2025年8月4日月曜日

砂漠の幻葬団(4. 悪夢)

 


 1.


 ヤナンとモーティは双子である。ヤナンは痩せぎすの猫背で、いつも目元にくまがある男の子である。モーティはヤナンよりも肉付きがよく、いつも明るい笑顔をしている女の子である。現在、二人は伯母の家で暮らしている。

 ヤナンはいつも日がのぼるよりも前に目が覚める。夜の終わりというのは一日のなかで最も冷える時間帯である。ベッドの縁から足を出すだけで指先が凍り付きそうになるが、今朝も自分が目覚められたことを実感できるので、決して悪いことではない。モーティや伯母はまだ眠っている。地底湖の村の住人たちも皆眠っている。今この瞬間に起きているのは、ヤナンを除けばこれから眠りにつこうとしている夜行性の動物たちくらいのものである。時間さえもまだ眠っているようだった。そんな静寂のなかをヤナンは行く。上着を羽織り、玄関を出て地上へ続く洞穴をのぼり、薄藍色の出口を抜けて、青白い砂漠に出る。

 星の瞬きはまだくっきりとしているが、東の空にはたしかに夜明けの気配がある。ヤナンは見晴らしの良い高台にのぼり、そこで火をおこす。湯を沸かし、茶を淹れる。山羊のミルクを入れて、それから砂糖はどうしようか。貴重なものであるが、今日はひと際寂しい心地がしたので、自分を慰めるために使ってしまうことにした。湯気の立つカップを両手で包む。痛みを感じるほどの熱さであるが、どうせすぐに冷めてしまうのだから、暖の代わりとしてその痛みを味わう。カップの端に口をつける。甘い香りとともに茶を口に含み、飲み下す。腹の底に熱が染み渡るのを感じる。今日もまた代わり映えのしない砂色の一日が始まるのだと覚悟を決める。

 一方、モーティの朝は遅い。伯母は双子の朝食の用意を終えており、仕事に出た後である。ヤナンも朝食を食べ終えたらすぐに仕事に出ていた。村中の人々がとっくに働き始めた頃にモーティの長い夢が終わる兆しが見えはじめる。それからモーティはたっぷり長い時間をかけてベッドの中で寝返りをうち、消えゆく夢の残滓を追いかけている。耳が冴えて、地底湖から地上に向かって吹き抜ける風が窓を揺らす音を無視できなくなる頃になって、ようやくモーティは身を起こす。それでも夢の中で自分を抱きしめてくれた両親の温もりは今なお鮮明で、枕を抱いてその名残を惜しんでいる。夢の中の甘い記憶と比べたら、現実のなんと冷たく寂しいことか。

 家の中には誰もいない。伯母が用意してくれた朝食はすっかり冷めている。モーティはひとりでぼそぼそと朝食を食べる。朝食がこんなにも寂しいのは早起きをしないモーティのせいである。そう言われればまさしくその通りなので反論のしようもない。それでも、夢で見た幸福な食卓と比べると、どうしても現実がつまらないものに思えてしまう。だからモーティは、早く夜にならないかな、と考える。夜になればまた眠ることができる。生前の両親はよくこう言っていた。ごはんはおなかが減っているときが一番おいしい、だから一生懸命働いておなかをすかせるんだよ、と。苦労があるから幸福は何倍も味わい深いものになるのだ。

 パン、と張りのある音を立ててモーティは自分の頬を叩くと、大きく美しい瞳を開き、口角を上げて笑顔を作る。そして手早く身支度を整え、風のように素早く家を飛び出す。家を出たところで近所の大人が声をかける。

「モーティはまたお寝坊かい」

「うん! 今朝も素敵な夢だったから、つい。でも寝坊した分働くから、それで勘弁してね!」

「しょうがない子だね。ほらさっさと行きな」

 そうやって手を振られる頃にはモーティはずっと遠くまで駆けているのだった。

 モーティを含め、この村で暮らす人々の多くは地底湖の周囲に作られた農場や牧場で働いている。地下の空間ではあるが、光苔のおかげで農作物を育てることができるのだ。遠い昔に祖先が地底湖に逃げ込んできて以来少しずつ開拓を進めて、今では暮らすのに困らないほどの食料が得られるようになった。もっともそれは日々の絶え間ない努力の上に成り立つものである。石を砕き、土に栄養を与え、水が汚れていないかを確かめ、通気孔から新鮮な空気を送るための機構の点検を行う。特に光苔の管理には細心の注意を払わなければならない。もし万が一にも光苔が病気で枯れるというようなことがあれば、地底湖は闇に覆われ作物が育たなくなり、集落の暮らしに大きな影響があることは疑いようがないからだ。

 モーティは農道を駆け抜け湖の岸辺にある洗い場の扉を開けると、挨拶と謝罪を同時に済ませて自分の持ち場についた。モーティがこのように遅れてくることは毎日のことなので、仕事仲間の子供たちにとっては慣れたものである。そしてそのような者は嫌われて敬遠されるのが普通であるが、モーティはそうではない。憎めない人柄であるということもあるが、仕事が早くて正確であるため、遅刻してもそれ以上の働きができるからだ。大人たちはよくこう言っていた。これでヤナンみたいに早起きするなら最高なのにね、と。

「さて、今日もやるぞ」

 そう言いながら泥のついた根菜を手に取り、最小限の水で洗う。野菜は水差しから野菜洗い用の水を注いで洗うのだが、こつは水量を抑えつつも注ぐ速度は一定を保つことだ。中途半端に注いでは止めることを繰り返すと、注ぎ始めと終わりで手元が狂い、結局余計な時間や水が必要となってしまうからだ。モーティはその力加減の調整がとても上手い。おかげで周りの子供たちが三の作業をする間に四以上の作業ができる。

 その隣で苦労しているのがヤナンだった。ヤナンくらいの年齢の男子であれば大人に混じって力仕事をするのが普通であるが、ヤナンは体が小さく力もないため、女子に混じって仕事をしている。しかし普通の女子よりもさらに体が小さいため、野菜洗いにも苦労している。そのため、誰より早く仕事に取り掛かっても、最後まで居残っていることがしばしばあった。

「おはよう、ヤナン」

「今朝もよく寝てたね」

「まあね。おかげでとても元気」

「それはよかった」

 そう言っている間にモーティは次の根菜を手に取り洗い始めた。

 ヤナンは一度仕事を始めたら黙々と集中する性質である。モーティを含む周囲の女子たちは子山羊たちが鳴くように絶え間なく談笑しながら手を動かすが、ヤナンはそうではない。仕事を始めたばかりの頃はその騒がしさに集中力を削がれていたものだが、すぐに慣れた。また、周囲の女子たちもヤナンに声を掛けたところで、ヤナンが仕事に没頭して上の空であることはすぐに理解した。

 何かに集中するというのは良いことであるとヤナンは考えている。集中している間は余計なことを考えなくて済むからだ。野菜はひとつひとつが違う形をしているからこそ、水を注ぐにしてもどこから注ぐか、どれくらいの量を注ぐのがよいか、といったことはそれぞれ異なる。ヤナンの仕事ぶりは鈍くさいと評されることが多いが、ヤナン自身その通りだと思っているので、嫌な気持ちになることはない。たとえばモーティは次から次へと作業を進めていくが、それは彼女の仕事ぶりが雑でいい加減であるというわけではなく、むしろヤナンと同じことをヤナンよりもずっと素早く正確にやっているだけである。モーティと比べてヤナンが鈍くさいというのはなるほど確かにその通りである。そして、だから何だというのか。たしかに他者よりも時間がかかるかもしれないが、それでもヤナンは自分の仕事を確実にやり遂げているのだ。

 昼休憩を挟んだ後、モーティはヤナンが朝からやってきた分と同じ仕事量に到達し、追い抜こうとしていた。今朝、山羊の一頭が子山羊を産んだという話題があり、モーティが「ついに産まれたんだね」と声を弾ませ、子山羊の名前は何か、自分たちが名前の候補を提案して採用される可能性があるのか、といった話をしている間にとうとうヤナンの仕事量を追い抜いた。

「ようし、今日の分は終わり!」

 洗い終わった根菜や芋をかごに入れ、「じゃあね!」と声を掛けてモーティは洗い場を後にする。今日も最初に自分の仕事を終えたのはモーティだった。それからやや遅れて他の女子たちも仕事を終え始めた。最後まで残るのはまだ仕事に慣れていない幼い子たちとヤナンである。先ほどまでの騒がしさが嘘であったかのように仕事場は静まり返る。

 ヤナンが自分の仕事を終えたところで周囲を見ると、特に仕事が遅い子が泣きそうになりながら野菜を洗っていた。

「手伝ってあげようか?」

 女の子は口を曲げて涙をこらえていた。そして小さく一度だけ頷くと、服の袖のまだ泥で汚れていないところで目を拭った。ヤナンは女の子の隣に座り、一緒に作業に取り組んだ。

 すべての作業を終えてヤナンが家に戻ると、もうすっかり夕食の準備が仕上がろうというところだった。配膳の手伝いをしていたモーティがヤナンに気付き、声をかける。

「おかえり」

「ただいま」

 台所から伯母が「着替えておいで」と呼びかけるのを後方に聞きながらヤナンは部屋に戻り、身支度を整える。綺麗な服に着替えるとようやく仕事が終わったことを実感できる。一日の疲労が溢れてきて、椅子に座って一息つきたくなるが、それをしてしまうといよいよ動けなくなってしまうことはわかっている。ヤナンご飯の用意できたよ、早く食べよう、とモーティの明るい声がする。

 食卓ではヤナンとモーティと伯母の三人がテーブルを囲んでいる。それぞれが手と口を動かしながら、今日一日あったことを話している。もっとも、話すのはモーティと伯母が中心で、ヤナンは頷いて聞いていることの方が多い。たまにヤナンに質問が向けられても、問われたこと以上のことは答えられない。それに対して一言か二言、返事代わりの感想が添えられると、話題はすぐに別のものに変わる。彼女たちは話の種が尽きるということとは無縁であるようだった。そうしているうちにそれぞれの皿が空き、話の続きは翌日以降に繰り越されるのだ。

 夕食後には皆で片付けをして、それが終わるとモーティは「おやすみ」と宣言して部屋に戻ってしまう。モーティは時間の許す限りを睡眠に費やしたいと思っている。良質な睡眠を実現するためによく働きよく食べるのである。後にはヤナンと伯母が残るが、それぞれがぼんやりとして時間を過ごしている。会話がないのは話すことがないから話さないというだけのことである。むしろそのようにすることで、互いが互いの時間を尊重していることが察せられるので、少なくともヤナンにとっては心地よい時間である。

 そのようにしているうちに伯母があくびをして、眠たげに言うのだ。

「私もそろそろ寝るよ」

「うん。おやすみなさい」

 ヤナンはろうそくの明かりを眺めながら返事をする。ちろちろと揺れる光がヤナンの目元のくまを強調させる。伯母は無意味であると知りつつも言わずにはいられない。

「ヤナンもちゃんと寝るんだよ」

「うん」

「それじゃあね」

「おやすみなさい」

 このようにしてヤナンは居間に一人で残る。ヤナンの夜はここからが長い。湯を沸かし、茶のおかわりを淹れる。茶の香りを嗅ぎながら目を閉じる。睡魔は確かにヤナンのそばにあるが、ヤナンは意識から逸らすように努める。野菜のより効率的な洗い方を考え、地底湖の高い天井を覆う光苔が放つ光の粒の数を数え、通気孔から風を送り込む機構の構造を思い出す。しかしそれらの作業に割って入るのが睡魔というものである。たとえば、野菜の洗い方を考えていたはずなのに、横から子山羊が次から次へと現れて増えていく。この子たちの名前はどうしようか、とモーティたちが言う。子山羊がつぶらな瞳でヤナンを見上げる。ヤナンは水差しから水を注ぎ、血で汚れた体に水を注いでやる。ヤナンは考える。どうしたらこの血は綺麗に洗い流せるだろうかと。そして自分がいつの間にか違うことを思いめぐらせていたことにハッと気付くのだ。目の前にはろうそくの明かりがある。自分が眠りかけていたことに気付く。心臓が激しく鼓動して、今自分が危うい状況にあったことを知らせてくれる。

 早く寝た方がいいことは百も承知であった。しっかり寝ないと体力が回復せず、明日の仕事に障るだけではなく、あらゆる意味において体に良くない。しかしヤナンは眠ることを恐れている。眠れば必ず悪夢を見るからだ。どんな夢も必ず最後には醒めるものであるが、夢の中にある間はそれが夢であるという自覚もないまま、終わりのない地獄を歩かされる。それは死体でできた肉の道を歩くというものであった。道には果てがなく、肉の中に見知った顔がいくつもあった。ヤナンは自分がなぜその道を歩き、どこへ向かっているのかわからない。ヤナンは眠れば必ずその夢を見る。それは昨晩の続きであるのか、まったく新しいものであるのかもわからない。何かを暗示するものであるのか、あるいはまったく無意味なものであるのかもわからない。確かなことはヤナンにとってその悪夢が苦痛に満ちたものであるということだけである。

 ヤナンがこのように悪夢に苛まれる一方で、モーティはいつも幸福な夢を見るのだという。しかし妬む気持ちは湧いてこない。ヤナンにとって夢とは悪夢以外になく、夢が幸福であるということがまったく想像できないことが理由のひとつである。

 考えているうちに眠気は退いた。ヤナンは上着を着て、しっかりと暖かい恰好をして、家の外に出る。今晩はどこへ行こうか。今朝と同じく地上に出てもいいし、地底湖に下りていってもいい。周囲の家々は暗く沈み、誰もが既に眠りの中にあるらしい。集落中の人々はヤナンがこうして夜中に外を出歩いていることを知っているが、その様子を確かめることはしない。誰も自分の眠気には逆らえないからだ。



 2.


 その日、モーティがいつも通り早くに仕事を終えると、洞窟の入り口付近がいつもより騒がしいことに気付いた。村のまとめ役の大人たちが揃っている。お祭りでもない日にこういうことがあるというのは、大抵の場合ろくでもないことが起こっているときである。だから関わらないようにするのが賢明であるのだが、厄介ごとというのは往々にして退屈しのぎにもなるものだ。

 そっと様子を伺ってみると、大人たちの肩の向こうに見知らぬ人たちがいるのが見える。特に体の大きな男の人が目立っていた。外の世界の人たちなのだろうか。

 モーティは様子を見ているうちに、違和感を覚え始める。厄介ごとだと思っていたのだが、どうも雰囲気は険悪というわけではないらしい。いったいどういうことか。真相を突き止めるためにはもう少し近づいて様子を確かめなければならない。そうして大人たちに近づいてみると、そのうちの一人がモーティに気付いて振り返った。

「なんだ、モーティか。今日の仕事はもう終わったのか」

「うん。ばっちり」

「そうかそうか。ちょうどいいところに来たな。こっちにおいで」

 てっきり怒られるものだとばかり思っていたのに、そう言われてモーティは一瞬だけ体が固くなってしまった。しかしすぐに促された方に向かう。

「アルフィルク様、せっかく来てくださったのだから、どうぞゆっくりしていってください。村の中はこの子に案内させましょう」

 あれよあれよという間にモーティは大人たちの最前列に押し出されてしまう。そこに至ってようやく見知らぬ人々の全貌を捉えることができた。

 男の人が二人と、女の人が二人。まず前者の一人は集落の働き盛りの大人と同じくらいの年で、子供たちの親よりは若く、しかしお兄さんと呼ぶには大人すぎる人だった。アルフィルクと呼ばれたのはこの人だろうか。その隣にいたのは、先ほど後方からも頭一つ抜けて見えた大男で、間近でみれば山のような巨躯に思わず慄いてしまう。頭髪がないのが異様さに拍車をかけていた。

 一方後者の女の人たちについて、一人は見たこともないような美人だった。村で一番の美人と評判の人すら霞むようで、思わず見とれてしまう。そんな華やかな女性の隣にいたのは、自分とさほど年の変わらない女の子である。その暗い雰囲気はなんとなくヤナンを連想させた。なぜ自分は彼女のことを大人の女の人と認識したのかということは気になりはしたものの、アルフィルクから握手を求められて返すうちに意識は唐突に任せられた大役に移っていった。

「モーティ、村の中を案内して差し上げなさい。アルフィルク様は大きな街の大変立派な司祭様でいらっしゃるからね。くれぐれも粗相のないように」

 そんな立派な人であるなら、自分ではなくちゃんとした大人が相手した方がよいのではないかと思わないでもないが、大人たちも何か思うところがあるのだろう。くれぐれも頼んだよ、とモーティに耳打ちする声はいやに冷たく、やはりこれは厄介ごとの類であることが察せられた。しかしそういうことに首を突っ込んだのは自分自身であるから、その責任は自分で取らなければならない。

「どうぞよろしく」

 アルフィルクと呼ばれた立派な司祭様は、その肩書に反して、身なりはお世辞にも上品とは言い難く、なかなかに年季の入った旅装をしていた。手も大きくかさついていて、普段農作業などをしている大人たちと大差がない。

「モーティ、と言ったかな。突然のことで申し訳ないが、私たちにこの村を案内していただきたい」

 そのくせアルフィルクは人好きのする笑顔をこちらに向けてくる。俗世にまみれた人なのだろう。信頼できるかどうかは別だが、モーティ個人の感覚で言えば、嫌いではない。

 さて、とモーティは一息つく。外の世界の人たちに地底湖を案内するにあたり、道順は歩きながら考えればいいとして、先に対処した方がよさそうなのは、彼が持っている荷物だ。どんなに大人たちが彼らと距離を置きたがっているとはいえ、まがりなりにも客人という立場の人に荷物を持たせたまま歩かせるのはいかがなものか。

「お荷物はどうされますか」

「村長殿のお宅に厄介になることになっているので、先にそちらに寄ってもらえるだろうか」

「わかりました。ご案内するのはその後にしましょう」

「そうしてもらえると助かる」

 モーティが先導して歩いていると、すれ違う人々の注目を集めていることはいやでも自覚させられる。村に外の世界の人が来ることは珍しく、年に一度か二度くらいしか機会がないからだ。行商人が地底で採れる鉱物を求めにやってきて、代わりに外の世界のものを置いていってくれるのだ。モーティが知る限り司祭と呼ばれる人が来るのは初めてであるが、村全体にとっては初めてではないらしいことは先ほどの大人たちの反応を見ればわかる。自分たちに向けられる視線に不安な心情が表れているが、敵愾心は感じられない。

「アルフィルク様たちは以前もこの村にいらっしゃったことがあるのですか?」

 道中の世間話として問いかける。

「ああ、数年前に一度だけね。そのときにもここの方々には良くしてもらったよ。モーティはまだ小さかったから覚えていないかもしれないね」

「そうですか」

「失礼だが、モーティは今いくつかな」

「十一です。来月、十二歳になります」

「そうか。だとすれば、モーティが六歳の頃に私たちはここを訪れたことになるね」

 六歳と聞いて、モーティは胸の内に重石が乗ったような心地になる。六歳は両親が亡くなった年で、その頃のことはもうよく覚えていない。

「たしかにまだ私が幼い頃ですね。お恥ずかしながらよく覚えていません」

「無理もない」

 この話題を長引かせるのはモーティにとって気分の良いことではなさそうだった。話題を切り替える。

「それで今回はどのようなご用事でいらっしゃったのですか」

「村の様子を見に来たのだよ。どうもここはなかなか神の目が届きにくいようだからね。しかし神とは民を見捨てないものだ。何も困ったことがなければそれでいいし、もしそういったことがあるなら何か力になれないものかと、ね」

「そうですか。ありがとうございます」

「どういたしまして」

「それで、困っていることですか、ううん」

 困っていることがあれば助けになると言われても、少なくともモーティが知る限りでは、特に困っていることは何もない。村は平和そのものであり、その平和が崩れる気配はない。平和なのは良いことだ。

「その様子だと、特になさそうだね。結構なことだ」

「はい。もしかしたら他の人は何かそういうものがあるかもしれませんが」

「いやいや、本当に何も困ったことがないのなら、それが一番良いことだ。それに、私も楽できて助かる」

「不真面目なことを仰るんですね」

「神の威光を示す機会を求めて人の不幸を望むというのは実に不道徳なことではないだろうか」

「確かに」

「そうだろう。そういうわけで、今回は楽しい観光旅行になりそうだ」

 アルフィルクは肩をすくめた。

 村長の家に着き、戸を鳴らすと家族の人が現れた。すぐに事情を理解してもらうことができた。モーティが庭先をぐるぐると歩いて暇をつぶしているうちに身軽になった一行が現れ、「では行こうか」とアルフィルクが言った。

 そういえば、とモーティは気付く。アルフィルク以外の三人はここまで一言も発していない。

「ところでこちらの方々はアルフィルク様の従者の方ですか」

「ん? ああ、彼らは、そうだね、従者、みたいなものだな」

 どうも歯切れが悪い。三人に目を向けると、そのうち美人な女の人と目が合い、微笑まれたので、会釈を返す。

「彼女はルシャという。あそこの大きいのはグラジ、小さい女の子はマユワ」

 他二人はこちらの話に関心がないようで、それぞれ別の方向を見ている。

「そろそろ私と話すのも飽きただろう。きっと同性同士の方が話も弾むだろうから、ここからはルシャと話をするといい」

 私たちはモーティの後をついていくからね、お構いなく。そう言ってアルフィルクは美しい女性をモーティの隣に促し、自分はさっさと後方に下がってしまった。

 入れ違いで現れた女性は上品な口調で、ルシャ、と名乗った。

「よろしくね」

「はい」

「あの人ってとんでもない生臭坊主でしょう」

 曲がりなりにも立派な立場にあると言われている司祭様をそう表現したことにモーティは面食らってしまったが、背後のアルフィルクはどこ吹く風で、特に気にはしていないらしい。

「都会の司祭様というのはもっと厳格な方だと思っていました」

「ああいうのが普通だと思っちゃダメよ」

「はい」

「しかしそれにしても、本当にこんな地下で暮らしている人たちっているのね」

 ルシャは物珍しげに辺りを見回している。その様子にモーティは違和感を覚える。

「あの、ルシャ様は」

「様付けなんてしなくていいわよ」

「はあ。ルシャ、さんは、ここは初めてなのですか」

「うん、私は初めて」

「そうなんですね。アルフィルク様は以前もこちらにお越しになったことがあると仰っていましたから」

「そうね。私とあそこの大きい人は初めてね」

「あちらの、私と同い年くらいの子は」

「あの子はどうなんだろう。さあ」

 もし以前も来たことがあるというならば、モーティと同じくまだ幼い頃のはずだが、そんな幼子を連れて立派な司祭様が砂漠を旅してきたというのか。考えにくいことなので、そうではないのだろう。

「それよりもさ、ここでの暮らしのことを教えてよ。地下でどうやって生活に必要な水や食料を確保しているのか、ずっと気になってたの」

「生まれてからずっとここで暮らしてきた身からすると、外の世界と比べて何が特別で何がそうではないのかの区別が今ひとつうまくつけられません。ありのままをお伝えすることしかできませんが、それでもよろしいでしょうか」

「うん、十分。よろしくね」

 ルシャに笑顔を向けられてモーティは悪い気はしない。彼女は太陽みたいに明るい人で、そういう人は地下暮らしをする人々にはなかなかいないからこそ、稀有なものである。

 話しながらモーティはこれから先の順路を考える。彼らの旅の疲れを考えれば、夕食時のぎりぎりまで歩き回らせるのは良くないだろう。それよりも少し早く宿に戻してやるのが適切だろうか。そう考えると、一、二か所を見せるのがせいぜいで、彼らが楽しめそうな場所となると、候補や道順はおおよそ絞られてくる。頭の中で一連の流れを掴めれば、あとはその場で細かく臨機応変に対処してやればいいだけだ。自分の思考に抜けや漏れがないか。もてなしに最上を求めればきりがないので、そういうことは最初から考えない。今ここからできることの中での最良を目指すべきである。

 さて、そうなれば。まず見せるべきものは、この村の中心である地底湖だ。地底湖はとても広大で対岸が見えないほどである。この光景は砂漠の上で暮らす地上の人々には間違いなくなじみのない光景であるはずだ。

 モーティは時々地上に出ることがあるが、地上は地底と違って広くて明るいものの、見渡す限りの全てが砂漠で、地底とは違って何もない。そして容赦なく照らす日光が砂の一粒一粒を熱するものだから、垂れた汗はたちまち乾いて跡も残らない。外の世界の人たちはこのような過酷な場所で暮らしているというのだから、驚きだ。モーティを含め村人たちが地底湖を大事に扱うのは当然のことだ。冷たく澄んだ水はモーティたちにとって文字通り生命の源である。モーティたちはその水で喉を潤し、農作物を育て、命をつないでいるのだ。だから水を汚すような一切のことは集落では固く禁じられている。汚水を流すことなどもってのほかである。

「へえ、じゃあ汚れた水はどう処理してるの? まったく出さないというわけにはいかないでしょう」

「地の底まで続く深い穴がいくつかあって、そこに捨てるんです」

「いつか埋まっちゃうんじゃないの?」

「うんと深くて広いから、それは大丈夫みたいです。だからこそ怖いのは、うっかりものを落としちゃうことなんです。一度落としてしまったら、二度と取り戻せませんから。みんな細心の注意を払っています」

「大変ね」

「それでも、私たちにとっては必要なものです。ところで外の世界の方々はあの日差しの下で暮らしているのですよね。その方がよっぽど大変に思えます」

「ふうん。立場によって感じ方は色々あるものね。まあ、捉え方が違うというのは当たり前のことなんだけど」

 そう言ってルシャは考え込んでしまった。ルシャは地下での暮らしは大変だと言ったが、モーティ自身は大変だと感じたことはない。それにすっかり慣れてしまっているからこそ、今あるものが変わることで生じる面倒の方が煩わしく感じる。村の子供たちの中には外の世界への憧れを口にする者もいるが、モーティにはそのような感情はまったくない。今あるものに満足し、感謝しているのだ。

 下り坂を抜けると開けた空間に出る。頭上を覆う光苔の遠さが天井の高さを示しており、同時に地底湖の広さも表していた。湖岸に沿って作られた畑には大人たちがぽつぽつと何人かいて、こちらに気付いた人は何事かと作業の手を止めて様子を伺っている。奥から吹いた風がモーティたちの隣を通って地上へと抜けていく。その風は洞窟特有の湿ったものではなく、外を吹く風のように乾いたものだ。遠くから、からから、と石羽根の回る音がした。そのような様子のなかでやはり最も目を引くのは、地底湖の水面だろう。天井の光苔をそっくりそのまま反映しているのだ。凪いだ水面はまさに一枚の巨大な鏡となって、反転した天井を映している。光苔が高く広がっている分、水面の鏡像も深く広がっている。

「わあ」

 ルシャの感嘆の声を横に聞いて、モーティは鼻が伸びる心地がする。これはモーティが気に入っている景色のひとつだ。きっと他の三人も同様に驚いていることだろう。

「これが地底湖です。天井の様子をそっくりそのまま映すくらい、湖の水は澄んでいるのです。私たちにとって湖の水は最も大事なものであり、私たちの生活はこの湖を中心に形成されていると言ってよいでしょう」

 モーティはあくまで何でもない風を装いつつ、内心誇らしげに地底湖の素晴らしさを自慢する。人目を憚らないのであれば、自分の胸を叩いているところであった。代わりに、ふん、と小さく鼻を鳴らす。

「質問をしてもいいだろうか」

 野太く低い声は誰のものか。モーティが振り返ると、アルフィルクではない方の男が一歩進み出てきていた。グラジという名の人だったか。近づかれると体格差がより顕わになって、モーティは自分の体がこわばるのを感じた。グラジはモーティの返事を待たずに続ける。

「これだけの水源があれば、所有権を巡って争いが起こりそうなものだが、ここではそういうことはないのだろうか?」

 ……何を、言っているのだろう、この人は。

「湖を独占できればこの地の富を独占したに等しく、水の使用権をたてに他者に対して隷属を強いることができるだろう。そのような魅力的な資源がある地が平和であるというのが疑問に感じた」

 所有権? 独占? 隷属? 争い? 水はたくさんあるのだから、みんなで使えばよいではないか。

 モーティがどう返事をしていいか困っていると、ルシャがグラジの脇腹を小突いてため息をついた。アルフィルクは苦笑している。

「変なことを訊いちゃってごめんなさいね」

「いえ、こちらこそお答えできなくて申し訳ありません」

「いいのよ。モーティちゃんには難しすぎる話だろうから、気にしないでね」

 申し訳なさそうに微笑むルシャの顔を見ていたら、自然と素朴な疑問がモーティの口からこぼれた。

「あの、外の世界では水を巡って争うのが普通なのですか?」

 問われてルシャは、ううん、と唸った後に答えた。

「まあ、歴史的には限りある資源を巡って人々が争うというのはよくあることね。より多くの資源を所有した人がより多くの力を手にするというのもまた事実。他の誰かを退けてでも自分が利益を得たいという人が一人でも現れれば争いは生じて、それから身を守るための争いも生まれる」

「そうなのですか……」

 モーティは俯いて考える。争うのが普通であるというなら、なぜこの村は平和なのか。モーティの知る限りにおいて、人々は皆仲が良く、誰かが誰かを虐げる様子を見たことはない。そういうことをしてはいけないことだときつく言われて育ったから、当然モーティ自身も他者にそうしようと思ったことは一度もない。外の世界ではそういう躾が不十分だということか。しかしやはり、そもそもみんなで分け合えばいいものを独り占めしようとする人の気持ちがわからない。むぅ。

「むぅ」

 自分の心の中の声が外から聞こえてきたので、モーティは驚いて顔を上げる。するとそこには難しい顔をして考え込むグラジの顔があった。グラジはモーティに気付く様子もなく、ぐっと眉に力を込めている。その隣ではルシャが肩を震わせながら、目尻に浮かんだ涙を人差し指の背で拭っていた。

「体の大きさは全然違うのに、同じ顔をして考え込んでいるから。面白くって」

「なんですか、もう」

 モーティは恥ずかしさを隠すように憤慨してみせる。自分と似ていると言われた人のことは、もうあまり怖くなくなっていた。



 3.


 アルフィルクたちに農場を見せたところで思いのほか時間が経ってしまっていた。

「続きはまた明日にしようと思うのですが、ご都合はいかがでしょうか」

「問題ないよ。しばらく滞在させていただく予定だからね」

「そうですか。よかったです。では、戻りましょうか」

 湖岸近くの農道を経て、家へ戻る坂道にさしかかったところで、向かいからとぼとぼと歩いてくる見知った顔を見つけた。ヤナンである。モーティが手を振ると、ヤナンも気付いたようで手を振り返してきた。

「知り合いかな」

「はい、双子の弟です。ヤナンといいます」

 合流したヤナンはモーティたちのことを訝しんでいるようだった。モーティが改めてヤナンの名を紹介すると、アルフィルクたちがそれぞれ自分の名を名乗った。アルフィルク、ルシャ、グラジ、マユワ。それぞれに対してヤナンは首だけを下げて挨拶を返す。

「この方たちは大きな街の教会の方々で、私たちの様子を見に来られたんだって」

「ふうん」

「こら、言葉遣い」

「あ、はい」

「私、今日の午後は村の案内役を仰せつかっていたの」

「そうなんだ……ですね」

 おどおどして目を合わせようとしないヤナンに対し、アルフィルクは相変わらずの人好きをする笑顔を浮かべていた。

「これからしばらく世話になるが、どうぞよろしく」

「はい……何もないところですが、どうぞごゆっくり」

 アルフィルクが手を差し出す。ヤナンはその手をおずおずと握り返した。ヤナンらしい反応であるとモーティは感じている。

「では戻りましょう」

 モーティとヤナンが先頭に立って坂道を歩く。二人は双子であるが、並んでみるとモーティの方が頭半分だけ背が高い。歩幅もモーティの方が広いから、歩調を合わせるためにはヤナンが意識的に足を速めなければならない。

「なんでモーティが案内役なんかやってるのさ」

「いやあ、仕事が終わった後に人だかりを見つけたから、ちょっと覗いてみたらこうなった」

「なんだよそれ」

「へへ。でも楽しかったよ」

「そう。……まあ、細かいことは帰ってから教えてよ」

「今日はね、地底湖を見てもらった後に、農場に行ったんだよ。あ、そうだ。そこでね、赤ちゃん山羊を見たんだけど、可愛かったなあ。もうしっかり歩いてて、お母さん山羊の後を追いかけてたの」

「ふうん」

 ヤナンはモーティが楽しそうに話をするのが好きだ。ヤナンの色褪せた景色の中でモーティだけが色づいて見える。時間が経って、色々なものが過去に置き去りにされて遠のいていくなかで、モーティだけは今も昔も変わらず朗らかであり、自分たちがまだ幸せだった頃がたしかに存在していたことを証明してくれる。そして今がその過去の延長線上にあって、ヤナンの目にはもう変わりばえしない砂色の日々に見える毎日も、モーティの目を通せば一日として同じ日はなく、常に変化や気付きに溢れていることを教えてくれる。

 モーティの話に耳を傾けていると、話題はやがて客人のことに移った。各人がどのような人であるかを絶え間なく語り、そのなかで特にルシャには外の世界のことを色々教えてもらったという。

「ねえ、雪って知ってる? 水をうんと冷やすと氷っていう冷たい石になって、ここからずっと遠い所ではその氷が空から降ってくるんだって。石が降ってくるなんて、とても危ないって思うでしょ? でも降ってくるときには雪っていうのになってね、あ、雪っていうのはふわふわした埃みたいなもので、ぎゅっと固めると氷になるんだって。だから雪も氷みたいに冷たくって、しかも触ると水に戻るんだって。すごいよね」

 モーティは、ルシャに伝え聞いたであろうことをそのまま語って聞かせる。雪も、氷も、ここからずっと遠い土地のことも、ヤナンは何も知らないし、そもそも興味もない。モーティの嬉しそうに語る顔だけは良いと思うが、知らない世界のことを喜々と語る様子には少しだけ不安を覚える。

「モーティは遠い所に行ってみたくなったの?」

「え? それはないかなあ」

「ないんだ」

「うん。だって今の暮らしに十分満足してるし」

「そっか」

 モーティが当然のことのように言ってのけるので、ヤナンもそっけないふりをして返すが、内心はじわじわと腹の底に温かいものが広がる心地でいた。しかしモーティの気持ちが変わらない保証はどこにもない。いつかそういう日が訪れるのだとしたら――ヤナンは自分の思考に歯止めをかける。この種の思考の行きつくところはどうせ、考えるだけ無駄、という結論である。何かが変化していくことは自然なことであるから自分には止められないし、変化に対してはそれを受け入れ適応していく以外の対処法はない。自身の心構えの在り方の問題に行き着くのであれば、ヤナンの答えは単純だ。何があっても、どんな明日でも、明日それ自体は必ず訪れる。

 アルフィルクを送り届けた後、ヤナンとモーティは家に帰る。いつものように伯母を含む三人で夕食を食べ、モーティは早々に夢の世界へ旅立ち、しばらくヤナンと伯母はゆっくりとした時間を過ごし、その後伯母が先に就寝し、ヤナンが一人になる。最後に悪夢を見ることなく眠れたのはいつだっただろうか。少なくとも両親が亡くなるよりも以前には夜を恐れることはなかった。もうヤナンには悪夢の始まりがわからない。そしてもちろん、悪夢の終わりも見えない。死肉の道は果てしなく続いており、歩くたびに足が肉に柔らかく沈んでいく。誰の死体のどこを踏むかによって足の裏に生じる感触は様々で――ヤナンが理性で思考に歯止めをかける。

 夜はまだ長い。ヤナンは今夜も外へ出る。先日は地底湖の方を歩いたから、今夜は地上に出てみることにする。坂道をのぼり、いつもの薄藍色の出口を通り抜けてみれば、そこには無数の星々が瞬く夜空がある。地底湖の光苔と比べてみれば、こちらの方がずっと光が細かく色とりどりである。色々なものが変わりゆくなかで、昼と夜が交互に訪れて、夜になればこのような星空が現れることは変わらない。ヤナンは自分の心が落ち着くのを感じる。

 しかし今夜はその星空の下に先客がいた。焚火を囲んで大小の影がひとつずつある。揺らめく火が横顔を照らして、その人たちがアルフィルクとマユワの二人であることが明らかになった。たしか、モーティが今日の昼に案内したという客人のうちの二人だ。アルフィルクは司祭という聖職者だというが、マユワとは一言も口をきいていないから、どういう人なのかはわからない。このような時間に他人と出会う機会はなかったため、ヤナンはどう反応したものか迷ってしまう。いっそ気付かれる前に地下に戻ってしまおうか。しかしその迷っている隙にアルフィルクがヤナンに気付き振り返る。アルフィルクの方も夜中に人が現れたことに驚いたようで、不意に両者に緊張が走るが、それを破ったのはアルフィルクの方だった。

「こんな夜更けにどうしたのかな」

「えっと、眠れなくって」

「そうか。とりあえずこちらに来るといい。夜の砂漠はとても冷えるからね」

 アルフィルクは自分の隣を手で示した。

 どうやら二人は焚火をおこしてから長い時間そこにいたらしい。二人の手元にはそれぞれ中身が空になった陶製の椀があり、焚火の灰も溜まっていた。ヤナンはアルフィルクに促されて隣に座り、その反対側にはマユワがいる形になった。

「君はヤナンといったか。モーティとは双子なんだってね」

「はい」

「今日はモーティにとても世話になった。感謝していると伝えておいてほしい」

「はい」

 もっと気の利いた返し方をするべきなのだろうが、どうしたらいいのか。ヤナンはモーティのような器用な受け答えができない。焚火の揺らめきを見ながら、早くも居心地の悪さを感じ始めていた。適当なところで切り上げて、他の場所で時間を潰すのがよさそうである。

 しかしアルフィルクは特に気にする様子もなく、穏やかな時間を楽しんでいるようだった。そしてヤナンが立ち上がろうとするところに先がけて声をかける。

「先ほど眠れないと言っていたが、眠れないのはよくあることなのかな」

「まあ……はい」

「そうか。それは大変だね」

「眠れないというか、眠りたくない、というか」

「眠りたくない?」

「はい」

「眠れないと眠りたくないとでは、意味が全然違うね」

「そう、ですね」

 アルフィルクは咳ばらいを一つする。

「何か事情がありそうだね。話して楽になる保証はないが、一人で抱え込んだままにしておくよりは何かが起こる可能性は高いだろう。どれ、これも何かの縁だ。知らない人だからこそ話せることもあると思うのだが、どうかな?」

 促されてみてヤナンは考える。悪夢のことを話すか、話さないか。誰彼構わず言いふらすものではないが、しかし必死になって隠し立てするようなものでもない。うっかり口を滑らせて話の種をこぼしてしまった以上、ここで口を噤んでも、何かしらの事情がある、という憶測が残り続ける。そのような状況を作ってしまったのはヤナン自身の責任である以上、落とし前は自分でつけるべきであろう。

 こういう話はどこから始めたらいいのだろうか。結局のところ、頭に浮かんだことをそのまま話すほかにない。

「悪夢を見るんです。人の死体でできた肉と骨の一本道が、ずっと果てしなく続いている。僕はその道をひたすら歩いているんです。この道がどこから始まっていて、どこに続いているものなのか、そもそも終わりがあるものなのか。なぜ自分が歩いているのか。歩きたくて歩いているのか、それとも歩かされているのか。わかりません。まったくわからないんです。でもその道を歩かないといけないことだけは確かで、僕は必死に、足を止めてはいけないと思いながら、歩くんです」

「それは、嫌な夢だね」

「はい――そういう夢を毎日見るんです。毎日、必ず。眠れば必ずその夢を見てしまうんです」

「どうしてそんな夢ばかり、というのはきっとヤナン自身が一番知りたいことなのだろうね」

 ヤナンは頷いた。こういう話は既に飽きるほど村の大人たちにしていた。そして彼らがヤナンに対してできることは何もなかった。たとえ眠るまでは傍に居てやることはできたとしても、夢の中までは助けることができないし、かといって眠らせないということもできない。いつかヤナンが悪夢から解放されることを願う以外のことは何もできないのだ。それはまったく無意味で無力なことだった。

 この悪夢は然るべき時期が来ればやがて終わるものなのか、それとも永遠に続くものなのか。もし後者であるならば、現実それ自体がもはや悪夢であると言っても過言ではない。いつか悪夢が終わることを願って、今を耐え続ける以外にするべきことがあるなら、教えてほしいものだとヤナンは考えている。

「それで、眠りたくなくてこうして外を出歩いていたというわけだ」

「僕はどうしたらいいのでしょうね」

 相手を困らせるだけの問いかけであると知りつつ、しかしヤナンは口にせざるを得ない。ふう、と息を吐いて目を瞑る。そう遠くないところに睡魔が立っている。

「どうしたらいいか。そうだね、眠るしかないだろう」

 アルフィルクはそう言うことが当然であるかのように淡々と続ける。

「悪夢を見るから眠りたくない。なるほど、心中は察する。しかし眠らなければ現実のヤナンの体がもたない。育ち盛りの子供がきちんと睡眠をとらないということは発育に悪影響を及ぼす。現に君の体つきは年相応であるとは言い難い。痩せぎすで、やつれていて、今すぐにも倒れてしまいそうだ。そうならないためには、きちんと眠って、体力をつけて、健康にならなければいけない」

「でも眠ったら悪夢が」

「見てしまうのだろう。しかし、毎日必ず見ていても、君は今こうして生きている。少なくとも今この瞬間まで、ヤナンは悪夢に殺されていない。悪夢はヤナンを苦しませても、ヤナンの命を奪うには至れていないというわけだ。たしかに、いつか本当に悪夢に殺されることもあるかもしれないね。しかし、実際にそういう日が訪れるのと、現実の君が睡眠不足のために死んでしまうのと、どちらが先だろうか。私には後者の方がより現実的なヤナンの死因になりうるように見えるよ」

 淡々と、何でもないことのように、アルフィルクは語った。そしてその内容はヤナンにとって反論の余地のないものである。しかしアルフィルクはヤナンが悪夢の中でどれだけ苦しく辛い思いをしているかを知らない。知らないからこそ、正しいことをそのまま口にすることができるのだ。

「あなたにわかりますか。家族や大事な人たちが皆死んでしまって、その人たちの死体を踏んで歩く気持ちが。頭、肩、腕、背中、腹、腿、それぞれで踏んだ時の感触が少しずつ違っていて、固かったり柔らかかったりする。うっかり体勢が崩れてしまいそうになったときにはぐっと踏ん張って、その足の下で見知った人の顔が崩れてしまう。皮膚が破けて肉が潰れて、骨が露わになって。その時の感触、剥げた皮とその下の肉の生々しさ、わかりますか。ぐじゅぐじゅと足の下で血が泡立つんです。わからないでしょう。悲鳴をあげても誰も助けてくれる人なんかいなくて、ただ暗闇のなかに消えていくだけなんだ。そんな道を延々と、いつまでも、果てしなく歩かされる。そういう夢なんだ」

 一息に吐き捨ててみて、ヤナンは自分の体が震えていることに気付いた。心臓が激しく鼓動している。しかしその様子にアルフィルクが動じている様子はない。

「私がヤナンのことを気の毒がることはできるが、君はそういうことをもう十分にされてきたのだろう。そして周囲の人がヤナンを気の毒に思ってくれることと、ヤナンが感じているものを私や他の人々が同じように感じ取れることはまったく別ものであることも、君は理解しているのだろう。そう、私には君の気持ちはわからない。こういうことなんだろうな、と想像して察してみて、その仮説が正しいと仮定したうえで上辺だけ共感してみせるのがせいぜいだ」

「そんな冷めた気持ちでされる共感なんか、共感じゃないでしょう」

「まったくだ。私は人の心を思いやるということがどうも下手なようだ」

 アルフィルクは肩をすくめてみせた。

「それでも、君はちゃんと眠るべきだよ。悪夢がどんなに痛ましく恐ろしいものであったとしてもだ」

「それができたら苦労なんかしません」

「それもそうだ。結局どうするかは君次第だからね。私は私の目から見えるものを伝える以上のことはできない」

「……聖職者ってそういうものなんですか」

「というと?」

「困っている人を助けるふりして、自分の手に余ると思ったら結局突き放す」

「理を超えた力を行使するのは神のすることであって、私ではない。私には奇跡を起こすことなんてできないし、私以外の誰にもできない。現実の自分を救うのはいつだって自分自身だ。私を含めた他の人間にできるのは、その人が自分を救う過程を手助けすることまでだよ」

 アルフィルクははっきりとそう言い切った。アルフィルクの言うことは今までかけてもらった慰めの中で最も冷淡であったにもかかわらず、最もヤナン自身と向き合ったものでもあった。

「他者から正しく助力を得るためには、正しく問いを立てて正しく考えなければならない。今の状況において君が救われるとはどういうことなのか」

 自分が救われるとは何か。ヤナンは考える。悪夢のせいで眠ることを恐れている、というのが今の状況であるが、これをどうしたいのか。どうなったらいいのか。悪夢とうまく付き合うか、悪夢そのものを断ち切るか。これから先も悪夢を見続けるとしたら、それはとても辛いことだが、おそらくそれ自体が理由で命を落とすことはない。それよりも叶うものであるならば、悪夢を見なくなることの方がずっと望ましい。

 ここに至ってヤナンは自分の真の望みに気付く。

「僕は、もう悪夢を見たくない。安心して眠りたい。だけどその方法がわからなくて、ずっと耐えていればいつか悪夢が終わると期待して、その可能性に縋っていた。だけどもしかしたらそうですらないのかもしれない。悪夢から醒めるにはどうしたらいいかを知りたい、です」

「ふむ。その答えは私にもわからない。だけど、一緒に考える手伝いならできる」

 アルフィルクは湯気の立ち上る茶をヤナンに差し出した。

「君のことを教えてくれないだろうか。そこに手掛かりがあるかもしれないから」

 アルフィルクの真剣な瞳に促されて、ヤナンは焚火の揺らめきを見つめ、その揺らぎの奥にある記憶の中の出来事を浮かび上がらせる。そこで見えたものや聞こえたものについて、ぽつり、ぽつりと語り始めた。

 ヤナンとモーティは平凡な夫婦の間に生まれた。

 ヤナンが記憶している限りにおいて、モーティは常に傍らにいた。いつも二人は並んで眠り、並んで食事をとり、喧嘩をすることもあったが必ず最後には仲直りをしていた。二人で一緒にいることが当たり前だった。両親はそんな二人のことを平等に愛してくれていたのだと思う。

 両親が亡くなったのは、ヤナンとモーティが六歳になった頃のことだった。突然のことだったので幼いヤナンが原因や経緯を知るはずもなく、ただひたすらに悲しくて、ヤナンもモーティも泣きに泣いたことだけが印象に残っている。両親の亡骸は村の地下墓地に埋葬された。

 その後、ヤナンとモーティは母の姉である伯母に引き取られることとなった。ヤナンが悪夢を見始めたのはその頃からで、モーティがよく眠るようになったのも同時期だった。

 夜中にヤナンは泣き声とともに目覚める。もう夢から覚めているにも関わらず、血生臭く湿った香りや、肉や骨を踏む感触は生々しく鼻や足裏に残っており、ヤナン自身は夢から覚めたことに気付いていない。伯母が「大丈夫だよ」と言いながら寄ってきて、ヤナンを抱きしめる。それでもヤナンの意識は未だに悪夢の中にあり、絶叫にも近い泣き声をあげていた。

 三か月、半年と時間が経っても悪夢を見なくなる様子はない。どうすればよいかも皆目見当がつかない。そうしているうちに、ヤナンの方が慣れていった。夜中に泣かなくなったことは、伯母自身の安眠にとっては良いことであったが、しかしヤナンは依然として悪夢を見続けている。夜中に目覚めたときには心臓が激しく鳴っていたし、悪夢の名残は相変わらず生々しく鼻や足裏に残っている。悪夢が悪夢であることに変わりはなかった。ヤナンは横になる。目を瞑る。そして予想する。自分はまた悪夢を見るのだ。消えかけた悪夢の名残が蘇る。それを思うと、もう二度と眠ることなどできなかった。長い時間の果てについに朝が来る。伯母の起床に合わせてヤナンもベッドを出る。

おはよう、とやつれた顔で微笑むヤナンの顔を、伯母は居た堪れないといった様子で見つめるのだった。

 悪夢を見ることが止められないものであるならば、せめてその苦痛を和らげることはできないものか。伯母はヤナンに安眠をもたらす可能性のあるものは大小問わず全て試したが、ついにそれらは無意味であることだけが明らかになった。このままであれば、いずれヤナンは衰弱死してしまうだろう。しかしそうであったとしても、為す術がない以上、ヤナンのしたいようにさせる他にない。せめて、起きている間だけでも幸福でいられるようにしてあげることが、伯母が妹夫婦の忘れ形見に対してできる唯一のことだった。

 悪夢から逃れる術はないということが結論として定まってくるに伴い、ヤナンの夜も長くなっていった。皆が寝静まる夜中というのは不思議なもので、見知ったはずの村が全然違う場所のように感じられる。普段は生活音に紛れて聞こえない僅かな音が聞こえてくる。洞穴を吹き抜ける風は独特の低い響きを伴い、月夜の凍てついた空気を運び込んでくる。世界にこのような側面があることに気付けたというのは、夜更かしをするようになって良かったと感じたことのひとつである。

「僕が話せるのはこれくらいです」

「ご両親が亡くなった理由は知っているかな」

 ヤナンは首を横に振る。ヤナンたちを慮ってのことだったのだろう、村の大人たちは両親の死因についてわざわざ触れるようなことはしてこなかった。

「いいえ。ある日突然、死んじゃったということが事実として現れて、それがなぜどのように、というのは……ううん」

 ヤナンが両親について思い出すのは、おぼろげな温かく優しい感触であり、自分とモーティにありったけの愛情を注ぐ人たちであったことだけだ。両親、それからモーティの四人で暮らす家には一切の不幸はなく、その気配も何もなかった。しかし、その後に思い出せる場面は、地下墓地に棺桶が運ばれていくところで、大人たちの黙々と作業を進める背中が印象的だった。モーティが泣いていた。ヤナンとモーティは伯母に手を引かれていた。両親が亡くなったと言われても、それがどういうことなのかはよくわからず、もう二度と会えないという意味なのだと理解したのはだいぶ時間が経ってからのことだった。

「私が以前この地に来たことがある、というのはモーティから聞いただろうか」

 ヤナンは首を横に振る。

「今から約六年前。ちょうどヤナンたちのご両親が亡くなった頃だ。私はたまたま偶然この地に立ち寄ったのだがね、奇しくも私が着く前の晩に住民の夫婦が亡くなったとのことで、葬式に立ち会ったのだ」

「……続けてください」

「この村の規模だ、一年の間に亡くなる人はそう多くないだろう。確証はないから憶測の域は出ないが、私が立ち会ったのは君たちの両親のものだったのだろうね。病死だったと聞いている」

「どんな病気ですか」

「そこまで詳しくは聞いていない」

 ヤナンは体が火照り、頭に血が上る感触を得た。全身が逆毛立つ一方で、思考は星空のように澄んでいる。

「一緒に暮らす子供たちはなんともないのに、大人二人がほとんど予兆もなく同時に急死するような病気というものに心当たりはありますか」

「さて、私は知らないな」

「誰かが嘘をついているということですよね。司祭様に病死だと伝えた村の人たち、あるいは司祭様、あなたが」

「君の憶測が正しければ、という条件付きだがね」

「あなたは何か知っているんですか」

「私は私が見聞きしたこと以上のものは知らないよ」

「ではその見聞きしたことを教えてください。六年前に司祭様が見聞きしたことの全てを」

「私の話に君の望む答えがあるかどうかは保証しかねるが、まあいいだろう。ただし先に告白しておかなければいけないことがひとつあってね。他の誰にも口外しないと約束してくれるだろうか」

 ここまできて今更何を躊躇する理由があるものか。ヤナンは頷いた。

「そうか、それは助かる。私は――俺は、教会の司祭様なんかじゃない。ただの一般人だ。いい加減あの堅苦しい喋り方に疲れていたところだったしな」

 アルフィルクは首を横に折って凝りを解した。あっけに取られたヤナンが状況を認識するよりも早く、アルフィルクはヤナンの疑問に先回りをする。

「ああ、先に言っておこう、何故俺が司祭の肩書を騙ったか。教会の権威というのはこういう見知らぬ土地を歩くうえで隠れ蓑にちょうどよく、そしてこの村の人間には俺の正体の真偽は確かめようがないことだったからだ。騙って損がないから騙った、それだけだ。よし、じゃあ始めるか」



 4.


 六年前、アルフィルクとマユワが村を訪れたのは、偶然を装った必然だった。

 砂嵐が酷いと聞いていた地域は拍子抜けするほどに穏やかで、人の噂もあてにならないものだ、とアルフィルクがぼやいた折に、マユワが北のある方角を指差した。

「門ができた」

「そうか」

 アルフィルクは食料と水の備蓄を頭の中で計算し、往復で七日程度であれば寄り道できることを確かめた。

「そんなに遠くない」

「じゃあ、行ってみるか」

 アルフィルクが帆を操り角度を変えると、砂船は緩やかな弧を描きながら舳先をマユワの指差した方角と一致させた。

 黄色く細かい砂が全土を覆っているのが砂漠というものであるが、様相は隣接する地域によって若干異なっている。砂漠の北部はその奥に大雪を抱く山々の連なりを背負っており、薄い砂の層の下は岩盤となっている。時折露出する大岩はその地が山岳部と地続きにある場所であることを示唆していた。マユワが指差した先にあったのは、そのような大岩のひとつであった。アルフィルクには見えないが、そこに冥界の門が建っているのだという。

 適当なところに砂船を停めたのが日を跨ぐよりも少し前の頃のこと。アルフィルクはマユワを送り出し、帰りを待つ。マユワは死にゆく者の声を聞き、そのような者が存在したことを記憶する。それが人であるか否かにかかわらず、どのような最期を迎えたにせよ、意思を持って生を全うした者の生涯を受け止めることは決して軽いものではない。だから戻ってきたときのマユワはほとんど常に満身創痍であり、抱えてきたものの重さを共に分かち合うのがアルフィルクの役割であった。

 この日も同様であったが、唯一普段と異なっていたことは、戻ってきたマユワが神妙な面持ちでこのような相談をしたことであった。

「六年後、もう一回ここに来れる?」

「そりゃ構わないが、何があった」

「えっとね。若い夫婦が亡くなって、二人に遺された双子の行く末を見届けて欲しいって頼まれたの。六年間かけて実験をするんだって。双子に課せられた運命が最後にどういう結末を迎えるのか」

 そう言うマユワの顔は曇っている。気持ちの良い話ではないのだろうが、しかし無視することもできなかったのだろう。経緯が何であれマユワ自身の意思で望むことであるならば、アルフィルクに干渉する理由はない。だから、今からかける言葉は、マユワの背負う重荷を共に分かち合うためのものである。

「運命、か。嫌な言葉を使うんだな。実験ってのが何なのかよくわからんが、その実験の結果、たとえ双子がどんなに悲惨な目に遭うとしても、最後まで見届けるということか」

「そう。私たちは見届けるだけ」

「何か状況を改善できるような手立てを俺たちが持っていたとしても」

「そもそもそういうことは何もない。どうやっても、双子がこれから起こることから逃れることはできない。私たちは事の成り行きを見届けるだけ」

「そうか」

 アルフィルクは自分には見えない冥界の門を見つめている。一呼吸を置いて言った。

「じゃあ、一緒に恨まれようかね」

「うん」

 そう言ってマユワはアルフィルクの胸に頭を預けた。

 もうひと眠りするには夜明けが近くにあった。空全体がほのかに明るさを帯びつつあった。マユワはアルフィルクの外套の中で肩を抱かれている。そのようにして二人は互いを温め合っていた。

 ぽつり、ぽつり、とマユワが先ほどの出来事の詳細を語り始めて、アルフィルクがマユワにだけ聞こえる声で相槌をうつ。

「ここは古くから存在する大地の精霊に守護された地で、あらゆる災厄や外敵から守られることが約束されているんだって。でも、その庇護は無条件に与えられるものではない。月のない夜に生まれた子の命を庇護の対価とする。大昔にこの土地にやって来た人たちはそういう約束で庇護を願い出て、守護者は了承した。

 だけどある時、月のない夜に双子が生まれてしまった。こういうとき、捧げるべき命はひとつかふたつか、ひとつとするならばどちらの命を選ぶのか。夫婦含めここで暮らす人たちは散々話し合ったんだけど、結局答えは出なかった。そうこうしているうちに長い時間が経って、いつまでも果たされない約束について守護者の方から夫婦に問い質してきた。それで夫婦は守護者と掛け合って、両親の命を約束が遅れたことへの対価として支払うことにした。そのうえで結局双子をどうするかという処遇の話になって、論点になったのが双子の数え方について。双子はそれぞれ異なる肉体を持つ二人の人間であるのだから魂が二つあると見るのか、それとも双子とは一つの魂を二つに分けたものであるから二人で一つの存在と見做すのか。守護者と夫婦は散々議論したんだけど答えは結局出なくて、誰もどうすべきなのかがわからなかった。このままでは埒が明かないということで、守護者の提案に従って、もう六年かけて実験をすることにした。双子に対して意図的に異なる経験を与えて操作したときに、魂はそれぞれ異なる変容の仕方をするのか。変容するとすれば、それはどのようなものであるのか。その結果を見て決めよう、っていう提案で、夫婦はそれに従った」

 そこまで語って、マユワは顔を伏せてため息をついた。今話を聞いたアルフィルクですら首を傾げたくなるのだから、マユワはなおさらだろう。

「何だそりゃ」

「双子の魂は一つか二つか? なんて、馬鹿々々しい。すごく、すごく、くだらない問い。だけど、あの人たちにとっては自分の子の命がかかった真剣な問いだった」

「そんなもの、どんな結論になっても後悔するだろうに」

「そう。だけど、それでも、今すぐに死んでしまうよりはよかった。ほんのわずかでも、自分の子供たちが長生きできる可能性に賭けて、彼らは魂を弄ぶ醜悪な実験を受け入れたの」

「マユは怒っているのか?」

 マユワは首を横に振った。

「わからない。ただ、不釣り合いだなって。世界の大きな法則の前では一人一人の命は塵芥みたいにちっぽけなものなのに、それぞれが抱える想いの強さはこんなにも私を動揺させる。あの夫婦はあんなにも心を擦り減らして、ついにより苦しい道しか選べなかった。自分たちが始めた約束に逆らうことができなかった。そういうのが不釣り合いに見えて、それで」

「……それで?」

「可哀想だなって、思っちゃった」

 マユワがアルフィルクの懐に深く頭を埋める。

 もしも子の命が何物にも代えがたいほどのかけがえのないものであるならば、土地を守護するという約束それ自体を破棄してしまえばいい。しかしそのようにすることで訪れるかもしれない未来を天秤にかけたとき、夫婦はそのような選択を取れなかったのだ。自分の子の命とその地に住むすべての人々の命を比べてみて、仮に前者を優先させたとしてその先にその地で生きられる未来は存在し得なかった。命とは引いて遠くから見れば一つ二つと物のように数えられるものなのに、寄って近くで見てみればそれぞれが強い想いを抱く光の塊で、大小や優劣を比べられるものではない。どのような立ち位置や距離感でものを考えるかによって、答えはいくらでも変化する。故に正解はなく、同様に誤りもないのだろう。正誤を評する確たる基準がないのだから。正解も不正解もなく、最後に残るのは、事実のみである。双子がどのような顛末を迎えるか。

「夜が明けたら人がいるところに行ってみるか。事の顛末を見届けるというなら、なるべく多くを見ておくべきだろう」

「そうだね」

 話している間に、東の空に赤みが差してきた。


 砂漠にぽつんと立つ岩は長年砂を含んだ風に晒されていたはずであるにもかかわらず荒々しい岩肌を露呈させており、不自然であるように見える。しかしそれこそが守護者による守護の賜物であるということの証左でもあった。その岩のふもとには人が二、三人ほど横に並んでも余裕があるほどの大きさの洞穴があった。夫婦が暮らす村はこの洞穴の奥にあるのだという。

 村を訪れるにあたり、アルフィルクは神の目が届かない地を旅する司祭で、マユワは旅の途中で拾った孤児ということにした。きっと疑われるだろう。しかし真偽を証明する手段はお互い持ち合わせていない。故に二人の到来が村の暮らしを脅かすものではないことさえ理解されれば、大きな問題にはならないはずである。アルフィルクはそのように読んだ。はたしてその通りに事が運ぶこととなる。

 洞穴を下っていくと次第に通路の幅は広くなり、壁面に沿って家が建っていた。岩壁を掘り抜いて作られた家は質素ながらも丁寧なつくりをしていて、ここに住む人々が穏やかな暮らしをしていることが見て取れた。感心していると、男が家から出てきて、アルフィルクたちに気付くと足を止め、驚いている。

 何者か、と訊ねられて、アルフィルクは人好きのする笑顔を浮かべて答える。

「旅の者です。見慣れない不思議な岩山と洞穴があったので覗いてみたのですが、いやはや、まさか人が暮らしているとは」

「……村長を呼んでくるから、待っていただきたい」

 現れた村長に対してアルフィルクは先ほどと同じことを告げる。村長は固い表情を崩さないままアルフィルクとマユワの様子を伺っている。彼らは何者で、どこから来て、何が目的なのか。

「遠いところから大変だったでしょう。近くには文字通り何もありませんから。おもてなしをして差し上げたいのはやまやまなのですが、実は昨晩住人が亡くなりましてな。今から弔ってやらねばならぬのです」

「そうでしたか。それはご愁傷様です。私も神に仕える者の端くれです。もし差支えがないようであれば、祈りの言葉を捧げる機会をいただければと思うのですが、いかがでしょうか」

 ひと呼吸ほどの間を置いて、同じ表情のまま長は答えた。

「なるほど、聖職に就かれる方でしたか」

「はい。一目でそうだとわかる恰好であればよかったのでしょうが、そのようなものは長旅には向かないものです」

「そうでしょうな。さて、ありがたい申し出をいただきまして感謝申し上げます。ぜひともお願いしたいです。ご覧の通り、ここは神の恩恵の届かない地ですから」

「あの、自ら申し出ておきながらで恐縮ですが、よろしいのですか」

「何か」

「私は神の教えに従う身ですが、あなた方は必ずしもそうではない。あなた方にも信じるものがあるのでは?」

「構いませんよ。立場が違えども死者を悼む気持ちに違いはありますまい」

「確かに。神のお導きに感謝を」

「では、どうぞこちらへ」

 終始表情を崩さなかった村長はアルフィルクたちに背を向けて先導した。

 地底の村は不気味なほどに静まり返っていた。それは人が亡くなったからなのか、元からそういう土地だからなのか、判別はつかない。時折洞穴を吹き抜ける風は低く唸っているようで、いやに響いて聞こえる。それでも辺りの様子を伺ってみれば、何人かの大人や子供が行き交い、立ち止まって二言三言ほど言葉を交わし、身振り手振りを通して情報のやり取りをしている様が見える。住人たちはアルフィルクたちの姿を認めて一瞬立ち止まりはするものの、目が合いそうになるとそそくさと逸らして自分の仕事に戻っていく。

 やがて三人は今朝亡くなったという住人の遺体のある場所にたどり着く。そこは普段集会所として使われている場所であるという。中央にしつらえた二つの石棺の周りには人が集まっており、それぞれが悲しみに暮れていた。

「まだ若い夫婦でした。哀れなものです。それぞれ幼い頃から互いのことを親しく思い、そのまま夫婦になった二人でした。これから先もまだ楽しみがたくさんあったでしょうに」

「そうですか。気の毒なことですね」

 このような場面において、神に仕える者がするべきことは何か。アルフィルクは想像してみる。その通りに手足を動かしてみる。棺の前に歩み出る。棺の中で眠る二人を見下ろす。それはかつて生きていた人間で、今はもうここにはいない二人だった。人の形をした骨と肉の塊、それ以上のものではない。今この瞬間、自分の背中や横顔は村の人々の視線を集めていることを自覚する。今ここでするべき振舞いをしなければならない。今はもうここにいない二人に贈るべき言葉を紡ぐ。

「あなた方の魂は肉体の楔から外れ、今はもう自由です。この砂漠を吹く風に抱かれ、陽光と月光を浴び、世界を巡った後に気付くことでしょう。あなた方の家族や故郷はこれから先も存在し続けることに。あとのことは遺された者たちに任せ、神の御許で就く眠りが安らかで永遠のものでありますように」

 虚ろで無意味な言葉だとアルフィルクは思う。嘘を嘘と知りながら、それにどこまで気持ちを込められるか。そのようなことの得手不得手とは一種の才能であり、少なくともアルフィルク自身はあまり上手ではない。しかし、そういう自覚があるからこそ相応の振舞い方も心得ている。

 アルフィルクは組んでいた手を解くと、村長の方を向き直り、一礼をする。村長は相変わらず表情を変えないまま会釈を返した。

「ありがとうございました」

「簡単なもので恐縮ですが」

「もしよろしければ、後でゆっくりとお話をさせていただきたいのですが、いかがでしょうか」

「もちろん構いませんよ」

 アルフィルクたちは隅の壁のそばに並んで立ち、様子を眺める。そのようにしていると、夫婦を特に慕う人々がいたことがわかる。夫婦と同年代と思われる数人の悲嘆はひとしおであった。その一方で、悲しみに暮れる人々を冷ややかな目で見る村人もいた。あからさまな蔑視は向けないものの、そのような村人たちの遺体に対する態度は石ころに向けるものと大差ないように見える。

「ところで彼らはどのような理由で亡くなってしまったのでしょうか」

「……強いて言うなら病でしょうか。詳しい原因は我々にもわかりません。亡くなる前日までいつも通りに仕事をしていたと聞いていますし、苦しんだ形跡もなく、ご覧いただいた通り遺体は綺麗なままでした。他の者の言うところによれば、彼らは寝床で並んで眠るように亡くなっていたとのことです。夫婦の子のうちの一人が近所の者に、両親が起きてこないと報せてきました」

「子供がいたのですか」

「はい、双子の姉弟です」

「そうですか、それはなおさらお気の毒な話です」

「そのような日に神の御使い様にご来訪いただけたのは、奇跡と呼ぶほかにないことですな」

「全ては神の御導きですね。ところで」

 アルフィルクは辺りを見回し、村長に訊ねる。隣でマユワも視線を動かし辺りを探っている。

「その双子は今ここにいるのですか?」

「ええ、あそこに」

 そう言って長はある方角を指差した。その先には一人の女性が立っており、その両手にはそれぞれまだ幼い男女の子の手がつながれていた。二人とも状況を理解できている様子はない。ただ何か大変なことが起こったらしいということだけは察せられているようで、何をしていいのかがわからず、そこに呆然と立ち尽くしていた。あの年齢で両親が一度に亡くなったということなど正しく理解できるはずもない。ましてやこれから自分たちの身に降りかかる運命などもってのほかである。今、マユワがどういう表情をしているのか、アルフィルクは見ずともわかる。深く暗い悲しみの奥に憤怒の燻りを隠した目で見ているのだろう。

「あの子たちの引き取り手はもう見つかっているのでしょうか」

「はい、亡くなった妻の姉にあたる人――つまりあの子らの伯母がそう申し出ております」

「行き場はあるのですね。それはよかった」

 後にヤナンとモーティという名であることを知る双子は、双子らしくよく似て見えた。背丈は同じくらいで、手足の長さもほとんど同じであるように見える。かろうじて髪形や服装の違いで男女の区別がつくくらいで、それ以上の差は見受けられない。

「私もやらねばならないことがありますので、また後ほど」

 おもむろに村長がそう申し出て、アルフィルクは礼を告げた。

 その後、アルフィルクたちは村の人々の手で集会所から石棺が運び出されるところまでを見届けた。夫婦に近しい人々のみが葬列に加わり、その中にはもちろんヤナンとモーティもいた。他の者たちはその場の片付けを始める。このようにして村は少しずつ日常に回帰していくのだ。

 何人かの人々がアルフィルクに話しかけてきた。二人は何者で、どこから来たのか。判を押したように同じことを問われ、アルフィルクは同じように返事をする。自分は神に仕える身で、辺境を旅しているのだと。そして会話がそれ以上広がることはなく、村長が滞在を許可している以上、一介の住人が言及すべきことはないと言わんばかりに、「どうぞごゆっくり」「時間があれば村の外の話を聞かせてください」など適当な別れ文句を残して去っていく。

 人が途絶えたふとした瞬間に、ぽつりとマユワが呟く。

「すごく警戒されてる」

 人々の様子を眺めながらアルフィルクが返す。

「当たり前だ。人が死んだ朝に聖職者を名乗るよそ者が現れたんだ。何か思うに決まっている。さて、ここからが本番だな」

「どうするの?」

「さあな。六年後にもう一回訪れたときに、門前払いされないくらいには関係を作っておかないといけない。そうしないと、マユのしたいことができないだろう」

「うん」

「ここまでで、マユは何か気付いたことはあるか?」

 ちらほらと喪服ではない人々も現れ始めた。今朝は葬儀で時間を取られた分をこれから取り返すのだろう。心なしか早足である。ちらりとこちらに目を向け、そしてアルフィルクたちに見られていることに気付くと目を逸らす。

「まず、ここには教会の教えが届いてない」

「そうだな。おそらく教会の連中もここにこんな村があるなんて、知らない」

「だけど、教会の教えというものが存在することは知られている。自分たちの信仰とは別に、自分以外の人たちが自分たちとは異なる信仰を持っていることを当たり前のこととして受け入れている」

「つまり外界との接触はあるということ。では、いつ、誰が、この村と接点を持ち、その人はその後どうなったのか」

 少しの間を置いてマユワが吐露する。

「嫌な想像をしちゃうね」

「最悪の場合は一応考えておかなければならんが、そういうときのための肩書だ。役に立ってもらわなければ困る」

「そこまで心配しなくても大丈夫だとは思うけどね。外の世界の人は、殺しちゃうよりも利用した方が得なことが多いから」

「話が通じるならどうとでもなるが、墓穴を掘らないようにしないといけないな――他には何かあるか?」

「ええっと。ここの人たち、たぶん生活に困ってないよね。住む場所、水、食べ物。そういうのに特に困っている感じはしない」

「辺りは一面の砂漠で訪れる者なんか滅多にないはずであるにもかかわらずだ。自給自足で必要なものはすべて賄えているってことだな。どうやっているかは分からないがな」

「守護者の庇護」

「外敵がいないことも含めて、そういうことなのだろう」

「ここの人たちってその仕組みとか約束のことをどこまで知っているんだろう」

「さあな。少なくとも、村長が知らないということはないだろう。たしか、月のない夜に生まれた子の命を贄にする、だったか。誰かが贄に捧げないと儀式は完遂しないわけだから」

「ここは閉じて完結している場所なんだね」

「外に出て行かなくても、生きていくうえで必要なものが全部揃うのならば、そうなのだろう。でも現実はきっと、そうとも限らない」

「うん」

「もし本当に閉じて完結している場所であるならば、外の世界はその均衡を崩す危険分子でしかないのだから、徹底的に排除するだろう。しかし現実はそうなっていない。少なくとも異教の祈祷を許容する程度には『寛容』だ」

「面倒くさいね」

「お互い情報が少ないうちは慎重にならざるを得ないさ。腹の探り合いは必要経費というやつだ」

 さて、とアルフィルクは一区切りを入れる。

「他にも語れることはあるだろうが、一通りの状況は見えて、取るべき態度もわかってきたな。俺たちはここの人々にとって無害な存在だ。思想や習慣の変更は求めず、将来にもそのようなことは求めない。ただ、神の恵みを施すという自分の務めを果たしたいだけの、敬虔な信者」

「そういう面倒くさいことはアルに全部任せる」

「おう」

 アルフィルクとマユワは互いの外套が重なり合って隠れた陰で互いの拳を軽く重ねた。

 埋葬から戻った人々は言葉少なに散っていき、その中にはヤナンとモーティも含まれていた。散々泣いた後だったのだろう、かろうじて肩を震わせて嗚咽を漏らす程度の体力しか残っていないようだった。もう一人が肩を抱いて慰めている。どちらがヤナンでどちらがモーティであるのかはわからなかった。しかし村長の言葉によれば、彼らは伯母に引き取られて暮らすのだという。このような人たちに対してかけるべき言葉というものが、マユワにはわからない。どのような言葉であるにせよ、マユワにそれを言う資格はないように感じられてしまうからだ。



 5.


「その後は――ありゃ」

 気付けばヤナンは眠りに落ちていた。垂れた頭からは小さな寝息が聞こえる。

「話し始めてすぐにうとうとしだして、出棺のくだり辺りからもうこんな感じだったよ」

「気付いていたなら言ってくれよ」

「アルが話してるのを聞くのは好きだったから」

「まったく。さて、このまま寝かせておくのも体に良くないな。仕方ない、被せるものを持ってくるか。マユ、ちょっと見ていてくれ」

「うん」

 アルフィルクが離れたところに停めた砂船に向かうと、アルフィルクがいなくなった分の隙間を挟んでマユワとヤナンが並ぶ形になる。

 マユワは六年という時間の長さについて考える。六年前などついこの間のことであったはずなのに、あの時泣いていた子たちはここまで大きくなった。話を聞く限り、ヤナンの見る悪夢こそが件の実験なのだろう。月のない夜に生まれた双子の魂は一つか二つかを確かめるべく、それぞれに異なる操作を加えて魂の変容の過程を検証する実験。そうであるならば、モーティも別の悪夢を見ていることになる。昼間の様子を思い返す限り、今ではすっかり生き方や考え方に違いが生じているようだった。意図的な操作が存在していたという点を差し引いても、六年という歳月はそれほどまでに人を変化させるものなのだ。望むと望まざるとにかかわらずあらゆるものが変化していく。六年前はまだルシャもグラジもいなかったが、今は存在している。何事も変わりゆくことの方が自然で当たり前のことなのだ。

 時の流れが本来どれほどに人を変えるものなのか。マユワは思い出さなければならない。忘れていたつもりはなくとも、変わらないことに慣れてしまうと無自覚のうちに意識の隅に追いやられてしまうものである。

 マユワはアルフィルクがいた隙間に移ると、間近でヤナンの横顔を見た。ルシャが見たら羨ましがりそうなほどに長い睫毛があることに気付く。鼻筋は年相応に小ぶりだが整った形をしている。微かな寝息が聞こえる以外はまるで死んでいるようで、それほどに眠りが深いのだろう。

 もっとよく寝顔を見るために、マユワはヤナンの体を自分の側に引き、横にさせる。起こしてしまわないようゆっくりと体を傾けさせ、膝の上にヤナンの頭を乗せる。小鍋くらいの大きさの頭は同じく小鍋くらいの重さで、人体が骨と肉の合成体であることを感じさせられる。マユワはヤナンの頭を撫でたものと同じ手で自分の顎や頬を触る。皮の下には固い骨があった。自分もヤナンもただの物質に過ぎないにもかかわらず、その内部には思考がある。ヤナンは今この瞬間にも悪夢を見ている。小さな頭の中で死肉の道を歩いている。

 ヤナンの体が強張る。こめかみが一瞬だけ小さく震え、再び寝息を静かにたてはじめる。

 ヤナンは自分を苛む悪夢が終わることを願っていた。そして、終わらせ方がわからずにいた。しかし、近い将来のいつかに悪夢は終わるのだ。約束の期限は近く、だからこそマユワたちは再度この地を訪れた。悪夢が終わった後に何が残るのか。それを見届け記憶するためにマユワはここにいる。

「大丈夫。もうすぐ、終わるよ」

 マユワはヤナンの頭を撫でる。そのように人の頭を撫でるのは随分久しぶりであることも思い出した。


 朝の光が地平線からのぼりヤナンの瞼を照らすと、ヤナンはようやくここが夢の外であることに気付くことができる。頭の下にあるものは柔らかく温かいものであった。身を起こしてみれば、それがマユワの腿であることがわかった。マユワは隣のアルフィルクにもたれかかるように眠っていた。

 昨晩のことを思い出す。ここでアルフィルクに呼び止められて、自分の悪夢のことに関連するかもしれない話を聞き、その途中で眠ってしまったのだ。話の内容はよく覚えていない。冥界の門とか実験とか、突拍子もない言葉が頭に残っているが、あまりに現実味のない話で、どうせ自分の聞き間違いか何かなのだろう。他にもいろいろな話があったような気がするが、寝ぼけた頭で聞いたことだから、信用に値するものではない。結局悪夢の終わりにつながる手掛かりは得られなかったことは残念であるが、不思議と今朝は目覚めが安らかであったことにふと気づいた。

 何故だろう。相変わらずの悪夢であった。いつまで経っても慣れることのない死肉の道を歩いていた。始まりは彼方に過ぎ去り終わりも見える気配がなく、立ち止まれば踏みつぶした知己の顔が恨めし気に見上げてくる。そうであったにもかかわらず、今、心の底には久しく忘れていた穏やかな温もりがある。

 それほどまでに、この少女の膝枕の寝心地が良かったということか。ヤナンは気恥ずかしさを通り越して、ため息が先に出てきてしまう。馬鹿々々しい。

 いずれにせよ朝は来た。やがて他の人々も目覚めることだろう。日の高さからして、それは間もなくのことだ。ヤナンは伯母の家に戻らなければならない。朝食を食べたら仕事場へ行き、いつものように仕事をしなければならない。

 アルフィルクたちには礼を告げてから去るべきなのだろうが、肩を寄せ合う二人はヤナンが立ち入る隙もないほどに深く眠っており、起こすのは憚られた。

 いずれまた村の中で顔を合わせることがあるだろう。そのときに礼と詫びを伝えることにして、ヤナンは自宅に戻ることにする。

 その砂を踏む音が十分遠のいたことを確かめてから、アルフィルクは体を動かさずに目だけを開く。

 ――ヤナンは問題ないのだろう。まだわからないのはモーティの方である。昨日観察した限りでは、モーティはヤナンとは違う類の悪夢を見ているはずだが、それにモーティが苛まれている様子は見受けられない。見えないところで何かが起こっているのだろう。では一体何が? それはどういう結末に至るのか?

 そこまで思考が進んだところで、歯止めをかける思考が生じる。六年前にマユワはたしかにこう言った。双子が運命から逃れることはできない、私たちは事の成り行きを見届けるだけである、と。マユワがそう言うのであれば、その通りなのだ。ヤナンとモーティのことを考え、それぞれの行く末が気になるというのは、あくまでアルフィルク自身の個人的な興味や関心である。

「ルシャにはなるべく知らせないようにしたいが、さて」

 名前を出して頭に浮かんだその人であれば、運命に抗うことをヤナンとモーティに提案し、より良い未来のために戦おうとするだろう。しかしそれは人が両腕を動かして空を飛ぼうとするようなものであり、がむしゃらに頑張ったからといって有益な結果につながるものではない。

「ねえ」

 おそらくアルフィルクと同じ時に目を醒ましていたであろうマユワが問いかける。

「アルは、誰かが目の前で苦しんでいる、あるいはこれから苦しむことがわかっているときに、ただ傍観して何もしないというのは、悪いことだと思う?」

「出来ることが何もなくて傍観するしかないことと、出来ることがあるのに意図的に何もせず傍観するのとでは、意味が全然違うな」

「そう。だけど、この二つは区別がとても難しい。出来ることは何もない、という証明なんてできない。何か出来るんじゃないか、頑張れば何とかなるんじゃないか。それがどんなに抽象的で曖昧なものであったとしても、希望や可能性と呼ばれるものは人の想像の中で生まれて、現実として生まれ出ようとして人に働きかけてくる。そうしてその人の意識や行動を束縛する」

「だから一緒に恨まれようって言っただろう、六年前に。全てを知っていながら何もしなかったと謗りを受けるのは織り込み済みだし、その時は俺も一緒だ」

「そうだったね。うん。わかってる。わかってるよ」

「わかっているけど嫌なものは嫌。そんなに嫌なら最初から関わらなければよかったのに、それも嫌。結局やると決めたことをやり通す他にないのだから、嫌だと逡巡することはそもそも無駄。そう割り切って然るべきであるのに、そうなれていない自分に呆れている。だろ?」

「そう、よくわかってるね」

 外套の下でマユワが表情を緩めたことは、アルフィルクは見なくてもわかる。こういう時にアルフィルクは、自分とマユワは二人で一つであると錯覚できて、心地良くなる。

「そろそろ地下に避難するか」

「うん」

 二人してもそもそと身を動かし、立ち上がる。尻や裾についた砂を払いながらアルフィルクが言う。

「今日はどうするかね」

「あの子に案内の続きをしてもらうんでしょ」

「そうか、そうだったな。で、俺は、じゃなくて私は大きな街のとても偉い司祭様」

 話しながら丸くなったアルフィルクの声色を聞いて、マユワは訝しがる。

「その設定、本当に必要なの?」

「あの時は必要だったし、続けるかどうかは成り行き次第」

「アルが聖職者なんて全然似合わない」

「似合うようせいぜい精進しよう」

 そのような話をしている間にも太陽は少しずつ上っていき、じりじりと砂が熱せられていく。幾度となく繰り返し見慣れている昼夜の循環は、今日も昨日と同じであるように見える。


 今日は朝からモーティが村の案内をしてくれるという話であった。集会所で待ち合わせることになっていたが、モーティが息を切らせて現れたのは、予定の時刻をわずかに過ぎた頃だった。

「ごめんなさい、ちょっとバタバタしてて」

 弾むような声で頭を下げたモーティは、くるりと踵を返し、さあ行きましょう、とアルフィルクたちを先導する。

 やはりモーティはルシャと話が合うらしく、列の先頭で二人は談笑しながら歩く。その後ろにアルフィルクとマユワ、それから最後尾にグラジが続く。昨日見せてもらった地底湖と農場に続き、今日は村の中で他に見どころのある場所を紹介するのだという。

「洞穴の奥深くまで下りても空気が淀んでいないのは何故でしょうか。それは、通気孔を通して地上から絶えず新鮮な空気を送り込んでいるからなのです」

 水辺の小道に沿って地底湖を半周ほど回っても相変わらず広がる農地は隅までよく手入れされていた。日の下であれば爽やかな緑の絨毯であろう光景は、光苔の淡い黄緑色の下では月夜に眠る砂兎たちの集団のように見える。その表面を撫でて揺らす微風は、モーティが「あそこから」と指差す方から吹いてくる。その指先を目で追って見えるのは、岩壁の上部にぽっかり空いた穴で、光苔と明確に異なりはっきりとした明るさがある。外の光が漏れているのだろう。その光には、岩壁を掘って作られた石段を上っていくことで辿り着けるようである。

「遠い昔に私たちの祖先は偉大なる指導者に導かれてこの地底湖に辿り着きました。それ以来、この地をより良い地にするために、彼らは様々な努力や工夫を重ねたと聞いています。通気孔の開発もその努力や工夫のひとつです」

「その話しぶりからするに、あれはただ穴が開いているだけ、というわけではなさそうだね」

「はい。新鮮な空気を送り込み続けるために、軽石を切り出して作った羽で空気を掻き入れる。そのような仕組みがあるのです」

「それは興味深い」

「ご案内しますね」

 得意気なモーティの後について石段を上っていくと、ごうごう、と風の唸る音が強くなってきた。頭上から吹き付ける風のせいで衣服の裾ははためくが、体勢を崩さずに済むのは内壁に沿って掘られた手摺のおかげである。モーティに促されるまでもなく、一行は片手でしっかりと手摺を握りながら先を行く。

 いつの間にか地底湖の水面を遠くに見下ろすようになり、わずかに傾斜しているだけのほぼ垂直な円筒状にくり抜かれた通路を、石段を踏み締めつつ上っていく。

 初めて歩く慣れない道とは長く感じるものであった。しかしモーティにとっては馴染みの通路を経て辿り着いたのは、先ほどまでの円筒を水平に倒して幅広にしたような通路で、前方に砂漠を見下ろす景色のある出口があった。不意に現れた外の景色は砂に照り返す光が目を焼くように眩い。そしてその通路の中央部には大きな石造りの風車があり、数枚の羽がゆっくりと回転しながら外の空気を洞穴内に送り込んでいた。

 その装置に携わっているであろう大人たちが三人。そのうちの一人がモーティに気付き、声を掛ける。

「モーティ、その人たちは――ああ、例の方々か」

「お仕事中にごめんなさいね。でも、ここは絶対に紹介したいなって思って」

「父さんには許可は貰っているのかい」

「許可って? 村の中ならどこでも見てもらって構わないって村長さんからは聞いてるけど」

「そうなのか……まあ、父さんがそう言うなら、私はいいんだがね。いやはや」

 そう言いながらその人は困った風にゆっくりと回り続ける風車を見上げた。

 モーティの脇を抜けてアルフィルクが前に歩み出る。

「お仕事中に失礼。ご迷惑であれば立ち去りますが」

「いやいや、そんなことはありませんよ」

「そうですか、それはよかった。モーティのおすすめと聞いて、大変興味を持ちましたもので。差支えのない範囲で結構ですので、質問させていただいてもよろしいでしょうか」

 アルフィルクは人好きのする笑顔を顔に貼り付けて、目の前の人の様子を伺う。

 そろそろ中年に差し掛かろうかという年頃の人で、肩越しに見える他の若者二人と比べれば、彼がこの場の監督役と見ていいだろう。彼は村長の息子のようだ。さて、今のこの状況は彼の視界にどう映っているか。まず、彼はアルフィルクたちが客人として受け入れられていて、もてなすべき相手であると認識している。そして、彼はこの場が本来は立ち入りに許可が必要な場所であると捉えている。しかしモーティはそう捉えておらず、村長も立ち入りを黙認している。しかしそのことが息子に伝わっていない。ここに情報の非対称性が見られる。村長はそれなりに権威を有しているらしく、彼は村長から責任を問われることを恐れている。それはつまり、責任を問われるような何かがここにはあるということだ。今のこの瞬間、目の前の彼が質問を答えることに対して躊躇いを感じているのが何よりもの証拠である。そして、これ以上の沈黙それ自体が危険であると察したのだろう。彼は努めて愛想よく返事をした。

「ええ、構いませんよ」

「こちらの風車は大変立派なものですが、どのように動いていらっしゃるのでしょうか。空気を送り込むためのものですから、風が動力源ということはないでしょう」

「それはですね、風車の根元に動輪がついておりまして、地下から動力を得ているのです」

「なるほど。そのような機構は初めて聞きました。立派な技術者がいらっしゃるのですね」

「いえ、我々はかつて祖先が作ったものを保持しているだけですよ。砂埃を払って、装置に異常が起こらないよう注視する。それだけです」

「そういうことですか。近くで見せてもらえれば、と思ったのですが、そういうことなら遠慮しましょう。うっかり破損させてしまったら、謝罪では済まないことになるでしょうから」

「申し訳ありません」

「いえ、こちらこそ。このようなものを拝見させていただけただけでも大変興味深かったです」

 アルフィルクは振り返り、皆に向かって言う。

「では皆さん、行きましょうか」

 案の定、ルシャとグラジは何か言いたげな様子で、口を挟む隙を伺っているようだった。しかし、これはアルフィルクたちの問題ではないし、マユワの目的とは異なる話だ。しかし、長い目で見た時にはもしかしたら有意義な話であるのかもしれない。どこまで踏み込み、どこから先は引き返すべきか。アルフィルクは自分の中で線引きと優先順位をはっきりと意識し直す。ひとまずの目的はヤナンとモーティであって、この村そのものではない。

「モーティ、また下まで案内してくれないだろうか」

「あ、はい」

 モーティはアルフィルクに促されて足を動かし始めるが、先ほどの強張った空気に感じた戸惑いが心にこびりついていた。自分は何か悪いことをしてしまったのだろうか。村長の言いつけを破った覚えはない。ちょっとした、小さな行き違い。それで済んだらいいな、とモーティは願った。


 地底湖前まで戻った後は牧場を見て村長の家に帰ってきた。少し遅くなったが、昼食を振舞ってもらえるとのことで、モーティも同席することとなった。今朝収穫したという根菜は煮ることで甘味がよく出ていた。食事の場は主にモーティとルシャを中心として話は弾み、終始和やかな雰囲気であった。

 その後はアルフィルクの提案で部屋を二つに分けてじっくりと話をすることとなった。一つの部屋には村長、アルフィルク、グラジが収まり、もう一つの部屋にはモーティとルシャとマユワが収まる。

「えっと、私は何をお話したらよいのでしょう」

 一瞬の沈黙にも耐えかねて、モーティが口を開く。敷物の上にモーティたちが座って三角形を作っている。村長からは「この方々はお前の話に関心があるとのことだ」とだけ言われており、具体的なことは何も聞かされていない。モーティにとってルシャがいてくれるのは安心材料であるが、もう一人のマユワという少女とは昨日からずっと話をする機会がなく、どう接していいものか迷ってしまう。そもそも彼女は何者なのか。年の割に落ち着いているように見えるが、友達の女の子の誰にも似ていない。

「夢について教えてほしいの」

「夢?」

「あなたはたぶん毎夜、夢を見ているんだと思う」

 光が無い瞳だと思った。どこまでも暗く、全てを吸い込むような瞳。率直に、怖い、と感じた。

「それがどういう夢かを教えてほしいの」

 モーティは背筋を伸ばし、唾を飲み込む。

「私の見る夢のこと、誰かに聞いたんですか?」

「ヤナンっていう子、知っているよね。彼は毎夜悪夢を見るって言っていた。だから、同じ双子のあなたも見ているんじゃないかって考えた。でもあなたのその反応からするに、あなたも見ているんだよね」

「はい。……でも、悪夢ではありませんよ」

 そう、悪夢ではない。モーティは続ける。

「とても幸せな夢なんです。お父さんがいて、お母さんがいて、ヤナンもいて。四人で一緒に、穏やかで平和な暮らしをしている夢」

「平和な暮らしって何をしているの?」

「特に変わったことはありません。朝起きて、一緒に朝ご飯を食べて、家の手伝いをして、遊んで。ときどきヤナンと喧嘩をすることもあるけど最後には必ず仲直りをして、夜ご飯を食べて、身支度を整えて、四人で一緒に同じベッドで眠るんです」

 瞼を閉じれば甘く優しい空気がただちに思い出されて温かい気持ちになる。

「ずっと同じ夢なの?」

「はい」

「いつ頃から見ているの?」

「えっと、もうよく覚えていませんが、数年前からですね」

「そう、長いね。毎夜、ずっと、同じ夢を見ているんだね」

「はい!」

「あなたはそれで幸せなの?」

 マユワはいつの間にか伏せていた瞳を上げ、モーティの顔をじっと見つめる。苦しそうな表情であったが、夢の余韻を思い出して浸っているモーティはその表情に気付かない。

「毎日あんな素敵な夢が見られて、どうして不幸だということがあるのでしょうか。もちろん、幸せです。とっても、とても」

「そう、わかった。もう十分。答えてくれてありがとう」

 マユワは言い終わる前に立ち上がるとモーティとルシャを顧みることなく部屋を出て行ってしまった。

 ルシャと二人になったモーティは、ぞわぞわと心が落ち着かない。沈黙に詰られているような心地がする。何でもいいから言葉を発して沈黙を破りたくなる。

「私、何か気に障ることを言ってしまったのでしょうか」

「さあ。私にもよくわからないけど」

「あの人は、私が幸せなのが気に入らないのでしょうか。そんな気がします」

「そういうわけじゃないと思うんだけどね。だけど、彼女なりに思うところがあったんだと思う」

 あのマユワという子は一体自分にどんな答えを期待していたのか。それがどのようなものであるにせよ、自分が幸福に感じていることを否定されるというのは、決して面白いことではない。モーティの心のざわめきはまだ収まらない。このような、考えてもどうにもならず、かつ特に起こすべき行動も見当たらない時には、さっさと今起こったことを忘れて意識の外に放り出してしまうのに限る。楽しいことや愉快な気持ちで心を上書きするのだ。

 モーティは深呼吸をする。肺に空気を溜めた状態で息を止め、心の内にある明るい気持ちの記憶を思い出す。じわじわと温かいものが染み出て、溢れてくる。それからゆっくり息を吐きだすと、その温かさが筋肉の弛緩に伴い手足の指先にまで浸透していくのがわかる。確かな幸せがここにある。

「そういえばなんですけど。昨日お話されていた聖者を祝うお祭りの話、もう少し詳しく教えてもらうことってできますか? 外の世界のお祭りってどんなのかなって気になって」

「え? ああ。そうねえ。あれはまだアル――ほら、あの司祭様のことね――たちと知り合う前、私が他の人と二人旅をしていた時に行ったお祭りでね。西の国から輸入した色とりどりの花を使って……あ、花ってわかる?」

 モーティは首を横に振りながらもルシャを見上げる目は好奇の色に染まり、次の言葉を待ち望んでいる。ルシャはモーティにじっと見つめられながら、過去の体験を思い出していた。それはかつてルシャが暮らしていた娼館で、小さい妹や弟たちに「お話をして」とせがまれていたことだった。それと今の状況はとてもよく似ている。ルシャは懐かしさを覚えつつ、なぜそう思ったのかはよくわからないながらも、今のモーティにはそのような話が必要なのだろうと理解し、歌を歌うように一人の愚者との思い出話を語るのだった。


 居た堪れなくなって部屋を出たものの、特に行くあてもなく、しかし村の外の人間が村の中を勝手に歩き回るというのも迂闊なことである。たまたま居間に誰もいなかったことを幸運として、マユワは適当な椅子に腰かけ、獣の皮を剥いだだけの簡単な敷物の紋様を眺めていた。

 改めて、六年という月日はあれほどまでに人を変えてしまうものだという事実を認識する。嫌になる。しかし、目を背けてはならない。双子の行く末を見届けてほしい、とどこの誰とも知れない他人に縋らざるを得なかった夫婦の顔が思い出される。あの夫婦は二人とも魂が壊れる寸前の危うい顔をしていた。その背後で、守護者と呼ばれた古の精霊は存分に己の知的好奇心が満たされているようで、上機嫌であった。あれが求めているのは、自分の退屈を紛らわせてくれるものなのだ。人の命などではない。

 命を弄ぶ醜悪な茶番であった。しかしそれに憤れる権利は自分にはないとマユワは思っている。自分も、今さっき「あれ」と呼んだ存在と大して違いはないからだ。死にゆく人の声を集めることに何の意味があるのかと問われればそれは――。

 不意に大きな影が降ってきた。振り返ればグラジがマユワの隣に座ろうとしていた。マユワの視線に気づいたグラジが言う。

「隣に座っても構わないだろうか」

「いいよ」

 元々口数の少ない二人であるから、お互い押し黙ったままでいても困ることはない。しかしそれは無関心とは異なるもので、お互いがそれとなく互いの様子を伺っている。訊ねたいことがあるなら訊ねればいいし、訊ねられれば答える用意もある。

「お前も部屋から追い出されたのか」

「ううん。私は自分で勝手に出ただけ」

「そうか」

 地底湖から地上に向けて風が吹き抜ける。その後に十分な無音の間を置いてマユワが訊ねる。

「あなたは追い出されたの?」

「ああ。村長殿と二人だけで話がしたいから席を外してくれと言われた」

「そう」

 アルフィルクが今、村長と何の話をしているのか、マユワには想像がつく。それは丁寧に言葉を選んで語られる必要がある類のものであるから、グラジは席を外されたのだろう。彼の言葉を選べない口下手さは、そのような交渉事には不向きである。

「お前は俺には見えないものが見えているのだろうから、確認させてほしい」

 そして、この思ったことを口に出したくなる性質が交渉事への不向きさに拍車をかけるのだ。

「なに?」

「この村はそう遠くないうちに滅ぶ。そうだな?」

 マユワは敷物の紋様に目を落とし、返事をする。この敷物はどこでどうやって手に入れたものなのだろう、とぼんやり思いながら。

「うん。明日や明後日のことではないにしても、一年後か、それとも奇跡的に数十年後まで保ってくれるか。わからないけど、末永く存続するということは、ない」

「それは一般的な栄枯盛衰とは異なるものなのだな」

「そうだね」

 マユワは横目でグラジの方を見る。表情にこそ出ないものの、自分の予想が当たっていることについて隠しきれない興奮が瞳に宿っている。人間とはそういう生き物だ。マユワは心の内でため息をついた。

「一応聞いてあげる。どうしてそう思ったの?」

「まず、この集落は外界と断絶している。豊富な水資源を巡る争いが起きないほどに、外敵が存在しない。一方、村内だけで人々の生活に必要なものが賄えている。自給自足ができている。驚異的なことだ。それを可能にしているのは、俄かに信じがたいほどの高度な技術だ。地底で農作物を作ったり家畜を育てたりするなど、通常であれば考えられないことだ。光苔なるものがあるにしても、あの程度の微弱な光で農作物を育てるというのであれば、よほど上手なやり方をしていなければ、そうはならない。さらにあの空気を循環させる仕組み。どうやって岩を穿って穴を掘り、地底の動力源――それが何かはわからないが――とどのように接続させて動力を確保しているのか。この村の人数は決して多くはない。女子供もいるから、男手に限ればもっと少ないはずだ。それにもかかわらず、こうして自給自足が実現している。それを可能にする術が、かつて、この村にはあったということだ」

 かつて、という箇所に力を込めてグラジは言った。マユワの返事を待たずにグラジは続ける。

「原因も時期も、俺にはわからない。わからないが、その技術を有していた人は、今はもういない。そしてそれらの技術や設備を保守する力も、今はもう残っていない。だから、今あるものが壊れてしまったら、もう直すことができない。たとえばあの石造りの羽根。あれが壊れてしまったら、新鮮な空気が農場や牧場を巡ることはなくなり、農作物は枯れ、家畜は死に、水は汚れ、そして人が住めなくなる」

「そういうこと。そこまでわかれば、自分が部屋から追い出された理由もわかるでしょ」

 マユワに指摘されてグラジは呆けた顔をした。そして一通り考えを巡らせた末に出た言葉がこれだった。

「俺たちは今、なかなかに厄介な状況に陥っているのではないだろうか」

「まあ、私たちの自業自得なんだけどね。もっとも、ここまで村が追い詰められているのは想定外だったけれど」

「この危機的な状況を村の人々はどう捉えているのか。少なくとも村長ほどの立場の者が気付いていないはずはなく、無策でいるとも思えない。自力でどうにかできるならそうするのだろう。しかしそうではないほどに問題が大きくなっているのだろう。

 そういう状況であれば、活路を外界に見出すのが自然だろうし、だから村長は俺たちに村の危機を仄めかした。しかし外界と接点を持つということは、この村の秘密――豊富な水資源と高度な技術――が知られることに等しく、もしそうなれば何が起こるか。村側が不利な立場にあることを咎められて、一方的に搾取され、蹂躙されることは想像に難くない」

「だから、協力を求める相手は、慎重に選んだうえで、丁寧に交渉しなければならない。その中で、教会の権力は庇護を求める対象として有力な候補の一つに見えるんだろうね。そもそもこの村は孤立していて、外から人が来ること自体がとても珍しいことだから、こういう滅多にない機会は丁寧に活かしていかなければならない。だけどお互い不幸なことに、私たちは教会の関係者を騙っている偽物。だから、本来、村視点では一番信用してはいけない相手なんだよ、私たちは」

 グラジは合点がいったという風に頷いた。

「そうか。だから、俺が今ここにいるのか」

「にっちもさっちもいかなくなったら、追っ手を振り払って、まっしぐらに逃げる。アルは最初からそういう可能性も考えてた」

 強硬手段に出るにあたりグラジの体躯は確実にアルフィルクたちにとって助けになるもので、そうでなくとも抑止力として威圧するのにも役立つものだ。グラジは腕を組んで唸る。

「むう。役割を任されること自体は別に構わんのだが、こうなると、わからんな」

「何が?」

「そもそもなぜお前たちは進んでこんな厄介ごとに首を突っ込んでいるのか」

「突っ込みたくて突っ込んでいるんじゃない」

「しかし、この期に及んで今すぐ逃げるということもしないのだろう。村の存亡などどう考えても俺たちの手に余る問題だ」

 これから起こりうる最悪の事態は、村中を敵に回して逃げ場を塞がれ、最終的に命を落とすことである。最良でも、村と良好な関係を築いたまま去れることまでである。今回の件で得られる経済的利益や社会的利益など皆無に等しく、往復や滞在に時間や労力を注いでいる分だけ損である。合理的な意思決定をするならば、今すぐこの地を去るのが最適解である。

「お前の言葉を借りれば、死者との約束を守るため、か。このような事態になってもなお守る価値のある約束なのか、俺にはわからんな」

「損得でやってるんじゃないよ。ただ、そうしなきゃって思うからやるだけ。私も、アルも」

「俺は釣り合いの話をしている。死ぬかもしれないという危険を冒してまでするほどのことなのか」

「私はそう考えているし、アルはアルで思惑がある」

「そうだろうな」

「でも、そうだね。そういう危険に皆を巻き込んでいいかどうかは、確かに別の話。だけど今更、嫌なら帰ってくれていいとか、そういうつまらないことは言わないよ。あなたは私が感じている価値や意味を理解できていなくて、だけどそれでも自分の判断で一緒に来る選択をしてくれた。そう捉えているけど違う?」

「そうだ、お前たちと一緒にいるのは俺の判断だ。そのうえで、俺は知りたいのだ。何がお前たちを駆り立てているのか。お前たちが感じていることを感じているままに俺も知りたいと思っている」

 体格差ゆえにグラジがマユワを見下ろす形になっているが、澄んだ瞳からは威圧感はない。グラジは自身が述べたとおりにマユワの心を知りたいと思っている。それが疑いようのないものだからこそマユワは困ってしまう。マユワが見聞きしたものや体験しているものは、言葉で表しきるには膨大で複雑なものだからだ。それを断片的にでも言葉にしてみたところで、要領を得ず、結局何も伝わらないことは目に見えている。それでも、この場で何も答えないというのは不誠実なことだとマユワは思った。

「……アルの気持ちはアルにしかわからないし、あなたが私の感じているものをそのまま知りたいのなら、同じ体験をするしかない。でも、それは無理。だってあなたは私じゃないから。だけど、さっきの死者との約束を守る価値について私が考えていることなら、話せる」

「それで構わない」

 グラジはマユワの方に向き直る。背筋を伸ばし、膝の上に拳を置き、まっすぐにマユワの顔を見て言葉を待つ。マユワも、いつもなら顔を合わさずに話すところであるが、相手の真剣さに向き合わないのは失礼というものであるから、マユワもグラジの顔を見上げる。

「私は冥界の門を見ることができるし、そこに赴く死者たちに触れることもできる。私はそこで死者たちの生涯の話を収集している。それは前から言っている通り」

「そうだな」

「彼らの最後の話を聞けるのは、たぶん世界中で私ひとりだけで、もし私が彼らの話に耳を傾けなかったら、彼らの言葉や思いはどこにも残らなくなってしまう。私が何もしない、ただそれだけのことで、彼らの生きた痕跡がなかったことになってしまう。それはとても恐ろしいことだと私は思った。私は、彼らの尊厳を守りたいと思った」

「義務感あるいは強迫観念ということか」

「そういう側面がないとは言わない。でもそれと同じ以上に、私は自分の意思でそうしたいと思っている。私はずっと、私の持つこの不思議な能力に振り回されてきて、嫌な目にもたくさん遭ってきた。だけどある時期から、そういう能力も含めて自分自身なんだって諦めた。そして、その時、これから先の自分の時間の使い道を考えたの。自分は何がしたいのか、自分の価値観として何がどうなったらいいのか、あるいは何が許せないのか。それで辿り着いたの。ああ、私は孤独というものが嫌なんだなって。孤独というのは、単にひとりぼっちという意味じゃない。自分がやってきたこと、考えてきたこと、見て聞いて触れてそれで心に浮かんで刻まれて忘れられない忘れたくないって思ったこと感じたこと、そういうのがどこにも残らず最後には全部消えてなかったことになってしまうのが、とても寂しいことだと思ったの。人の生きた痕跡を集めて繋いで、かつてこの世界にはそういう人が存在したんだってことをなかったことにさせたくないって思った。死者との約束を守るというのは、彼らが確かにこの世に存在したことを証明するということ。だから私は約束を守るの。たとえ約束を結んだ相手がもうここにいなかったとしても、守るの。伝わる?」

 グラジは腕を組んで中空を見上げる。マユワの言葉を咀嚼している。十分考えた末に口を開く。

「それは……穴の空いた袋からこぼれ続ける豆を拾うようなものではないか。全ては拾い集められないし、終わりもない。死者は無限にいるが、お前は一人しかいない。全ての死者の話を残さず全て拾い集められるわけではないだろう。お前がやっているのはそういうことだ」

「だから無駄で無意味な行為だって思う?」

「正直に言えば、そうだな。お前の自己満足にはなっているのかもしれないが、目的に対して手段の効率が悪いように思う。そして少なくとも今を生きる人々にとってはたいした役に立っていないように見える」

「はっきり言ってくれるね」

「すまない」

「いいよ――その通りだと思う。はっきりと言ってくれるのは悪いことじゃない。そう、所詮これは私の我儘で自己満足だよ。私がやりたいからやっているだけ。私がこんなことをやらなくたって、まだ生きている人たちには何の影響もないし、私が死者に責められることもない。だって最初から残るはずもないことだったんだもの」

「しかし、やめたいとは思わないのだろう」

「そう思ったことがないわけじゃない。だけど、やめて忘れてしまうことの方が、私は怖かった」

 グラジは腕組みを解き、拳を膝の上に戻した。

「そうか。わかった」

「……何が?」

「お前が死者との約束を守ることに価値を見出しているということが。俺にはまだ理解の及ばないことばかりだが、お前がお前の思う本当のことを話してくれたというのは真実である、と俺は思っている」

「結局何もわかってないってことじゃない」

「そういうことになるのか」

「私とあなたは違うんだから、それが普通なんだけどね。わかりもしないことをわかった気になられる方が、ずっと嫌だ」

 そう言いながらもマユワの口元は柔らかい。グラジも知り合った頃ならばいざ知らず、近頃は言外の意図を汲み取ることは多少上手くなってきた気がしている。

「話は戻すが――結局お前は自分の目的を果たすことはできそうなのか」

「うん、たぶん。今のところ、半分くらいは達成できたと思う」

「そうか。それはよかったな」

 ヤナンとモーティの行く末はどうなるのか。二人はそれぞれ悪夢に苛まれている。ヤナンは辛く苦しい夢に、モーティは甘く楽しい夢にそれぞれ心身を蝕まれている。しかしやがて約束の期限が来て、悪夢は終わる。いかなる夜も例外なく朝を迎えるように、双子の見る悪夢は必ず終わりが来る。その時、ヤナンとモーティはそれぞれどのような反応を見せるのか。その瞬間こそ守護者が待ち望んでいる瞬間であるが、何が起こるのかは想像に難くない。ヤナンは苦しみから解放され、モーティは幸福を失うのだろう。その事の顛末を見届けることが、マユワが夫婦と交わした約束であった。悪夢が終わった後の未来のことは当人たちの問題である。

「あれ、珍しい組み合わせじゃない」

 鈴のような明るく澄んだ声の主は振り向かずともわかる。

「モーティちゃん、寝ちゃったわ」

「そう」

 今は寝かせておけばいいよ、というマユワの呟きは他の二人には届かない。



 6.


 昼夜が巡る間は、そこはまだ現世の法則の支配下にある証拠である。歩いているうちに、漆黒の空に穿たれた無数の光の穴が次第に広がり黒色を埋めていく。やがて空に真っ黒な星が瞬くようになれば、そこは現世の端と呼んで差支えがないだろう。さらに歩みを進めていくうちに、ひとつの気配が現れる。

「今夜は来られたのだな」

「邪魔が入らなかったからね」

 六年という時間とは両者にとって久しぶりと捉えるには短すぎる時間であった。マユワと、村人たちが守護者と呼ぶ精霊は対峙する。六年前はそこに哀れな夫婦が加わっていたが、今はいない。

「して、何用か」

「特に用事らしいものはないけれど、あなたの考えが知りたい。あなたはあの双子をどうするつもりなの」

「どう、とは具体的に何だろうか」

「あのくだらない実験が終わった後に双子の命を奪うつもりはあるのか」

「ないな。もとより人間の命に価値などない」

「そうでしょうね。月のない夜に生まれた子の命を代償に村を庇護するという話だって、あなたにとってはきっと意味のないことなんだろうから」

「そうだな、あれは連中が自分から言い出したことであって、私から求めたものではない。断る理由もないから好きにさせているが。連中は律義にその都度赤子を大地の上に置いていくよ。まったく、自分たちの命に価値があると思うから、それが対価になると勘違いする。私のすることは私が決めるものだというのに。人間とは面白い生き物であるな」

 守護者は朗らかに笑った。姿が見えていればきっと大口を開けていたに違いない。マユワはそれを無視して続ける。

「それじゃ、あの村はもともと最初からあなたに守られていなかったということ?」

「いや、侵入者が現れない程度に砂嵐で連中を覆い隠してやるぐらいのことはしているよ。連中が白雪の娘に傅くことには価値があるのでな。その忠義への対価だ」

「白雪の娘? 誰?」

「北の地から母君と一緒に旅してきた御方だ。母君が失せて以来、随分長い間眠っている」

「そんな人があそこにいるの?」

「うん? 彼女は人間ではないぞ。人間どもが生活の頼みにしているという湖がそうだ」

「ああ、そういうこと。そっか……。ねえ、話は戻るんだけど、あの双子のことについて。あなたが二人に見せている悪夢、私が勝手にそう呼んでいるだけなんだけど、あれはいつまで続くの?」

「そろそろ切り上げる時期だとは思っていたが、姫が望むなら今晩を最後にしてもいいぞ」

 守護者が事もなげにそう言うので、マユワは拍子抜けしてしまう。

「そんなに簡単に決めていいことなの?」

「仕込みはもう十分に済んでいる。あとはいつ確かめるかを考えるだけだが、今晩に姫が現れたのはひとつの縁というものだろう」

「縁、ね。適当な口実が欲しかっただけでしょ」

「まあ、そうだな」

 守護者は悪びれる風もなく言ってのける。十分に理解していたはずのことであるが、マユワは不快になることを抑えられない。守護者にとっては、双子の見る悪夢のことなどその程度の軽い事柄なのだ。気まぐれや戯れの域を出るものではない。

「あなたはこれで満足なの? あなたが計画した通り、悪夢の終焉はきっと一定の結果をもたらす。特にあの女の子の方。とても残酷だね。もしかしたら死者が出るかもしれない。その様子を眺めて、あなたは何が得られるの?」

「何が得られるかはその時になってみないとわからないが、そうだな、魂というものを理解する一助になることを期待しているよ」

「あなたは魂を知りたいの?」

「うむ。こればかりは私がじっくり考えてもわからないものだからな」

 嘘も偽りもない真実の言葉であった。

「……やり方は感心しないけど、自分が知り得ないものを知りたいと思う気持ちは私には否定できない。そして、そういうものを知りたいと思う心それ自体もまたひとつの魂の形だよ」

「そうなのか。なるほどな。参考にしよう」

 話は終わった。マユワは守護者に背を向ける。そして歩き出そうとして、ふと浮かんだ言葉があったので立ち止まり、振り返った。

「そうだ、最後に一つだけ。白雪の娘って言ったっけ。そのひとはあなたにとってどういう存在なの?」

「白雪の娘は私が彼女の母君から託された忘れ形見である。彼女を護ることが我が使命である」

 守護者のその言葉は一言ずつ噛み締めて発せられたものだった。それだけの気持ちを込められるのならどうして、とマユワは唇を噛む。

「そう。それなら私からあなたに忠告してあげる。あなたはそう遠くない将来に、大切なものを奪われ汚される辛さを味わうことになるかもしれない。もし、それが嫌だと思える心があなたにあるのなら、あなたにとっては取るに足らない小さな命たちのことを慮ってあげたらいい。少なくとも、自分の退屈しのぎに人の魂を弄ぶようなことをしてはいけない」

「ふむ? 姫の忠告だ、ありがたく受け取っておこう」

 ……帰ろう。マユワはそう胸の内で呟くと、現世へ続く道を歩き始める。足元に絡みつく雑念を引き千切り、振り払うが、それでも残滓は肌にこびりついて離れない。あれは何一つ理解していない。世界を統べる法則に端を発する役割を遂行する装置に過ぎないのだから、理解できないのは当然だし、本来望むべくもない。それなのに、人と同じ心があるような振舞いをするから困惑してしまう。突き詰めていけば、心というものの方が錯覚であるという結論もあるのかもしれない。そうだとするならば、この世に満ち溢れる嘆きや慟哭とはいったい何なのか。自分は一体何のために。雑念の残滓はマユワの問いかけを受けてマユワの足を重くする枷に成長する。足を振り、乱暴に雑念を断ち切る。再び膨らみ始める前に、靴で踏み潰す。

 帰ろう、帰ろう。

 遠くに焚火の明かりが見えてきた。人影がひとつある。立ち上る白い煙は暗い夜空に馴染んで消えていく。空には機械仕掛けの星々。



 7. 


 ヤナンとモーティはそれぞれ夢を見ている。ヤナンが身近な人々の肉と骨でできた出口のない道――当然その中にはヤナンの両親やモーティだったものも含まれるその道――を歩いている間、モーティは楽園にある一軒家で穏やかな時を過ごしていた。昼間にルシャから花というものを聞いたせいなのかもしれない、モーティの家の周囲にあったのは色とりどりの花が生い茂る花畑であった。空から降り注ぐ陽光は肌を焼くことなく柔らかで、そよぐ風は砂糖菓子のように甘い。

 モーティの朝はいつもベッドの上から始まる。六歳の子供にとってベッドとは両手両足を伸ばしても端に届かないほど広大なものである。寝返りを打つと鼻先に柔らかい毛先がかかってくすぐったい。薄目を開けてみれば、そこにはヤナンの頭がある。ヤナンはまだ眠りの中にあるらしい。

 生まれた順でいえばモーティの方が姉であるが、役割でいえばヤナンの方が兄である。二人の関係を兄妹と呼ぶか姉弟と呼ぶかは些末な問題である。二人は一つの魂を均等に割ったように同質で対等なものだからだ。元気で甘え上手なモーティの後ろをヤナンが支え見守る。ヤナンにとってもモーティの快活な様子は、慎重な性格のヤナンにとって冒険譚の主人公のようであり、見ていて実に愉快なものである。だからモーティの行き過ぎた行動が父母に叱られる時も、ヤナンは進んで一緒に叱られようという気になれる。二人でいれば苦難は半減し、幸福は倍増する。

 モーティはヤナンの頭に手を伸ばす。髪の柔らかさは自分と同じだ。耳の形もよく似ている。ヤナンがぴくりと震えて目を開ける。ヤナンが頭を上げれば間近なところで二人の目が合う。瞳が焦茶色であるのは一緒だが、睫毛はヤナンの方が長い。目の下がふっくらとして健康的なのはモーティと一緒だ。ヤナンの寝ぼけ眼はぼんやりとモーティを捉えていた。モーティはヤナンの瞳に微かに自分の姿が映っていることを確認する。同じようにモーティの瞳にヤナンが映っていることだろう。

 ずっとこうしているのも悪くない。しかし、日が出ている時間は有限で、その間にしかできないこともたくさんある。子山羊と遊んだり、花で虹の冠を作ったり、甘い風が生まれる場所を探してみたり、父に肩車をしてもらって空を掴んでみたり。平和と幸福は永遠のものであるから、手あたり次第に片っ端から満喫していけばいい。そろそろおなかも減ってきた。

 きっとヤナンも同じ結論に至ったのだろう。二人は双子であるのだから当然である。

「二人とももう起きてる? 朝ごはん、できてるよ」

 扉の外から母の声がする。モーティとヤナンは同時に跳ね起き、我先にと扉を目がけて走り出す。どちらが勝っても構わない。こうして一緒に遊ぶことが楽しいのだ。ヤナンが自分の遊びに付き合ってくれることこそが喜びなのである。一人分の扉に二人で身を潜らせ、廊下を駆け、角を曲がり、父がのんびりと二人に向けた注意に対して歓声のような返事を返し、バターの香ばしい食卓へ辿り着く。

「先に顔を洗ってらっしゃい」

 そう言われればただちに二人は踵を返し、庭先へ躍り出る。陽光の下で視界は七色に輝いた。庭の裏には小屋がある。その扉を開ければ一転して暗黒であるが、むしろこちらの方が自分たちには馴染んだものである。緩やかな傾斜を少しばかり下ってみれば、そこには鳥肌が立つほどに冷えた地下水の湧き出す池がある。据え置かれた桶に水を掬い、二人できゃあきゃあと声を上げながら水飛沫を散らして顔を洗う。濡れた顔は服の裾で拭う。余った水は底なしの洞穴に捨てる。桶は元の場所に戻す。傾斜を上り、再び光の下に飛び出してみれば、まだ湿った頬を風が冷やして通り過ぎていく。雲ひとつない空は青く澄んで、四方の全てを覆っている。ここは永遠の幸福を体現した楽園である。

 幸せだなあ。

 モーティがうっとりしていると、ヤナンがモーティの手を引き、「早く戻ろう」と促してくれる。その手を握り返し、二人は両親の待つ食卓へ戻っていく。


 朝食が終わった後は家事の手伝いをするのが常だった。ヤナンは父と、モーティは母とそれぞれ一緒になって仕事をする。そのためおのずとヤナンたちは外へ出て、モーティたちは家の中に残ることになる。

 母と二人きりになったモーティはてきぱきと手足を動かし、よく働いた。母の身振りや目線の動きから彼女が次に何をしようとしているかを察知し、先回りをする。母がひとつの仕事を終えて次のものに取り掛かろうとして、それがもう終わっていることに気付いたときの反応が嬉しくて仕方ないからだ。

「ずいぶん気の利く子ね」

 褒めて欲しくて、頭を撫でて欲しくて、抱きしめて欲しくて、モーティは母の近くへ行く。

 私がやったんだよ、すごいでしょ!

 その期待に対して母は期待以上のやり方でモーティのことを褒めてくれる。しゃがんでモーティと目線の高さを合わせ、目尻を下げて微笑んでくれて、それから思い切り抱きしめながらモーティの耳元で、すごい、すごい、と称賛してくれるのだ。それだけでも十分なのに、母はモーティに更なるご褒美を用意してくれていた。

 モーティが効果的に働いたおかげで、午前の仕事は余裕を持って終わらせることができた。昼食の用意をするにはまだ早い。しかし空いた時間はお喋りに充てればいいので、時間が無駄になるということはない。「ちょっとそこに座っててね」と母が言うので、モーティは四人で朝食を食べた卓について、足をぶらぶらと揺らしていた。背後の台所からは食器の擦れる音や湯の沸く音が聞こえてくる。これはもしかして? 考えうる中で最上の展開を予想してモーティは今すぐにも振り向きたくなるが、このような時は楽しみを最後まで取っておく方が面白い。背筋を伸ばし、顎を引き、軽く目を瞑って、上品な佇まいを意識する。

「お待たせ。お父さんたちには内緒ね」

 卓に置かれた盆の上には湯気の立つお茶が二つ、それから小皿に盛られた焼き菓子があった。モーティが予想した通りの最上の展開だった。洗濯物に隠れていた太陽が掛け布団の上から顔を覗かせ、窓から日差しが入る。屋内がさらに明るくなり、菓子の表面にまぶした砂糖が光の粒となって煌めいた。二人だけの秘密の贅沢が始まる。

「あまり食べ過ぎるとお昼ごはんに障るからほどほどにね」

 母は口でこそそう言うが、モーティが砂糖菓子を頬ばる様子を愛しげに見守っている。ここには欲しいものの全てがあった。これ以上の幸福は想像できないほどに、モーティは満ち足りた気持ちになれる。

「私、幸せよ。お母さん、大好き」

 心に浮かんだ言葉はたちまち膨れて口に出さずにはいられなかった。それでも収まらない衝動はモーティを椅子から下りさせ、母のもとへ駆けさせた。母の腹に頬や鼻先を擦りつけ、匂いを胸いっぱいに吸い込む。幸福はそれでも溢れて止まらない。胸が溢れてくるもので弾け散りそうになる。

「私の可愛い宝物は、大きくなったら何になりたい?」

 歌うように頭上から優しい声が降ってきた。

「ええ、わかんない」

 ふざけたように、甘えるように、モーティは返す。大きくて温かい手が後頭部を撫でる。

「わからないことはないでしょう。いつかあなたも大きくなって大人になるんだから。きっと何かになる」

「でもずっとずっと先のことじゃない」

「あっという間よ」

「そうかなあ」

「そうよ。モーティもヤナンも、ついこの前に生まれたばかりだったのに、もうこんなに大きくなっちゃった。おちびちゃんだった子は今やすっかり女の子。これからどんどん背が伸びて、手足がすらりとして、綺麗なお姉さんになるのでしょうね」

「じゃあその時お母さんはどうなるの?」

 んん、と唸って母は少しの間――外の洗濯物がばたばたと風に煽られて止むまでの間――だけ考えて、このように返した。

「お母さんは、ずっとあなたたちのお母さんをしているわ。そりゃあね、二人が悪いことをしたら叱りもするけど、でも、あなたたちがあなたたちらしく自分の道をいつまでも自分の足で歩いていけることを願っている。それはいつでも常に、絶対に本当のこと」

 水が岩に滲みていくように、母の言葉はじわじわと根深くモーティの心に浸透していく。嬉しいはずなのに、寂しくもある。どうして。これではまるでずっと一緒にはいられないことを前提としていうようではないか。

 いつもなら、この後すぐに母は、そろそろお昼ごはんにしましょう、と席を立つ。しかし今回はそうではなかった。

「モーティ、負けちゃだめよ」

 声色が少しだけ低い。囁くようにし、しかしはっきりと、母はモーティの目の奥を見て願った。

「そろそろお昼ごはんにしましょう」

 母が席を立つ。

「モーティ、お父さんとヤナンと呼んできてちょうだい」

 元通りの優しい声色で母はモーティに呼びかけた。


 午後は花畑の中で遊ぶ。家の外は砂漠の砂をそのまま色とりどりの花に代えただけのようで、四方すべての地平線の彼方まで

花に覆いつくされている。空と、花畑と、モーティたちの家以外のものは何もない。

 庭先に置かれた椅子に父が座り、モーティとヤナンの様子を見守っている。白、赤、青、黄色、それらの中間の桃色、濃紫色、橙色などが日の光を受けて鮮やかに照らされ、吹く風に合わせて砂塵のように花弁が舞い上がる。光の波が彼方から寄せてモーティたちを通り抜けていく。ざざ、ざざ、とざわめく音はモーティが知り得ない潮騒である。

 モーティとヤナンは膝丈ほどの花々をつま先で掻き分け駆け回る。疲れたら折り重なるように寝転んで、互いの体をくすぐりあって遊ぶ。二人は並んで座り、手折った茎をつないで虹色の花冠を作る。それを交互に被せ合う。綺麗、可愛い、似合ってる、やだよ、いいじゃない。そうしてじゃれ合っていると、不意に濃い影がモーティとヤナンに覆いかぶさり、たちまち視界が逆さまになる。父に抱き上げられたのだ。不意に高くなった視界であっても相変わらず四方は果てまで花畑で、しかし少しだけ空が近づいた。

「二人とも大きくなったなあ」

 父は両腕にそれぞれモーティとヤナンを抱きつつ、苦しげだがしみじみと感じ入るように言った。父は母とは異なる匂いがする。

 今日は二人とも変だな、とモーティは思う。自分たちが日々育っていることなど見れば明らかだというのに、まるで今頃気付いたかのような物言いをする。

「ヤナンは先に戻っていなさい。父さんはちょっとモーティに話があるから」

 モーティとヤナンは顔を見合わせて首を傾げる。しかし特別断る理由もないので、二人は父の指示に従う。父が家を指差すと、ヤナンはそちらに向かって一人で歩いて行った。

 一人になるといよいよ緊張してしまう。

「少し歩こうか」

 差し出された手を握り返すと、そのまま歩くのかと思いきや、父は再びモーティを抱き上げ、肩車をした。さっきよりも高い視界で周りを見渡すことができるが、それよりも地面がもっと遠くなって怖さの方が先立つ。

「怖い、怖いよ」

「大丈夫だよ。しっかり掴まって」

 しぶしぶながらも父の頭に両手を当ててみると、意外と体勢は安定した。大丈夫だと分かれば怖いという気持ちはなりを潜めるようになる。

「ほら、大丈夫だ」

「うん」

 大人の一歩はモーティの一歩よりも大きくてゆっくりだ。心臓の鼓動よりもゆっくりと父の体が上下して、それに合わせてモーティの体もぐらぐらと左右に揺れる。面白くなってくる。

 そのまま花畑の中を歩いていく。高い所で受ける風は少しだけ冷たく乾いていた。

「ねえモーティ」

 手のひらの下から父が問いかける。

「モーティにとってヤナンって何だろう?」

「ええ、何よ突然」

「大事なことだよ。ヤナンって何だろうね」

 面倒くさい質問は、わからないふりをしてやり過ごせばいい。しかし父は話しぶりこそ穏やかであるが、モーティがこの質問から逃げることは許してくれなさそうである。モーティにとってヤナンとは何か。こういったことは改めて言葉にするのは気恥ずかしいものだ。そしてきちんと考えようとしてみると、意外と言葉にするのが難しい。

「弟? お兄ちゃん? ヤナンはヤナンとしか言えないよ。生まれたときからずっと一緒にいるんだもの。ヤナンはヤナン。当たり前でしょ」

 そうだ、その通りだ。口にした言葉が認識に輪郭を与えてくれる。しかし父の追及は止まない。

「たとえばヤナンが困っていたらどうする?」

「もちろん助けてあげる」

「どうやって?」

「それはその時によるんじゃないかしら。何にどう困っていて、どうしたらそれが解決するのか。そういうことを一緒に考える」

「考えるだけなの?」

「ううん、行動もする。当たり前じゃない」

「その行動をするにあたって、自分が何か我慢しないといけないとしたら?」

「ヤナンのためだもの。しょうがないわ」

「そのためにモーティが大事に思うもののうちどれだけを捧げられる?」

「ねえ、さっきから質問が変だよ」

「変じゃないさ。大事なことだ」

 父はのんびりと歌うように言った。

 のどかで穏やかな花畑の上を揺られながら進む。気付けば家は遠く離れていて、じきに見えなくなってしまいそうだった。しかしそれでも父は構わず進む。

「モーティならどうする? ヤナンのために何をどれだけ犠牲にできるか。モーティにとってヤナンの価値とはどれほどか」

「そんなの、考えたことない」

「だから訊いているんだよ」

「わかんないよ。だって、その質問に答えるためには、ヤナンが困って苦しんでいるっていう前提が必要じゃない。その前提が普通じゃないよ」

「そうだね。そうならないに越したことはない。もちろん、そうだ」

「だったら質問自体に意味がないじゃない」

「モーティはそういうことを考えたくないのかな」

「当たり前でしょ」

「さっきヤナンに同じことを質問したら、ヤナンは自分の全てを犠牲にしてもモーティを助けるって言っていたよ」

 ぽつりと、しかしはっきりと、聞いたこともないような冷たい声で、父は確かにそう言った。

「モーティは僕の全てだ、ヤナンはそう言っていたよ」

 そのときのヤナンはどんな気持ちで、どんな面持ちで、そう言ったのだろう。わからないが、モーティはそういう風に言うヤナンを知らない。それはモーティの知らないヤナンである。

「モーティはヤナンと同じ気持ちの強さで、ヤナンのために行動できるだろうか」

 問われて即答できなかった。モーティがヤナンのことを大事に思っていることは疑いようのない事実であるが、それと自分自身を天秤にかけて考えたことはなかった。自分の何を犠牲にするというのか。遊ぶことを我慢する、ヤナンの代わりに父母に叱られる、といったこととは違う次元のことなのだろう。それは痛いのだろうか、苦しいのだろうか、怖いのだろうか。嫌だと思った。しかし、そういうことをしなければならないほどにヤナンが困っているのだとしたら、モーティはどうするのか。

「わかんないよ。わかんないけど、けど。やだ、やだ、怖いよ、お父さん」

 家はもう花畑の陰に隠れてしまっていた。父は構わず歩き続けている。モーティが身を捩って辺りを見回している間、両脚はしっかりと父に掴まれていた。離してくれそうにない。モーティが暴れるほどに父はモーティの足を強く握りしめる。その痛みは幻覚ではない。

「痛いよ、ねえ、もう帰ろうよ。怖いよ、暗くなっちゃうよ。早く帰ろう、ねえ、ねえってばお父さん聞いてるの」

「この先でヤナンが待っている」

「嘘よ、さっきヤナンはお父さんが家に帰したじゃない。あっちにヤナンはいない」

「いるよ」

「違うもん」

 父はモーティを下ろした。先ほどまで明るく眩かった空はいつの間にか暗色を帯びつつあった。空の白く澄んだ青は日が傾くとともにどこかへ退き、代わりに馴染んだ洞窟の暗色の気配が空から降ってくる。

「モーティ、選びなさい。進むか、戻るか」

 柔らかい声色に反して父の顔は陰になっており表情を伺うことはできない。微笑んでいるのか、険しい顔をしているのか。モーティは見守られているのか、見放されているのか。

「わかんないよ。助けてよう」

「それは、誰がモーティを助けるという話なのかな。父さんなのか、母さんなのか、それともヤナンなのか」

「わかんない、わかんない。誰でもいいよ、誰か助けて。怖い、嫌だよ」

「よく考えなさい。父さんも母さんも、モーティに答えを示してあげることはできない。ああ、辛い目に遭わせてしまってごめんね。だけどどうか、どうか。負けないでほしい」

 降り続ける夜闇は父もろとも辺りを黒く塗り潰す。そしてモーティ一人が取り残されたところで悪夢は終わった。



 8. 


 嫌な夢を見た。心臓がばくばくと跳ね回っている。モーティは身を起こして辺りを確かめる。いつもであれば外から生活の営みの気配がするが、今朝はまだそれがなく、真夜中のように静かだった。ずいぶん早い時間に目が覚めてしまったようである。こんな酷い夢は初めてだった。布団をかぶり直し、自分の体温で温まった空間の中で手足を丸めて目を瞑る。もう一度寝直して、嫌な夢を幸せな夢で上書きするのだ。しかし、そのような試みも虚しく時間ばかりが過ぎていった。そうしているうちに家の中でも人の動く気配が生じ始める。もう今朝は諦めるしかないのだろう。モーティはため息をつきつつ起床した。

 モーティが、おはよう、と言うと伯母は目を丸くしていた。

「珍しい。モーティがこんなに早起きだなんて」

「うん、私もびっくりだよ。二度寝しようとしたんだけど、できなくって」

「そもそも二度寝なんてしなくていいんだけどね」

 確かにそうだ、とモーティは苦笑する。早起きそれ自体は悪いことではない。

 モーティは朝の身支度をしながら今日一日のことについて考える。客人の案内は昨日で終わったから、今日からまた野菜洗いの仕事に戻るのだ。今朝は遅刻せずに行けるから、仕事が終わるのは今までで一番早いかもしれない。もしかしたら午前中に終えられることもあるだろう。そうなったら、午後はどうしよう。他の友達はまだ仕事中だろうし、村の大人たちもモーティに構っている暇はない。退屈だ。と、考えて、ルシャの顔が浮かんだ。そうだ、あの人に会いに行こう。今日は何をする予定なのか知らないけれど、駄目で元々という心持ちで、会いに行ってみよう。それがいい。

 汲み置いた地底湖の冷たい水で顔を洗い、滴る雫を服の裾で拭う。頬を両手でぴしゃりと叩き、うん、と頷いた。

「ねえモーティ」

 居間から伯母に呼ばれてモーティは大声で返事をした。

「ヤナンを起こしてきてくれる?」

「まだ起きてないの?」

「いつも通りもう家を出た後なのかと思ったら、今朝はまだ部屋で寝ていたのよ」

「珍しい」

「いつもは逆なのにね」

 こういうこともあるのだろう、と深く考えることもなく、モーティはヤナンの部屋に行く。伯母の言った通り、ヤナンはまだベッドで丸くなっていた。

「ヤナン、朝だよ」

 モーティは枕元にしゃがんでヤナンの顔を覗き込む。夢のヤナンは六歳だったが、現実のヤナンはもう十二歳だ。まだ子供らしさは残っているものの、六歳の頃のようなまるくてぷくぷくした頬はなく、代わりに発達しつつある骨格が将来の精悍さを予感させている。しかし無防備で穏やかな寝息は六歳の頃と何も変わっていない。とても良い夢を見ているのだろう。最後にヤナンの顔をじっくり見たのはいつのことだったか。こうして見ていると、今のモーティとヤナンは似ていないように思える。双子であってもそもそも性別が違うのだから、当たり前といえばその通りである。

「ほらヤナン、起きよう」

 モーティは手でヤナンの頬を包んだ。ヤナンの体がぴくりと震えて目に力がこもる様子が見える。布団の中でヤナンの手が動いて、モーティの手を握る。それからうっすらとヤナンの瞼が開いた。焦点の合わない瞳がモーティの顔を映している。

「ああ、よかった」

 心の底から安心したようにヤナンが呟いた。そしてたちまちヤナンの目から涙が溢れて嗚咽をこぼし始めた。モーティの手を握る力も強くなり、モーティの手のひらを自分の頬に押し当てている。まるでこれが夢ではなく現実であることを確かめるようだった。

 モーティがヤナンの手を解こうとすると、ヤナンはより強くモーティを求め、抱き寄せた。モーティの首筋に鼻を埋めて、わんわんと泣いている。モーティは無理な姿勢でベッドに突っ伏す形になっているので苦しくて仕方ないが、ヤナンの尋常ではない様子に戸惑い迂闊に動くことができない。どうしたの、大丈夫だよ、などの言葉が浮かぶがどれも適切ではないように思えて、真にかけるべき言葉がわからない。

 そうしているうちにヤナンの方が落ち着いてきた。モーティを抱く腕の力が弱まる一方で、離す気配はない。嗚咽は啜り泣きに変わり、ヤナン自身ここがもう夢の中ではないことに気付いているようだった。しかしそれでもモーティの温もりは手放しがたいもののようである。

「ごめん、もう少しこのままでいい?」

「うん、いいけど」

 さすがに体が痛くなってきたので、ヤナンの隣で横にならせてもらう。現実のヤナンと一緒に入るベッドは夢の中よりもずっと狭く、体をまっすぐに伸ばしていないと体の一部がベッドの端からはみ出てしまう。

「最後にこんな風に一緒に寝たのっていつだっけ」

 ヤナンがぽつりと言う。

「いつだろう」

 そう言いながらもモーティにとってはいつも夢の中で体験していることなので、特に懐かしさはない。しかしヤナンにとってはそうではないようだった。

「まだお父さんとお母さんが死んだばかりの時以来じゃないかな」

「そんな前だっけ」

「そうだよ。大きくなってからはこんな風にしたことがないもの」

「私、よく覚えてないや」

「あの頃のモーティは大変だったからね」

 二人にとって六年前は遠い昔のことだった。ある日突然両親が亡くなり、理由もよくわからないまま永遠の別れを告げさせられ、伯母に引き取られた。その頃のことについて、ヤナンはよく覚えていて、モーティは逆にまったく覚えていない。モーティが思い出そうとすると頭に白い霧がかかったようになり、何も考えられなくなる。それもそのはずで、その頃のモーティは起きている間は常に泣いており、泣き疲れて眠る間だけが平穏だった。そして目覚めればまた疲れて眠るまで泣き通すのだ。ヤナンはそんなモーティのことを抱き締め、頭を撫で、たくさん声を掛けて慰めていた。父母が亡くなった以上、もうヤナンにはモーティしか残されていない。しかしモーティは泣くばかりで全然食事をとらず、たちまち痩せ衰えていき、このままモーティも死んでしまうのではないかとヤナンは恐れたものだ。

 しかし時の流れはお互いの傷口に、薄いながらもかさぶたを作ってくれた。その時期の前後からだろうか、二人はそれぞれ悪夢を見始めた。悪夢のなかでモーティは幸福な過去に、ヤナンは不幸な未来にそれぞれ囚われた。いつしかそれが日常となった。

「会いたいな」

「誰に」

 モーティが目を閉じれば瞼に二人の顔が浮かぶ。愛しい人たちのことを口にする。

「お母さんとお父さん」

「寝ればまた会えるよ」

「うん、そうだね」

 そのときヤナンがモーティのことを強く抱き締めた。

「モーティはどこにも行っちゃだめだよ」

「行かないよ。ねえどうしたの。なんだか今朝のヤナンは赤ちゃんみたい」

「だってモーティは僕の最後の希望だから」

「大げさだね」

「どう言われたっていいよ。ああ、本当によかった」

 ヤナンが心の底からほっとしたように言うので、モーティは興味を惹かれる。何がよかったというのか。訊ねてみると、ヤナンが要領を得ないながらも語りはじめた。

「暗くて嫌な道の果てにぼうっと光って輝く卵みたいなのがあったんだ。卵って言っても柔らかい羊の毛みたいな塊でね。その中にモーティがいた。手足を丸めて、ぐうぐうと眠っててね。それを見たら、ああ本当によかったって思った」

「ええ、何それ。のんきに寝ている私を見て感動したってこと?」

「そうなんだけど、なんだろう。夢の中の僕は汚れきっていたんだけど、モーティはそうじゃなくて、ああ、まだこんなきれいなものが残っていたんだっていうのが嬉しかったっていうか。ううん、自分でも言葉にしてみるとよくわからないや」

 おかしなことを言うものだとモーティは思う。しかしそのようなことでも、ヤナンにとっては大事なことだったのだろう。

「ね、そろそろ起きようよ。起こしにきたのに、これじゃあ意味がないわ」

 先にベッドを下りたモーティはヤナンに手を差し出した。その手に引かれてヤナンがベッドを下りると、二人は向かい合うかたちになる。夢の中では背の高さが同じくらいだったものが、今はモーティの方が拳ひとつ分くらい大きい。ヤナンは痩せっぽちの猫背だからだ。


 始業時刻にモーティが仕事場にいる。ただそれだけのことで、ひと騒ぎになるのはモーティにとっては心外なことであったが、それまでの行いの積み重ねのせいであると言われれば否定のしようもないので、友達に色々言われてしまうのは仕方ないことであると割り切った。

「たまたま今朝は早起きしちゃったんだよね」

 何か良くないことの前触れだ。何人かが冗談めかして言うのをモーティは笑っていなす。

 いざ仕事を始めてみればモーティの手はいつも通りてきぱきと効率的に動いた。うんうんそうだね、と相槌や返事を返しながら野菜の泥を落とし、かごに入れる。やっていることは他の子供たちと同じであるはずなのに、やはり誰よりも早く担当分を終えた。まだ昼前にもなっていない。

「じゃあね、お先」

 仕事場を出る間際にヤナンの方を見ると、ヤナンはいつも通りののんびりとした仕草で仕事をしていた。見慣れた光景だった。

 食堂へ行き、事情を話して早めに昼食をとらせてもらった後は、今朝に計画した通りルシャに会いに行く。村長の家に行って訊ねてみると、ルシャは砂船に戻っているとのこと。

「砂船?」

「砂漠を旅するのに使うものだそうだよ」

 村長の妻がそう教えてくれたが、砂船なるものが何なのかは皆目見当がつかない。面白そうだ。砂船は地上に出てすぐ近くにあるのだという。

「あまり邪魔になるようなことをするんじゃないよ」

「わかってる、わかってる」

 そう言いながらモーティの関心は面白そうなものへと移っている。しかし全力で駆けだすほどの子供でもない。足取り軽やかに地上へ続く坂を上っていく。地上は日差しが容赦なく降り注ぐくせに砂ばかりで何もない場所であるから、普段モーティの足がそちらに向かうことはほとんどない。だから久々に外に出てみるというのも悪い考えではないように感じられた。

 突然明るくなった視界に目を瞑り、腕で影を作って目を慣らしていくと、村長の妻が教えてくれた通り、見慣れないものが視界の右の方に見えた。砂よりも濃い色で組み立てられたそれはモーティがこれまで見てきたものの何にも似ていない形をしていた。近くで見ればそれが遠目に見たとき以上に巨大なものであることがわかる。砂船は細長い平皿が少しだけ手前側に傾いでいるような形をしており、その平皿の面に対して垂直になるように太い棒が伸びて、先端はちょうど太陽と重なるところにあった。

 このようなものがルシャたちを乗せて外から村まで運んできたというのか。

 俄かには信じがたいことで、気付かないうちに呆けた顔になる。そうしているところに「どうしたの」と声を掛けられたものだから、モーティは体を跳ねさせて声の主の方に振り返る。ルシャであった。

「ああびっくりした」

「ごめんね、そこまで驚かれるとは思わなかった。とりあえず日陰に入りましょうよ」

 ルシャに促されてモーティは砂船の裏側に回ると、傾いて上がっている砂船の船体が地表に影を作っていた。日差しが強い分だけ影も色濃い。その影の中にルシャたちの荷物が一か所にまとめて置いてある。まばらに置かれた椅子や机も簡単なつくりをしたものだった。

「こんなところに一人でどうしたの」

 落ち着いたところで改めてルシャが訊ねる。

「いえ、特に用事があるわけではないんですけど、ルシャさんがここにいるって聞いて」

「会いにきてくれたの? 嬉しいわね。でもモーティちゃん、仕事は?」

「今日の分はもう終わりました」

「ずいぶん早いのね」

「へへ、私の取り柄です」

「早く終わったのなら他の子たちの手伝いをしてあげたらいいんじゃないの」

 ルシャとしては素朴な疑問として何の気もなしに出た言葉であったが、モーティはきょとんとしている。

「どうしてですか?」

「どうしてって、みんなでやって早く終わらせれば、早く終わった分みんなで遊ぶとか、色々できるじゃない」

「でも、他の人たちの仕事はその人たちのものであって、私のものじゃないですよ」

「それはそうなんでしょうけど」

 つまらない話題はさっさと切り替えるのがよい。

「ところで、これが砂船なんですね」

「え? ええ」

「こんな大きなものがどうやって移動するんですか」

「それはね」

 ルシャが立ち上がり、砂船の底を覗き込む。それからモーティを手招きして呼び、「あそこ」と船底の一点を指差した。暗がりの中に細く赤い筋のようなものが船体の中央にまっすぐ浮かんでいる。

「あれは何ですか」

「閃炎回路っていうの」

 初めて聞く単語だった。モーティのその反応を確かめてから、ルシャは言葉を続ける。

「詳しい理屈は割愛するけど、あれを作動させると船が浮くのよ」

「こんな大きなものが?」

「そう。こんな大きなものがね、浮くのよ。まあ、浮くといってもほとんど地面に近いくらいの高さなんだけどね。で、浮いたら、あとは風の力を利用して船を走らせるというわけ」

 ほらこっち、とルシャは砂船の反対側にモーティを呼び寄せる。

「砂船の甲板――要するに私たちが乗る場所ね――から突き出ている柱があるのが見えるよね。あれよ、あれ。そう、あれ。あの柱の先端と、甲板の間を渡すように大きな布を張る。そうすると風の力を受けて、船は進んでいくのよ。そして張る布の角度を操作すれば、方角も決められるの」

 口頭で説明されても今ひとつピンと来ないが、高い技術力が発揮されているらしいということはかろうじて理解することができた。

「正直よくわからないですけど、すごいですね」

「乗ってみたい?」

 問われてみてモーティは自分が砂船に乗る姿を想像してみる。どこか知らないところに連れていかれる想像をして、不安になってしまった。

「いいえ、遠慮しておきます」

「そっか。あ、そうだ。そういえば今朝は何か変わったことはなかった?」

 日陰に戻りがてらルシャが訊ねてきた。

「今朝ですか? 特に変わったことは何も」

「本当に?」

「ええ、なんですか突然」

「昨日、夢の話があったじゃない」

「ありましたね」

「今朝はどうだったのかなって思って」

 乾いた風が吹いて、彼方で砂埃が舞い上がった。

「どうもしないですよ」

「本当に? よく思い出してみて」

 ルシャの眉間に力が入っているように見えるのはなぜだろうか。しかし、理由はどうでもよかった。直感が告げる。戦え、と。

「えっと。どうしてルシャさんが私の見る夢のことを気にするんですか? まるで昨日のあの人みたい」

 言葉にしてみると、漠然と感じていた違和感の正体が明らかになる。しかし初めての感覚ではない。いつだったか思い出せないが、かつて同じように夢の内容を根掘り葉掘り問われたことがあった。その時はまだ幼かったから気持ちを言葉にできなかったが、今ならできる。これは、怒りだ。ああ、この人も自分の心の大事な領域に土足で踏み入ってくる人だったか。ならば戦わなければならない。大事なものを守るための戦いは正しい戦いだ。

「私がどんな夢を見ようが関係ないじゃないですか。ルシャさんがそれを知ってどうするんですか。あれですか、昨日のあの人に探ってこいって命令されているんですか。何様ですかあの人は」

 知らず知らずのうちに息が荒くなっていた。それに遅れてモーティはあの温かく優しい夢の価値を思い知らされる。モーティにとって、まだ幸せだった頃に還れる夢は何よりも大切なものだった。かつてはたくさんの人に、現実を見ろ、と説教されたものだが、現実に両親はいない一方で、眠れば両親に会える。どちらの方を心の拠り所とすべきかは明らかだった。魂の居場所を夢に求め続け、一方で誰にも文句を言わせないよう村の一員としての役割を完璧にこなしてみせた。

「ねえ、ルシャさん。私が、今、質問しているんですよ。昨日私だって答えたんですから、ルシャさんも答えるべきじゃないですか。どうして、あなたたちは、私の見る夢のことを気にするんですか」

 モーティが一歩迫ればルシャは半歩退く。逃がすものか。モーティはゆっくりと弧を描きながら歩き、ルシャを砂船の影の中に追い込んでいく。もちろん実際に掴み合いになったら体格差からしてモーティがルシャに勝てるはずはない。しかし、ルシャは優しい人だから、モーティに手を上げることはしないだろう。腹が煮え返るほどに頭が冷静になるのは不思議な感覚だった。

「何をしている」

 鋭い声が影を切り裂きモーティとルシャを隔てた。声がした方を向いてみれば、そこにはルシャの仲間だという大男が立っていた。モーティはその名が思い出せないが、どうでもいいことだった。

「ううん、何でもない。荷物を運んできてくれてありがとう」

 モーティが目を逸らした一瞬の隙を突き、ルシャはグラジの方へ寄っていく。逃すまいとモーティが伸ばした手は空を掻いた。姿勢を崩したところでモーティはグラジと目が合う。向こうは自分が何者か気付いたようだった。そして何か言いかけたところをルシャが遮って「重かったでしょう」と言い、それ以上グラジがモーティに構わないよう遮る壁となった。

 それから二人は荷物を整理し始め、口を挟む隙を見失ったモーティはその様子をその場に立って見つめていた。先ほどは衝動的にルシャを問い詰めたが、こうして時間を置いてみると、いくらか心は冷静になる。しかしまだ話が終わったわけではない。また頃合いを見て先ほどの話の続きをしなければならない。その機会を探っているうちに、ルシャたちの作業が落ち着いたらしい。モーティが声をかけるよりも早くルシャが提案する。

「ねえ、モーティちゃん。私たちは地下に戻るわ。一緒に行きましょう。話の続きはそこで、ね?」

 傍らに立つグラジは無表情のままモーティを見下ろしている。村の大人たちの誰よりも大きな体と、太い腕と、固い拳。そんなもので襲い掛かられたら、と想像すると、モーティはルシャの提案に従うほかにない。

「あなたたちは、私とヤナンに関わる秘密を知っているということですよね。私が知らないことを、あなたたちは知っている」

 ルシャが頷きで返す。それを見て、モーティは心が夜明け前の地上よりもつめたく冷えていく心地がした。自分に対して、目に見えない大きな力が働いている。今朝見た嫌な夢も、今朝のヤナンの様子も、それらは偶然ではなかった。何かしらの意図や理由があって為されたことだった。決して偶然ではなかった。

「お前は、何か勘違いをしているのではないか」

 グラジは先ほどの鋭い声とは異なり、淡々とした声色で言った。

「ルシャは決してお前の敵ではない」

「私に隠し事をして騙そうとしたのに?」

「他人に言えないことや、言うことの必要のないことなどいくらでもあるし、全てを語らないことと悪意があることは全く異なるものだ」

「そういうことは誠実に真実を打ち明けてから言うべきだと思いますよ」

「ルシャはそれを今からやろうとしている。俺が言う必要のないことかもしれんが、付き合ってやってくれ」

 モーティはふてくされたように、ふん、と鼻を鳴らした。



 9. 


 話の続きをする場所としてルシャが連れてきた先は村長の家だった。居間に入ると村長、アルフィルク、マユワ、ヤナンの四人がすでに待っていた。モーティとヤナンは目が合い、それぞれ互いがここに呼ばれた経緯を察した。

 広いテーブルを囲むように七人が座る。さすがにこれだけの人数が揃うと窮屈に感じられるが、そういうことを口に出してよい雰囲気ではなく、またモーティ自身もそうする気分ではない。モーティの隣に座るヤナンは元々影が薄かったのに今はひと際透明に近づいたようである。

 ヤナンとモーティの正面には村長が座り、その両隣にそれぞれアルフィルクとマユワ、グラジとルシャが続いている。結果としてモーティはルシャとも並んで座る形となった。

「さて、全員揃いましたな」

 村長がアルフィルクに目配せをすると、アルフィルクは微笑みを湛えたまま頷いた。

「ヤナン、モーティ。お前たちに伝えるべきことがあって、ここに来てもらった。今から話すことがお前たちにどう受け止められるかは正直に言えばわからないが、最後まで話を聞いてほしいと思っている」

 それができるかどうかは内容によるので、今の段階では首を縦にも横にも振ることはできない。ただ、村長が二人を真っ直ぐに見据えることに対して、目を背けるのは不誠実というものであろう。視線を逸らさず合わせることが今の二人にできる返事だった。

「さて、話をどこから始めたらよいものか。そうだな。結局、我々の祖先の話から始めるほかにないか。ヤナン、モーティ、お前たちは我々の祖先がどのようにしてこの地に流れ着いたか、知っているな」

 ヤナンとモーティは頷く。村の子供たちが訓話として大人たちから最初に教わる話だ。代表してヤナンが口を開く。

「遥か昔、ここではないどこかで大きな災厄があり、故郷を追われた我々は偉大な指導者に導かれてこの地に辿り着きました」

「そうだ。私も幼い頃にはそう教わってきたものだ。ここではないどこかとは具体的にどこで、大きな災厄とは何だったのか、そういうことの詳細は伝えられていない。ただし、その災厄は地表にあるほとんどの命を奪うほどのもので、幸運にも生き延びられた者はごく僅かだったことだろう、とのことだ。そのことも、二人は教わって覚えているな」

 二人が頷くのを確認し、村長は続ける。

「我々の祖先は実に幸運であった。いくつもの偶然が重なったからだ。その中でも特に大きなもののうち、第一の幸運は、地底湖の存在。逃げ込んだ先に豊富な水があったことは幸運と呼ぶほかにない。もし地底湖がなければとっくに我々は滅んでいたことだろう。故に我々は地底湖を貴重な資源として守りつつ活用させる暮らしを営むに至った。

 第二の幸運は、指導者の存在。彼の者は大変に優れた人々であり、そして大きな災厄の中で我々が生きる道へ導いてくれた人々である。災厄が起こりかつて暮らしていた故郷を脱するにあたり、指導者たちは優れた技術や様々な動植物を一緒に持ち出した。いつか辿り着いた先で皆が生き延びられるようにと、災厄の最中にもかかわらず手放さなかったのだ。そして彼らの導きに従い我々はこの地に辿り着き、そこで指導者は我々が生きていくための術を示し、今の暮らしの基盤を築き上げてくれた。光の届かない地底でも農作物と家畜を育む術を与えてくれたのだ。

 これら二つの幸運をはじめとして、いくつもの偶然が重なったおかげで、我々の祖先はこの地を新たな故郷とすることができた。しかしお前たちも知っている通り、偉大なる指導者はもうおらぬ。だが、死後、彼らの魂はこの地を守護する精霊となり、守護者として死後もなお空から我々を庇護してくださっている」

 村長は目を瞑り、深呼吸をする。ここまでは村の誰もが常識とすることで、語ることに躊躇いはない。

「このように我々は多大な恩恵をあずかっているわけだが、それらが無償で、何の代償もなしに得られるということがあるだろうか。いいや、あるわけがない。我々と指導者の関係は決して一方向のものではなかった。双方向のものである。指導者が我々に生きる術を与えてくれたように、我々もまた指導者の手足となって働くことで彼らの助けとなっていたのだ。そして彼らが守護者となって我々をこれ以上の災厄から護ってくれるのであれば、我々も相応のものを支払わなければならない。そうであるな?」

 その問いに対しては誰も何も答えない。この場において沈黙は肯定を意味する。

「故に我々は守護者に対して供物を捧げることとした。月のない夜に生まれた子の命だ。直近はたしか四年前になるか。誰かが負わなければならない犠牲だった。お前たちにとっては初耳のことであるだろうがな。仕方ないこととはいえ、どの親もそれなりに抗おうとするものだ。許しを請うつもりはないが、私も一人の人間だ、何も感じないということはないよ。

 しかし、四年前の件は今回の論点ではない。今ここで取り上げるべきは、そのさらに以前に月のない夜に生まれた子たちの件だ。今から十二年前のことだった。察しがつくだろう、そうだ、お前たちのことだよ。お前たちは月のない夜に生まれたのだ。十二年前に贄として捧げられるはずだった命だったのだ。しかしそれにもかかわらず。なぜ今もこうして生き永らえているのか」

 ヤナンとモーティは互いに顔を見合わせる。わかる? わからない。しかし、自分や互いがそもそも生まれてすぐに死ぬはずだったという話そのものに現実味がない。だから理由を問われても今ひとつ頭が働かない。

「前例がなかったのだよ。月のない夜に生まれた子の命を捧げるというのは古くから続く約束だ。我々が約束を破ることは許されない。しかし、お前たちのように双子、一度に二つの命が生まれたときにどうしたらいいのか。誰もわからなかった。供物とするのは一人でよいのか、二人ともなのか。もし一人でよいとしたとしても、どちらを選ぶのか。それに対して合理的で説得的な理由を挙げられる者は一人もいなかった。村の者の中には二人とも捧げてしまえば確実だと言う者もいたし、お前たちの父親は、それは断じて認められないと譲らなかった。しかしではどちらを差し出すのかと問われても、ついに答えを出すことができなかった。痺れを切らして力ずくで事に及ぼうとする者もおったな。今思い出しても、あの三日間は悲惨と言うほかになかったよ。そしてこうして議論に時間をかけている間にも、村から守護者の加護が失われつつあるのではないかという焦りが混乱に拍車をかけたものだ。

 だから、我々は守護者に願いを申し出ることにしたのだ。今しばらく時間が欲しいと。必ず結論を出すから、判断するための時間が欲しいと。誠心誠意、心を込めて空に向かい願い請うたのだ。果たしてその願いが正しく通じたのか。一週間、ひと月と経っても、何も変異が見られなかった。しかしだからといって安心することなどできない。結局のところ我々がしたのは結論を出すための時間稼ぎでしかなく、根本の問題は解決していないのだ。お前たちの処遇をどうするのか。一番悩み思い詰めたのはお前たちの両親だったよ。

 しかし時間の経過とは不思議なものでな。半年、一年と時間が経ち、我々は答えを出せずにいたが、お前たちはすくすくと育っていった。その間、一切異変は現れない。平和な日常が続いた。そうなると我々が次に何を考え始めたか。ここまで何も起こらないのであるならば、もしかしたら、お前たちを殺さなくてもよいのかもしれない――そんな甘く都合の良い考えが浮かんできたのだ。しかし、これを甘く都合の良い、と言えるのも今だからこそ。根拠のない妄想であっても、可愛らしく育つお前たちを見ていて、どうしてこの双子を手にかけようという気になるものか。結局、最後までお前たちを殺して守護者に捧げるべきだと声高に訴えていたのは、過去に月のない夜に子を産んでしまった者たちだった。

 小さな諍いは相変わらずあったものの、総じて言えば村は平穏を取り戻した。三年、四年と経てども村は変わらず砂嵐に守られていた。そしてお前たちが特殊な生まれ方をしたことすらも忘れられかけた頃、我々は我々自身が交わした約束の存在を思い出させられたのだ」

 話し疲れたようで、村長は卓上の茶を手に取り、喉を潤した。話はまだ続く。

「お前たちが六歳の誕生日を迎えてから少し経ったとき、お前たちの両親が亡くなった。突然のことだった。夜が明けたら夫婦ふたり揃って帰らぬ人となっていた。事故や病気ではなく、夜に眠ったらそのまま永遠に朝を迎えることがなかった。そういう死に方だった。両親が起きてこないと近所の大人たちに訴えたのは、たしか、モーティの方だったか。

 当時から数えて六年前、月のない夜に生まれた子の命を捧げなかったことと、お前たちの両親の死を結び付けて考えないというのは、我々にとっては難しいことだった。仮にこれら二つのことが実際には無関係であったとしても、無関係であると結論付けられる根拠もない。六年前に捧げられるはずだった命はお前たち両親二人のそれで代替されたということなのか。あるいは守護者の加護が完全に失われた結果生じた悲劇のひとつに過ぎないのか。わからなかった。わからないが故に、我々は怯えていた。そして、その最中にアルフィルク様が訪れたことについて、我々が何か意味があるのではないかと疑ったことも無理からぬことであった」

 モーティは崩れかけていた姿勢を起こし、アルフィルクの方を見た。目が合う。初めて会った時と同じ目をしていた。

「その後からだったな、お前たちが不思議な夢を見始めたのは。毎日欠かさず同じ夢を、それも双子でそれぞれ対照的な夢を見る。これはただの偶然ではありえないし、何かしらの因縁がある。ではどのような因縁か。お前たちが生まれたときから続く、もっと言えばこの村の成り立ちからずっと続いてきた因縁だ。他にどんな可能性が考えられようものか。

 お前たちが見る夢は罰か試練かはわからない。わからないが、我々は、少なくとも私は、安堵していた。

 何故私が安堵してしまったかわかるか?

 我々と守護者の縁が、まだ切れていないと、信じられる根拠になったからだよ。彼の者たちはまだ我々を見捨てずにいてくれた。私は恐ろしかったのだ。我々が不甲斐ないばかりに、古くから続く守護者との約束を破って、加護が失われ、村が滅ぶとしたら。何が起こる? 風が止まり、水が汚れ、食べ物も得られなくなる。加護を失った地に見切りをつけて外の世界に活路を見出そうにも、空には灼熱の太陽、四方は彼方まで砂が続き、どちらへ進めばいいかもわからず、我々はついにどこにも辿り着くことができない。所詮我々は指導者に付き従ってきただけなのだから、自らの力で道を作ることなどもとよりできないのだ。そうしているうちに、やがて村の者たちが一人また一人と倒れ、数少ない水や食料を巡って村人同士が醜く争うだろう。力のない者から死んでいき、私自身も村の誰かに虐げられたり、もっと恐ろしいことに自分が生き延びるために私自身が残酷なことをしたりしてしまうかもしれない。そんな未来があるかもしれないと思うと、お前たちが見る夢は守護者が我々に与えてくれた祝福であるように感じられてしまった。特にヤナン、お前が苦しんでいることを知りながらだ」

 すまなかった、と村長が深々と頭を下げた。少なくともモーティ自身は謝られるほど辛い目に遭った自覚はないので戸惑ってしまう。むしろ、と横目でヤナンの方を見る。ヤナンは背筋を伸ばしたまま、村長の方を見ていた。一人だけ光が射したように透明だった。ぞっとした。これはモーティの知らないヤナンだった。

「しかし今朝、ついにお前たちが見てきた夢が終わったと聞いた。我々が約束を違えてきた六年間と同じだけの時間をかけて、贖罪は果たされたのだ。そして、こういうときに私はお前たちに何と声を掛けたらよいのだろうな。お前たちは生まれた瞬間から不思議な運命に翻弄されてきたが、今こうして一区切りがついたので、私はお前たちを労いたいと思ったのだ。同時に、その年に不相応な苦労もさせてしまったことを申し訳なく思う。しかしこれからは、因縁から解き放たれて他の子供たちと同じく普通の子供として暮らしていけるだろうよ。

 まあ、今は多くのことを聞かされたせいで理解がついていないことだろう。ゆっくり状況を整理して、確認したいことがあれば何でも訊ねるといい」

 一通りのことを語り終えた村長は再び茶を飲んで落ち着いた。皆の視線がモーティとヤナンに向けられており、二人の反応を伺っている。こんな荒唐無稽な話を聞かされて、どうしろというのか。モーティは誰の目を見返したらいいかがわからず、視線を左右に動かした末に隣のヤナンに助けを求めた。ヤナンは変わらない表情で村長を見ている。

「それでは、よろしいでしょうか」

 ヤナンが申し出ると、村長は頷きで返した。

「率直に言ってまだ理解しきれていないところもあるのですが、仮に今の話が全て真実だったとして、なぜ僕たちはあのような夢を見させられていたのでしょうか。約束を破ったことに対する罰ということですか。僕が味わってきた苦痛とはそういう意味だったのでしょうか」

「ヤナンがそこに疑問を持つのは当然であるな。これは私よりも御使い様にお答えいただくのがよいか」

 そう言って村長はマユワの方を見た。マユワは小さくため息をついてからヤナンとモーティの方を見る。

「はじめに、今から私が言うことは、あなたたちが守護者と呼んでいる、この地を守るひとの言葉と思ってもらって構わない。信じるか信じないかはあなたたちに任せるけれど」

「ちょっと待ってください」

 モーティが反射的に声を上げた。

「どうしてヤナンの質問にこの人が答えるんですか。それに御使い様ってなんですか」

「モーティ、お前が驚くのも無理はないな。実はな、この方々は守護者が我々に遣わした使者の方々なのだ。私も知ったのは昨日のことだ。この方々は身分を伏せて村の様子を見に来ていらしていたが、理由があって今はこのように素性を明かしていらっしゃる」

「突然そんなことを言われたって信用できません」

 モーティがマユワを睨みつけるが、マユワはそれに動じない。

「信じられないのは確かにそう。だから、信じるか信じないかはあなたたちに任せると言っている。ただし、今村長さんが話したことに少しでも身に覚えがあるなら、たぶん、私の言うことも全てが嘘と言い切ることもできないはずだよ」

 座って。マユワは目でモーティを制した。とりあえず話を聞いてみなければ嘘と糾弾することもできないので、モーティは沈黙する。それを確認し、マユワは話を再開した。

「どうして二人が六年も悪夢を見させられたのか。それは、とある実験のため。

 そもそもの始まりだった、月のない夜に生まれた子の話。契約の内容に欠陥があったのは、さっきの話の通り。あなたたちが生まれた十二年前、村が結論を先延ばしにしたのを、守護者はちゃんと聞き届けていた。だけどいつまで経っても結論が出ないから、守護者の方からあなたたちの両親に、あの件はどうなったのかって訊ねに行ったの。それで話し合った末に、ひとまず契約の履行を延滞した分をあなたたちの両親の命で贖うこととした。それが六年前のこと。

 そのうえで、焦点となったのが、双子の魂の数え方。肉体が分かれている以上、双子の命は二つなんだけど、魂はそうとは限らない。それぞれの肉体に宿った以上は別々の魂であるという捉え方もあれば、元が一つなのだから肉体は分かれていても一つであることに変わりはないという捉え方もある。そして、六年前の時点において、あなたたちは魂が溶け合って一つの塊に見えるくらいに、関係が深かった。守護者が人を見るときは、肉体ではなく魂で見るから、彼からしてみるとあなたたちは一つなのか二つなのかわからなかったの」

 モーティは唖然としてしまった。自分とヤナンは双子であるが、どう見ても別人だ。双子であるから似ているところももちろんあるが、それと同じかそれ以上に違うところも多い。言葉を失うモーティをよそにマユワの話は続く。

「だから、彼は一つの実験を施すことを提案した。双子にそれぞれ異なる経験をさせることで、魂の変容に差が見られるかどうか。その手段として、二人にはそれぞれ対照的な夢を見せることにした。本当はその結果を以ていよいよ大元の契約の履行の話になるんだけど、今回は契約の内容に不備があったことも確かなので、結果の如何に関わらず実験をしてみて、一定の知見を得て今後の反省材料にすることで手打ちにしようってなったの。あなたたちの両親は、とても頑張って交渉して、その提案を引き出した。あなたたちの命を助けるために必死だった。すごく、とっても。

 だから最初の質問に戻るけれど。あなたたちが夢を見させられた経緯は今言った通りで、味わってきた苦痛の意味は何かと言われたら、実験のためそれ以上でも以下でもない。理不尽だよね。じゃああなたたち自身にとっての意味は何かと言われたら、それは私には答えられない。そういう意味は与えられるものではなく、自分で見出すものだから。すっきりした答えじゃなくてごめんね」

「いえ、ありがとうございました」

 そう答えたヤナンの表情は晴れ晴れとしているように見えて、モーティは嫌な気持ちになる。こんな徹頭徹尾馬鹿げた話のどこに理解や納得する余地があるものか。そもそも話の全てが嘘くさいというのに。こういう悪い流れは自分が断ち切るべきだ。モーティは勇んで手を挙げ発言する。

「じゃあ、私からも。あなたたちは本当は何者なんですか。守護者の御使い様? 嘘ですよね。守護者の御使い様がわざわざ砂船とやらに乗って外から来るんですか。どうして最初に大きな街の司祭だなんて嘘をついたんですか。最初から堂々と守護者の使いであるって名乗ればよかったでしょう。嘘をついた人の言葉を信じろなんて、無茶苦茶ですよ。なんで村長さんがこの人たちの言うことを信じてるのか、わかりません」

「それには私から答えようか」

 小さく手を挙げて答えたのはアルフィルクである。

「まず嘘をついていたことは詫びよう。しかし、必要なことだったのだよ。知っての通りこの村の人々にとって守護者の存在は大きなもので、迂闊に名を出せば村人たちは信仰を汚されたと言って我々に暴力を働いてしまうことがあったかもしれない。それが我々の関係にとって良いものではないことはわかるだろう。我々の目的はモーティとヤナンがどう育ったかを確かめることであって、村人たちの注目を集めることではない。そして困ったことに、我々がそのような者たちであるという確たる証拠があるわけでもないからね。混乱を避けるための方便として聖職者を騙った。そのうえで、君たちを説得するにはどうしたらいいか。どうしたらいいだろうね。君たちしか知り得ないこと、もっと言えば君たちでさえ知り得ないことで説得するしかないだろう」

 アルフィルクは咳ばらいをして一呼吸を置いた。ゆっくりと目を開き、微笑みをたたえたままモーティの目を見て、その奥にある怯えを見抜く。

「先ほどはルシャが君にとても不躾な質問をしたそうだね。だけど大事な問いだから、今一度ここで繰り返させてもらおう。いや、回りくどいことはやめて単刀直入に言った方がいいか。モーティ。今朝、君は六年続いた長い夢が終わったと気付かされるような何かを経験したね」

「何のことですか。私は知りません」

「本当にそうかな。よく思い出してみなさい。モーティが見ていた夢とは、幸せな家族の夢だったと聞いている。まだご両親が存命で、ヤナンも含めて四人で幸せに暮らす夢。そんな夢だから、おそらくいつも幸せな眠りにつくところで終わっていたのだろう。だけど、今朝はどうだったか」

 問われてモーティの脳裏には今朝の嫌な夢のことが思い出される。父の肩車に乗って家から遠く離れたところまで連れていかれて、それから置き去りにされる夢。そんな酷い夢を見たことなど今まで一度もなかった。しかし、それが六年続いた夢の終わりの証明であるなど認めてよいはずがない。

「答えなさい、モーティ」

 村長に促されてそちらに目を向けると、村長も未だかつて見たこともないような憔悴した表情をしていた。ヤナンは。助けを求めて隣と見ると、ヤナンは悲しげに微笑んでいた。どうしてそんな顔をしているの?

「沈黙は肯定と見做すが、よろしいかな」

 皆の視線がモーティに向くなか、モーティは絞り出すように返事をした。

「確かに、今朝は変わった夢を見ました、ええ見ましたよ。だけど、だけど。それがどうしてあの幸せな夢の終わりだっていうんですか。今朝がたまたまそうだっただけかもしれないじゃないですか。そんな一回限りのことで得意気になっちゃって、ほんと、馬鹿みたいですね」

「はは、これは手厳しい。でもそうだね、まだ今朝の一回だけだからね。だけど、これが一回限りのことかどうかは、明日以降に嫌でもわかるだろう」

「脅しですか」

「いいや、事実の話だ。守護者の実験はもう終わったのだよ。それとも、こう言った方が伝わるかな。モーティ、もう君があの幸せだった頃の家族の夢を見ることはない。終わったのだよ」

 大きな音を立てて椅子が倒れた。その音を立てたのが自分自身であるとモーティが気付いたのは、皆の視線が自分に突き刺さったからだった。こうなってしまったからにはもう後には退けない。

「馬鹿らしくて付き合っていられません。私の大事なものをおもちゃみたいに好き勝手に弄んで、くだらない嘘で歪めて。すごく不愉快。ヤナン、行こう」

「ううん、僕はもう少しここにいるよ」

 モーティが差し出した手をヤナンは首を横に振って拒否した。

「そう、じゃあ好きにしたらいいよ」

 そう言ってモーティは狭い隙間に体をねじ込んで部屋の外へ出て行ってしまった。昨日はマユワがそうして出て行ったのに、今日はモーティが出ていく側になったのは皮肉めいていた。ヤナンは体をひねってモーティの影を追っていた。

「追いかけないのか」

 アルフィルクが訊ねるとヤナンは首を横に振った。

「いえ。今のモーティには落ち着く時間が必要なのだろうと思います。僕と違ってモーティは失ったものが大きいだろうから」

「そうか。本当に大変なのはこれからだろうからね」

「はい。それで、もう一つ質問があるんですけど、いいでしょうか」

 アルフィルクが頷き、皆の意識はヤナンの方に戻された。

「今朝で実験というものが終わったのなら、結果はわかったのでしょうか。その、僕とモーティの魂がどうとかっていう」

 アルフィルクは目線をマユワに向け、マユワが横目でそれを確認した。

「それはあのひとが判断することだから、私からはあまり踏み込んだことは言えない。だけど、強いて言うなら、まだわからない、という答え方になるかな」

「実験は終わったのに?」

「そう。二つに分かれたとしても、また一つにくっつくこともあるかもしれないから」

「えっとそれは……どういうことなのでしょうか」

「あなたたち次第だということ……これ以上は私が踏み入っていい領域じゃないの。ごめんね」

 ヤナンは、具体的なことは何もわからなかったはずなのに、マユワの言わんとするところは感覚的に理解できる気がしていた。

 これ以上は何も言うまいと口を閉ざしたはずのマユワであったが、堪え切れないといった様子で口を開いた。

「これは私の個人的な考えだけどね。魂が一つか二つかなんて、本来はどうでもいいことなの。どうでもいいんだけど、どっちかで白黒を付けないと、今回みたいな面倒くさいことになっちゃうから、あなたたちは悪夢を見させられた。だけど、本当に大事なことは実験の結果とか魂がどうこうとかなんてことじゃないと、私は思う。私がどうでもいいとか言っちゃいけないのかもしれないけど。

 あのね。ここにはヤナンという人と、モーティという人がいる。確かな事実はそれだけで、それ以上のことなんか何もない。そういう人たちがこれまでそれぞれの人生を生きてきて、これからも生きていく。これからどうしていくのか、どうなりたいのか。あなたたちが選べるのはそれだけ。あなたたちは不思議で理不尽な縁で呪われも祝福されもしてきたけど、そのことと未来をどうするかというのは、本来は別の話なんだよ、きっと。あなたはあなたの大事にすべきものを大事にしたらいいんだと思う」

 そう言うとマユワは眠るように目を閉じた。その様子は他に言いたいことを堪えているように見える。ヤナンには返すべき言葉がわからないが、マユワの方にも複雑な事情があるらしいということだけは察した。

「他にもうなければ、この場はこれでおしまいにしましょう」

 村長の言葉を区切りとして、それぞれが席を立った。



 10. 


 ヤナンが家に戻ると静かであった。モーティはどこに行ったのか。念のためモーティの部屋を覗いてみる。盛り上がった布団はモーティがそこにいる証拠だった。そっと様子を伺ってみる。

「モーティ、起きてる?」

 モーティはヤナンの声に反応してぴくりと震えはしたものの、返事はない。それ以上かけるべき声が見当たらなかったので、ヤナンはモーティを残して部屋を出た。

 ヤナンは未だに夢の中に取り残された心地でいる。長らく悪夢の中で味わい続けてきた苦痛こそがヤナンにとっての現実であった。それが消失した今は苦しいという感覚はない。それ自体はヤナン自身が望んだことであったが、同時に足元がふわふわとして地に足をついている心地がしない。別の新しい夢にさまよいこんだような気さえする。しかしそれも時間の問題なのだろう。次第に今のこの感覚が新しい日常として上書きされていくのだろう。

 しかしそうは言っても、今晩もまたあの悪夢が戻ってくることもあるのかもしれない、という懸念は頭の片隅にある。悪夢が本当に終わったかどうかは、これから日を重ねていく中でしか証明できないものだからだ。しかしもし再び悪夢を見るとしても、今朝に見たあの幸福と救済の記憶があれば、ヤナンは挫けずにいられるだろう。ヤナンにとってモーティは決して損なわれることのない永久不滅の価値の象徴である。どんなに自分の手足が血と汚泥にまみれて、死んだ方がましだと思うほどに心を切り刻まれたとしても、真に美しく貴いものが失われることはない。そう信じられるほどに、あの死肉の道の果てに見た光の繭は眩く温かかったのだ。

 結局のところ、今この場でヤナンがするべきことは何か。伯母が帰ってくるまでにはまだ時間がありそうだ。家の掃除や片付けなど、細かいことはいくらでもあるのだから、まずはそういったものから手をつけるのがよいのだろう。ヤナンは新しい日常に慣れていかなければいけない。ただし焦る必要はなく、少しずつ着実に馴染んでいけばよいのだ。

 仕事から帰ってきた伯母は、家が綺麗になっていたことよりも、ヤナンの雰囲気が変わっていることに驚いた。おかえりなさい、とヤナンは言ったが、伯母はそれに応えず、代わりに涙を浮かべながらヤナンを抱き締めた。村長から事の次第を聞いていたものの、俄かには信じがたく、半信半疑だったのだ。しかし今のヤナンにはこれまでずっと彼を覆っていた暗い影はなく、ろうそくのように小さいながらもほっとする明かりが身の内側に灯っているようだった。

 このようにヤナンが安らかな時間を得たからといって、ヤナンや伯母の現実が今すぐ大きく変わるということがあるわけでもない。いつもと同じように夕食を食べて片付けをして、今日一日のことを報告しあって、夜が深まったら眠りにつくだけである。モーティはついに起きてこなかった。

「おやすみ、ゆっくり眠ってね」

「うん、伯母さんもね」

 手を振って居間を出て、自室に戻る途中でヤナンはもう一度モーティの部屋を覗いてみる。布団の塊はじっとしたまま動かない。

「モーティ」

 声を掛けてみたものの、それに続く適切な言葉が浮かばず、ついにヤナンは扉を閉めて自室に戻った。

 ベッドで横になると睡魔はすぐに訪れた。心は決して穏やかではない。やはりまた悪夢を見るかもしれないという不安もあるが、モーティのことが気になるからだ。結局どうなっても悩みが残るのだから、人生とは難しいものだと思う。そうだよねえ、といつの間にか隣にいたモーティがため息をついていて、それが夢の訪れであると気付かないほどに今晩のヤナンの眠りは早く深かった。


 暗黒の空白を経て気付いたときには朝だった。頭も体もすっきりしていて、綿毛のように軽い。ヤナンは体を起こし、今朝は悪夢を見なかったことを確かめた。

「本当に、終わったんだ」

 言葉に出してみてじわじわと事実が事実として噛み締められるようになる。ほっとした。胸の内には光の繭がある。

 自室を出て、モーティの部屋を覗く。結局モーティは昨夕からずっとベッドに入ったままだったのだろう。気持ちがわかる、とは安易に言うべきことではないが、ずっとそのままでいても良いものではないので、ヤナンは改めてモーティに声をかける。

「大丈夫?」

 反応はない。しかしよく耳を澄ませてみると、しゃくりあげる音が聞こえる。ヤナンがモーティの傍に寄ると、モーティは布団をさらに被って顔を隠してしまう。

「今朝はいつもの夢を見なかったよ」

「……そう、よかったね」

「うん。ねえ、手を出せる?」

 しばらく間を置いてから、布団の端からモーティの手が出てきた。ヤナンはその手を握り、自分の存在を訴える。モーティがヤナンにとっての救いであるように、ヤナンもまたモーティにとっての救いになれればいいとヤナンは思っている。ヤナンとモーティは世界で二人きりの双子で、両親亡き今では直接の肉親はお互い以外には存在しない。いつまでも伯母の世話になるわけにもいかないのだから、ゆくゆくそう遠くない将来には互いに互いを助け合って生きていかなければならないのである。モーティは立ち直らなければならないし、ヤナンにそのための助力を惜しむつもりは全くない。

「ねえ、ヤナン」

 布団の中からくぐもった声が聞こえてくる。

「ヤナンはさ、これでよかったって思ってる?」

 鼻を啜る音が合間に聞こえてくる。モーティがヤナンの手を痛いほどに強く握りしめる。

「僕個人のことだけを言うなら、よかったって思ってる。モーティのことを考えると複雑な気持ちはするけど、夢だもの、いつか醒めるよ」

「私もそう。昨日は寝ても、目を瞑っても、ついにお父さんとお母さんに会えなかった。だけどヤナンのことを考えたらこれでよかったのかもしれないって、頭ではわかる。ヤナンは苦しかったんだもんね。だけどね、ずっとずっと、ずっと、考えちゃうの。どうしてこうなったんだろうって。お父さんとお母さんに会いたい。会いたいよ。もう会えないの? 嫌だよ、そんなの。会いたいのに会えないなんて辛い、苦しい。どうしてこうなっちゃったんだろうって。なんでお父さんとお母さんはいなくなっちゃったの? 誰が私たちからお父さんとお母さんを奪ったの? これって仕方ないことなの? 誰のせいなの? 村長さん? 村のみんな? ねえ運命って何? もしも私たちが双子じゃなかったら、こんな思いをしなくて済んだってことなの? そもそもこんな馬鹿みたいなことを仕組んだのって誰? そういうことを考えていくとね、どんどん頭と体が熱くなって、ぼうっとしてきて、でもおなかは冷たくなるの」

 モーティが大きく呼吸をするせいで、布団それ自体が息づいているように見える。巨大な心臓が鼓動しているようである。

「ねえ、ヤナンもずっとこんな気持ちだったの?」

 その独り言のような質問は唐突に地底湖のように冷たく澄んでいた。

「……モーティと同じかどうかはわからないけど、僕も、なんでどうして、って思っていたよ。なんで、どうして、こんな辛くて苦しくて嫌な夢を見させられるんだろう。なんで自分ばっかり。なんで、なんで。苦しい、辛い、誰か助けて。だけど誰も助けにならない。いっそ死んでしまった方がましだと思ったこともあったかな」

「そうだったんだ……どうして思い留まったの?」

「なんでだろうね。死んでも生きてても辛くて苦しいなら同じことだなって、いつかどこかで思ったことは覚えてる」

「でも死んじゃえばお父さんとお母さんに会えるかもって思わなかった?」

「ううん、そういう発想はなかったな」

 ヤナンの脳裏には悪夢の中で父母の顔を踏んできたときのことが浮かんでいた。ヤナンが体勢を崩して足に力が入ると、その力で皮膚がはがれ、腐った頬肉が潰れ、血などの汁がじゅくじゅくと溢れてしまうことがあった。悲鳴をあげて足をどけてみれば、そこにはもはや面影のないただの足跡があるのみである。

「実を言うとね、僕はもうお父さんとお母さんのことをよく思い出せないんだ。顔も、声も、何をしてくれたのか、最後にした会話が何だったのか」

 ヤナンにとっての両親とは、もはや原型を失ってしまった死体になった後の姿の印象の方が強いのだ。それはとても寂しいことだと唐突に強く思った。ヤナンの握った手を通してモーティが息をのんだことがわかった。

「可哀想」

「だからね、モーティがお父さんとお母さんのことを覚えていてくれるというのは良いことなんだと思う。僕の中にはなくても、モーティの中にはある。それで十分だよ。

 ねえモーティ。うまく言えないけどさ、その……一緒に乗り越えていこう?」

 ヤナンは祈るようにモーティの手を握る手に力を込めた。しかしそれに対するモーティの反応はぞっとするほど冷たいものだった。

「ヤナンは壊れちゃったんだね」

 それと同時にモーティはヤナンの握る手から自身の手を引き、布団の中に戻してしまった。

「モーティ?」

「ごめん、一人にして」

「僕、何か変なこと言った?」

「ううん、ヤナンは悪くない。ただ、ごめんね。今、自分でも訳がわからないくらい、気持ちがぐちゃぐちゃなの」

 巨大な心臓のように息づく布団はさながら闇色の繭のようであった。ここから何が誕生するのか、ヤナンは想像することができない。



 11.


 昨日頼んだ通り、ヤナンは今朝の自分たちの様子をアルフィルクに伝えてくれた。アルフィルクはヤナンに礼を返し、駄賃代わりに砂糖菓子の入った小袋を渡した。

「街ではこういうものが流行っているらしいよ。落ち着いたらモーティにも分けてあげるといい」

「だけど僕はこれから仕事なので」

「そうか。では仕事が終わった後に分けておやり。今日も頑張っておいで」

「はい」

 去り際にヤナンは振り返ってアルフィルクたちの方に小さく頭を下げた。

「彼はすっかり毒気が抜けたように見える」

「そうですね」

 隣で返事をしたのは村長であった。

 中に戻り昨日皆で話をしたのと同じ場所で、アルフィルクたち一行と村長がテーブルを囲んでいる。

「もうお互い隠し事はなしにしようか。お互い敵意や悪意がないことはわかっただろ。遠回しに腹の探り合いをやっていても面倒くさいだけだ」

 そう切り出したのはアルフィルクで、隣からルシャが確認を入れる。

「ねえ、どこまで話してあるの?」

「全部。葬儀屋のこと、マユのこと、全部だ」

「ああ、そうなんだ」

「村の者たちに知らせるには衝撃的すぎる話が多かったですな」

 村長が苦笑するのを見て、ルシャは同情した。

「全てをそのまま信用するわけではありませんが、合点の行くことも多くありました。そもそも、あなた方が砂嵐に阻まれることなく二度もこの地を訪れられた時点で、普通のことではなかったのですから、守護者と何らかの縁のある方々なのだろうと考えておりましたが、いやはや」

「でも村長、あんたも元々疑っていたんだろう。自分たちの常識がどこまで正しい常識なのか」

「ええ。なぜ指導者たちは子孫を残すことなく絶えたのか、守護者とは一体何なのか。たまに外から行商人がやってくると、とても驚かされますよ。彼が来ること自体もそうですし、彼が語ることもそうです。たとえば、外の世界では農作物を育てることがかくも難しく、争いが絶えないものなのかと。我々も苦労していないとは言いませんが、水の心配をしなくてよいというのはとても恵まれたことであると実感させられるものです。そう考えていくと、我々が常識と思っていることは決してそうではないのかもしれない。ではそのような『非常識』がなぜ常識となったのか。生涯解き明かされない謎かと諦めておりました」

「グラジ、何か言いたそうだな」

 アルフィルクは目線を上げてグラジの方に向ける。

「村長、あなたと同じように、自分たちについて疑問に思う者は他にいないのだろうか。もしいないのだとしたら、なぜあなただけが疑問に思うのだろうか。何かそう思うに至れるだけの根拠があるのではないだろうか」

「もともと好奇心が強い性格だった。これでは理由になりませんかな」

「それだけの理由ならば、疑問に思うことを確かめてみればよいこと。たとえば村の若者を行商人に帯同させて、村の外に関する情報を集めさせるとか。考えなかったわけではないだろう」

 村長は微笑みを浮かべたままグラジの次の言葉を待っていた。

「しかしあなたはそういうことをしなかった。できなかったのではないか。守護者の目を恐れた結果、迂闊なことができなかったのではないか。しかし同時に、今さっきあなた自身が述べた通り、あなたは守護者というものを疑っている。ただの可能性では済まないような、明確な疑いの根拠を知っている。それは他の村人には明かせないような類のものなのではないか」

「なるほど、なるほど。その根拠とはたとえばどのようなものでしょうか」

「それはわからない」

「ではただの想像の域を出ない話ということになりますな」

 むう、と呟いてグラジは黙ってしまう。それを見たアルフィルクはため息をついた。

「グラジ、お前は本当に下手だな。自分の好奇心を満たすことだけを考えてどうする」

「すまない」

「いいか、こういうときはな、こうするんだよ」

 アルフィルクは村長の方に向き直り、切り出した。

「あんたがどんな秘密を抱えているのか知らんが、今、この村が結構危ない状況なのは自覚あるよな?」

「はい。通気孔を見ていただいたのなら、我々の置かれた状況は察していただけたことでしょう」

「確かにな。ただし、それは村が置かれた結果的な状況の話だ。そうなるに至った過程はまだ明らかにされていない。何故あんたらの偉大なる指導者様は、機械の保守の仕方を伝えてくれなかったんだろうな。あるいは、何故そういうやり方を伝えることなく、自らの子孫を残すこともなく、一人残らずいなくなってしまったんだろうな」

「さて、何故でしょうね」

「大方、あんたらの祖先――指導者に対する奴隷だな、要するに――が指導者を殺したとかそんなところなんだろうが、実際のことは俺達にはわからない。しかし今の論点はそこじゃない。何故、指導者が死んだ後に守護者として村を庇護しているという言い伝えが生まれたか。言い換えれば、何故指導者と守護者を同一の存在として位置付けられるようになったか、だ。指導者とやらに不当に虐げられてきたというのであれば、支配から自立と自由を勝ち取った歴史としてそのまま語ればよかっただけだろうに。しかしそれは何らかの理由で、誰かにとっては、都合の悪いことだった。その誰かからしたら、指導者には引き続き権威の象徴でいてくれた方が都合が良かったってわけだ」

 それを受けて村長は何かを言いかけるが、それに先んじてアルフィルクが畳みかける。

「俺たちは、守護者と指導者が確実に別の存在であることを知っている。あんたらが信奉する守護者とは大昔からこの地にいるものであり、偉大なる指導者様やあんたらの祖先がこの地に辿り着く前から存在していることを知っている。故に守護者と指導者が同一の存在であることはありえない。そして、守護者と村の間には確かに庇護に関する契約が存在することも知っている。これらの事実を踏まえれば、昨日あんたが語った村の歴史は歪められたものであると断言できる」

 村長が言いかけた言葉を飲み込んだので、場には短いながらも長く感じられる沈黙が流れた。

「さて、俺たちは俺たちの知っていることをあんたに打ち明けた。今度はあんたの番だな。あんたが村人たちに隠している秘密を教えてもらいたい。なあ、あんたはこの村をどうにかしたいんだろう。その方法を模索するのなら、あらゆる可能性を検討する必要がある。だから隠し事はなしにした方がいい」

「まったく、強引な方ですな。村の将来の話をされたら私の立場で断れるわけがないでしょうに」

「助けてほしかったからあの通気孔を見せてくれたもんだと捉えていたんだが、違ったか?」

 これに対して村長は含み笑いをしただけで、返事はなかった。代わりにこう言って立ち上がった。

「お見せするものがあります」


 村長に案内されたのは家の裏にある水場であった。地底湖を起点とする水路から水が引かれて、甕に溜められている。その甕の足元には人の拳ほどの大きさの穴が空いており、甕から溢れた水はその穴に落ちていっていた。

「生活をしていて出てくる排水は、このように空けられた穴に流し込んで捨てています。穴は村中の様々な場所にあります」

「そういえばモーティちゃんが言っていたわね。穴の先は広い空間になっているって」

「私の家は今でこそ代々村で長を務めておりますが、元はこの穴――廃棄孔と呼んでおります――の管理が家業でした。まあ、管理と言っても、普段は村人たちに各自で掃除などはさせておりますので、大したことはしておりませんが」

 アルフィルクたちはそれぞれ穴を覗き込んでみて、底が見えないことを確認した。

「実際、この穴はどれくらい深いんだ?」

「正確なところはわかりませんが、少なくともこの穴に落とし物をしたら諦めざるを得ないくらいには深いものですよ」

「これは自然にできたものではないな」

「はい、通気孔や農場、牧場と同じくかつて指導者のもとで我々の祖先が作ったものと言われております」

 他に質問が出ないことを確かめて、村長は「次はこちらへ」と言って、アルフィルクたちを家の中に戻していった。

 家の奥にある廊下の突き当りを曲がると、辺りはさらに暗くなった。明かりをつけなければ足元も見えないほどであるにもかかわらず暗いままにしておくのは、目立たせずに隠しておきたいものがあるからだ。村長がようやくランプに明かりを灯すと、近くに古びた引き戸がある。がたがたと音を鳴らして開く。冷たく湿った空気がアルフィルクたちの足元を吹き抜けていった。

「ここから先は足元が悪くなりますので、どうぞお気を付けて」

 村長を先頭に狭い洞窟を進んでいく。道は下り坂となっており、ところどころにある段差が事実上の階段の役割を果たしていた。村長にとっては慣れた道のようで、時々アルフィルクたちを振り返りながら先へ先へと進んでいく。通路には終始、ごうごう、と巨大な獣が唸るような音が満ちており、それは進むにつれて少しずつ大きくなっていく。アルフィルクはマユワを、グラジはルシャをそれぞれ気遣いながら、村長の背中を追っていく。

「この道は、廃棄孔の点検と管理に使うためのものです。疑問に思うことは色々あるでしょうが、とりあえずこの先にあるものを見ていただきたい」

 もっともアルフィルクたちも村長に遅れないようにすることで精いっぱいだった。最後尾をグラジとすることで、あらゆる可能性に備えている。

 そうして進んでいる間にも洞窟に満ちる音はどんどん大きくなり、やがて人の声が出たそばからかき消されるほどまでになった。村長が手にするランプの明かりだけが頼りとなる。道の途中にはいくつか分岐があったが、村長は慣れた様子で正しい方を選んだ。

 やがて一行は村長が見せようとしたものに出会う。皆が、マユワでさえもが驚いていた。

 それは、激しい水の流れだった。暗闇の彼方から大量の水が飛沫を飛ばしながら押し寄せ、うねり、岩壁に当たって砕け、荒々しく流れていく。そして奔流はアルフィルクたちの立つ場所の足元近くを通って下流の方へ流れていく。先ほどから洞窟全体を覆っていた音の正体は、この水流だったのだ。地底湖ですら砂漠にある最大級のオアシスに匹敵する大きさであったのに、ここにある水流はそれを大きく上回るものだった。これだけの大量の水が人知れず地下で無造作に流れている光景はアルフィルクたちの想像にはないものだった。廃棄孔はいずれもこの地下水流に通じていたのである。

 アルフィルクたちが十分に事実を受け止めたことを確かめたうえで、村長はランプを掲げて戻ることを示した。

 往路と同じ道を辿って村長の家まで戻ったものの、皆の耳には、ごうごうという水流の音が残っていた。

「あの地下水流のことは、妻も息子も知りません。代々、我が家の家長にのみ伝えられてきたものです。だから、このことをあなた方に教えたというのは、私にとっては大きな決心が要ることだったのですよ」

「そうだろうな。あんなもんがあると知っていれば、そりゃ守護者の存在なんか無邪気に信じられるはずもない」

 アルフィルクは背もたれに身を預け、天井を見上げた。それから大きく深呼吸をして、村長の方を見た。

「確認させてほしい。まず、廃棄孔は全てあの地下水流に通じている」

 村長は頷いた。

「だよな。どんなごみもあの大量の水が押し流してくれるというのであれば、たしかに管理は一人でも間に合うのだろう。じゃあ次、こっちが本命だ――この村ではありとあらゆる廃棄物をあそこに流している。そうだな」

 同じく村長は頷いた。

「まあ、理に適った話ではある。なあ、あの水流の行方はわかっているのか?」

「いいえ。だからこそ、あの水流に飲まれるということは、死ぬことよりも恐ろしいことなのです」

「だよなあ、行方なんてわかるわけがないよな。流されたら文字通り何も残らないんだろう。そりゃ、死んだ指導者が守護者となってこの地を守ってくれている、なんて言われても信じられるわけがない。そしてこんな事実は村人には教えられないし、ましてや部外者になんかもっと教えられない」

「これでもうあなた方は本件に無関係ではなくなりましたな。せいぜい村の未来のために働いてもらいますよ」

 皮肉めいた口調で村長は言い、アルフィルクはため息をついた。

「昨日も言った通り、村の未来のためになることに協力するのは構わないさ――さて、じゃあ本格的な話に入るか。

 お先真っ暗なこの村が生き延びるにあたり、誰と手を組むかというのは重要な判断なわけだが、少なくとも教会、ありゃダメだ。あいつらは権力こそあるが異端は絶対に許さない。教義を盾に、守護者なんてものを信奉するあんたらは即刻異教徒認定されて、村中の全てを奪われちまう。それよりも商人と組んだ方がよっぽど未来がある。なあルシャ、グラジ、地図ってあるか?」

「えっ。ああ、ちょっと待って、どうだったかな」

 あったあった、と言いながらルシャが手荷物から取り出した地図をテーブルの中央に広げる。これは砂漠全土を表したもので、主要な街や交易路が記されている。村長は身を乗り出し、興味深げに見ている。

「我々の村はどのあたりにあるのでしょうか」

「この辺りだな」

 そう言ってアルフィルクが指差したのは、中央北部の地図の端に近いところだった。そこは街も交易路も記されていない空白地帯である。

「近くには何もないのですね」

「ああ。長年砂嵐に守られていたせいであり、守られていたおかげでもあるだろうな」

「なるほど」

「で、だ。砂漠で暮らす連中っていうのは最低限の自給自足はできているが、それ以上のことまではなかなか難しい。だから、交易を通じてその地にないものを獲得したり、地域間の交流をしたりしている。さらに、地図の外にはなるが、砂漠の外には東西それぞれの方向に大国があって、この砂漠地域それ自体が二国間の交易路にもなっている。だから、砂漠の中央を走っているこの交易路――中央交易路と呼ばれているが、これは極めて重要なものだ。この交易路を中心に街ができて栄えてきたし、相応に小競り合いも起こってきた」

 そう言いながら、アルフィルクは地図の西から東へ中心を通るように指でなぞって走らせた。

「さて、そんなものがあると、必然的に一定の権力構造が生まれる。まあ、平たく言えば、この交易路を支配する奴が一番偉いっていう構造だな。今は教会連中が牛耳っている。こうして序列がはっきりすることで表面的には争いが生まれなくなるが、その状況を面白く思わない奴というのは一定数存在するもんだ。で、そういう奴らは自分の利益のために構造の転覆を図る。最も極端な方法は武力に訴えるものだが、そこまでせずともやり方はいくらでもある。たとえば、だ」

 中央の交易路の南側にも、いくつかの街を経由しながら地図の東西をつなぐ道がある。

「こっちの交易路もそこそこ歴史のあるものと言われているが、中央のそれと比べたらまだ新しいものだ。しかし東西をつなぐという意味では中央交易路よりも遠回りをしていて、効率性の点では劣っているのは事実だ。実際、運ぶものにもよるが、中央と南側とでは数か月単位で移動時間に差が生じる。ではなぜこんな回り道が生まれたのか」

「……回り道をした先でしか取引されないものがあるから、でしょうか」

「そういう側面もないとは言わないが、時代的に後発になる十分な理由にはならんな。まあ、ここは時間をかけるべきところじゃないからさっさと解説しちまうが。中央交易路に代わるものが存在することに価値を見出す連中が、新しい交易路の開拓に意欲的になるもんだ。じゃあどういう連中がどういう理由で取り組むか。大体三通りだな。

 一つ目は、単純に、既存の仕組みの中で不利な立場に置かれている連中が活路を求めようとした場合だな。ただしこういう連中には、動機はあっても、実力も実行力もない。だからこいつらだけでは既存の体制が変わることはまずない。しかし、そういう連中をうまく利用してやろうと企む奴らというのがいる。

 そこで二つ目、たとえば東西諸国の豪商とか、中央交易路に通行料を払う側でありながら力を持つ連中が、自分たちの事業の危機管理をしようとした場合だ。中央交易路のみに依存するということは、つまり何らかの理由でこの交易路が使えなくなったときの代替手段がないってことで、それは安定的であるとは言い難い。何かあったときに備えるために、保険としての別の選択肢を求める需要は常にあるわけだな。そういうわけで、この二者が結託すると、中央交易路に代わる新たな交易路の開発が計画されるようになる。さて、こういう状況になったとき、中央交易路側はどういう反応をするか」

「彼らにとっては都合の悪い話でしょうから、何らかの形で阻止しようとするでしょうな」

「と、思うだろ? たしかにある一定の時期までは、あんたの言う通り、中央交易路側が自身の独占が崩れるようなことは断固として阻止しようとしてきた。ただし、ある一定の時期までは、だ」

「……というと?」

「どんなに中央交易路が立派なもので、多くの資材と労力を投入して整備したとしても、やっぱり一つの交易路で扱えるものの量には限度があるんだな。そうであるにもかかわらず、その限度以上の量のものが行き交おうとすると、当然、交易路を使いたくても使えない奴らが現れる。そういうときには通行料を値上げするとか、特定の奴らに優先的な使用権を発行してそうではない奴らの利用を抑制させるとか、いずれにせよ何らかの形で交易品の流入量を制約する方向でしか事態に対処できないわけだ。しかしそんなことをしていれば、当然割を食った連中の不満は中央交易路を管理監督する側に向けられて、中央交易路側はこの不満にも対処する必要に迫られる。不満の根本的な原因は中央交易路の機能上の制約に由来するものだから、これをどうにかしないことには永遠に問題は解決しない。じゃあどうするか。中央交易路以外の手段を併用できればいい。つまり、交易が盛んになりすぎると、中央交易路側自身にも新しい交易路を求める理由が生まれるってことだ。これが三つ目。

 そんなそれぞれの立場の思惑が重なり合った結果、遠回りだろうが非効率的だろうが、中央交易路に代わる選択肢として、新しい交易路が建設されることになった。長くなったが、ようやく本題の入り口だ。一旦休むか?」

「いいえ、続けてください」

 村長は首を横に振り、アルフィルクに続きを促した。ルシャやグラジも興味深げにアルフィルクの話に聞き入っている。

「ここまでの話で押さえておくべき点は二つ。一つ目は、既存の交易路に代わる新しい選択肢というのはほとんど常に潜在的に求められているということ。今この瞬間もそうだな。この世界のどこかで誰かがそれぞれ自分たちなりの理由で新しい交易路ができることを望んでいる。そこに実現可能性を伴った具体的な方法があれば、それを現実のものにしようという力学が働くだろう。

 そして二つ目、新しい交易路ができるとなると、誰がそれを支配するか、という権力を巡る新たな駆け引きが生まれる。実際、この南方交易路のときもそうだった。中央交易路を中心的に管理監督する教会連中と、建設にあたり多くの資金、資材、人材を拠出した西国と東国のそれぞれの商人どもと、昔からその地域に住んでいた人々と、それぞれがそれぞれもっともらしい理由を掲げて支配権を奪い合ったとのことだ。

 この二点を踏まえて、改めて地図を見てみようか。なあ村長、もしあんたがこの砂漠に新しい交易路を作るとしたら、どこに作る?」

 皆の視線が村長に向けられるが、村長は熱心に地図を見て考えている。じっくりと時間をかけた末に、地図の北部を指でなぞりながら言った。

「やはり、この空白地帯でしょうか。ここを通ることにどれだけの優位性があるかは測りかねますが、可能性があるとすればこの辺り以外には考えられません」

「そうだな。当然過去の連中も、こんな風に地図を見ながらどの経路なら可能性があるかを考えたわけだ。しかし結果的には、過去の誰もがこの北部の空白地帯に手を付けなかった。手を付けられなかったと言うべきか」

「砂嵐が酷いから」

「安全に通過できない交易路なんか交易路として満たすべき最低限の機能を満たしていない。そして、そんな過酷な地域にはそもそも人が定着しないから、街ができたり発展したりすることもない。故に、砂嵐をどうにかできたとしても、水や食料などの供給もままならない。ますます交易路として機能するとは期待できない。だから、過去の連中は、この北部の空白地帯に手を付けなかった」

「なるほど。何とも恐ろしい話になってまいりましたな。外の世界の方々からすればそう見えるのでしょうが、我々からすればそうではない。ここには食料はともかく、豊富な水があることを知っている。あとは砂嵐の問題ですが、それが守護者によって引き起こされていることは我々だけが知っている」

「あんたらは、元々、水資源を交渉材料にできないかと考えていたわけだが、この話を踏まえると単純な話ではなくなってくる」

「ただ水を交渉材料にするのではなく。この地を新たな交易路の拠点として位置付けられたら、その交渉材料の価値がさらに跳ね上がるということですか」

「ま、交易路の建設云々は数十年単位の遠い将来の話だが、今現在と繋がっている話だな。ゆくゆくそういう話を見据えたうえで、まずはこの村が北部地域を探索するための最前線の拠点となる、というのが現実的な落としどころだろう。ただ砂嵐を越えて水を運んで売るよりもよっぽど効率的で効果的な商売だ。……と、あの地底湖だけを見ていたら呑気にそう言えたんだがな」

 ここでようやくアルフィルクが手を額に当て、ため息をついた。

「あの地下水流、どうしたもんかね。あんなものが砂漠の地下にあるなんて教会や商会の連中に知られたら、文字通り世の中がひっくり返るぞ。我先にと誰もが地面を掘り始めるし、教会の権威なんざ塵芥になって吹っ飛ぶ。最悪この村自体が存在しなかったことにされちまうことだってある」

「しかし現状に甘んじていても、我々に未来はないのです。外の世界に村を開き可能性を探るということは、地底湖だけでなく地下水流も含めて外に開くということでしょうから」

「あれは隠し通せるものでもないだろうからな。しかしそれでも、教会だけは絶対駄目だ。あいつらは確実に隠蔽しようとするだろう。だから、地下水流は教会に対してはどうしたって脅しの材料にしかならん。そしてその交渉をあんたらが自分でやったって、元々の力が違いすぎるから、一方的に力づくで捻じ伏せられておしまいだ」

「だから、頼る相手は少なくとも教会以外であることが望ましいと。なるほど、なるほど」

「誰に持ち掛けても正直どうなるかは読みきれない。だからせめて、悪意のないところと組むのがよくて、最悪の場合も見据えてあんたら自身の優先順位も考えておく必要がある」

「優先順位、ですか」

「自分たちの命とこの土地、いざという時にどちらを選ぶかと言われたときにどうするかってことだな。もちろんこんな選択はしないで済むに越したことはないが、理想ばかりを語っていても仕方ない」

「それは……ずっと考えてきておりましたし、どちらも選びたくないと思ったからこそ手立てを探しているのです」

「試行錯誤と現実逃避は混同させちゃ駄目だろ。心置きなく試行錯誤するために最悪の事態を想定しておこうって話なんだからさ」

「……最悪の事態において、自分たちの命のために村を捨てるかどうかは、さすがに私の一存では決めかねます。村で話し合って決めておきましょう」

「そうだな。話し合ったうえで、最後はあんたが決めるんだ。この期に及んで満場一致で意見がまとまるなんて都合のいいことは考えるべきじゃない」

「もちろんです。それで、誰を頼るかという話ですが」

 縋るように村長は目線をアルフィルクに向ける。

「どうするかね。と言っても、俺たちもあてにできそうな伝手なんか全然ないわけで。だから、ここまでうだうだ喋ってきたが、実際にやれることはひとつしかないんだよな。地下水流の件があってもなくても、な。というわけでグラジ、お前に頼みがある」

 腕を組んで背を丸めていたグラジは、背筋を伸ばした。

「大方の察しはついている」

「はは、お前も勘が良くなったな。アルタヤさんにこの件をつないでくれるか」

「わかった」

「そこからどうなるか。とりあえずあの人の意見も聞いてみよう。それで何か良い案が出てきたら儲けものだ」

 アルフィルクは、口は悪いが底抜けのにお人よしである人の顔を浮かべていた。

「信じてよい方なのですか」

 おずおずと村長が訊ねる。

「ああ。グラジの育ての親で、ここから南の方にある街で食肉組合の長をやっている人だ。ここを発ったらすぐに話を伝えておこう」

「そうですか。期待しておきましょう……」

 言葉とは裏腹に村長の表情は曇っている。何かを言い淀み、口に出すべきか否かを迷っているようだった。

「明日すぐに発つとしたら、交渉の時間も含めて往復で二か月かからないくらいといったところか。少し間が空くが、待っていてくれ」

「ええ、頼みにしております。おりますが、その、大変申し上げにくいことなのですが、その……」

 村長が言い淀み、場は沈黙に支配される。言葉の選び方次第では重大なことが起こり得るからこそ、村長は必死に頭を巡らせ言葉を探している。アルフィルクはじっと黙ってそれを見守っている。マユワはその横顔を横目に見る。アルの悪いところが出た、と思っている。

 張り詰めた空気の中、はあ、というため息がマユワからこぼされた。

「いいよ、私が残ってあげる」

「マユ、お前」

「人質が必要だもんね。アルは散々都合の良いことばかり言ったけど、私たちが一回村を出ちゃったらそのまま帰ってこない可能性もあるんだから。ちゃんとこの人が安心できる材料は出してあげるべき」

「……頼んでいいのか?」

「うん。私が適任だと思うよ。私が一番貧弱で、アルにとって大事な存在だから。村長さん、私でいい?」

 村長はばつが悪そうに目を伏せつつ、感謝を述べた。一連のやり取りを見ていたルシャが声を上げた。

「ちょっと、ちょっと。そういうことだったら私も残るわよ。どうせアルたちにくっついていったって大してやることないし、マユちゃんを一人にする方が心配だし」

「そうしてくれると助かるよ」

「さっさと話をまとめて帰ってきてね」

 それに対してはアルフィルクは手を挙げて応えた。

「何とぞ、よろしくお願いします」

 村長はひと際深く頭を下げた。その震える頭を見ていると、マユワは胸の内がざわつく感覚が生じてしまう。どうしてただ穏やかに平和に生きるというだけのことが、こうも難しくなってしまうのか。誰もかれもがそうだ。

「一応正直に言うとだな、うまくいく保証なんて微塵もないぞ。それでもやらないよりはましだっていう程度のものだ。だからうまくいかなくても恨んでくれるなよ」

「それでもこの現状を変えるきっかけ、我々が変わるきっかけにはなりましょう。最後は我々自身の問題です」

「……立派な人だな。ま、なるようにしかならんさ。それで最後外しちゃいけないことだけ外さなければ。人間の人生としては上出来だ」

「まだお若いのに達観したことを仰るのですな」

「口だけは達者なもんで」

「どのような経験があなたを育てたのか興味はありますが、それはまたいずれの機会にさせていただきましょう」

 緊張の糸が解れたのと同じく村長の口端もいくらか解れていた。



 12. 


 アルフィルクとグラジは夜明け前に発っていった。船影が消えるまで見届けた後、マユワとルシャは村へと戻っていった。これからどうして過ごそう、何をしよう、とルシャは早速暇を持て余しているようだったが、マユワがそのように思うことはない。二か月など瞬く間に過ぎるものだからだ。

 二人には村長の家の一室があてがわれた。そこでマユワは一日中椅子に座ってぼうっとしていられる。あまりにも何もしないものだから、村長の妻が気を利かせようとするのだが、マユワは「ありがとう」と「ごめんね」だけでその善意を退けてしまう。その様子を見かねて、ルシャは四日目にマユワの手を引いて家の外に連れ出した。

「どこに行くの?」

「野菜洗い」

 そう言うルシャは機嫌が悪そうに見えて、マユワは申し訳なくなる。

「ごめんね、こういうときどうしたらいいかわからなくなるの」

「アルの過保護の弊害よね」

「……アルは関係ない」

 ぼそりと呟いたそれはルシャの耳には届かなかった。代わりにルシャは持論を展開する。

「働かざる者食うべからず。私のいた娼館ではね、どんな立場の人でもみんなそういう考え方をしていたのよ。子供だからとか、関係ない。大人よりもできることが少なくたって、全くないわけじゃないんだから。自分の立場でできることを少しずつでもやって、そういう姿勢を示して、初めてみんなに認めてもらえるんだよ。たしかに今の私たちの立場も微妙なところはあるけどね、だからこそ不信感を持たれるようなことはしちゃいけないと思うの」

「それはそう」

「マユちゃんも自分で残るって言ったんだから、アルに心配させちゃ駄目だよ」

 そう言った途端にルシャはマユワを引く手が軽くなるのを感じた。マユワが自分の足で自ら進んで歩き始めたからだ。

「ねえ、質問があるんだけど」

「なに」

「マユちゃんにとってアルってそんなに大事な人なの?」

「うん」

「どうしてそんなに」

「……うまく言えないけど、アルは私にとっての道標だから。真っ暗で何もない砂漠、どこを向いても同じ景色、ともすれば自分がどっちを向いていて、どこに向かっているかもわからなくなる。そんな中でいつでも常に同じところで光り続けてくれる星。私にとってのアルはそういう人」

「へえ、そうなんだ」

 ルシャは我ながら間抜けな返事だと思いながらも、それ以上の言葉を浮かべることができなかった。マユワとアルフィルクの出会いについて、二人はかつてどこかの小さな村で出会って、それ以来一緒に放浪しているとしかルシャは聞いていなかった。それ以上突っ込んだことを訊こうとすると必ずはぐらかされてきたものだ。遅れて自覚された感情が言葉となって表れる。

「なんだか、妬けちゃうわね。二人の間には強い絆があります、みたいな感じで」

「それは羨んでいるってことなの?」

「どうだろう。率直な感想なのかな、どちらかというと」

「私たちの関係は人に自慢するようなものじゃない。ただそういうものだっていうだけのこと」

「でも、アルのために頑張ろうっていう気になるくらいには、マユちゃんを動かすものなのよね」

「アルのため……ううん、違う。アルの隣に堂々と立てる自分でいたいだけ。だからこれは自分のため」

「似たようなものね」

 そんな話をしているうちに村の子供たちが野菜洗いの仕事をしている洗い場に着いた。ルシャが扉を開けて「おはよう」と言うと、子供たちが一斉に顔を上げて目線をルシャたちの方に向けた。それぞれから笑顔がこぼれ、ルシャだ、ルシャが来た、と歓声を上げる。いいからみんな手を動かしなさい、と声を張るルシャの様子も自然で、ずっと昔から村の人間だったと言われても違和感がないほどである。

「あれ、そっちの人は?」

「私知ってるよ、守護者様の御使い様だってお父さんが言ってた」

 幼い子がマユワを指差すと、隣の年上の女の子がその手を抑えて下げさせた。強張った表情の下で渦巻く感情はどのようなものか。マユワが目線を走らせると、一定以上の年齢の子供たちは一様に同じような反応を示していた。

「この人は怖くないから、大丈夫だよ」

 努めて明るい声でルシャが言うが、子供たちの緊張が解けることはない。やはり自分はここに来るべきではなかった、とマユワが踵を返そうとしたとき、穏やかな声に呼び止められる。

「こちら、空いていますよ」

 声の主はヤナンで、自分の隣を示していた。

「ありがとう、二人分入れるかしら」

「ええっと。奥、詰めてくれるかな」

 ルシャに言われてヤナンは自分のそばに座っていた子供たちに呼びかける。子供たちは促されるままに尻を動かしてわずかな隙間を埋めた。その甲斐あって、ヤナンの隣にはルシャとマユワが座れるだけの空間ができる。

「ほらみんな、手を止めちゃだめよ。仕事をするの、仕事」

 ルシャが手を叩いて呼びかけると、子供たちは戸惑いながらもそれぞれの作業に戻っていった。その背中と背中の隙間を縫ってルシャとマユワはヤナンの隣へ行き、隙間に収まった。

 マユワはヤナンとルシャに挟まれるようにして座った。目の前には泥にまみれた人参と芋の塊があり、さらにその奥には桶と水差しがある。周りの子供たちは慣れた手つきで野菜の泥を水で洗い流しており、ヤナンとルシャもそのようにしている。

「やり方、わかる?」

 ルシャが耳打ちをしたので、マユワは頷きで返した。

 土を焼いて固めた水差しは見た目よりもずっしりとしていて、中に水が入ると手がぷるぷると震えるほどの重さになった。いっそ両手で持ってしまうか。しかしそうすると、野菜を洗うのが難しくなってしまう。他の子供たちは、小さな子であっても、頑張って片手で水差しを持っていた。自分より小さな子たちがそうしているのだから、マユワもそうするべきなのだろう。息を止めて堪えながら水差しを傾け野菜に水を注いでみるが、加減が難しく、大量の水をこぼしては慌てて手を戻すということを繰り返してしまう。もちろん他の子供たちはそのような失敗をすることはなく、一定の量の水を上手に注ぎ続けている。

「水を注ぐときは手首を曲げるのではなく、腕全体を動かしながらやると安定しますよ」

 隣からヤナンが言葉で上手いやり方を教えてくれる。言われてヤナンの様子を見てみれば、たしかにヤナンは手首を固定させたまま腕全体を傾けることで水量をうまく調整していた。マユワも見た通りに真似をしてみる。すると、先ほどよりも安定して水を注ぐことができた。

「上手にできたじゃない」

 反対からルシャが声を弾ませて褒めてくれる。マユワは一瞬だけ嬉しくなり、そしてすぐに寂しくなったが、このような心の動きはこの場には何の関係もないことであるから、マユワは目の前のことに集中しようと努めた。

 三つ、四つと作業をこなしていくうちに勝手がわかってきて、マユワは周囲の様子をうかがう余裕ができてきた。ヤナンや年の若い子を除き、ここにいる子供たちは皆女の子たちだった。作業を監督する大人がいないこともあり、お喋りは喧しく、それが咎められることはない。子供たちは水が張られた大きな桶を囲むように座っており、その桶は作業場の三か所に点在している。洗い終わった野菜は種別ごとに一か所にまとめられ、そこで新たに洗うべき野菜と交換する。仕事の進め方は子供たちに委ねられているようだった。このような場で子供たちは他者との関わり方や、自分たちで問題を解決する術を学ぶのだろう。そのような様子を眺めていると、改めて、ヤナンと同年代の男の子がいないことが奇異に見えてくる。

「僕ぐらいの年の男の子は農場とか牧場で大人の手伝いをするのが普通なんです」

 問われたことにヤナンはそう答えた。

「モーティちゃんの様子はどう?」

 マユワの返事に被さるようにルシャがヤナンに訊ねる。

「変わりありません。ずっと部屋にこもっています」

「そっか。心配ね」

「食事はとっているみたいなので、そこは安心しています。今はそっとしておくしかないのかなって」

「そうねえ。時間が解決することもあるでしょうし」

 それ以上続く言葉もなく、両者の間に沈黙が流れる。その狭間にマユワの声が浮かぶ。

「あの日からずっとそんな調子なの?」

「はい」

「じゃあ悪夢は終わったんだね」

「そうですね。僕はもう見ていません。モーティもたぶんそうなのでしょう」

「そう、よかったね」

 ヤナンの作業の手が止まる。

「……それが最近、よくわからないんです。本当にこれでよかったのか」

「どういうこと?」

「確かに僕は夜にゆっくり寝られるようになって、体がぐっと楽になりました。だけど、正直、モーティが可哀想で……」

「それはつまり、あの悪夢が終わらなければよかったということ?」

「あんな風にモーティが苦しむくらいならって、思わないこともないです」

「あの子が苦しむくらいなら自分が苦しんだ方がいいの?」

「僕が苦しいのは僕が我慢すればいいだけだけど、モーティが苦しいのはモーティ自身であって僕ではないですから、我慢することもできないのですよね」

「だけどそれはあの子自身が乗り越えるべきこと。あなたの問題じゃない」

「そうなんだろうと思います。だけど、それでもやっぱり、目の前で苦しんでいる様子を見るのは辛いです」

 マユワは考える。今のヤナンとモーティの魂は一つか二つか。考えてみて、くだらない、と内心で吐き捨てた。

「僕にとっては悪夢でしたけど、モーティにとってはそうではなかったんです。何て言ったらいいんだろう、モーティにとって大事な心の一部分だったんだろうなって思うんです」

「だから、私はあなたたち二人が見ていたものを悪夢と呼んだの。辛くて苦しくて嫌な夢だけが悪夢じゃない。決して現実ではないのに現実に浸食して、その人の心や生き方を歪める夢を、私は悪夢と呼んだ」

「だけど、あの夢のおかげでモーティは救われていた」

 ヤナンは泣きそうになりながらマユワの顔を見つめた。

「お父さんとお母さんが死んじゃって、壊れる寸前だったモーティを救ってくれたのがあの夢だったんです。だから僕は我慢できた。モーティが幸せな夢を見て、笑顔になってくれたから、僕も救われた」

「……そういうところだよ。死者が死後も生きている人たちに影響を与え続ける。それが生きている人たちの背中を押すものならまだしも、生きている人たちの生き方や心を縛っている。死者はもうそこにはいないのに。何事もどんどん過去になっていくというのに。心が過去に縛られて、未来に目を向けられなくなる。一時救われることと、それに縛られ続けることを混同してはいけない」

「それはもうお父さんとお母さんのことを忘れろってことですか」

「そうは言ってない。過去を大事にするなら、それと同じくらい未来も大事にするべきだということ」

 マユワは六年前に双子の両親が必死に守護者と交渉していた場面を思い出している。あの時彼らは何を願っていたか。そして何を祈って、マユワに実験の行く末を見届けることを願ったか。しかし彼らの思いをマユワが代弁するのはマユワの役割ではないし、何よりも彼ら自身の言葉ではないことをマユワが彼らの言葉として口にするのは、意図的か否かにかかわらず、その人の尊厳を傷つける行為である。そのようなことはマユワにはできないし、決してするべきではない。

「夢は醒めるし夜は明ける。そこに私たちの意思は介在しない。遠慮なしに無慈悲に訪れる明日をどう生きるかしか、私たちに選べるものはないの」

「……あなたの言うことは正しいんだと思います。でも、それだけですね」

 ヤナンの微笑みはマユワに向けられた。居た堪れなくなり、マユワの方から目を逸らす。いつの間にか手が止まっていたことを思い出し、野菜洗いに意識を戻す。こういう単純な作業は、集中すると余計なことを考えなくて済むからよいものだ。目を閉ざしたままでいられたらどんなによかったことだろう。

「はい、私から提案がひとつあります」

 マユワの耳元で、りん、と鈴の音が鳴る。ルシャが小さく右手を上げたのだ。

「今日の仕事が終わったらお墓参りに行ってみない?」

「お墓参りって何ですか?」

 ヤナンはきょとんとしている。

「ヤナンくんとモーティちゃんのご両親のお墓にご挨拶をしに行くのよ」

「それでどうするんですか」

「何でもいいんだけど、昔のことを思い出して懐かしんでみたり、最近あったことを報告してみたりして、心の中で亡くなった人たちとお話をするの」

「それだったらわざわざ墓地までいかなくたって」

「私が会ってみたいのよ。駄目かな?」

 駄目かと言われれば駄目である理由は思い当たらないため、ヤナンは消極的に肯定せざるを得ない。

「マユちゃんも一緒に行こうね」

 有無言わせない圧によりマユワも消極的に肯定させられてしまう。

 皆で簡単な昼食を挟んでからしばらく経つと、作業の早い子供たちは自分の担当分が終わる。ルシャもその集団のうちの一人であった。ルシャは空になったかごを手に、作業の遅い子供たちに声をかけ、汚れた野菜をいくつか集めて回る。それを見て、作業が早く終わった他の子供たちもルシャの真似をし始めた。中には面倒くさそうにする者もいたが、ルシャは見て見ぬふりをする。構う必要がないからだ。その様子を見てマユワは呆れを通り越して感心してしまう。せいぜい二日程度でよくもここまで場の空気を支配する立場になったものだと。

 マユワが余らせていた汚れた野菜も一つまた一つと消えていき、あっという間にかごは空になった。意欲のある子は手伝ってくれたお姉さんに仕事のこつを教わっている。モーティがいた頃には見られなかった光景であったという。

 いよいよやることがなくなり手持無沙汰になった子供が、一人また一人と洗い場を後にしていく。その流れに乗じてルシャたちも洗い場から出ていく。吹き抜けた風は洞穴を通ってもなお昼の熱をほのかに含んでおり、まだ外が夜になっていないことがわかる。

 ヤナンの案内でルシャとマユワは村人たちが埋葬されているという墓地へ向かう。墓地は通気孔に近いところにあるため、地底湖の岸辺をほぼ半周することになる。道沿いの農場では作業する村人たちがルシャたちに気付いて視線を向けるが、ルシャはそれらに会釈を返す。

 そのようにして愛想を振りまくルシャは、道の向こうから歩いてきた一人を見て表情が固まった。モーティである。顔を伏せたまま早足で歩いてくるが、こちらに気付いている様子はない。

「モーティ」

 ヤナンが驚いたように声をかけると、モーティはこちらに気付き、目線を上げる。しかしそこに表情の変化はない。朗らかだった雰囲気は欠片もなく、しかし憔悴しているという様子でもない。地底湖のように冷たく澄んだ憤怒がモーティを支配していた。

「外に出ていたなんて知らなかったよ。その、気分はどう?」

「心配かけてごめんね。正直まだ大丈夫じゃないけど……大丈夫だよ」

 ヤナンが言葉を失っている間を埋めるように、モーティはルシャとマユワの方を向き、頭を下げた。

「先日はとても失礼な態度を取ってしまって、ごめんなさい」

「え、ああ、いいのよ別に。ほら、顔を上げて。そんな風にされると困っちゃうわ」

「……まだうまく自分の気持ちを言葉にすることができないのですが、落ち着いたら改めてお願いに伺うと思います」

「お願いって?」

「ルシャさんや、その、御使い様……ごめんなさい、他に呼び方がわからないからそう呼ぶんですけど、御使い様が知っていることをちゃんと聞きたいです。だけど今の私にはそれを過不足なく正確に受け止める余裕がないから、ちゃんと落ち着けたらお願いしに行こうって思っていました。今偶然お会いできたから話してしまいましたが」

 返事に困ったルシャがマユワの方に視線を向けた。それに伴いモーティの視線もマユワに向き、初めて二人は目が合うこととなる。モーティはマユワの光の無い瞳の奥に自分と同じ憤怒を見た。

「いいよ。隠すべきことなんて最初から何もなかったね。私たちはしばらくこの村にいるから、好きな時に来たらいい」

「はい、ありがとうございます」

 話を終えた二人は自然と目線が逸れた。モーティが歩き出そうと体を傾け、ヤナンの横を通りすぎようとしたとき、ヤナンが「モーティ」と呼び止める。

「今から僕たちお父さんとお母さんのお墓に行くんだけど、一緒にどうかな」

「お墓に? 何しに行くの」

「お墓参りっていうらしいんだけど、お父さんとお母さんに挨拶しに行くんだよ」

 モーティの体は一瞬だけ強張り、すぐに弛緩した。モーティは首を横に振る。

「いい。私はやめておく」

「そっか……わかった」

「じゃあね。また後で」

 一歩ごとに遠のいていくモーティの背中をヤナンは口惜し気に見送っている。その様子があまりに哀れだったので、ルシャはヤナンの小さな肩を抱いて慰めた。


 墓地へ続く通路は緩やかな下り坂となっており、進むほどに光苔の数が減って暗くなっていく。それでも足元が見えなくなるほどではないので、歩くうえでの苦労はない。代わりに洞窟本来の冷たさが足元からせり上がってくる。

「この村の人たちはお墓参りってしないんだね」

「そうですね。そういう習慣はないですね」

「じゃあ誰がお墓の掃除とかそういう管理をしているの?」

「さあ? 僕は知りません」

 ヤナンがそう言うくらいだからどれほど酷い状況か覚悟しながら臨んでみたものの、開けた空間は想像よりもずっと清潔に整えられていた。

 小屋ひと棟がまるまる収まるくらいの広さの空間には中央に一段高く設えられた平石の台がひとつだけあり、それ以外には何もない。その台は空間の面積の四分の一ほどを占める巨大なもので、地面から空に向かって開かれる両開きの扉が中央にあった。その扉の上部には石碑があり、今日までにこの村で亡くなった人々の名が刻まれていた。

「お墓ってこれだけ?」

 ルシャの問いにヤナンが頷きで返す。

「死んだ人はみんなこの中に入るんです。最後のお別れはここで済ませます」

「そっか」

 ルシャは手を口元に当てて考え込み、ヤナンは興味深げに周囲を見回している。マユワがヤナンに訊ねる。

「何か気付いたの?」

「いえ、こんなに狭かったんだなって。僕がここに来るのはお父さんとお母さんの葬式をした時以来だったから、印象が全然違ってびっくりしました」

「その分体が大きくなったものね」

「それもありますし、あの時は他にたくさん人がいたし、僕もモーティもわんわん泣いていたから。状況がよく見えてなかったのですね」

「そう」

 扉の上下にそれぞれ取っ手があり、二人がかりで開くものであるらしい。マユワは視線を滑らせ、死者の名が刻まれた石碑の方を見てそちらに向かう。小指の爪よりも小さな文字で一人一人の名が刻まれている。いつ頃から刻まれ始めたものかはわからないが、名前の数はこの村の歴史そのものである。マユワはその名の一つ一つを指でなぞる。何も流れ込んでこないが、指先で感じる石の凹凸はたしかに一つ一つが意思と感情を持つ人間がこの世に存在した証明である。たとえここに名前が刻まれていなかった人がいたとしても、その人は誰かの家族であった。この石碑に名を刻んだ人は誰か。その人は何を思って石を刻んだのだろうか。マユワの頭の中には村長の小さな背中が浮かんだ。

「それで、あの、お墓参りってどうやったらいいんですか」

 ヤナンに問われてルシャが顔を上げる。

「そうだね。ううん、特に決まったやり方というのはなくて、口に出さなくてもいいから、心の中で亡くなった人たちのことを考えるの。考えて、話しかけてみて、もし返事が返ってくるとしたらきっとこんな風に言ってくれるだろうなということを想像するの」

 ルシャはじっと石碑の方を見つめ、それから目を閉じた。口元には穏やかな笑みが浮かんでいる。胸の前で組み重ねられた両手は自然とそうなったものである。静かになってみると、このような場でさえ音というものがそこにあることがわかる。わずかな空気の動きがどこかにある隙間を通って、ぼうぼう、という音となってこぼれていた。やがてルシャは目を開き、ヤナンの方に微笑みかけた。

「こんな感じ、といってもわかりにくいよね。だけど私は今、二人のご両親にはじめましてってご挨拶をして、この村に来てから見たことや感じたことを伝えたわ」

「お父さんとお母さんは何か言っていましたか?」

「そうねえ。何も仰らなかったけど、嫌な顔はされてなかったわ。たぶんだけど」

 ヤナンは、へえ、という音にも至らないほどの曖昧にこぼれた声を返事の代わりとした。ルシャは目で促す。やってみて、と。

 ヤナンは両親が眠る石台に向かい、ルシャがやっていた通りに目を閉じる。だらんと垂れた腕は所在なさげで、瞼に力の入っている様子は試行錯誤の表れである。その背中にルシャが歩み寄り、肩に両手を乗せる。そしてヤナンの耳元に口を寄せる。

「ゆっくり息を吸って、吐いて。頭を空っぽにして、余計なことは考えない。全部忘れて、それからゆっくり思い出すの。ヤナンくんのお父さんとお母さんってどんな人たちだった? 大丈夫だよ、すぐには頭に浮かんでこなくても、ちゃんと心と体が憶えているから。耳を澄ませて、心に尋ねて。急がなくていいし、焦らなくてもいい。ゆっくり、息を吸って、吐いて。それで二人を呼んでみるの。お父さん、お母さんって」

 ヤナンの瞼にこもる力が抜けていき、目元が穏やかになっていく。ルシャの口元がヤナンの耳から離れ、ルシャの手がヤナンの肩から離れ、ヤナンは一人で石台に向かって立つ。ルシャはマユワの隣に移り、二人で一緒にヤナンを見守る。

 ヤナンの瞼が一瞬だけぴくりと震える。目を閉じながらも驚いている様子がうかがえる。それから唇がわなわなと震え始め、閉じた瞼の端から透明な涙が溢れて頬を伝い、雫となって滴った。口元は微笑みながらも寂しげで、しかしそれでも強く一文字に結ばれている。その結ばれた両唇を割り開くように、息と嗚咽がこぼれかけている。

 ルシャが一歩だけ前に歩み出て、優しい歌を歌い始めた。ルシャの魂に刻まれ安らぎをもたらす子守歌は、きっと同じようにヤナンの魂をも慰めてくれることだろう。歌声はヤナンの嗚咽を覆い隠し、ヤナンの一人の時間を守っている。

 やがて再びヤナンの息が穏やかさを取り戻し、涙の最後の一滴が落ちたところでルシャの子守歌も終わった。再び墓場は静寂と風の音に包まれ、ここが現実の世界であることをヤナンに思い出させた。

 ヤナンは袖で涙を拭い、鼻を啜った。一度だけ深呼吸をして目を開く。それからルシャとマユワの方を向いたヤナンは先ほどよりも大人びて見えて、マユワは動揺してしまった。

「やっぱり、モーティも連れてこればよかったです」

 気恥ずかしそうに感想を述べたヤナンに対し、ルシャはくすくすと笑って返す。

「意味のある時間になったのなら、よかったわ」

 それからルシャはマユワの方に目線を向けて言った。

「マユちゃんもご挨拶しようよ」

 反射的に拒否しかけたが、ヤナンの視線に気付き、マユワは言葉を飲み込んだ。

 ルシャとヤナンがそうしていたように、マユワも石扉に向かって目を閉じる。石扉の先がどうなっているのかはほぼ確信に近い水準で予想がついている。先日に見た地下水流の荒々しい奔流が頭に浮かび、水の弾ける音がうるさく頭の中で響いている。その水流に落とされた人の体とはどのようにひしゃげてしまうものなのだろうか。そして最後はどこに流れ着くものなのだろうか。石碑に刻まれた名前の数だけ、この村は死んだ人々をそのように扱ってきたはずだ。しかしそのことに憤りはない。ただ、魂も肉体も、文字通りの意味として死者はもうそこに居ない、というほとんど確定的な事実の前ではこの墓参りという行為には虚しさしか感じられないのだ。マユワには語り掛けるべき相手がいない。地下水流の奔流が騒音となってただひたすらにマユワの頭の中で滔々と響いている。

 最後にあの哀れな夫妻を見たのは六年前のこと。その様子を繰り返し、何度も、思い出してきた。理不尽な運命の中で自分たちの子供が助かる道、せいぜい数十年程度の時間に過ぎないがそれでも彼らにとっては一生涯に等しい時間を稼ぐために、あらゆる詭弁を弄するその背中を、マユワは見守っていた。そして、双子の行く末を見届けて欲しいとこいねがい、最後まで不安と後悔に包まれたまま手を握り合って冥界の門をくぐっていったその背中、その足取り。

 その彼らにマユワは何と声を掛けるのか。あなたたちの子供たちは元気にやっていけるよ、などあまりにも空虚な言葉ではないだろうか。冥界の門の先では魂が坩堝に還り、溶けてまじりあって自他の区別もないひとつの塊になる。マユワの知らない記憶の中では、そのひとつの塊とは巨大な窯である坩堝に満ちた白銀色であった。魂には境目も区別もない。いつか訪れる再生の日に向けて魂は眠っているのだ。過去にマユワだった者はその坩堝をただじっと見守っていた。その白銀色が頭に浮かんでしまう以上、いよいよマユワには語るべき言葉が見つからない。

 地下水流の、ごうごうと洞穴の空気を震わす音が、強弱も濃淡もなく一定の煩わしい音として流れ続けていて、ある瞬間から無音と等しくなった。頭の奥が痺れてぼうっとしてきたのだ。騒音の中に突如現れた静寂を埋めるようにマユワにこれまで得てきた死者の記憶が無秩序に浮かんで消えていく。どうして今このようなことを思い出しているのだろう、全然関係のないことなのに、とぼやくマユワは記憶たちの外にある。

 それらの記憶の中のひとつに、百年を生きた砂鯨のものがあった。人間の男に恋をして、種族の違いという壁に阻まれ絶望した砂鯨だった。その砂鯨の旅の記憶の一つに、地底湖よりも地下水流よりも広大な水の塊、すなわち海の光景があることを思い出した。海は砂漠の遥か南方にある。一方、あの地下水流の水源は、北方の雪山の雪が溶けて地下に流れ込んだものである。水が北から流れてくるものであるならば、その行きつくところは南の彼方であろう。

 突如マユワの脳裏に浮かんだのは、砂鯨の乙女が人間の少年と一緒に見た夕暮れの海の光景である。右手側に赤く焼けた夕日が沈む一方で左手側から星空がせり上がってきていた。昼でも夜でもない特別な時間のまさに境目である正面は海と空が紺色に溶け合っており、かろうじて揺れる水面はそこが空と海の境界であることを示していた。空に浮かぶ雲は赤色にも青色にも染まり、それでも彼方では星々が存在を主張し始めている。その記憶の中の光景に重なって、海の底にひしゃげた死体が積もっている様子を見た。その瞬間、マユワは覚醒し意識を現実に戻した。ここは地底湖の村の墓場である。

 気付かないうちによろめいたらしい。ルシャに肩を支えられて、マユワはそのことに気付いた。

「大丈夫?」

「……あんまり大丈夫じゃない」

「もう戻ろうか?」

「うん」

 痛いほどに脈打つ心臓、ルシャが掴んでくれている腕の感触、全身にのしかかる重力、洞窟の冷えて湿った空気のにおい、靴の裏で感じる石の硬さ、それらこそが今この瞬間の現実である。自分はきちんと現実と記憶の区別が付けられている。そのことを確認し、落ち着いてきた頃になってようやくマユワはヤナンのことを気にかけることができるようになる。

「ごめんね」

「いえ、その……気分がよくなるといいですね」

 こうやって色々な人に気を遣わせてしまうのだから、やはり自分は人と関わることには向いていないのだとマユワは思ってしまう。




 13.


 村の墓場から戻った日の翌日、マユワは部屋で安静にしていた。特別体調が悪くなったわけではない。死者から預かった記憶を汚してしまったことへの後味の悪さがマユワの気を滅入らせていたのだった。ルシャは今日も洗い場へ向かっていった。あのような生き方を羨ましいとは思わないが、ルシャはマユワが手に入れようとしてもなかなか手に入れられないものを簡単に手に入れられるのだろうと思うと、その点だけは埋めがたい溝であるように感じられてしまう。やはりこれは羨ましがっているということなのか。マユワは自問してみて、すぐに思考を止めてしまう。過去に幾度となく繰り返された問いだからこそ、行きつく答えも同じだからだ。マユワはベッドの中で体の向きを変えて、アルフィルクの帰りを待つ。

 昼過ぎになって、村長の妻がマユワに声をかけてきた。マユワは上半身を起こして応える。モーティが来たのだという。マユワは昨日のことを思い出し、この部屋に通すよう村長の妻に伝えた。

「何かあったら呼んでくださいね」

 そう言い残して村長の妻は部屋の扉を閉じた。部屋の中にはマユワとモーティがいる。マユワはベッドで上半身を起こして座り、モーティはその枕元の椅子に座っている。二人は無言のまま互いの瞳の奥を見ていた。モーティはマユワの瞳の奥に自分と同じ怒りを見て、マユワはモーティの瞳の奥に二度と消えない傷を見た。

「いいよ、何でも訊いて。あなたには全てを知る権利がある。私が教えてあげられるのは私の知っていることだけだけれど」

 モーティは頷き、口を開いた。

「守護者って、あれは何ですか」

「敬意のない言い方だね。わかってやっているの?」

「敬うに値するものであれば相応の言い方をします」

「そう」

 マユワは自分の手元に目線を移した。

「あれはね、この地に大昔から存在するもの。それこそ、あなたたちの祖先がこの地に来るよりもずっと前から」

「作り話ではなく?」

「うん。この村の人たちが守護者と呼ぶものは、たしかに存在する。そして、この地が多くの危険から守られていたことも本当で、それが守護者と呼ばれるものによってなされていたことも本当。ただし、あなたたちの祖先をこの地に導いたという指導者が死後守護者となったというのは間違い。どうしてそんな間違いが真実であるかのように伝えられるようになったのかは、おおよその察しはつくけど」

「それはどうでもいいです」

「そうだね」

 マユワはこの数日でモーティが辿ってきた道程を悟った。モーティは納得したいのではなく、ただ知りたいのだ。

「守護者が守っていたのは何だったんですか」

「この土地だよ」

「何から守っていたのか」

「あらゆる災厄から」

「では守護者が守っていたのはこの土地であって、この村や村に住む人々ではないんですね」

「そう」

「守護者は何のために守っているのでしょうか」

「あれは守護すること自体が役割であり、そういう風に作られた機能だよ。そこに感情的に理解できる道理を求めること自体がが無駄」

「守護者というものがそういう仕組みだとするならば、その仕組みを作ったのは何者なのでしょうか」

「それは私にもわからない。わからないものに対するひとつの仮の答えは、神、という言い方になる」

 そうですか、と呟いたきりモーティは黙り込む。ひとしきり考えた後、これ以上深まらない話題であることを理解した。マユワは横目でその様子を確認し、目線を手元に戻す。

「どうしてあなたは、そういうことを知っているんですか」

「実際にこの目と耳で見て聞いてきたから」

「御使い様、というのは嘘ですよね」

「そう。私はあれとは主従関係にはない。どちらかと言えば、同じ立場の存在というのが正確なんだと思う」

「ではあなたも何かの役割を果たすために作られた機能だということですか」

「……そんなの、私が知りたいくらいだよ。だけど、そうだね、私は死んだ人の魂を見て、その人と話をすることができる。そして冥界の門を通っていくのを見届けることができる」

「冥界の門?」

 聞きなれない単語にモーティは首を傾げた。

「人に限らずあらゆる生き物は死ぬと魂が肉体から離れる。そしてその魂は冥界の門を通って冥府に行き、そこで次の誕生までの間、他の魂と一緒に一つの坩堝の中で眠りにつくの。そして新たな肉体に魂が宿って、命を得る。魂はそうやって現世と冥府を循環していて、冥界の門とはその二つの世界の境界となるもの」

「死んだ人はみんなその冥界の門を通るのですか」

「そう」

「初めて聞きました」

「この話が真実だと証明する手段を私は持ち合わせていない。だから、今この場ではそういうものだということで了解しておいてほしい」

 モーティは頷きで応え、ひと呼吸を置いてから続けた。

「じゃあ、お父さんとお母さんも」

「そうだよ。あの人たちも冥界の門を通っていった。もう言っちゃうし隠すことでもなかったけど、六年前、私はその場に立ち会ったんだよ」

 そう言ったらモーティはどんな反応を示すだろうか。マユワはおそるおそる目線をモーティに向けてみる。モーティは背筋を伸ばし、声が震えるのを努めて抑えながら言った。

「その時のこと、詳しく教えてください」

「あのとき、あの場に立ち会ったのは本当にただの偶然。たまたま近くを通ったときに冥界の門が立ったのを感じた。そこが普段は砂嵐に阻まれて誰も人が立ち入らない場所だと聞いていたのに、そのときは砂嵐が止んでいた。どういうことだろうって、様子見も兼ねて行ってみたら、ちょうどあなたたちの両親がいるところだったの。

 それで、その時のことを詳しく、ね。私がその場に着いたときは、すでに守護者と夫婦が何かを言い争っていたよ。言い争うといっても、夫婦が一方的に守護者の方に言っていたという状況。一目で普通じゃない状況だってわかった。だから、まずどういう状況なのか話を聞いてみた。それは先日私が話した通り。だからそれ以外の部分で言うと、そうだね、あなたたちの両親はすごく必死だったよ。何とかして、あなたたちが生き残れる方法を探していた。そのためなら、このまま魂が消滅してしまっても構わないという素振りだった。村が守護者と交わした約束が『庇護の代わりに村人の命を捧げる』というものであるならば、その命とは子供たちではなく自分たちで代替できるのではないか、ってね。そんな押し問答をずっとずっと必死に繰り返して、ほんの少しでも可能性を感じればつぶさに検討するという具合。一度結論づけたことでも何度も何度も問い直して、未来につながりうる綻びをずっとずっと探していた」

 ここまで話してマユワはモーティの反応を待った。

「守護者は、この土地を守っていたのであって、この村や村人たちを守っていたわけではないのですよね」

「結果的には村を守ることにもなっていたけれど」

「そうだとしても、それは『村が守護者と交わした約束』とは根本から異なるものですよね。言い方を変えましょうか。守護者とは、月のない夜に生まれた子の命が捧げられるかどうかによらず、この地を守護する機能である、ということですよね。そうであるならば、約束は何のために交わされて、生贄は何のために捧げられていたというのでしょうか」

 マユワは深呼吸をした後に、腹を括った。

「意味なんて、ないよ。あれの言葉を借りれば、村側が勝手に申し出て勝手にやっていたことだから。勘違い、思い込み、錯覚。そういう風に言い表せる類のものでしかない」

「その無意味な約束事のために、これまでたくさんの赤ちゃんたちが殺されて、私たちも殺されかけて、お父さんとお母さんも死んじゃったということですか」

「そういうことになるね」

「あなたは、全部知っていて、黙って、見ていたんですか」

「……ちゃんと知ったのは最近ここに来てからだよ。だけど、そうだね、気付いてはいた。あれにとって生贄なんて無意味なものでしかないのに、この人たちはなんて無駄な交渉をしているんだろうって、思っていたよ」

「そうですか」

 マユワの予想に反してモーティの反応は淡泊なものだった。殴られるぐらいのことは覚悟していたからだ。マユワがそのことを告げると、モーティはつまらなそうにため息をついた。

「あなたを殴ってお父さんとお母さんが生き返るのなら、いくらでもそうしますよ。でもそうじゃないし、お父さんとお母さんがしてくれたことは、決して無駄じゃなかったです」

「あなたはそう思えるんだね」

 モーティは当然だというように頷いた。

「もしお父さんとお母さんが頑張らなかったら、その無意味な約束のために私やヤナンが死んでいたこともありえたということですよね。でも、私たちは今、こうして生きている。お父さんとお母さんが願った通り、私たちは生き延びた。だから、お父さんとお母さんの願いはきちんと叶ったんです。お父さんとお母さんは、勝ったんです」

「何に」

「このくだらなくて理不尽な村の歴史と運命に。あなたが無意味で無駄と呼び捨てた交渉の果てに、私たちは未来を勝ち取ったんです」

 力強く言い切ると同時に、モーティの目尻から涙がこぼれ落ちた。痛々しい、とマユワは思う。これが詭弁であることにモーティ自身は気付いているだろうか。そもそも死ななければいけない人など最初から一人もいなかったのだから。それでも人の死に意味を見出そうとするのは、現実に折り合いをつけて受け入れるためだ。世界とはなんと無機質で残酷なものであることか。

「……六年が経って再び私がここに来た理由の話、聞きたい?」

 口に出してからマユワは、余計なことを、と後悔したが、一度口から出たものは取り消せない。モーティは背を伸ばし、言った。

「教えてください」

「あの人たちが冥界の門を通る前にね、頼まれたの。私たちの子の行く末を見届けてほしいって。その約束を守るために来たんだよ。六年の実験がどのような結末をもたらすのか」

「望んだ通りの結果でしたか」

「さあ。実験を企んだのは守護者だし、私自身は実験の結果に対して何の期待も持ってない。ただ、あの可哀想な夫婦の最期の願いを聞き遂げてあげたいっていうことだけが、私の気持ちだった」

「それで、あなた自身はどう思ったんですか?」

 モーティはマユワを睨みつけ、深呼吸をする。吐く息や唇が震えている。

「あなたは六年ぶりにこの村に来て、色々なものを見ましたよね。私とヤナンはあなたが言うところの悪夢に苛まれていて、ヤナンはやつれて、私は呑気に作り物の家族の思い出に入り浸っていて、私はヤナンのことなんかちっとも気にかけていなかった。それで悪夢が醒めて、ヤナンはすっかり壊れちゃったし、私はあなたたちに対してすごく無礼な振舞いをしていて、今この村の人たちがずっと信じてきたものに対しても背を向けようとしている。あなたたちはこんなものが見たかったんですか?」

「よく自分のことがわかっているじゃない。でも見届けるっていうのはそういうこと。たとえどんな結末になろうが、それを見届けて記憶して、なかったことにさせないということ。立場も思惑も違う人たちが一生懸命に生きて、お互いに関わり合って、その末に生じた結果に貴賤はない。そして、そこに私自身の感想は伴わない」

「じゃあなおさら、思っていることを教えてくださいよ。あなたももう私たちと関わり合う当事者の一人なんですから。私たちに色々なことを教えてくれて、お父さんとお母さんの遺志に応えようとするあなたが無関係なわけがないでしょう」

 答えを求め縋る目だ、とマユワは感じた。もしモーティたちの両親が今の二人を見たら何と言うだろうか。今こうして迷いながらも生きていることを褒めてほしい、認めてほしい、たとえそれがマユワの口を借りたものであったとしても、両親の言葉が聞きたいというのだ。こういうときルシャであれば優しい嘘をつくのだろう。マユワにはそういうことができない。マユワは自分の言葉でしか語ることができない。

「可哀想。ただそれだけ。他人の言葉に頼らないと、今こうやって自分が生きていることに……そう、罪悪感、を持ってしまうことも含めて、全てが可哀想」

「私たちは可哀想なんかじゃない!」

「そうだよ。私はあなたたちのことを可哀想だって思ってしまったけど、あなたが可哀想じゃないと言うならそうなんだよ。だから、もっと堂々としたらいい。この村の辿ってきた歴史が何であろうが、守護者がくだらない実験を仕掛けてこようが、あなたたちの両親があなたたちに何を期待していようが、あなたがこれまでどれだけ道を間違えて後悔したことがあろうが、私が私の一方的な感想であなたのことを可哀想だと評していようが、それはあなたたちの未来の可能性を限定するものではない。どんなに惨めで無様であろうとも、今、あなたたちはまだ生きている。まだ死んでいない。それなら、たとえいつか必ず未来のある日に死を迎えるとしても、それまでの時間を生きることができる。生きて、未来を選ぶことができる。それは決して死んじゃった人にはできないこと。まだ生きている人だけができることだよ」

 モーティはマユワのことば俯きながら受け止めた。モーティの荒い呼吸の音が繰り返されている。そして腹の底から絞り出すようにぽつりとモーティは言った。

「私、あなたのことが嫌いです」

「うん」

「全然優しくないし、嫌なことばかり言うし。あなたと仲良くしたいとか、あなたに認められたいとか、最初からこれっぽっちも思ってないですけど、ちょっと似てるなって思うところもあるからなおさら嫌いです」

「どこが似てるって思うの?」

「本当のことから目を逸らせないところ。優しい嘘に身を任せられないところ」

 マユワは黙ってその言葉を受け止める。モーティは息が整うのを待ってから言った。

「だから、訊くだけ無駄だと思うので、ただの独り言として聞き流してください」

「うん」

「私はこれからどうしたらいいのでしょう。ここ数日ずっと引きこもって考え事をしていました。お父さんとお母さんに会えなくなったのが悲しいってところから始まって、何とかしてもう一度会う方法はないかとか、お父さんとお母さんが最後に残してくれた言葉の意味って何だったんだろうとか、ヤナンのこととか。あの夢が作られたものだっていうことは時間が経つうちに認めざるを得なくなって、じゃあ何のために私はあの夢を見させられていたのか、なぜ幸せな家族の夢だったのか、それに対してなぜヤナンの方が苦しい夢を見させられていたのか。考えるほどにこれまで自分がどれだけヤナンのことを無視していたのか、伯母さんや村のみんなを拒絶していたのか、そういうことが自覚させられて恥ずかしくもなって。でも一方で、だんだん守護者というものもよくわからなくなってきて。だって、守護者が村を守る存在であるならば、どうして村で生まれた赤ちゃんの命を求めるのか。どうして他のものじゃ駄目なのか。おかしいじゃないですか、村を守るために村人の命を求めるなんて矛盾してる。どうして村の皆は私が思うようなことを思わないのか。思っているのだとしたら、どうしてそれを口に出さないのか。あるいは出せないのか。出せないとしたらそれは何故なのか。そういうことも考えていくと、どんどんこの村や村の皆のことが歪に見えてきちゃって、空気を吸うのもしんどくなって。だけど村の外に出ていくとしても、外での生き方なんか全然わからない。村の中で生きていくとしたら、これから先、村の皆とどんな顔をして暮らしていくというのか」

 喋っているうちにモーティも自分が何を言おうとしているのかわからなくなったらしい。ため息をついて、手で顔を覆ってしまった。

「そういうときはね、大事にしたいことを大切なものから順番に並べてみたらいい」

 モーティは顔を覆っていた手を外し、マユワの方を見た。

「どうせ人間なんて一度にひとつのことしかできないんだから。それで、自分が本当に大事にしたいと思ったことに素直になったらいい。やり方はその後で考えればいい」

 モーティは宙を見上げ、モーティにしか見えないものを見ている。色々なものが浮かんでは消えていったことだろう。何度かの呼吸を経て、モーティはまとまった答えを宣言した。

「ヤナン。ヤナンを助けてあげたい」

「それはどうして?」

「六年の間にヤナンはぐちゃぐちゃにされてしまったから。僕はもうお父さんとお母さんの顔も思い出せないってヤナンは言ったんですよ。ひどすぎる。私はお父さんとお母さんの思い出があったから耐えられたのに、ヤナンにはそれすらもなかった。そしてこれから先も。だからヤナンは私に縋るしかなくなっちゃった」

「あの子に依存されるのが嫌だってこと?」

「いいえ、違います。ただ健全じゃないなって。ヤナンは私と違って、とても優しいし他人を思いやれる素敵な人なんです。もっと色々な人に愛されるべき人なんです。誰にも、本当なら一番近い立場にあったはずの私にすら助けてもらえなくて、一人で耐えて耐えて耐え続けて、ついに耐え抜いた。それなのに恨み言の一つも言わないどころか、いつも私のことを思いやってくれた。とてもすごい人。同じ双子だなんて信じられないくらい。だけど今のヤナンは私のことしか見ていない。私を失うことを恐れている。……私がずっと部屋にこもっている間、ヤナンは毎朝毎晩私の部屋に来て、今日一日あったことや自分の思っていることを話してくれました。私がどれだけ素っ気なくしても、懲りずに来て声をかけ続けてくれました。私の手も握ってくれました。その手には遠慮がちに力が込められていて、私との距離感を一生懸命測ろうとしていることがよくわかりました。だから余計に、ヤナンをこんな風にした村と私自身が許せなくもなりました。私はヤナンに罪滅ぼしと恩返しをしたい」

 話しているうちにモーティは自分の言葉に自信を持ったようだった。好きにすればいい、とマユワは思うが、それは口に出さない。代わりに「そう」と一言だけ返しておいた。少しの間を置いて続ける。

「どうせそのうち……ううん、もしかするともう既に知られていることかもしれないから、言っちゃうね。そう遠くないうちに、この村は外の世界に開かれる。外からたくさんの人がやってきて、あなたたちは外の世界との交流を始めることになる。今まで知らなかったこと、知ってよかったことや知る必要もなかったことも含めて、たくさんのことを知り、見聞きする機会を得る。あなたたちのうちの何人かは、実際に村の外に出て暮らすようになるかもしれない。きっとたくさんの混乱が起こると思う。争いだって起こると思う。それで少なくない人が傷ついて、嘆いて。でも、それでも。この村は閉じたままでいることを選ばない」

「どうして」

「もうこの村には未来がないから。今すぐじゃなくても、じきにこの村は滅ぶ。そうなるのが嫌だと思うなら、この村は外の世界と交流を持たなければならない」

「そうですか」

「だから、この村を出て行こうと思うなら、これはひとつの機会になるのかもしれない。村を出てどこに行くのかとか、どうやって暮らしていくのかとか、そういうことについては何も教えてあげられないけど」

 モーティからの返事はない。マユワが横目で様子を伺うと、モーティは右手を水平に伸ばし、五本の指を見つめているところだった。握って拳を作り、それからまた指を伸ばして拳の甲をぼんやりと見つめている。

「昨日久々に外に出たとき、村の雰囲気が違うように感じました。大人たちはそわそわして落ち着きがなくって。何かあったんだろうな、とは思っていましたが、そういうことだったんですね。やっぱりこの村は歪だった、そういうことなのでしょう。ところでその話はもちろん村長さんも知っているのでしょう?」

「そうだね」

「何も変わらなければよかったのに、って思います。幸せは永遠に不変なもので、ちょっと前までの私みたいに、そういうことを心の底から信じて疑わずにいられたらよかったのに。だけどそうではないことに気付き、知ってしまったからには、もう元には戻れません。とても嫌だし悲しいけど、受け入れるしかないのだと思います」

 モーティは伸ばした腕を下ろし、宙を見た。

「今朝、久々に伯母さんの顔を見ました。髪が薄くなって、皺が深くなっていました。正確には、そうなっていたことに今さら気付きました。私の手を握ってくれたヤナンの手は大人の男の人のそれに近づいていて、星空みたいだと思っていた光苔はみすぼらしい汚れみたいに見えました。あなたのことも、初めて見たときは私と同年代の子なのかなって思っていましたけど、今こうしてじっくり見てみると、村の誰よりもおばあさんみたいに見えます」

「そう」

「あなたは人間のふりをしていますけど、人間になりたいんですか?」

 モーティは冷めた声でマユワに問う。それは純粋な疑問であると同時に、自分たちは種族が違うことを確かめるものであった。

「別に。でもね、何かを思ったり感じたりする心が人間だけのものだって考えるのはあなたたちの傲慢だよ」

「そうかもしれませんね」

 両者の間に沈黙が流れる。モーティはマユワを置き去りにして未来を見ている。これから何をするか。明るい未来でもなく悲劇的な未来でもなく、ただこれから起こりうることを直視している。自分が置き去りにされる、という感覚がマユワに口を開かせた。

「……本当にあなたは私のことが嫌いなんだね」

「嫌いです。だけど、感謝しているのも本当ですよ。あなたに善意や人の心というものがなかったとしても、自分が何も見られていなかったことを思い知るきっかけになりましたから」

「私も、別にあなたのためにやっているわけじゃない」

「そうですね」

 それきり会話は途絶えてしまう。息苦しさを感じているのはマユワの方だったが、このような空気はこれまでにも幾度となく経験してきた。そのうち相手の方が根負けするものだ。心に蓋をして目を瞑り、瞼の裏に浮かぶ星を数えるうちに、いずれ終わりは訪れる。どうせ、どんな人間もマユワより先に逝く。いつか遠い未来に訪れる孤独は恐ろしいものであると同時に安らぎでもある。

「そろそろ行きますね。今日は色々教えていただきありがとうございました」

 マユワの返事を待たずにモーティは部屋を出て行った。扉の隙間からモーティと村長の妻の話す声が漏れ聞こえる。

 人間になりたいんですか。

 マユワは膝を抱えて額をつける。こんなふうに傷つき痛む自分の心とは一体何なのだろうとマユワは自問する。




 14. 


 近頃モーティは夜に眠ることができない。まったく眠気が来ないわけではないし、眠りたくないわけでもない。引きこもっていた期間も含めて、これまで十分すぎるほどに眠ってきたことへの反動だった。モーティにとって眠ることは、今ではもう積極的に行うべきことではなくなっていた。眠ってもそこにあるのはただの空白で、悪夢さえ見ることもない。目を瞑るとやがて意識を失って、その直後にはもう朝になっている。体の疲れが取れてすっきりしている。眠るという行為とは心身の休息それ以上でも以下でもないものとなった。

 家族が寝静まったのを確かめてから、モーティは部屋を抜け出し、居間に行く。夜更かしをするようになってから、夜とはびっくりするほどに冷えるものであることを学んだ。だから十分に温かい恰好をして、そのうえで椅子に座って暗闇に沈んだ屋内を眺める。そういうことにも飽きたら、最近は家の外に出てみることも始めている。今晩はよく眠れない方の日であるらしいから、外に出てみることにする。

 モーティは豊富な夜の時間を退屈だとは思わない。夜の村を歩くというのは、意外と面白いものであると知ったからだ。

 今晩はどこへ行ってみよう?

 もちろん誰かに見咎められて叱られるというのは面倒くさいことであるから、なるべく人目に付かないところがよい。

 そんなことを考えながら廊下を歩き、玄関の扉に手をかけたところで、モーティは呼び止められる。

「どこに行くの?」

 振り返ればそこにいたのは、眠たげに目をこするヤナンだった。

「ちょっとそこまで。散歩」

「眠れないの?」

「ううん、まあそうだね。でも大丈夫だよ」

 モーティとしては何気なく言ったつもりであったが、ヤナンが身を固くしたことが伝わった。

「僕も一緒に行くよ」

「眠いんじゃないの?」

「大丈夫。その、モーティがひとりだと心配だから」

 どうやらヤナンに不要な誤解をさせてしまったらしい。怖い夢を見て眠れないわけではない、と伝えたところでヤナンは信用しないことだろう。

 着替えてくるから待ってて、と言って部屋に戻ったヤナンを待つ間、モーティは壁にもたれかかって、ここ数日のことを思い出していた。長い夢から醒めたようだった。両親とヤナンの四人で暮らしていた夢だけでなく、それ以前のまだ右も左もわからない子供だった頃から含めて、これまでの人生の全てが長い夢だったように感じられた。両親の存在は確かに胸の内に感じられる一方で、全てが夢であるように感じられて、夢と現実の境界は曖昧だった。両親の存在もまた夢の中の出来事であったような気がする。伯母やヤナンのことさえも、夢の中の出来事のように感じられる瞬間がある。しかし、少なくともその二人は現実のはずだ。

「ごめん、お待たせ」

「ううん。行こう」

 どちらからともなく伸びた手が宙で重なる。お互いの手は昔よりも大きくなったが、温かさは変わらない。今日はモーティがヤナンの手を引く側だ。

「モーティは、今日は何をしてたの」

「ええとね。牧場を歩いたり、風車を見に行ったり、かな。モーティは一体何をしているんだろう、って目で見られるけど、気にしないようにしてる」

「ふうん」

「ヤナンは?」

「いつも通りだよ。一日中洗い場で野菜洗い。あ、でもね、最近早く終わらせられるようになってきたんだよ。体力がついてきたのかな」

「よく眠られるようになったおかげだね」

「うん」

「ルシャさんは相変わらず洗い場に来てるの?」

「そうだよ」

「あの人もすごいよね」

 初めて見たときに太陽みたいだと思った人は、その印象の通りだった。それだけに、モーティが数日前に砂船の前で追い詰めたときの怯えたような表情を思い出し、心の底から申し訳ない気持ちになる。

「あっという間にあの場に馴染んじゃったよ。今ではみんなのまとめ役になってる」

「そうなると、ちょっと私はもう行きづらいかなあ」

「どうして? 大丈夫だと思うし、誰も気にしないと思うけど」

「まあ、そうなんだろうけどね。私、ルシャさんにも酷いことを言っちゃったし」

「ルシャさんはモーティのこと、心配してたよ」

「そうなんだろうけどねえ、ううん」

 歩いているうちに、地底湖を眼下に望むようになった。静かな水面に天上の光苔が映えて逆さまの星空がある。昔であればそう表現したであろうが、今は水面に反射している光苔としか表現のしようがないものだった。

「伯母さんって結婚とかしないのかな」

 ふと思ったことが自然と口からこぼれて、ヤナンが大きな声で驚くものだから、つられてモーティも驚いてしまう。

「声が大きいよ」

「ごめん」

 ひそひそ声で会話をするのは、二人で一緒のベッドの中でする秘密話のようだった。それが夢の中の出来事だったか、実際にあったことだったか、モーティに区別がつかない。

「でもさ、私たちも大きくなったし、区切り、っていうのかな、そういうのも付いたじゃない。だからそろそろ伯母さんにもちゃんと幸せになってほしいなって」

「モーティの言うことはわかるけど、それは僕たちが気にするべきことじゃない気がする。……だめだ、僕には難しいよ」

「はは、ヤナンは子供だねえ」

「なんだよ、僕たち同い年じゃないか」

「中身の話だよ」

 ヤナンは拗ねたように顔を背けるが、つないだ手は離れない。これがただのじゃれ合いであることを二人は知っている。ヤナンとモーティは心が通じ合っているとお互いが信じることができる。これは未来においても変わらないことに含まれるものだったらいいなとモーティは切に思う。ヤナンもきっと同じように思っていることだろう。しみじみと感じ入るようにモーティは言った。

「色々なことが少しずつ、でも確実に、変わっていくね」

「そうだね」

「ヤナンはさ、大きくなったら何になりたいの?」

「何だろう。よくわからないけど、村の大人たちみたいになるんじゃないの。畑仕事をしたり、牧場に行ったり」

「それだけ?」

「他に何があるのさ」

「まあ、何を仕事にするかって言われたらそんな感じになるんだろうけどさ。もっとこう、なんていうのかなあ、これから何を大事にして生きていきたいのかとか、そういうこと」

「何を大事にって言われたら、それは、やっぱり」

 唐突にヤナンは言葉を止めた。

「やっぱり?」

「やっぱり、モーティ、だよ」

 いざ言葉にすると恥ずかしくなったらしい。顔を背けたヤナンを見るモーティは自然と目が細くなる。そしてそのまま目を瞑り、ヤナンの手のひらの感触に意識を向ける。

「僕ばっかりずるい。モーティはどうなのさ。モーティは大きくなったら何になりたいの?」

「私はね、そうだなあ」

 夢の中で母はいつも言ってくれていた。モーティはこれからどんどん背が伸びて、手足がすらりとして、綺麗なお姉さんになるだろう、と。今はまだまだ子供であるが、夢の中の自分と比べれば、たしかに母が言ってくれた通り、背が伸びて手足もすらりとして、お姉さんに近づいたのだろう。胸だってこれから大きくなるはずだ。そしてやがて、記憶の中の母のように、あるいはルシャのように、自分もそういった綺麗な人たちに近づいていくのだろうか。

 そうやって大人になった自分は、何をしているのか。何をしていたいのか。自分の心に尋ねてみて、返ってきた答えを口にする。

「自由になりたい」

「どういうこと?」

「私たちを縛ってきたありとあらゆるしがらみから解放されて、自由で気軽な気持ちになる。それで、私もヤナンも笑っていられたらいいなって思う」

 モーティはそう思った途端に、慣れ親しんだ村の景色がとても窮屈なものに思えてきた。この村で生まれてこの村で死んでいくことに疑いを持っていなかった頃には、生じ得ない感覚であった。

「モーティは、変わったね」

 寂し気に言うヤナンは村全体を覆う暗闇と同化しているようだった。

「前のモーティなら、そんなこと言わなかった」

「うん、そうだね」

「もうここは嫌になっちゃった?」

「さあ、どうだろう。何も思わないと言ったら嘘になるし、村の外に出ていく可能性だって……考えているよ、正直ね」

「村から出て行った人なんて今まで一人もいない」

「前例がないことと不可能であることは別だよ。現にあの人たちは外から来たし、そのうち外に帰っていくんでしょ? だったら不可能ということはないはず」

「そうかもしれないけどさ」

 モーティはヤナンを引く手が重くなるのを感じた。こういうことはもう少し考えがまとまってから言うべきだったのかもしれないが、今晩こうして一緒にいられるのもひとつのきっかけというものだろう。ひと際引く手が重くなった。ヤナンが立ち止まったのだ。モーティは振り返る。ヤナンが真剣な眼差しでモーティを見ていた。

「もしモーティが村を出ていくというのなら、僕も一緒に行く。離れ離れなんて絶対にありえない」

「別に付き合ってくれなくてもいいのに。離れていても私たちは双子で、私にとってもヤナンが大切な人だってことに変わりはないんだからさ」

「でも僕のいないところでモーティがひどい目に遭ったり、もしかしたら死んじゃったりもするかもしれない」

「それはお互いどこにいても一緒だし、ヤナンと一緒にいても同じことじゃないかな」

「だけど僕がいればモーティが困ったときに助けてあげることができる」

「ううん、どうだろう。逆に私がヤナンを助けることの方が多い気がするけど」

 今はまだモーティの方が背は高いし、力も強い。ぼんやりとした記憶の中では、洗い場のヤナンはお世辞にも頼りになるとは言い難かった。しかしそれが過去のものであって、これから先の未来も同じとは限らないことをモーティは十分に理解している。ヤナンはきっと素敵な男の人になる。

「そんなに僕って頼りがいがない?」

「逆に訊くけどさ、ヤナンから見て私ってそんなに守ってあげないといけないくらい弱く見えるの?」

「そんなことはない。ただ僕は」

「モーティ、モーティって、ヤナンってば私のことばかり。とてもありがたいし、嬉しいよ。これは本当。だけどさ、ヤナンにはヤナンの人生があって、いつまでも私がヤナンの中心であるべきではないと思うの。ねえ知ってる? ヤナンって他の女の子たちから意外と人気があるんだよ。ヤナンはひょろっとしてて頼りないけど、でもとても優しいからいいよねって。まあ女の子の言うことだからね、明日には簡単にひっくり返ったりするんだけどさ、それでも最後までいいなって思ってくれる子だっていると思うの。それで、ヤナンはそういう子をお嫁さんにしたらいいよ。幸せな家庭ってやつを築いて、子供が生まれたら伯母さんに見せてあげたらいい。きっと喜ぶよ」

「そのときモーティはどうしているのさ」

「さあ? どうだろうね? わからないけど、どこかで幸せにやっているんじゃないかな」

 これがヤナンを傷つける言葉であることをモーティは理解している。しかしそうだとしても、必要な言葉だと考えている。

「ねえモーティ、僕たちは世界でたった二人きりの双子なんだよ。これまで助け合って生きてきたし、これからだってそうしていけばいいじゃないか。どうしてそんな寂しいことを言うのさ。モーティにどれだけの自覚があるかわからないけど、僕はこれまでモーティにたくさんたくさん助けてもらってきた。モーティがきらきらと輝いていてくれたおかげで、僕は絶望しなくて済んだ。モーティがいなかったら、僕はとっくにあの悪夢に殺されていた。僕にとってモーティは希望で、生きるための道標なんだよ。モーティには返しきれないくらいの恩がある」

「ほら、そういうところ。私がヤナンの中心になっちゃってる。今までは確かにそうだったかもしれない。だけどこれから先もそれでいいのか、ってこと」

「過去を大切にして何が悪い」

「それでヤナンの可能性が狭まるのが私にとっては嫌なことなんだよ」

 名残惜しいがそろそろけじめをつけなければいけない。モーティはヤナンとつないだ手を振り解き、ヤナンから距離を取る。とっさにヤナンが手を伸ばせばその分だけ後ずさりして距離を保つ。

「きっと今、私はヤナンのことをとても傷つけている。そのことは本当にごめんねって思う。だけどね、私にはやらないといけないことができたの。もちろん、それが何かって気になるよね。うん、言う、言うよ。私はね、お父さんとお母さんを探しに行きたいんだ」

 ヤナンが目を見開いたのが見えた。

「……モーティは死んじゃいたいってこと?」

 モーティは首を横に振る。

「違う、それは絶対に違う。お父さんとお母さんが守ってくれたこの命、粗末になんかできるわけがない。私たちが簡単に死んじゃったら、お父さんとお母さんの頑張りが無駄になっちゃう。そんなこと、私は絶対にしない」

「じゃあどういうこと? お父さんとお母さんはこの村や僕たちを見守ってくれているって」

「そういうふうに言われているよね。だけど私はそれが嘘なんじゃないかって最近思っているの。私はそれを確かめたい。確かめて、確信を持ってお父さんとお母さんを探しに行きたい」

「どこかでお父さんとお母さんは生きているってこと?」

「ごめん、そういうわけでもないんだと思う。お父さんとお母さんはたしかに死んじゃった。だけど、私が言いたいのは、お父さんとお母さんはここじゃないどこかにいるんじゃないかってこと」

「モーティの言っていることがわからないよ」

「そうだと思う。私も、自分で考えてみて、とても恐ろしい可能性だって思ってる。だけど考えれば考えるほどそうとしか思えなくて。本当のことを確かめないままで未来のことなんか考えられないの」

「だったら僕も一緒に」

「でもそれはきっと、きっと、ヤナンにとっては残酷な可能性なの。だから、ヤナンは知らない方がいいと思うし、違っていた方がいいとさえ思うから」

「これ以上傷つくことなんてあるものか」

「そうだとしても、これは本当に残酷で恐ろしい可能性だから。……もし私の予想が当たっていて、それが真実だと知ってしまったら、ヤナンはもう二度と引き返せなくなる」

「そんな恐ろしいことならモーティだって知る必要がないじゃないか。それに、そういう可能性あるのかもしれないって聞かされたら、もう僕だって忘れられないよ」

 モーティが怯んだ一瞬の隙を突いて、ヤナンはモーティの手を握り直す。その手はもう二度と離れない。

「僕たちは双子で、何があっても一緒だ。嬉しいことも恐いことも、全部分け合うんだ。モーティを一人になんかしない。正直言うとさ、モーティが何を考えてるかわからないよ。だけど、モーティはとても優しくて、ちゃんと幸せになるべき人だって思ってる。もっと僕のことを信じて頼ってよ。僕のことが頼りなくても、僕がモーティに縋っているように見えたとしても、僕はモーティの力になって、それで。それで、僕たち二人だからこそ行けるところへ行きたい」

 ヤナンの泣くまいと歯を食いしばる顔を見て、モーティは美しいと思った。

 光苔の星空よりも、凍てつき澄み渡る夜の地底湖よりも、この世の何よりも美しく見えた。これより先の人生においても、この顔よりも美しいものを見ることはないだろうということを予期した。自分にはもったいないものだと思うと同時に、他の誰にも渡したくないとも思ってしまった。そう思ってしまったことをもはや忘れることができなくなった。ヤナンはモーティのもので、モーティはヤナンのものだ。互いを道標とする二人の行く末は誰にもわからないが、それがどのようなものであれ、それ以外の未来は存在し得ないことを悟った。

「ヤナンってばかだね」

「モーティこそ」

 くすりと笑いあって顔を寄せ合う。吐息が混ざり合うくらい近い距離で互いの存在を確かめあった。

 二人は並んで歩きだす。

 地底湖の岸辺に沿って歩き、行く先は地下墓地である。そこに何があるのかヤナンにはわからないが、モーティのしたいようにさせる他にない。どちらともなく握り合った手にこもる力が強くなり、そのことを確かめ合う。

 その途中、地底湖の対岸に蹲る小さな人影を見た。よく見えないが、おそらくマユワであろう。向こうもヤナンとモーティに気付いたように見えたが、お互い話しかける用事もなければ話しかけられたいとも思っておらず、そしてなによりも声をかけるには距離が遠すぎる。お互い気付かないふりをして、ヤナンとモーティは二人が行くべきところへ行くことを優先した。

 道中でモーティは言った。

「いつも私たちがごみとか捨てる廃棄孔ってあるじゃない。あれに耳を澄ませてみたことってある?」

「じっくりとやったことはないけど、ごうごうって音がするよね」

「あれって何の音だろうね」

「風の音じゃないの」

「うん、それもある。だけどね、ちゃんとじっくり聞いてみるとね、それ以外の音もするんだよ」

 ヤナンが首を傾げているうちに、二人は地下墓地に到着する。密集する光苔が石碑を淡い黄色に染め上げていた。

 モーティは台座の中心にある両開きの扉の前に立ち、遅れてヤナンが隣に並ぶ。扉の上下にはそれぞれ取っ手がある。扉を開けば石棺を納めることができるものだ。おぼろげな記憶の中で、ヤナンとモーティの両親は開かれた石扉の奥に消えていった。

 ヤナンはモーティのやろうとしていることを察し、モーティの顔を見るが、今更後には退けないし、退くつもりもない。

「ヤナンはこっちを持って」

 そう言ってモーティは反対側へ行く。そして二人で力を合わせて全力で扉を持ち上げようと試みた。最初はぴくりとも動かなかったが、野菜を目いっぱい入れたかごを持ち上げるときのことを思い出し、しっかりと踏ん張って力を入れた。すると扉は重苦しく擦れる音を立てて持ち上げることができた。もう片方を開けることもできるが、ヤナンとモーティが中に入ることだけを考えればこれで十分だろう。

「この先にお父さんとお母さんがいるんだよね?」

 ヤナンが訊ねるとモーティは険しい顔でぽつりとこぼした。

「会えたらいいんだけどね」

 光苔のわずかな光であるが、薄闇の奥の様子をいくらか伺うことができる。ごうごうという音の轟く扉の中は、下方に向かってゆるやかに傾斜する坂になっていた。坂の表面は滑らかだった。これは決して自然の造形ではありえない。誰かが作ったものだ。風車や水路と同様、祖先たちが作ったものである。

「だけど全然風化してない」

 モーティの呟きに対する返事をヤナンは返すことができない。モーティが言葉を続ける。

「誰かが手入れしてるってことだね」

 ヤナンとモーティの知る限りにおいて、地下墓地の管理を仕事にしている大人はいない。誰かが役割を隠して仕事をしているということである。それが誰であれ、村長が関知していないということはあり得ない。

 この下り坂の先にあるものは何か。光苔の光が届かないところは完全な闇に覆われている。ヤナンにはこれより先に進むのは危険なことであるように思われた。しかしモーティにとってはそうではなかったらしい。滑らかな下り坂に片足を付け、つま先で感触を確かめる。滑らないことを確かめたら踵に体重を乗せ、もう片方の足も墓穴の中に移そうとする。モーティに迷いはない。もう二度と戻れなくなるとしても、躊躇うことなく進んでいってしまうだろう――ヤナンがモーティの腕を掴んで引き止める。首を横に振り、訴える。

「わかった、もうわかったよ」

 ごうごう、という轟きの奥にばしゃばしゃ、ざぶんざぶん、と水の弾ける音が微かに聞こえてきていた。それは暗闇の奥から立ち上がり、ヤナンとモーティの耳に絡みついていた。

 石扉を閉じると地下墓地は再び静寂に包まれた。死者の名前が刻まれた石碑にもたれるように二人で並んで座っている。モーティは密集する光苔を見上げながら、ぽつ、ぽつと語り始めた。

「私たちの祖先がこの土地に来たのが実際どれくらい昔なのかは知らないけどさ、何十年、何百年っていう単位の話じゃない。その間に出続けているごみってどうなってるんだろうって考えたの。どんなに普段気を付けてごみを増やさないようにしようとしていたって、何百年分ものごみとなれば、それはもうとんでもない量になるはず。それだけのごみを私たちは廃棄孔に捨ててきた。だけど廃棄孔からごみが溢れる気配はまったくない。これってどういうことだと思う?」

 ヤナンは答えに窮している。それはモーティも通ってきた過程だった。

「詳しいことはわからない。だけど、廃棄孔に捨てられたごみは溜まることなくどこかに消えている。そう仮定しないと、いつまで経ってもごみが溢れないことの説明にならないんだよね。だから、私、廃棄孔のことを調べてみたんだよ。じっと目をこらしてみたり、長い紐を下ろしてみたり、耳を押し当ててよく聞いてみたり。そうしたらね、風の音に混じって水の音がしたの。水が弾ける音。だから、廃棄孔の先には水の流れがあるんだって気付いた。ごみが溜まらない理由もそれで納得がいった。

 この村が昔からあらゆるごみを廃棄孔に捨てているのだとしたら、じゃあ地下墓地ってどうなんだろうっていうのが次の疑問だった。何百年という歴史の中で一体どれだけの人が生まれて死んだのか。ねえヤナン、想像してみてよ、たとえば村中の人たちを一か所に集めたら、どれくらいぎゅうぎゅうになるか。何百年という単位で考えたら、全部でどれくらいの数になるのか。それだけの人が、全員、地下墓地に葬られている。じゃあ地下墓地の中ってどうなってるんだろう? 私たちが普段捨てているごみと同じように、村の人たちの死体も全部どこかに消えてなくなってるって考える方が自然だったし、そうとしか思えなかった。だけど、それが意味することはつまり、お父さんとお母さんもどこかに消えていなくなっちゃったってこと。文字通りの意味でね、跡形もなく消えていなくなっちゃったってこと。あの日、お父さんとお母さんのお葬式の日に、私たちの目の前で二人は消えていなくなったんだよ。

 それなのに、死んだ人たちは守護者とともに村を見守ってくれているなんて……それは遺された人たちを慰めるための優しい嘘だったのかもしれない。だけど、私は、怒りしか感じられなかった。嘘つきの大人たちと、そして、ちゃんと考えればわかったはずのこと、わかっていれば全力で抵抗したはずのことをしなかった自分、無駄に六年も夢に浸って考えることすらしなかった自分自身に対して。

 もっとちゃんと考えればよかった。もっとちゃんと現実を見て、この村がおかしいってことに気付けばよかった。もっとちゃんとヤナンのことを見て、苦しんでいるヤナンの苦痛を和らげることをすればよかった。もっとちゃんと、ヤナンにお父さんとお母さんの話をすればよかった。そうすれば、もっともっとちゃんと、ヤナンのことを助けてあげられたかもしれないのに。ヤナンはお父さんとお母さんのことを忘れずに済んだかもしれないのに」

 モーティの涙はとうに枯れ果てた後だった。部屋に引きこもっている間に何度も何度も心は引き裂かれた。痛みは変わらず鮮明であるが、それが表に出ることはもうない。モーティの胸にあるのは十分に燃え盛った後の残火のような怒りであった。このような怒りを抱えるのはモーティ一人だけでよかった。ヤナンには美しいままであってほしかった。しかしモーティはヤナンと手をつないでしまった。そのつないだ手から残火が燃え移ってしまうかもしれないと思うと残念であるが、そうして共に燃え尽きるところまで含めて二人は一緒になることを選んだのだ。

 モーティは自分の隣から鼻を啜る音を聞いた。声にならない嗚咽にじっと耳を傾ける。

「やっぱりモーティが可哀想だ」

 ヤナンは袖で目を拭い、続けた。

「前にお父さんとお母さんのことを思い出せないって言ったけど、僕は、思い出したよ。お父さんとお母さんのこと。全部じゃないし、はっきりとしたものでもないけど、でもちゃんと僕の中にも残っていたんだ」

 よかった、とモーティは思った。じゃあやっぱり、私は必要ないじゃないか。

「たとえば、ほら。モーティがお母さんのコップを落として割っちゃったことがあったの、覚えてる?」

 そういえばそんなこともあったような気がする。たしかその時はどうしただろうか。

「モーティが破片を隠そうとしたのを、僕がたしなめて、それでモーティは『じゃあ代わりにヤナンが怒られて』なんて無茶苦茶言って、僕はびっくりしちゃって。そんなやりとりを全部お母さんに見られていて、その後モーティは仕事から帰ってきたお父さんにこっぴどく叱られていたよ」

「ひどい話」

「モーティが怒られている間、僕、お母さんから聞いたよ。あのコップは、お母さんのお婆さんから譲ってもらったもので、小さい頃からとても大切にしていたものだって。それを聞いたらなんだか僕まで申し訳なくなっちゃったけど、だけどお母さんはあっけらかんとして、『ま、しょうがないね』って笑ってた」

「そんなことがあったんだ」

 知らなかった、という言葉がモーティの喉まで出かかって、ぐっと飲み込んだ。今自分がそのようにしたことに、モーティは動揺する。両親のことは全て覚えていると思っていたのに、そうではなかったからだ。

「まだ悪夢を見ていた頃、僕はときどき地上に出ていたんだよね。高台で夜明けを見るのが好きだった。だけど、どうして高台からの景色が好きになったのか。僕たちがまだずっと小さくて、まだ意識も曖昧だった頃に、お父さんが高台に連れていってくれて、そこで見た景色があまりにも綺麗だったのがきっかけだったことも思い出した。夜と朝の境はすごく特別な時間だということは、その時に知ったんだよ」

「へえ……」

「たぶんモーティはそのとき、ぐっすり寝ていただろうから、これはモーティが知りようのないことのはずだよ」

 ヤナンはモーティとつないだ手に力を込めて続けた。

「僕はモーティの知らないお父さんとお母さんを知っているし、思い出しもした。お父さんとお母さんの思い出はモーティだけが持っているものじゃないんだよ。僕たちの中にそれぞれちゃんとある。だからさ、モーティが僕に悪いことをしたなんてことは全くないんだよ」

 モーティはじわじわと腹の底が温かくなる心地がすると同時に、胸が詰まって苦しくなる心地もした。自分は夢の中で見た両親ではなく、六歳以前の両親に関することをちゃんと覚えているのだろうか。目を閉じてみて浮かぶ顔は温かく優しいもので、過去にも今この瞬間にもその顔に慰められて勇気づけられている。記憶にあるものを夢か現実かで区別することに意味があるのかと言われれば、それはないのかもしれない。ただ、忘れたくないと思ったことを忘れてしまって、忘れてしまったことさえも忘れてしまうというのは、とても悲しくて恐ろしいことだとモーティは思った。そのことに気付かせてくれたヤナンには感謝しかない。ヤナンはモーティの欠けた部分をちゃんと埋めてくれるのだ。

「もう、本当に、ヤナンはすごいなあ」

「僕が知っていてモーティの知らないことは何でも教えてあげるから、僕の知らないことを教えてよ。二人で補いあって、それで、ちゃんとお父さんとお母さんを探しに行こう。あんなのは……あんまりだよ。あれはよくない」

「そうだね」

 裏付けを得た想像は嫌でも精緻なものとなる。廃棄孔の底がどれほど深いものなのかはわからないが、どんなに石棺が頑丈なものであったとしても、高いところから叩きつけられて無事ということはないだろう。

「探しに行くっていうけど、モーティはあてはあるの?」

「わからない。廃棄孔の底まで下りられれば手掛かりが見つかる気はするけど」

「あそこを下りていくのは絶対にやめた方がいい」

「うん。さっきはごめんね」

 こつん、とヤナンの頭がモーティの頭に当たり、それが返事の代わりとなる。ヤナンが言った。

「村長に訊くのが早いと思うけど、訊いていいものか」

「訊いても絶対に教えてくれないと思う。隠したくて隠してることなんだから」

「そうだよね」

「水の流れがあるのはたぶん間違いない。流れだから、どこかからどこかへ流れているということ。じゃあそれがどこから来ていてどこへ行くのか。それがわかればいいんだけど」

「御使い様ならもしかしたら何か知ってるかも」

「まあ、そうなるよね」

 モーティは自分でもあからさますぎるほどに歯切れの悪い返事をしてしまったと思った。

「でもこの前、モーティはちゃんと謝ったじゃない」

「いやあ、実はその後にまたひと悶着あってね」

「どういうこと?」

 ヤナンに問い詰められて、モーティは先日マユワに話を訊ねに行ったことを告白した。その中で、マユワに対して酷いことを言ったことも話した。

「それはモーティが悪い」

「だってあの人、自分ひとりが全てを知っていて、全てに責任を負っています、みたいな態度でいるんだもの。そんなわけないでしょ。あれは正真正銘の引きこもりだね。性根が引きこもり。数日間だけど引きこもりを経験した私が言うんだから間違いない。あの人は他の人のことが気になって仕方ないのに、そのくせ人が怖くて仕方ない。人付き合いをしたいんだかしたくないんだか、自分でもよくわかってない人だよ。ちゃんと本当のことを話したらいいのに。どうせ嘘つくのが下手くそなんだから。ああいう人には本音を包み隠さず言ってやるくらいがちょうどいいの、たぶんきっと」

「僕はまだあの人とちゃんと話をしたことがないからわからないけど」

「ヤナンはわからなくていいの」

「なんで今ここでモーティが怒るのさ」

「怒ってない」

「でも元気になったね。よかった」

 ヤナンに微笑みかけられてモーティは気恥ずかしくなる。それを隠すように勢いをつけて立ち上がる。

「そういえばさっき、地底湖のところにいたよね。まだいるかな?」

「行ってみよう」

 モーティは頷きで返し、二人は地下墓地を後にした。

 湖岸が遠くに見えてきて、先ほどと同じところに小さな背中はあった。

 ヤナンが声を掛けると、マユワは「なに?」と振り返った。




 15. 


 アルフィルクがアルタヤとその部下を乗せた大砂船を伴って戻ったのは、出立から三か月に迫ろうという頃だった。当初の予定から一か月ほど遅れた頃である。

 戻ってきたアルフィルクは飄々と「少し遅くなった」と言っていたが、その口調に反していくらかやつれているように見えた。アルフィルクの側でも色々あったのだろう。マユワはただ一言、「おかえり」とだけ告げた。

「早速だが代表の方に取り次いでもらおうか」

 アルタヤがアルフィルクに耳打ちするよりも早く、村長が進み出た。アルタヤと村長は互いに名乗りながら握手を交わす。

「遠方よりご足労いただき恐縮です」

「いえ、礼には及びません。むしろ今回、私は穏やかではない事情で参りましたゆえ」

「と、言いますと?」

「私も回りくどいことは苦手でしてな。率直に申し上げましょう――この村には盗品が集まっているという疑いがあります。商業組合の一端を担う立場の者としては看過できないことです。何かお心当たりは?」

「なるほど。そういうことでございますか。もちろん我々自身には身に覚えのないことですが、どれ、詳しく話を伺いましょうか」

 村長とアルタヤが建物の中に入る間際、村長とアルフィルクの目が合う。アルフィルクは疲れた笑顔を浮かべ、村長は視線で礼を述べた。

「ま、話を始めるきっかけはあんなものだろう」

「盗品って何?」

 ルシャが怪訝な表情を浮かべて訊ねてくるのに対し、アルフィルクが投げやりに答える。

「この村にはたまに行商人が来るそうだが、こんな砂嵐で守られたところに貴重な時間と機会を使って足を運ぶ行商人なんかいるわけがないだろう。じゃあ盗賊なら来るのかって話だが、それはそれで怪しいがな。ここは普通の人間には到達できない場所だから、部外者が来られるはずがないんだよ。ま、真実が何であれ、ここには村の外から持ち込まれたものがあることは事実だったから、そのことを呼ぶ口実にした、それだけだ。当然この場では真相はわからない。わからないなら調べてみようって話になる。そうしてアルタヤさんと村長が関係を築くきっかけになれば、俺の役目としては十分だ」

 アルフィルクは大きく伸びをしてため息をついた。「ああ疲れた」という呟きが心の底からのものであることは明らかだった。

「マユ、それからルシャ、遅くなって本当に悪かった」

 アルフィルクが頭を下げると、それに合わせてグラジも頭を下げた。

「やだ、やめてよ。予定通りにいかないなんて別に珍しくないし、遅れるって連絡だって送りようがないし。私たちは私たちで穏やかに暮らしていたし、ねえ?」

 ルシャが、マユワに目線を向ける。しかしマユワはそれに構わず、アルフィルクの前に立ち、右手をアルフィルクの左頬に添えた。

「おつかれさま。大変だったんだね」

「ああ。そりゃあもう色々あったさ」

「そう。後で聞かせてね」

 アルフィルクとマユワのやり取りの傍らでルシャがグラジに寄り、小声で訊ねる。

「あのアルがあんなにしおらしくなるなんて、一体何があったの」

「色々だな」

「色々、ねえ」

「俺もルシャに話したいことがたくさんある」

「あら、それは楽しみね」

「そちらは何か変わったことはあったか?」

「あるわよ、たくさん。だけど一番大きいのは、二人も教え子ができたってことかな」

 グラジが眉をひそめたのを見て、ルシャは笑いながらグラジから離れる。それからアルフィルクとマユワに声を掛け、下宿先である村長の家へ向かっていった。その後ろに三人が続く。


 その翌日、村長は村人全員に集会所に集まるよう告げた。大人たちは口伝てにその連絡をするなかでは、悟ったような顔をする者がいれば、戸惑う者もおり、表向きは静かだったものの水面下では混乱があったという。

 昼過ぎになり、集まった村人たちを前に村長は宣言した。

「今後、我々は村の外の人々と積極的に関わりを持つことにする。理由は、察している者も多いだろうが、この村は限界を迎えつつあるためだ。我々が生き延びるためには外部の方々の助力が欠かせない。そう判断した。皆にはそのつもりでいてもらいたい」

 一瞬の静寂の後に、ざわめきが起こり、ざわめきは新たなざわめきを呼び、大きな声が届くようになる。

「そんなこと、守護者様が許すものか」

 そうだそうだ、と呼応する声が続くが、それは村全体で言えばごく一部に過ぎないものであったが、無視するには大きすぎるものでもあった。今までの暮らし、受け継いできた伝統、そういったものが捻じ曲げられることへの抵抗感。突然現れて影響力を発揮したアルタヤへの忌避感。人々の悪感情は感染し、手っ取り早いはけ口を求める。それはつまり、演説する村長の傍らに立つアルフィルクたちである。守護者様の使いだなんて嘘っぱちだったんだ、私たちの守護者様がこんなことを許すはずがない、などといった言葉が飛び交う。そうして暴走した感情が十二年前の月のない夜のこと及んだ時、村長は空気を震わす怒声を発した。

 静けさを取り戻した空気の中、村長は努めて声の震えを抑えながら言葉を続ける。

「ヤナンとモーティに罪はない。最初から誰にも、ヤナンとモーティだけでなく、村中の誰にも、罪など一つもないのだ。

 守護者様は我々がこの地に辿り着く前から今日まで、我々を守り育ててくださった。しかし村の施設はもはや壊れる時を待つのみであることは皆も知っているだろう。想像してみよ。風が止まり、水が淀み、作物が枯れ果て、家畜が死に絶えた村の姿を。その時守護者様は我々に何をしてくださるだろうか。奇跡が起こって、壊れていた機械が直るということがあるだろうか。その時、お前たちはこれまでの恩を忘れて守護者様を呪い罵るというのか。恩寵は怠慢な者には訪れない。最善の努力を重ねた者のもとにのみ訪れる。そういうものだ。かつて我々の祖先が辛苦を乗り越えた末に奇跡を得たように、我々もまた今目の前にある苦難を乗り越えなければならないのだ。

 私の判断に異論や反論がある者もいるだろう。しかし私は、納得できないならば従わなくてもよいとは言うことができない。なぜならば、この危機は我々全員で臨まなければならないことだからだ。それほどまでに我々は力に乏しく、危機は強大なのだ。だからどうか従ってほしい」

 声を荒げていた者たちには不満があれども代替案があるわけではない。日々漠然と感じていた不安が言語化され、確実に訪れる未来として提示された結果、彼らに残ったのは怒りではなく困惑であった。

「共にこの危機を乗り越えよう。そして、我々はいつまでも力のある存在に守られ導かれるだけのか弱い存在ではないし、そのような存在であってはならない。守護者様はきっと我らが試練に臨み奮闘する背中をこそ応援してくださることだろう」

 人々のうちの少なくない数の視線がマユワに向けられる。肯定も否定もしないことがマユワにできる唯一の返事だった。目を閉じ、村人たちの意思に委ねる。人とは自分の願望を正当化するのが上手な生き物であるから、村人たちは自分たちの望む通りのことをするのだろう。もしも破滅を望むのであれば、それも希望の一種である。

 マユワの沈黙がどう受け止められたのかは彼らのみぞ知りうることであるが、話の終わった場から一人また一人と去っていった。

「彼らは応えてくれるでしょうか」

 村長は視線を前に向けたまま訊ねた。隣のアルフィルクが返事をする。

「さあな。なるようにしかならんだろう」

「まったくこれからどうなるやら。不安しかありませんな」

 そう言いながらも村長の横顔は明るい展望を見ているようにアルフィルクには見えた。

「約束は果たしたことだし、俺たちはもうお役御免ということでいいか」

「ええ。もう好きなときに発っていただいて構いません。これから何があるかもわかりませんので、早く離れられた方がよいでしょうな。こちらの今後はアルタヤ殿と相談して決めましょう」

「あの人はお人好しだが商売人で、それでもやっぱりお人好しだからな。あんたらのことを無碍に扱うことはないだろう」

「そう願っております――ところで折り入って相談がひとつございまして」

「なんだ、また厄介ごとか」

 村長は苦笑で肯定の意を伝えた。

「ヤナンとモーティのことです。二人を村の外に連れ出してやっていただけないでしょうか。どこか人の住む土地に下ろしていただければ十分です。あの二人ならばどんな場所でも生きていけることでしょう」

「ルシャから聞いた。あいつら、自分の親を探しに行きたいんだってな」

「はい。あの二人には改めて全てを話し、見せました。あの地下水流も含め、全てです。二人は取り乱すことなく冷静でした。まったく子供というのはほんの数日の間に驚くような成長をしてみせるものです」

「ルシャが二人に世の中のことを色々教えていると聞いている」

「その授業は私も聴講したかったですな」

 暫しの間を置いて、アルフィルクがぽつりと呟いた。

「やはりこの村に二人を置いておくのは厳しいようだな」

「ええ。これから不安定になるこの村で、二人を守っていける確証がありません」

「もうここには戻ってこないかもしれないが、いいのか」

「それはあの子らが決めること。どのような地でも生きていてくれるのであれば構いません。それに、今後のことを考えると村の外で生きる道を選んだ者がいる、という事例は多ければ多いほど良いものです」

「そうか。まあ、俺たちにとってはどちらでもいいことだ。しかし、何の縁もないところに二人を放り出しておしまいにするほど、俺も冷酷じゃない。街に着いたらしばらく仕事をして基盤を作るのがいいだろう。アルタヤさんに頼めば働き口の一つや二つくらい紹介してくれるだろうよ」

「あの方には世話になりっぱなしですな」

「それが趣味みたいな人だ。存分に甘えておけばいい」

 村人の最後の一人がいなくなり、アルフィルクたちも移動を始める。

 その途上でまずグラジがアルタヤに用事があると言って離れていった。次に村長が村を見てまわると言って離れていく。そして最後に、ルシャが村の婦人たちに相談があると呼び止められて離れていった。

 そのようにしてアルフィルクとマユワの二人だけが残った。二人でいるときが一番落ち着くものだとしみじみそれぞれが感じ入る。気恥ずかしさをかき消すようにアルフィルクが呟いた。

「ルシャってのは一体何なんだ」

「たぶんここの村の人たち全員と知り合いになってると思う」

「俺たちのいない間に何があったんだか」

 アルフィルクがため息をつく。落とした目線を再び持ち上げると、向かいからヤナンとモーティがやってくるのが見えた。モーティがアルフィルクたちに気付き、手を振って呼びかけた。

「マユ!」

 アルフィルクが最後にヤナンとモーティを見たのは三か月前のことで、そのときと比べると二人の印象はまったく違って見えた。ヤナンはいくらか肉付きが良くなって大きく見えたが、これは身長が伸びたというよりは背筋が伸びるようになったからだろう。一方モーティも予想に反して憔悴した様子はなく、むしろ憑き物が落ちたように晴れ晴れとしている。

「村の外に出たいって話、何とかなりそう?」

「アルがいいよって言ってた」

 モーティはアルフィルクの方に向き直り、頭を下げた。

「よかった。アルさん、ありがとうございます。お世話になります」

「おう。それはいいんだが、二人は随分印象が変わったな」

「アルさんの方こそ。もう偉ぶった話し方はしないんですね」

「おや、そういえばそうだったね。……こうだったか?」

 モーティは吹き出し、腹を抱えて笑い出した。隣のヤナンが、失礼だよ、と窘める。

「二人とも元気そうだな。ヤナンは、よく眠れているようだな」

「はい。おかげさまで」

「しかしそれにしても、俺のいない間に二人は随分マユと仲良くなったようだな。驚いた」

「仲が良いかと言われるとすごく複雑なんですけど、なんだろう、この人には本音で接する方がいいなって思ったんです。言葉を選んで言いたいことや言うべきことが言えなくなるくらいなら、本当のことをぶつけたほうがいいやって」

「ほお、モーティはなかなかマユの扱い方がわかってるじゃないか」

「でしょう?」

 得意気な顔をするアルフィルクとモーティを横目にマユワは心の底から嫌そうな顔をした。それを見たヤナンが申し訳なさそうにする。

「大丈夫だよ。嫌だけど……嫌じゃないから」

「そうですか……」

 ヤナンにはマユワの言ったことが本当かどうか測りかねているようだった。そのお様子を見てマユワは心の内で呟いた。普通は、こうだ。人を気遣って、距離を置くものだ。

「私たち、この村を出ていくんだって伯母さんに伝えないと。ヤナン、行こう。せっかくだからマユとアルさんも来てよ。あ、時間はありますか?」

 モーティに問われてアルフィルクが答える。

「グラジもルシャもしばらく帰ってこないだろうし、じゃあお邪魔するか。いいよな、マユ」

「うん」

 駆けだしたモーティの後をヤナンが追い、その二人の背中を目標にアルフィルクとマユワが並んで歩く。

 その道中、改めて周囲の様子を眺めていると、先ほどの怒号が嘘だったかのように村は静かで穏やかだった。しかしそれは表面的なことに過ぎず、何か些細なきっかけ一つで簡単に壊れるような脆い静寂である。しかしそれでも、もしも穏やかな暮らしというものがあるならば、こういう静けさの中で営まれるものなのだろう。風が吹いて、アルフィルクとマユワを追い越していく。その何気ない一瞬に安らぎを感じられるような日々なのだろう。そのような感傷がアルフィルクの中に不意に生じ、マユワに届く声でぽつりと呟いた。

「正直、今回は俺もさすがに懲りた」

 マユワは歩く速度を落とさず、アルフィルクの言葉の続きを待つ。

「グラジとこの村を発って、日中日夜、砂船を走らせて、アルタヤさんのところに行った。それで事情を説明して協力してくれって頼んだら、思いっきりぶん殴られたよ。面白いくらい吹っ飛ばされた。お前は何をしている、馬鹿野郎が。人質を取られていいように手駒にされて、ろくでもない話を持ってきやがって。これは全部お前の浅はかで傲慢な発想が招いたことだから、俺は関知しない。そう言われたよ。ああ、そりゃそうだよな。一から十まで、あの人の言う通りで、反論の余地なんか微塵もありはしない。俺のせいでマユとルシャを危険な目に遭わせてしまったし、あの人の立場を考えれば俺たちに力を貸すなんてするはずがなかった。全て俺の甘い憶測が招いた結果だった」

「でも、ちゃんとあの人を説得して連れ帰ってきたじゃない」

「グラジが機転を利かしてくれたんだよ。毛皮の敷物とか、あの村には存在しないはずのものがあって、それはアルタヤさんの立場では無視できない事実だろうってさ。その間、俺はへこたれてうなだれているだけだった。嫌な想像ばかりしか浮かばなくて、泣き喚きながらアルタヤさんの足元に縋りつくのも時間の問題だった。まったく、みっともない。全部グラジのおかげだ。俺は何もしていない」

 ため息をついたアルフィルクの脳裏にはその時の様子が生々しく再現されていた。マユワは横目でその様子を眺める。彼がまだ十代だった頃と同じ表情をしていた。人とはほんの数日の間に見違えるほど成長したかと思えば、十数年経っても何も変わっていないこともあるから、つくづく不思議な生き物である。

「……大砂船を動かすには準備が要るから、その間、頭を冷やして待っていろ、って外に放り出された。その間のことは正直もうよく覚えてない。俺は浮浪者みたいに、あちこちふらふらして、色々な人に殴られて唾を吐かれてさ。時間を無駄に垂れ流して、こうしている間にマユはどうなっているだろうか、こんなことをしている場合じゃないのに、俺にできることは何もなくて。ぼろぼろになったところを見かねたアルタヤさんに拾われて、軒下を借りて寝泊りした。たくさん嫌な夢も見たな。……それは言葉にもしたくない」

「それで、散々懲りたアルは、結局どうしたいの」

 アルフィルクは一瞬だけ立ち止まり、仮初ののどかさに包まれた村を見渡した。

「どうしたもんかね。ただ、ふと思ってしまったよ。こんな雰囲気のどこかでマユと二人で一緒に暮らしたいなって。静かで穏やかで、もうこれ以上居場所を探さなくても済むような所で」

「それも悪くないね」

「それでグラジやルシャみたいな友達が近所にいてさ、近所づきあいってのを適度にやるんだよ。何か適当な仕事をやって金を稼いで、それで飯を買って食う。一日がそういう風に過ぎて、寝て起きたらまた新しい一日が始まる。まったく夢みたいな暮らしだよな」

 憧れを語るにしてはアルフィルクの表情は暗く沈んだままである。

「そして、みんな最後には死んじゃうんだよ。それで新しく来た人たちが私を指差して言うの。なんであの人は年も取らずにずっと生きてるのって」

「そうだよなあ。そうなんだよなあ」

「私は、それでもいいけどね。アルと一緒なら、私はどこでも同じだし、どこでもいいんだよ。それがたとえ長い時間でほんのひと時のことだったとしても、過去はなくならない」

「俺がよくないんだよ。マユが一人ぼっちになる未来は、俺が嫌だ」

「そう、大変だね」

「他人事みたいに言いやがって」

「私の望みはさっき言った通りで、もうとっく叶っている。そのうえで私は私のやるべきことをやる。だからアルもアルのしたいようにしたらいい」

 アルフィルクが大きなため息をつく。このような話になったときには、結局いつもひとつの答えに辿り着いてしまうのだ。

「仕方ない、足掻くか。行けるところまで行ってみないとわからないこともあるだろうさ。あの人に大馬鹿野郎と言われても、馬鹿をするんだ」

「うん。一緒に行こう」

「俺は焦っていたんだろう。やれやれ、俺もまだ若いな」

 いつものアルに戻った、とマユワは胸の内で呟いた。

「今笑ったか?」

「ううん」

 マユワが首を横に振ったところで、遠くからモーティが振り返り、家に着いたことを呼びかけた。それにアルフィルクは手を挙げ応えた。


 ヤナンとモーティの伯母は状況をあらかた承知していたようで、モーティたちが村を出ていくと聞いても、ただ黙って頷くだけだった。

「人のいるところまではアルさんたちに送ってもらうの。それで、お父さんとお母さんを探しに行ってくる。何年かかるかわからないけど、必ずお父さんとお母さんを見つけて、帰ってくるよ」

 モーティの言葉を受け止めた伯母は体をアルフィルクとマユワの方に向ける。

「二人の決めたことだからなるべく尊重してあげたいと思っています。しかし、一人の村人としてわからないことが多すぎるので教えてください。あなた方は何者なのですか。六年前、最初にいらっしゃったときは街の聖職者の方と聞いていましたが、いつの間にか守護者様の使いの一行に変わっていて、しかも今度は村の外から新しい人々を連れてきた。村の未来が長くないことは私たちの間では暗黙の了解でしたから、不安はありますが村長の判断は納得できる範疇であります。しかし、あなた方が信じるに足る人なのか、この二人を任せてよい人なのか、その点が私にはまだわからないのです。私には亡くなった妹夫婦に代わり養育者としての責任がありますので」

 アルフィルクは背筋を伸ばし、まっすぐに双子の伯母の顔を見た。

「我々の振る舞いのせいで不安を感じさせてしまった点、大変申し訳ありませんでした。見知らぬ地を訪れるにあたって身を守るために肩書を偽りました。では実際のところ我々が何をしているのか、という点を一言で言えば葬儀屋です。我々は死者を弔うことを生業としています」

「はあ。葬儀屋さん、ですか。初めて聞くお仕事ですね」

「私の知る限り、同業者はいませんので、この村の外でも珍しいものであることは確かです」

「その葬儀屋さんが六年前に来られたのは、妹夫婦が亡くなったから、ということなのでしょうか?」

「そうです。しかし、真の目的は別にありまして。こちらのマユワは、俄かには信じがたいでしょうが、死者の姿を見て話をすることができます。六年前、マユワは死者となった夫婦とある約束を交わし、その下見として過去に村を訪れました。そして今回改めて訪れたのは、その約束を果たすためでした」

 ここから先はマユが頼む、とアルフィルクは耳打ちし、マユワは頷いた。

「……すべては十二年前から始まった。月のない夜に双子が生まれて、その処遇をどうするか。六年前、いつまでも果たされない約束についてあなたたちが守護者と呼んでいた存在があの夫婦に訊ねて、双子を生かす代わりに、夫婦の命を代償としたうえで、守護者の好奇心に基づく実験をやることになった。その時、あの夫婦が私に頼んだの。私たちの子の行く末を見届けてほしいって。そういう約束を六年前にしたの」

 戸惑う伯母に対し、両脇からヤナンとモーティが頷きでマユワの話が真実であることを訴えた。伯母は指でこめかみを押さえながら言葉を探した。

「理解が追い付いていないのですが、その、実験とは、何でしょうか」

「双子の魂は一つか二つか。異なる夢を見せることで魂が分離するかどうかを確かめる実験」

「ヤナンとモーティがずっと見ていた夢の正体はそれですか」

「そう」

「では最近になって唐突にその夢が終わったというのは」

「実験が終わったから。私が守護者のひとに『この実験っていつまでやるの?』って訊いたら、『では終わりにするか』ってなって、あっさり終わりになった」

「そんな簡単に始めたり終わらせたりできるもののために、ヤナンもモーティも、六年間ずっと夢を見させられていたのですか?」

「そういう言い方もできる」

 いよいよ伯母は頭を抱えて黙ってしまった。当然の反応であった。

「……何て言ったらよいのでしょうね。この六年、私は私なりに、亡くなった夫婦に代わってこの子たちを一生懸命育ててきたつもりでした。ヤナンが夜に眠れなくて苦しんでいたこと、モーティが夢に依存して現実を見ていなかったこと、そういったことを目の前で見せつけられながら、ついに私は何もできなかった。だからせめて、この子たちの両親に代わってたくさん愛情を注いで、それで、それで。妹たちがしたことはこの村では許されないことだったのかもしれないけど、ヤナンとモーティが生まれてからずっと、妹たちが悩み苦しみ抜いて、それでも自分たちの子供を守り育てると決めた過程を見てきました。だから私も自らの意思として二人の思いを継いで、私がこの子たちの居場所になれればって思って、ずっとやってきたんですよ。それなのに、私の知らないところで問題が解決して、ほっとしたのも束の間で、今度はヤナンとモーティが自分たちの今後を自分で決めてしまった」

 伯母は言葉に詰まり、呻いた。ゆっくりと長い息を吐いて続けた。

「自分が褒められたいとか報われたいとか、そういうことではありません。ヤナンとモーティが私のことを蔑ろにしているとも思いません。この子たちは私たちの自慢の子です。きっとどこでもやっていけます。それだけの力がある子たちです。ルシャさん、でしたっけ、あの方に物事を教わるようになってからは急に大人っぽい顔つきをするようになったんですよ。この二人はもう、突然親を亡くして行き場もなくて泣くしかできなかっただけの子供ではないのだなって。子供が育つというのはそういうことですから、あの子たちに代わって見届けられたのはとてもよかったと思っています」

「うん」

「だからこそ、ヤナンとモーティの今後を託すのがあなた方で本当に良いのか。そこが懸念なのです。私は村の外に出たことのない人間ですので、憶測でしか喋れないのですが、村の外で生きるというのはとても過酷なことなのでしょう? 考えなしに出て行ってもおそらくうまくいかないのではないでしょうか?」

 アルフィルクは背筋を正したまま問いに答える。

「仰る通りです。だから現実的には、すぐにご両親を探しに行くというのは難しいでしょう。砂漠を旅するための経験と技術を積み、物資や道具を手に入れるための時間と機会が必要です。これはこの後行う予定のことなのですが、今回村を訪れたアルタヤ氏に掛け合って、ヤナンとモーティが街で働けるよう取り計らってもらおうと考えています。それで生活の基盤を築くのが良いでしょう。そして十分に準備が整ったら、いよいよ彼らの望むことをすればよい。そう考えています」

「外の世界にある仕事とは、たとえばどのようなものがあるのでしょうか。野菜の水洗いみたいな仕事はあるのでしょうか」

「そのようなものもあるかもしれません。しかし現実的には、荷役や売り子の仕事に就く可能性の方が高いように思います。人の集まる場では多くの物が行き交いますので、人手も多く必要となります。働き口に困ることはないでしょう」

「そうですか……。あの、仕事をしていると、怪我や病気をすることもあるかと思うのですが、そういうときには助けていただけるものなのでしょうか。わかりませんけど、よそ者だからといって虐められることなどは」

「そういうことがないよう、信用のできる預け先を探します。ただし厳しいことを申し上げますと、まったく苦労しないということはないでしょう。見知らぬ地で生きることには多少なりとも困難が伴います。だからこそ、困難に挫けないだけの本人の意思の強さが求められますし、私の見る限りにおいてヤナンとモーティにはその資質があると感じております」

 伯母の目線がヤナンとモーティに向けられる。二人はその不安げな瞳に頷きで応える。伯母は長い間二人の顔を見つめていた。他には何かないだろうか。二人が村の外で直面しうる困難の可能性を模索する。しかしその行為自体が二人の可能性を制約するものであることに気付き、伯母は自分の愚かさを自覚する。自分はヤナンとモーティに不幸になってほしいわけではないのだ。伯母はゆっくりと息を吐いた。

「こういうことは確証を持てる話ではないのでしょうから。私は到底安心することなどできません。しかしこのまま私の手元に留め置いても、この子たちが幸せになれないことくらいはわかります。あなた方がどんなに素性の知れない人たちであろうと、この子たちが自ら選んだことであるならば、私が止められる道理などもとよりないのです。私には選択肢などなく、ただ受け入れるほかにないのでしょう」

 重々しい沈黙が流れて、それが自分たちのせいであることをヤナンとモーティは十分に理解していた。伯母の気持ちを軽んじたつもりはなかったが、十分に理解していたかと問われれば答えは否である。かけるべき言葉が見つからない。しかしだからといって、自分たちの選択を取り下げたくはない。

 そんな最中にぽつりと呟くような声が発せられて、二人は声の主の方を見る。

「寂しいんだよね」

 マユワは誰と目を合わせるわけでもなく、テーブルの一点を見つめながら続けた。

「大事に育ててきた大好きな子たちがいなくなっちゃうのが。大切なものほど、それがなくなったときの喪失感が大きいから。仕方ないことだからとか、どんな言い分を並べたって、寂しいものは寂しいんだよね。これは私の想像だから、違っていたらごめんね。だけどね、そういう寂しさは、きっと消えてなくなりはしないし、他の何かで穴埋めできるものでもない。これから先ずっとあなたが抱えていくものなんだと思う」

 マユワは、ほんの少しだけ視線を上にずらせば伯母の顔を見ることができたが、それをせずに変わらずテーブルの一点を見つめたまま、言葉を続ける。

「だからこそ、その寂しさを愛して抱き締めたらいい。そう思えるくらい、自分は一生懸命にやってきたんだって」

 伯母は椅子に座り直し、震える声で訊ねた。

「私はあの子たち――妹夫婦たちに顔向けできるような子育てができたのでしょうか」

 マユワは目を瞑り、瞼の裏に夫婦の姿を浮かべながら答える。

「それは私が答えるべきことじゃない。自分で考えて。ごめんね」

「いえ……ありがとうございました」

 伯母はマユワに向かって深々と頭を下げた。

「アル、行こう」

 マユワが立ち上がると、それに続いてアルフィルクも席を立った。背を向ける間際の一瞬、マユワはモーティと目が合った。モーティは、べーっ、と舌を出し、それから笑っていた。



 16. 


「いる?」

 マユワが夜空に向かって問いかけると間もなく返事があった。

「姫か。明朝に発つそうだな」

「うん」

「次に会えるのはいつになることやら」

「いつかまた会えるかもしれないし、もう二度と会うことがないかもしれない」

「この世界は狭く、時間はいくらでもある。二度と会わないということはないだろうよ」

「まあ、そうだね」

「して、何用か」

 マユワがその場に座り込むと、見えない何者かが隣に座る気配がした。

「悪夢が終わってからいくらか時間が経ったけど、あなたの中で答えは出たの? 魂が一つか二つかっていう、あのしょうもない実験の答え」

「ああ、その話か。そうだな、正直に言うとよくわからんのだ。一時は分かれたように見えたのだが、結局一つにまとまってしまった」

「でもあなたからしたら、人間の魂なんて、みんなそんな風にくっついたり離れたりしているように見えているものなんじゃないの」

「確かにな。二つの魂が重なって一つになっているところは時折見かける。しかし、そういうものもやがて離れていくものだ。それに類するものと考えるなら、あの双子は魂が重なりやすい性質だということなのだろうが、双子というだけでそのような例外を認めてよいかは断言できないものであろう。別の可能性として、やはり根源的な点で魂が一つで、肉体が分かれた影響で瞬間的に魂が分裂しているに過ぎない可能性も考慮せねばなるまい。いやしかし……」

 ぶつぶつと思索に耽る気配を隣に感じ、マユワは深々とため息をつく。

「そもそも、なんで魂が一つになったり二つに分かれたりするかって考えたことはあるの?」

「疑問に思ったことはあるが、原理はともかくそういう性質を持つものであるという前提を置く他になかったな」

「そういう風になっちゃうか。まあ、仕方ないね。あのね、魂というのは喩えて言うなら水みたいなものなの。手で掬えばひとかたまりの水として取り出せて、さらにその水も細かく砕いて飛沫に分散することもある。逆に、小さな飛沫が集まってひとかたまりの水に戻ることもある」

「なるほど」

「全ての魂は、冥府にある魂の坩堝から生まれて還っていく。そういう意味で言えば、そもそも魂というのは大きなひとつのかたまりで、現世に生まれるときにひと欠片の魂として肉体に宿っていく。だから、魂同士が触れ合って一つになることがある、というのはある意味では当たり前のことなんだよ」

「そうなるといよいよわからんのは、双子にはそもそも二人分の魂が割り当てられていたのかどうかだろうな。二人分の魂があって、肉体それぞれにひとつずつ割り当てられるのか、一人分の魂を分割したのか」

「あなたは一人の人には一人分の魂が等しく分配されるっていう前提を置いてるけど、その前提はどこから来たの?」

 マユワに問われて、隣人は閉口してしまった。彼が見落としていた前提だった。

「魂の質量や体積に大小を想定することも本当は色々ややこしいことなんだけど、そもそも一つの肉体に割り当てられる魂が均等である保証はまったくない。宿る肉体によって魂に大小や濃淡がある。そして、そのことを前提としたうえで、あなたのくだらなくてつまらないところは、ここだよ。あなたは今まで、魂の濃度や密度が高くて本来ならば二、三人分に相当する魂を持つ人間のことも、『一つの魂』と捉えてきたんじゃないの。少なくともあなたにはその区別ができていない。そして、その区別すらもできないあなたが、双子の魂が一つか二つか思い悩むなんてこと自体、どうかしてると私は思う」

「なるほど、そうか、そうか……そう言われてしまうと何も言い返せんな。その視点はなかった」

 その呟きを最後に彼は長い思索に耽った。マユワは隣人の逡巡を待ち、星のない空を見上げ、砂紋もない平たい砂漠を手のひらでなぞる。その痕跡は自分が今ここに在る証拠であった。

「姫よ」

「なに」

「姫から見て、あの双子の魂とは一つか二つか、どちらだろうか。愚問と言われるのは承知のうえなのだ。それでも敢えて答えるとしたらどうなるのだろうか?」

「それ、答えないとだめ?」

「無理にとは言わない」

「そう。じゃあ答えない」

「答えないが、見解はあるということだな」

「まあ、そうだね」

「それが聞けただけでも良しとしよう」

 それきり二人の間に言葉はなく、二人にとっては束の間であるが傍目にはずいぶん長い沈黙が流れた。それを破ったのはマユワだった。

「この前、湖のひとと話をしてきたよ」

「娘とか。彼女は何か言っていたか?」

「一つだけ伝言を預かってる」

 頷く気配がした。

「バル、あなたは私を喪うことを恐れてはいけませんよ、だって」

 返事はないが、マユワの隣人が言葉を噛み締めていることは察せられた。沈黙の果てに彼は言った。

「そうか。彼女がそう言うのなら、そうなのだろうな。私は彼女を喪うのだな――彼女は他に何か言っていただろうか」

 マユワは首を横に振る。

「特に変わったことは何も。なんであのひとだけがあそこに残ることになったのかとか、今後のこととか、そういう話はしたけど」

「何でもよい」

「さあ、特に思い当たるものはないよ。物静かだけど芯の強そうなひとだったなっていう印象しかないよ」

「私のことが話題に上がったのだろう。だったら何かあるのではないか」

「別れる間際にあのひとの方から、そういえば、って切り出されただけ。だから本当に、何もない」

「そうか。では、彼女はその伝言だけで十分だと判断したのだろうな」

「それで、あなたの何かが変わるの?」

「いや。私は今も昔もこれからも、風を運ぶのみだ。何も変わらん」

「だけど、今、あなたはあのひとの言葉に動揺してる」

「そうだな。私自身驚いているよ。まさか私が姫にここまで食い下がるとは」

 しばらくの空白を置いて彼はマユワに訊ねた。

「姫よ、私は彼女を喪うことを恐れているのだろうか」

「さあ。私はあなたじゃないからわからない」

「姫には喪うことを恐れているものはあるのだろうか」

「あるよ」

「そういう時、姫ならどうするのだろうか」

 砂紋もない平たい砂の先には月も星もない夜闇だけが広がっている。

「どうだろうね。わからない。恐がったところでどうにかなるものでもないし。ただ……すべてのものは巡り巡っていつかかえってくるから。その理を頼りにしてる」

「そうか。ならば私も彼女ともいつか再び相まみえる日が来るのだろうか」

「そうだといいね」

「彼女が言いたかったのはそういうことなのだろう。いつか訪れる時を待てと」

「あなたにとって時間の長短に意味はあるの?」

「いや、ないな。いずれ訪れる未来であるならば、一日も千年も変わらない。変わらないが……ああ、なるほど。これが待ちわびるということなのかもしれないな」

 マユワは立ち上がる。隣で見上げられる気配がした。

「じゃあね」

「姫も達者でな」

「……あなたもね」


 夜が明けるとともにアルフィルクたちの砂船は村を発った。遠のく洞穴をヤナンとモーティが見送っている。やがて高台までもが地平線に沈み、四方の全てが砂と空で埋め尽くされた。風を切って進む砂船は後方に放射状の痕跡を砂の上に刻んでいくが、横から吹く風がその痕跡をかき消していく。

 モーティは目を瞑り、頬で灼熱の太陽と、その火照りを冷やす風を感じている。瞼の裏に浮かぶのは夢で見た両親の顔。しかしその顔は険しく、今にも泣き出しそうで、しかし祈り願うようであった。そして彼らはこう言ったのだ。負けないで、と。あれは夢の中で聞いた幻聴ではなく、たしかに両親が自分たちに宛てて届けてくれた言葉だった。

 自分たちはどこまで遡れば根本を正すことができるのだろう。出発前にモーティはヤナンと散々話し合った。両親や村の人々が辿り着いた場所を見つけた後はどうするのか。無事に見つかってよかったね、という話では終わらないし、終わらせられない。自分たちが生まれるよりもはるか昔、祖先が地底湖に辿り着くよりも昔、この世界の成り立ちとその由来。そこまで遡ってようやく、なぜ自分たちがこのような運命を背負ったのかがわかって、自分たちのような悲劇を二度と繰り返さなくても済むための手立てが見えてくるのかもしれない。地下墓地の石碑に刻まれた名前の数々が思い浮かぶ。その系譜の末端にあるのが自分たちである。無数の腕に支えられて、今、モーティは砂船の甲板に立っている。その過程で糺すべきことがあるならば、必ずや復讐は果たされるだろう。

 ヤナンも同じ未来を見ている。探求の旅は二人の一生を賭しても果たしきれないものになるだろうし、多くの困難もあることだろう。しかしやがて迎える最期が寂しいものでないよう、その過程に彩が満ちていたらいいとヤナンは思っている。たとえば高台で見た夜明けの空が赤みを帯びていく様子は、この世界のほんの一部分でしかないはずだ。そういった美しくて貴いものたちは他にもたくさんあって、きっと今後の旅路のなかで出会えることだろう。モーティがヤナンの分まで怒りや悲しみを忘れずにいてくれるならば、ヤナンがモーティの分まで嬉しいことや楽しいことを収集して、この世界が愛するに値するものであることを思い出させてあげられればいいと考えている。


(了)