2011年9月4日日曜日

魔女のいる風景 続きの話

  一.


 その昔、僕の隣人の一人にとても美しい女性がいた。彼女は僕よりも一回り年上の女学生で、僕はまだ小学校にも入っていなかった頃のことだ。
 僕は男として彼女のことを好いていた。僕がそのことを告白すると彼女は柔らかい笑顔を見せ、私もよ、と言って額にキスをくれた。その度に、僕は彼女のことがますます大好きになった。今はまだ幼いけれど、早く大きくなって、彼女を愛し守れる人になりたいとずっと思っていた。成長して気恥ずかしさというものを覚えるようになると、恋情を公言することはしなくなったけれど、季節を経るごとにますます美しくなっていく彼女を見るにつけ、僕は自分の気持ちに誇りさえ抱くようになっていた。そう遠くない将来、彼女の肩を抱いているのは自分であると信じていた。根拠は何かと問われれば、僕は多少の皮肉も込めて、子ども特有の思いこみの激しさだと述べるだろう。彼女は息巻く僕に対して相変わらず優しかった。
 その彼女がよその街へ嫁ぐことになったのは、僕が小学校を間もなく卒業する頃のことである。比較的最近のことだ。
「私ね、結婚するの」
 告白を受けたのは家の用事で一緒に買い物に出た帰り道のことである。
 ――本当はもっと早く言わなきゃって思ってたんだけどね……。
 呟きの最後の方はほとんど消え入るようだった。
 それに対する僕の反応は、僕自身がほとんど覚えていない。とにかく混乱してて、みっともなくて、それでも必死で冷静を装おうとしていたことだけは明らかだったと思う。彼女はきっと、自分の告白によって僕にどういう反応をさせるのかについて十分すぎるくらい想像を重ねていたのだと思う。彼女は中途半端な言い訳も慰めも謝罪もしなかった。その凛として揺るがない態度こそが彼女の誠意であり、僕を一人の男として扱ってくれた証拠であった。足りなかったのは、僕の方の余裕だった。
 その後、僕は彼女に満足に別れを告げることなく、とうとう彼女の出発の日を迎えてしまった。僕はだんだん小さくなっていく背中を自室の窓からこっそり覗き見ていた。
 僕は彼女の幸せよりも不幸を願わずにはいられなかった。


 その彼女に子どもが生まれたのが二年前のことであった。送られてきた手紙の結びには「遊びに来て下さい」という一言が、彼女らしい線の細い筆使いで綴られていた。結局足を運ぶことになったのはそれから二年後のことである。その間も定期的に彼女から手紙は届いていたが、もう遊びに来いとは書かれていなかった。ただ、淡々と、時節の挨拶と近況が綴られているのみであった。
 足を運ぶきっかけになったのは何かと言われると僕は答えに困ってしまう。ただあるとき何となくふいに、もういいか、と思ったのだ。天気が良かったから、学校のテストで良い点が取れたから、たまたま買ったパンに心なしか多めの具材が入っていたような気がして気分が良かったから、ともかく明瞭なきっかけは何もない。心のうちではとっくに彼女のことを許していたが――許す、という表現を使わずにはいられないほどに僕は彼女に裏切られた気がしていたのだ――、そのことを自然な自分の言葉で表現できるようになっていたのだ。同時に、僕は彼女を許す自分を許すこともできた。そして、彼女や、彼女を許してしまった自分を許しても、僕のあの大恋愛において彼女に抱いた気持ちの尊さや純粋さが、何一つ損なわれていなかったことを知った。
 夏休みの一日を利用して僕は彼女の一家を訪ねた。彼女の息子は、彼女とその旦那さんの特徴を程良く兼ねており、紛れもなく二人の子どもであった。彼は僕によく懐き、昼間いっぱいを一家の庭で過ごした。
 その夕方、遊び疲れて眠る息子を抱いて彼女は言う。
「また遊びに来てね」
「うん」
 我ながら驚くほど穏やかに微笑むことができたものだと思う。


 その帰り道、僕は列車に揺られながら窓の外を見ていた。久々の運動で全身がけだるかったが心地よい充実感に包まれていた。
 いつか彼女の息子も大きくなって、誰かに恋をするようになるのだろう。
 時間の流れは時に残酷であるけれど、総じて優しい。このようにして僕らは現在から未来へ向かって生きていくのだ。そこにはゆったりとした大きな流れのようなものがある。多少詩的な言い方であるが、世界全体を流れる物語がある。今の心地よさは、物語の片鱗を見たからかもしれない。僕は生まれて初めて、明日というものが楽しみになった。


 ――うたた寝をしていたらしい。開けた窓から吹き込む風の冷たさで目を覚ます。
 眠っている間にアナウンスがあったらしく、周りの乗客がのんびりと下車の準備を始めているところだった。
 大きな伸びと欠伸を一つ。
 窓の外を見遣れば、黒い森がある。平地の中央にあるため、木々が丸く盛り上がる様子がよくわかる。そこは魔女が住むと言われた森であった。
 二年前、僕はその森で不思議な一夜を過ごした。その経験こそが、僕が彼女を許せるきっかけを生んだ。そして、僕はそこに一人の女性を置いてけぼりにしてきたのだ。
 その女性の名はエニという。
「エニ」
 名前を呼べばただちにあの一夜のことが思い出される。あの時僕はまだ子どもで愚かだった。今でもそうであるけれど、自覚がある分だけいくらかましなのだと思いたい。
 しかし、もう、頃合いだろう――。
 やり残した宿題という表現が、僕の中でのエニの位置づけを最もよく表している。
 あの日、結局僕はエニに背を向けた。お互い円満に別れたようでいて一人で勝手に満足して、そんな気になっていただけだった。正直に告白すればそういう身勝手を働いたことはずっと前から自覚していたのだ。だが、身勝手を働いていたならばどうするのか、という問いに対してはまったくどうしようもなかった。謝る? 誰に、一体何を、何と言って? どこから手をつけていいのかわからないほどに状況は複雑だったのだ。複雑だったからいつしか考えることをやめて、やめたことすら忘れかけていた。まさしくやり残した宿題のようなものである。
 しかし機は熟した。今ならばちゃんと向き合うことができるだろう。
 エニ。
 その名を呼んで胸の内に浮かんだものは罪悪感かと問われれば、おそらく罪悪感もあるのだろう。未来を生きたいと思ったからこそ、もはや見過ごしてはおけなかった。そんな自分勝手な理由で振り回される側はやはり迷惑だろうか。そう思えばこそ僕は僕に対して呆れ、自虐的に苦笑してしまう。
 しかし、それでも、僕はもう一度向き合うと決めたのだった。


 二.


 エニについて少し語ろう。ただしこれから語る内容は、あくまで僕の目に映ったエニという人の像である。エニは人であるという前提そのものから本来は疑うべきなのかもしれない。このような回りくどい前置きをするには相応の理由があるわけだけど、その説明は後にする。
 歴史の教科書に載るくらいの昔に、魔女裁判というものが各地で行われていた。もちろん今日では魔女――悪魔や呪術に親しく、邪な術で以て清く正しい人々を惑わせ堕落させる人――などというものはまったくただの迷信であると信じられている。だが、その当時は魔女というものの存在が強く信じられ、魔女狩りの名の下に多くの女性が迫害され、犠牲になった。
 エニはその当時を生きた人である。魔女の疑いをかけられたエニは生まれ育った街からフィアンセを置いて逃げ出し、あの森に辿り着いた。ほとぼりが冷めるまで待ち続けるうちに、数百年が過ぎ、ある晩に僕と出会った。そして彼女は僕とのやり取りの末、かつて捨て置いてきたフィアンセの元へ帰ることを僕に約束した――。
 地縛霊と化した魂が僕とのやり取りを通じて成仏したと考えるのは、そもそも地縛霊や魂という非科学的なものの存在を前提とすることの是非はさておくとしても、おそらく一番もっともらしい解釈なのだろう。エニは成仏して、僕は大失恋から立ち直るきっかけを得た。なるほどよく出来た話だ。よく出来過ぎた話だ。
 この一見もっともらしい解釈を僕が今一つ受け入れきれないのには理由がある。


 ――みんなには一晩頭を冷やしてもらってからお引取り願ったわ。
 ――思い出しなさい。君は私に誰の影を見ているの?


 エニは僕に度々こう言った。それが暗に示すことは、“私はお前に虚像を見せているに過ぎないのだ”という宣告であり、“はたしてお前が今見ているものは見たままのものか?”という問いかけだ。僕は僕にとって都合の良いものしか見ていなかったとどうして言い切れようものか。疑えばきりのない話である。しかし一度疑えばもはや自分の目で見たものを無条件に信頼することはできない。
 エニがフィアンセの元へ帰ることを決めた、あるいは決めさせたのは、隣人のお姉さんが嫁いでいくことを、他ならぬ僕自身が納得するためではないか。彼女が嫁入りのために生まれ育った家を発つ日にちゃんとできなかった別れをやり直すためではなかったのか。
 エニの容姿も隣人のお姉さんの面影を投影したものに過ぎなかったのではないか。長い髪が背中に垂れて揺れる様は、僕の知っている限りでもっとも古い彼女に関する記憶である。
 そして、そもそも、エニが魔女であるというのも、過去の伝承から推察して、あの森には魔女と呼ばれた人がいたはずだ、という思いつきに端を発したものではないのか。僕が魔女の存在を願ったからエニは魔女になったのではないか。
 エニ――今やそれが彼女あるいは彼の本当の名であるかすらも問われるべきであるが便宜的にそう呼び続けるとしよう――は僕の願望や要望を実像化する鏡のようなものなのかもしれない。同時に、エニは今まで森に迷い込んできた人々の鏡でもあり続けたのだろうか。ある時は聖職者に討たれるべき邪悪な魔女として、ある時は魔法少女に憧れる少女の理想を具現化した、完璧で愛らしい魔女として。
 エニがこのようにして、エニを発見した人の望む姿やあり方を映してきたのだとするならば、本当のエニというものはどこにある? もちろんそんなものは初めからないのかもしれない。
 だが、あの時彼女が僕に虚像の構造を示唆したことそれ自体が、エニ彼女自身が発するSOSではなかったのだろうか。
 誰か、気付いて。
 違うなら是非違っていてほしい。もはや実体を捉えることすらできなくなってしまった存在なんて、そもそも最初からいなかったのだとしたら、それは至極結構なことだ。でもそうじゃないんだろう、たぶん。
 こうして考察を重ねてもなお、僕はエニに対して、エニは森に迷い込む人々の願望や要望を投影する鏡のようなもので、本当の自分というものに気付かれない“可哀想な人”でいることを望んでいるのかもしれない。違うとは言い切れない。そしていつまでたっても言い切れない。
 エニ。
 どうしたら僕は君に届くだろうか。
 確かなことは、僕がエニと呼んで関わりを持った明らかに僕自身ではない他人が存在したことである。
 僕は、偏見や先入観を持つことなく、ありのままのその人を見つめられるような魔法の目が欲しい。


 出発は二年前と同じ、魔女が空を駆けるにはおあつらえ向きの夜だ。草木も眠る深い夜更けに森の前に立つ。
 森の中と森の外の境界は比較的はっきりとしていると思う。一歩足を踏み入れれば空気が深く沈んでいく感覚を肌が敏感に感じ取るのだ。すると辺りは急に濁ったように曖昧になる。月の光も届かない暗闇がそうさせるのかもしれない。振り返れば見える道が月光に照らされ白く輝く様子がコントラストとして、今いる場所の暗さを強調するのだ。
 甘く湿った空気をつま先で蹴り分けて進んでいく。ランプの灯りは心許ない。こんなに深い暗闇なのだから、何が出てきてもおかしくないことを予感する。しかし振り返って来た道を戻るには、僕はもう深入りし過ぎていた。森に足を踏み入れたからには、誰もがもはや前に進むしかない。
 そうして歩いていくとやがて拓けた場所に出る。その小さな広場ほどの場所には木々が一つもなく、代わりに小さな屋敷が建っている。古びてはいるがよく手入れはされている。この建物こそが二年前に僕がエニと出会い、ながい夜を過ごした場所であった。
 二年前に初めてここに辿り着いた時、二階の一室に灯りが灯されているのが見えた。橙色の灯りが明滅していたのだ。
 そして二年後の今もまた、灯りは同じく明滅していた。
 予感はしていた。むしろ、そうであることを想像していたのだから、想像通りであろう。
 エニは、まだここにいる。
 心臓が激しく脈を打つ。もうこれから先に何が起こるかなんて、僕にはもう想像がつかない。きっと、どんなことでも起こり得るだろう。僕がどんなに想像を巡らせても想像しきれないようなことだって起こるだろう。
 カタカタと音が鳴り、灯りを孕んだ窓が押し広げられる。そして顔を出したのは、長い髪を風に踊らせるエニである。表情はよく見えない。でもきっと笑っているのだろう。
「狼や死霊に食べられるわよ」
 しっとりと落ち着いた声は二年前と変わりなく、僕の胸の底に落ちてくる。僕は、どんな顔で、どんな風に声を掛ければ良いのだろうか。
「まあ、とりあえずお上がりなさい。鍵は開いてるわ」
 それだけ言うとエニは窓を閉めてしまう。玄関はまっすぐ視線を下ろした先にある。質素ではあるけれどよく手入れされた玄関である。
 あの扉を開けばいよいよ後に退けなくなるだろう。しかし、それで怖気づくくらいなら、初めからこんなところになんか来ない。


 エニが淹れてくれたお茶は二年前と同じ味がした。僕たちはダイニングテーブルを挟んで向かい合う。エニはテーブルに肘を立て、頬杖をついてじっと僕の顔を見た。
「大きくなったのね」
「二年も経った」
「年頃の男の子が大人になるには十分な期間かしら」
「いや不十分だと思うよ」
 玄関先で向かい合って気付いた。二年前は見上げていたエニを、今や僕が見下ろしている。エニの見た目は何一つ変わっていなかった。
「また戻ってきたということは、一晩じゃ頭が冷えなかったのかしらね」
「二年間ずっと冷えなかった」
「オーバーヒートした末の暴挙」
「そうかもしれない」
「じゃあ今度からはもっと気合い入れて頭を冷やさせないと駄目ね」
「でないと僕みたいなのが後を絶たない」
「もてすぎるのも困りものだわ」
 事も無げに言う。
「僕がいなくなった後も、頭を冷やしてあげないといけないような人たちは来たの?」
「ええ。定期的にね」
「面倒臭そうだね」
「あんまり頻繁に来られると面倒だけど、たまに来る分には構わないわ。住民税みたいなものよ」
「誰に納めるのさ」
「さあ、誰かしらね」
 エニは冷めたお茶を淹れ直す。その後ろ姿は、遠い昔の記憶と大いに被る。僕は、彼女の台所に立つ背中が好きだった。背の中ほどまでかかる長い髪、肩甲骨が浮かぶ薄い背中と、ほっそりとした腰筋――。ああ、こうしてエニに関わった人は騙されていくのだな、と思った。
「それで、今回の目的は何なのかしら」
「エニのことが知りたい」
「ずいぶん直接的に口説くのね。まあ、言われて悪い気はしないけど」
 つまらなさそうに言う。
「二年前に教えてくれたことはどこまでが本当だったの?」
「君に何を喋ったかなんて覚えてないわ」
「エニは魔女狩りの生き残りで、フィアンセを故郷に置いてきた。この森に逃げ込んでいるうちに自分がもはや生きているんだか死んでいるんだかわからなくなって、時間ばかりが過ぎていって、今に至る。でもエニはとても現実的な幽霊で、市に税金だって納めるし、定期的に戸籍上で子どもを生んでいる」
「ああ、思い出した。そうね、そんな話をしたわね」
 エニは中空を仰ぎ、ここではないどこかを見た。
「それが何か?」
「本当のところはどうなの?」
「全部本当よ。私は魔女狩りの生き残りでフィアンセを故郷に置いてきた過去を持っていて、自分の生死に自信がなくて、そしてきちんと税金を納める良き市民」
 エニはそれがさも当然であるかのように言い切り、同時に、それが嘘であることも隠さない。
「実は、私はどこか遠い国の良家のお嬢様で、まったくただの道楽でこんな辺鄙な森の奥で遊んで暮らしているの。あるいは、私は神話の時代から生きる狐の霊で、こうして人を騙すことを楽しみにしているの。あるいは、君が気付いていないだけで、実は、君は今とある機械国家で人体実験を受けている最中で、君は脳に特殊な操作を受けた結果特殊な幻を見ているだけなの」
「三番目のストーリーは面白そうだね」
「この設定で小説を書いたら売れるかしら」
「僕は買うよ」
「ありがとう」
 エニは鼻で笑う。
 このように、エニは僕のことを信用していないのだった。もっとも、エニが信用しないのはきっと僕に限ったことではないだろう。
 エニはこういう風に考えているのではないだろうか。つまり、エニが何と言おうと、きっと僕は僕が信じたいストーリーしか信じないだろうと。いくらエニが、本当なの、と強調したところで、僕がそれを信じなければやっぱり僕はエニの言うことを嘘だと思う。そしてどんなに確からしい証拠を持ってきても、やっぱり僕は信じ切らないだろう。正しいことと、納得して受け入れられることは、同値である。納得して受け入れられなければ、人はそれを正しいとは思わない。納得して受け入れられなければ、相手が間違っているとさえ思う。論理や明確な証拠が成立しない場合には尚更、直感的に信じられないことはやっぱり信じられないのだ。この点において、エニ自身が何ものであっても、エニは弱者なのだと思う。信じろと言って信じることができたら、それは単なる思考停止だ。
「またしばらくここにいてもいい?」
「どうぞご自由に」
「今回は帰れとか言わないんだね」
「言われたいの?」
「いや」
「言ったって帰らないんでしょう」
「まあね。どうせここでどれだけ時間を過ごしたって、森を出る時には一晩しか経ってないんだから」
「永遠に出られないかもしれない。悪い魔女に食べられちゃって」
「近頃の魔女は菜食主義なんだと思うよ」
「そうかもね」
 私は菜食主義――エニが小さく呟くのが聞こえた。
「やっぱり私は鶏肉も好きだわ」
「でも鶏は人じゃない」
「それもそうね」


 与えられた部屋は二年前と同じ場所だった。廊下を挟んでエニの部屋と向かい合っている。
 もしもエニの部屋を覗き見たら、また手紙を書く背中を見ることができるだろうか。僕が見たいと思えば見られるだろう。
 ここでは僕が思ったことや望んだことがほとんど具現化されるのだ。そして、僕が僕という自我を保ち固執している限りは、僕は僕の目が見たままの世界を見るしかない。その世界をスクリーンに映った映像と喩えれば、僕が真に見たいのは、そのスクリーンをめくった裏側だ。


 三.


 エニとの共同生活において、僕は居候の身であるため、基本的に一日をエニの日々の生活の手伝いをすることで過ごす。
「人手が使えるせっかくの機会だもの」
 地下倉庫の整理や普段は手の届かない場所の整理、冬に備えた諸々の準備など、エニに言わせれば「やることはいくらでもある」。
 日の出と共に起床し、朝食後は働き、昼休憩を挟んだ後、午後いっぱい働き、日が暮れると家に戻り、夕食を食べ、就寝する。健康的な暮らしである。
 そんな日々が一週間ほど続いた。
「今日は街に出ましょう」
 早速身支度を整え、森の複雑な道を行く。三〇分も歩かない内に森を抜け、春の陽気がうららかな小道を行く。傍らには小川である。種類はわからないけれど、小魚が数匹、流れに逆らって泳いでいた。
 風はふんわりと、甘い。並んで歩くエニは相変わらずのぼんやりとした風だった。
 こんな道を、僕は二年前も歩いたのだ。
 街に入ってからは日用品や食料品など、森の中では手に入らないものを優先的かつ積極的に仕入れる。疲れたら喫茶店に入る。壁際のテーブル席に腰かけ、椅子の傍らに戦利品を置き、エニはアールグレイを飲み、僕はカフェオレを飲む。エニが図書館で借りた本を読む間、僕は紙ナプキンで折り紙をする。穏やかな午後二時。文庫本に目を落とすエニの頬に長い髪が掛かっている。こげ茶色の、色艶の良い髪だった。鼻を近づければ椿油の香りがする美しい髪である。
「ねえ」
 僕の呼び掛けにエニは目で応える。
「髪、切ってみようよ」
「ずいぶん唐突なことを言うのね」
「つい数秒前に思いついたからね」
 エニは紅茶に手を伸ばし、カップに口をつけた。
「嫌よ」
「どうして」
「切ったら元に戻るまで時間がかかるじゃない」
「エニには無限の時間がある」
「その使い道を決めるのは私よ」
「エニなら髪をカットしても似合いそうだよ」
「少なくとも髪を乾かすのは楽になるでしょうね」
「それに、僕が見たいんだ。エニが髪を切ったところ」
 エニが大きく見開いた瞳に僕の目が映っているのが見えた。しかし、すぐにエニは目を伏せてしまう。かぶりを振り、文庫本を畳み、鼻で大きく息を吸って吐く。
「我儘勝手な君なら、しまいには『僕が切る』とか言い出しかねないわね」
「エニは優しいから、僕のお願いを聞いてくれる」
「そう、私は優しいの。でも、君は、少しは自分の立場というものをわきまえるべきでもあると思うわ」
 エニは、思いの外、乗り気であるように見えた。
 喫茶店を出てから歩き、ほどなくして美容室を見つける。個人経営のこじんまりとした店だった。エニは扉を開き、カットにどれくらいの時間が掛かるかを訊ねた。それから僕の方を振り返り、
「一時間か二時間くらい時間を潰していてちょうだい」
 それだけ言うとさっさと店に入っていってしまった。
 エニが壁際の席に座ったところまで見届けると、僕は辺りを散策することに決めた。といっても、荷物があるので満足に歩き回れるわけがない。なので、結局近くのベンチで手を打つことになった。
 髪を切ろう、と持ちかけたのはやはり単なる思い付きだった。でも、ショートとセミロングの間くらいの長さになったエニも、きっと間違いなく綺麗なんだろうと思った。エニは自分の身なりに少々無頓着なところがあるからこそ、もっと綺麗になったエニを見てみたい気がしたのかもしれない。
「お待たせ」
 そう言って僕の前に立つエニを見上げてみて、はたして僕の予感が正しかったことが証明される。
 髪の長さは肩まで程度であった。しかし、一番の変化は、重石となっていた長い髪がなくなったことで、本来の彼女の髪自身の癖が顕著になったところだ。肩のあたりで踊らせた髪が緩やかな波を打っている。
「さて、行きましょう」
「よく見せてよ」
「恥ずかしいわ」
 踵を返したエニの正面に回り込む。すると今度はエニは胸に抱いたバゲットで顔を隠した。そこで僕はエニを下から覗きこむ。エニはとうとう観念し、顔を上げた。
「変じゃないかしら」
「全然。僕の思った通りだ」
「そう、それは良かったわね」
「照れてる」
「気のせいよ」
 もう十分だろう、と言わんばかりにエニは早足で歩きだす。それがあまりにも早いので、僕は小走りで後を追う形になった。


 家に帰る頃には、エニはすっかり軽くなった頭に慣れていたようだった。口に出しこそしないけれど、エニ自身もいくらか気に入っているようにも見えた。
「気に入った?」
「さあ、どうかしらね」
「これまで自分の髪はどうしていたの」
「普通に自分ではさみを使って、適当なところで切り揃えるだけよ」
「髪でおしゃれなんてまったくしてなかったの?」
「そうね。見せびらかす相手もいなかったし」
「見せびらかす相手ができてどんな気持ち?」
「もっと良識のある男性だったら良かったのに、って思うわ」
「厳しいね」
「君の頭がおめでたいだけじゃないかしら」
 僕が肩をすくめると、エニは顔を背けてさっさと自室に戻っていってしまう。


 ベッドの上であおむけになり、天井の一点を眺めながら僕は考える。
 少なくともここ数日、エニは穏やかに長閑に暮らしてきた。それは僕が再び現れる前からも同じくそうだったことを想像させるものだった。むしろ、二年前に僕がエニに初めて出会った時にことの方が嘘であったかのような気さえしてくる程のものだ。
 晴耕雨読を実現したらきっとこんな暮らしなのだろう。静かで穏やかで完結した日々に触れていると、一体自分はここに何をしに来たのか、その目的を忘れてしまいそうになる。僕はエニのこの満ち足りた暮らしをどうしたいのか。僕のこの“悪意”は、この世界ではまったく余計なもののようにさえ思う。
 エニは穏やかな暮らしをしていたのだ。どうしてそれで僕は納得しないのだろう。結構なことじゃないだろうか。そしておそらく、エニはこう示唆するのだ。ここにあなたがいる必然性はないのだから、早く帰りなさい、と。
 僕や、現実の世界での僕の周囲の人々が普段の暮らしをする中では、本人がいくら穏やかであることを願っても穏やかにはなりきらないことが多々ある。どんなに清く正しい暮らしをしていても、僕らは強盗や交通事故のような人災に遭遇し得るし、あるいは天候不順や自然災害などの天災が社会全体を襲うことがある。いくら自分に非がなくても僕らは無理やり、突然、悲劇の渦中に立たされることがある。その悲劇的な経験から僕らは多くのことを学ぶ一方、相変わらず人災や天災は絶えず僕らの隣にあって、彼らは彼らの気まぐれで僕らに牙を向ける。僕とエニがしばらく過ごしたような日々は、理想化された暮らしそのものである。
 だから今の暮らしは仮のものであり偽りである、というのは結論としては尚早だろう。むしろこのような暮らしを築き上げることに成功したエニの努力にこそまずもって敬意が払われるべきである。
 完結し、閉ざされた平和な世界――なるほど、僕にできそうなことは何も無さそうである。腹立たしくなる程に、僕はこの暮らしにおいては他所者なのだった。たとえ何かしらの不幸があったとしても、エニが僕の手を借りる理由がない。
 折り合いを見て、ここを出ていこう――たとえそれがエニの意図した通りであっても、いいだろう。
 おそらく僕は僕の目に見えているものしか見ていないのだろう。僕はスクリーンを一枚めくった裏側を見ることができていない。そして、スクリーンを一枚めくった裏側には、“壮絶な真実”とやらがあることを未だに期待している。でもそれは、まったくばからしいことなのだ。スクリーンの裏は白い壁であった。どうしてそれで僕はがっかりしてしまうのか。
 ――コン、コン、とドアをノックする音がした。
 エニなら構わず入ってくるだろうと楽にしていたが、その後の反応がない。
 無音の時間は薄く引き延ばされ、ずいぶん長い間僕は身構えているような気になってくる。
「エニ?」
 そう呼び掛けてようやくドアが開いた。すっと音もなく部屋に忍び込んできたのは、明らかにエニではない少女であった。その顔だちは異国の人を思わせる。浅黒い肌に、白いシャツ。少女は後ろ手でドアを閉める。
 少女は体を左右に揺らしながら少しずつこちらへやってくる。
「……誰?」
 問いかけても返事がない。代わりに少女は顔を上げ、唇を動かす。声はない。何かを伝えようとしているのだろうか。唇は一つの単語を繰り返しているようだった。
 い、え、え?
 に、げ、て。
 逃げて。
 気付いたその瞬間、周囲の空気が急にきつく張りつめ、窓ガラスが今にも割れんばかりの激しさで鳴り始めた。少女は虚ろな瞳で警告を繰り返す。泣いているのか、頬を一筋の涙が伝う。直感的に、これは危険だ、と悟った。
 足を擦りながらこちらへ近づく少女を時計回りに迂回し、部屋を出る。その足でそのまま向かいのエニの部屋のドアを開ける。
「エニ」
「こちらへいらっしゃい」
 エニは自分のベットを指差した。布団が乱れており、ちょっと前まではエニもそこで横になっていたのだろう――ということは、エニは何か異変が生じていることを知っている。
「ねえ、エニ――」
「静かに」
 エニは素早く振り向き、唇に左の人差し指を当てる。同時に、空いている方の手でペン立ての中から白銀色のペーパーナイフを手さぐりで掴んで取り出す。
 一瞬の間を置いて、ドアがノックされる。エニは入口のそばの壁に背を当て、よく通る声で「どうぞ」と呼び掛けた。
 長い間を置いてドアが開き、先刻の少女が現れる。そして、少女が一歩足を踏み入れた途端にエニが少女の腕を掴んで投げ倒し、左手で首を床に押し付けたまま右手に逆手で握ったナイフでその首を横に薙ぐ。一連の流れるような動作を僕は呆気に取られたまま眺めていた。少女は二、三度手首や脚を痙攣させた後に動かなくなる。
 やったのか?
 立ち上がりかける僕をエニが手で制する。なぜ、と問う前にその理由は明らかになる。今しがた動かなくなったはずの少女の体が、陸に打ち上げられた魚よろしく突然跳ね始めた。そして見えない誰かが粘土遊びをするように、その体は丸まり引き延ばされ、ついさっきまで人の姿をしていたことが嘘であるかのような変体を見せる。豚や鮪、あるいは猛禽。一瞬だけ動物の体を見せつつ、それは伸縮を繰り返す。
 エニは立ち上がり、ナイフを両手に構える。そして一息に、ナイフを振りおろし、その不気味な肉塊に突き立てた。すると肉塊は急速に黒ずみ、皺枯れ、最後に真っ白な真珠の玉のようなものが残った。エニはそれをつまみ上げると、タンスの戸を開き、無造作に放り込んで戸を閉める。エニはこちらに向き直る。
「もう大丈夫よ」
「ねえ、今のって」
「今日はもう寝なさい。話はまた明日」
 それだけ言うとエニはさっさと僕を部屋に押し戻してしまう。そしてエニが階下へ降りていく足音が不気味に響いた。


 眠れと言われて簡単に眠れるはずがない。瞼を閉じれば先刻の光景が蘇る。
 エニが魔物の首を薙いで振り上げたナイフの煌めき――。
 あるいは魔物の唇の動き――。
 それらが浮かぶ度に瞼を開き、天井の木目を見る。落ち着いたら瞼を閉じる。それを繰り返すうちにどこからが夢でどこまでが現実であったかがわからなくなってくる。よくわからぬまま、夜明けを迎える。白じんでいく空を眺めているうちに、昨晩の出来事の一切が夢であったかのような気さえしてくる。
 体を起こし、窓を開ける。
 エニは庭先にしゃがみ込み、何かを埋めているようだった。
 ――僕はこんな展開すらも望んでいたのだろうか。
 自問してみて、そら怖ろしくなる。
 否、と言い切れなかったからだ。


 四.


 朝食を終えた頃から、ぽつり、ぽつり、とエニは語り始める。
 昨晩の魔物は、おそらく森に漂う死霊であろうという。
「おそらく?」
「背中に『私は悪性の死霊です』って張り紙でも張ってあればわかりやすいんだけどね」
「こういう、その、オカルト的なものはよくあるの?」
「妖怪・ペン隠しや、妖怪・鍵掛けたっけはよく出るわ」
「エニも年だものね」
「見かけだけは若いけれど」
 エニは短くなった髪を掻き上げる。その短さのおかげで、今日が昨日の延長線上にあることがわかる。
「でも、ああやって具体的な依り代を伴って現れるのは初めてね」
「過去何百年の中で?」
「そう、初めてね」
「どうして、って訊いてもいいのかな」
「わからないわ」
 ぴしゃりと言い切る。そしてこれで話はおしまいであると言わんばかりに、食器の片付けを始める。
「君はもう帰りなさい」
「危険だから?」
「そう。それに、邪魔なのよ」
「危険なのはエニだって同じだろう」
「私は戦える。君は戦えない」
「それにしたってエニが“危険な”場所に留まることとは別の話だ」
「私はいいのよ」
「僕はエニのことを心配している」
「私はここが良いの――ねえ、君は私をどうしたいの?」
「それは」
「君が言えなければ代わりに言ってあげるわ。
『エニ、僕と一緒に行こう』」
 結局その通りだった。
「君は結局、二年前と何も変わってない。君の手にかかれば、どんなトラブルも不幸も、私を口説く口実なのよ」
「エニは少しいらついてる」
「そうね、ごめんなさいね。でもちょっとだけ訂正を加えるとね、少し、じゃないの。だいぶ、よ」
 エニはいつもよりも多めの水量で食器を洗う。乱暴に洗うものだから、食器と食器のぶつかり合う音も荒々しいものになる。
「ずっと年下の男の子に言うことじゃないと思うし、自分でも大人げないと思うけど、私、君の顔を見たくないわ。昨晩のような奴らは昼間なら湧いてこないから」
 その背中は言うべき言葉を苦心して選んでいるようにも見えた。


 エニが大丈夫だと言うのだから、大丈夫なのだろう。一階に下りるとエニはもういなかったので、書き置きを残していくことにした。
『さっきはごめん』
 それから続く言葉がいくつか頭に浮かんだ。謝り倒す言葉、言い訳の言葉、ご機嫌を伺う言葉。おそらくいずれも有効ではないように思われた。散々迷った末に、僕は筆を置く。
 もうこのまま戻らないのが正しいのだろうか。
 エニの言っていることは、現状の判断としては圧倒的に正しい。無力で他人である僕がこの場に留まり続けることは、無意味であることを通り越して危険であり迷惑である。
 また、エニはここを離れないのではない。離れられないのだ。時々街に出たって、結局それは森を出たことにはならない。それをわかった上でエニを連れ出すことを考えていたのだから、なるほど僕もなかなか性格が悪い。
 仮に僕がこのまま出ていったとして、一人残ったエニを慮り、その暮らしや死霊との戦いを憐れむのはやっぱり僕の我儘勝手だ。
 僕はエニを好いていて、彼女の力になりたいと思っている? なるほど、愛は偉大だ。一人の人間を馬鹿で独善的にするには十分な効用がある。
 結局のところ、僕はエニについて知らなさすぎるのだ。エニと死霊の関わりはどのようなものであるのか、そもそも死霊とは何か、僕がエニと呼ぶその人は結局何なのか。そして、エニはあとどれだけの真実を隠しているのか。それらのことについてエニ自身が語らない。もっと厄介なことに、僕は、エニはこれらの問いについて僕の満足のいく回答を持っていると思いこんでいる。
 このまま森を出れば、これまでの事は全て一夜の夢として片付けることができるのだろうか。そうすればまたいつもの日常である。歩いていけるところにエニがいるとしても、エニは、僕とは違う暮らしをし続けるだろう。だが、そもそもそれは異世界での話だ。自然な状態では双方の世界は互いに干渉しない。たとえ一方の世界で何が起こっているとしても、もう一方の世界には何の影響もない。基本的に、その世界での出来事――たとえば、異形のものが侵入してくること――はその世界の論理で以て解決されるべきではないか。
 やれやれ。
 これだけ自分に言い聞かせても、依然として僕の中のもう一人の僕は憮然とした顔のままである。もう一人の僕は、ぽつりとこう呟く。
 ――ほんの少しでもいいから、僕のことを頼ってくれればよかったのに。
 自分がエニの問題に対していかに無力で足手まといであるかを知っていてもなお、僕はそういうことを考える。なるほどエニも呆れるわけだ。
 それでもやはり真っ直ぐ帰るのは癪だったので、僕はたっぷり時間をかけて寄り道をすることにする。向かう先は、森の出口ではなく街である。


 少なくとも一度は歩いた道であったので、迷うことなく森を抜けることができた。永遠に時間が止まったままのような、うららかな春日の下を行く。傍らを小川が流れ、そこを跨げば一面の花畑である。背丈の低い色とりどりの花が咲き乱れ、風がそよぐ度に波が走る。地平線で空と接するまでの一面が花畑である。空は雲一つない。
 街に入り、広場に近づくにつれて人の数が増えていく。
 僕はお金を持っておらず大抵の商業施設を利用することができない。仕方ないので、お金を使わない範囲で散策をすることにする。たとえば、本屋で立ち読みをしたりウィンドウショッピングをしたりといった具合だ。しかし昼を跨ぐ頃にはそれにも飽きてくる。
 図書館前のベンチに腰を下ろすと、歩き回った分の疲れが急に自覚された。少し休んだら、という程度で座った気構えがたちまち霧散していく。疲れたなあ、と呟いたことは呟いてから気付いた。
 背もたれ、大きく息を吸う。目を閉じれば瞼の毛細血管に日が透けるのが見える。
 ――陽気な笛の音。
 遠くから微かに聞こえたそれは、だんだんこちらへと近づいてくる。音のする方を見遣れば背の低い道化が七色の風船を背負ってやって来る。風船は細い糸で結びつけられているらしく、道化の歩調に合わせて弾んでいる。道化はおしろいのような仮面を被り、ボレロとズボンを緑色で統一し、そのボレロには必要以上のボタンが縫いつけられている。長いつま先の靴を大げさに振り上げて道化は行く。右手に角笛、左手にビラ。肩から下げたポーチにビラが雑に詰め込まれていた。道化はそのビラを思い切りよくばら撒いている。道行く人は道化に道を譲り、子どもたちが撒かれたビラを掴んでは親に見せる。何か見世物でもやるのだろう。
 ビラの一枚が風に乗って僕の足元に落ちる。ビラには、間もなく公民館のホールで演劇の舞台を行うことと、入場料無料であることが書かれてある。
 なるほど僕は誘われているのだな、と察した。誰がどのような意図の下で僕を誘っているのかはわからない。しかし、この森に一歩踏み入れたその瞬間から、どんなことも起こり得るのだ。そのことを思い出す。
 道化は多数の子どもを引き連れて広場を出ていこうとするところだった。後を追う。
 道化が奏でる間抜けで陽気な笛の音が、うららかな春の一日によく似合っていた。しかし、それだけに、道化と僕が行く道がどす黒く暗澹としたものであることを予感せざるを得なくなる。
 この先で僕は何かを見るだろう。
 森に立ち入る前に願ったことを思い出す。
 ――僕は、偏見や先入観を持つことなく、ありのままのその人を見つめられるような魔法の目が欲しい。
 僕の目は“真実”を捉えることができるだろうか。


 五.


 公民館は丘の上にあった。螺旋状の勾配を登り切れば、どこか神殿めいた入口が現れる。石柱の装飾が細やかである。その玄関を跨いだ先に白煙が立ち登っている様子が見えたので、おそらく中庭のようなものがあるのだろう。
 道化を先頭に僕らは公民館の敷居を跨ぐ。僕らが侵入した先にあったのは長く狭く暗い廊下である。彼方に光の粒が見え、あそこが出口であることを予想させる。先ほど見た外観から考えれば決して長くないはずの廊下は、しかし歩けど歩けど端に到達する気配が見えず、むしろ歩くほどに廊下の幅が狭くなっていくようで息苦しい。道化の笛の音が廊下の内壁に反射し、音程の狂った不快なものになる。そんなものをながい間、聞き続けていると、自分が気狂いになりそうな予感すら感じる。早く、出口に。心の中で、口の中で、念じるうちに次第に豆粒大の出口が大きくなってきた。硝煙の臭いがする。頭痛と吐き気がないまぜになる中、僕らはようやく演劇の舞台に到達する。
 強い光に目が慣れるまでの間、僕は複数の悲鳴を聞いた。じっと目を細めて、何が起こっているのかを確かめる。次第に輪郭と色を帯びていく視界の中で、僕の前方を歩いていた者たち――彼らは皆、男女混合の子どもたちであったはずだが、今は僕と同い年かその前後の少女である――が、大人数の男たちに捕われていく様が見えた。
男たちは手にした縄で少女たちの手首を縛ると、二人一組で彼女たちを抱え上げ、丸太で組んだ舞台へ運んでいく。
 その舞台とはすなわち処刑台である。
 巨大な丸い壺が火で焙られており、ぐつぐつ、ごぽごぽ、と気泡が弾ける音がする。その音が、喧騒と悲鳴の中でいやにはっきりと聞こえる。その壺の真上に、腰の裏で手首を縛られた一人の少女が立っている。少女の背後には鎧を着た男がおり、男は構えた槍の柄で少女の腰を突いていた。少女は抵抗する。が、男が強く突くと、少女はとうとう壺の中に落ちてしまう。跳ねた黒い液体は熱く煮えたぎった油であった。
 このように次々と少女たちが処刑されていく。処刑は流れ作業と化していた。
 その光景を、処刑台の周りに集う人々は爛々とした瞳で見上げている。
 僕はこの光景を知っている。知っている、というよりは、何度も想像した。繰り返し、繰り返し、何度も。何度も何度も想い描いた、魔女狩りの光景だった。
 そうか、これを見せるのか。
 かつて僕が夢想した中での“魔女”たちは、一様に無垢で清純で、素朴で穏やかな暮らしが似合う娘たちだった。想像の中で娘たちは繰り返し殺され、その度に僕は心を痛めた。想像の中で僕は本当に心を痛めたのだ。娘たちは戸惑いの内に殺されていく。
 しかし、娘たちの全員がただ殺されるばかりではない。
 処刑を待つ娘たちの中に一人、瞳に一際強い光を宿す者がいた。娘は魔女などという迷信がまかり通る不条理に憤り、魔女という概念に踊らされる全てを憎んでいる。その執念の深さが彼女を一層魔女らしくさせているのは皮肉なことであった。
 娘は下唇を噛み、煮えたぎる油壺を睨み上げている。ぼさぼさの髪と汚れた衣服が、今処刑の列に並んでいるのは激しい抵抗の末のものであることを物語っている。
 エニ――。
 彼女の胸の内にあるものは、決して彼女だけのものではない。今ここで手首手足を縛られている娘たち皆が抱えているものである。その娘は、皆の想いを代表している。その眼光の鋭さはやはり美しいと、僕は思わざるを得ない。
 そうして僕が見惚れている間も娘たちは次々と油壺の中に突き落とされていく。落とされる度に壺の口から黒煙が昇り、歓声が沸き、エニは憤る。どうしてこのような不条理がまかり通るのものか! その度に、エニはますます美しくなる。その頬は上気し、怒りに戦慄く様は隠されない。僕は、僕の中で高ぶっていくものを鎮めることに精一杯だった。
 そしてエニの番が訪れる。聴衆の視線を一身に集める。エニは身を震わせる。くつくつと笑みを漏らす。聴衆が異変に気付き、熱気が微かに冷めたタイミングを見計らって、エニは皆に聞こえるように高笑いをする。


 お前たち、みんな殺してやる。


 これ以上となく明確で簡潔な殺意の表明であった。聴衆どもは一瞬だけ静まり返った後に憤る。魔女が生まれた瞬間である。
 エニは一歩前に踏み出すと、油壺の口の縁を蹴り押した。裸足の裏は焼けたことだろう。だがエニの眼光はますます鋭くなり、とうとう壺を蹴り倒した。
 ぐらりと傾いた壺口から黒い油がこぼれ、扇状に広がり、聴衆を焼いていく。
 その混乱の最中、エニは体当たりで処刑執行人の男を倒していた。男が落とした槍の刃先を使って手首の縄を切る。そしてそのまま槍を掴み、穂先で彼方の一点を指し示した。
 娘たちは逃げる。その後を数少ない兵士が追う。逃げる途上で、少なからぬ娘たちが捕まったが、エニをはじめとする少数はとうとう逃げ切った。
 その後の光景は見るに堪えず、僕はとうとう目を背けてしまった。音だけは聞こえる。その阿鼻叫喚たるや、地獄の様相を呈している。これが僕の想像の行く末だったことをつくづく思い知らされる。


 混乱する人々の間に、僕は道化を見つける。全身緑色のボレロに無数のボタン、そして七色の風船。道化はのんびりとした挙動で懐からゴム片を取り出すと、大きく息を吸い、ぷー、と風船を膨らませた。慣れた手つきで風船の口を縛り、糸を括りつけ、糸の残った片方を自分の腰に括りつける。道化が風船から手を離すと、風船は他の風船と同じ高さまで上り、とうとう道化の体までも持ち上げた。
 道化の体は宙へ浮かび、腰だけが吊りあげられた滑稽な姿で、風に流されるまま処刑場を横断する。
 追ってこい、とその背中が僕に呼び掛ける。
 もっと酷いものを見せてやる、という悪意さえ感じられた。


 六.


 再び長く暗い廊下に足を踏み入れると、急速に喧騒は遠のき静寂が訪れる。
 長いトンネルを抜ければそこは寂れたバーである。酒の臭いが色濃く漂う、陰気なバーであった。全体的に薄暗い。その雰囲気をより陰気にさせるのは、陰気な客たちであった。
 壁際に、申し訳程度の舞台がある。その隅にやはり陰気臭いピアノがあった。
 カウンターの奥から一人の女が現れる。まったく不似合いなけばけばしい化粧と衣装で身を固めたその人はエニである。肩までの長さの髪の、その毛先は癖を持っている。エニは舞台に上がる。
 いつの間にか現れていたピアノの演者が軽快なリズムで前奏を弾き、エニが歌声を乗せる。
 誰もが退屈しきっていた。酒を飲む側の誰一人としてエニの歌には耳を傾けていなかったし、カウンターの奥でグラスを拭く店長は音が鳴っていることにすら気付いている様子がなかったし、ピアノの演奏も粗雑でところどころ音を外していることを気にする風がない。バー全体にはびこる陰気な雰囲気がそうさせるのか、誰もがそんな風だからますます陰気になるのか。時間だけが無為にけだるく過ぎていく。エニもまたその退屈し切っていた中の一人だった。一番目の曲が終わる。誰も拍手をしない。終わったことすら気付かれない。
 二曲、三曲と続ける間に何人かの客が店を出て行き、何人かの客が新たに現れる。
 一人の男の客が現れる。客層から考えれば特に若い男だった。彼は大股で舞台の目の前の席に座ると、遅れてやってきたウェイトレスの痩せぎすな女の子に酒を注文した。
 男は食い入るようにエニを見つめる。エニも見つめられていることには気付いていたが、それは何の意味もないことであるかのように振る舞っていた。
 男がエニに惚れていることは明らかで、男はそれを隠す素振りも見せなかった。


 舞台が終わり、エニは男の誘いを受けて同じテーブルにつく。
「今日も良かったよ、――」
 男は僕の知らない名前を呼び、エニは、
「ありがとう」
 と答えた。
「奢るよ、何がいい?」
 エニが酒の名前を一つ口にすると、男は上体をねじって振り返り、その酒の名を叫んだ。痩せぎすな娘が応え、間もなく柘榴色の酒が運ばれてくる。
「乾杯」
「可哀想になるくらいの、無駄な努力に」
「つれないなあ」
「むしろ親切じゃないかしら」
 エニが微笑むと男は一息に杯を空け、追加を注文する。その間、男はソーセージを頬張り、エニはフォークの先でポテトサラダをいじっている。
「親切ついでに今度、どこかに遊びに行こうよ」
「どこかわからないところなんて怖くて遊びに行けない」
「今度、謝肉祭があるだろう」
「きっと人の出がすごいだろうから、お店が忙しくなるわね」
「君は働き者だなあ」
「私はお金を愛してるの」
 エニは笑みをこぼす。男は、敵わん、といった風に目に手を当て、上体を反らした。反らしたついでにエニの二杯目を注文する。
「目標の金額まであとどれくらい?」
 エニは指を三本立てる。
「単位はお金? 時間?」
「時間」
「あと三年かぁ」
「そうね、あと三ヶ月ね」
「まずはどこに行くの?」
 エニは僕の知らない地名を指折り数えながら挙げていく。その横顔はとても生き生きとしていた。地名を挙げる度にエニの中ではその街や地域の光景が微細まで生々しく想像されているのだろう。男も相槌を打ちつつ、各々の地名毎にアドバイスを提供する。旅慣れているようであった。
「街を出たらもう戻る気はないの?」
「ないわ」
「その潔さ、若いねぇ」
「まだうら若き十七だもの」
「なるほど、若い。夢見る乙女ちゃんだ」
「あしながおじさんは現れないかしらね」
「白馬の王子様じゃなくて?」
「馬はあんまり好きじゃない」
「世間一般の王子様は、王子様になったらまず真っ先に白馬を買おうとするだろうに。札束握りしめてさ」
「そういうステレオタイプな王子様にはステレオタイプが好きな女の子がお似合いだわ」
「むかしむかしあるところに、で始まるような物語」
「きっと私は脇役その一か、悪役その一」
「一人のヒロインに対して、十の引き立て役の女の子がいる」
「一人の王子様に対して、十の家来の兵士がいる」
「華々しくいられるのはほんの一部だけ」
「脇役たちは身分相応の生き方だけを見つめるべきなのよ」
「夢を語る女の子とは思えないセリフだね」
「だからこうやって身分相応にこつこつお金を貯めて夢を買おうとしているんじゃない」
 夢、という語をエニは恥ずかしげもなく口にする。夢という言葉を口にして恥ずかしくなるのは得てして自分が臆病であるからなのだから、エニはよほど自分に自信があるのだろう。その根拠は子ども特有の思い込みの激しさではなく、エニ自身が積み重ねてきた努力の軌跡だ。少なくともこの瞬間、エニは僕の知らない物語を生きていた。
「眩しいねえ」
「あなたには感謝してるわ」
「そりゃどうも」


 席を立つ間際、男はエニに訊ねる。
「俺のこと、好き?」
 エニは真っ直ぐに男の目を見つめ、こう言った。
「ええ、好きよ」
「やれやれ。君はずるいな、ホント」
 二人は手を取り合い、店を後にする。


 二人と入れ違いに現れたのは緑のボレロの道化である。道化はじっと僕の顔を見つめ、反応を伺っている。その仮面の下の眼差しは、意地の悪い光を灯しているのだろうか。
 ――ねえ、今、どんな気持ち?
 しかしいつまで経っても僕の表情が屈辱に歪まないので、道化はぷいと顔を背けてしまう。
 道化の行き先はカウンターの奥だ。
 僕もその後を追う。
 道化は食器棚の戸を開くとそこから潜っていったので、僕もそれに続いた。


 七.


 再び長いトンネルを抜ければそこは駅のプラットホームである。単線の線路が一本だけ、彼方まで走っている。周囲は夕暮れで、痩せこけた肌色の砂地ばかりが広がっている。四方にわたってその様子だった。
 ホームの先端にあの道化がいた。駅帽を被って自分が運転手であることをアピールしている。二両編成の汽車が汽笛を鳴らし、間もなく発車することを予告する。しかし僕が一向に動く気配がなかったので、道化は腹を立てて汽笛をやかましく鳴らす。僕は汽車に乗り込む。
 汽車は一度だけ大きく震えると、やがて緩やかに加速していった。車輪の軋む音も、やがてリズミカルに線路を叩く音に変わる。
 夕日は水平線の縁に下辺を乗せたところで停止していた。右手に夕日を見ながら汽車は走る。
 乗客は僕一人だけであるようだった。四人席のコンパートメントを独占し、向かい合った席に足を投げ出す。窓の縁に頬杖を突く。
 窓の外は相変わらず砂地が続いていた。草の一本もなく、干からびた大地である。
 その光景があまりにも単調だったので、最初の変化が訪れた瞬間を僕は見逃してしまった。
 最初は岩陰かと思ったそれは、いつの間にかぽつぽつと目につくようになっており、よくよく目を凝らしてみれば墓標であった。形状は一本の棒のようであったが、その材質が木であるのか石であるのかはわからない。夕日を背にして影を帯びた墓標は真っ黒だった。長く伸びた影が太陽の高度の低さを物語る。夕日の赤と、影の黒に、僕は眩暈を覚える。
 やがて汽車は緩やかに速度を落とし始め、駅に停車する。墓標の影と砂地が、黒色と肌色の縞模様を作っていた。
 カタン、とタラップが鳴る。
 振り返れば現れたのはエニであった。その姿は僕の知っているそれに大分近しい。違いは、目の前のエニは隠しようもないほどの悲愴感を背負っているところだった。今にも泣きだしそうなところを必死で堪えているように見える。エニは僕を素通りにして、ちょうど僕の前のコンパートメントに身を沈ませた。
 エニを乗せた汽車は再び走り始める。黒色と肌色の縞模様が流れ始める。
 墓標は、走るにつれてますます増えていく。最初はぽつぽつとある程度だったものが、今や地表の三割が墓標であった。
 百を数える間に、墓標の割合は半分を越える。
 次の百を数える頃にはもはや肌色の砂地を探すことの方が難しくなっていた。
 墓標の数を数字で述べようとすれば、その桁数はいくつになるのだろう。無数、という表現はきっとありきたりだろうが、無数と言う他ない。あるいは、夥しい。生理的嫌悪を催す程に。
 今や墓標が砂地をぎっちりと覆っている。これ以上、墓標が突き刺さる余地はないように思われた。あまりにも整然と敷き詰められているので、黒い舞台のようでもあった。
 その舞台が、次第に盛り上がっていく。
 墓標の上に墓標が立つのだ。乱雑に、傾いで積み重ねられていく。ごみが重なっていくようにも見えた。
 窓から身を乗り出し進行方向を見てみれば、天にも届きそうな黒い壁がある。その全てが墓標であると気付くと、僕はそのまま咳込み嘔吐した。
 僕は窓を閉めるとブラインドを下ろし、窓の外の光景を遮断した。そのまま体を丸め、膝を抱える。寒気がした。耳を塞ぐ。目を瞑る。
 眠る。
 目が醒めて、あれは夢でした、と片付けられることを期待していた。


 そうして眠っている間はずっと目が醒めることを念じていたので、実際に目を醒ましてもまだ眠りの中にいる心地がした。
 体の節々が痛む。
 相変わらず汽車は走っていて、車輪はリズミカルに線路を叩いていた。
 ブラインドを上げる。
 真っ暗だった。
 ただしそれが夜の闇によるものではなく、墓標の影によるものだと気付くのにさほど時間はかからなかった。今や墓標群は汽車から数センチと離れていない。見上げれば墓標の壁は果てしない。


 墓標の壁は列車の左右にそびえ立つ。いつまで経っても途切れる気配がなく、かといって何か事態が進行する気配もないので、僕はうたた寝を繰り返す。寝ても、醒めても、墓標はそこにあった。
 悪夢であった。


 まったく、今回の“エピソード”はいつになったら終わるのだろう。


 膝を抱えて呟く。呟いてみてから、不意に内臓が深い谷の底に落ちていく錯覚を覚える。


 今、僕は何て言った?
「いつになったら終わるのだろう」?
 本当に、終わるのだろうか。


 気付いた可能性はたちまち蓋然性を高め、間もなく僕はその可能性しか考えられなくなる。
 汽車という密室に閉じ込められ、墓標群に閉じ込められ、終わらない夕暮れに閉じ込められている――そう考えたらもう息苦しさしか感じない。
 震える足腰で立ちあがる。バランスを崩したところを手すりに掴まって何とか堪える。
 這うように通路に出る。エニが僕のすぐ隣のコンパートメントの一席に座っている。エニは虚ろな瞳でしかししっかりと流れゆく墓標を見つめていた。その表情は、泣くのを堪えているというよりは、泣くための涙が涸れ果ててしまい途方に暮れているように見えた。
 エニにはもう立ち上がる気力もないのだろうか――その哀しさを慮りかけて気付く。エニの手首に黒錆びた鉄の輪が掛かっており、鉄の輪から連なる微細な鎖は汽車の内壁とつながっている。
 エニは捕われているのだ。
 その気付きに、僕は頭に血をのぼらせる。僕はエニを縛りつけるその錠に憤った。
 僕は憤慨の内に先頭車両へ赴き、運転席の扉を力いっぱい開く。
 全身緑色のボレロを来た道化が、運転席であぐらをかいていた。
「おい、お前」
 胸倉を掴んで引き寄せる。力の抜けた人形のように、道化の体は僕が揺さぶるままに揺れる。その揺さぶった拍子に道化の首筋が顕わになる。そこには無数の切り傷が横に走っているのが見えた。それらは決して細かい傷ではなく、むしろ一つ一つが、首が千切れかけたことを想像させるほどの深い切り傷である。この道化は過去に何度もその首を切り裂かれていたのだ。
 僕の手が止まると、道化は震える手で己の仮面に手を掛け外す。その下にあったのは、人の顔に見えた口である。目や鼻といった穴という穴に細かい無数の歯が生えているのか、そういう口が人の顔の形で配置されているのか。
 口ぐちはそれぞれが独立した意思を持つかのように動いている。しかし、それでも、よくよく見てみればそれぞれが一定の繰り返しの動きをしていた。何かの言葉を発するような動きである。
 僕はそれを理解したくなかった。しかし理解せざるを得なかった。
 い、え、え。
 に、げ、て。
 逃げて。
 僕が理解した刹那、口ぐちは一斉に大口を開けて笑い始めた。道化の体が爆ぜる。小さな蜘蛛となって散っていく。開け放した窓から吸い込まれる様に外へ飛び出していく。
 残ったのは力なくしなだれる緑のボレロであった。


 僕は運転席で十数分ほど機械を触った末にとうとうブレーキを発見する。
 汽車はけたたましい音を立てた末に停車する。
 扉を開けると目の前には墓標の壁がそびえ立っていた。僕はそれらに対して一礼した後に、足で蹴り押した。思いの他、墓標は軽かった。からからと音を立てて崩れた先に見えたのは花畑である。七色の小さな花が咲き乱れる花畑だった。
 僕は踵を返し、コンパートメントのエニを迎えに行く。
 エニは相変わらず呆けた風であったが、手首の鎖はもうぼろぼろで、エニを引き留める役割はとても果たせそうになかった。
「エニ」
 呼び掛けてみるが、反応はない。仕方ないので手を引いて立ち上がらせる。エニは幼児のように従順だった。
 外に出ると、辺りはもうほとんど夜になりかけていた。太陽の上辺の最後が今まさに沈もうとするところである。
 辺りは一面花畑であったが、前方に盛り上がる黒い影がある。見慣れたあの森だった。
 手を引いたエニがせわしなく辺りを見回し、一際大きな墓標の山を見つけると、僕の手を振りほどいてそちらへ駆けていってしまう。そしてエニは墓標の一つ一つを取り上げ、傍らに置いていく。
 その墓標の中に、エニの探し求めるものがあるのかを見届けるほどには、今の僕には時間がない。しかし、汽車から降りることができたのだから、もう大丈夫だろう。
 視線の先を、エニの背中から森へ向ける。
 ――エニ。
 名前を呼ぶと、不思議と力が湧いてくる気がした。
 小川を跨ぎ、森の前に立つ。
 振り返れば真っ平らな花畑が広がっている。


 八.


 暗くて長いトンネルを歩くとき、僕は可能な限りその先にあるもののことを考えないようにしている。代わりに、たとえどんなものが出口にあるとしても、できるだけ冷静に受け止めることを心がけている。僕がそのように考える前提には、一つには、僕の想像力が貧困なためにいくら想像しても想像通りのものが出てくることは稀であることがあり、そしてもう一つには、僕は必ずしも“賭け”をやっているわけではないことがある。つまり、出てきたものに対していかに対応するかが大事なのだ。想像や予想は、より有効な対応の準備を行うための手段に過ぎない。もちろんこれらはより良く事態に臨んでいく上では重要なプロセスではあるが、決してそれ自体が目的になることはあり得ない。真に重要なものが事態に対応するところにあるのだとすれば、少なくとも僕は、事前に正確な想像をする以外の手段も考えることができる。たとえば、頑として動じない構えを持つ、とか。
 暗がりを抜ければそこにはエニの住む家があるはずだった。森の中心の、ぽっかりと拓けた空間には、しかし、あるはずのエニの家はない。そこは草がまばらに生える空き地である。
 僕はエニの家が建っていた場所に寄る。
 しかし、唐突に、見えない壁に阻まれていることに気付いた。柔らかいカーテンのような膜があり、無理やり押し入ろうとすれば、ある一点で不意に両手が空を掻き、一定距離を挟んだ彼方の空間まで通過してしまうのだった。
 今朝方、エニが庭先に何かを埋めていたことを思い出す。
 それが何であったかはわからないけれども、埋めたものが魔術的媒介装置となって結界のようなものを作ったのだろうか。
 しかし、さしあたって仕組みの解明は問題ではない。理解しておかねばならないのは、ここにはエニが僕を拒絶する意思があることだ。少なからず傷つくところもあるけれど、エニにはもう僕を適度にあしらう余裕もないのではないかと推察すれば、僕が今までやってきたことはどんな意味や影響を持つものであれ無意味ではなかったことを理解できる。
 どうすればもう一度、エニと会話をすることができるのか。
 これを問う前に、いよいよはっきりさせておかなければならないことがある。


 僕は、エニを、あるいは、僕がエニと呼ぶものをどうしたいのか。


 僕はエニの心を土足で踏み荒らした挙句、拒絶までされている。僕はエニの歴史に対しては責任を負うところがあるわけでもない。僕とエニは本質的に無関係であるし、このまま無関係なまま生きて互いを忘れていくことだって十二分に可能だ。僕は生きていて、まだ若くて、僕自身が生まれ育った環境がある。
 好きだから、という言葉は自分の我儘勝手を正当化する理由に使って良いものではないと思う。好きだから、と言って自分の気持ちを押し付けるのも、好きだから、と言って相手を慮る建前で相手から逃げるのも、そこには相手の意思がないという点では同じことだ。
 だが、その当のエニ自身の意思が、僕を拒絶することであるならば、もうほとんど解は出たも同然だろう。
 でも、もしも、そうだとするならば。
 どうしてエニは髪を切ることを承諾したのだろうか。髪を切って綺麗になったことを褒めた時に、顔を背けて恥ずかしがったあの反応すら、エニが僕の願望を反映した結果のものなのだろうか。だとしたら、それはとても残酷な話だ。
 僕は何かの物語の主人公になって、ヒーロー気分を味わいたいわけではない。エニの全てを知りたいだなんて、ストーカーめいたことをやりたいわけでもない。もちろん好きであることを金科玉条にして、僕のすることを正当化したいわけじゃない。ましてや、僕のやることはエニの気分を害することだと言って、偽悪的であることに酔い痴れたいわけでもない。
 ならば、何か。僕は、ただ、こんな結界を張って拒絶して、それで済ませようとするエニのふざけた態度が、気に入らない。
 気に入らない、という言葉を使って僕はようやく自分が腹を立てていることに気付いた。
 最初の問いに立ち返ろう。
 僕はエニをどうしたいのか。
 僕は、エニを縛りつけるものの一切からエニを自由にしたいのだ。


 勇んでやって来たのは、森の中にある湖である。ここはよくエニと薪となる枝を拾いに来た場所であった。
 湖全体が、暗く沈んでいる。風がそよいでも水面はまったく揺らがない。
 湖に手を入れる。だが、そこに水の感触はなく、代わりに冷たく乾いた風が吹く感触がある。
 水面には白い空と黒い月が映っている。
 足を踏み入れる。腰まで浸かった辺りで、突然視界が反転する。やがて目眩は収まり、僕は裏側の世界に足を踏み入れた。


 九.


 裏側の世界には色というものがない。一切がモノトーンで統一されている。白いものは一点の汚れもなく澄み、黒いものもまたまったく不純なところもなくとにかく黒い。
 ここでは僕自身の体も黒色である。白い空に手をかざしてみて、かろうじて体の輪郭を確認できる。他の黒色に紛れてしまえば、黒色のうちのどこまでが自分の体であるのかがわからなくなってしまう。しかし地理的にはここは表の世界を投射したものであるので、ここは依然として森の中であった。木の根が隆起し、木の幹がある。気を付けて進まなければならなかった。
 辺りはまったく静かであったが、梢や、空を揺らすものがそこかしこにある。表の世界と比べればここはずっと混沌としており、ここにはエニの意識が届いていないようだった。
 空から、つつつ、と蜘蛛が垂れてくる。膨らんだ腹の背には無数の細かい白い歯を生やした口があり、逃げて、と呼び掛けている。
「逃げないよ」
 そう答えると蜘蛛の背は大口を開けて僕に飛びかかり、かばった右腕の一部を噛み切って逃げていく。噛み切られた部分は、噛み切られた形のまま失われたが、そこに痛みというものはなかった。あの蜘蛛も、紛れもなくエニの一部なのだ。
 歩くうちに自分の体が溶けてなくなって、意識だけのものになっていくような気分になってくる。


 森の中心に辿りつく。ぽっかりと拓けた空間の中央に、屋根の影が見える。
 家を囲むように白く細い輪が浮かんでいた。それは白黒の境界がはっきりとしたモノトーンの世界の中にあって、唯一、ぼんやりと曖昧な境界を持つものだった。近づいて見てみれば、それは細い糸のようであった。それらが数本単位で横に並んで浮かび、全体としては大きな輪を形成している。
 空間に手を伸ばしてみると、表の世界で触れた結界のように手のひらが柔らかいものに沈んでいく感触がした。
 そこで、今度は細い糸に手を伸ばしてみる。すると今度は呆気なく糸と掴むことができた。
 引き寄せ、手を開く。
 力なく垂れるそれはとても柔らかい。何となく鼻を寄せて匂いを嗅いでみると、椿油の匂いがした。


 家の中に入ると声が聞こえてくる。エニと、僕自身の声だ。場所は居間で、真っ暗で、エニはソファーに座り、“僕”は居間の入口に立っている。二年前の再現だ。


 ――何か探し物かしら。
 ――エニの日記を探してた。
 ――嫌よ、日記は誰にも読ませないから意味があるって言ったでしょう。
 ――僕はもっとエニのことが知りたい。
 ――全てを知ることとその人を理解することは同義じゃない。知らなくたって私を理解することはできるわ。君にその器があればの話だけど。
 ――でも。
 ――それに、君は一体私の何になりたいのかしら。ただ一人の大事な人? 冗談ね。第一、なんで私なのかしら。
 ――理由なんて必要ない! 気がついたらそうだった、それだけだ
 ――いいえ必要だしそれは理由にならないわ。思い出しなさい。君は私に誰の影を見ているの?
 ――僕が見ているのはエニだけだ。ずっと、最初から。
 ――まあ、何でもいいわ。君は私の日記を見れば満足するのでしょう。今すぐ私の部屋に行って、心行くまで見たらいいのだわ。
 ――日記は人に見せないから意味があるって――。
 ――今の君ならいずれ私の部屋に忍び込むことくらい予測がつくわ。でもよく肝に銘じなさい、他人の日記を読むには文字を解読できるだけじゃだめなの。記憶を共有できない人が読んだって、それはただの文字の羅列でしかないから。
 ――「子どもが迷いこんできた」「街まで買い物にでかけた」と同じように。
 ――そう。だから君に文字の羅列を見せたって日記を見せたことにはならないの。
 ――自信があるんだね。
 ――もちろん。私と君は同じ屋根の下で暮らしていても、見ているものや立っている場所は全然違うのよ。


 “僕”は力強い足取りで階段を登っていく。“僕”はエニの日記には全てが記されていると信じていた。
 僕は“僕”と入れ違いで居間に入る。
「やあ」
「こんばんは」
 エニの隣に腰掛ける。
「色々なものを見せられてきたけど、昔の自分というのはなかなか堪えるね」
「今の自分は昔とは違うみたいな口ぶりね」
「本質的なところは変わってないんだろう」
「変われないものよ」
「気質とか」
「信じる正義もね」
「エニ、僕は君に怒ってる」
「土下座でもしましょうか? お安い御用よ」
「遠慮しておくよ、そういう問題じゃないから」
「そうでしょうね」
 エニは本を読んでいる。ページをめくる。
「一つ訊いてもいいかしら」
「どうぞ」
「どうして、君はこの森にもう一度足を踏み入れたの?」
「けじめをつけたかった」
「二年前、体よく追い返されたのがそんなに癪だった?」
「良い気分で追い返されて、結局エニを取り残してきたことに気付かなかった自分の愚かさが癪だった」
「律儀ね」
「リベンジする機会をくれたエニもなかなか律儀だと思うよ」
「来る者拒まず去る者追わず」
「ただし自分に関係のない限りにおいては、という注釈が付くけれど」
「そうね」
「だからエニはあんな結界を張ったんだ」
「別に君を遠ざけるためだけじゃないわ――でもこうやって侵入されたんじゃ、結局形無しね」
 エニは肩をすくめた。
「びっくりした。髪を切ったら多少の何かはあるだろうって思っていたけど、家の二階にまで侵入されるとは思わなかった」
「あれだってエニの一部なんじゃないの?」
「野放しにしていい類のものじゃないわ」
「動揺した?」
「正直ね――自分がこんなに弱っていたなんて、気付かなかった」
「僕が髪を切って、なんて頼んだせいだ」
「そうね、君のせいだわ」
「でも、嫌じゃなかったんだろう」
「ええ」
「どうして」
「どうしてかしらね」
 エニは、その理由が本当にわかっていないようだった。なぜ、髪を切る気になったのか。その理由が何であれ、原因が僕にあるのならば、それ自体はやはり僕にとっては誇らしいものだ。
「けじめをつけに来たって話をするよ」
「なあに?」
「昔、僕には好きな人がいた。結局その人は、よその街の僕の知らない男のところに嫁いでいってしまった」
「大失恋ね」
「この前、その人の家に遊びに行ったんだ。子どもが生まれたから遊びに来い、とは前から言われてたんだけど、とうとう行ってきた」
「それで?」
「彼女の子どもはもう二歳になる男の子でね、とにかく元気いっぱいだったよ。彼女は最後に見た時よりも少し太っていた。旦那さんはすごく穏やかな人だった。ああ、この人たちはこうやって時間を重ねていくんだろうなあって思った。あの男の子も今は小さいけどきっとすぐにぐんぐん大きくなって」
「恋もするようになって」
「色々あるだろうけど、そうやって人生を過ごしていくんだろうなって」
「君だってそうでしょうに」
「そう、僕もね。そういうことを考えたら、なんて言うのかな、僕もちゃんと将来を生きようって思った」
「だから心残りを片付けに来たって話になるわけだ」
「そういうこと」
「だったら最初っから取り越し苦労だったわね。君がどうにかしなきゃいけない、あるいはどうにかできることなんて最初から何もなかった」
「そうだね」
「でも――ああ、やっとわかったわ――でも、私の方が君に夢を見たんだ」
「夢?」
「未来を生きる夢」
 エニは愛おしいものであるようにその言葉を口にする。エニは、その夢が叶わないと知っている。今からそれを叶えるには、エニはあまりにこの場に囚われすぎている。
「でも駄目ね。私“たち”はここに永く居過ぎた」
 エニはかぶりを振る。
「不条理って嫌ね。逆らっても逆らっても、逆らいきれないんだもの。君のせいで、忘れていたものを色々思い出してしまったわ」


 私たちは、多数派が生み出す不条理の前では無力だった。
 この世界の持ち主は、いつだってマジョリティ側の人たちよ。


 エニはため息をつき、立ち上がる。
「もう過ぎたことよ」
「エニ、僕は君のことを諦めない」
「せいぜい足掻けるだけ足掻くといいわ――ついてらっしゃい」


 十.


 エニが僕の前をすれ違った時、僕は咄嗟にエニの手を握っていた。視界のまったく利かない暗闇の中だからだったかもしれない、エニの手の冷たさが際立って感じられた。
「手、握っててもいい?」
「構わないわ」
「エニがどこにも行ってしまわないように」
「気休めね。私が行くと決めたらどうしようもないわ」
「今、そういう決意をしてないだけまだましだよ」
 エニは歩く。最初のうちこそ僕も家の見取り図を頭に描いて対応させようとしていたが、途中何度か段を上下したり廊下を曲がったりしてるうちに、すぐにわからなくなってしまった。足元もおぼつかなくなってくる。本当に自分が地面や床を踏んでいるのかも自信がなくなってくる。感覚の一切が曖昧になってくる中で、握ったエニの手の感触だけが、僕という意識がそこにあることの唯一の証明だった。
「ねえ、今ここで私が手を離したら、君はきっと途方に暮れて、私たちと同じになるしかなくなると思わない?」
「それは困るな。ちゃんと出口まで案内してもらわないと」
「君が勝手に飛び込んできたのにね」
「僕はゲストでエニはホスト」
「招かれざるゲストの世話はホストの責務の範疇外だわ」
「それでも、エニは優しいから」
「他の子もそうだとは限らないけどね」


「着いたわ」
 そこは窪地の中心だった。上空に円く切り取られた空がある。色は白。空を切り取る縁から棚田のような内壁が形成され、僕たちの足元にまで続いている。各段に、墓標が突き刺さり、一定の間隔で並んで僕たちを取り囲む。
「迫害から逃げて逃げて逃げて、ここまで辿りつけたのはほんの一部だった。私たちはここで互いを励まし合った。口にした言葉を十としたうちの、九は呪いの言葉で、一は希望の言葉。いつか報われる日が来るからって。でも何がどうなったら報われたことになるのかなんて怖くて問えない。答えがわからないんだもの。あの時、私たちから未来を奪った奴らを、可能な限りの無惨な方法で一人残らずぶち殺したって、きっと私たちはほんの少しだって報われなかった。土下座なんてされた日には、間違いなく火に油を注ぐようなものだったろうし。
 あんなばかげたことなんて、最初から起こるべきじゃなかったのよ。でも起きてしまった以上、私たちのような“魔女”が堕ちていって、そうでない人たちが恨まれていくのは、必然だった。誰にも止められなかったし、少なくとも私たち自身がこんな不毛な輪から脱することはできなかった。だって、私たちが奴らを“許し”たら、あの時未来を絶たれた私たちの絶望はどこに行ってしまうのかしら」
 エニは僕から手を離す。
「駄目だ、手を離すな」
「私たちは臆病なのよ、根本的に。一人ぼっちは嫌。抜け駆けは決して許さない」
「抜け駆け?」
「一人だけ過去を捨てて幸せになるなんて、ずるいじゃない。“私たち”はまだこんなに苦しいのに」
 エニは僕から離れ、僕は彼女がどこにいるのかわからなくなる。彼女たちは僕を取り巻き見下ろしている。
「そうか、君たちはそうやって互いの足を引っ張り合うわけだ」
「身内同士でそんなことをやってるんだもの。救われっこないわよね――さて、考えられる展開は全部で三つね。一、数え年で十半ばぽっちの君が、各々が過去数百年の怨嗟を抱える数十人の魂をまるっと受け止める。二、ここで私たちに喰われて、私たちの一瞬の慰みものになる。三、今までのことを全部なかったことにして、君は平穏で幸福な日常に戻る。どれがいい?」
 この期に及んで選択肢を提示するのだから、エニはやはり優しく律儀な人なのだと思う。そして、卑怯だ。
「選択肢をもう一つ忘れてるよ。君をこんなばかげた負の連鎖から引っこ抜いてここから逃げ出す……ねえ、そうだろう。マリータ」
 その名を呼んだ瞬間、どこからともなく冷たく乾いた風が吹きすさび、窪地の内壁を旋回して低くけたたましい音を立てる。“みんな”が話し掛けているのに、僕が“一人”に対して声を掛けたことに対する非難だ。
 今この瞬間、僕は決して負けてはならない。僕は声を張り上げる。
「君には夢があった。君はまだその夢をほんの少しだって叶えてないんだろう」
「そんなのもう全部手遅れだわ。それに、夢があったのは私だけじゃない、みんなだってそれぞれ持ってた。でも、私たちにはもう夢を叶えるための足がない」
「もうこんなばかな奴らことなんか放っておけばいいし、足なら作ればいい。マリータ、君の夢は何だ、その夢はこんな下らないことで諦めていいものだったのか。不自由に甘んじるな。何ものにだって君を縛る権利なんてあるわけがない。そんなもの、全部ぶち壊せよ」
 僕は未だに彼女、マリータの夢が何であるのかは知らない。しかし、その夢のためにマリータがどれだけのことをやってきたのかは知っている。緑色の道化はマリータの汚さを見せたつもりだったかもしれないが、僕は感動していたのだ。
 マリータは、陰気臭いバーで歌手の仕事をして金を稼ぎ、その金で夢を買うのだと目を輝かせた。マリータはそのために体を売ることだって厭わなかった。そうしてまで得た金や夢を汚いと貶めることは、少なくとも僕にはできない。
「マリータにできないなら僕がやる」
 一番近い墓標に寄り、手を掛ける。しかし、右の手では掴むことができなかった。いつの間にか、あの蜘蛛らに喰い尽くされていたのだった。だが幸いなことに左の手は残っていた。力を込めると、墓標はかすかに動いた。
「どうせ自分はもう報われないと思ってて、むしろ報われることを怖がっているんだろう。挙句、こうやってマリータの足を引っ張りさえする。なら、もういっそ消えてしまえばいいじゃないか」
「やめなさい」
 風が一際強く吹き、非難めいた轟音が鳴るのはその場の総意によるものだ。しかしそんなものはどうでもいい。僕が真に耳を傾けるべきなのは――。
 脇腹に鋭い痛みが走る。刺されたのか、殴られたのか、切られたのか、わからない。しかしその抵抗には明確な意思が込められていた。
「ふん、だったらせいぜい足掻けよ。死んだらそれっきりだなんて、誰が決めた――正直、僕には君らに未来があるかどうかなんてわからない。たぶんすごく無責任なことを言ってると思う。でも、未来を生きると決めた僕には、君らの未来を生きる気のない姿勢が我慢ならない」
 あるかどうかもわからない未来を生きろだなんて、ずいぶん無茶苦茶を言っているものだと改めて思う。でも、それでも、仲間の足を引っ張る現状がまともだとは思わない。
 同じ境遇の仲間の門出を祝えとまでは言うまい。しかし、せめて足を引っ張るな。
「“エニ”、僕はマリータをここから連れていく」
「君に責任なんて取れるわけがない」
「取るさ――僕は、マリータに夢を、可能性を約束する」
「口先だけよ」
「どんな約束もまずは口先から入るしかないだろう」
「そしてそれを信頼するかどうかは約束される側が決めることよ」
「そうだね――でも、来るんだろう?」
「マリータがいなくなった後の“私たち”はどうなるのかしら」
「さあ、どうだろう」
「自分勝手ね」
「取れないと分かっている責任にリップサービスをしないだけ、まだ誠実だと思うよ。でも、そんな暗い話でもないだろう?」
「途方に暮れているだけかもしれないけど」
「そうかもしれない――でも結局全部は、マリータの返事次第だよ」
「行かないって言ったらどうする気なの?」
「そんなはずはない。最初から諦めている人間が僕をこんなところまで連れてくるわけがないだろう」
「君は本当にばかね。自信過剰にもほどがある」
「御託はもういいよ。どうするのさ」
 マリータは暗がりの奥から現れ、僕の前に立つ。
「行くわ。でも、少しだけ時間を頂戴」
 マリータは僕に背を向け、胸に手を当てる。ながらく一つだったものとの決別は、容易ではないのだ。


 十一.


 再び僕は手を引かれて歩いていく。彼女はもうエニではなく、マリータだ。
 マリータは立ち止まり、扉を押し開く。隙間から目が眩むほどの朝日が差し込む。外はもう昼だった。
 扉の外はマリータの部屋だった。振り返れば、タンスがある。マリータが退治したエニの一部を放り込んだのもこのタンスだったことを思い出す。ここからも裏側の世界に繋がっていたのだ。
 僕らは泥の底に沈むように眠った。
 目が醒めると夕刻だった。僕らは夕食を食べ、食後はこの家を出ていくための準備を行った。準備と言っても持ち出すものはほとんどないので、実際のところはマリータが気持ちに整理をつけることがほとんどだった。
「もういいわ」
 僕らは玄関を後にし、振り返って家を見上げる。
 マリータが肩から提げた鞄からマッチを取り出す。やすりで燐を擦る。一瞬だけ大きく燃え上がった火がちろちろと先端で踊る。その火を、マリータは玄関の木の戸に移す。たちまち火は炎へ成長する。
「いいの?」
「構わないわ」
「日記とか、色々あっただろう」
「持ち出すには重すぎるものだから」
「そうか」
 炎に照らされたマリータの横顔は、清々しいと呼ぶには程遠いものだった。
「ジェシカはパン屋の看板娘で、自分が作ったパンをたくさんの人に食べてもらうのが夢だった。リコは口ぶりも振る舞いもとても男勝りだったけど、本当は誰よりも女の子らしくて、好きな人のことを話すときは本当に嬉しそうだった。みんな、自分の叶えたかったことや叶わなかったことを語りながら亡くなっていったわ。一人、また一人。私は、そうやってみんなを看取っていった。亡くなる度に、私はこの世の不条理を呪ったわ。どうしてこんなことがまかり通るのかって。そして、あの子たちの無念さや自分の怒りとか悔しさは、絶対に、忘れちゃいけないって思った。もしも私が忘れたら一体誰が、かつて確かにあの子たちが存在したことを証明するのか。私しかいないでしょう」
 マリータは僕の顔を見る。
「ねえ、私はそういうこと、全部忘れないでいられるかしら。たとえある一瞬は忘れてしまったとしても、そういう期間があったことであの子たちの魂が損なわれることってないのかしら。私は怖いの。いつか全部忘れてなかったことになるのが。ね、未来を生きるってとても素敵なことよ。でもそれは、過去の記憶を忘れたり無かったことにしたりしてまで求める価値のあるものなのかしら」
 時間は時に残酷であるけれど、総じて優しい。そういうものだ。しかしそれがただちに受け入れられるものであるかどうかは別の話だろう。ただし僕のまったく個人的な感想で言えば、きっとマリータは失意の内に亡くなっていった少女たちがいたことを決して忘れないし、彼女たちの気持ちの強さはほんの少しだって割り引かれることはないだろう。その点において、過去を大事にすることと未来を生きることは同時に成立することができるのだと思う。
 マリータは賢い人だから、そんなことはわざわざ僕が言う間でもないのだろう。
 その油断を、マリータは見逃さない。
「そういうときは見当はずれでもいいから何かコメントするものじゃないかしら」
「きっと大丈夫だよ」
「まあ、そう言うしかないわね」
 マリータは笑い、肩の辺りで切り揃えられた髪が踊る。


 長い間、僕らは家が燃えていく様子を見ていた。柱が折れ梁が落ちる様や、その度に火の粉が星空に吸い込まれていくのを見た。
 家があらかた燃え尽きてからは、かすかに燻ぶる木片を眺めた。
 それもすっかり消し炭になってしまうと、僕らは肩を寄せ合って朝を待った。


 夜明けを確かめてから僕らは森を出る。
「二年前を思い出すね」
「あのとき君は出て行って、私は留まった」
「僕は体よく追い出され、マリータはせいせいした気持ちでいた」
「そうね――私自身は出られもしなかったし」
「今度はどうだろうね」
「出た瞬間に溶けてなくなったりして」
「境界を跨ぐんだ、それくらいのリスクは負わないと」
「私がそうなったら君が泣いてしまうわ」
「だから君はこの賭けに勝たないといけない」
「誰がこのゲームのディーラーなのかしらね」
「公平で無慈悲で、たくさんの少女がつまらない理由で殺されている時でさえのんきに下界を眺めておわせられた神様だ」
「彼は木偶の坊でその目は節穴ね。負ける理由がないじゃない」
 最初に僕が森を出る。振り返り、マリータに手を差し伸べる。マリータは僕の手を取り、足を持ち上げ、そうっと前に踏み出した。
 そのつま先は呆気なく草を踏む。
「出られたわ」
「おめでとう」
「こんなことならもっと早く出ていれば良かったわね」
「まったくだ」


 別れ際、僕が握手を求めるとマリータは快く応じてくれた。
「握手ついでに――ねえ、もう僕のことを名前で呼んでくれてもいいだろう」
「嫌よ」
「どうして」
「今さら恥ずかしいもの」
「名前は特別だから?」
「そうよ」
「マリータは時々どうでもいいことにこだわるよね」
「気質だから」
「それと正義はなかなか変わらない?」
「そういうものよ」


 十二.


 以下は後日談である。取り立てて特別なこともないので、簡単に述べていくことにしよう。
 まず、僕は、夏休みが終わる前にもう一度、あのわんぱく坊主のところに行くことになった。手紙が届き、少年が僕の再来を心待ちにしていることが記されていた。
 マリータは、汽車に乗って旅立っていった。亡くなった少女たち一人一人の墓を作ることと、マリータ自身に縁があった人たちの軌跡を追うことが目的だと彼女は言った。その後の予定は聞いていない。旅費に関しては元々マリータあるいはエニ自身がある程度の蓄えを持っており、さらに彼女の言葉を借りれば、「行った先で大道芸の一つでもすればいい」ということだった。


 最後に僕は一つの考察をしなければならない。
 果たして今回もまた、僕は“体よく追い返された”のではないのだろうか。
 結論から述べれば、おそらくその可能性はないだろうと自負している。その根拠は、今回はマリータという明らかな戦果があることだ。僕はやり取りを通じて“エニ”からマリータを引き剥がすことに成功した。もうマリータは自由である。そして、彼女は、週に一度は手紙を寄こしてくれる。封筒に大きく押された判子は行く先々の街のものだった。
 しかし、おそらくではあるが、再び森に入れば、相変わらず“エニ”がいて、“エニ”はジャムを煮詰めたり傾いだ柱を立て直そうとしたりしているのだと思う。“エニ”は数日に一度は街に赴き、そこで日用品を買い、図書館で本を読み、喫茶店で借りた本を読んでいるのだろう。ちゃんと税金も納めるだろう。そして現代に魔女を求める人たちに対しては、礼儀正しい振る舞いで応対し、一晩頭をよくよく冷やしてからお引き取りしていただくようお願い申し上げるのだろう。
 ただしその中に、もうマリータという人はいない。
 いつか再び僕のようなもの好きが現れて半ば無理やりな手段を講じた結果、一人また一人と“エニ”から独立する人が現れ、各々が新たな未来を生きていくことが可能になるのだろうか。
 そうして最後の一人が解放されるその日が、いつかきっと来るのだと願いたい。
それまでの間は、あの森では不思議な人たちが暮らし続けるのだろう。


***


34,112字 2011年9月5日