2021年12月18日土曜日

砂漠の幻葬団(2. 流者)

 

  砂漠の幻葬団

 

   二.流者

 

 何故、人は『何故』と問い、理由を求めるのだろうか。理解し納得することは安心や喜び、満足などをもたらすが、突き詰めて言えば、その理由は本能に帰結する。人として生まれた以上、数多の知識を得てより高い視点に立ち、誰よりも彼方の地平の先を見たいと思うことは、根源的な欲求である。少なくともルシャにとっては、これが自身を支配する行動原理だった。いつからそうだったのかと問われれば、ルシャはこう答えるだろう。最初からだ、と。

 人が抱きうるありとあらゆる問いの中で、最も多くの人々の関心を引き、尚且つ解を得ることが困難なものは何か。それは、死後のことである。この世に生を受けた者は例外なくいずれ死を迎えるというのに、死んだ後のことは誰も何も知らない。この世には数多の宗教があり、いずれももっともらしい言説を唱えているが、その真偽は人類史が始まって以来未だ明らかになっていない。何故か。生から死へは常に一方通行だからだ。死の扉を開けることは容易いが、一度開けたら最後、何人たりとも引き返すことはできない。死後に何があるのかを報告する人も記録もないので、死後の世界は謎に包まれている。これほど身近にありながら正体がまるで明らかになっていないというのは、実に魅惑的だ。ルシャが死の虜になるのは必然だったと言えるだろう。

 

 物心がついた頃から、砂漠の娼館がルシャの家だった。女が中心となる世界だが、そこにルシャの実母はいない。実母が誰かも知らない。何人かいた似た境遇の孤児たちと一緒にルシャは育った。そこで育った孤児たちは、男児であればやがて娼館の小間使いか用心棒となり、女児であれば娼婦となるのが常である。子供たちは娼館の外に世界があることを知っていても、そこで生きる術は知らない。年上の兄さんたちや姉さんたちは、皆そうして生きてきた。

 孤児たちに言葉を教えたのは大婆と呼ばれる年老いた元娼婦だった。その娼館では三十歳を過ぎると客を取るのが難しくなり、三十五歳を過ぎればもはや娼館内に居場所がないのが普通なのだが、その大婆は五十歳を過ぎるまで数多の贔屓の良客を抱えていたという。

 何故彼女がその年まで娼婦として現役として活躍できたのか。答えはその知識と話術である。彼女は客から聞いた話や譲り受けた本を漏れなく記憶し、さらに、得た知識と知識を紐づけ演繹的に導出される確定的事実を踏まえることで、娼館に居ながらして地域の情勢や数多の自然法則など世界のあらゆることに精通していた。その知識を言葉巧みに物語に仕立て上げて語ることで客を楽しませていたのだ。時を重ねるごとに肉体は衰えるが、彼女の知識と話術はむしろ冴えわたるようになり、客たちの心を掴んで離さなかった。

 そんな昔話を年老いた大婆はルシャたちに聞かせ、最後にこう締め括るのだ。

「お前たちも必死で頭も働かせれば、私みたいに長生きできるんだ。男も女もみんなね、馬鹿な奴から死んでいくんだよ」

 客から性病をもらって娼婦として働けなくなった数多の女たち。取り入る相手を間違えて居場所を失った小間使いたち。あるいは相手の実力を見誤り、返り討ちにされた用心棒たち。大婆は早死にしていった者たちの名前を一人ずつ挙げていき、彼らがいかに愚かだったかをぶつぶつと呟く。そんな呟きを真面目に聞く必要はないので、孤児たちはそそくさと教室を後にするのだが、ルシャがそうしようとすると大婆に咎められるので、ルシャだけはじっと耳を傾けている。

 野生の世界では一度の失敗が命取りとなるように、娼館の世界でもたった一度のつまらない失敗で命を落としてしまうことは日常茶飯事であった。もっとも、他人の失敗に対して後から批評することは容易いが、判断の際にその選択が誤りであることが見えていないからこそ、誰も彼もが道を踏み外してきたのだ。もう少し思慮深ければ、過去の失敗例を知っていれば、避けられた不幸だっただろうに。しかし馬鹿どもは馬鹿であるが故にそれを怠ったのだ。目先の快楽に溺れ、研鑽を怠ったが故の、当然の結末である。人生には数多の分岐路があり、どの道も先は暗闇に閉ざされているが正解の道は常に一つである。か細く正しい道筋を照らすのは知恵という名の光なのである。

「ルシャ。お前は子供たちの中でも人一倍賢い子だ。きっとお前は私みたいに長生きするだろうよ」

 そう言って大婆はルシャの頭を撫でたが、その手は皺枯れて震えており、死の気配は確実に大婆の背後ににじり寄ってきていた。

 ルシャが数え年で十二を迎える頃から大婆は妄執に取りつかれるようになり、十三を過ぎた頃にはすっかり現実と妄想の区別がつかなくなっていた。そして十四のときにとうとう大婆は死んだ。最期は娼館の階段から転げ落ちて頭が割れるというものだった。ついに彼女は死から逃れることはできなかった。叡智の光が照らした道筋は細く細く伸び続けた結果、最後には途切れていたのだ。

 かつては賢者として敬愛された大婆だったが、晩年の奇行のせいで彼女の死を悼む者はほとんどいなかった。死体は葬られることなく生ごみ同様に扱われ、ごみ捨て場に捨てられた後は焼かれたか埋められたか、その行く末をルシャは知らない。

 

 さて時の針は少し巻き戻り、まだ大婆が呆けておらず、ルシャが数え年で十だった頃のことである。ルシャは高熱の病に侵され死にかけていた。原因は不明、五日経っても症状は悪化するばかりで、故に有効な手立ても見えない状況だった。医者は早々に匙を投げ、周りの大人たちも病をうつされてはかなわんとルシャを遠ざけた。それを見た子供たちも大人たちを真似て一切ルシャには近づこうとはしなかった。

 一人部屋の中、ルシャは意識が朦朧として何も考えられない。ただ漠然と、自分はこのまま死んでいくのだろうと感じていた。 大婆は「きっとお前は私みたいに長生きするだろう」と言っていたが、どうやらその予言は外れそうだ。

 死んだらどうなるのだろう。ルシャの知る死者はいつだって寂しく打ち捨てられていた。砂漠の真ん中に放り捨てられて、そのまま砂風に晒されるのだろうか、鼠に足を齧られたり鳥に目玉を突かれたりするのだろうか、そしてそのまま己という存在が消え失せていくのだろうか――怖かった。からっぽな穴に落ちていくようで、もう二度と戻ってこれないのが怖かった。ここはろくでもない場所だけど、命が惜しくないと思うほどには絶望していない。生き延びてやりたいことがあるわけでもなくとも、それでも、理由もなく死ぬのは怖かった。

 かみさま――もしもかみさまがいるのなら、私を助けてください。助けてくれるなら、何でも差し上げます……。

「ほう、何でもと言ったね」

 聞きなれた皺枯れた声。ずっと瞼は開いていたつもりだったが、ようやく頭が大婆の存在を認識したらしい。

「手に負えないと思ったら放ったらかしか。まったく酷い奴らだね。可哀想に、ルシャや。お前ほど賢い子でも運のなさには勝てないものだね」

 大婆様、助けて……。

「おっと、勘違いしないでおくれよ。私はお医者様じゃない。そのお医者様が駄目だと言ったのだから、お前はきっともう駄目なんだよ。私みたいなただの婆にできることなんざありゃしないよ。

 かかか、おそろしいか、怖いか。そうだろう、そうだろうねえ。でも、これがお前の運命なんだよ。諦めな。せめてお前がくたばるまで、私がそばに居てやろう。どんなに賢くても運が悪ければ死んでしまう、ということをこの目で確かめてやろうじゃないか」

 そう言って大婆はルシャの額の手ぬぐいを、新しく水で冷やしたものと取り換えた。小さく千切った柘榴をルシャの唇に当て、それからチーズをひと欠片口に押し込んだ。そんな介抱を一日に五度か六度ほど行い、その度に「お前はもうすぐ死んでしまうのだ、可哀想に、可哀想に」と呪いのように囁いた。

 死を目前に夢と現の間を往復していると、ルシャは自分の中にある魂の輪郭を感じられるようになる。暗黒の宇宙の中に浮かぶ茜色の小さな塊がルシャである。死が余計なものを削り取ったおかげで、今やその輪郭はくっきりと浮かび上がり、これ以上なく純度の高い魂となっていた。死の恐怖に精神を削がれてもなお最後まで残ったルシャの本質、それはすなわち自由であること。それこそが自分自身であることを悟った。ルシャは自分を束縛する一切のものを否定する。あらゆる理不尽に抵抗し、憤る。それがたとえ運命と呼ばれるような、人智を超えたものであったとしてもだ。

 なぜ私はこんなところで死ななければならないのか?

 その問いに対峙した時点で答えは出ていた。これが何人に一人がかかる病なのかは知らないが、自分が望んでその一人になった覚えがない以上、運命や運のなさといった思考放棄に陥る気はない。故に、ここで自分が死ぬこと自体が間違っている。ただし「かみさま」はルシャに理不尽を強いた側だ。医者も、周りの大人も、子どもたちも、自分を見放した側だ。頼れるのは自分しかいない。ルシャは自分の全存在を賭けて、この理不尽に抗わなければならない。

 ――かかか、そうだそうだ。賢さなんざそれ自体はただの張りぼてだ。内側に無尽の欲を抱えてこそ、それは初めて役に立つ。自分の欲を満たすという役に、ね……。

 はたして大婆が本当にそう言ったのかはわからないが、ルシャが死の淵から這い戻ると、大婆はじっとルシャの瞳を覗き込んでいた。

「戻ってこれたか。悪運の強い子だね。しかしそれもまた才能というやつだ。大事におしよ」

 ようやく上体を起こすことができるくらいまで回復した頃になって、大婆はおもむろに昔話を始めた。まだ十代だった頃に、彼女も大病を患い生死の境を彷徨ったのだという。寝て覚める度に、自分がまだ生きていることを確かめるために、心臓に手を当て百まで脈を数えた。そしてこう思ったのだという。

「こんなところで死んでなるものか、生きて、生き延びて、それで私を見捨てた連中を今度は私が見捨ててやるんだ、ってね。誰も自分のことなんか助けちゃくれない。この世で頼れる確かなものは、自分だけだ」

 だからお前は誰よりも強く賢くあらねばならないんだよ。

 大婆は魂の同士を得たかのような目でルシャを見つめたが、ルシャ自身は言葉にし難い違和感を覚えていた。しかしその正体が何であるかを言語化するにはまだルシャは幼かった。

 

 大婆が遺していった大量の書物は、結局ルシャが引き取ることになった。娼館の人々にとって大婆が遺した書物とは、彼女が打ち立てた功績の源泉となるものであったが、自分たちの手には余るもので、そのくせ煮ても焼いても食えず、買い取ってくれる商人もいないものだった。焼き払ってしまうことが一番簡単な処分方法であるとわかっていたが、簡単にそうしてしまっていいような代物ではないことくらいは、学ぶことを諦めた連中でもさすがに理解できたようだ。では、誰ならばあの紙の束を有効活用できるだろうか。大婆の最良の弟子たるルシャに委ねるのが良いだろう。そう結論付けられるのは必然だったと言えよう。

 かくして齢十四にしてルシャは娼館の中でもっとも上等な個室を得ることになった。そのせいで姉さんたちにはずいぶんいじめられることになったのだが、大量の知識に囲まれる生活の有難味に比べれば取るに足らないことである。

 壁を埋め尽くす十台の本棚にはほとんど隙間なく書物が詰め込まれていた。古今東西の自然科学、歴史、文化、芸能など、内容に選り好みの痕跡は見られなかった。基準は世界の在り様を明らかにするものであるか否か、ただそれだけである。これらは大婆が人生をかけて集めてきたものだった。数多の男たちが、大婆の気を惹こうとして貢いだのだろうが、彼女のお眼鏡にかなったものだけが本棚に居場所を得ることができたのだった。

 手に取った書物の全てに大婆の注釈やメモがそこかしこに記入されていた。そこから窺い知れる彼女の思考は一貫して、いかに世界の仕組みを明らかにするかに向けられていた。しかしその動機は、彼女がかつて述べたところの「私を見捨てた連中」への復讐であり、何をどう語れば客どもが喜ぶかを考察する記述も多々見受けられた。良客を抱えて娼館一の稼ぎ頭になれば周囲から尊敬もされるだろうし、事実彼女はそうだった。しかしせっかくの知識を復讐のために使うのはとてもつまらないことだとルシャは思うが、大婆にとってはつまらなくない大事なことだったのだろうとも思う。どうしたって自分が大婆と同じにはならないだろうと悟るのは、そういう時だ。

 大婆と同じにならないのであれば、自分は一体何者になるのだろうか――茫洋たる知識の大海を泳ぎながら考えるが、ついぞ答えは得られない。ただ、「私は私にしかならない」ことだけがわかっていた。少なくとも、ルシャは知識をただの道具のようには扱わない。

 まだ大婆が健在だった頃、彼女が教室でルシャたちに語って聞かせた世界の在り様は、数多の法則が織り糸の如く縦横に交差する一枚の巨大なタペストリーのようだった。近づいて見てみればミニアチュールのように小さな法則の一つ一つが絡み合って事象を形成しているが、一方で、引いて見てみれば破綻も無駄もない完璧な一枚絵がそこにある。調和と秩序によって裏打ちされた美しさは、幼いルシャの心を十二分に掴んだものだ。そんな美しいものをどうしてただの道具のように扱えようものか。

 姉さんたちが客と行為に及んでいる間の真夜中に、ランプの灯りを頼りにページを捲る。その時だけは、窓から香る甘ったるい匂いも気にならなかった。

 

 十六になり、ルシャは初めての客を取った。しかしその客は記憶にも残らない男だった。かろうじて、貧相な体の弱気な青年だったことだけは覚えている。商家の三男坊だったか。使い慣れない口説き文句でルシャの容姿を褒めていたような気もするが、何と言っていたのかは思い出せないし、そもそも記憶に留めておく気すらなかった。

 それから何人かの客を取っていくうちに、ルシャはいくつかのことに気付いた。一つ目、男とは存外純朴な生き物らしく、下手な口説き文句でもルシャが微笑んで「嬉しい」と言うと、二歳か三歳の子供よりも素直に鵜呑みにすること。二つ目、何を根拠としているのかは知らないが、ルシャよりも自分の方が優れた存在だと信じて疑わないこと。そして三つ目、彼らにとっての世界とは目に見える範囲のことしか指さないということ。ルシャの倍以上長生きしていてもその程度のことしか知らず考えないというのは、驚き呆れることではあったが、娼館で生きる姉さんや兄さんたちのことを思えば、むしろそれが普通のことなのだろうと合点が行った。あの大婆ですら、魂の品格という点でいえば彼らと大差なかったのだから。ほんの少しでも甘い期待を抱いていた自分と決別することができた、という意味では必要な学びだったと言えるのかもしれない。

 近頃は娼館が狭く感じられるようになってきた。娼館は鳥籠に似て、中にいる間はやり方を間違えない限り平和だが、自由はない。窓の外は、いくつかの建物を除けば、ただ空と砂漠が広がるのみであるが、それが世界の全てではないことをルシャは知っている。その彼方には広大な世界があることを知っている。自分とは異なる人種の人々がおり、異なる文化が栄えていることを知っている。しかしそれらは大婆がそう語ったから、大婆の遺した書物にそう書いてあったから知っているだけで、ルシャが自分の目で確かめたわけではない。

 ルシャは想像する。空の下、大手を広げて歩く自分を。五感の全てで未知の世界を体験し、見知らぬ人々と語り合う。魅惑的な話を聞く代価は自分が持つ知識を披露することであり、決して自分自身の体ではない。広い世界のどこかには知識とはそれ自体が貴ぶべきものであると理解している人がいるはずで、そういう人と出会えたらどんなに素晴らしいことだろう。そうでなくても、せめて、自分の外見ではなく内面に関心を払ってくれる人がいたらどんなに。

 思いがけずか弱い自分を発見し、まだ可愛いところもあるものだと感心するが、それは同時に忌むべきものでもある。しかし存在を否定すべきものではない。認識し、超越すべきものである。

「十八歳。そのときまでに、一人で生きていくためのものの全てを手に入れる」

 悲痛な声で泣き叫ぶ自分の中の自分に言い聞かせるように、ルシャは呟いた。自分を買い取るだけの金とそれに代わる金目の宝石等、広い砂漠を旅するための知識と装備、そして自分が最期まで自分自身であるための揺るぎない意思と覚悟。そのためには、大婆の遺した知識は残らず自分のものにして、自分の手足として使えるようにならなければならない。

 そう考えれば残された時間は決して長くないし、心の痛みに苦しんでいる時間すら惜しい。ルシャは読みかけていた本と向き合い、大婆の注釈を咀嚼しながら文章を読み進めていく。言葉の一つ一つがルシャに浸透して血肉となる。

 

 

 ルシャが十七歳と少しになった頃にルシャの運命を変えることなる男はやってきた。男はぼろぼろのマントを頭からかぶっていた。浮浪者だろうか。番をしていた兄さんなら追い払うはずだが、何やら上機嫌で男を館内に連れてきた。ルシャは吹き抜けの受付場を五階の欄干から見ていた。

「一晩泊まらせてほしい。代金はこれで足りるだろうか」

 ドン、と重い響きを伴わせて金の詰まった袋を台の上に置く。なるほど、兄さんもいくらか握らせてもらえたのだろう、とルシャは合点がいった。娼館の長を務める婆も気味が悪いほどに愛想の良く甘ったるい声を出す。

「どんな娘をご所望で」

「大人しくて口数の少ない娘がいい」

「左様でございますか、ええ、ではすぐに向かわせますので、部屋でお待ちください」

 ルシャは身支度を整えるべく自室に戻る。あのような客は姉さんたちが最も警戒する類のものなので、必然的にルシャが相手をすることになる。身なりに似合わない大金は大抵の場合汚れているものだ。

「ルシャ、お客様だよ。大人しくて口数の少ない小娘をご所望だ」

 そう振舞えと言われて振舞うぐらい造作もないことだ。気弱で小動物のような小娘がこの世界で生きていけるはずなどないのだが、客が望むのならばそれに合わせるのも仕事である。

 

 ルシャが部屋の前に着くと、ちょうど湯運びの妹と入れ違いになったところだった。

「お疲れ様」

 妹は小さく頭を下げて去っていった。彼女がまだ幼い頃には、ルシャがおしめを替えてやったこともある。

 さて。深呼吸をして、気持ちを整える。大人しくて口数の少ない娘の皮をかぶる。そのような娘ならば、するであろうこと、言葉づかい、反応を想像し、態度で形にする。

「失礼します」

 いつもより少し高めの、小さな声色で声をかけ、部屋の中に入る。男はぼろのマントを床に放り捨て、布で自分の体を拭っているところだった。赤銅色の肌、白髪、顔全体に深く刻まれた皺はまさしく老人なのだが、首から下の肉体は無駄なく鍛え上げられており、顔つきよりもずっと若いことを想像させる。長くなった無精髭はそれだけ長旅をしてきた証拠なのだろう。

「来てもらったところ申し訳ないが、貴女にやってほしいことは何もない。強いて言えば、何もしないことを頼みたい」

 何もしないとは何か。

 すなわち行為をしないことはもちろん、何も訊ねず、しかし部屋からも去らず、ただそこに居ること。部屋の外の監視役たちの目を騙し、滞りなく行為がなされているように見せかけ、普通の客を装うこと。そうして彼に自分一人の時間を作らせること。寝るか、何か作業をするかまでは図りかねるが、いずれにせよルシャに期待されているのはそのようなことなのだろう。ただし、そのような時間と空間は、彼にとっては大金を払う価値のあるもののようだった。

「承知しました。では窓辺の席だけお借りしますね」

「なるほど、貴女はずいぶん聡い人のようだ。話が早くて助かる」

「何か飲み物や食べ物が必要になったらどうぞ遠慮なく申し付けください」

「貴女も自分の欲しいものがあれば用意するといい」

「お気遣いいただきありがとうございます」

 男は黙々と湯と布で体を清めていく。ナイフを剃刀代わりにして、器用に髭を剃っていく。長く伸びた髪を紐で一本にまとめて結い上げれば、険しい眼光の奥に澄んだ理知の片鱗が見えるようになる。

「若い娘さんにじろじろと見られるのは恥ずかしいものだな」

 言われて初めてルシャは男を凝視していたことに気付き、慌てて目を逸らした。

 男は灯りを消すと、そのまま寝入ってしまった。男の寝息は静かであった。

 娼館に来て行為に及ばない客というのは決して珍しいことではなかった。宿代わりに娼館を使う場合もあるし、客自身が肉体的に不能で雰囲気だけ味わいに来る場合もあるし、あるいは何か預かり物や伝言を頼まれる場合がないこともない。理由が何であれ、客の事情に干渉しないのはルシャたちにとって確実に守るべき教訓のひとつである。しかしこの男の場合、宿代わりに娼館を使っているのだが、振舞いは今まで見てきたどの客よりも上品であり、口ぶりの端々から知性がにじみ出ている。

 この人は一体何者なのだろう。

 寝息が深いことを確かめて、ルシャはそっと立ち上がる。顔が月明かりから隠れたところにあるせいで、顔つきはよく見えない。荷物は大きな革袋が一つ、遠目にもずいぶん年季が入っているのがわかる。客に興味を持たないのは娼館で長生きするための知恵であるが、一度芽生えた好奇心はすくすくと育っていく。この人はどのような世界で生きている人なのだろう。

「貴女は口数こそ少ないが、大人しくはないようだ」

 目を閉じたまま、小さいがはっきりとした声で男は言った。

「私のような客は、たしかに変わっているかもしれないが、別に珍しくはないだろう」

「貴方ほど自分を特別と思わないお客様は珍しいですよ」

「なるほど、それはそうかもしれない。いや、貴女がそう言うのならそうなのだろう」

 男は身を起こすと、これまでの自分の旅路を語りだした。合間を見て「なぜ突然そんな話を」とルシャが訊けば「貴女の顔にそう書いてあったから」と事も無げに答える。別に隠すようなことでもないからね。と添えて。

 男は魔術師だった。東の国から西の国へ渡る途中だったという。知人の紹介で西の国のとある侯爵に招聘されるのだそうだ。彼は星天の位相からその人の運命を予知し、伝えることができる。運命が見えない人にとってはそれだけでも十分に価値ある情報だが、しかしそれだけではただの占星術師でしかない。男が魔術師である所以は、運命を読み取ることに加えて、魔術の力で星天の配置を操作し、人の運命を変えることができる点にある。その人が巨万の富を望むのならばそのように星天の位相を変えてやればいいし、戦での勝利を願うならばその未来に導けるようにしてやればいい。

「では、貴方は自分の未来も望むがままにできるのですね」

「この魔術は自分には使うことができないものなのだよ。世界というのは実にうまくできている。法則を知ることは、本当の意味での魔法の力を失うことなのだ」

「あら、そういうものですか」

 法則、すなわち世界を動かす仕組みを知らない人にとっては魔法であり、知っている人にとっては魔法ではない。魔法ではないそれはつまり彼のみが知っている知識や知恵である。

「もし法則を知ることができたのならば、それは他のあらゆる望みも及ばないほど幸せなことなのでしょうね」

「ほう、貴女はそう思うのか」

 顔を近づけ問いかける男の目がルシャの中にある何かを確かめようとしている。ルシャは思わず後ずさりしたが、そのことに気付かないほど無意識的な反応だった。

 どう返事をするかで、ルシャの運命は大きく分かれるだろう。

 そう直観的に予感した。ほんの一瞬だけたじろいだものの、しかし返すべき答えは揺るがない。思えば高熱で死にかけたあの日から、ルシャが進むべき道は決まっていて、あとはそれをどう歩くかだけが人生で考えるべきことだった。ルシャは唾をのみ込み、唇を開く。

「はい」

「ふむ、そうか、そうか――そうだとするならば、さぞかしここは生きにくい場所だろうね。貴女のような人が何も思わないわけがないだろうから」

 それは男の率直な感想だったのだが、岩に水が浸みるようにルシャの心に響いていく。生きにくい、ああ確かにそうだ、ずっと感じてきたあの感覚はそう表現すればよかったのか――しかし、こういうときほど自分の心を無防備にしてはならないのだ。いつでも逃げられるように退路だけは確保しておかなければならない。勘の良い娼婦が男の望む答えを口にしているだけである可能性を捨てさせてはならない。

 そんなルシャの葛藤すらも男は見抜き、そして気付かないふりをしてくれる。ルシャはついに観念する。今の自分はこの人には敵わない、と。この人に嘘やごまかしは通用しない。

「――実は、十八になったらここを出ていこうと考えています」

「なぜ十八歳まで待つ必要がある?」

「小娘一人が鳥籠を出て生きていくためには相応の備えが必要でしょうから」

「はたして本当にそうだろうか。どんな備えをしても死ぬときは死ぬだろう。金も尽きればおしまいだ。貴女もそれがわかっているから、とりあえず十八歳までは我慢しようなどと自分に嘘をついてごまかしているのだね」

「嘘だなんて」

「では十八歳までに具体的に何をどれだけ準備するつもりだったのだろうね。路銀はいくら用意して、尽きた後はどう生計を立てるつもりだったのか。水や食料の継続的な入手方法は。考えれば備えに十分な水準などないことぐらいわかるだろう」

「……つまり女一人が娼館を離れて生きるのは無理だということですか」

「無理だ。もとい、男一人でも無理な話だがね――誰にも無理なことだから、人は社会という共同体を作ってきたのだよ。貴女に必要なのは志を共にできる仲間であり、それを得るための人との関わり方だ。貴女は真理に憧れる以前にただの人間に過ぎないのだということを、もっと自覚するべきだね」

 使っている言葉こそ直接的で容赦ないが、それに反して口ぶりは優しく諭すようだった。ルシャは父も母も知らないが、もし父親というものがいたとしたらこのように叱られたのだろうかと錯覚しそうになる。口に出せばいよいよ後戻りができなくなると予感しつつ、ルシャは問わざるを得ない。

「私はどうすればいいのでしょう」

「私ならば貴女をここから連れ出すことができる。ありがたいことに金に困らない暮らしはしているからね」

「そうすることに、貴方にどのような利があるのでしょう」

「知を貴ぶ同志が鳥籠から解き放たれて自由になること以上に喜ばしいことはない」

 嘘だ。

「もし一緒に来るならば、私が知っている秘密を貴女に教えてあげよう。この秘密を私一人だけのものにしておくのは、いい加減荷が重たかったところなのでね――まあ、考えてみるといい。もし仮に私が話していないことがあったとしても、貴女が選ぶべき道がどちらかは自明だと思うがね。転機は突然訪れるものだし、もし人生で備えるべきことがあるとすれば、こういう突然の転機に対して自分がどう振舞うかを覚悟しておくことだ。金も仲間も覚悟の後からついてくる」

 明日の日没後、私は発つ――それまでに貴女が意思を示すならば、私が貴女の身請けをしよう。

 そう言い残して男は再び横になった。

 

 こういうとき、大婆ならどうするのだろう。ルシャは考える。おそらく、いや間違いなく、断るだろう。大金を出してルシャの身請けをすることに一体何の得があるものか。同志が自由になること、と男は言ったがそれはどう考えても割に合っていない。そして何よりも、もし男とルシャの本質が類似しているのであれば、志を同じくする者と連帯することに意義は見出さないはずだ。求道者は誰も歩かない道を往くからこそ常に孤独であるし、孤独であることを厭うならばそもそも道を求めない。孤独の痛みに苦悶することはあっても、孤独から逃れたいとは決して思わない。故に、男の言う身請けの理由は嘘で、真意は別にある。そして、男はルシャがそれを看破することも見透かしており、それでもなおルシャが自分と共に行くことを確信している。

 ルシャは窓辺で月を見上げる。冷えた柘榴を口に運ぶ。甘みと酸味が喉を下るのを感じる。やはり自分と大婆は違う道を行くことになるのだ。いつかは大婆と道を違えるとは予感していたが、それがこんなにも早いタイミングで訪れるとは思っていなかった。しかし男の言葉を借りれば、転機とは突然訪れるものなのだ。金も仲間も後からついてくる。ルシャが進むべき道は決まっていて、あとはそれをどう歩くかだけが人生で考えるべきことだ。

 このまま娼館の中で飼い殺されることと、一人で砂漠に飛び出して野垂れ死ぬことと、素性の知れない男の甘言に乗って死ぬのと、どれがまだ望ましい死に方か。せめて自分が腹を括って選んだ死に方でありたいものだ。

 指についた柘榴の汁を舐め取ると、ルシャはそっと部屋を抜け出し自室に戻っていった。旅に用意すべきものはほとんどなく身一つでいいが、妹たちに残せるものがあれば選んで残してやりたかった。十八歳の旅立ちの日に向けて貯め込んでいた宝石や貴金属など、上等なものはほとんどないが、美しいものに憧れる子供にとってはきっと価値あるものだろうから。そうしてルシャは子供たちの寝室をまわって贈り物を枕元に置いてやる。実際に喜ばれるかどうかは知らない。

 

「身支度は済んだかね」

「着替えぐらいしか用意すべきものがないですから、すぐに終わりました。それから妹たちにお別れもしてきました」

「そうか」

 部屋に戻ると男は目を覚まし、蠟燭の灯りを頼りに本を読んでいるところだった。

「朝になったら、ええと名前は知らないが、あの一番偉い婆さんに貴女の身請けをする旨を伝えておこう」

「きっと喜ぶでしょうね」

「そうなのか」

「私、どうやら娼婦としてはあまり優秀ではなかったようなので」

「人には得手不得手というものがあるからね」

「――あの」

「なんだね」

「今さらですが、私、これから貴方を何とお呼びしたらよろしいでしょうか」

「そうか。お互い名前も名乗ってなかったか」

 名前も知らない人間同士が身請けに合意するというのも馬鹿な話だな、と男は苦笑した。

「ズィブと呼んでくれ。貴女は」

「ルシャと申します」

「ああ、西方の国の言葉では『光』という意味だそうだね」

「はい、もう亡くなってしまいましたが、育ての親がつけてくれた名前です」

「なるほど。東方の国の言葉では、さすらう人、という意味にも取れるね」

「あら、そうなのですか」

「こう書くんだ」

 ズィブはルシャを呼び寄せると、机の上に指で文字を書いた。生憎ルシャは東方の文字まではわからなかったが、流者、と書いたらしい。

「光を求めてさすらう人とはなかなか面白いですね」

「あるいはさすらってついに光を得る人かもしれないね」

 つまらない言葉遊びだ、とお互い鼻で笑い合う。

「ズィブさんのお名前の由来は」

「どこかの国の言葉で嘘つきという意味らしいね」

「まあ。少しくらい隠そうとしたっていいのでは」

「すでに知られてしまっているものを隠す意味はないだろう」

 そう言ってズィブは肩をすくめた。

 夜が明け、日が暮れてルシャが娼館を発つ時間となった。結局いくらでルシャの身請けが成立したのかルシャは知らない。べらぼうに高くはなかっただろうが、極端に安いこともないだろう。ただ、婆の満足げな顔を見れば、相場よりもいくらか色がついたのだろうということは察せられる。ズィブはまるで気に留めていないようではあったが。

「お前を貰ってくれるなんて良い御仁だね」

「ええ、この機を逃すと二度と来ないような気がして」

「そうかい。ま、うまくおやりよ」

 ズィブが呼びつけた鯨車に御者の手を借りて乗り込んだ。揺られ始めてから振り返ってみれば見送ってくれる人は誰もいなかった。

 

 それからルシャはズィブに連れられて砂漠中を旅してまわった。西の国の侯爵に招聘されて赴く途中だったと聞いた記憶があるが、旅路は南北を往復し、時には東に進路を取ることもあった。しかし全体的に見れば、少しずつ西方へ向かっていた。別に急ぐ話でもないからね、とズィブが笑って言ったのは半年が経った頃だったか。

 ズィブは砂鯨の背の上で自分の知ることを惜しげもなくルシャに語って聞かせた。大婆の遺した書物の記述と一致するものも数多くあったが、やはり初めて知ることも多く、知識を得る度に世界はますます広くなっていった。ルシャが疑問に思ったことには丁寧に答えてくれたし、答えがない問いには互いの頭が回らなくなるまで付き合ってくれた。

 よく晴れた雲のない夜には星天を操る魔術も見せてくれた。あそこ、と無数にある星から一つ選んで指さし、上から下へ指をおろすと、見えない糸に引っ張られるように星が白い軌跡を描いて夜空を滑り落ちた。ルシャも真似して指を走らせてみるが、虚しく宙を切るだけで、遥か彼方で星々は燦々と輝いている。

「形だけ真似しても駄目だ。目で見て、目で見えないものを視るのだよ。見えるものは全体の中の、ほんの一部にしか過ぎない。見えないところでもきちんと法則は働いているのだから」

 ズィブが星を降らせるとき、その背後ではどのような力学が作用して、ズィブの指はその力学のどの一端に働きかけているのか。

「知らないことだらけだろう。本を見ても、人の話を聞いても、知らないことわからないことばかりがルシャの目の前に現れる」

「うん、おかげで飽きない」

「無邪気なものだね。けれど、いつかそれが歯痒く感じられる時が来るだろう。手っ取り早く答えが知りたくなる時が来るだろう。それが知られるなら悪魔に魂を売り渡してもいいと思える時が来るだろう」

「とうの昔に売り渡したつもりでいたけれど」

「私なんか取るに足らないつまらない人間さ。本物に失礼が過ぎる」

 ズィブが指を振ると、その指先の軌道に合わせて星が夜空を踊った。ルシャはその不思議を解き明かせずにいる。

 

 ズィブという新たな師を得てルシャはずいぶん多くのことを知り、相対的に知らないことは少なくなってきたように感じられてきた。もちろんそれはただの錯覚でしかないし、一度熟考した問題も考察の視座を変えてみれば新たな気付きがあるものだ。しかしそれでも、世界に対する新鮮味が薄れてきたように感じてしまう自分がいることも事実だった。そうなれば自ずとズィブと交わすべき言葉も減る。気付けば三日間口をきいていなかったということも珍しくない。

 ズィブの魔術の秘密は相変わらずわからないままだったが、一方で、ズィブの魔術は星を動かす以外のことは何もできないものらしいことも察せられた。ただ、天で瞬く星の光を上から下へ、右から左へ、ずらして見せることそれ以上でも以下でもない。もちろんそれだけでも十分恐ろしいことなのだが、しかしそれだけだ。

「つまらないことだと思うかね」

「星を動かせるなら他にももっと色々できそうなものだって思うよ、正直」

「そうだね。でも、私に許されたのはここまでだったんだ」

「悪魔と交わした契約」

「そう。私が差し出した価値がその程度のものだったということだ」

 ズィブの語る悪魔とやらが何かの比喩なのか、あるいは文字通りそのままのことを指しているのかルシャにはわからない。しかしズィブの表現をそのまま引用すれば以下の通りである。かつてズィブが占星術師として駆け出しだった頃、若かった彼は星天の真理を欲するあまり、悪魔の囁きに耳を傾けてしまった。悪魔はズィブが気付いた時には背後に立っていて、真理の扉に触れる機会の代償にズィブの一部と悪魔の一部を交換することを要求してきた。

「交換のチャンスは一度だけで、当然やり直すことはできない。何を差し出せばどの程度の見返りがあるのかもわからない。ただ、差し出したものが自分にとって重要であればあるほど、悪魔が私に与えてくれるものは真理に近づきうるものだという。要は、真理に近づけるかもしれないという根拠もない可能性のために、自分自身にどの程度の犠牲を強いることができるか、ということが問われていたわけだ。ああ、そうだとも、こんな話に耳を傾けること自体がばかげている。ばかげていたんだ」

「でも、貴方は悪魔に自分の一部を差し出した」

「そう、自分の舌をだ」

 ズィブが口を開けて舌を出すと、それは細長く顎の下まで伸びて、全体が濃緑色に染まり、先端は深く割れていた。明らかに人間のものではないが、普段、喋っているぶんには他者に気付かれることはまずない。

「この舌を得て以来、何を食べても砂を噛んでいるようだし、何を飲んでも泥水を舐めているように感じられたのだ。でも、この秘密は誰にも知られるわけにはいかなかった。だから、人と食事の席を共にするときなどは、必死で笑顔を繕ったものだよ」

 悪魔は人間の舌を得て、さぞ食事の喜びを知ったことだろう。魔界で自慢して見せびらかしていたかもしれない。

「ルシャ、君は私の話が嘘だと思うかね。この舌も、星を動かす力も、ただのつまらない手品だと思うかね。私の話を信じてくれるだろうか。いや、信じてくれなくても、悪魔はたしかに存在したし、私は真理の扉の一端に触れることができた。そして星を動かす術を知ったのだ。これは確かな事実なのだ」

 この話をするとき、ズィブは幼く怯えた子供のような目をする。ルシャの細い腕にすがりついてくる。ルシャはズィブの頭を抱いてやり、白髪に覆われた頭を撫でてやる。ズィブはルシャの腕の中で、自分の身に起きたことを整理しようと努めるが最後には疲れて眠ってしまう。そして悪夢にうなされる。そんな様子を見ていると、ルシャは人の心がいかに脆くはかないものであるかを思い知らされる。

 ルシャがズィブの言い分をそのまま信じているかと問われれば、答えは否である。確かなことはズィブが任意に星を動かすことができる、正確には動かしているように見せることができること。そして、ズィブの舌が決して作り物ではなく、たしかに本物であること。その二点のみである。この二点の間に関係性があるとすれば暗喩に満ちたズィブの話が答えであろう。しかし、そもそもこれらを関連付けることが適切かどうかもわからない。ただ確かなのは、ルシャが普通に生きている限り、絶対に知りえない法則が存在していることだけだ。この世のあらかたのことを知り尽くしてしまった今、明かされていない謎は明かされていないというだけで魅力的だ。自分はなんと愚かなのだろうとルシャは自虐的に笑む。

 このようにしてズィブの秘密を共有したことで、ルシャとズィブの旅の目的の半分は達せられた。旅の終焉がそう遠くないことはおのずとお互い察せられることだった。

 

 ルシャたちが砂漠の西端の街を訪れたとき、街は聖人の再生を祝う祭りの最中にあった。誰も彼もが花冠を頭に乗せている。砂漠の街にあって色鮮やかな光景を目にできるのは、それだけ西の国が近く生花を輸入することができるからだ。

 思わず「綺麗」と呟いたルシャに、ズィブは「何がいい?」と声をかけるが、ルシャは黙って首を横に振る。

 宿に入り、食堂でルシャは羊の肉のスープを飲む。ズィブは水を飲む。他愛もない話をするが、すぐ会話は途切れてしまう。旅を始めてもう一年半になった。

「君に渡したいものがある」

 意を決したズィブの申し出にルシャは思わず身を固くするが、いつか訪れる未来がついに訪れたのだと思えば、あとは腹を括る他にない。

「一年半。君にとってどうだったかはわからないけど、私にとってはあっという間だった。しかし、とても充実した時間だった。長い時を生き、これからも生き続ける私にとって、君と過ごした日々は忘れ得ぬものとなることだろう。

 君が真に私と秘密を共有するに足る人物かどうか、見定めようとしてきたけど、ついに答えは出た。君は合格だ。君は知識への敬意を常に持ち、驕れることなく、しかし卑屈になりすぎることもなく、真理を求め続けてきた。学知の信徒として模範とも呼べる生徒だった。もう私から君に伝えるべきことは何もない。君はもう幼い女の子ではなく、世界の厳しさを知ったうえで己の意思で道を決めて、決めた通りに道を歩く力を得ている。君ならもう一人で新しい仲間を見つけて、自分の人生を生きることができるだろう」

 周囲の喧騒は遠のき、ズィブの言葉がまっすぐルシャの耳に届く。一年半の年月を経て、ズィブはいくらかくたびれて老けたように見える。

 ズィブは懐から小さな袋を取り出した。手のひら大のその口は麻紐で固く結ばれている。

「これは?」

「悪魔と邂逅を果たすための秘薬だよ。かつて私に世界の秘密の一部を教えてくれた悪魔だ」

「大昔に貴方はこれを使ったのね」

「古代の王国の遺跡を訪れたときに見つけたものだよ。伝承が真実かどうかは自分で試してみるしかなかった。結果はろくなものでなかったがね」

「そんなものを愛弟子に送るなんて、ひどいお師匠様だわ」

「だから分別がつくまで待ったんだ――人が観測し分析できる範疇のことであれば言葉で教えることができるが、そうでないものはそれができないのでね。もし君が、人の道を踏み外してでも真理を求めるというならば、選択肢ぐらいは用意してやろうと。それが、私が君に与えられる最後のものだ」

「貴方は私にどうしてほしいの?」

「自由であってほしい。あの娼館という鳥籠が君にとって手狭だったように、そろそろ私と共にいるのも、君という鳥にとっては手狭になる頃だ。だからこれを手向けとして、終わりにしよう」

「そう、わかったわ」

「恋人たちの別れ話みたいだ」

「キスもしたことないのにね」

 馬鹿々々しい、下らないと肩をすくめ合い、杯を掲げて酒と水をそれぞれ飲み下した。

 

 匙で一掬い分の粉を水に溶かし、飲み下す。それだけで魂は肉体を離れ、不可知の事柄に触れることができるようになる。特別な儀式も呪文も要らない。

 簡単だろう。ええ、簡単すぎて拍子抜けするくらい。

「やめるなら今のうちだが」

「私ならやると確信しているから秘薬を渡したのでしょう。こうなると見込んだから、私の身請けをしたのでしょう。何を今更」

「いくら私でも、そこまで思い切りよくはできないな」

 宿屋の一室。二人部屋のベッドにルシャとズィブは並んで座っていた。祭りは日が暮れてからもなお賑やかで、喧騒は止む気配がない。月明かりとかがり火の光が窓の外から差し込むおかげで、室内は灯りをともさずとも手元が十分に見えている。

「ルシャ、君は悪魔に何を願う」

「死の向こう側。死んだ後のことはどうしてもわからないから」

「そうか」

 幸運を祈る、とズィブが言ったことを最後に二人の会話は途切れた。ルシャの手には粉を溶かした水が入ったコップがある。これを飲み干せばいいだけだ。

 意を決し、一気に水を飲み干した。いくらか苦味があった以外はただの水と変わりないように感じられる。何も起こらない。拍子抜けしてズィブに声をかけようとして、異変は唐突に訪れた。胃の底が熱く焼けるようで、心臓が激しく鼓動を始める。汗が全身から噴き出す。しかし深夜に行く砂漠のように肌寒く、視界は明滅する。ズィブが何か叫んでいるようだが、耳鳴りがひどくて聞き取れない。全身の感覚が失われゆく中で、せめて呼吸だけはと肺に空気を送り込む。そこから先のことは覚えていない。真理に憧れる以前に、自分は所詮ただの人間に過ぎないという、自明の事実を今更認識するという愚かさが、意識が途切れる直前ルシャの胸の中にあったことだった。

 

 

 うすぼんやりとした意識の中、ルシャは舟に乗っていた。ルシャ自身は舟に乗った経験がないのだが、書物で得た知識から察するに、舟に揺られるとはこういうことなのだろうと感じられるような揺られ方だった。

 手首にかけられた枷は誰がいつ着けたものなのか。よくよく見てみれば今自分は灰色の襤褸を身にまとっている。

 自身の状況が明らかになるにつれ、周りの状況も明らかになってくる。薄灰色の空の下、濃灰色の泥の沼を、白色の舟が泳いでいく。振り返れば、ルシャと同じく襤褸を頭からかぶった骸骨がおり、枯れ枝のような櫂を操っていた。ルシャは声を出そうとして、声が失われていることに気付いた。足首には鎖と重石がつながれており、逃げることは叶わない。

 ああ、ルシャ。愚かなルシャや。お前は賢い子だと思っていたのにねえ……。

 ねっとりと耳にまとわりつくような声は忘れようもない。ルシャの最初の師にして、誰よりも死を恐れ、そしてついに死から逃れることのできなかった大婆である。どこから聞こえるのか。舟を漕ぐ髑髏の空洞の喉からだ。

 どうしてこっちに来ちまったんだい。お前はみっともなく「かみさま」に縋ってまで死から逃れたいと思っていたじゃないか。それがどうして自分から冥界の門に赴くような真似をしちまったんだい……そうさねえ、お前が馬鹿だからだ。どうしようもない大馬鹿者だからだねえ。

 反論を試みようにも、声が失われて手足も縛られているのだから、どうにもすることができない。ただ大婆の侮蔑と呪いの言葉を浴びるがままにしていることしかできない。お前は馬鹿だ、愚かだ、と延々と罵られていると心がみるみる間に衰弱していくのがわかる。零せる涙もない。

 ――どうだい、ここがお前の願った「死の向こう側」だよ。何も無いだろう。まぁ、正確にはまだ「向こう側」ではないんだがね、大した違いじゃあない。お前はこれから冥界の門を抜けて、冥府に行くんだ。そこでお前の魂を炉に溶かして、いよいよお前という存在が消えてなくなるのさ……ま、お前が死の奴隷になりたいと願うのなら話は別だ。魂の消滅を免れる代わりに冥府の住人と契約を交わせば、お前の魂は一旦助かるだろうよ……ああそうさ、私がそうしたようにねえ……。

 からからから、という音は大婆の笑い声か、風で骨と骨がぶつかり合う音だったか。大婆が冥界の門の名を口にしたときから、舳先の指し示す方角にうっすらと巨大な門の陰が見えていたが、ルシャが門の存在の認識を強めれば強めるほどに、門はくっきりと輪郭を浮かび上がらせていった。あの門をくぐればいよいよ戻れなくなるということは、本能的に察せられた。しかし、察したところで抗う術はない。

 りん、と鈴の音。

 不意にルシャの耳に届く。それは涼しく鮮やかな青色の音だった。鈴の音はたちまち視界全体を覆っていた灰色を押し流し、本来の正しくあるべき色と姿に塗り替えていく。すなわち、空は雲一つない透明で濃い青色に、沼は消え失せ黄色い砂漠に、ルシャは枷や鎖で縛られてなどおらず、襤褸は下ろしたての白紗のローブである。乾いた風が吹き抜けて、大婆のふりをした骸骨は砂となり崩れていった。白銀色の美しい門がルシャの目の前に立っている。

 鈴の音がもう一度。ルシャの意識は完全に覚醒し、宿の一室で意識を失う直前にことも思い出していた。幻覚薬と毒薬を混ぜ合わせて秘薬と呼んだものを飲んだ後、ルシャは人ならざる者のように叫び苦しみのたうち回り、喉を掻き毟って髪を振り乱した。そんなルシャから、ズィブは逃げ出した。ズィブはルシャを助けるのではなく見捨て、自分の罪に背を向けたのだ。ルシャの心は凪いでいた。ズィブがみっともなく取り乱した挙句、逃げ出したことに何も思わないかと言えば嘘になるが、ズィブと共に娼館を出ると決めた瞬間から、いつかこうなることは決められていたことだ。せめて最後まで堂々としていてほしかったものだが、ズィブの内面が幼い子供のように脆く弱いものであると知っていれば期待できるはずもない。

 砂を踏む小さな足音が近づいてきて、ルシャの隣で立ち止まった。鈴の音の主もそれだろう。そこにいたのは黒いローブをかぶった幼い少女だった。その瞳は夜闇よりも暗く、底が見えない。もし娼館で暮らしていれば、湯運びの仕事を始めるくらいの歳だろうか。悪魔は様々な姿かたちを取るのだろうが、ずいぶん可愛らしい姿も取れるのだなと感心する。

「こんにちは」

 ルシャが声をかけるが返事はない。代わりに少女は手を伸ばし、指先をルシャに向けた。ここまで来て何を怖れることがあるものか。少女の求めに応えて、その細く幼い指先に自分の指先を当ててやる。そうして指先同士が触れた瞬間、少女は目を見開き、手を引いた。

「あなた、どうやってここにきたの?」

「どうって。あなたに会えるっていう薬を飲んで来たのよ」

「ふざけてるの?」

 少女は怒りと侮蔑と警戒心に満ちた瞳でルシャを睨みつけた。ルシャが想像していた悪魔とはもっと狡猾で飄々としているものだったが、その想像と異なる反応を見せつけられて、少女が悪魔ではない可能性に思い至る。しかし悪魔ではないならば、彼女は何者なのか。ただの女の子であるはずもない。

 少女自身もルシャを見定めようとしていた。彼女にとっての常識が何であるのかはわからないが、ルシャがそれに反する形で今ここにいるらしい。じっとルシャを観察しているが、ルシャがあまりにも無防備できょとんとしていたものだから、ついに悪意があるわけではないのだろうと判断したらしい。

「ここは、死んだ魂が冥界の門のむかえをまつところ」

「死んだ魂」

「そう。でも、あなたは死んでない。まだ生きてる。どういうことなの?」

「……普通に生きていたら届かない境地に辿り着きたくて。悪魔と取引をしてでも辿り着きたくて。それで、あの人がくれた薬を飲んだのよ」

「意味がわからない」

「そう、そうだよね」

「なんでたかが薬ひとつでその境地に辿りつけると思えたの?」

「信じていたから」

「何を? 誰を?」

「それは」

「あなたは今、どんな意味で『信じる』っていったの? いつから考えることをやめてたの?」

 少女は淡々と怒りを滲ませて畳みかける。ルシャは問われたことの一つにも答えられない。なぜズィブが自分に一定程度の嘘をついていることを知りながら、それをわざと見過ごしていることも自覚しながら、何もしなかったのか。いつから自分にはこの道しかないと思い込んでいたのか。自ら選んだ道だから悔いはないが、道が一本しかないと思い込むのは浅はかにも程がある。ルシャは、私は、何をいつから思い違いしていたというのだろうか。

「とりあえず、時間がないからついてきて」

 ルシャの返事を待たずに少女はルシャの手を握る。白銀色の門に背を向け歩みだそうとして、背後から声がかかる。

「姫よ、どこへ行く」

 低く皺枯れた声に呼び止められて振り返れば、そこにいたのは本物の悪魔だった。身に纏う黒色のローブは少女のそれと同じ種類のもののようだが、容貌は異形の者である。顔つきは黒山羊そのもので、頭部から生える濃灰色の角も山羊のそれに似た形をしている。体はローブに隠れて見えないが、裾から覗く手は異様に細く、枯れ枝のようだった。指先でつまむように青い灯のランタンを吊るしている。

 少女はルシャと悪魔の間を遮るように立つ。

「この人は死んだ人じゃないよ」

「ならばなぜここに居る」

「知らない。けど、死んでないなら門をくぐるべきじゃない」

「帰るべき肉体は残っているのか?」

「知らない」

「もし残ってないなら、狭間を彷徨うことになるが」

 悪魔は少女を姫と呼び、少女もそれを否定しない。二人は初対面ではないようである。しかし、悪魔の方はともかく、どうやら少女はルシャのことを助けようとしてくれているらしい。ルシャを置き去りにしたまま話は進む。

「この人は薬を飲んでここに来たって言ってる」

「外道の業か」

「よくない方法なのはそうだけど、でもまだ死んでない」

「死にたくて外法に手を出したのやも知れぬぞ。どれ、当の本人に訊いてみるのが早かろう」

 悪魔は枯れ枝の指の先を少女の背後に立つルシャに向けて問う。

「人間の娘よ、何を求めて外道の業に手を出した」

 少女はルシャの手を強く握り、相手にすべきではないと訴える。しかし、この問いに背を背けるべきではないと、ルシャの魂が訴える。己の非を認め、頭を垂れて詫びたところで見逃される保証はないし、何より自分に嘘をつくべきではないと直観的に感じる。

「私は、全てを知りたかった」

「ここに来れば知り得ぬことを知れると考えたか」

 ルシャは頷いた。悪魔は指先で顎髭を撫でつつ思案する。

「たしかに生者のままで知り得ぬこともあろう。ここは通常生者が足を踏み入れることができない場であるからな。しかし、そもそも何故全てを知ろうとする。人の時間は有限で世界を織りなす法は途方もない。人に与えられた時間は全てを知るには短すぎる」

「時間が不十分であることと、憧れることは別じゃないかしら」

「さもありなん。人が身の丈に合わぬ願いを持つことは珍しくない。それは我もよく知っておる。ふむ、ふむ。ならば重ねて問おう。全てを知るとは何を以て果たされるものか?」

「それは」

「未知、すなわち未だ知らざるものが存在しなくなった時こそ、全てを知ったと呼ぶに相応しい。しかし、未だ知らざるものが存在しないことをどう判断するのか。不在を証明することは、たしか人間の表現では悪魔の照明と呼ぶのだったかな。もっとも、その限界も外道の業に頼れば超えられるものなのかもしれぬが」

 悪魔は続ける。

「不可能を不可能と知りながら、想像の中でしか到達し得ぬ全知の境地を夢想し焦がれる在り方は、控え目に言って現実を生きているとは言い難い。言葉を選ばずに言えば、正気ではない。何がそなたを駆り立てる。あるいは、何を怖れ何から逃れようとしている」

「何からって、別に私は怖がってなんか」

「ふむ、そうか。そうか、そうか。そなたには怖れるものがないか」

 ひとしきり考え込んだ後、悪魔の中で結論が出たらしい。何を一人で納得しているのか、ルシャの何を見定めたのか。ルシャは居心地が悪い。

「まあ、いいだろう。それよりも娘よ、これからどうするのだ。姫の導きに従えば滞りなく現世に帰れることだろう。ただし何も得ることはできないがな。どうだ、せっかくここまで来たのだから、少しこちらの世界を巡ってみないか」

「こんな奴の話に耳を傾けないで」

「そう言うな姫よ。姫が一緒にいてやれば帰り道に迷うこともあるまい」

 姫と呼ばれた少女は顔を背けただけで、悪魔の言うことを否定したわけではない。つまり悪魔の言ったことは嘘ではないということだ。彼らは一体何者なのか。今仮に悪魔と呼んでいるこの存在も、ルシャの想像する悪魔とは異なるもののような気がしてくる。

「何を企んでいるのかしら」

「少しは自分の頭で考えるといい。問えば答えが返ってくると思うな。返ってきた答えが正しいと思うな。己の目と頭で真偽は判断せよ。己の意思で道は選べ」

 ルシャは舌打ちをする。

「わかってるわよ、それくらい――行く。せっかくここまで来たんだから」

「ということらしいが、構わんかな、姫」

「もう知らない」

 そう言って顔を背ける割に、少女はルシャから手を離さずにいてくれる。

「運が良いな、娘よ」

「昔からよくそう言われる」

「姫に感謝することだ」

 この子は一体何者だろう、と疑問に思うが、他にも思うことがありすぎて、今は掘り下げる余裕がない。

 枷と鎖から解放されて以来、未だかつてないほど頭のもやは晴れ、澄んだ思考ができるようになっていた。

 何がそなたを駆り立てる。あるいは、何を怖れ何から逃れようとしている――。

 怖れるとは何だろう。もちろん言葉の意味は知っている。しかし自分自身が何かを怖れたのは、遠い昔のことであったような気がする。

 黄色い砂漠は凪いでルシャの心の内を映していた。

 

 間近にあったはずの白銀色の門はいつの間にか遠のいていた。ここは何が起こっても不思議ではなく、どんなことでも起こりうる場所だ。大婆の幻影がそれを冥界の門と呼んでいたことを思い出す。だから、それを冥界の門と捉えるのがおそらく適切で、それが目の前にあるのだから冥界の門は存在すると理解するべきなのだろうか。

 冥界の門。死を迎えた魂は死神に導きに従い、冥界の門を通って冥府へ行く。砂漠で生まれ育った者であれば誰もが教わることだが、その真偽を確かめた者は誰もいない。親が、大人が、子供たちに自分たちが教わったように教えてきた。誰が最初にそれを言い出したのかは誰も知らない。ルシャが悪魔だと仮に呼んでいた山羊頭は、正しくは死神と呼ぶべきなのか。

「我は悪魔か死神か? 知らんな。どう呼称されようが我は我だ。好きに呼べばいいし、そもそも人間からしてみれば、悪魔も死神もほとんど差がないだろう」

 山羊頭自身にとってはどうでもいいことのようだった。

 山羊頭を先頭にして、その後ろをルシャと少女が手をつないで歩く。進む先には白銀色の門、すなわち冥界の門がある。太陽のない青空は四方の全てが澄み渡って雲一つなく、空を縁取る砂漠の地平線は円く、そしてその砂漠は起伏どころか砂紋一つなく平らだった。ルシャと少女の二人分の足跡が山羊頭とルシャと少女の後に続いている。穏やかで平和な空間と時間だった。そんなときには普段忘れていたことが思い出されてくる。

 ――思えば色々なことがあったような気がする。娼館は生まれたときから騒がしく、常に誰かがいた。大婆がいて、年上の姉さんや兄さんがいて、同い年の子たちがいて、年下の妹や弟たちがいた。彼らの顔と名前は思い出そうとすれば思い出せるが、そこに懐かしさはない。他に生きる術を持たない者たちが寄り添い合っているだけで、選べるものなら皆もっと幸せな場所を選んだことだろう。それぞれがやり場のない怒りや憎しみを抱え、散々ぶつけ合った末に、ぶつけ合っても何も解決しない不毛さに閉口していた。まだ自分の中で折り合いをつけることができない妹や弟たちが夜中に泣いてぐずると、ルシャが抱いてあやしてやったものだ。ルシャもかつては同じく泣いていたはずだが、それはいつのことだったか。記憶にない。

 記憶。遡って遡って辿り着くのは最初の記憶だ。それは何か。何だったか。砂漠の風に吹かれながら、少女に手を握られながら思い出す。原初の記憶に父や母につながる手がかりはないものかと期待した。しかしついにそれは見つけられなかった。ただあったのは、暗い部屋の中で同い年の子たちと同じベッドに押し込まれていたときのことだ。蒸し暑く、誰かが漏らした尿の臭いが充満していた。常に誰かが泣いていて、それで眠りを阻害された他の子が泣いていた。ルシャは漠然と、うるさいな、と思いじっと耐えていた。朝になれば水や食べ物を与えてもらえるし、ベッドから出ることができる。夜が明けるまで一秒一秒を数えていた。

「なにか、思いだせた?」

 隣で少女がぽつりと呟くように訊ねた。訊ねられて、ここはもうあの暗い部屋の中ではないことを自覚する。

「まだずっと小さかった頃のこと。暗くて狭い部屋にね、同い年の子たちと一緒に押し込められてたな、って」

「そう」

「それでね、朝が来ると子守役の兄さんか姉さんが部屋の鍵を外して扉を開けてくれるの。廊下を歩く兄さんや姉さんの足音が聞こえてくると、私は体を起こして。鍵をかちゃかちゃ鳴らして外す音を聞いてそわそわして。それで扉が開くと、隙間から眩い朝日が射し込んで、新鮮な朝の匂いが滑り込んでくるのよ。どうせ半日後にはまたそこに戻されてしまうんだけど、明るい世界が開けて、そこに向かっていく感覚は嫌いじゃなかったな」

 少女はじっとルシャの話に耳を傾け、小さく頷き続けてくれた。

「たくさんいたんだけどね」

「誰が?」

「同い年の子たち。もう顔も名前も思い出せないけど、何人か仲の良かった子たちもいたわ。けど、みんな死んでしまった。あの部屋を生き延びられる子はほんの一握りだったから」

「そんなにひどいところだったの?」

「子供はたくさん生まれるけど、生まれた子の全員を養えるほど豊かな場所じゃなかった。だから大人たちは、口には出さなかったけど内心、子供が減ってくれたら助かるって思ってたのよ。必要最小限の世話だけやって、それで死んでしまう子がいるならそれまでの話。

 朝を迎えて部屋に光が射して、お互いの様子が見えるようになって初めて死んでる子がいることに気付く。そんなことは珍しくなかった。ああ、死んじゃってたからこの子おもらししてたんだね、って変なところで納得もしちゃったりしてた」

「そうだったの」

「でもね、それが私たちにとっては当たり前で普通のことだったのよ。……なんでそれが『当たり前で普通のこと』だと思っちゃっていたのかな」

 当たり前で普通のことどころか、むしろ自分は恵まれているとすら思っていた。もし娼館で拾われていなければ、とっくに野垂れ死にしていたはずの命だ。昼間の陽射しや夜間の冷気に晒されたり、草の一本も水の一滴もない砂漠に放り出されることを思えば、屋根があって、一応でも自分たちを養ってくれる人たちがいる場所は、ありがたがることはあっても決して忌み嫌うべきではない。だから、そこでどんな目に遭うとしても、死なずに生きていられるのならば、まだましなことなのだ。そのはずなのだが。

 ルシャの鼻先から涙が滴り落ちる。いつの間にかルシャの足は止まっていて、俯いていた。自分が泣いていることを自覚したら、ますます涙は溢れて止まらない。どうして自分は泣いているのだろう。わからない。わからないが、ルシャは自分の中で何かの蓋が外れた気がしている。蓋をしていた穴から噴き出すこれは一体何なのだろう。ルシャは自分で自分に問う。私は、いつからこの感情を殺していたのか。いつから絶望することすらやめていたのか。自分の足元にはどれだけの数の兄弟姉妹の死体が埋まっているのだろうか。

 幼いルシャが大きくなって、ルシャ自身が子守役になったとき、朝に扉の鍵を外すのが憂鬱だった。今朝はみんな生きているだろうか。死んでいる子がいないだろうか。ルシャが祈っても祈らなくても、弟や妹たちは一定の頻度で死んでいった。死んだ子供は、他の生きている子供たちが部屋を出ていった後でルシャが片づけた。尿やよだれで汚れた布団を取り換えるのと同じように、死体となった弟あるいは妹を持ち上げて、運んだ。そして娼館で出る様々ななごみと同じように、ごみ捨て場に放り捨てた。衰弱して死んだ子供とは、驚くほど軽い。

 死者を弔う風習があることなど知らなかった。その存在は、十四になって大婆の書斎を引き継いだ後に書物の中で知った。死者のために手間暇をかけることは、暮らしに余裕がある人々のぜいたくだと思った。ズィブと共に旅する中で喪服を着た人々を見かけた時も、書物で知った儀式は本当にあったのだなと思うだけだった。悲しいという気持ちはいつの間にか麻痺していて、そういう気持ちがあることを忘れていた。悲しいことは当たり前で普通のことだった。この世には死が溢れているものだし、そして大婆の言葉を借りれば馬鹿な奴から死んでいくものだ。死んだ方が悪い。

 かつてルシャが高熱で死にかけた時のことを思い出す。病魔が全身を蝕んだ結果、死は眼前にあり、為す術もなかった。嫌だ嫌だ、死にたくないと、「かみさま」に全てを捧げる覚悟を示しても「かみさま」は何もしてくれなかった。自分の中の生命の炎を必死で守り、夢うつつに眠りと目覚めを繰り返す中でまだ自分の心臓が動いていることを確かめて、ルシャに理不尽を強いる全てを呪い、憎み、そして自分以外の何者も信じられなくなった。確かなものは自分の意思と心だけで、それ以外のものは何も信用に値しない。そういうものだと、そのとき幼いルシャは諦めた。そんな自分を、今、遠くから大人になったルシャが見つめている。

 高熱で死にかけたルシャを、娼館の兄さんや姉さんたちは見捨て、弟や妹たちも兄さんと姉さんたちを真似して見捨てた。大婆だけがルシャの世話をしてくれたが、しかし抱きしめてはくれなかった。誰も、ルシャの孤独に、寂しさに、寄り添ってはくれなかったのだ。ルシャが本当に求めていたのは、ルシャの手を握って包んでくれる温かい手だった。今、ルシャの手を握ってくれているような、自分以外の誰かの手だった。

「孤独は人をおかしくさせる。どんな病気よりも、人の心と体を壊していく。寂しいことを忘れてしまったら、人はもう壊れていくしかない」

 少女は手に力を込めて呟いた。そうなのだろう、とルシャは思う。娼館にはたくさん人がいたが、寂しくなかった人はいなかったのだろう。兄さんも、姉さんも、弟や妹たちも、大婆も、そしてルシャ自身も皆そうだった。

「私はどうしたらいいんだろう」

「それは、私には答えられない」

 気づけば、山羊頭はルシャと少女のだいぶ先を歩いていた。少女はルシャの手を引き促す。歩いた先に何があるのか。冥界の門が彼方に建っている。

 

「ねえ、質問してもいい?」

「なに」

「あなたは何者なの?」

「答えたくない」

「面倒くさがるな、姫よ」

 先導する山羊頭が笑いながら言った。

「こんな場所にいる少女が只者であるわけがないだろう」

「じゃああなたが代わりに説明して」

「とのことだが、構わないか?」

 ルシャの沈黙は肯定である。

「この御方は冥府の女王の系譜に連なる姫君である。我らの女王は失われて久しかったのだがな。生まれ変わりが現れてくれて我々は安堵しているのだ」

「そんなの私の知ったことじゃない」

「気配は女王のそれなのだがな。少なくとも、生と死の狭間を自由に往来できることが証拠であろう」

「ただの偶然」

 思えばズィブの話はかなりの眉唾物だったが、今ルシャの眼前で繰り広げられた会話も同じくらい信じがたいものである。しかし今のこの場自体が非現実である以上、どのようなことも起こりうるものだ。あり得ないということはあり得ない。

「そのお姫様はここで何をしていたの?」

「死んだ生きものの魂は冥界の門を通って冥府に行く。その前に、話をきいてあげてるの」

「別にそのようなことはする必要などないと思うのだがな」

「あなたにはわからないよ」

 そう吐き捨てる少女は、ルシャの目には、失望の念が色濃く浮かんでいた。山羊頭と少女の間には埋め難い溝があるようだった。

 ルシャは話を戻す。

「お話を聞いてあげて、それでどうするの?」

「どうもしない。ただ、きくだけ」

「えっと、それって」

「意味がないと思う?」

 少女にとってはとても大事な意味があるのだろうが、生憎ルシャにはそれがわからない。だからその旨をそのまま伝えるしか取るべき反応が思いつかない。

「あなたにとっては意味があるのかもしれないけど、私にはそれがわからない」

「そうかな。さっきまでのあなたならそうだったかもしれないけど、今のあなたならわかると思うよ」

「ほう、それは興味深い。是非解説願いたいものだ」

 山羊頭にはわからなくて、ルシャにならわかると少女は言う。一体何を根拠に彼女はそう言うのか。でたらめな願望を語るような子ではないだろうから、論理的な推論なのだろう。しかしルシャ自身には自覚できる気配がまるでない。

「今すぐわからなくても、きっと気付けるから。行こう」

 少女はルシャの手を引く。三人の旅は続く。

 

 

 二度目に辿り着いた冥界の門は、最初に見た時と比べていくらかこじんまりとしているように見えた。日の光を照り返した白銀色は眩く荘厳で、ルシャの何倍もの背丈であるのだが、一度目に見たときはただ圧倒され、恐ろしく感じるものだった。しかし今はそんなことはなく、ただの美しい門、それ以上でも以下でもない。凪いだ砂漠の中にぽつんと立っている。

「確認なんだけど、これは本物の冥界の門なの?」

「そうだ」

「ふうん……触ってみてもいい?」

「やめておけ。魂が溶けるぞ」

「溶けるとどうなるの?」

「根源に還る」

「へえ」

「試してみても構わんが、取り返しはつかんぞ」

 そう言われてルシャは伸ばしかけた手を止めた。

「死をむかえた魂は、この門を通って冥府に行くの。人も、それ以外も、みんなそう」

「通らなかったらどうなるの?」

「そのうち風化してなくなる。魂は、肉体という器に収まっていて初めてひとつにまとまっていられる。でも、それがなくなってしまったら、どんどん拡散して、薄まっていく。自分が誰かがわからなくなって、わからないこともわからなくなって、それで考えることも感じることも何もできなくなって、最後は何もないのと同じになる」

「しかし冥界の門を通ってあるべき場所に還れば、坩堝の中で眠りに就き、そしていつか新たな肉体を得て再生することができる」

 ルシャは冥界の門を見上げる。彼らの話が正しいとするならば、ルシャの魂もここから出たことになるし、仮に前世というものがあるのだとしたら、過去にルシャだった者もかつてこの門をくぐったことになる。当然身に覚えはない。

「どの魂もこの門から生まれてきたから、たとえあなたが憶えてなくても、魂が憶えてる。それがわからないのは、あなたがまだ生きてるからだよ」

「……わからないなあ。私って一体何なのかな」

 親を知らず、帰るべき場所もなく、知への憧れが虚構だったことを思い知らされ、自分が孤独であることにすら気付けなかった。そんな自分が持っているものとは一体何なのか。何もない。

「からっぽなのが虚しく感じるのは、どうして?」

「今までやってきたこと、価値があると信じてきたものが揺らいで、何を信じればいいのかわからないから」

「信じるってなに?」

 少女は真っ直ぐにルシャを見つめている。黒い瞳はどこまでも深く、闇の奥にルシャの顔が見える。この少女には、自分がこう見えているのかと驚くほどに、瞳の中のルシャは弱々しい。

 信じるとは何か。それはつまり選ぶことであって、頼ることではない。何を是とし、価値あるものとし、己の中心に据えるかを、己の意思と責任で選ぶことである。

「あなたが今まで経験してきたことのすべてが本当に虚構だったの? あなたの心が感じたものもまやかしだったの? あなたが嬉しいと感じたという事実、悲しいと感じたという事実、美しいと感じたという事実。それら以上に確かなことなんてないと思うよ。……あとは自分で考えて」

 そう言いながら、少女は握る手にきゅっと力を込めた。

 ルシャは目を閉じる。子守役の兄さんと姉さんが部屋の扉を開けるときに差し込む黄色い朝日。大婆が語る世界のあり様は緻密であると同時に荘厳なものだった。ズィブと共に見た数多の景色たち。熱病の最中、大婆が口に押し込んだ柘榴の甘酸っぱさ。大婆の書斎で読んだ書物の中でルシャは数多の抽象世界を渡り歩いた。

 それら美しいものが飛来する一方で、子供たちが押し込められた暗い部屋で、誰にも気付かれず忘れ去られるように死んでいった弟や妹たちのことが浮かんでくる。彼らは最期に何を思っていたのだろうか。熱病で苦しんでいた時に自分が感じていた孤独と同じものを感じていたのだろうか。娼館で数多向けられてきた荒んだ瞳の数々。ズィブも縋れるものを求めていた。大婆が書物に注釈やメモを記すとき、彼女はどのような痛みを堪えていたのだろう。皆、光を望み、そして明日を恐れていた。目を、耳を塞ぎながら、あらゆる痛みをなくしてくれる奇跡を求めていた。皆がそうであるように、ルシャもまた同じく、怯えながら願っていた。

 可哀想に。

 誰も彼もが哀れで、可哀相以上に言うべきことがルシャには思いつかなかった。

「……さて、来たぞ」

 山羊頭がルシャと少女の背後を見遣って言った。砂の擦れる音が存外間近であることに肝が冷える。山羊頭の視線の動きに従って振り返ってみれば、砂漠を這う骸骨がいた。灰色の襤褸を頭からかぶり、隙間からルシャを睨んでいる。ルシャに白骨の指を伸ばしている。

「大婆様」

 ルシャ、ルシャ、と骸骨はルシャの名を呼び続けている。骸骨とルシャの間を遮るように、少女が一歩進み出る。

「これは、あなたの魂を読みとって、弱みに付けこもうとしてるだけのものだよ。門をくぐるのが怖くて、死んだことを認められなくて、事実から逃げつづけて、でも消え去りたくもなくて。すべてを拒みつづけて、そしてついに何にもなれなかったものたちの、なれの果て」

 骸骨は激しく顎を揺らして少女を威嚇する。可哀相、とルシャは素直に思う。この世には一体どれだけの孤独な者がいるのだろうか。

「この人はまだ生きてる。あなたたちと同じにはならないよ」

 ルシャ、助けておくれ。私を助けておくれ。殺される、こいつらに連れていかれる。いやだ、いやだ、死にたくない。死ぬのは怖いんだ。

「関係ない人を引きずりこんだって、あなたたちは救われない。……もうゆっくり休んで」

「姫よ、もうよいか?」

「うん。連れていってあげて」

「承知した」

 山羊頭は砂に落ちている影から背丈ほどの大きさの鎌を引き抜いた。刃の色は冥界の門と同じく白銀色に輝いている。それを見た骸骨は、後ずさりし逃げようとするが、山羊頭の足の方がずっと速く、すぐに鎌の切っ先は骸骨の喉に掛かった。息をのむ音が聞こえたのは気のせいか。振り返った骸骨の目とルシャの目が合う。助けて、と訴えかけてくる。

 ルシャは乾いた口内と唾で湿らせてから、少女に問う。

「ねえ。大婆様はちゃんと冥界の門をくぐれたのかな」

「わからない」

「もし大婆様が、自分が死んだことを認めずにいられたとしたら」

「……あなたが考えているみたいに、あんなふうになっている可能性は、ある。否定することはできない。けれど、そうかもしれないと思わせるために、ああいうのは人の弱みに付けこむの。本当のことは誰にもわからない。もし仮にその大婆様だったという人が混ざっていたとしても、もうあなたにできることは何もない。これ以上迷わないように、ちゃんと連れていってあげるべき。だから変なことは考えないで」

 冥界の門が開く。隙間から冥府の冷気が靄となってあふれ出て、黄色の砂々が触れたそばから凍てついていく。靄は骸骨の体にも至り、音もなく包んで融かしていく。骸骨はかぶりを振り、声にならない叫び声をあげるが、靄はまとわりついて離れない。

 ルシャ、ルシャ、私を助けておくれ。少しでも可哀相だと思うなら、どうか、どうか……。

 りん、と鈴の音が鳴る。涼しく澄んだその音は、先刻ルシャを救ったあの音だった。

「これ以上、この人にしつこくするなら、こっちもそれなりのことをしないといけなくなる」

 お前たちはいつもそうだ! お前たちなんかに私の気持ちがわかるものか! 引っ込んでいろ!

「他の人の気持ちなんて、誰もわからないよ。みんな、自分の気持ちだってわからないのに」

 うるさい、黙れ! ……ああ、ルシャや、お願いだよ、お願いだ、助けておくれ。私の手を握っておくれよ。どうか私の――

 白銀色の刃が宙を走り、骸骨の声は唐突に断たれた。靄が落ちる骸骨の首を優しく包んで融かしていく。

「埒が明かなそうだったので、終わらせることにした」

「うん……」

 ルシャは今、自分の眼前で繰り広げられた光景を、ただ呆然と見ていることしかできなかった。なぜ自分は身動きを取れずにいるのだろうか。今、心に引っかかっているものの正体は何なのだろうか。答えはすぐ近くにあるはずなのに、正体が掴めずにいるのがもどかしい。わからないまま、直観がやれと言っていることに従う。

 ルシャは一歩、二歩と進み出る。冥府の靄に触れてはいけないことは察せられるので、細心の注意を払いつつ、間もなく靄に融けゆく骸骨の手に近づく。

「姫よ、止めないのか」

「あの人が自分で自分になることを選んだのなら、止めるべきじゃない。……そんな気がする」

「ふむ」

 そんなやり取りを聞き流し、そして骸骨の手に自分の右手を伸ばした。きっと良くないことが起こるのだろうが、それでもルシャは自分の魂に懸けてそうしなければならない。

 ルシャの中指がほとんど消えかけた骸骨の手の甲に触れたその瞬間、かつて一人の人間だった頃の思念が一気に流れ込んできた。その人は砂漠のとある街の屋敷で、小間使いとして働く女だった。ある晩、酔った主人に手籠めにされ、子を孕んだが、その事実が明るみに出る前に、粗暴な男たちの手によって嬲り殺された。彼女はなぜ自分がそのような目に遭ったかわからなかった。苦しく痛い記憶だけが残った。世の全てを恨み、死を受け入れられず、ただ救いと復讐を求めていた。

 いつの時代の記憶だったのかルシャにはわからない。ただ、かつてそのような人がいたことだけを知った。一度知ってしまったら、もう知らなかった頃には戻れない。その存在はルシャの一部として刻まれた。

「その人が大婆様って人じゃなくて、がっかりした?」

 ルシャは首を横に振る。氷よりも冷たくなった右手の中指を、左手で握りしめる。ルシャ自身の温もりで、見知らぬ死者の孤独を温める。

 知ったところでどうにもならないことをなぜ知ろうとしたのか。知らずにいることの方が、怖いからだ。この世界にはたくさんの悲しみや孤独があり、それらを抱えたまま死んでいく人がたくさんいる。人の悲しみや孤独がなくなることはないだろうが、そういうものは少しでも減ったらいいなとルシャは素朴に思う。

 

「さて、そろそろ我は冥府に戻ろう。娘よ、何か得るものはあったか?」

 山羊頭はルシャに問う。冥界の門は閉じられ、辺りは再び凪いだ砂漠に戻っていた。

「自分のちっぽけさを思い知ったわよ」

「そうかそうか。では私から土産代わりに面白いことを教えてやろう」

 山羊頭はルシャの右手を指さした。骸骨に触れた中指は、見た目こそ特に変わったところはないが、骸骨に触れた時からずっと氷のように冷たいままだった。

「その中指には冥府の瘴気が残ってしまっている。もう二度と人の温もりを取り戻すことはない。そなたの中指はもう我ら冥府の一部となった。言い方を変えれば、そなたはその中指を通じて冥府とつながっている」

「そうなんだ」

「つまり、そなたは今、本来人の身であれば知り得ない不可知の法に属するものが、自身の一部となっている。結果的にだが、そなたは中指という代償を支払って、相応の対価を獲得する資格を得た状態であるというわけだ」

「わざわざ教えてくれるなんて、親切なことね」

「我は冥府の番人であるからな。番人が価値とするのは公平であることだ。天秤は常に釣り合っていなければならない。代償を支払った者には相応の報いがあるべきだと信じているよ」

「そういう意味なら、もう十分得たと思っているけど」

「元々あったものに気付いただけだろう。それは何かを得たとは言わん。さて、そういうわけだから、自分が何を得たのかは考えてみるといい。その中指でしか感じられないことがあるはずだ」

 ルシャは自分の右手の中指をしげしげと眺めてみるが、やはり見た目に変わったところはない。山羊頭は対価に該当しないと言ったが、やはり自分の心に気付けたことはルシャにとっては非常に重要なことだった。中指の冷たさは、人の抱える孤独の象徴だ。この冷たさがある限り、ルシャはもう孤独を忘れることはないだろう。

「姫は何かあるか?」

「ない」

「そうか。我々はいつでも姫の帰還を待っているよ」

「……私の帰る場所はそこじゃない」

「今はそれでもいいだろう。だが、それでも、我々は待っているよ」

 少女は苛立ちを隠さずに顔を背けてしまった。

「どうも私は言葉の選び方が下手なようだ。人の心とはわからんものだな」

 そう言う山羊頭は寂しそうに見える。見た目が悪魔のような分だけ、奇妙に見える――とふと思ってルシャは思い出した。ルシャがズィブと同じ秘薬を口にしたのだとしたら、ズィブが取引をしたという悪魔とは何だったのか。

「ねえ、教えてほしいんだけど」

 ルシャは山羊頭にズィブのことを伝え、彼がかつて悪魔と取引をして、舌と引き換えに魔術を得た話をした。

「ふむ。生憎その悪魔とやらは知らんし、少なくとも我々自身ではないが、心当たりがないわけではない」

「というと」

「先ほどの魔物は千切れた魂の寄せ集めだったわけだが、普通、冥界の門を拒否した魂は拡散して風化するのが常だ。寄せ集まって一つの塊になることなどまずあり得ない――と言えば察しはつくかな」

「誰かが干渉したってこと」

「そうだ。ここには魂を弄ぶことに喜びを見出す連中もいるものなのだ。そういう連中にとって、彷徨う魂など玩具以外の何物でもない。『生きたまま彷徨う魂』などという珍しいものを見かけた日には、さぞかし愉快だったことだろう」

「そう……答えてくれてありがとう」

「ただの仮説に過ぎん――さて、他にはもうないかな?」

 ルシャは首を横に振り、山羊頭は頷いた。

「ではさらばだ。次に会うのは、そなたが死ぬときだろうな。それまでは、もう二度と来るでないぞ」

 冥界の門が開き、山羊頭はその隙間に身を滑り込ませる。

 

 門が閉じた後にはルシャと少女の二人が残された。

「目がさめたら、市場の東のはじっこに来て。渡すものがあるから」

「渡すもの?」

「あなたは、あの骸骨みたいななれ果てたちに目をつけられてしまった。あの人は自分たちに優しくしてくれるって、思われてしまっている」

「触れてしまったから?」

「そう。あなたはそういう人だから、そうせざるを得なかったんだけど、でも、人の心はたくさんの孤独を抱えられるほど頑丈にはできていない。さっきやったようなことを、あと何度かやったら、あなたの心はきっと壊れてしまう。けど、向こうはそんなことに構ってくれない。あなたはこれからずっと、隙を狙われつづけることになる」

「その度に追い払い続けろってこと?」

「けど、それはとても大変なこと。だから、あの子たちが寄ってこれなくなるように、おまもりをあげる」

「なんであなたはそこまでしてくれるの?」

「わたしは、わたしのやるべきことをやってるだけ」

 ルシャと少女はその場に座り、手をつないだ。役目を終えた冥界の門は消え失せ、四方の全てが空と砂漠だけの同じ景色となった。この長かった夢も終わりに近づいている。

「ここは静かでいいね」

 時が止まっていたルシャの世界は再び動き出した。日が暮れて、月が昇る。変わりゆく景色は美しいものだと思う。見上げれば無限の星々があり、それはかつてズィブと見た景色と同じものだった。

 形だけ真似しても駄目だ。目で見て、目で見えないものを視るのだよ。見えるものは全体の中の、ほんの一部にしか過ぎない。見えないところでもきちんと法則は働いているのだから。

 ズィブの言葉が思い起こされる。あの時は意味がわからなかったが、今なら体がそれを理解している。右手を空に伸ばし、中指を折り曲げる。すると、引っかかる何かがあった。その手応えを失わないように、そっと、ゆっくりと引いてみる。星が一つ、夜空を滑り落ちる。

「できた」

「流れ星を作れるようになったの?」

「そうみたい」

「ふうん」

 ズィブがそうであったように、ルシャもまた星を降らせることしかできないのだろう。そして、それができたところで不可知の法の片鱗も知れた気がしない。ズィブも同じだったことだろう。わけがわからないまま、そういうものとして行使することしかできない。

 昔のルシャであれば、躍起になってその謎を解き明かそうとしたことだろう。そうすれば、自分が死から逃れる術が見つかるかもしれないからだ。しかし今は、そうしようとは思わない。世界は広く、自分が知り得ないことがあっても、それでも世界は法則に従い規則正しく秩序を持って動いていることがわかるからだ。その美しく壮大な細密画が汚されることも損壊することもなく、そこに在り続けていることが、貴い。

「次に会ったときには、名前、教えてね」

 ルシャがそう言うと、少女は一瞬眉を顰めたが、小さくため息をつき、いいよ、と言った。

 夜が明けていく。星々は明るくなりゆく空に薄く溶けていき、眼前の空が赤く焼けていく。この世界には悲しいことが溢れているが、そういうことに左右されない世界の頑丈さにほっとして、癒される心地がする。

 澄んだ空気を胸いっぱいに吸い、腕を上げて伸びをする。大手を広げて、全身で朝日を浴びる。ルシャの世界は光に満ちた。

 

 

 長い夢から醒めて、ルシャは自分が昨晩ズィブの秘薬を口にした続きにあることを思い出した。意識を失う間際に見た通り、ズィブは既にいない。部屋が荒れ果てているのは、ルシャ自身の仕業だ。散々暴れたのだろう、腕や足が痛み、見てみればところどころ痣になっていた。

 こちらが現実であることを認識すれば、たちまち夢の記憶は薄れて消えていく。色々なことがあったが、自分を助けてくれた少女のことだけは忘れてはいけない。約束したこともあった。

「市場の、東の端」

 吐瀉物で汚れた服やシーツを片付けて、身支度を整える。太陽はまだ低く、街は昨晩の祭りが盛り上がった分だけ目覚めが遅いようだった。市場もようやく店が開き始めた頃だ。

 宿を出る。所々に酔いつぶれて寝ている人がいる。祭りの熱気は遠い昔のようで、しかしじきに再び日常が戻ってくるのだ。夢が醒めきる前に、ルシャは歩き、足を速め、駆け出していく。左右を見ながら市場に入る。

 屋台で朝食を取る人がいて、露店に品物を広げる行商人がいて、食材を仕入れに来た小間使いがいて、そういった人々の間を縫ってルシャは東の端を目指す。

 夢の中でした約束は所詮ただの夢の中のことであって、現実ではないのかもしれない。しかしそれは、確かめてみなければわからない。わからないことだが、きっとあの夢は現実のことだとルシャは予感している。右手の中指が氷のように冷たいままでいることが、期待する根拠だ。

 市場の中央広場を過ぎて、東の道に入り、進むほどに人はまばらになる。そして、市場の出口が見えたとき、そこに白いローブをかぶった少女がいるのが見えた。傍らには灰色のマントを被った男がいるが、それはいい。

 駆けてくるルシャに先に気付いたのは男の方だった。男は少女の方を向いて、口を動かす。それから男は再びルシャの方を見て、遅れて少女がルシャの方を見た。夢で見た、あの美しい黒色の瞳がルシャを捉えた。

「急がなくてもよかったのに」

 こんな風に全力で走ったのは、思えばルシャの人生で初めてのことだった。膝に手をつき、激しく肩を上下させて息が整うのを待つ。

「夢じゃ、なかった」

 それが嬉しい。

「これがマユの言ってた奴か」

「うん」

「へえ」

 男は顎の髭を指で弄りながらルシャを眺めまわした。率直に言って、ルシャは不快だった。しかし今はそれよりも、やらなければならないことがある。

 ちりん、と鈴の音が鳴る。少女が手を差し出すと、その手の平の上には鈴が乗ってた。特に変わったところのない、普通の鈴のように見える。

「紐か何かで結んで、常に身につけておいてね。そうしていれば安全だから」

「ありがとう」

 鈴を渡すと、少女は用が済んだとばかりにルシャに背を向けようとするので、ルシャは慌てて呼び止める。

「あの、名前! 教えてくれるって約束したよね。私はルシャ。ルシャっていうの。ね、あなたの名前は?」

「……マユワ」

「そっか、そうなんだ」

 眉を顰めて、嫌そうな顔をしている様子に傷つかないかと言われれば嘘になるが、本気で拒絶されているわけではないことは察せられる。もし本気で拒絶するなら、夢の中でルシャとっくに見捨てられているはずだ。

「マユが他人に名前を教えるのか。あんた、気に入られたんだな」

「べつに気に入ってない」

 先ほどから度々会話に割って入ってくるこの男は一体何者なのか。ルシャは男と目が合う。

「おう、やっとこっちを見たか」

 男は、にっ、と唇の端を上げて笑った。嫌な奴だとルシャは思う反面、油断ならない男だとも思う。

「あんた知ってるか。卵から孵ったばかりの雛ってのは、最初に見たものを自分の親だと思い込む習性があるんだ」

「知ってるけど」

「今のあんたは、まんまそれだなって思った」

「何が言いたいのよ」

「好きだからでじゃれつくだけじゃ、懐いてもらえないってことだ」

「何よそれ」

「ま、それはどうでもいい。それよりもあんた、朝飯は食ったか? まだなら一緒にどうだ。奢ってやろう」

 

 パン、山羊のチーズ、鶏肉の蒸し焼き、蜂蜜を溶かしたミルク。それらを屋台の前に置かれたテーブルの上に並べて、三人は席に着く。男とマユワが並び、彼らを向かい合うようにルシャが座る。ルシャの目から見て、二人は親子のようにも年の離れた兄妹のようにも見える。

「アルフィルクだ。で、こっちがマユワ」

「ルシャよ」

 簡単に名乗り合った後、三人は朝食に手を伸ばす。アルフィルクと名乗った男がパンをちぎって口に運びつつ、話を続ける。

「昨晩は大変だったらしいな」

「そうね。色々あったものね。で、なんであなたがそれを知ってるの?」

「そりゃ、マユが話してくれたからな」

 マユワはチーズを小さくちぎって口に運びつつ、時折ミルクを飲んでいる。二人の会話に自分から参加する気はないらしい。

「あなたたちは親子? それとも兄妹? どういう関係なの?」

「仕事仲間であり家族でもある、みたいな感じかねえ。マユ、何て言うんだろうな、こういうの」

「知らない」

「じゃあ聞き方を変えるわ。あなたたちは何をしている人たちなの?」

「そうだなあ。それも答えるのが難しいんだが、ううん。強いて言えば、死体漁りになるんかね」

「それは素敵なお仕事ね」

「どうも」

 ルシャの嫌味はさらりと流される。

「とりあえず、あなたたちの仲がとても良いことはわかったわ」

「俺たちは運命共同体だからな――さて、場も温まってきたところで本題だ。ルシャさん、あんた、これからどうするんだ」

「旅の連れには逃げられちゃったし、行くあても何もないわ」

「そうかそうか、災難だったな。じゃあこれも何かの縁だ、俺たちと一緒に来ないか」

「三人で仲良く死体漁りをするの?」

「いやあ、その商売はそろそろ限界が見えてきてるんだわ」

「一生の仕事にはなりそうにないものね」

「そう。野垂れ死んでる奴なんかそうそういるもんじゃないし、何より周りの目が痛い」

 そう言ってアルフィルクは目の動きで周囲を見るようルシャを促す。ルシャは何気ないふりを装いながら辺りを伺ってみて、合点がいった。賑わいつつある市場の中で、道行く人や露店の店主など、何人かがこちらを睨みつけている。

「だから、新しい仕事を始めようとしているってわけだ」

「ふうん」

「けどなあ、その仕事ってのが俺たち二人だとなかなか始めにくくてだな。そんな折に、マユがあんたを拾ってきた」

「拾ってない」

「ものの喩えだ」

「で、何を始めるのよ」

「うん、葬儀屋だ。これなら死体に近づいたって怪しまれない。しかし一方で、葬儀屋を名乗るなら顧客が満足する葬儀ってのをしなきゃならん」

「死体漁りをやめる気はないのね」

「まあ、色々理由があるんだわ」

 アルフィルクは肩をすくめるが、マユワ絡みの事情なのだろうということは察せられる。ほんの僅かであるが、マユワの横顔が曇ったからだ。

「そこで、あんたの助けを借りたい」

「私は何をしたらいいのかしら」

「上手いこと葬儀を取り仕切って、ご遺族様を満足させてほしい」

「一番肝心なところじゃない。そんなのやったことないわよ」

「やったことがある奴の方が珍しい」

「いや、でも、人を弔うってよくわかんないし」

 いつかズィブとの旅先で見た喪服の集団を思い出す。葬儀を取り仕切るのは、人望や徳のある人がやるべきものではないのか。ルシャが読んできた書物でもそう書いてあった。

「もう、あなたは知ってるはずだよ」

 マユワが口を開いた。

「死んでしまった人はもう生き返らないし、門を通っていくしかない。けど、残された人が、ぽっかり空いた心の穴に折り合いをつけられるかどうかは、別の話。ゆっくり自分と向き合って、また前を向けるようになるための時間や機会が必要なときもある。もしそれがなかったらどうなるかって、あなた自身が一番よくわかってるはず」

 どうなるか。人は狂うのだ。

「別に難しいことじゃない。あなたができるやり方でやったらいい。大事なのは、残された人の寂しさに寄り添えるかどうかだから。それがどういうことか理解したあなたになら、頼んでいいと思った」

 マユワはじっとルシャの目を見た。それは夢の中で向けられたものと変わりない。

「俺は見ての通り、そういう柄じゃない。というわけで誰かふさわしい奴に頼みたいってわけだ」

「マユワちゃんならとても上手にできそうだけど」

「ううん、私には向いてない。私は死者に近すぎるから、優しい嘘をついてあげられない」

「優しい嘘?」

「死んだ人の魂が天国に行けるとか、生者の祈りが魂を導くとか、そういうの」

「私だって別に信じてるわけじゃないよ」

「でもあなたは、門を通ることを拒否した魂がどういう風に壊れていくのかとか、門を通った後の魂がどんな風に溶けていくのかとかまでは知らない。だから、天国で安らかに暮らす魂がある世界を想像することができる。けど私にはそれができない」

「よしそこまでだ。うちのお嬢様をあんまりいじめないでやってくれ」

 アルフィルクが割って入って、話は唐突に終わった。マユワが小さく、ごめん、と呟き、アルフィルクがマユワの頭に手を乗せ撫でてやる。

「残酷な真実と甘美な嘘のどちらが慰めになるかは人次第、ってことかしらね」

「そういうことだ」

「ううん。正直に言うとね、まだよくわからないのよね。人を弔うっていうのもそうだし、私に務まるのかもそうだし、あなたたちの言うことを信じていいのかも」

 ミルクの入ったコップを両手で包みながらルシャは言葉を続ける。

「けど、やる。やるわよ。どうせ元々行くあてもないし」

 それに、ルシャが自分の人生で考えるべきことは、どう歩くかだけだ。葬儀屋として新たな一歩を踏み出すならば、最初にやるべきことは何か。それは決まっている。ルシャの直観に後付けで理由がついてくる。

「こういうことをやるなら、最初に行きたい場所があるんだけど」

「どこだ?」

「それはね――」

 ルシャがアルフィルクとマユワに耳打ちをすると、二人は肯定の意で頷いた。

 

 

 砂船の舳先を東に向けて走らせること約半月、ルシャが慣れない力仕事で手足に細かい傷を作っているうちに砂船はルシャの育った娼館のある街に辿り着いた。ルシャがズィブと一年半かけて辿った旅路は砂蛇のようにくねくねと折れ曲がっていたが、目的地を定めて一直線に進んでみれば、そう遠く離れていたわけではなかったらしい。

 風向きが変わって、嗅ぎ慣れた甘い香りが漂ってくる。懐かしさはない。ただ胸中に飛来するのは、弟や妹たちのことだ。元気でやっているだろうか。

 日没は間もなく訪れる。激しい西日を薄目で見遣りつつ、ルシャたちは娼館の正門の前を横切り、壁沿いに裏手の方に回る。勝手口からしばらく歩けば、街のごみ捨て場がある。ルシャもかつては何度となくごみを持って往復した場所だ。そこに溜まったごみは、やがてごみ捨て人がまとめて砂漠の僻地に運び、再度捨てる。そして風や砂に晒されて風化したり、砂漠の生物たちの餌になったりして、自然に還っていく。それらの中には、ルシャが自分の手で捨てていった弟や妹たちも含まれるし、あるいは兄さんや姉さんたちが捨てていった娼館の住人たち、そして大婆も含まれる。

 今日のごみは既に運ばれた後らしい。広い敷地にごみはほとんどない。

「ちょっと歩くけど、付き合ってね」

 ルシャは振り返り、アルフィルクとマユワに告げる。二人は黙って頷いてくれた。

 

 ルシャが先頭を歩き、アルフィルクとマユワがその後に続く。街の灯は今は後方遠くにある。今夜も娼館は賑わっていることだろう。しかしその嬌声がここまで届くことはない。砂と風と星と月だけがここにはある。半月前にマユワたちと歩いた凪いだ砂漠とは異なり、ここには様々な砂漠の生命の息吹が密やかに聞こえる。

 約半刻ほど歩き、ルシャは足を止める。何もない砂漠の中だった。

「うん、ここにしようかな」

 指と指を絡めて手の平を反らし、天に突き出して伸びをする。まだ生温い空気を胸いっぱいに吸って、吐き出す。右手の中指は今も冥府の冷気を帯びており、右手首にはマユワからもらった鈴が結び付けられている。りん、という鈴の音がルシャの耳元で小さく響いた。

 右手の中指に意識を集中させる。不可知の力学を探り当てる。

 色々なことがあった。散々道に迷って、たくさん彷徨ってきた。未練や後悔がないかと言われれば嘘になるが、それでもそのとき選べる道は自分で選んできた自負だけはある。

 かつて大婆はこう言った。ルシャ。お前は子供たちの中でも人一倍賢い子だ。きっとお前は私みたいに長生きするだろうよ。

 ルシャは大婆が期待したような賢さは持っていなかったかもしれないが、不思議な縁と運に恵まれて、今もこうして生きている。命を落とした兄さんや姉さんたち、あるいは弟や妹たちは、ルシャが持っていたものを持っていなかったのだろうか。そうだとするならば、なぜルシャだけがこうも特別なのか。わからないし、そこにはそもそもきっと意味もない。意味を求めることにも意味がないのだろう。あるのは結果という事実だけだから。結果としてルシャは今この場に立っている。

 右手の中指の先端を、見えない糸に引っ掛ける。手の平で空を撫でるように糸を引けば、星が一つ夜空を滑り落ちて、光は砂漠の地表に注いで落ちた。光の痕跡は砂漠の表面に残り、星が瞬くように光も明滅している。

 ルシャは身を翻し別の糸を探り当てる。弦を弾くように指を走らせれば、先ほどよりも速く星がまた一つ降って地表に滴り落ちる。右手を振り上げ、下ろせばまた一つ。

 右手の中指という指揮棒を振るたびに、星はルシャの意に従いその身を躍らせる。星々は雨となって夜空を滑り落ち、落ちた分だけ地表は星々の斑点で埋まり、天地は混然一体となる。空にも地にも星の海が広がった。

 死者の魂が行く先は、決して幸福なものではない。マユワに言わせれば、ある魂は冥府で魂の坩堝に還り、またある魂は逃避の末に消散してしまうらしい。その真偽を確かめる術はないが、おそらくそうなのだろう。しかしそれでも、坩堝に還った魂が安らかに眠ってくれたらいいなと思う。人知れず、誰にも看取られることもなく、あるいは惜しまれることもなく、そうして死んでいった娼館の家族たちは数多いたけれど、そのうちの一体どれだけが無事に冥界の門をくぐれたことだろうか。彼らの死に際を思えばルシャは胸が痛くなる。彼らが息を引き取ったそれぞれの瞬間、自分は何を考え何を感じていたか。何も考えていなければ、何も感じていなかった。麻痺して感情の失われた心には何も届かなかった。

 そんな彼らを想い、過去を取り戻すように、そしてそれが気休めに過ぎないと知りながらも、祈りが時を越えて過去に遡り死にゆく彼らに寄り添ってくれる夢を見て、ルシャは胸の前で手を組み、肺に空気を溜め、ゆっくりと喉を震わせる。

 夜に寝付けない弟や妹がいたとき、ルシャはその子を背負ってよく娼館の屋上に出た。星空を見せながら、子守歌を歌ってやった。いつからかやらなくなってしまったが、そんなことをやっていた。娼館で暮らす者たちは誰もが親を知らない。それにも関わらず、なぜルシャは子守歌を知っていたのか。忘れていた記憶がまた一つ掘り起こされて、かつてルシャがまだ幼い頃、ルシャ自身がその子守歌に安らいでいたことを思い出す。歌ってくれていたのは、そう、大婆だった。優しい歌声だった。

 ルシャの歌声は夜空に響く。歌声はその場にいたアルフィルクとマユワの二人にしか届かない。冥界の門がある生と死の狭間の世界や、門を通った先にある冥府までは決して届かない。

 大婆が死んだことを告げられた日、実を言えばルシャは動揺していた。しかし娼館の中で、兄さんや姉さんは嬉々として大婆が死んだことを喜んでいた。これでやっと静かになる、目障りだったんだよな、と散々な物言いで、ルシャが可哀相とでも口にしようものならば、果たしてどのような目に遭ったか想像に難くない。娼館の中での失敗は自分の死に直結する。道を間違えないためには、兄さんと姉さんに混じって、大婆を悪し様に罵るしかなかった。ルシャが心の痛みを感じなくなったのは、思えばそれからだった。そして今、そのことを思い出してしまった。

 数多の兄さんや姉さんたち、弟や妹たち、そして大婆を踏み台にし、見殺しにして今のルシャがある。罪悪感の重苦に苛まれながらも、今この瞬間こうして生きている。明日も、その先も、死なない限りルシャは生き続ける。そうしてしまう。過去や罪の重さに押し潰されそうになりながらも、ルシャの心臓は鼓動を止めない。高熱で死にかけたあの時ルシャ自身が強く望んだ通り、ルシャはこれからも生き続けるのだ。

 ルシャが歌を歌い終えると、地表の星々は光を失い、辺りは元の夜の砂漠に戻った。胸の痛みや苦しみこそが、ルシャが今生きている証だった。そして、ルシャの心の内とは関係なしに営みを続ける世界の在り様は、ルシャを孤独にさせながらも、そこに居ることを否定せずにいてくれるものだった。

 ルシャは振り返る。そこにはアルフィルクとマユワがいる。これから先、どこまで彼らと共にいられるだろうか。

「終わったよ」

 ルシャがそう言うと、アルフィルクは軽く手を挙げ、マユワは小さく頷き、それぞれ応えてくれた。

 

(了)

初稿:20211027

第二稿:20211030

2021年2月11日木曜日

砂漠の幻葬団(1. 砂鯨 another side)

  心臓と胃袋の間あたりを撫でられるような違和感。強いて喩えるならばそんな不快さでマユワは目を醒ました。窓の外を見なくても、どの方角に冥界の門が建ったのかはわかる。
 マユワは上体を起こし、むかむかする腹を手でさする。こうしたところで少しも良くはならないのだが、気休めくらいにはなる。
 そんなマユワの気配を察して、隣で寝ていたアルフィルクも目を醒ます。
「死んだのか」
「うん、すごくおっきいの」
「……砂鯨か」
「たぶん」
「水はいるか?」
「ちょうだい」
 アルフィルクが降りる弾みでベッドが軋み、反動でマユワの体が軽く上下に揺れる。その揺れですら今は気持ち悪い。水差しからコップに水を注ぐ音は近いような、遠いような、はたしてベッドからテーブルまでの距離はどの程度だったか。無意味な思索だが、今は意識を少しでも逸らさないと嘔吐してしまいそうだった。
「ほら」
「ん……」
 受け取った水を半分ほど飲み、一度喉に通す。それからもう一度、今度は最後まで飲み干した。夜の冷気で冷えた水が胃に広がるのがわかる。その清涼さはいくらかマユワの気分を和らげてくれた。
 その間にアルフィルクは身支度を整える。部屋を出て、別室のグラジとルシャにも声を掛ける。俄かに宿の二階は物音で溢れるようになった。
 私も準備しないと……。しかし体は動いてくれない。冥界の門はいつも不快を伴うやり方で己の存在をマユワに伝えてくるが、今回は特にひどい。ただ冥界の門が大きいだけでなく、そこに伴う思念が色濃いのだ。愛にせよ、憎しみにせよ、込められた気持ちの濃度が並大抵ではないようだ。マユワの手足は蝋で固められたよう重たく、動かそうという意思に反して体が応えてくれない。
「無理するな、じっとしてろ」
 部屋に戻ったアルフィルクが準備の手を止めずに声をかける。
「マユの分はいつも通りでいいな。反応はなくていい。違うなら言ってくれ」
 マユワは小さく頷いた。いつも通りでいい。その頷きをアルフィルクが見ていたかどうかはわからないが、どのみち沈黙は肯定を意味する。
 暗い部屋の中、灯りもつけずにアルフィルクは手際よく出発の準備を進める。行って帰ってくるまでは最長で四日程度を見積もる。その間の水と食料、仕事道具一式、その他雑貨類。適宜グラジとルシャに指示を出し、部屋を出入りする。一連の準備の一部として、アルフィルクはマユワの寝間着を脱がせた。
「汗、かいてるな」
 水差しの水を布に含ませ、マユワの背中や腋を拭う。体から熱が抜けていく感覚がマユワには心地良い。一通り全身を拭い終わると、新しい下着に替えて出立用の衣服を着させる。着替え終わる頃には、気分はだいぶ良くなっていた。
「団長、準備できたぞ」
「わかった、行こう――マユ、歩けるか?」
「もう大丈夫」
 グラジとルシャに続いてアルフィルクとマユワも部屋を出る。

「門はどっちだ」
 アルフィルクに問われ、マユワはある方角を指さした。グラジが帆を操り、舳先をそちらに向ける。マユワの目には白銀色の光を淡く帯びて輝く巨大な門が砂漠の彼方に見えているが、他の三人はそうではない。しかしマユワがあると言うのだから、あるのだ。
 今宵はよく晴れているが月のない夜だった。どこまでも続く星々の海を空に仰ぎながら砂船は走る。その間は誰も喋らない。グラジは風を読んで帆を操り、ルシャは荷物に背もたれて空を見上げ、アルフィルクは船の先端に座り込み、マユワはアルフィルクのマントの陰に座って舳先が指し示す冥界の門を見つめている。
 冥界の門が建ったということは、その近くで何者かが命を落としたということだ。砂漠の旅には常に危険が伴うので、たとえ砂鯨だろうが、いつ誰が命を落としたとしても、決して不思議なことではない。一人旅だろうが、二人以上の旅だろうが、危険性に差はない。熱病、毒蠍、野盗など、砂漠には危険が溢れている。
 一人旅をしている者が死んだのならば、その亡骸は自然のままに任せるよりも、人の手で弔い、砂ではなく人間の社会に還した方が良いものはそうしてやるのが良い。二人以上の旅の場合、全員が死んでいれば同じく弔うべきだし、もし生き残っている者がいれば極力平和裏に事を進めるのが良い。すなわち、話し合いだ。交渉が成立すれば手間賃を貰う代わりに街まで生き残った人間を運ぶし、遺体も場合によってはその場で弔う。
 無論、アルフィルクたちのこれらの活動は誰かに頼まれてやっていることではないし、善意でやっていることでもない。各自ができることを繋ぎ合わせたら、葬儀屋のようなことをするのが一番仕事として形になったというだけのことだ。
「この辺りでいいよ」
 発ったときには親指ほどの大きさでしかなかった冥界の門が、すっかり見上げるほどになるまでに砂船は近付いた。白銀色の門柱は冥界の風を浴びていくつもの細かい傷を負っている。しかし門扉の方は、同じく白銀色であるにもかかわらず、そこに傷はなく、代わりに死神の国の文字が細かく刻まれている。門はまだ開いていないらしい。
 アルフィルクに手を引かれてマユワは船を降りる。冥界の門までは歩いて数十歩の距離だった。
「じゃあ、行ってくるね」
「おう」
 マユワはアルフィルクに小さく手を振った。砂船の縁でルシャも手を振っているのが見えたので、そちらにも手を振り返す。
 冥界の門が建ったときの不快感はだいぶ収まっていたものの、いざ門の前に立つとやはり腹の底がざわざわする。しかし今用事があるのは冥界の門ではなく、すぐ近くにいるはずの死者の魂だ。マユワは目を閉じ、耳を澄ませ、額の辺りに神経を集中させる……。
 さり、さり、さり……。砂の擦れる音が聞こえてきた。それは彼方からやってきたというよりは、すぐそばに来ていたことが不意に意識上に浮かんだと言うべきものだった。足音の主はずっと前からそこにいて、マユワが遅れてその事実を察知したのだ。だから瞼を開いてみたときに、目の前に砂鯨がいたとしても、それは驚くべきことではない。
 美しい砂鯨だった。娘と呼べるほど若くはないが、老女と呼ぶにはまだ早すぎる。冥界の門と対峙する横顔は凛として静かだった。自分が死んだ事実は既に受け入れており、ただ静かに冥界の門が開くのを待っているようだった。やがて冥界の門が開き、そこから現れる死神が彼女を冥府に導いていくことだろう。
 生者が死者と関わる術を持たないのと同じように、死者もまた生者と関わる術を持たない。だから、今この瞬間、砂鯨自身からしてみれば、彼女は何も無い世界の中に佇んでいる。すぐそばにマユワがいることなど知る由もない。マユワはその様子をそっと見守り続けていてもよい。しかし、穏やかな見た目や佇まいとは裏腹に、砂鯨の心の内には罪の意識と愛慕の情が激しく渦巻いているのが見て取れて、無視し難いものだった。
 マユワは手を伸ばし、砂鯨に触れた。指先から砂鯨の熱が伝わってくる一方で、砂鯨も自分が触れられたことを認識する。一瞬驚いた様子だったが、どうやらマユワを迎えに来た使者と誤認しているらしい。
「ごめんね、違うの。私はあなたを連れていく人じゃない」
 では、あなたは一体……? 
「生者と死者のあいだを漂ってるだけの……ただの人間」
 ……何か特別な事情があるようですね。しかしきっと何か意味があって、あなたは私の前に現れたのでしょう。
「ううん、私があなたに与えてあげられる意味なんて、何もないよ。私ができるのは、あなたという存在を認識し、記憶することだけ。私が見聞きして理解しうる限りのあなたの像を、私の中に複製する。それ以上のことはできない」
 そういうことをあなたが望むならば、だけど。そう付け加えて、マユワは砂鯨の反応を待つ。
 砂鯨はしばらく逡巡した後、言葉を探しながら語り始める。砂鯨に触れたマユワの指先から、砂鯨の思念がマユワの中へ注がれていく。

 百年分の記憶がマユワの中を駆け巡る。砂鯨の半生のほとんどは砂漠の旅であった。生まれたばかりの頃こそ他の兄弟や親と砂漠を放浪していたが、ある時からは家族と離れて人間に飼われて砂漠を旅するようになった。主となった人間は、マユワが数えた限りで四人ほどいた。
 一人目は行商人の男だった。一番目の主にとって砂鯨はと砂漠を旅するための足であると同時に資産だった。買われてから十年ほど経ったある日、異国の彫刻物を買う資金を作るために砂鯨は市場で売られた。砂鯨は主に対して彼女なりの親しみを持っていただけに、何の躊躇いも労いもなく売られた時には大変悲しかったものだ。
 二人目の主も行商人の男だったが、こちらは砂鯨をとてもよく扱ってくれた。砂鯨に白く可憐な花を意味する名前を与え、朗らかに笑いながらその名を呼んでくれた。砂鯨は男を背に乗せて砂漠中を隅々まで旅した。危険な目には数えきれないほど遭ってきたが、砂鯨と男は共に助け合い、危機を乗り越えてきた。
 出会ってから三十数年後、二人目の主は若い妻を娶り、東西の貿易の要衝となる街の一角に居を構えた。蓄えた財をはたいて家と商店を手に入れたのだ。行商人として大成したのだから、実にめでたい話である。砂鯨も敷地の中に専用の小屋を貰ったものの、主と寝食を共にすることはなくなった。朝と晩に小間使いの小僧が雑穀と水を運んできてくれるし、毒蠍に襲われる危険もない。安全と平和が約束された退屈な日々を手に入れることができた。
 それから二年後、主人夫婦に長男が生まれた。彼が後の三人目の主となる。砂鯨は彼が乳飲み子だった頃から成長を見守ってきた。一人で歩きだし、言葉を発し始めるようになる頃から彼は砂鯨の元を頻繁に訪れるようになった。最初は母親や召使いを引き連れてだったが、一人で来るようになるまでにさほど時間はかからなかった。
 人間と砂鯨では寿命が三倍以上も差があるので、砂鯨の時間感覚から比べると人間は実に驚くべき速度で成長するように見えるものだ。男の子が少年となり、青年となるまでの十五年間は、かつて旅をしていた頃の日々とは違った新鮮さと面白さがあった。
「いつか君と一緒に、父のように行商の旅に出たい」
 その声色は父親によく似ていると砂鯨は感じた。そして、果たして青年の夢は叶うことになる。
 二人目の主は、彼の息子が二十歳を迎えた年に天寿を全うした。葬儀の間、砂鯨は小屋から出ることはできなかったが、彼女なりのやり方で主の死を悼んだ。数えてみれば、五十年以上の付き合いだった。
 父親の跡を継ぎ、息子は商会の当主となったが、新しい当主は信頼できる幹部にその座を譲ると、自分は行商の旅に出ると宣言した。この辺りのくだりは砂鯨が三人目の主となった青年から聞いたことだったが、砂鯨にとっては重要な話ではない。肝心なのはおよそ二十数年ぶりに旅に出られたということだ。広大な砂漠に躍り出る瞬間は心も踊るものだとつくづく感じた。
 砂鯨にとって、三人目となる新しい主は赤子の頃から見守ってきた人であり、息子同然の存在だった。しかし彼は二人目の主に見た目も気質もよく似て、砂鯨を最良の相棒として扱ってくれた。旅を続けるうちに彼は砂鯨が初めて彼の父親と出会った時の年齢となり、ますます砂鯨は懐かしくなっていく。そして当時無意識に感じていた恋心を思い出し、意識し始めるのにさほど多くの時間は要さなかった。
 季節を経る毎に青年は日に灼け、逞しくなっていく。目尻に刻まれる皺が深くなっていくのは、それだけ彼が行商人として経験と苦労を積み重ねてきた証拠である。しかし砂鯨の名を呼ぶときの声は変わらず甘く優しいのだ。彼に名を呼ばれ、触れられるだけで砂鯨は幸せだった。彼を乗せて砂漠をどこまでも行けたらいいなと思う。もちろん人間と砂鯨とでは流れる時間の早さが違うので、いずれ死が二人を隔てる日も来ることだろう。その最期の日まで一緒にいられたらいいと砂鯨は思っていた。そして、その願いが儘ならないものであることも、知っていた。
 ある晩、焚火の傍らで彼は砂鯨にもたれて座りながら語った。
「僕と君が行商を始めて、もう三十年くらいになるね」
 そうですね。
「最近、よく思うことがあるんだ。父は、ちょうど今の私と同じくらいの年で母と結婚をした。若い頃は、なぜ父はもっと早く身を固めなかったのか不思議に思ったものだけど、気付けば私もこんな年になってしまってね、今ならわかるよ。君とする旅はすごく楽しいんだ。いつまでも続けていけたらと思って、やめるのが惜しくなる」
 ……。
「けどね、私も年だ。もう長旅に耐えられるような体力はないよ。だからね、父がそうしたように、私も私の旅を終わらせようと思うんだ。どこかの街に家を買ってね、君と一緒に余生を過ごしてみたい。そう思うんだけど、どうだろう?」
 ……ああ、既に意中の人がいて、あなたの中ではもう旅は終わっているのですね。
 彼は砂鯨の予想を裏切らず、婚約した女性の話をし始めたが、それは砂漠を吹き抜ける風と同じで聞き流すべき雑音だった。そんな話は聞きたくないし、知りたくもない。
 薄々予感はあった。商談と称して酒場に行ったものの、いやに帰りが遅くなる日がここ数ヶ月は多かったし、行く先々の街で受け取る便箋の中にはなぜかいつも同じ香りの手紙があった。それは前の主が妻を娶る数か月前の状況と酷似していた。
 人間と砂鯨では流れる時間の早さが違うのは、嫌というほどわかっているはずだった。人間は人間の時間を生きるし、砂鯨には砂鯨の時間がある。生まれた時から見守ってきたはずの男の子は、いずれ自分よりも先に逝ってしまう。同じ時間を生きられるのは砂鯨の生涯の中の一部だけだ。
 砂鯨は永遠を欲していた。愛する人、魂を補い合う人との終わらない日々が欲しかった。死が二人を隔てるのであれば、後を追えばいい。しかし現実はもっと残酷で、そもそも彼は砂鯨を愛しておらず、永遠にしたいとも思っていなかった。人間の時間の中で人生を歩んでいたのだ。しかしそれは仕方ないことなのだろう。何せ、人間と砂鯨だ。根本的に種族が違う。人間である彼が人間の女と番になるのはとても自然なことなのだ。
 五十数年前もそんなことを無意識に考えた。その結果、小屋という名の牢獄を与えられた。愛した男が知らない女のものになるのを見てきた。安全と平和で蓋をした地獄に突き落とされた。愛した人に別れを告げて旅に出る自由すら得られなかった。その苦しみを思い出すと、砂鯨は気が狂いそうになる!
 そんな砂鯨の心中など彼が知る由もなく、ついに婚礼の日は訪れた。彼とは親子ほどに年の離れた花嫁は純白のヴェールを被っており、一切の穢れを知らない生娘であった。彼は花嫁を愛おし気に見つめ、花嫁も精いっぱいの愛を彼に向けて見つめる。そして二人は仲睦まじく手を取り合い、花びらの舞う道を歩き出した。彼の商売仲間や花嫁の縁者が道の両脇に立ち、二人の新しい門出を祝福する。人間の言葉が聞き取れないと感じたのはこれが初めてだった。
 そこから先のことは覚えていない。発揮し得る限りの暴力を発揮し、そして全てが終わったとき、愛した人は砂鯨の胸の中で息絶えていた。ついぞ砂鯨が望んだ永遠は手に入らなかった。

 辛苦の末にようやく幸福を迎えた老商人に突如降りかかった災厄は、よりにもよって、彼に長年仕えてきた砂鯨の錯乱によって引き起こされた。実に不幸な事故である。妻になるはずだった女は「あの砂鯨は八つ裂きにして殺すべきだ」と主張したというが、砂鯨の所有権は故人にあり、所有者が死んだ後の所有物の扱いは人間の法に従わなければならない。故人の血縁は既に一人残らず亡くなっており、また、件の女もまだ法的な婚姻関係は結んでいなかった。よって、故人の遺産を相続する者はいない。以上のことから砂鯨を含む故人の遺産は公正に売却処分され、売却益は国庫に納められることとなった。妻となるはずだった女はその決定を知ると気が触れて、とても人間とは思えないような怨嗟の声を上げたというが、以後その行く末を知る者はいない。
 換気のために開けられた小さな穴からは町人の噂話を囁く声がいくらでも聞こえてくる。ひどい雑音だった。砂鯨は光も射さない暗い部屋に閉じ込められていた。暗闇の中で終わりのない夢を見ていた。
 遥か遠くの未来、人間の娘に生まれ変わった砂鯨は、愛した男に再会する。前世の記憶はないが、魂で結ばれた二人であるから、再会は必然だった。砂鯨だった娘は人間の言葉で愛を囁き、自分の気持ちを伝える。男は娘の気持ちに応え、力強く娘を抱きしめてくれる。そんな自分たちを砂鯨は遠くから見ている。そして然るべき疑問に気付く。あの人に抱かれている女は誰で、今思案している自分は誰なのだろう。どちらが本当の私なのだろう。しかしこれは問いが既に解となっている。すなわち、あの人に抱かれている女は自分以外の誰かであり、今思案している自分こそが自分自身なのだ。その事実に気付いた瞬間、一切が砂となり崩れ落ちる。そこは広大な砂漠で、灼熱の太陽が燦々と輝き、自分は砂鯨である。砂鯨の身でありながら人間を愛してしまっただけでなく、嫉妬と憎悪に駆られて彼の命まで奪ってしまった、愚かで罪深い砂鯨である。砂鯨は砂鯨以外の何者にもなることはできないというのに。そしてハッと目覚めてみれば暗闇の中である。光のない部屋に閉じ込められて久しいことを思い出す。前方に外の光が扉の輪郭を縁取っているのが見える。いつか扉が開くことがあるのかもしれないが、今は閉ざされている。砂鯨は再び眠りに落ちる。雑音が煩い。
 長い時間を経た後、砂鯨は砂鯨商人の市場に連れていかれた。遠い昔、数えれば八十年以上前に、一時期身を置いていた場所だった。砂鯨は砂鯨として三度売りに出されたのだ。また誰かが砂鯨を買い、その人と主従関係を結ぶことになる。死ぬことも許されず、砂鯨は長い時を生きる。
 ――そんな折に現れたのが、ほとんど子供と言っても差支えのない少年だった。後に四人目の主となる者である。
 なぜか少年は他にたくさんいる同朋ではなく、その砂鯨を選んで足繁く通っていた。毎度必ず少年は砂鯨の頭に手を乗せる。そして何か独り言を呟く。数分、あるいは小一時間、日によってまちまちだが、彼は忙しい時間の合間を縫って砂鯨の元を訪れているようだった。足音で少年を判別できるようになるまでそう多くの時間はかからなかった。
 心を閉ざすように瞼も閉じていた砂鯨だったが、あまりに熱心に足を運ぶものだから、一度だけ薄く瞼を開いてみたことがある。いったいどんな物好きなのだろうか。
 そこにあったのは瞳である。少年の瞳は砂鯨と同じように疲弊していたが、その奥には絶えることのない旅への憧れが息づいているのが見えた。それは二人目の主、砂鯨が最初に愛した人が持っていたものだった。同時に、三人目の主、砂鯨が命を奪ってしまった人も持っていたものだった。それと同じものを、この少年も瞳に宿していた。純粋無垢な憧れは、尊いものであると同時に眩すぎるものだ。砂鯨は嘆息する。なぜ、どうして、自分の前には同じ瞳の人たちが現れ続けるのだろう。
 もし人間が信じるところの神なるものが在るのだとしたら、彼あるいは彼女は、砂鯨に啓示を与えているのかもしれない。それを読み解けば、少年が現れた意味もわかるのかもしれない。しかし砂鯨に信仰はなく、あるのは空と砂漠と万物を統べる法則である。偶然は偶然でしかなく、そこに意味はない。少年が砂鯨を欲し、砂鯨商人が少年に砂鯨を売却することにしたのならば、砂鯨の意思とは関係なしに、再び旅は始まる。広い砂漠をどこまでも行くのだ。
 檻の戸が開かれる。出口は黄色く眩く輝き、少年の影が立っている。さあ、旅に出よう! 未知が俺たちを待っている! 差し伸べられた手に、砂鯨は自らの頭を寄せる。
 いつか終わることが約束された旅へ、さあ、参りましょう……。
 かくして少年イトと砂鯨の旅が始まった。

 およそ五年の時間をかけて、イトと砂鯨は砂漠の街々を巡った。イトが地図につけたバツ印は無数にあり、それらがイトの旅の痕跡である。もっとも、砂鯨からしてみれば、どれも数年から数十年ぶりに訪れる馴染みの場所だったのだが、まだ幼いイトにとっては訪れる場所の全てが新鮮であり、そして次第に飽きて失望するものでもあった。どこへ行こうが、魔法も奇跡もない。あるのは結局同じ人間だけだ。
 それはそうだろう、と砂鯨は思う。栄枯盛衰はあれども、人間がいるところには必ず人間の営みがある。ある程度衣食住を効率化させることができたら、余暇時間で文化的な営みや戦争的な営みを行うのが人間という生き物だ。それはどの地域で暮らそうが変わらないものである。期待が外れてがっかりするのは可哀相ではあるが、そもそもの期待が間違っているのだから仕方ない。
 そしてイトはついに最後の街にバツ印をつけた。もうこれ以上行くべき場所はない。次に訪れる街は、どこであれ、決して初めての場所ではありえない。
 バツ印で埋め尽くされた地図から顔を上げると、イトはぽつりと呟いた。
「行けるところまで行ってみるか」
 砂鯨はイトの真意を測りかねたまま、イトの望むままに進路を南に向けて砂漠を泳いだ。最後の街は砂漠の南端にあったので、地図の端に向かって進むことになる。
 当たり前のことだが、行けども行けども砂漠である。何もないどころか、進むほどにますます太陽は高くなり、垂直に降り注ぐ日光が容赦なくイトと砂鯨を焼いた。砂漠の砂は一粒一粒が太陽の欠片のようであり、砂鯨の分厚い皮膚を貫通して熱を伝えてくる。いくら砂漠に生きる砂鯨といえども、死のリスクが無視できないほどの存在感で脳裏に浮かぶのだから、一介の人間に過ぎないイトは如何ほどか。
 街から離れれば離れるほど、戻るにも同じだけの時間がかかる。水と食料、それから自身たちの体力の残量を正確に見極めなければならない。さもなくば、イトも砂鯨も砂漠の真ん中で野垂れ死ぬことになるだろう。それにもかかわらず、イトは前へ前へと突き進んだ。
 日が沈み、月が昇る。月が沈み、日が昇る。日が沈み、月が昇る、そして再び月が沈み、日が昇る。慣れ親しんだはずの砂漠の日常であるにもかかわらず、イトが熱に浮かされたように南を目指し続けるものだから、砂鯨は困惑し、そら恐ろしくさえあった。
 私たちは一体どこに向かっているのでしょう? あるいはそもそも、どこかに辿り着くのでしょうか?
 砂鯨の疑問などイトが知る由もなく、イトはただひたすらに前だけを目指していた。
 ――何度目とも知れない夜明けを迎えたとき、不意に吹いた風は今まで嗅いだことのない香りを孕んでいた。それは砂鯨の背中に乗っていたイトにも分かったらしい。
 永遠に続くかと思われた砂と空の景色の彼方に、イトと砂鯨が知らない何かがある。それは一体何か。わからない。わからないことに、砂鯨は興奮する。百年以上生きてきて、世界の事は何でも知っていると思っていたのに、まだ知らないものがあったなんて!
 そしてついにそれは現れた。
 これまで空の境界は砂の乾いた色で描かれているものだった。しかし、この日初めて砂鯨は、空より色濃い青色で空が区切られているのを見た。オアシスで見た湖とは比べ物にならないくらい広大な水の塊だった。果てが見えない。砂漠と同等か、もしかするとそれ以上に広いのかもしれない。
「これが、海か……」
 イトの呟いた言葉で砂鯨は海というものを知った。
 波打ち際でイトと砂鯨は並んで佇んでいた。潮の香りは瑞々しく、寄せて返す波が引いた後にはいくつもの泡が残り、弾けて消えていく。その途中で、新たな波が泡を飲み込み、イトと砂鯨の足元にまで迫ってくる。
 砂鯨はここが己の限界だと悟る。これ以上先に砂鯨は進むことはできない。砂鯨という種族ゆえの限界だ。砂鯨は目を瞑り、潮騒に耳を傾けた。瞼越しに暮れなずむ空の茜色を見た。
 しかしイトはおもむろに立ち上がると、靴を脱ぎ、一歩、もう一歩と歩み出る。濡れた砂はイトの足の形に沈んで跡となる。寄せた波によりイトは足首まで海水に浸る。そして波が引くと、足跡は薄らいでいた。もう何度か波をかぶれば足跡は完全に消えてなくなるだろう。
「冷たいな」
 イトはそう言って笑った。今まで聞いたことのない、朗らかな声だった。砂鯨の方を振り返り、目を輝かせた。
「やっぱり世界ってまだ広い」
 砂鯨はその瞳に再び恋をして、絶望する。

 砂漠の北端は曇天の下に純白に輝く山々を臨んでいた。西端では彼方に果てのない花畑が広がり、石がむき出しになった荒地が砂漠と花畑の間を隔てていた。東端には石畳の始点があり、そこから続く人工的な道は異国の文明の存在を示唆していた。
 砂漠の境界を辿る旅は、否応なしに、砂鯨に己の世界の輪郭を自覚させた。こうして見てみれば、広大に思われた砂漠も、より大きな世界の一部でしかない。砂鯨は砂鯨であるがゆえに、そこから先に出ることはできない。しかしイトは違う。二本の足で砂漠の外に出ていくことができる。二本の手で、不可能を可能に変えていくことができる。
 しかしイトは砂漠の境界で長時間彼方を眺めた後に、必ず砂鯨の方を振り返りこう言うのだ。
「よし、帰ろうか」
 その顔は十二分に満足したというよりは、何かを諦めたものに見えた。彼は何を諦めたのか。考えるまでもない。砂漠の先に行くことだ。それを諦める理由になったのは砂鯨以外にあり得ない。砂漠の先に行くためには砂鯨を手放さなければならないが、その選択をイトが否定したのだ。砂鯨は自身がイトの可能性を妨げていることを自覚せずにはいられない。しかしその一方で、イトが自分の夢よりも砂鯨と共に過ごす時間を選んでくれたことに、喜びを感じなかったかといえば嘘になる。砂鯨が望んだ永遠を垣間見た気がした。しかしそれが醒めない夢だと信じられるほど砂鯨も若くはない。年甲斐もなく見た束の間の夢と自覚していることを免罪符に、今しばらくは夢に浸っていたくなる。
 イトと砂鯨は砂漠の境界から先に行かないことを選んだが、踵を返した砂漠の内側にイトと砂鯨の居場所はなかった。これまでの主たちとは違って、イトは自身の生計を立てる術を知らなかったのだ。その日を生き延びるために、多くの人々の恨みを買うようなこともやらざるを得なかった。そんなことを繰り返していれば行き場所を失うのは必然である。かくしてイトと砂鯨は、街から街へと逃げるように転々としていた。
 このままでは自分たちはどこにも行けなくなってしまう。その前に手を打たなければならない。
 イトも砂鯨も了解していることだったし、現にイトはそのために行いを改め、まっとうに生きようと努力していた。しかし我慢ならなかったのは砂鯨の方である。
 イトが人々の住む街の一角に根を下ろすということはつまり、イトが様々な人と関わるようになるということである。イトと砂鯨の二人で完結していた世界に部外者が立ち入ることを意味する。それは砂鯨の臨んだ永遠ではない。むしろ、遠からぬ将来に、かつて愛し憎んだ男たちが砂鯨にした仕打ちと同じことをイトも行うことを示唆している。その可能性に怯えた砂鯨はイトに近づく人間を追い払ってしまう。そしてそのことをイトに窘められる度に、幾度となく自己嫌悪に陥った。イトと砂鯨が共に生きる先に明るい未来は見えなかった。
 もしも二人の気持ちが同じであるならば。イトが砂鯨と同じく、永遠に魂を共存させあう仲であることを望んでいるならば。もしそうであるならば、二人が行く先は一つしかない――愛情と焦燥が溢れて止まらなくなった末に、ある晩、砂鯨はイトを押し倒した。
 愛しい人よ、どうか私の気持ちを汲んでください。私はあなたが恋しくて愛しくて仕方ないのです。あなたと私が永遠に結ばれるには、もはや共に冥界の門をくぐる他にないでしょう。
 しかしその願望はイトの生存本能によって裏切られる。そして同時に、束の間の夢と自覚することが免罪符あったのに、それを失念していたことを思い出した。たかが砂鯨の分際で思い上がりも甚だしいだけでなく、同じ過ちを繰り返しかけたのだ。以来、砂鯨はただの砂鯨に徹することにした。燻ぶり続ける熱情から目を背け逃げるように、砂鯨は考えることをやめた。

 ――毒蠍というのは気を付けていないと刺されてしまうのに、いざ自分から探そうとするとなかなか見つからないものでした。しかし昨晩。私は、ついに自分の死に場所を見つけたのです。
「……」
 私は愚かでした。他の兄弟や同朋たちと同じように、ただ人に飼われるだけの砂鯨でいられたらどんなに良かったでしょうか。
「後悔、してる?」
 正直に言うと、わかりません。強いて言うならば、私が私に生まれてしまったことが最大の罪だったように思います。特に、大切な人の命を奪ってしまったことについては、もう何と言っていいのかわかりません。でも、もし時の針を巻き戻して最初からすべてをやり直したとしても、同じことをしたのではないかと思います。そうとしか思えない自分はきっと異常なのでしょうね。
「そっか……ねえ、今の話、イトって人に伝えてほしい?」
 こんな話を知らされてどうしろというのでしょう。どうもしなくていいですよ。……それでも、もし私が望むことがあるとすれば、こんな愚かな砂鯨のことなど忘れて、彼には彼にしか行けないところに行ってほしく思います。もうこれ以上私のために選択肢を狭めてほしくない。私は私という存在を消滅させてしまいたいのです。
「でも、あなたは私に全てを教えてくれた。あなたが教えてくれたことは、私はずっと覚えてるよ。私が記憶している限り、私の中にあなたが存在し、あなたが何かを想っていたという事実はなくならない」
 そうなのですよね。消えてなくなりたかったはずなのに、あなたに全てを話してしまった。だからきっと、私も誰かにこの気持ちを知ってほしかったのでしょう。百年抱えてきたこのどうしようもない気持ちを誰かと分かち合いたかった。理解なんてされなくていい。ただ、露と消えゆくのが淋しかった。私という存在の痕跡を、この世界のどこかに刻んでおきたかった――。
 砂鯨は全てを語り終えたようだった。もう砂鯨に触れた指先からはマユワの中に何も流れ込んではこない。あとはこのまま静かに消えゆくことだけを望んでいる。罪も後悔も、全てが砂鯨の生きた証だった。
 そのタイミングを見計らったかのように、冥界の門がゆっくりと音もなく開く。夜の砂漠の冷気が生温く感じるほどに鋭く凍てついた冥界の瘴気が吹き込んだ。その瘴気を爪先で裂いて現れたのは黒いローブを頭から被った異形の者だった。手には青い炎を灯したランタン。死者の魂を冥界に導く死神である。
「冥府の姫か」
「姫って呼ばないで」
 死神は枯れ枝のような指先を顎に当てて黙考していたが、彼なりに結論は出たらしく、返事もないままに話題を変えた。砂鯨の方に顔を向ける。
「汝の魂は流転し再び現世に還ることもあるだろう。その時まで暫し休むといい」
 ……私は人を殺めました。その罪はいかに裁かれるのでしょうか。
 砂鯨の告白に対し、死神は首を傾げ、理解に苦しんでいるように見えた。しかし生じ得る可能性に思い至り、合点がいったようである。
「成程、汝はそれほどまでに人間の価値観に毒されたか。汝が人間を殺めることと、鷲が兎を食い殺すことに一体何の差があるものか。象が逃げそびれた土竜を気付かず踏み殺すのと何が違うのか。人間の死は罪となるが、兎や土竜の死が罪とならないのだとしたら、それこそまさに人間の傲慢というものだ。人間が人間の世界の法と秩序に従うのは連中の勝手だが、それに汝のような砂鯨が従うというのは、私には道理の通らぬことに思えるが」
 そう、なのでしょうか……?
 戸惑う砂鯨に対し、死神は指を立てて言葉を続けた。
「罪だの裁きだの都合の良い言葉で己を偽るのは関心せんな。つまるところ、汝自身が汝自身を許し難く思っているに過ぎないのだろう。それは汝自身の内で解決すべき問題であり、我々の関知するところではない」
 もう他にないか? と死神は砂鯨に促すが、砂鯨は一言、いいえ、と静かに返した。
「では行こう。姫も壮健でな」
 死神は踵を返し、砂鯨を先導して冥界の門をくぐる。その後に砂鯨が続く。砂鯨はついにマユワの方を振り返ることなく、瘴気の海の中に消えていった。間もなく門扉は開いた時と同じように、ゆっくりと音もなく閉じた。そして役目を終えた冥界の門は、煙が空に溶けていくように消えていった。
 マユワは一連のやりとりに一切口出しせず、干渉もしなかった。マユワは冥界の門が見えるだけで、それ以上でも以下でもないからだ。死者の魂が死神に導かれて冥界の門をくぐる、という自然な営みは妨げられるべきではないし、マユワ自身にも妨げるつもりはない。
 それよりも今は、一刻も早くアルフィルクのもとに帰りたかった。何者であれ軽薄な一生涯を生きる者はない。その記憶を余さず引き継いで平気でいられるほどの余裕はない。
 暗い砂漠の中でマユワは孤独だった。心が凍えてしまう前に、あの砂船に帰らなければならない。心労で重たくなった足を力いっぱい引きずり、マユワは歩き出した。立ち止まれば涙が溢れて止まらなくなるだろうし、そうなったら歩くことができなくなるだろうから。

「おかえり」
 アルフィルクはマユワの手を取り砂船に引き上げた。勢い余ってマユワはアルフィルクの胸に頭から突っ込んでしまうが、そのままくっついて離れようとはしない。マユワがこのように甘えてくる時とはほぼ間違いなく重たい記憶を背負ってきた時なので、アルフィルクも何があったのかは訊ねない。代わりに右手を挙げてグラジとルシャに合図をする。マユが落ち着くまで待機せよ、と。
 マユワはアルフィルクの腕の中で、小さな肩を大きく上下させ、嗚咽を零した。砂鯨の記憶にあったことはもはや我が事であるが、マユワの心はその記憶を余さず受け止められるようには作られていない。心の器に収まりきらない分が嗚咽となり、涙となって溢れて流れる。人間のように泣くことを知らなかった砂鯨の代わりに、マユワが百年分の涙を流すのだ。
 アルフィルクからしてみれば、マユワは砂船を下りた後、砂漠の一点にしばらく立ちつくし、戻ってきただけに過ぎない。しかし、その立ちつくしていた間に、マユワはアルフィルクが経験しようのないことを経験し、抱えきれない程の何かを無理やり抱えて戻ってきたのだ。アルフィルクにはそれが何なのかはわからないが、マユワを信じていた。
 小一時間が経って、ようやくマユワの嗚咽は収まり、話ができる程度に落ち着いてきた。マユワの中を荒れ狂っていた愛憎の感情もようやく心の器に収まる程度には鎮まってきた。
「もう、大丈夫」
 そう言って顔を上げたマユワは、アルフィルクの目には大人びているという形容を通り越して、くたびれて疲れた老女のように見える。しかしそれでもマユワの本質が変わることはないとアルフィルクは知っている。
「……おっきな砂鯨だったよ。砂鯨の女性」
「そうか」
 アルフィルクはマユワの頭を撫でる。手の平に簡単に収まってしまうくらい、小さな頭だった。

砂漠の幻葬団(1. 砂鯨)

  砂鯨が死んだ。出会ってから八年間を共にした家族だったが、毒蠍に刺されてあっさり死んでしまった。近くの街まではさほど遠くはないので、砂漠で野垂れ死にしてしまう不安はないが、余計なことを考える必要がない分だけ余計に悲しみが募る。
 夜が明けて朝日が砂鯨の巨大な体を照らす。改めて、死んでしまったのだな、と青年は思う。砂鯨はもう泳がない。青年を運んで砂漠を旅することもしない。これからは、青年は自分の足でこの広い砂漠を旅しなければならない。だから、さっさと立ち上がり荷物をまとめて、とりあえず街まで戻って次の旅の準備をしなければならないのだ。砂鯨の死体は置き去りにすることになるが、一人で弔うには巨大すぎるし、そもそも砂漠で命を落とした生物がそのまま野晒しにされることは珍しいことではない。死体はやがて干乾び、砂に埋もれて地に還る。この広い砂漠にはそうやって置き去りにされた死体で溢れているものだ。
 それでも立ち上がれないのは、それだけ砂鯨が青年にとってかけがえのない家族だったからだ。目を瞑れば脳裏に昨日のことが生々しく蘇る。毒蠍に刺されて苦しむ砂鯨の鳴き声が。激しくのたうち回り、青年自身が叩き潰されそうになったことが。しかしその苦悶も間もなく鎮まったことが。それから一晩通して弱々しく震えていたことが。そしてついにぴくりとも動かなくなり、夜の冷気で岩のように固く冷たくなっていったことが。そして、その間、青年は砂鯨に対して何もしてやれなかったことが。
 俺がもっと気を付けていれば、毒蠍なんかに刺されなかった?
 もしも時の針を巻き戻すことができたならば、と青年は叶いもしない妄想に耽る。

 太陽が天頂近くまでやってきた頃、青年は巨大な影に覆われた。その少し前から何人かが砂を踏む音は聞こえていたのだが。
「お前はまだ生きているな」
 野太く低い声が青年に呼びかける。
「団長、まだ生きているのがいる」
「おう、そうか」
 青年が顔を上げると、こちらに背を向けて立つ大男と、その大男が顔を向けている先からやってくる別の男が見えた。二人とも熱除けの白いマントとフードを被っていた。
「こりゃ毒蠍にやられちまったか。運がなかったな、あんた」
 団長と呼ばれた男が砂鯨に手を当て言った。運がなかったな、という言葉にはそれ以上の他意はなかった。
「運がなかった……ああ、そうなんだろうな」
 青年は呟いた。朝からずっと時の針を巻き戻し続けてきたが、青年自身ついに砂鯨の死を避けられる未来は見えなかった。何が悪かったのか? 強いて言うならば、運が悪かった。たまたま砂鯨の進む道の上に毒蠍がいて、毒蠍は自分の身を守るために砂鯨の腹に尾針を刺し、そして砂鯨は死んだ。それ以上でも以下でもない。。
「で、あんたらは何だ? 金目のものなんか持ってないぞ」
「砂鯨からは色々なものが採れる。肉、皮、骨、肝、髭。無駄なものはほとんどない」
「……それは勘弁してくれ。大事な家族だったんだ」
「しかしもう死んでしまったのだろう」
 大男は語尾を上げた。沈黙が流れる。大男の言っていることは何一つ間違っていないからこそ、青年は何も言い返せなかった。
 沈黙を破ったのは団長が大男の脛を蹴る音だった。
「お前はなぁ、少しは言い方ってモンを考えろ」
「……気を悪くしたのならすまない」
「言い方を取り繕ったところで、あんたたちの目当てが砂鯨の死体だってところに変わりはないわけだ」
 とことん運がないもんだ、と青年は毒づいた。かけがえのない家族を亡くしたに留まらず、その死さえも冒涜されようとしているのだから。
「こいつに指一本でも触れてみろ。お前ら全員ぶっ殺してやる」
 懐のナイフは殺傷を目的としたものではないが、人を殺めるには十分なものだ。しかし一対二ではそもそも分が悪い。せめてどちらか一人とでも刺し違えられれば上々か。それで砂鯨のところへ行けるならば、それも悪くはないのかもしれない。
「ほら話がややこしくなった」
「すまなかった」
「ま、いいけどさ」
 さて、と団長が青年に向き直る。敵意がないことを示そうと、軽く両手を挙げている。
「とりあえず、話をしよう。前向きな話だ」

 団長を名乗る男、アルフィルクの話を要約すると以下のようになる。
 まず彼らはこの辺りで葬儀を執り行う集団だという。青年イトのように不幸な事故で旅の相方を亡くす旅人は珍しいものではなく、そんな時には彼らがやってきて葬儀を行うのだ。死者を弔いつつ、近くの街まで遺された人々を送り届ける仕事をしている。そしてその見返りが、たとえば砂鯨の体の一部なのだという。
「俺たちが来なくても別の誰かがやって来て、結局砂鯨をバラすだろう。ただしそいつらは俺たちみたいに話し合いをしてくれる連中じゃあないだろうな。あんた、間違いなく殺されるよ」
「葬儀屋と死体漁りの盗賊は、何が違うんだか」
 吐き捨てるイトに対してアルフィルクは明るく笑う。
「何も違わねえな」
「せめてこいつももっと遠くで死んでいれば、あんたらみたいなのに見つからなかったかもしれないのにな」
「さあ、それはどうだかね。どこで死んでも俺たちはきっとあんたたちを見つけていただろうよ」
「嫌な奴だな」
「よく言われる――で、どうするんだ?」
 どうする、と言われてもイトからしてみれば選択肢は一つしかない。拒否したところで、力ずくで砂鯨を奪われるのが関の山だ。そうなるくらいならば、せめて平和裏に事を済ませる方がまだ賢い。しかしアルフィルクたちがあくまで葬儀屋を名乗り、形だけでも交渉の体を取るならば、せめて腹いせにその偽善で飾った面の皮を剥いでやろう。
「一つだけ条件がある」
「何だ?」
「喉響骨をくれ」
 砂鯨の喉響骨とは発声器官であるが、加工すれば骨笛の素材になるものだ。骨笛の中でも砂鯨の喉響骨で作ったものは、砂鯨の個体の絶対数の少なさ故に希少であり、最高級のものになれば貴族の邸宅一戸分の値が付くこともある。人の拳大しかない大きさであるにも関わらず、砂鯨の部位の中では最も高価なものだ。
「いいだろう。他には?」
「いや、それだけでいい」
「ずいぶん控え目なんだな」
 喉響骨の要求を控え目と表現するあんたらの方が控え目だがな、とイトは内心毒づいた。なるほど偽善の皮はなかなかに分厚いらしく、本物となって久しいようだ。そう判断するほうが妥当と解釈せざるを得ない。イトは鼻を鳴らし、吐き捨てる。
「どうせ一人で持てるものなんかたかが知れている」
「懸命だ」
 パン、とアルフィルクは手を叩く。
「よし、じゃあ交渉成立だな」
「その代わり、ちゃんとこいつを弔ってくれるんだろうな」
「任せとけ。あんたの気の済むようにしてやるよ」
「……俺のことはいいから、ちゃんとこいつを送り届けてやってくれ」
「ん、まあそうだな――おい、グラジ! 砂船からマユワとルシャを呼んできてくれ!」
 グラジと呼ばれた大男はアルフィルクに応えることなく砂船へ戻っていった。その後をアルフィルクが追っていく。
 風が吹き、砂が舞う。砂鯨の巨体に薄く砂が被さる。もう二度と動くことのない様子に、お前本当に死んじまったんだな、とイトは呟くが、今朝から数えて何度目の呟きかはわからない。何かの拍子にぶるっと身を震わせて体を起こしてもおかしくないくらい、砂鯨の体は生々しく横たわっていた。
 さく、さく、と砂を踏む足音が二人分。イトの背後で立ち止まったが、振り返る気にはならなかった。その意図を察してか、立ち止まった二人もイトに声を掛けることはしなかった。結果、沈黙が流れる。
 さっき、アルフィルクって奴が大男に誰かを呼んでこいと言っていたっけな。誰だったか。まあ、いっか……。
「気を遣ってくれているのかもしれんが、話しかけてもらっても構わない」
「そうですか」
 振り返るとフードとマントを羽織った若い女と、それよりさらに若い齢一桁に見える少女が立っていた。
「ご挨拶に参りました。此度の葬儀を執り行いますルシャと、こちらがマユワです」
 ルシャと名乗った女に続いて、マユワが頭を下げる。
「……こいつが目当てだってんならわざわざ葬儀なんかやらなくてもいいだろうに。さっさとバラしてしまえばいいんだ。あんたらも暇だな」
「意味なんてないって、思ってる?」
 訊ねたのはマユワだった。夜闇よりも暗い瞳で見据えられ、イトは思わず目を逸らしてしまう。
「さあ、どうだか。こいつの魂が行き場を失って悪霊になっちまったら可哀相だなって思うけど、正直、葬儀でこいつが救われるかどうかなんてわからねえよ。大体、俺はお嬢ちゃんたちが何者かも知らねえし。それでも、やらないよりはやった方がいいんだろうなって思うよ」
「そう。じゃあ最後のお別れの言葉、考えといて」
 それだけ言い残してマユワはイトに背を向け、一人でさっさと砂船に戻っていってしまった。
「気を悪くしないでくださいね」
「別にいいよ」
「そうですか――さて、葬儀は日が暮れて、星が瞬きだした頃に始めます」
「俺は最後にお別れの言葉を言えばいいのか?」
「いいえ、それには及びません。貴方は見ているだけで結構です」
「何だそりゃ」
「でもその代わり、あの子の言った通り、最後のお別れの言葉は考えておいてください。そしてそれを、ちゃんと胸の中に浮かべておいてください。ただそれだけで結構です」
 真に力強い想いは言葉に出さずとも伝わるということだろうか? 馬鹿馬鹿しい。
「あんたらが何をしたいのかさっぱりわからんな」
「これは貴方のための葬儀ですよ。貴方が明日からちゃんと前を向いて歩けるようになるための儀式です。彼女は死んでしまったけど、貴方はまだ生きていて、明日も明後日もこれからずっと生き続けます。今の貴方にとっては残酷な話かもしれませんが」
 偽善者め、とイトは内心毒づいた。
「……ま、やりたいようにやってくれ。俺はきちんとあいつを見送ってやれればそれでいい。あいつの魂がきちんと浮かばれてくれるならもうそれ以上何も求めない」
「そうですか。ならば私からはこれ以上何も言いません――が、あと一点だけ。団長からの言伝ですが、日が暮れるまでウチの砂船で休んでいても構わないとのことです」
 では、とルシャは頭を下げ、踵を返した。
 再び一人になる。イトは砂鯨の体に額を当てて目を瞑った。冷たくも温かくもなく、少しだけ固くなった砂鯨。溜息、それから溢れる虚無感。
 最後のお別れの言葉、だって?
 さようなら、今までありがとう、これからは俺一人で頑張るよ?
 何を思い浮かべても軽薄で馬鹿らしくなる。今のイトに必要なのは、そんな綺麗事ではなく、過去を改編し、毒蠍に砂鯨が刺されない未来に作り替える力だ。過去を取り消して現在を捻じ曲げる魔法だ。砂鯨の死そのものが塗り替えられない限り、この虚しさは消えない。それから目を背けて語る「お別れの言葉」に一体何の意味があるものか。綺麗事で済ませられるほど、俺の魂は安くない……! 拳に力がこもることにイトは気付かない。

 日中の砂漠は一面黄色の世界であるが、夜になると一転して薄灰色の世界になる。空と砂漠の境界も融けて混ざり合う。空に瞬く星の色は一様ではなく、赤色、青色、白色に黄色と様々であり、そこに濃淡が加わった結果、地表よりも遥かに賑やかである。
「月のない夜は星がよく映えますね」
 呟いたのはルシャである。フードを脱いだら腰まで届く栗色の髪が夜風に揺れた。歩くたびに、シャン、と鳴るのは足首に付けた鈴による。踊子の衣装に身を包んだ姿は、昼間に見た姿とは異なる印象を醸し出していた。
「他の連中は?」
「男二人は邪魔者が来ないように離れたところから見張っていて、マユワちゃんは裏作業ですね」
「裏作業?」
「冥界の門からやってくる死神に魂を引き渡す役です」
「何だそりゃ」
「生あるものは死ぬとその体から魂が抜けて、魂は死神に導かれて冥府へ行くのです」
「それは知ってるけど、そうじゃなくてだな」
「彼女はそういうことができる特別な子なんです」
 イトは眉を顰めた。
 死者の魂が冥界の門を通って死後の世界に旅立つことは、この地域では昔から信じられていることだが、もちろん普通は死者の魂も冥界の門も見ることのできないものである。たまに「それらが見える」と言い張る者もいるが、そんな奴らは例外なくペテン師か狂人のいずれかだ。だから実際には、死者の魂は冥界の門を通って死後の世界へ行く、ということにしておいて、それ以上は言及しないのが普通だ。
 ルシャはおこした火の前に座り、イトを呼び寄せる。揺れる火がルシャの頬に影を落とし、鼻梁の高さを証明していた。
 イトは火を挟んでルシャと向かい合うように腰掛ける。
「さて、儀式を始める前にお願いがあります。貴方と砂鯨の昔話を教えてくださいませんか?」

 ルシャに促されるまま、イトは砂鯨との出会いを語り始める。
 イトはここから遥か東、砂漠に侵食されかかった農村で生まれた。上に五人の兄姉と、下に二人の弟がいた。祖父の代までは農業で生計を立てられていたが、年々進む砂漠化は村をじわじわと蝕み、イトの物心がつく頃には、父や兄姉は畑に向かうよりも、遠くの街に出稼ぎに行くことの方が多くなっていた。そのため、家の仕事は残った母やイトを含めた幼い子供たちが担うことになっていた。そのような事情はどこの家族でも同じことだったので、水汲みや炊事に洗濯、乳飲み子の世話など一通りのことは、この農村で生まれ育った者ならばできて当然のことだった。
 代わり映えのしない家事に毎日を追われる中での楽しみは、たまに帰郷する父や兄姉が語る出稼ぎ先での出来事である。もっとも、彼らが語ることの大半は、いかに仕事が大変でつまらなくて、苦労に見合う対価が得られないものであるか……つまり愚痴であるのだが、その語りの合間に異国の風が吹くと、イトは父や兄姉に「もっと詳しく聞かせて」と食いついては鬱陶しがられていた。
 たとえば父が砂鯨宿の建築現場で肉体労働に勤しんでいると、遥か遠くの北国からやってきた高貴な人々の一団とすれ違うことがあった。砂鯨の背の上、白絹のヴェールを三重に重ねた天蓋の輿に乗っていたのは一団の中で最も位の高い人であろう。父はすれ違いざまにその人の横顔を一瞬見ただけであったが、その様子はとても印象に残るものだったという。曰く、その人は白く痩せこけていて病人のようであり、幼くも年老いているようにも見えて不可思議だった。しかし真に父の印象に残っていたのは、天蓋の薄闇の中で紅い瞳が光を帯びて輝いていたことだった。すれ違いざまの一瞬のことだったので、もう一度確かめる機会はなかったという。
 あるいは、姉が奉公する貴族の屋敷には、砂漠を超えた遠く西方の国から持ち込まれたものが数多く収蔵されていたという。姉の足りない語彙力では微細を描写するには不足であったが、かえってその曖昧さがイトの想像力を刺激した。たとえば彼女が見たある本は、小指の爪よりも小さいのに百頁以上もある本であったという。とても本としての機能を有しているとは思えないのに、蜘蛛の糸くらい細い金糸の刺繍で装丁されているというのだから、ますます本としての目的がわからない。姉は「貴族様ってホント暇よね、わけがわからないわ」と理解を投げ出すが、イトはそうではない。その本には何が書かれているのか、誰が何のために作ったのか、そういうところに気が向いてしまう。
 こういった話を聞くたびに、イトはいつか自分が出稼ぎに出る日のことを夢に見た。もちろん出稼ぎであるのだから、家族のために一生懸命働かなければならないのだが、見知らぬ土地で見知らぬ人や物に出会うことに変わりはない。父や兄姉が体験したように、いつか自分もふとした拍子に未知なるものに出会い、世界の広さと可能性をその目で、その耳で、その手で、鼻で、舌で、肌で、全身で感じる日が来る。イトはその日を心待ちにしていたのだった。
 それからいくつかの年月が流れ、イトが十二歳になった年の冬、イトは父に連れられて初めての出稼ぎに出た。父の紹介で煉瓦焼き職人の手伝いをすることになったのだ。仕事柄、熱風渦巻く窯のそばを行ったり来たりするため、真夏の炎天下に立っていたときよりも汗をかくような仕事だったが、イトは懸命に取り組んだ。いつか父や兄姉が語ったような出来事がイト自身の身に起こると期待して、日々親方の理不尽な叱責にも耐えた。しかし、その時がついに訪れることなく、季節は春になり、迎えにきた父に連れられて、何枚かの銀貨を懐にイトは帰郷した。銀貨は一枚残らず母に取り上げられた。
 次に行った倉庫での荷運びの仕事でも、その次に行った教会の建築の仕事でも、さらにその次に行った街道整備の仕事でも、何も起こらなかった。日々理由もなく叱責されながら小銭を稼ぎ、一銭残らず家に納めるだけの帰郷。腹立たしいことに、帰った次の日には言外に早く出稼ぎに行ってこいと責め立てられるのだ。
 十四歳になると、父からは「仕事はもう自分で探せ」と突き放されるようになった。イトはその場しのぎのような仕事を転々として過ごすようになった。しかしそれでは自分の食い扶持を維持するのに精いっぱいで、故郷には手ぶらで帰らざるを得ない。事情を母に説明するが、母はあからさまに残念がった。イトはその横っ面をぶん殴ってやりたくなる衝動に駆られ、しかし寸前のところで堪えた。そんなことがあって、イトの心は家族と故郷から離れていった。出稼ぎと称して向かった交易の要衝となる大きな街では、同じような年ごろと境遇の少年たちと不満を燻ぶらせあう日々を過ごすようになるのだった。

 砂鯨は砂漠を旅するうえで欠かせない生き物だ。移動を楽にしてくれるだけでなく、背に乗れば地面から遠ざかるので、照り返しの熱で体力を奪われることもなくなるからだ。加えて性格も大人しく従順な個体が多いため、旅の相棒としてこれほど優れた生き物は他にない。一般的には、砂鯨はそのような生き物であるとされているが、何事にも例外はつきものだ。
 砂鯨の市場ではありとあらゆる種類の砂鯨が売買されている。出自は問われない。人工的に交配して養殖した砂鯨も、自然で生きていたところを密猟者が攫った砂鯨も、あるいは誰かが誰かから盗んだ砂鯨も、押し並べて等しく檻に閉じ込めて売買されている。どんな過去を持っていようが、砂鯨は大人しく従順なので、一度躾をしてしまえば、たちまち快適な乗り物に早変わりする。故に砂鯨の買い手はその砂鯨の出自を気にしないし、砂鯨商人も商品が売れるならば出自は気にしない。たまに砂鯨の一頭を指して「これは盗まれた私の砂鯨だから返してほしい」と訴える者もいるが、それは詐欺の常套句なので相手にしてはいけない。
 イトもいつか自分の砂鯨を持ちたいと考えていたが、砂鯨を買うことは決して安い買い物ではなく、十代の少年ならば二年間は必死に貯蓄に励んでようやく手が届くかどうかというものだ。
 しかし、その『訳ありの砂鯨』は、市場の隅の、暗く目立たない場所で売られていた。イトが砂鯨商人にその訳を訊ねると、砂鯨商人は投げやり気味にこう吐き捨てた。
「こいつはご主人様を殺したのさ。ぷちっとね」
「砂鯨の事故なんて珍しくないだろう?」
「事故じゃない、殺人だ。こいつはこいつの意思でご主人様を殺したんだ」
「へえ……」
「とんでもないじゃじゃ馬さ。このまま売り手がつかないんじゃ、バラしちまった方がまだ元が取れるってもんだ。どうだい少年、お前くらいの年のガキなら、多少訳ありの方が手を出しやすいんじゃないか?」
 大人しさと従順さ故に人に飼われてきた砂鯨が飼い主を殺す状況がどのようなものか、イトには想像がつかなかった。よほど性格に難のある砂鯨だったか、よほど飼い主が砂鯨の恨みを買ったか、はたまたその両方か。いずれにせよ、砂鯨――あの巨躯で砂漠と悠然と泳ぐだけのでかぶつに、人間じみた喜怒哀楽の感情が存在すると仮定しなければ成り立たない話だ。
 イトは件の砂鯨に目を向ける。檻の中で死んだように横たわるそれは、ただの岩のようであり、他の檻にいる砂鯨との違いは見出せない。時折尾びれを震わせるが、その動きも緩慢で、世の恨みや辛みを知っているとは到底思えない。
「しばらくはここに置いておいてやるよ。少年、そいつに興味あるんだろう」
「いや、別に」
 そう返事しようとした矢先、砂鯨商人は別の客に声を掛けられ、そちらへ向かっていってしまった。
 取り残されたイトは少しだけ迷った後に、檻を回り込み、訳あり砂鯨の前にしゃがみ込んだ。イトに気付いていないのか、砂鯨は目を閉じたまま動かない。
 じっと耳を傾けていると、砂鯨が呼吸する音が聞こえる。吐息で地面の砂粒がかすかに震える。そのリズムはイトが呼吸するときよりもずっとゆっくりで、深呼吸をして溜息をするようにも見える。
「お前、飼い主を殺したんだってな。よほど嫌な奴だったんだろうな」
 想像の中の『ご主人様』は、ちびで、でぶで、禿げ頭の、中年の男だった。甲高い声で砂鯨を罵り、手にした鞭や棒で砂鯨を叩く様子を想像した。砂鯨からすればそんなものはきっと痛くも痒くもないのだろう。刃物で切ったり刺したりでもしないと、砂鯨が痛がることはないのだろう。それほどに砂鯨は巨大で、人間は小さいものだ。
 改めて砂鯨の巨体を眺めてイトは思う。逆に、何をしたら砂鯨に殺されるなんてことがあるんだ、と。生来、イトは想像もつかないことに対して好奇心を抱く性質であった。
「お前のことに興味が出てきたよ。何があったんだろうな」
 砂鯨は黙して答えない。
 小一時間をそんな風に過ごした後、イトは立ち上がり、砂鯨商人に一声掛けて去っていった。
 それから何度となくイトは訳あり砂鯨のもとに通った。砂鯨は常に檻の隅でほとんど死んだように横たわっていた。他の砂鯨たちは所在なさげに檻の中をうろうろしたり、道行く客に視線を投げかけたりしていたりしたが、訳あり砂鯨だけはその場から一歩も動こうとはしなかった。その様子は何かにじっと耐えているようにも見えた。一体何に? 飼い主を殺した件と関わりがあるかどうかはイトにはわからないが、この砂鯨自身の事情に関することなのだろうと判断せざるを得なかった。
 砂鯨の鼻息が砂紋を描くのを見ながら、イトは故郷でよく見かけた野良犬のことを思い出していた。その野良犬は家々を回っては残飯をせびっていた。もっともどの家も貧しく、野良犬に食わせるような残飯はなかったのだが、たまに近所の老夫婦が気まぐれで残飯を与えていた。そのせいで野良犬は哀れな鳴き声を出していれば飯にありつけることもあることを学習してしまった。当時はうるさく迷惑にしか感じていなかったが、今にして思えば野良犬にとっては鳴き声を出し続けることが生きるための唯一の手段だったのだろう。あの痩せ細って虚ろな目をした野良犬は、自分なりに生きるための手段を考え実行していたのだ。野良犬ですらそうなのだから、砂鯨が同じように自分なりの哲学を持っていたとしても、もしかするとそれはおかしなことではないのかもしれない。
 そう考えたとき、イトは自分でも気付かず砂鯨に手を伸ばしていた。表皮は冷たく、柔らかく、そして滑らかだった。そのとき初めて砂鯨は瞼を開いた。闇夜よりも暗いのに透き通った硝子のような瞳だった。
 イトが件の砂鯨を買うことを決意するのにそう多くの時間はかからなかった。一度決意してしまえばやるべきことは限られていたので、イトが悩んだり考えたりすることはほとんど何もなかった。
 イトが「あの砂鯨を買いたい」と砂鯨商人に宣言すると、「三ヶ月までなら待ってやろう」と言質を得ることができた。路地裏で同年代の少年たちと愚痴を言い合う時間は仕事に充てた。朝から晩まで働く合間に市場へ通い、砂鯨に会いに行った。砂鯨は変わらず岩のようにじっと動かずにいたが、イトの砂を踏む音が聞こえると、尾びれをそっと波打たせるのだった。
 砂鯨を買うための資金が溜まったのはちょうど約束の三ヶ月目だった。銀貨を数え終えた砂鯨商人は「頑張ったな」と口端を持ち上げた。

「……そんなことがあって、あいつと旅立ったのが八年前のことだ。それからも、まあ色々あったが、特に大したヤマもオチもないな。季節や世相に合わせて東や西を行ったり来たりだ」
 これで終わりとばかりにイトは両手を挙げた。
「旅立ってから故郷には戻られたのですか?」
「いや、戻ってない。戻る理由がない」
「彼女が元の主を殺してしまった理由とは何だったのでしょう?」
「さあ、知らないね。ぶっ殺したくなるくらい嫌な奴だったってことなんだろう」
「そうですか……」
「他には何かあるか? なければ、もういいだろう。そんな風に俺たちは出会い、旅をして、あいつは昨晩死んで、そして今に至る。特に面白くも何ともない、平凡な過去だ」
「でもあなたにとっては」
「そう、特別。唯一無二。しかしそれは俺にとっては、の話だ。そして、今日会ったばかりのあんたには分かられたくない話だ。もうはっきり言うけどな、心に土足で立ち入られるのはさ、正直辛いんだよ」
 それきりイトは口を閉ざしてしまった。その口が開くことはもうないのだろうと、トーワは見切りをつけた。間をつなぐために、焚火に木片を足す。木の爆ぜる音。細く立ち上る煙は星空に溶けて消えていく。
 トーワがイトに対して個人的に言いたいことや言えることは山ほどあるが、それを口に出すことは間違いなく今は適切ではない。優しく触れられることにすら心が傷つくならば、そっとしておく他にない。思い出も、痛みも、悲しみも、全てイト自身のものである以上、今しがたイト自身が言った通り、赤の他人が無闇に触れるべきものではないのだ。
 おそらく――トーワは思案する――おそらく、私の予想が正しければ、彼は砂鯨が元の主を殺してしまった理由を知っている。そして、その理由が彼と砂鯨の仲を更に特別なものにしたのだ。だから、彼は急に言い淀み、話を切り上げた。人の心とは、喩えて言うならば、玉ねぎのようで、幾重にも層が重なり形成されている。心の外側は人に晒すことができても、深層に近づけば近づくほど、心は秘匿されていく。彼に関して言えば、家族との確執や未知と旅への憧れは他人に話して差支えのないものだが、砂鯨との絆は差支えのあるものだった。だけど――。
 トーワは首を横に振る。深呼吸をして、自分の役割と、為すべきことの優先順位を確認する。すなわち、第一は深く傷ついたイトの心が立ち直るきっかけを作ることであり、彼と砂鯨の間に何があるのかを知ることは今この瞬間の自分の役割ではない。そして、立ち直れるかどうかは、究極的にはイト自身の問題だ。本人自身に立ち直る気がなければ、トーワたちがどれだけ手を尽くそうがいつまでも悲嘆に暮れ続けることだろう。
 時の流れが過去に逆巻くことはない。それを可能にするいかなる手段もない。死者が蘇る奇跡もない。一度生じた事象が覆ることはなく、ただ事実を事実として受け止め適応していくしかない。それがどんなに辛く苦しく受け入れ難いことだったとしても、万人に等しく明日は訪れてしまう。そしてあらゆるものが過去となっていく。時の流れる速度で現在は過去と隔てられていく。
 しかしそれでも、魔法は存在する。時を戻すことはできないが、幻と夢を見せて心を騙し癒すことはできる。その上で、イトが何を信じるか。要は選択の問題だ。
「そろそろ、始めましょう」
 雲も月もない夜空には無数の星が瞬いている。魔法を使うのにこれほど相応しい夜もなかなかないものだ。


 昼間に吹いた風は夜には凪いでいたが、その痕跡は砂紋として砂上に残されていた。四方を見渡せばいくつかの足跡以外はすべてが砂紋である。砂紋は星々の光を受けて淡い陰影を地表に作り出すことでその凹凸を示していた。
 ルシャが歩く度に足首の鈴がシャンと鳴る。小さな足跡が砂紋の上に新たに刻まれる。その背中は小さく、広大すぎる砂漠に紛れて消えてしまいそうにも見えるが、白銀の腕輪が僅かな星の光を眩く照り返し、三日月のように鋭く夜闇に傷をつけているおかげで、イトはその背中を見失わずに済んでいる。
 ルシャは十分に開けた場所まで歩み出ると、跪き、合掌した。口早に精霊への祈りの言葉を囁く。凪いでいた風が南から北へ、脈打つように柔らかく吹いた。
 ルシャが立ち上がる。空を見上げる。無数の星々を目で追い、今この場に相応しいものを探し出す。小さい星は力不足だが、あまり大きすぎると他の星を掻き消してしまう。青い星は静かであるが同時に冷たく、赤い星は温かいが同時に騒がしくもある。調和を保つことは大事であるが、しかしそれだけでは取るに足らないものに留まってしまう。調和を破壊しながら再構築し、より大きな唄に育てていかなければならない。
 息を吸う。凍てつくような空気がルシャの肺を満たし、手足の先まで冷えていく。心を澄み渡らせ、意識を手放す。ここから先、身体は精霊の依り代となる。森羅万象を統べる法に従い全ての事は為される。ルシャの意思の介在する余地はない。全ては在るがままに、為すがままに。心臓の鼓動のリズムは大気の鳴動と同期し、ルシャは無限の星空を見上げつつ同時に空から己自身を俯瞰する。手足の指先まで精霊の霊気が満ちたとき、ついに唄が喉から溢れ出る。指先は空を撫で、つま先が弧を描き、鈴の音が脈打つように鳴り響く。
 いくつかの星々から地表に向けて光が降り始めた。最初は一つ、二つ、次第に雨のように降り注ぎ、細く垂れた光の糸々は砂紋と結びつき、円い印を残す。印は元の星々の赤、青、白、黄それぞれの色を反映させ、淡くゆったりと明滅する。そんな印が地表のあらゆる場所に刻まれ、砂漠は星空を映す鏡となった。天地の区別はもはやなく、先刻まで地平線だった場所も天地の星々が混ざり合う。
 それらの光景を、イトは息を呑んで見つめていた。地表に投影された星の光たちは無秩序にちりばめられているように見えたが、そこに意味があると気付くのに多くの時間は要さなかった。すなわち、譜である。ルシャの喉が紡ぐアリアの音程やリズムが、砂紋に落ちた星の光と同期していた。地表の光の全てが過去から未来に至る全ての音楽を記述していた。
 シャン、シャン、とルシャが舞う度に鈴が鳴る。すらりと伸びた手足が宙を舞い、アリアが風に乗って砂漠中に響き渡る。その響きはイトの鼓膜を心地よく揺らし、時間の感覚を麻痺させる。もうずっと長い間、幻想の星海の中を漂っているような錯覚に陥っていることに気付くが、しかしどれくらい前からここにいるのかもわからなくなる。始まりと終わりが喪失し、永遠に今この瞬間が続けば、それはつまり時間の停止にも等しくて――不意に舞うルシャとイトの目が合い、彼女は目で訴える。
(別れの言葉を!)
 はっと我に返ったイトは心に言葉を浮かべる。昼間にマユワとルシャに言われた通り考えたものもあったが、それは直観的に今この瞬間は相応しいものではないと感じた。ありがとうも、さようならも、違う。もっと他に言うべきことが、砂鯨に届けるべき言葉があるはずだ。そしてそれは、無意識的にイトは知っている。後はイト自身に自覚されるのを待っている。
 天の星々と地の星々の狭間でイトは立ち尽くす。ルシャのアリアが終わる時が葬儀の終わる時であり、その瞬間、砂鯨の魂は冥界の門をくぐることだろう。今ならまだ砂鯨の魂はこの幻想の宇宙を漂っていて、イトの言葉も届くかもしれない。一縷の望みが今ならまだあるかもしれなくて、その可能性すらも絶たれるのはもう間もない。地表に落ちた星の印は徐々に輝きを失いつつある。地平線と重なり合った印は既に光を失った。もはや迷っている暇もない。束の間見た永遠は錯覚だった。
 イトの半端に空いた口が言うべき言葉を探している。言うべき言葉は既にそこにある。後はそれに相応しい音を当ててやるだけだ。天の星々、地の星々、四方を取り巻く地平線、彼方に砂船、舞うルシャ、耳に響くは精霊の歌声、そして目に留まったのは砂鯨の死骸。小山のような体躯は八年前に砂鯨商人の檻で会った時と変わらない。走馬灯のように駆け巡る八年間の思い出。唯一無二の家族だった。否。家族という形容では語りきれないほどに浅からぬ仲であり、イトと砂鯨は二人で一つだった。お互い欠けた魂を補い合っていた。人はそれを愛と呼ぶのだろう。砂鯨がとっくの昔に自覚し、イトが今初めて自覚したものだった。
 動悸は激しく、息は吸うほどに苦しく、見開いた眼は瞬きすることを忘れていた。醒めゆく夢の終わりに掠れた声でイトはついに言葉に出会う。それは「ごめん」の一言だった。お前が死んだとき、悲しむよりも先にほっとしてしまってごめん、と。


 イトが砂鯨と続けてきた八年間の旅路は目的も目指すところもなく、ただ流されるがまま東から西へ、西から東へと移動するものだった。旅立った当初こそ、見知らぬ土地へ行けば想像を超える出会いがあるかもしれないと期待に胸を膨らませたものだが、そんなものがついに現れることはなかった。砂漠はどこまで行っても砂漠だったし、行く先々で肌の色や言語に違いはあれども、そこにいたのは同じ人間だった。そんな失望を繰り返し、ついに地図上にある町や村の全てを訪れてしまった。砂漠から先に行けばもっと新しいものがあるのかもしれないが、砂鯨は砂漠に生きる生物であり、砂漠を離れて生きる術はない。砂鯨と共にある限りイトは砂漠の外に出ることができなかったが、砂鯨を捨てる可能性は微塵もイトの頭にはなかった。世界にはイトと砂鯨の二人きりであり、お互い以上に大事にすべきものはない。
 一方、閉ざされた砂漠の中に二人の居場所はない。二人で居続けるためならば悪事に手を貸すことも厭わなかったからだ。わずかばかりの路銀を懐に抱えて夜中に街から逃げ出すことも少なくなかった。遠のく街の灯りを振り返りつつ、「もうあの街には行けないな」と砂鯨に語りかけたものだ。風が止むと風ではなくただの空気になってしまうように、二人もまた彷徨い続けることで、かろうじて二人で共にある状態を維持することができていた。
 こんな暮らしがあと何年続くのだろうか――砂鯨の背に揺られていて、ふと考える瞬間は少なくなかった。五年、十年、二十年。イトも砂鯨もいずれ老いていく。そうでなくとも、こんな日陰者の生き方をしているのだから、いつ野垂れ死にしてもおかしくない。イトは自分が死ぬこと自体に未練はないが、砂鯨を残していくことは心残りだった。残された砂鯨は野良に還り、またどこかの砂鯨商人のもとで商品として売り出されてしまうのだろうか。
 そう考えると、こんな暮らしは長く続けるべきではないという結論に至る。どこかの街に根を下ろし、定職を見つけ、家を持つ。所帯を持つことまで想像するのは流石に妄想が過ぎるとしても、砂鯨と二人で安定して暮らせる場所を見つけるべきだ。もはや旅に対して無邪気な憧れを抱ける年でもない。
 しかし、ふらりと訪れた青年と砂鯨に土地と建物を分けてやるお人好しなどそうそういるものではない。それどころか、大昔に人の恨みを買った時のことが噂としてどこからともなく囁かれ始め、すぐに家探しや仕事探しどころではなくなってしまう。その結果、これまでそうだったように、夜闇に紛れてこっそり逃げ出さざるを得ない。そして、たまに情けを掛けてくれる人が現れたとしても、砂鯨が嫉妬に駆られて追い払ってしまうのだ。巨体で親切にしてくれた人に迫り、圧殺する寸前でイトが間に入って食い止めたことは、決して一度や二度ではなかった。
 砂鯨のイトに対する態度が変わってきたのはおよそ一年前、旅立ってから七年目のことだった。きっかけが何だったのかは思い出せない。積もり積もったものが我慢の限界を超えて少しずつ溢れていった、というのが実態だったのだろう。いずれにせよ、イトが気付いた頃には砂鯨はすっかりイトのことを愛していた。
 四六時中常にイトの傍を離れようとせず、体をイトに擦り付け、甘えたような鳴き声を出す。砂鯨は元々人に懐きやすく、そのような挙動をすることはそう珍しいことではないのだろうが、たとえば旅の途上でたまたま関わりを持った人を追い払おうとする、といったようなことが起こってしまうと、流石に度が過ぎていると判断せざるを得なかった。
「お前、最近どうしたんだよ」
 イトが頭を撫でてやると、砂鯨は満足げに深く息をついた。イトの苦悩などまるで知らず、今この瞬間が永遠に続くものと信じて疑わないようだった。しかしその呑気さに心がささくれ立つ。つい気が立って言葉が荒くなる時もあったが、砂鯨の悲し気な鳴き声を聞くと、たちまち苛立ちは消え失せ、申し訳なさの方が先立ってしまう。そして途方に暮れる。
 七年間を共に過ごしてきて、砂鯨に砂鯨なりの感情があることを疑う余地は今更ない。問題は、どの程度複雑な感情を有し得るかを想定することだ。人間であれば、喜怒哀楽を基本的な感情の幹として、そこから枝葉が分かれて得も言われぬような感情が果実としてなることもあるだろう。純粋な喜怒哀楽とはそうそうあるものではなく、往々にして、嬉しいけど悲しい、腹立たしいけど楽しいといった、相反する感情が同時に心に去来することも少なくない。人同士ならば自分自身のことから類推して、相手も自分と同じように複雑な感情を有し得ると想定するのは自然なことだが、はたしてその類推を砂鯨にも当てはめてよいものか。おそらく大多数の人がそうであるように、イトもまた、砂鯨に対して人間と同等の複雑な感情が生じ得るとは想定しなかった。どんなに大事な家族だとしても、砂鯨は所詮砂鯨である。人と砂鯨の間には種族の壁があり、その壁を跨いで夫婦になるなどというのは神話の世界で十分だ。
 しかしイトはその考えが誤っていると思い知らされた。ある晩のことだった。
 その日、砂鯨は特にイトに対して甘え、じゃれついていた。砂鯨の巨躯でじゃれつかれるのは、一歩間違えば死に直結し得るものだが、少なくともこの七年間はそのような危険に晒されることはなかったのだ。
 しかしその晩は違った。砂鯨はイトの頬に頭を擦り付け、そのままイトを押し倒した。そしてイトの上半身を押さえつけ、くぉん、くぉん、と悲しみの声で鳴いていた。その様子は遥か昔にイトが捨てた、故郷の弟たちを思い起こさせる。弟たちも互いに喧嘩してはイトの胸の中でいかに自分に非がないかを訴えたものだ。
「どうしたんだよ、本当に……」
 イトは仰向けになりながら砂鯨の頭を撫でてやる。そして離れるよう砂鯨の頭を軽く叩いて合図を出したが、砂鯨は鳴き続けるばかりで一向に動こうとはしなかった。それどころか、ますます強く頭を擦り付けてくる。肺が圧迫される。肋骨が軋み、内臓が居場所を失いつつあるのを感じる。
 唐突に訪れた生命の危機はイトに一切の思考を許さなかった。あの砂鯨がどうして突然こんなことを、と考える暇などない。本能が死を恐れる。殺されたくない、死にたくない。ただその一念で、イトは砂鯨の頭を力の限り殴りつけた。しかし人と砂鯨とでは体格に歴然たる差があり、巨躯にはびくともしなかった。それでもイトは砂鯨の頭を殴り続ける。殴り続けた。
 体にかかる圧力は唐突に途切れた。朦朧とする意識の中、必死に肺に空気を送り込む。遅れて今更痛みが全身を駆け巡る。視野はしばらく明滅していたが、次第に収まり像を結ぶようになってきた。そこに至ってようやく、イトは自分の身に起こったことについて考える余裕が出てきた。
 一体何が起こったのか。イトは砂鯨に押し倒されて、殺されかけた。そう、砂鯨はイトを殺そうとしたのだ。そして、それを途中で思い留まった。
 七年間の軌跡を思えば俄かには信じがたいことだったが、そうとしか表現せざるを得ない。首だけ起こして辺りを伺うと、砂鯨は少し離れたところで蹲り、イトの方を見つめていた。いつもの見慣れた黒い双眸に浮かんでいたのは。憔悴の色だった。今の状況に閉塞感を感じ、もがき苦しんでいたのはイトだけではなかったということだった。
 砂鯨はのそりと起き上がると、再度イトの傍にやってきた。そして今度は優しくイトの頬に頭を擦り付けた。
 それ以来、砂鯨がイトを襲うことはなくなった。また、イトに近づく人を追い払うこともなくなった。すっかり砂鯨らしい砂鯨になり、イトと砂鯨の間には見えない境界線が引かれたのだった。
 イトは砂鯨の背に揺られ、どこまでも続く砂色の地平線を見つめながらぼんやりと思い出す。いつだったか、砂鯨商人が「この砂鯨は訳ありだ」と言っていた。すっかり忘れていたが、この砂鯨は前の主を己の意思で殺しているのだ。今なら何があったのかは大体想像がつく。
「人と砂鯨だもんなあ……そりゃあ、無理だよ」
 イトと砂鯨が共に行く先には破滅しかないが、そこから逸れる道もない。終焉に向かってゆっくりと一人と一匹は旅を続けていた。


 砂紋に刻まれた最後の印が消えると、辺りは元の夜闇に包まれた。イトは肩を上下させながら大きく呼吸をしていた。心臓の脈打つ音は未だ収まらない。
 砂鯨が毒で弱っていく数時間のあいだ、イトは砂鯨の傍にいたが、傍にいただけで何もしなかった。もちろん言い訳ならばいくらでも出てくる。たとえば、助けを呼びに街まで徒歩で行ったとしても、戻ってくるまでに半日はかかるだろうから、毒蠍に刺された時点で既に手遅れだった、など。持ち合わせに解毒薬などあるはずもなかったし、どう足掻いても手遅れであることに違いはなかった。しかし、「これはもう手遅れだ」と見切りをつけるのが、あまりに早すぎた。冷静で現実的な判断といえば聞こえはいいかもしれない。しかしそれでも、もっと何かしてやれることはないかと考えるべきだったのではないだろうか。
 混乱していた、戸惑っていた、憔悴していた、それらはいずれも偽りではない。しかし、それらに紛れて、ほんの一匙分の安堵があったこともまた真実だった。もしこのまま砂鯨が死んでしまえばどうなる? イトの行き詰まった状況が変わるきっかけになる。イトは砂漠の外へ出て行ける、旅をやり直すことができる! そんな可能性に一瞬でも心が揺らいでしまった。その事実は、イトが砂鯨と過ごしてきた八年間に対する冒涜であり、そんな気持ちが自分の中に一瞬でも芽生えたことなどあってはならないことである。故に、イトは、即座に忘却し、考えることを放棄した。砂鯨を助けたり、苦痛を和らげたりするための方策もろとも、考えることを放棄したのだ。そして、イトが呆然としている間に、砂鯨は事切れた。このようにしてイトは砂鯨を見殺しにした。
「酷すぎる」
 そう呟く自分自身をイトは軽蔑した。イトと砂鯨は魂の片割れのように互いで互いを補い合ってきたはずだし、そのことに安らぎを感じてさえいたはずなのに、今やその自負やすっかり空虚なものになってしまっていた。
 歌と舞を終えたルシャはイトの前を素通りし、再び火をおこしていた。ちりん、ちりんと鳴る鈴の音がいやに響いて聞こえてくるのは、誰も何も喋らないことの証左である。
 ルシャは紅茶を淹れていた。外套を羽織り、コップを両手で包んで暖を取る。背後でイトが呆然と立ち尽くしているのは知っているが、声は掛けない。イトが自身の心の奥底に見つけた真実が何であれ、それと対峙するのは本人がすることであり、部外者であるルシャたちが立ち入るべき領域ではない。
 見上げれば空には先刻と変わらず星々が瞬いている。静かな夜が戻ってきている。
 天は地上にひしめく生き物の個別の心を斟酌などしない。世界は森羅万象を統べる法則と秩序に従い、流転していく。死んだ者は肉体と魂に分かれ、肉体は地に還り他の生物の命の糧となる。魂は冥界の門を通っていく。人も、砂鯨も、あらゆる生物においてもその道理に例外はなく、抗う術はない。道理の絶対性を嘆き、憎み、怒りを振り向けても、天が地上にひしめく生き物の個別の心を斟酌などしない以上、心なるものを得てしまった者は、溶岩のように煮え滾る苦汁を嚥下し、堪え忍び、受け止めていく他にない。それができなければ心を手放すしかない。
 ルシャは紅茶を飲み干すと、二煎目を淹れた。そろそろ日付を跨ぐ頃だろうか。夜明けはまだ遠い。


 夜明けは唐突には訪れない。無限の星々の背景にあるのは漆黒の宇宙だ。それが東の方から次第に紫紺、藍色を得ていく。星の光は夜闇が薄らいでいくとともに目醒めつつある空の色と同化していく。それと時を同じくして空全体が赤く焼けていき、太陽が地平線から顔を覗かせる。
 射し込んだ光がイトの瞳を貫いた。砂鯨の巨躯を照らし出し、曲線の輪郭を浮かび上がらせた。
「夜が明けたな。気持ちの整理はついたか?」
 焚火の火を踏み消しアルフィルクが立ち上がる。傍らにはグラジとマユワ、ルシャ。
「これで整理がついたように見えるか?」
「見えないな。しかし、関係ない」
 イトは目を逸らし、薄れゆく夜闇に目を向けた。アルフィルクはそれを黙認と受け取る。
「グラジ、始めるぞ」
「わかった」
「死んでからもう丸一日以上経っている。使えない部位は捨てろ。砂漠の野ネズミどもにくれてやれ。俺たちの取り分は使えるところだけでいい。細かい判断と指示はお前が出せ。ただし二秒以上迷ったら俺に聞け。判断してやる」
 男二人がそれぞれ長柄の鯨包丁を手に歩みだし、イトの傍らを通り過ぎた。
 砂鯨の解体はまず尾鰭から頭に向けて一直線に刃を入れることから始まる。厚い皮は砂漠を生きる砂鯨が日光の熱から身を守るために発達したものだ。断面は真っ白であり、日光を照り返すと実に眩く、思わず目を細めるほどである。手頃な大きさに皮を区切ったら、今度はアルフィルクとグラジが二人がかりで皮と皮下の肉を切り分ける。一人が皮を引っ張り、もう一人が刃を差し入れて皮を剥ぐのだ。そうして剥き出しになった砂鯨の肉は死後一日以上経過したにも関わらず瑞々しく波打っていた。
 しかし日の下に晒された以上、肉は刻一刻と干乾びていく。夜が明けて間もない今は夜の冷気が腐敗を遅らせてくれているが、気温が上がればそうはいかなくなる。ただちに血抜きをして、乾燥させるのに最適な状態にしなければならない。同時に各種臓物も摘出し、部位毎に整理し後々活用できるものはそれぞれに合った保存方法を適用してやらなければいけない。また、食用の部位は街に戻った後、市場で売るのだが、毒蠍の毒に冒された箇所は商品にはならないので、その見極めも正確にやらなければいけない。作業の優先順位、廃棄するか否かの判断は砂鯨の状態を見ながらグラジが即座に判断し、アルフィルクに指示を出す。
「団長、人間が食うには危険だが、家犬に食わせる分には売り物になりそうだ。どうする」
「あの街で犬を飼う金持ちなんざ指で数えるくらいしかいない。捨てろ」
 砂鯨の解体の枠外の問題はこのようにしてアルフィルクが逆に指示を出す。その間、二人は手を一切止めない。作業は滞りなく進められなければならないのだ。
 みるみるうちに砂鯨が小さく切り分けられていくのをイトは眺めていた。心の内が凪のように静まり返っているのは、あまりの手際の良さに感心しているからだった。砂鯨の体とは骨と肉と血と皮の複合体なのだということを嫌というほど思い知らせてくれる。共に過ごした八年間を思い出して感傷に浸る余地がない。人の手で解体されるか自然の生物により食い散らかされるかという差はあれども、死んだ生物とはこのように分解されて自然に還っていくものなのだ。
 解体作業は一時間程度で終了した。夜の冷気はすっかり消え失せ、じりじりと地表から熱がせり上がってきている。アルフィルクとグラジは小分けにした肉や皮を砂船に運び込み、ルシャとマユワが布で臓物の血抜きをしたり骨を磨いたり、その他細かい作業を行っている。グラジとアルフィルクの判断で不要とされた残骸は小山となって砂鯨が死んだ場所に積まれていた。毒に冒されたであろう肉や皮、使い道のない骨など。これらはこのまま捨て置かれて、砂を浴びて、やがて地に埋もれていくのだろう。あるいはその前に砂漠の生物たちが齧っていくのかもしれない。
「はい喉響骨」
 唐突に声を掛けられ振り返ると、マユワが拳大の白骨をイトに突き付けていた。昨日、イトがアルフィルクたちを試すために、喉響骨をよこせと言ったことを今更思い出す。
 手を差し出し、イトはそれを受け取った。マユワが丁寧に磨いてくれたのだろうが、喉響骨には肉片が一切残っていなかった。見た目に反して喉響骨は軽く、脆そうに感じた。懐に忍ばせるには少し大きすぎるので、何かしらの工夫が必要だが、案は今すぐには出てこない。後で考えるか……。イトが顔を上げるとマユワは既に立ち去った後だった。
「さて、朝飯にするか! 落ち着いたら準備するぞ!」
 ルシャがイトを一瞥する。しかし、それにイトが気付いて目が合う直前にルシャは顔を背けた。その様子を遠巻きに見ていたアルフィルクが溜息をつく。グラジとマユワは黙々と自分の作業をこなしていた。

 朝食は砂船の影で食べることになった。火をおこし、今切り分けたばかりの砂鯨の肉を焙る。各自が鉄串とナイフで肉塊を切り分け、塩と胡椒を振りかける。イトを除く四人が食べている。
「どうした、食べないのか?」
 肉を咀嚼しながらアルフィルクがイトに声を掛ける。
「嫌がらせか?」
「そんなんじゃないさ。お前、もう丸一日以上何も食べてないだろう。だから食べ物を分けてやろうって言っているんだ。獲れたての砂鯨の肉なんか滅多に食えるもんじゃないぞ。ほら、食えよ」
「八年間を一緒にした家族をか?」
「そうだ」
 一口大に切られた砂鯨の肉を鉄串に刺してイトに突き出す。それは砂鯨の胸肉だったかもしれないし、鰭肉だったかもしれないものだ。それをこいつらは食っている――イトは全身の毛が逆立ちかけるが、即座に顔を横に背け、吐き捨てる。
「……いらない」
「そうかい。じゃあ好きにしろ」
 イトに突き出した肉をアルフィルクは一口で頬張った。三度、四度と咀嚼し、嚥下する。砂鯨の肉はアルフィルクの食道を通って胃に到達し、小腸に至る過程で分解され、ターチスの体に吸収されていく。同じことが、グラジの、ルシャの、マユワの、それぞれの体内で行われている。鳥や牛を食べるのと全く同様の、自然の営みだ。デリカシーに欠けるという一点を除けば、何もおかしいことではない。
「ねえ、普通の食べ物だって」
「口出しするな」
 堪らず申し出たルシャをアルフィルクが即座に窘める。イトとアルフィルクは睨み合う。しばらくお互い押し黙った末に、イトは努めて冷静に言葉を選ぶ。
「確かに、喉響骨以外は好きにしていいとは言った。でも、よりにもよって俺の目の前で家族を食って、挙句俺にも食えってか。頭おかしいだろ、あんた」
「なんだ、傷心の坊やはいい子いい子されて慰められたいのか」
「疲れるから無意味に煽らないでくれ」
 悪かった、とアルフィルクは両手を挙げる。しかしイトを睨みつける目付きは変わらない。
「砂鯨は死んだ。遺体はこの通りもうバラバラだ。時間は無慈悲に流れて今日は来たし、今この瞬間も太陽はしっかり動いている。やがて日が暮れて夜になるだろう。そしてまた朝が来る。俺たちも、お前も、生きている限り腹は減るし、行動しないと生きていけない。死にたくなければ動くしかない。お前の感傷に付き合うほど俺たちも暇じゃないんだよ」
 砂鯨の死を悼む時間なら十分くれてやっただろう、とまでは言わない。代わりに長い沈黙が流れる。イトが先に手を出しても、ただちにアルフィルクに組み伏せられるだろう。そもそもアルフィルクを殴り飛ばしても何も得られるものがない。真に殴りたいのは自分自身なのだから。
「人は――」
 ぽつりと呟くように、マユワが沈黙を破った。その目は揺れる焚火を見ている。そして焚火の彼方に何かを見出しているようだった。
「人は、誰もが自分の物語の中にある。どんな生き物も、うまれて、生きて、死んでいくけど、そこに意味や理由を求めて彷徨うのは人間だけ。生きてる中で色々なことを見て、聞いて、考えて、気付いて。そうして見出した意味や理由が、人の物語を作っていく。でもね、物語に支配されているうちは人は自由になれない。物語を自分で語らなければ、あなたは自由になれない」
 そして一呼吸を置いた後に、マユワはイトに向き直り、一言訊ねた。
「あなたは何を選ぶの?」
 過去に囚われるか、未来を見るか。ここに至ってイトははっきりと悟った。アルフィルクたちは一貫して、未来を見て生きろ、と言っているのだ。そして同時に、未来を見て生きるために過去から自分を解放しろと。
 瞼を閉じれば砂鯨の面影が浮かぶ。イトに砂鯨とは一体何だったのか。最初は、砂漠を旅するための足だった。砂鯨商人で砂鯨が前の主を殺したと聞いてからは、砂鯨そのものに興味が湧いた。それから数年間、共に旅をする過程で、二人で世界から孤立していった。互いに互いがいないと生きていけない関係になった。しかし、いざ砂鯨から求められるとイトはそれを拒絶し、挙句砂鯨を持て余すようになった。砂鯨が死ぬと、悲しいと感じる片側で安堵もした。そして今、砂鯨の死骸が目の前でいいように切り刻まれ、焼かれて食われているのを看過している。改めて自問する。砂鯨とはイトにとって一体何だったのか。ただの家畜か、はたまた大事な家族か。しかし問うて即座に察する。この種の分類に意味はない。事の本質はイトにとって砂鯨が何者かということではなく、砂鯨を捨ててこれからの未来をのうのうと生きていく自分を自分自身が許し、受入れ、認められるかどうかだ。
「罪は消えない。過去はなくならない。時間は遡らない。顔を背ければ、目を瞑れば、少しは紛らわせられるかもしれないけど、でもそんなのはただのまやかし。どんなに時間が経っても、一度起こったことはなかったことにはならない。過去に、罪に、後悔に圧し潰されて、それでも卑しく、惨めったらしく、しぶとく、死に損ないながら人は生きていくんだよ」
 喋り過ぎた、と消え入るように呟くと、いよいよマユワは黙り込み、砂鯨の肉を食べ始めた。小さな歯でしっかりと肉を食い千切っている。
 イトは懐に仕舞った喉響骨の存在を強く意識する。この際、砂鯨に対する義理や悔恨は一旦捨て置くとして、これから自分はどうするのだろう。どうしたいのだろう。そこには色々な道がある。たとえば砂鯨に懺悔し、贖罪しながら生きる道がある。あるいは、砂鯨のことは一切振り返らず、自由気ままに生きる道もある。道は無数にあるが、しかしイトが選べる道は一つだけだ。そして、不思議とそこに迷いはない。これから自分がどう生きるか。すなわち――。
 イトは火で焙られる鯨肉の前に立つと、鉄串とナイフで肉を切り分けた。肉が柔らかいのか、ナイフの切れ味が良いのか、撫でるだけで肉は切れた。その感触は現実感を喪失させる。
 手の震えは止まらないが、恐る恐る肉を口に運ぶ。口に含んだ瞬間、甘い香りが構内に広がる。肉の柔らかさを舌で味わい、しっかり咀嚼し、飲み込む。砂鯨の肉が喉を通り、胃に滑り落ちていく。砂鯨を血肉に変えて二人は同化するのだ。そしてようやく、イトは声を殺して泣いた。
「食べ終わったらここを発つぞ。正午前までに戻らないと、市場が閉まっちまう」
 アルフィルクはぶっきらぼうに言い放った。彼は砂鯨の死やイトの葛藤を特別扱いしない。
 いち早く食事を終えたグラジは立ち上がる。そのまま作業の続きに戻っていこうとしたが、ふと思い立ってイトに向き直り、声を掛ける。
「知り合いに楽器職人がいるが、紹介は必要か?」
 意図を測りかねる、といった様子でイトは赤らんだ目をグラジに向ける。見かねたアルフィルクが仕方なしに補足を入れる。
「喉響骨はそのままだと脆くて壊れやすいから、加工して笛にしちまうんだよ。金具で補強したり専用のケースが付いたりするから、これからの旅で携帯するのに都合がよくなるんだ。まあ、笛として吹くにはそれなりに練習する必要があるけどな」
「……頼む」
「わかった。市場に卸すのが終わったら紹介しよう」
 必要なことを言い終えると、グラジは今度こそ自分の作業に戻っていった。その間にルシャとマユワも十分食べて満足したようだ。だいぶ大きかった砂鯨の肉の塊も、すっかり小さくなっていた。
「残りはお前が始末しておけ。寝るなら砂船の中で適当に横になってていい」
 アルフィルクも立ち上がると自分の作業に戻っていった。
 その後、イトは長い時間をかけて砂鯨の肉をすべて胃袋に納めていった。一片残さず、血の一滴すらもすべて己のものにした。完食し終わった後、イトは胃の辺りに手を当て、目を瞑っていた。

「もういいな? よしグラジ、発つぞ」
 アルフィルクの声を合図にグラジが砂船の帆を張る。砂漠の風を受けて砂船はゆっくりと走り出す。やがて風に乗り、砂面を滑るように走り出した。
「これからどうするの?」
 切り捨てられた砂鯨の残骸を名残惜し気に見ていたイトに、マユワが問いかける。
「あの街から一番近い端っこは西だからな。西の方に行って、砂漠の外に出てみるよ」
「そう」
 マユワのその一言がイトには優しく響いて聞こえた。だから、胸の底に残る疑念を晴らさずにはいられない。
「……なあ、お嬢ちゃんは昨晩、冥界の門であいつの魂を送り届ける役目ってのをしていたんだろ? その……どうだった?」
 マユワは黙して中々答えない。豆粒よりも小さくなった砂鯨の残骸を見ながら、答えを選んでいるように見える。
「ちゃんと門をくぐっていったよ。未練なく、後悔なく、堂々と。綺麗な砂鯨だなって思ったよ」
「そうか」
「うん」
「……正直言うとさ、俺、まだお嬢ちゃんたちのこと、そんなに信用してないんだわ。悪い人たちじゃないってのは流石にわかる。でも、都合のいい幻を見せられて誤魔化されているんじゃないかっていう疑念は拭えない。本当は、あいつは俺のことを恨んでいたんじゃないかって、そんな可能性がずっと頭にある。だからさ、もし本当にあいつが未練も後悔もなく旅立っていったっていうなら、確証が欲しいよ」
 口に出した瞬間からイトは知っている。そんな都合の良い確証などあるはずがない。それを出せと迫るのは、弱さの表れ以外の何物でもない。だからマユワが呆れたように向き直るのも仕方のないことだ。
「……もし仮に彼女があなたを恨んでいたとして、それであなたのやることって変わるの? あなたの言う『確証』があったとしたらあなたは信じるの?」
「悪い、つまらないことを訊いた」
「もっとちゃんとしてね。あなたはもう一人きりなんだから」
 それきり二人は黙って吹く風に身を委ねた。

 すっかり砂鯨の痕跡が見えなくなった頃、唐突にマユワが訊ねた。
「ねえ、彼女の名前って何だったの?」
 真剣な眼差しだった。その黒い双眸は、どことなく砂鯨に似ているような気がした。
「ヴィネ――夜明けの星の名前から取った」
「そう。ありがとう」
 なぜ礼を言われるのかは解せないが、マユワは満足しているように見えた。