値しない。そういうものだと、そのとき幼いルシャは諦めた。そんな自分を、今、遠くから大人になったルシャが見つめている。

 高熱で死にかけたルシャを、娼館の兄さんや姉さんたちは見捨て、弟や妹たちも兄さんと姉さんたちを真似して見捨てた。大婆だけがルシャの世話をしてくれたが、しかし抱きしめてはくれなかった。誰も、ルシャの孤独に、寂しさに、寄り添ってはくれなかったのだ。ルシャが本当に求めていたのは、ルシャの手を握って包んでくれる温かい手だった。今、ルシャの手を握ってくれているような、自分以外の誰かの手だった。

「孤独は人をおかしくさせる。どんな病気よりも、人の心と体を壊していく。寂しいことを忘れてしまったら、人はもう壊れていくしかない」

 少女は手に力を込めて呟いた。そうなのだろう、とルシャは思う。娼館にはたくさん人がいたが、寂しくなかった人はいなかったのだろう。兄さんも、姉さんも、弟や妹たちも、大婆も、そしてルシャ自身も皆そうだった。

「私はどうしたらいいんだろう」

「それは、私には答えられない」

 気づけば、山羊頭はルシャと少女のだいぶ先を歩いていた。少女はルシャの手を引き促す。歩いた先に何があるのか。冥界の門が彼方に建っている。

 

「ねえ、質問してもいい?」

「なに」

「あなたは何者なの?」

「答えたくない」

「面倒くさがるな、姫よ」

 先導する山羊頭が笑いながら言った。

「こんな場所にいる少女が只者であるわけがないだろう」

「じゃああなたが代わりに説明して」

「とのことだが、構わないか?」

 ルシャの沈黙は肯定である。

「この御方は冥府の女王の系譜に連なる姫君である。我らの女王は失われて久しかったのだがな。生まれ変わりが現れてくれて我々は安堵しているのだ」

「そんなの私の知ったことじゃない」

「気配は女王のそれなのだがな。少なくとも、生と死の狭間を自由に往来できることが証拠であろう」

「ただの偶然」

 思えばズィブの話はかなりの眉唾物だったが、今ルシャの眼前で繰り広げられた会話も同じくらい信じがたいものである。しかし今のこの場自体が非現実である以上、どのようなことも起こりうるものだ。あり得ないということはあり得ない。

「そのお姫様はここで何をしていたの?」

「死んだ生きものの魂は冥界の門を通って冥府に行く。その前に、話をきいてあげてるの」

「別にそのようなことはする必要などないと思うのだがな」

「あなたにはわからないよ」

 そう吐き捨てる少女は、ルシャの目には、失望の念が色濃く浮かんでいた。山羊頭と少女の間には埋め難い溝があるようだった。

 ルシャは話を戻す。

「お話を聞いてあげて、それでどうするの?」

「どうもしない。ただ、きくだけ」

「えっと、それって」

「意味がないと思う?」

 少女にとってはとても大事な意味があるのだろうが、生憎ルシャにはそれがわからない。だからその旨をそのまま伝えるしか取るべき反応が思いつかない。

「あなたにとっては意味があるのかもしれないけど、私にはそれがわからない」

「そうかな。さっきまでのあなたならそうだったかもしれないけど、今のあなたならわかると思うよ」

「ほう、それは興味深い。是非解説願いたいものだ」

 山羊頭にはわからなくて、ルシャにならわかると少女は言う。一体何を根拠に彼女はそう言うのか。でたらめな願望を語るような子ではないだろうから、論理的な推論なのだろう。しかしルシャ自身には自覚できる気配がまるでない。

「今すぐわからなくても、きっと気付けるから。行こう」

 少女はルシャの手を引く。三人の旅は続く。

 

 

 二度目に辿り着いた冥界の門は、最初に見た時と比べていくらかこじんまりとしているように見えた。日の光を照り返した白銀色は眩く荘厳で、ルシャの何倍もの背丈であるのだが、一度目に見たときはただ圧倒され、恐ろしく感じるものだった。しかし今はそんなことはなく、ただの美しい門、それ以上でも以下でもない。凪いだ砂漠の中にぽつんと立っている。

「確認なんだけど、これは本物の冥界の門なの?」

「そうだ」

「ふうん……触ってみてもいい?」

「やめておけ。魂が溶けるぞ」

「溶けるとどうなるの?」

「根源に還る」

「へえ」

「試してみても構わんが、取り返しはつかんぞ」

 そう言われてルシャは伸ばしかけた手を止めた。

「死をむかえた魂は、この門を通って冥府に行くの。人も、それ以外も、みんなそう」

「通らなかったらどうなるの?」

「そのうち風化してなくなる。魂は、肉体という器に収まっていて初めてひとつにまとまっていられる。でも、それがなくなってしまったら、どんどん拡散して、薄まっていく。自分が誰かがわからなくなって、わからないこともわからなくなって、それで考えることも感じることも何もできなくなって、最後は何もないのと同じになる」

「しかし冥界の門を通ってあるべき場所に還れば、坩堝の中で眠りに就き、そしていつか新たな肉体を得て再生することができる」

 ルシャは冥界の門を見上げる。彼らの話が正しいとするならば、ルシャの魂もここから出たことになるし、仮に前世というものがあるのだとしたら、過去にルシャだった者もかつてこの門をくぐったことになる。当然身に覚えはない。

「どの魂もこの門から生まれてきたから、たとえあなたが憶えてなくても、魂が憶えてる。それがわからないのは、あなたがまだ生きてるからだよ」

「……わからないなあ。私って一体何なのかな」

 親を知らず、帰るべき場所もなく、知への憧れが虚構だったことを思い知らされ、自分が孤独であることにすら気付けなかった。そんな自分が持っているものとは一体何なのか。何もない。

「からっぽなのが虚しく感じるのは、どうして?」

「今までやってきたこと、価値があると信じてきたものが揺らいで、何を信じればいいのかわからないから」

「信じるってなに?」

 少女は真っ直ぐにルシャを見つめている。黒い瞳はどこまでも深く、闇の奥にルシャの顔が見える。この少女には、自分がこう見えているのかと驚くほどに、瞳の中のルシャは弱々しい。

 信じるとは何か。それはつまり選ぶことであって、頼ることではない。何を是とし、価値あるものとし、己の中心に据えるかを、己の意思と責任で選ぶことである。

「あなたが今まで経験してきたことのすべてが本当に虚構だったの? あなたの心が感じたものもまやかしだったの? あなたが嬉しいと感じたという事実、悲しいと感じたという事実、美しいと感じたという事実。それら以上に確かなことなんてないと思うよ。……あとは自分で考えて」

 そう言いながら、少女は握る手にきゅっと力を込めた。

 ルシャは目を閉じる。子守役の兄さんと姉さんが部屋の扉を開けるときに差し込む黄色い朝日。大婆が語る世界のあり様は緻密であると同時に荘厳なものだった。ズィブと共に見た数多の景色たち。熱病の最中、大婆が口に押し込んだ柘榴の甘酸っぱさ。大婆の書斎で読んだ書物の中でルシャは数多の抽象世界を渡り歩いた。

 それら美しいものが飛来する一方で、子供たちが押し込められた暗い部屋で、誰にも気付かれず忘れ去られるように死んでいった弟や妹たちのことが浮かんでくる。彼らは最期に何を思っていたのだろうか。熱病で苦しんでいた時に自分が感じていた孤独と同じものを感じていたのだろうか。娼館で数多向けられてきた荒んだ瞳の数々。ズィブも縋れるものを求めていた。大婆が書物に注釈やメモを記すとき、彼女はどのような痛みを堪えていたのだろう。皆、光を望み、そして明日を恐れていた。目を、耳を塞ぎながら、あらゆる痛みをなくしてくれる奇跡を求めていた。皆がそうであるように、ルシャもまた同じく、怯えながら願っていた。

 可哀想に。

 誰も彼もが哀れで、可哀相以上に言うべきことがルシャには思いつかなかった。

「……さて、来たぞ」

 山羊頭がルシャと少女の背後を見遣って言った。砂の擦れる音が存外間近であることに肝が冷える。山羊頭の視線の動きに従って振り返ってみれば、砂漠を這う骸骨がいた。灰色の襤褸を頭からかぶり、隙間からルシャを睨んでいる。ルシャに白骨の指を伸ばしている。

「大婆様」

 ルシャ、ルシャ、と骸骨はルシャの名を呼び続けている。骸骨とルシャの間を遮るように、少女が一歩進み出る。

「これは、あなたの魂を読みとって、弱みに付けこもうとしてるだけのものだよ。門をくぐるのが怖くて、死んだことを認められなくて、事実から逃げつづけて、でも消え去りたくもなくて。すべてを拒みつづけて、そしてついに何にもなれなかったものたちの、なれの果て」

 骸骨は激しく顎を揺らして少女を威嚇する。可哀相、とルシャは素直に思う。この世には一体どれだけの孤独な者がいるのだろうか。

「この人はまだ生きてる。あなたたちと同じにはならないよ」

 ルシャ、助けておくれ。私を助けておくれ。殺される、こいつらに連れていかれる。いやだ、いやだ、死にたくない。死ぬのは怖いんだ。

「関係ない人を引きずりこんだって、あなたたちは救われない。……もうゆっくり休んで」

「姫よ、もうよいか?」

「うん。連れていってあげて」

「承知した」

 山羊頭は砂に落ちている影から背丈ほどの大きさの鎌を引き抜いた。刃の色は冥界の門と同じく白銀色に輝いている。それを見た骸骨は、後ずさりし逃げようとするが、山羊頭の足の方がずっと速く、すぐに鎌の切っ先は骸骨の喉に掛かった。息をのむ音が聞こえたのは気のせいか。振り返った骸骨の目とルシャの目が合う。助けて、と訴えかけてくる。

 ルシャは乾いた口内と唾で湿らせてから、少女に問う。

「ねえ。大婆様はちゃんと冥界の門をくぐれたのかな」

「わからない」

「もし大婆様が、自分が死んだことを認めずにいられたとしたら」

「……あなたが考えているみたいに、あんなふうになっている可能性は、ある。否定することはできない。けれど、そうかもしれないと思わせるために、ああいうのは人の弱みに付けこむの。本当のことは誰にもわからない。もし仮にその大婆様だったという人が混ざっていたとしても、もうあなたにできることは何もない。これ以上迷わないように、ちゃんと連れていってあげるべき。だから変なことは考えないで」

 冥界の門が開く。隙間から冥府の冷気が靄となってあふれ出て、黄色の砂々が触れたそばから凍てついていく。靄は骸骨の体にも至り、音もなく包んで融かしていく。骸骨はかぶりを振り、声にならない叫び声をあげるが、靄はまとわりついて離れない。

 ルシャ、ルシャ、私を助けておくれ。少しでも可哀相だと思うなら、どうか、どうか……。

 りん、と鈴の音が鳴る。涼しく澄んだその音は、先刻ルシャを救ったあの音だった。

「これ以上、この人にしつこくするなら、こっちもそれなりのことをしないといけなくなる」

 お前たちはいつもそうだ! お前たちなんかに私の気持ちがわかるものか! 引っ込んでいろ!

「他の人の気持ちなんて、誰もわからないよ。みんな、自分の気持ちだってわからないのに」

 うるさい、黙れ! ……ああ、ルシャや、お願いだよ、お願いだ、助けておくれ。私の手を握っておくれよ。どうか私の――

 白銀色の刃が宙を走り、骸骨の声は唐突に断たれた。靄が落ちる骸骨の首を優しく包んで融かしていく。

「埒が明かなそうだったので、終わらせることにした」

「うん……」

 ルシャは今、自分の眼前で繰り広げられた光景を、ただ呆然と見ていることしかできなかった。なぜ自分は身動きを取れずにいるのだろうか。今、心に引っかかっているものの正体は何なのだろうか。答えはすぐ近くにあるはずなのに、正体が掴めずにいるのがもどかしい。わからないまま、直観がやれと言っていることに従う。

 ルシャは一歩、二歩と進み出る。冥府の靄に触れてはいけないことは察せられるので、細心の注意を払いつつ、間もなく靄に融けゆく骸骨の手に近づく。

「姫よ、止めないのか」

「あの人が自分で自分になることを選んだのなら、止めるべきじゃない。……そんな気がする」

「ふむ」

 そんなやり取りを聞き流し、そして骸骨の手に自分の右手を伸ばした。きっと良くないことが起こるのだろうが、それでもルシャは自分の魂に懸けてそうしなければならない。

 ルシャの中指がほとんど消えかけた骸骨の手の甲に触れたその瞬間、かつて一人の人間だった頃の思念が一気に流れ込んできた。その人は砂漠のとある街の屋敷で、小間使いとして働く女だった。ある晩、酔った主人に手籠めにされ、子を孕んだが、その事実が明るみに出る前に、粗暴な男たちの手によって嬲り殺された。彼女はなぜ自分がそのような目に遭ったかわからなかった。苦しく痛い記憶だけが残った。世の全てを恨み、死を受け入れられず、ただ救いと復讐を求めていた。

 いつの時代の記憶だったのかルシャにはわからない。ただ、かつてそのような人がいたことだけを知った。一度知ってしまったら、もう知らなかった頃には戻れない。その存在はルシャの一部として刻まれた。

「その人が大婆様って人じゃなくて、がっかりした?」

 ルシャは首を横に振る。氷よりも冷たくなった右手の中指を、左手で握りしめる。ルシャ自身の温もりで、見知らぬ死者の孤独を温める。

 知ったところでどうにもならないことをなぜ知ろうとしたのか。知らずにいることの方が、怖いからだ。この世界にはたくさんの悲しみや孤独があり、それらを抱えたまま死んでいく人がたくさんいる。人の悲しみや孤独がなくなることはないだろうが、そういうものは少しでも減ったらいいなとルシャは素朴に思う。

 

「さて、そろそろ我は冥府に戻ろう。娘よ、何か得るものはあったか?」

 山羊頭はルシャに問う。冥界の門は閉じられ、辺りは再び凪いだ砂漠に戻っていた。

「自分のちっぽけさを思い知ったわよ」

「そうかそうか。では私から土産代わりに面白いことを教えてやろう」

 山羊頭はルシャの右手を指さした。骸骨に触れた中指は、見た目こそ特に変わったところはないが、骸骨に触れた時からずっと氷のように冷たいままだった。

「その中指には冥府の瘴気が残ってしまっている。もう二度と人の温もりを取り戻すことはない。そなたの中指はもう我ら冥府の一部となった。言い方を変えれば、そなたはその中指を通じて冥府とつながっている」

「そうなんだ」

「つまり、そなたは今、本来人の身であれば知り得ない不可知の法に属するものが、自身の一部となっている。結果的にだが、そなたは中指という代償を支払って、相応の対価を獲得する資格を得た状態であるというわけだ」

「わざわざ教えてくれるなんて、親切なことね」

「我は冥府の番人であるからな。番人が価値とするのは公平であることだ。天秤は常に釣り合っていなければならない。代償を支払った者には相応の報いがあるべきだと信じているよ」

「そういう意味なら、もう十分得たと思っているけど」

「元々あったものに気付いただけだろう。それは何かを得たとは言わん。さて、そういうわけだから、自分が何を得たのかは考えてみるといい。その中指でしか感じられないことがあるはずだ」

 ルシャは自分の右手の中指をしげしげと眺めてみるが、やはり見た目に変わったところはない。山羊頭は対価に該当しないと言ったが、やはり自分の心に気付けたことはルシャにとっては非常に重要なことだった。中指の冷たさは、人の抱える孤独の象徴だ。この冷たさがある限り、ルシャはもう孤独を忘れることはないだろう。

「姫は何かあるか?」

「ない」

「そうか。我々はいつでも姫の帰還を待っているよ」

「……私の帰る場所はそこじゃない」

「今はそれでもいいだろう。だが、それでも、我々は待っているよ」

 少女は苛立ちを隠さずに顔を背けてしまった。

「どうも私は言葉の選び方が下手なようだ。人の心とはわからんものだな」

 そう言う山羊頭は寂しそうに見える。見た目が悪魔のような分だけ、奇妙に見える――とふと思ってルシャは思い出した。ルシャがズィブと同じ秘薬を口にしたのだとしたら、ズィブが取引をしたという悪魔とは何だったのか。

「ねえ、教えてほしいんだけど」

 ルシャは山羊頭にズィブのことを伝え、彼がかつて悪魔と取引をして、舌と引き換えに魔術を得た話をした。

「ふむ。生憎その悪魔とやらは知らんし、少なくとも我々自身ではないが、心当たりがないわけではない」

「というと」

「先ほどの魔物は千切れた魂の寄せ集めだったわけだが、普通、冥界の門を拒否した魂は拡散して風化するのが常だ。寄せ集まって一つの塊になることなどまずあり得ない――と言えば察しはつくかな」

「誰かが干渉したってこと」

「そうだ。ここには魂を弄ぶことに喜びを見出す連中もいるものなのだ。そういう連中にとって、彷徨う魂など玩具以外の何物でもない。『生きたまま彷徨う魂』などという珍しいものを見かけた日には、さぞかし愉快だったことだろう」

「そう……答えてくれてありがとう」

「ただの仮説に過ぎん――さて、他にはもうないかな?」

 ルシャは首を横に振り、山羊頭は頷いた。

「ではさらばだ。次に会うのは、そなたが死ぬときだろうな。それまでは、もう二度と来るでないぞ」

 冥界の門が開き、山羊頭はその隙間に身を滑り込ませる。

 

 門が閉じた後にはルシャと少女の二人が残された。

「目がさめたら、市場の東のはじっこに来て。渡すものがあるから」

「渡すもの?」

「あなたは、あの骸骨みたいななれ果てたちに目をつけられてしまった。あの人は自分たちに優しくしてくれるって、思われてしまっている」

「触れてしまったから?」

「そう。あなたはそういう人だから、そうせざるを得なかったんだけど、でも、人の心はたくさんの孤独を抱えられるほど頑丈にはできていない。さっきやったようなことを、あと何度かやったら、あなたの心はきっと壊れてしまう。けど、向こうはそんなことに構ってくれない。あなたはこれからずっと、隙を狙われつづけることになる」

「その度に追い払い続けろってこと?」

「けど、それはとても大変なこと。だから、あの子たちが寄ってこれなくなるように、おまもりをあげる」

「なんであなたはそこまでしてくれるの?」

「わたしは、わたしのやるべきことをやってるだけ」

 ルシャと少女はその場に座り、手をつないだ。役目を終えた冥界の門は消え失せ、四方の全てが空と砂漠だけの同じ景色となった。この長かった夢も終わりに近づいている。

「ここは静かでいいね」

 時が止まっていたルシャの世界は再び動き出した。日が暮れて、月が昇る。変わりゆく景色は美しいものだと思う。見上げれば無限の星々があり、それはかつてズィブと見た景色と同じものだった。

 形だけ真似しても駄目だ。目で見て、目で見えないものを視るのだよ。見えるものは全体の中の、ほんの一部にしか過ぎない。見えないところでもきちんと法則は働いているのだから。

 ズィブの言葉が思い起こされる。あの時は意味がわからなかったが、今なら体がそれを理解している。右手を空に伸ばし、中指を折り曲げる。すると、引っかかる何かがあった。その手応えを失わないように、そっと、ゆっくりと引いてみる。星が一つ、夜空を滑り落ちる。

「できた」

「流れ星を作れるようになったの?」

「そうみたい」

「ふうん」

 ズィブがそうであったように、ルシャもまた星を降らせることしかできないのだろう。そして、それができたところで不可知の法の片鱗も知れた気がしない。ズィブも同じだったことだろう。わけがわからないまま、そういうものとして行使することしかできない。

 昔のルシャであれば、躍起になってその謎を解き明かそうとしたことだろう。そうすれば、自分が死から逃れる術が見つかるかもしれないからだ。しかし今は、そうしようとは思わない。世界は広く、自分が知り得ないことがあっても、それでも世界は法則に従い規則正しく秩序を持って動いていることがわかるからだ。その美しく壮大な細密画が汚されることも損壊することもなく、そこに在り続けていることが、貴い。

「次に会ったときには、名前、教えてね」

 ルシャがそう言うと、少女は一瞬眉を顰めたが、小さくため息をつき、いいよ、と言った。

 夜が明けていく。星々は明るくなりゆく空に薄く溶けていき、眼前の空が赤く焼けていく。この世界には悲しいことが溢れているが、そういうことに左右されない世界の頑丈さにほっとして、癒される心地がする。

 澄んだ空気を胸いっぱいに吸い、腕を上げて伸びをする。大手を広げて、全身で朝日を浴びる。ルシャの世界は光に満ちた。

 

 

 長い夢から醒めて、ルシャは自分が昨晩ズィブの秘薬を口にした続きにあることを思い出した。意識を失う間際に見た通り、ズィブは既にいない。部屋が荒れ果てているのは、ルシャ自身の仕業だ。散々暴れたのだろう、腕や足が痛み、見てみればところどころ痣になっていた。

 こちらが現実であることを認識すれば、たちまち夢の記憶は薄れて消えていく。色々なことがあったが、自分を助けてくれた少女のことだけは忘れてはいけない。約束したこともあった。

「市場の、東の端」

 吐瀉物で汚れた服やシーツを片付けて、身支度を整える。太陽はまだ低く、街は昨晩の祭りが盛り上がった分だけ目覚めが遅いようだった。市場もようやく店が開き始めた頃だ。

 宿を出る。所々に酔いつぶれて寝ている人がいる。祭りの熱気は遠い昔のようで、しかしじきに再び日常が戻ってくるのだ。夢が醒めきる前に、ルシャは歩き、足を速め、駆け出していく。左右を見ながら市場に入る。

 屋台で朝食を取る人がいて、露店に品物を広げる行商人がいて、食材を仕入れに来た小間使いがいて、そういった人々の間を縫ってルシャは東の端を目指す。

 夢の中でした約束は所詮ただの夢の中のことであって、現実ではないのかもしれない。しかしそれは、確かめてみなければわからない。わからないことだが、きっとあの夢は現実のことだとルシャは予感している。右手の中指が氷のように冷たいままでいることが、期待する根拠だ。

 市場の中央広場を過ぎて、東の道に入り、進むほどに人はまばらになる。そして、市場の出口が見えたとき、そこに白いローブをかぶった少女がいるのが見えた。傍らには灰色のマントを被った男がいるが、それはいい。

 駆けてくるルシャに先に気付いたのは男の方だった。男は少女の方を向いて、口を動かす。それから男は再びルシャの方を見て、遅れて少女がルシャの方を見た。夢で見た、あの美しい黒色の瞳がルシャを捉えた。

「急がなくてもよかったのに」

 こんな風に全力で走ったのは、思えばルシャの人生で初めてのことだった。膝に手をつき、激しく肩を上下させて息が整うのを待つ。

「夢じゃ、なかった」

 それが嬉しい。

「これがマユの言ってた奴か」

「うん」

「へえ」

 男は顎の髭を指で弄りながらルシャを眺めまわした。率直に言って、ルシャは不快だった。しかし今はそれよりも、やらなければならないことがある。

 ちりん、と鈴の音が鳴る。少女が手を差し出すと、その手の平の上には鈴が乗ってた。特に変わったところのない、普通の鈴のように見える。

「紐か何かで結んで、常に身につけておいてね。そうしていれば安全だから」

「ありがとう」

 鈴を渡すと、少女は用が済んだとばかりにルシャに背を向けようとするので、ルシャは慌てて呼び止める。

「あの、名前! 教えてくれるって約束したよね。私はルシャ。ルシャっていうの。ね、あなたの名前は?」

「……マユワ」

「そっか、そうなんだ」

 眉を顰めて、嫌そうな顔をしている様子に傷つかないかと言われれば嘘になるが、本気で拒絶されているわけではないことは察せられる。もし本気で拒絶するなら、夢の中でルシャとっくに見捨てられているはずだ。

「マユが他人に名前を教えるのか。あんた、気に入られたんだな」

「べつに気に入ってない」

 先ほどから度々会話に割って入ってくるこの男は一体何者なのか。ルシャは男と目が合う。

「おう、やっとこっちを見たか」

 男は、にっ、と唇の端を上げて笑った。嫌な奴だとルシャは思う反面、油断ならない男だとも思う。

「あんた知ってるか。卵から孵ったばかりの雛ってのは、最初に見たものを自分の親だと思い込む習性があるんだ」

「知ってるけど」

「今のあんたは、まんまそれだなって思った」

「何が言いたいのよ」

「好きだからでじゃれつくだけじゃ、懐いてもらえないってことだ」

「何よそれ」

「ま、それはどうでもいい。それよりもあんた、朝飯は食ったか? まだなら一緒にどうだ。奢ってやろう」

 

 パン、山羊のチーズ、鶏肉の蒸し焼き、蜂蜜を溶かしたミルク。それらを屋台の前に置かれたテーブルの上に並べて、三人は席に着く。男とマユワが並び、彼らを向かい合うようにルシャが座る。ルシャの目から見て、二人は親子のようにも年の離れた兄妹のようにも見える。

「アルフィルクだ。で、こっちがマユワ」

「ルシャよ」

 簡単に名乗り合った後、三人は朝食に手を伸ばす。アルフィルクと名乗った男がパンをちぎって口に運びつつ、話を続ける。

「昨晩は大変だったらしいな」

「そうね。色々あったものね。で、なんであなたがそれを知ってるの?」

「そりゃ、マユが話してくれたからな」

 マユワはチーズを小さくちぎって口に運びつつ、時折ミルクを飲んでいる。二人の会話に自分から参加する気はないらしい。

「あなたたちは親子? それとも兄妹? どういう関係なの?」

「仕事仲間であり家族でもある、みたいな感じかねえ。マユ、何て言うんだろうな、こういうの」

「知らない」

「じゃあ聞き方を変えるわ。あなたたちは何をしている人たちなの?」

「そうだなあ。それも答えるのが難しいんだが、ううん。強いて言えば、死体漁りになるんかね」

「それは素敵なお仕事ね」

「どうも」

 ルシャの嫌味はさらりと流される。

「とりあえず、あなたたちの仲がとても良いことはわかったわ」

「俺たちは運命共同体だからな――さて、場も温まってきたところで本題だ。ルシャさん、あんた、これからどうするんだ」

「旅の連れには逃げられちゃったし、行くあても何もないわ」

「そうかそうか、災難だったな。じゃあこれも何かの縁だ、俺たちと一緒に来ないか」

「三人で仲良く死体漁りをするの?」

「いやあ、その商売はそろそろ限界が見えてきてるんだわ」

「一生の仕事にはなりそうにないものね」

「そう。野垂れ死んでる奴なんかそうそういるもんじゃないし、何より周りの目が痛い」

 そう言ってアルフィルクは目の動きで周囲を見るようルシャを促す。ルシャは何気ないふりを装いながら辺りを伺ってみて、合点がいった。賑わいつつある市場の中で、道行く人や露店の店主など、何人かがこちらを睨みつけている。

「だから、新しい仕事を始めようとしているってわけだ」

「ふうん」

「けどなあ、その仕事ってのが俺たち二人だとなかなか始めにくくてだな。そんな折に、マユがあんたを拾ってきた」

「拾ってない」

「ものの喩えだ」

「で、何を始めるのよ」

「うん、葬儀屋だ。これなら死体に近づいたって怪しまれない。しかし一方で、葬儀屋を名乗るなら顧客が満足する葬儀ってのをしなきゃならん」

「死体漁りをやめる気はないのね」

「まあ、色々理由があるんだわ」

 アルフィルクは肩をすくめるが、マユワ絡みの事情なのだろうということは察せられる。ほんの僅かであるが、マユワの横顔が曇ったからだ。

「そこで、あんたの助けを借りたい」

「私は何をしたらいいのかしら」

「上手いこと葬儀を取り仕切って、ご遺族様を満足させてほしい」

「一番肝心なところじゃない。そんなのやったことないわよ」

「やったことがある奴の方が珍しい」

「いや、でも、人を弔うってよくわかんないし」

 いつかズィブとの旅先で見た喪服の集団を思い出す。葬儀を取り仕切るのは、人望や徳のある人がやるべきものではないのか。ルシャが読んできた書物でもそう書いてあった。

「もう、あなたは知ってるはずだよ」

 マユワが口を開いた。

「死んでしまった人はもう生き返らないし、門を通っていくしかない。けど、残された人が、ぽっかり空いた心の穴に折り合いをつけられるかどうかは、別の話。ゆっくり自分と向き合って、また前を向けるようになるための時間や機会が必要なときもある。もしそれがなかったらどうなるかって、あなた自身が一番よくわかってるはず」

 どうなるか。人は狂うのだ。

「別に難しいことじゃない。あなたができるやり方でやったらいい。大事なのは、残された人の寂しさに寄り添えるかどうかだから。それがどういうことか理解したあなたになら、頼んでいいと思った」

 マユワはじっとルシャの目を見た。それは夢の中で向けられたものと変わりない。

「俺は見ての通り、そういう柄じゃない。というわけで誰かふさわしい奴に頼みたいってわけだ」

「マユワちゃんならとても上手にできそうだけど」

「ううん、私には向いてない。私は死者に近すぎるから、優しい嘘をついてあげられない」

「優しい嘘?」

「死んだ人の魂が天国に行けるとか、生者の祈りが魂を導くとか、そういうの」

「私だって別に信じてるわけじゃないよ」

「でもあなたは、門を通ることを拒否した魂がどういう風に壊れていくのかとか、門を通った後の魂がどんな風に溶けていくのかとかまでは知らない。だから、天国で安らかに暮らす魂がある世界を想像することができる。けど私にはそれができない」

「よしそこまでだ。うちのお嬢様をあんまりいじめないでやってくれ」

 アルフィルクが割って入って、話は唐突に終わった。マユワが小さく、ごめん、と呟き、アルフィルクがマユワの頭に手を乗せ撫でてやる。

「残酷な真実と甘美な嘘のどちらが慰めになるかは人次第、ってことかしらね」

「そういうことだ」

「ううん。正直に言うとね、まだよくわからないのよね。人を弔うっていうのもそうだし、私に務まるのかもそうだし、あなたたちの言うことを信じていいのかも」

 ミルクの入ったコップを両手で包みながらルシャは言葉を続ける。

「けど、やる。やるわよ。どうせ元々行くあてもないし」

 それに、ルシャが自分の人生で考えるべきことは、どう歩くかだけだ。葬儀屋として新たな一歩を踏み出すならば、最初にやるべきことは何か。それは決まっている。ルシャの直観に後付けで理由がついてくる。

「こういうことをやるなら、最初に行きたい場所があるんだけど」

「どこだ?」

「それはね――」

 ルシャがアルフィルクとマユワに耳打ちをすると、二人は肯定の意で頷いた。

 

 

 砂船の舳先を東に向けて走らせること約半月、ルシャが慣れない力仕事で手足に細かい傷を作っているうちに砂船はルシャの育った娼館のある街に辿り着いた。ルシャがズィブと一年半かけて辿った旅路は砂蛇のようにくねくねと折れ曲がっていたが、目的地を定めて一直線に進んでみれば、そう遠く離れていたわけではなかったらしい。

 風向きが変わって、嗅ぎ慣れた甘い香りが漂ってくる。懐かしさはない。ただ胸中に飛来するのは、弟や妹たちのことだ。元気でやっているだろうか。

 日没は間もなく訪れる。激しい西日を薄目で見遣りつつ、ルシャたちは娼館の正門の前を横切り、壁沿いに裏手の方に回る。勝手口からしばらく歩けば、街のごみ捨て場がある。ルシャもかつては何度となくごみを持って往復した場所だ。そこに溜まったごみは、やがてごみ捨て人がまとめて砂漠の僻地に運び、再度捨てる。そして風や砂に晒されて風化したり、砂漠の生物たちの餌になったりして、自然に還っていく。それらの中には、ルシャが自分の手で捨てていった弟や妹たちも含まれるし、あるいは兄さんや姉さんたちが捨てていった娼館の住人たち、そして大婆も含まれる。

 今日のごみは既に運ばれた後らしい。広い敷地にごみはほとんどない。

「ちょっと歩くけど、付き合ってね」

 ルシャは振り返り、アルフィルクとマユワに告げる。二人は黙って頷いてくれた。

 

 ルシャが先頭を歩き、アルフィルクとマユワがその後に続く。街の灯は今は後方遠くにある。今夜も娼館は賑わっていることだろう。しかしその嬌声がここまで届くことはない。砂と風と星と月だけがここにはある。半月前にマユワたちと歩いた凪いだ砂漠とは異なり、ここには様々な砂漠の生命の息吹が密やかに聞こえる。

 約半刻ほど歩き、ルシャは足を止める。何もない砂漠の中だった。

「うん、ここにしようかな」

 指と指を絡めて手の平を反らし、天に突き出して伸びをする。まだ生温い空気を胸いっぱいに吸って、吐き出す。右手の中指は今も冥府の冷気を帯びており、右手首にはマユワからもらった鈴が結び付けられている。りん、という鈴の音がルシャの耳元で小さく響いた。

 右手の中指に意識を集中させる。不可知の力学を探り当てる。

 色々なことがあった。散々道に迷って、たくさん彷徨ってきた。未練や後悔がないかと言われれば嘘になるが、それでもそのとき選べる道は自分で選んできた自負だけはある。

 かつて大婆はこう言った。ルシャ。お前は子供たちの中でも人一倍賢い子だ。きっとお前は私みたいに長生きするだろうよ。

 ルシャは大婆が期待したような賢さは持っていなかったかもしれないが、不思議な縁と運に恵まれて、今もこうして生きている。命を落とした兄さんや姉さんたち、あるいは弟や妹たちは、ルシャが持っていたものを持っていなかったのだろうか。そうだとするならば、なぜルシャだけがこうも特別なのか。わからないし、そこにはそもそもきっと意味もない。意味を求めることにも意味がないのだろう。あるのは結果という事実だけだから。結果としてルシャは今この場に立っている。

 右手の中指の先端を、見えない糸に引っ掛ける。手の平で空を撫でるように糸を引けば、星が一つ夜空を滑り落ちて、光は砂漠の地表に注いで落ちた。光の痕跡は砂漠の表面に残り、星が瞬くように光も明滅している。

 ルシャは身を翻し別の糸を探り当てる。弦を弾くように指を走らせれば、先ほどよりも速く星がまた一つ降って地表に滴り落ちる。右手を振り上げ、下ろせばまた一つ。

 右手の中指という指揮棒を振るたびに、星はルシャの意に従いその身を躍らせる。星々は雨となって夜空を滑り落ち、落ちた分だけ地表は星々の斑点で埋まり、天地は混然一体となる。空にも地にも星の海が広がった。

 死者の魂が行く先は、決して幸福なものではない。マユワに言わせれば、ある魂は冥府で魂の坩堝に還り、またある魂は逃避の末に消散してしまうらしい。その真偽を確かめる術はないが、おそらくそうなのだろう。しかしそれでも、坩堝に還った魂が安らかに眠ってくれたらいいなと思う。人知れず、誰にも看取られることもなく、あるいは惜しまれることもなく、そうして死んでいった娼館の家族たちは数多いたけれど、そのうちの一体どれだけが無事に冥界の門をくぐれたことだろうか。彼らの死に際を思えばルシャは胸が痛くなる。彼らが息を引き取ったそれぞれの瞬間、自分は何を考え何を感じていたか。何も考えていなければ、何も感じていなかった。麻痺して感情の失われた心には何も届かなかった。

 そんな彼らを想い、過去を取り戻すように、そしてそれが気休めに過ぎないと知りながらも、祈りが時を越えて過去に遡り死にゆく彼らに寄り添ってくれる夢を見て、ルシャは胸の前で手を組み、肺に空気を溜め、ゆっくりと喉を震わせる。

 夜に寝付けない弟や妹がいたとき、ルシャはその子を背負ってよく娼館の屋上に出た。星空を見せながら、子守歌を歌ってやった。いつからかやらなくなってしまったが、そんなことをやっていた。娼館で暮らす者たちは誰もが親を知らない。それにも関わらず、なぜルシャは子守歌を知っていたのか。忘れていた記憶がまた一つ掘り起こされて、かつてルシャがまだ幼い頃、ルシャ自身がその子守歌に安らいでいたことを思い出す。歌ってくれていたのは、そう、大婆だった。優しい歌声だった。

 ルシャの歌声は夜空に響く。歌声はその場にいたアルフィルクとマユワの二人にしか届かない。冥界の門がある生と死の狭間の世界や、門を通った先にある冥府までは決して届かない。

 大婆が死んだことを告げられた日、実を言えばルシャは動揺していた。しかし娼館の中で、兄さんや姉さんは嬉々として大婆が死んだことを喜んでいた。これでやっと静かになる、目障りだったんだよな、と散々な物言いで、ルシャが可哀相とでも口にしようものならば、果たしてどのような目に遭ったか想像に難くない。娼館の中での失敗は自分の死に直結する。道を間違えないためには、兄さんと姉さんに混じって、大婆を悪し様に罵るしかなかった。ルシャが心の痛みを感じなくなったのは、思えばそれからだった。そして今、そのことを思い出してしまった。

 数多の兄さんや姉さんたち、弟や妹たち、そして大婆を踏み台にし、見殺しにして今のルシャがある。罪悪感の重苦に苛まれながらも、今この瞬間こうして生きている。明日も、その先も、死なない限りルシャは生き続ける。そうしてしまう。過去や罪の重さに押し潰されそうになりながらも、ルシャの心臓は鼓動を止めない。高熱で死にかけたあの時ルシャ自身が強く望んだ通り、ルシャはこれからも生き続けるのだ。

 ルシャが歌を歌い終えると、地表の星々は光を失い、辺りは元の夜の砂漠に戻った。胸の痛みや苦しみこそが、ルシャが今生きている証だった。そして、ルシャの心の内とは関係なしに営みを続ける世界の在り様は、ルシャを孤独にさせながらも、そこに居ることを否定せずにいてくれるものだった。

 ルシャは振り返る。そこにはアルフィルクとマユワがいる。これから先、どこまで彼らと共にいられるだろうか。

「終わったよ」

 ルシャがそう言うと、アルフィルクは軽く手を挙げ、マユワは小さく頷き、それぞれ応えてくれた。

 

(了)

初稿:20211027

第二稿:20211030