2023年1月22日日曜日

砂漠の幻葬団(3.慕惜)

 砂漠の幻葬団

 

   三.慕惜


 冥界の門のことは砂漠で生きる者ならば誰もが知っている。死を迎えた後に魂は冥界の門を通って冥府へ行くのだ。生前に善行を積み重ねた者は、冥府での審判を経て来世に再び世に生を受けることが許される。逆に、悪行を働いてきた者は、そこで輪廻の輪が閉じられてしまう。だから悪いことをしてはいけないのだよ、というのは大人が子供を叱るときの常套句であった。

 しかし少年は「それはおかしい」と反論した。

「そうやって悪いことをした魂が再生できないとするのなら、この世から生命の総数は減っていくばかりじゃないか」

 千の魂のうち、再び生を受けられるものが九百であるとしたとき、その九百の魂が死を迎えた後、輪廻の輪を繋げられるのは九百よりもさらに少ない数である。それを繰り返していけば、いつか転生できる魂は零になる。

 あるいは、と少年は声に出して考察した。

「善いことも悪いこともしないうちに死んでしまった魂は冥府でどう裁かれるのだろうか」

「生命の総数の減少を補うためにまったく新しく魂が創られるのだとしたら、それは誰がどういう風に何を材料に創るのだろう」

 これらは少年にとっては自然に湧いてくる疑問であったが、それ以外の者たちにとってはそうではなかったらしく、少年の疑問は筋の通っていない主張で圧し潰された。そして少年に反論は許されなかった。「でも」と食い下がる少年に対して、周りの大人や子供たちは拳を振り上げた。

「卑しい生まれの人間は考えも卑しいんだな。この馬鹿が」

 少年は人一倍頑丈であったため、散々殴られたにしては痛みを感じていなかったが、言葉の暴力にだけは抗う術を知らなかった。一人取り残された少年は、血の混じった唾を吐き捨て、天を仰いだ。建物に区切られて狭くはあるが、雲一つない空がそこにはあった。そのようにして少年はまた一つ学びを得るのだった。すなわち、自分は馬鹿であるらしいと。


 少年の名はグラジと言った。

 家は代々屠殺業を営み、卸された家畜を雇い主の求めに応じて解体する。家畜はただ殺せばいいのではない。肉の質を損なわないようにするために、数々の工夫を要した。肉は死んだそばから腐敗が始まるため、血抜きは速やかに行わなければならないし、寄生虫や疫病に冒されていればそれは除かなければいけない。父はまだ幼いグラジを傍らに立たせて家畜を屠殺する方法を見せて教えた。

 そこら中から豚や鶏、牛の叫び声が響いている。特に凄まじいのは殺される直前のものだ。父の巨腕の下で豚は身を捩って逃れようとするのだが、抵抗もむなしく父の包丁が的確に豚の首を切り裂く。血がどくどくと溢れ、地面に血溜りを作っていく。切り裂いた直後も豚は暴れている。しかし次第に活力を失い、やがて動かなくなる。豚の前脚と後脚をそれぞれ縛って棒に吊るし、車を使って移動させ、火で表皮を焼く。筋肉の痙攣で豚が跳ねる。焼けた毛を鉋で削ぎ落とし、豚を地面に下ろす。そして仰向けにしたまま喉から腹にかけて包丁を走らせ、豚を各部位に解体していく。肉と骨と内臓に分けていく。解体する前は多少の個体差がみられたが、解体した後は皆等しく肉と骨と内臓であった。

 その間父は何も喋らなかったが、時折手を止めて、グラジに観察する時間を作ってやっていた。グラジは屠殺の仕方を見て学ぶ。いつか自分も父と同じことをするからだ。どうすれば効率よく家畜を殺すことができて、どうすれば肉を質の良いまま捌くことができるのか。

 解体を終える頃、雇い主の使いがやってきて、父が切り分けた肉を運んでいく。代金は直接手渡さず、近くの台に置いていくのが常だ。使いの男も父も言葉を交わさない。父はその職業故に蔑まれていた。

 夜中に父は蝋燭の前で包丁を研ぐ。包丁は父の大事な仕事道具だ。小さいものから大きいものまで様々あるが、それぞれに相応しい役割がある。父はゆっくりと時間をかけてそれらを一つひとつ丁寧に研いでいく。砥石と刃が擦れる音が静かに響く。蝋燭に照らされた父の顔は仕事をしているときと同様に真剣だった。グラジは父の顔から目を放すことができなかった。

 不意に父がグラジに気付き、目線をこちらに向ける。手招きをする。父の表情が険しいのは生来のものであり、必ずしも感情を反映しているわけではない。グラジは父の隣に立ち、刃研ぎの様子を見ていた。

「お前もやってみろ」

 唐突に父が言った。グラジは驚いたが、頷いた。父は立ち上がり、その場所にグラジが腰掛けさせる。グラジが父を見上げると、父は小さく頷いた。

「まずはこれでやってみろ」

 一番小さな小刀を指さした。グラジはそれを手に取ってみる。見た目の割に重たく感じたのは、あくまでそれが鋼鉄の塊であるからだ。

 父がやっていたように、刃先に手を添えて両手で研いでみる。これでいいのか手応えがわからない。わからないなりに手を動かしてみる。

 唐突に、父が背後からグラジを抱きかかえるように、グラジの手の上に自分の手を重ねてきた。そして、父はいつも自分がやるように、包丁を研いで見せる。角度と力加減を体感させる。そのようにして父はグラジに自分の会得した技を伝えようとしてくれていた。

 父がそのようにするのは、グラジが十歳を過ぎて仕事を始める年齢になったからということもあるが、それ以上に自分がもう長くないことを悟っていたからだ。グラジの母はグラジが生まれてすぐに亡くなっていたので、父は自分が死んだ後はグラジが自力で生きていかなければならないことを案じていた。グラジもそのことは承知していた。

 それから一年後に父が亡くなった。兄弟のないグラジには文字通り身寄りがなかったが、生前に父が生きるための技術を伝えておいてくれたおかげで、一応自力で生計を立てることはできた。ただしまだ十一歳の子供を一人前扱いする者はおらず、彼の生来の鈍さも相まって、グラジの技術は随分安く買い叩かれた。父の雇い主が引き続きグラジに仕事を依頼してきたのは、温情であったのかもしれないし、先行投資という意味合いがあったのかもしれない。


 グラジの一日は夜明け前から始まる。まだ暗いうちから目を醒まし、太陽が上り始める前に朝の身支度は済ませる。日の出と同時にその日のうちに屠殺する家畜が運ばれてくるからだ。

 麻の重いエプロンを着け、父から譲り受けた包丁一式を手に作業場へ行く。椅子に座って待っていると、遠くから家畜の鳴く声が聞こえてきて、それでこれから自分がどの生き物の命を奪うのかを知る。鶏、豚、羊、牛と家畜は様々だが、一様に悲痛な叫び声を上げている。人間の言葉に直せば、死にたくない、とでも言っているのだろうか。命あるものはいずれ皆死にゆく運命にあるが、それを可能な限り遅らせたいと思うのは、あらゆる生命に共通する本能であるし、それはグラジも同じことだ。生きるためには衣食住が必要で、衣食住を手に入れるためには金が必要で、金を得るためには仕事が必要だ。だからグラジは生きるために家畜の命を奪わなければならない。家畜とは殺されるために生まれてきたものである。グラジと家畜はそれぞれの役割を果たすだけだ。

 運ばれてきた家畜は一頭ずつ縄でつながれているので、まずは全員別室に連れていき、柱に縄を結んで逃げられないようにする。それから一頭ずつ順番に屠殺を始める。これらの作業は遅くとも昼前には終わらせないといけないので、効率的にやらなければならない。しかし痛んでいたり毒素を含んでいたりする肉を市場に出してはいけないので、正確にもやらなければならない。グラジは暴れる家畜を力ずくで作業場まで引っ張っていき、かつて父がしていたように、家畜を組み伏せ、可能な限り速やかに首を刎ね、殺すのだ。

 その間、絶えず家畜は鳴き叫んでいる。手がけている家畜が死んでも、別室の家畜が叫んでいるので、音が止むことがないのだ。

 唯一静かになるのは、最後の一頭が死んだ後だ。しかし家畜の鳴き声がなくなった分だけ、余計に、血の跳ねる音や皮を剥がす音、肉の擦れる音が聞こえてしまう。

 全ての作業が終わったあと、廃棄物は袋にまとめて置いておく。それから汲んでおいた井戸水を使って手や包丁についた血や脂を洗い流す。それからすっかり血で汚れた麻のエプロンを脱ぎ、エプロンを水で洗う。赤く染まった水は地面に流す。血と同様土が吸ってくれる。

 仕事が終わった後の午後は近くの食堂で昼食を食べ、買い物をする。市場を歩けば今朝グラジが解体した肉が商品として売られているのが見える。肉は商人を通してそれぞれの客のもとへ届き渡り、食料として人々の胃袋を満たす。料理人の手にかかればご馳走となる。肉を食べる生物は皆、自分以外の命を栄養にすることで生きているものだ。しかし人々のほとんどは自分の手でこれから食すものの命を奪うことはしない。だが、グラジはそれが不公平なことだとは思わない。分業とはそういうものであり、グラジも生きるために本来ならば自分でやらなければならないことを金で解決している。衣服は自分で縫ったわけではないし、家具や食器も自分で作ったわけではない。すべて金で買ったものだ。誰かがやらねばならないことだからこそ、それは仕事になるのだ。

 夜になり暗くなると、かつて父がそうしていたように、グラジは包丁の刃を研ぐ。刃が砥石の上を滑る音は一定のリズムで刻まれる。その音色は落ち着いて良いものだとグラジは感じている。



 ある日、旅人がグラジの作業場を訪れこう言った。

「あんたに仕事を頼みたい」

「悪いが他をあたってくれ」

「まあそう言うなって。話ぐらい聞いてくれよ」

 旅人は作業場の入り口近くの壁にもたれかかっていた。陰になっているため顔つきは見えないが、高くも低くもなく若干掠れた声色をしていた。家畜の鳴き声に負けないよう声を張り上げていた。

「砂鯨が死んだ。それを捌ける奴が欲しい」

「砂鯨の解体はしたことがない」

「知ってるさ。あんたを紹介してくれた人は、それでもあんたなら出来るだろうって太鼓判を押してくれたよ」

「……誰に紹介された?」

「アルタヤという人だ」

「あの人か」

 食肉組合の幹部の男で、グラジの父親の代から世話になっている人だった。グラジが請け負う屠殺の仕事のほとんど全てはアルタヤがまわしてくれたものだ。グラジはアルタヤの面子を潰すことはできないし、したいとも思わない。

「話を聞こう。夕方頃にもう一度来てくれ」

「ああ、わかった。だが、それまであんたの仕事を見ていてもいいか」

「構わないが、見ていて気持ちのいいものでもないだろう」

「ちゃんと仕事ができる奴かどうかは見ておきたい」

「好きにしろ」

 グラジは包丁を振り下ろし、鶏の首を切断した。いつものように、慣れた手順で鶏を解体していく。その一羽が片付いたらまたもう一羽、隣の別室から連れてくる。そして同じように鶏の首を切断する。

 最後の一羽の首を切断したところで旅人が口を開いた。

「やっと静かになったな」

「そうだな」

「この仕事は始めてどれくらいになるんだ」

「親父が死んで十一歳から始めた。もう十五年になる」

「十五年間毎日やってるのか」

「市場が閉まる時はやらない」

「へえ、いつ閉まるんだ」

「夏と冬の祭日だ」

「他には」

「ないな」

「じゃあほとんど毎日みたいなもんか」

「……そうだな」

 旅人は作業場を歩き、視線を動かしながら見て回る。見られて困るものは何もないので、グラジは気にせず鶏の臓物を取り出していた。

「朝っぱらから仕事が終わるまでずっと一人か?」

「牛や羊を解体するときは手伝いが入ることもあるが、基本的に一人だ」

「そうか、そりゃ大変だな」

 大変と言われても、グラジには他の仕事をした経験がないので、今一つピンと来るものがない。日によって屠殺する家畜の種類や数が違うので、その比較の中で作業量が多い日と少ない日は確かにある。しかしアルタヤがその日に終えられないほどの量の仕事をまわしてくることはない。仕事は生活費を稼ぐ上で必要なものであるから、大変だろうが何だろうがやらなければならない。

「それが俺の仕事だ」

「すいぶん真面目なんだな」

 与えられた役割を遂行することを指して真面目と呼ぶのだとするならば、真面目とは敷居の低い表現なのだろう。

「ま、しっかり仕事をしてくれるのは、こちらとしてはありがたい限りだ」

「まだ仕事を引き受けるとは言っていないが」

「うん? 話を聞くって言っただろ、あんた」

「話を聞くことと、仕事を引き受けることは、違うものだろう」

 旅人は一瞬呆けた後、文字通り腹を抱えて笑い出した。

「ああ、そうだ、そうだな。確かに違うよ。あんたの言う通りだ」

 自分はまた何かおかしなことを言ったのだろうか。グラジは眉をひそめ、雑念を振り切るように目の前の仕事に集中することにした。


 仕事が終わった後、旅人は「また夕方に」と言って作業場を出ていった。グラジも仕事道具を片付け、作業場の掃除をしてから遅い昼食を取り、部屋に戻った。自宅は労働者が集まる集合住宅の一室で、作業場から歩いて数分程度のところにある。包丁の手入れをするには短すぎる時間だったので、窓辺に座り、外の景色を眺めていた。

 もっとも、グラジの部屋からは寂れた路地裏が見えるだけで、時折風に吹かれて砂埃が舞うくらいしか視界に変化はない。しかしグラジは飽きることなくじっとその景色を眺めていた。

 やがて辺りが暗くなりはじめた。

 グラジは立ち上がり、作業場に向かった。

「おう、来たか」

「待たせたか?」

「いや、そんなことはないさ」

 時間に余裕は持たせたつもりだったが、旅人の方が早く到着していた。

「話を聞こう」

「ここでか?」

「そのつもりだったが」

「腹が減ったな。飯でも食いながら話そう」

「そうか、ならば行きつけの食堂があるから、そこで聞こう」

「へえ。地元の人間の『行きつけ』なら期待できそうだ」

「お前はどうだか知らないが、俺にとっては美味しい店だ」

「そうか。でもその前に、宿に寄ってほしい。連れがいるんだ」

 外に出るとグラジが先導して歩いた。その後を旅人がついてくる。

 刻々と暗くなりゆく道を人々は家路を急ぎ、あるいは夜の街に向けて歩を進めていた。昼間は商人や住人が行き交う市場も、夜になれば路上に椅子やテーブルが出て、天に星空を抱く酒場となる。酒と油の匂いで溢れるのもそう遠くないことだろう。

 旅人が泊まっているという宿の前に着くと、「待っててくれ」と言って宿の中へ入っていった。それから間もなく旅人が戻ってきて、後から二人の女が現れた。一人は見た目の派手な女で、もう一人は年端も行かない女児である。彼女たちは旅人の妻と呼ぶにも娘と呼ぶにも違和感のある年齢差のように思える。

「じゃあ行こうか。紹介は落ち着いてからだ」

 目が合うと派手な女は会釈をして、子供の方は目を逸らした。

「ああ、腹減ったな」

「こっちだ」

 グラジは食堂の方を指さし、歩き出した。

 道すがら旅人が話しかけてくる。

「ここは随分賑わっているんだな」

 路上で酒盛りをする人々を指してそう言っているのだろう。

「夜になればだいたいこんな感じだ。俺は他の土地に行ったことがないから、他所でも同じかどうかは知らない」

「まあ他も似たり寄ったりだが、程度で言えば俺の知る中ではかなり賑わっている方だな」

「そうか」

「ここは交易路の要衝だから賑わうんだろうな」

「そうか」

「前に来たときはここは素通りしたからな、ゆっくり見る機会ができてよかった」

「そうか」

 それきり話すこともなくなってしまったので、グラジは黙々と歩く。後ろから派手な女が色々喋っているのが、喧騒に混じって聞こえる。子供の方の声が聞こえない辺り、あちらでも一方的に派手な女の方が喋っているのだろう。「迷子になるなよ」と旅人が言えば、派手な女が「うるさいなあ、わかってるわよ」と返す。どうも甲高い声は耳に障って仕方ない。

 明るく騒がしい通りから逸れて、いくらか光と音の程度が和らぎ落ち着いたところにグラジがよく利用する食堂はあった。扉を開けて入れば、表通りほどではないが、客たちが酒と食事を楽しみながら談笑する声が溢れている。

「グラちゃんいらっしゃい……あら」

「おかみさんこんばんは、四人席は空いていますか」

 調理場から顔をのぞかせた女主人はグラジを見て一瞬驚いて見せたが、すぐに笑顔になった。

「奥の席が空いてるよ」


「さて」

 テーブルの上にそれぞれの飲み物が並んだところで旅人が切り出した。

「改めて話をする機会を作ってくれて、礼を言おう。ありがとう。この出会いが良いものとなることを願っている」

 旅人がコップを掲げるのに合わせて、グラジ含め他の三人もそれぞれコップを掲げ、飲み物に口をつけた。この辺りではヤシの実の蒸留酒が一般的だ。

「何はともあれ、自己紹介からだな。まず俺はアルフィルク」

 胸に手を当てアルフィルクは名乗った。グラジは頷き返す。

「こっちがルシャ」

「よろしくね」

 派手な女、改めルシャは目を細めて会釈をする。

「で、こっちがマユワ」

 子供はじっとこちらを見つめていた。その黒い瞳には鏡のようにグラジの顔が映っている。

「この子は喋れないのか」

「いや、そんなことはない。ただ喋らないだけだ」

「そうか」

 子供に懐かれるような見た目をしていないことは自覚しているので、特に気になることではなかった。グラジは目線をアルフィルクに戻す。

「俺はグラジだ」

「ああ、よろしく。いい仕事を期待しているよ」

「まだ仕事を引き受けるとは言っていない」

「けど、恩人からの紹介なら断る気もないだろ」

「むう」

 それはそうなのだが、それをアルフィルクに言われるのは違う気がして、しかしその違和感を適切に言葉にすることができず、グラジは押し黙ってしまう。

「まあいいさ――さて、本題だ」

 アルフィルクは骨付きの鶏肉の照り焼きを齧りながら話し始めた。

「ここから北に砂船で三刻ほど行ったところに砂鯨の死体がある。それを解体してもらいたい」

「死んだのはいつだ」

「一昨日の昼間だ」

「明朝にここを発ったとしても、着く頃には死後丸三日か」

「出発は早いに越したことはないが、特に急いでいない。あんたのタイミングに合わせるよ」

 砂鯨は体のあらゆる部位が金に代わる生き物であるから、余すところなく有効活用するなら出発は早い方がいい。時間が経てば経つほど肉は鮮度を失い、それ以外のものも痛んでいくからだ。だからアルフィルクの急いでいないという発言に、グラジは違和感を覚え、質問をする。

「目当ては何だ」

「全部、と言いたいところだが、獲れるものだけでいい」

「そうか。肉がどれだけ使い物になるかは、見てみないとわからないな」

「その辺りの加減は素人にはさっぱりわからないから、専門家に任せる」

「その砂鯨はあんたらが飼っていたのか?それとも狩ったのか?」

「いいや、どちらでもないね。拾い物さ」

「拾い物だと?」

 アルフィルクは肩をすくめて飄々と答える。

「そう、拾ったんだ。野生のものが野垂れ死んだか、死んでご主人に見捨てられたか、わからんがな。砂船を走らせていたら、砂鯨の死体があった。捨てておくのももったいないから、解体して金になるものは金にしようと考えた。けど俺たちには砂鯨を解体する技術も道具もない。だから専門家を雇おうと考えた」

「それはよく出来た話だな」

「だろう? 俺もそう思うよ」

 アルフィルクは鶏肉を酒で流し飲むと、酒のおかわりを頼んだ。グラジは腕を組んでアルフィルクたちを見回した。ルシャとマユワは黙々と手を動かし、食事をしている。

 野盗や危険生物のいる砂漠を女と子供の三人で旅をしていて、見渡す限り砂しかない広大な砂漠で偶然砂鯨の死体を見つけ、これ幸いと近くの街に寄ってアルタヤから紹介を受けて今ここで仕事の依頼をしている。こいつ達は何者だ?

 訝しがるグラジの心中を見透かしたように、先回りしてアルフィルクが答える。

「俺たちは砂漠の葬儀屋だ。最近始めたばかりだけどな」

「何だそれは」

「葬儀屋だよ葬儀屋。死んだ奴は誰であれ、家族や友人ってのがいるだろ。その縁者に向けて葬儀をするのさ。で、葬儀代としていくらか頂戴する。健全な商売さ」

「うわあ、胡散臭い」

「うるさいな、実際そうだろ」

 横から入ったルシャの茶々に、鬱陶しげにアルフィルクが返すが、その返事に対してルシャが何も言わないところから察するに、文字通りの意味で言えば彼らはそのようなことをしているらしい。

「それは商売になるのか」

 グラジは感想とも質問とも取れるような呟きを思わず吐露してしまう。アルフィルクはそれを聞き逃さずに拾い上げる。

「そう思うだろ? でも、意外となるんだよなあ、それが」

 アルフィルクは身を乗り出し、嬉々として語り出す。

「砂漠を旅するってのはとても危険な行為で、どんなに旅慣れた奴でも、どんなに屈強な奴でも、死ぬときは死ぬ。そういうもんだ。で、まあ死んだ場所次第ではあるが、死体を連れて長旅ができない場合は、遺された連中は死体をその場に捨て置くしかないこともある。仕方ないとは言え気持ちのいいことじゃないよな。そんな時に俺たちがささっと行って、ぱぱっと葬儀をやったら、遺された人間の気持ちもいくらか晴れるってもんだ。

 あるいは一人旅か全員まとめて死んだか、いずれにせよ生き残りが一人もいない場合もあるな。そんな時は死んだという事実すら遺族に知られずに、死体は砂漠に埋もれていくしかない。けど俺たちがいれば、少なくともその事実といくらかの遺品を遺族に送り届けてやることができる。手間賃はそのときに回収できる」

 どうだ、とアルフィルクは目で語りかけてくる。

「それで、死んだのが砂鯨だった場合は、誰かに横取りされる前に解体して自分のものにしてしまうということか」

「そういうことだ」

 あまりに荒唐無稽な話だ。グラジは呆れてしまう。こんな話は聞き流すに限るのだが、久々に飲んだ酒がどうやら口の滑りを良くしてしまっているらしい。グラジは率直に思ったことを口にしてしまう。

「お前は嘘をついている」

「というと?」

「この広い砂漠で都合よく死体に出くわせるわけがないだろう」

 そう、喩えて言うなら粒に紛れた金の粒を拾い上げるようなものだ。確率は零ではないかもしれないが、限りなく零に等しい。それよりも砂漠で待ち伏せて旅人を襲っている方がよほど現実的だ。それをこの三人でやっているというのも中々現実的ではない話ではあるが。

「それにもう一つ、おかしい点がある。砂鯨が死んでいたのが本当だったとして、どうしてそれがいつ死んだのか断言できるのか。偶然死体を見つけたというなら、死んだ瞬間がいつかはわからないはずだ」

「ふむ、なるほどな。あんたの言い分は正しい。その通りだ。けど俺たちはちょっと特別でな、生き物が死んだことをただちに知る術がある」

「そんな都合のいい話があるものか」

「その部分はこちらもあまり大っぴらにしたいところじゃないんでね。別に信じてもらう必要はない。肝心なのは、砂船で三刻ほど行ったところに砂鯨の死体があること、俺たちはその死体を解体したいと思っていること、そしてその役割をあんたに依頼していること、この三つの事実だ。あんたが答えなければいけないのは、『はい』か『いいえ』の二択だ」

「悪行の片棒を担ぐ気はない」

「別に悪いことはしていないさ。砂鯨が死んだことに俺たちは関与していない。それは断言する」

「それが信用できないと言っている。砂鯨を狩ったなら素直にそう言えばいいだろう。そう言わないのは何かやましいところがあるからじゃないのか」

「おい、今回の件があんたの恩人の紹介だとしてもか。あんたの恩人はあんたに嘘つきを紹介するような、いい加減な奴だってのかい」

「あの人を悪く言うのは違うだろう」

「じゃあこの仕事、引き受けてくれよ。報酬は弾むし、あんたはアルタヤさんの顔を立てられる。いいじゃないか。まあ確かに理解しがたい部分があることはわかるが、一から十まで何でも納得しないとできませんやりませんじゃあ世の中をうまく渡っていくのは難しいぞ」

 沈黙。

 グラジとアルフィルクは睨み合ったまま動かない。

 ルシャとマユワは黙々と手を動かし、食事を進めていた。二人の話に口を挟む気はないらしい。

 やがてグラジはため息をつき、言った。

「明日一日時間をくれ。アルタヤおじさんに確認する」

「今日はそこが落としどころだな。何も考えてない馬鹿じゃないってのは、人間としてはいいことだ」

 よし、とアルフィルクは座り直すと、杯を逆さにして酒を飲み干すと、元気よく「おかわり!」と女主人に声をかけた。


 運ばれてきた杯を受け取ると、アルフィルクはいやに人の良い顔で女主人に礼を述べた。それからぐっと杯を傾け、ひと息にほとんど飲み干してしまった。よく飲む男だとグラジは思う。

「ここはいい店だな」

 それは独り言かグラジに語りかけたものか。判断に迷うグラジをよそにアルフィルクは続ける。

「隅々まで掃除が行き届いていて、客も、この辺りにしては行儀が良い方じゃないのか」

「他の店には行かないから、わからない」

「へえ」

「父が死んでからはこの店以外に行く理由もきっかけもなかった」

「母親は?」

「物心がつく前に死んだらしい」

「そうか」

 溶けたチーズが乗った蒸かし芋を指で摘んで口に運ぶ。

「アルは行儀が悪い。フォークを使いなさいよ、フォーク」

「細かいこと言うなよ。口に入れば全部一緒だろ」

「ごめんなさいね、見苦しくて」

 ルシャが申し訳なさげにして見せる。アルフィルクの世話をする様は親が子にする振る舞いのように見え、親しげだった。

「お前たちは夫婦なのか」

「違う」「それはない」

 アルフィルクとルシャは即座かつ同時に否定してみせた。心なしかルシャの方が否定の度合いが強かったように見えるが、あくまでそれはグラジの印象の域を出ない。

「そうか」

 グラジは視線を卓上に戻し、豆のスープに口をつける。食べ慣れているが、落ち着く味だった。

「あんたってさ、ズレてるよな」

 アルフィルクが呆れたように言った。

「どういう意味だ」

「いや、いい。なんか、こう……説明しづらいな。ルシャ、頼む」

「私に振らないでよ」

「何がどうずれているんだ」

「ずれているっていうか、不思議な感じはする。世間の常識に染まらない、みたいな」

「わからない。どういうことだ」

「具体的にどうと言われると、ねえ」

 ルシャは唸って考え込んでしまった。グラジとしても人を困らせることは本意ではないので、こういう時にどうしたらいいのかがわからなくて、戸惑ってしまう。

 こういうことは昔からよくあった。思ったことを思ったまま素直に口にすると、しばしば相手を困らせてしまうのだ。しかし普通の人たちには、そういうことがないらしい。

「この人がおかしいんじゃなくて、アルとルーが勝手に期待して、期待を押し付けているだけだよ」

 誰の声かと思った。しかしアルフィルクとルシャの視線がそちらに向けられるのを見て、それまで一切喋らなかった子供のものだと知った。名は確かマユワといったか。

「勝手に期待したくせに、応えてくれなかったのをこの人のせいにするのは、すごく理不尽なこと」

「そうだぞ、ルシャ」

 アルフィルクが意地悪くにやけてルシャを指さしている

「なんでアルにがそっち側になってるのよ」

 アルフィルクとルシャが言い争いを始める。もっとも、アルフィルクがルシャの言葉尻を面白おかしく取り上げからかっているだけで、会話の内容そのものに特に意味はないらしい。アルフィルクもルシャも険悪な様子には見えず、むしろ言い合いを楽しんでいる風にすら見える。グラジには経験のないやり取りだった。

 そんな二人をよそにマユワは黙々とゆっくりとパンを齧り、蒸かし芋を食べている。口に入れたものを飲み下すと、マユワはグラジの方を向いて言った。

「美味しいね」

「そうだな」

 マユワはフォークで鶏肉に胡桃をまぶして焼いたものを刺し、持ち上げる。

「このお肉はあなたが殺した動物のものなの?」

「どうだろうな」

 マユワは言葉を飾らない性質らしい。グラジは思わず目を背け、胃の辺りが重くなるのを感じた。

「市場に卸した後のことは俺にはわからない。だから、この肉は今朝俺が手を掛けたものかもしれないし、そうではないかもしれない。俺以外にも屠殺を生業にする人間はいるからな」

「そう」

 アルフィルクとルシャはお互いを言い負かそうとしてどんどん声が大きくなっていく。もはや二人ともグラジのことは視界に入っていないようだった。

「あのね」

 唐突に聞こえたマユワの声は、二人や周囲の客の喧騒に紛れそうだった。グラジはマユワの方に耳を寄せた。マユワの方も少しだけ体をグラジの方に傾けた。

「あんな風だけどアルは優しい人なの。アルの言うことを嘘と断言できなくて迷うんだったら、信じてあげてほしい。アルはあなたを裏切らないから」

 それは難しい話だとグラジは思った。しかし、アルフィルクという男がルシャとマユワの二人には信頼されているらしいということだけはわかった。


「もっとあんたの話を色々聞きたかったんだがな。こっちで盛り上がってしまった。悪かったな」

「いや、構わない」

 食堂を出た頃にはすっかり夜もふけていて、普段のグラジならとっくに眠りに就いている頃だった。

「明日の夕方、またあんたの所に行くよ。そこで返事を聞かせてほしい。仕事を引き受けてもらえるなら、そのまま出発するから、そのつもりでいてほしい」

「もし俺が引き受けなかったらどうする」

「どうするかね。まあその時に考えるかな」

「わかった……いずれにせよ、明日の夕方だな」

「いい返事を期待しているよ」

 アルフィルクは手を振り歩き出し、既に先に行っていたルシャとマユワの後を追っていった。



 夜中に訪ねるのは失礼なので、明朝仕事が始まる前にしよう。グラジがそう考えて自宅に戻ると、家の前にアルタヤが立っていた。アルタヤはグラジに気付くと、

「遅かったな」

 もたれかかっていた壁から身を起こした。

「あの男に会ったか。お前のことだから一晩考えさせろとか、そんなことを言ったんだろう」

 グラジは頷いた。

「中で話をしよう」

 グラジはアルタヤを部屋に上げると、ランプに明かりを灯した。質素なテーブルを挟んで二人は向かい合って座る。アルタヤは部屋の中を見回した。

「お前の父親が亡くなってもうどれくらいになる」

「次で十五年になります」

「早いもんだな」

「おじさんにはいつもお世話になっています」

「こっちも助かっているよ。誰かがやらないといけないことをやってくれているんだからな」

「いえ、俺にはこれしかできないので……」

 グラジはアルタヤに頭が上がらない。いつも仕事を紹介してくれるだけではなく、亡くなった父に代わって父親のように接してくれるからだ。この街でグラジを一人の人間として扱ってくれるのは、アルタヤと先ほどの食堂の女主人くらいである。

「さて本題だ。今日は突然のことで驚いただろう。前もって言っておけばよかったんだがな、言う機会がなかった。けどお前なら話ぐらいは聞いてやるだろうとは思っていたよ」

「はい」

「この仕事、引き受けるのか」

「疑わしい点があったので、一旦保留にしてあります」

「そうか」

 アルタヤはさもありなんと苦笑する。そのような反応をするほどにアルタヤはアルフィルクと親しい仲なのだろうか。グラジ自身にはアルフィルクに信用できるところがほんの少しもなかっただけに、アルタヤの反応は理解しがたいものだった。

「あれは野盗の類ではないのですか。もしそうなら、おじさんの紹介でも引き受けることはできません」

「どうしてそう思った」

「砂鯨の死体を見つけたと言っていましたが、死んだ日時を具体的に言いました。発言が矛盾しており、嘘をついているとしか考えられません。嘘をつく理由を明かさないのは後ろめたいことがあるからだと解釈しています」

「そりゃそうだろうな。奴にはそこの説明ができないさ」

「はい、そこを問い詰めたら、あれは俺の質問に答えず、おじさんの紹介だということを強調して迫ってきました」

「強引な奴だ――いや、最初から俺にやらせる気だったな」

「どういうことですか」

「いや、こっちの話だ」

 アルタヤはこめかみを指で揉み、嘆息した。それから顔を上げ、グラジの方を向いた。

「俺がアルフィルクにお前を紹介した経緯を話すのが手っ取り早いな。少し長くなるが、付き合え。明朝の仕事のことは考えなくていい」

 今日はよく人と話をする日だとグラジは思った。思えばアルタヤとこんな風にじっくり話をするのも初めてだった。



 奴と知り合ったのは先月のことだ――そんな口上でアルタヤは語り始めた。

 先月、アルタヤは仕入れの帰路にあった。砂船に羊を乗せていた。新しく契約した酪農家のもので、珍しい品種の黒羊だった。羊の世話や砂船の航行は三十人の部下に任せ、アルタヤは船室で黒羊の売り先と売値について考えているところだった。

 そこに部下の一人が駆け込んできた。

「おやっさん、大変なことになった」

 羊の一部が今朝から調子が悪いのは聞いていたのだが、急に容体が悪化したという。性質の悪い病気の可能性もあり得る。そうであるならば、今すぐ手を打たなければならない。

 アルタヤは部下に停船の指示を出すとともに、自分は家畜を納めてある船倉へ向かった。畜舎代わりにしている船倉は改造により採光や換気に工夫をしているものの、やはり砂船の構造上、十分に衛生的であるとは言い難い。しかし家畜を効率よく運ぶためにはやむを得ないことだった。だが、その妥協が今は裏目となる可能性がある。

 船倉に着くと件の黒羊たちは既に息も絶え絶えに横たわっていた。既に飼育担当の者が件の黒羊たちを隅の区画に隔離した後である。

「どうしましょうか」

「ふむ」

 唸ってみたものの、やるべきことは一目瞭然だった。この黒羊たちは助かる見込みがないし、残りの家畜に及ぼすかもしれない影響を考えれば、今すぐこの黒羊たちは放棄するべきである。それに二の足を踏むのは、これが珍しい品種で、仕入れるのに中々に苦労したからである。しかし逡巡する理由がそこ以外にないと自覚したならば、それはもはや迷う理由にはならない。

「砂船を停めて、この黒羊たちは船から降ろす。おいお前、操舵室に行って伝えてこい。それから残った者で、黒羊を降ろす準備と、残りの家畜たちの状態の確認だ」

 アルタヤの指示で部下は各々行動を開始する。それからアルタヤはため息を一つついた。家畜を長距離輸送する場合には必然的に伴うリスクであるから、もちろん覚悟はしているが、いざ現実になるのは心地の良いものではない。今回は運がなかった。そう割り切るしかないだろう。


 家畜を全て調べるのは想定以上に時間がかかった。その間に件の黒羊たちは全て死んでしまった。死因が病によるものか、炎天下で水も食料も与えられなかったことによるものなのかは不明であるが、砂船から降ろす判断をした時点で黒羊たちに未来はなかった。生き残った他の黒羊は、全体の半数程度だった。半数でも残せただけも良しとすべきだろう。他の家畜たちも特に問題はないようだった。

 そう結論付けることができたころには日が傾き、辺りが暗くなってきていた。出発は明朝にして、今晩はここで一泊することにした。

 食肉を扱う者にとって、輸送中に家畜が死んでしまうことは決して珍しいことではない。だからそういう場合には死んだ家畜をその場で食肉に変えてしまうのが大抵なのだが、今回は疫病にかかっている可能性がある以上、食べるのは危険である。

 黒羊の死体を見下ろしながら部下の一人が言った。

「あれはどうしましょうかね」

「どうしようもない。ここに残して砂漠に還すしかないだろう」

「もったいないですね」

「諦めろ。欲を出して冥界の門をくぐりたいなら止めないがな」

「せめて毛や皮だけでも使えないんですかね」

「そういう半端な未練が良くない結果を招くことになる。諦めると決めたならすっぱり忘れるんだな」

「へえい」

 焚火を囲んで盛り上がる若者たちにアルタヤが声を張り上げた

「明日は夜明けと同時に発つぞ。おいお前たち、盛り上がるのも程々にしておけよ」

 部下たちは口々に了解の意を唱えたが、本気で言っているかどうかは唱えた本人のみぞ知ることである。やれやれ、と呟き、アルタヤは砂船の船室に戻った。


 夜明けの気配が東の空に滲む頃、アルタヤは目を覚ました。もっとも、アルタヤを起こしたのは白む空ではなく、船外で部下たちが揉める声である。

 部下たちは皆アルタヤよりも年下で、最も下の者は自分の子供と同じくらい年が離れている。喧嘩が起きた際には仲裁するのも年長者の役目と引き受けていた。

「お前ら朝っぱらから何をしている」

 𠮟りつけるように声を張り上げ扉を開けた。するとそこでは確かに若者たちが対峙していたのだが、一方はアルタヤの知らない男だった。

「おやっさん、葬儀をさせろっていう変な男が」

「あんたがこいつらの上司か」

「……何者だ」

「どうも、葬儀屋をやっているアルフィルクという者だ。最近この辺りで誰か死んだんじゃないか?」

 男はいかにも砂漠を旅する旅人といういで立ちだった。日光を遮る外套と、その下に薄いシャツ。靴と麻のズボンは厚手で、地面からの熱の照り返しに備えている。教会の奥に引きこもる祭司は青白い顔をしているものだが、それとは似ても似つかないものだった。

「いや、人間は死んでない。昨日、うちの商品がいくつかまとめて駄目になったがな」

「商品?」

「ほら、あれだよ」

 アルタヤが黒羊の死体を指さすと、アルフィルクは頷いた。遠目には黒い塊にしか見えないものだ。

「ごみの山かと思ったよ」

「金にならないんじゃごみと何も変わらんさ」

「あれは何だ?」

「西方のそりゃあもう珍しい黒羊さ。運ぶ途中で死んじまった」

「ああ、確かによく見れば手足っぽいものが突き出てるな」

「で、葬儀屋の兄さんよ。あれの後始末をしてくれるのかい」

「ああ、そうだ。人間じゃなかったのはちょっと想定外だがな」

「少しは言葉を選んだ方がいいと思うぞ」

「これからは気を付けるよ」

「だが、あれに手を付けるのはやめておけ。病気持ちだ」

「そりゃ災難だったな。けど――」

「あんたがあれに手を出した結果、街に病気を持ち込んでくることになると、こっちが迷惑するんだ。そういうわけで、死体漁りはやめておけ」

「そうかい、そりゃあてが外れたな」

「そういうことだ、残念だったな。じゃあ、俺たちはそろそろ行くよ」

「結局あの黒羊たちは好きにしていいってことでいいんだな」

「……お前があれをどうするつもりか次第では、こっちにも考えがある」

 アルフィルクと他にいるはずの彼の仲間が、黒羊の死体から何らかの病に罹って死ぬのはアルタヤたちの知るところではないが、その前に街に立ち寄り悪疫を持ち込んでくるのは困りものだ。ましてやそれがきっかけで流行り病になろうものならば、街の将来に関わる事態となる。大方アルフィルクの方は、黒羊が病で死んだというアルタヤの言い分を疑っているのだろう。それを説得する明確な根拠も、そもそも意思もないので、アルタヤとしても話し合いを続ける気はない。

 要はアルフィルク側が手を引いてくれればいいわけで、それが叶わないなら実力行使もやむを得まい。アルフィルク側にどれだけの仲間がいるのかわからないが、こちらは三十人、そこそこ大所帯なので数で劣ることはそうそうないだろう。

 アルタヤが部下に目配せをすると、部下たちはアルタヤの意を汲み、アルフィルクを囲んだ。彼の仲間が出てくる気配がないのが不気味なので、事は慎重に進めなければならない。

「おいおい、やめてくれよ。俺は別に喧嘩は強くないんだ。こんな大人数に取り囲まれたら死んじまう」

「そうなりたくなければ大人しく引き下がることだな」

「あんたらが思っているようなことはしないさ。最初に言っただろ、俺は葬儀屋だ。わかるか、葬儀屋。葬儀屋の仕事は、死んだ奴の弔いを手伝うこと。死体漁りはおまけだ。おまけがついてなければ残念だなって思うけど、所詮おまけだ。そこで死んだ奴がいるなら俺たちの仕事は変わらない」

「教会に異端者が葬儀の真似事をしているって垂れ込んでおいてやろうか」

「おっと、それは勘弁してほしいね」

「そうだろう。だったらここは手を引いておけ。こちらも揉め事は起こしたくない」

「へえ、気遣ってくれるなんて、あんた、いい奴だな。そこを見込んで頼みたい。なあ、黒羊の葬儀をやらせてくれよ」

「俺たちがいなくなった後で好きなだけやれ」

「葬儀ってのは遺された奴がいるところでやらないと意味がない」

「知るか」

「ちゃんと見張ってないと、俺が病気を街に持ち込むかもしれないぞ」

「貴様」

「でも揉め事も起こしたくないんだろ。出るとこ出るのは、俺たちのやることを見届けてからでも遅くないんじゃないのか」

 この状況で物怖じしないアルフィルクの胆力には感心する。アルフィルクはじっとアルタヤを見据え、返事を待っていた。

 三十人は数の面では劣らないと思っていたが、その考えは甘いのかもしれない。それがアルフィルクの強気な態度の根拠であるとするならば、警戒しておくべきだろう。アルフィルクは「俺たち」と仲間がいることを明確にほのめかした。

「仕方ない、付き合ってやろう。詳細を聞かせろ」

「いやあ、話の分かる人で助かるよ。場所はどこがいい。俺があんたらの船に入った方が安心か?」

「いや、俺がお前たちのところに行こう」

 それからアルタヤは部下たちに向かって言った。

「一刻だ。一刻経っても俺が戻ってこなかったら、街に戻って自警団に伝えろ。アルタヤが野盗に殺されたってな。いつでも発てるよう準備しておけ」

「信用されてないな、俺」

「当たり前だろうが」

「ま、いいだろう。一刻もあれば十分だ」

 アルフィルクは右手を挙げ、アルタヤにこちらに来るよう促した。部下の一人が「おやっさん一人じゃ」と言いかけたのを、アルタヤは制した。



 案内されたアルフィルクの砂船は小型のもので、せいぜい数人が乗れる程度のものだった。すなわち数で言えばアルタヤたちの方が圧倒していることは明らかだ。小賢しいガキだ、とアルタヤは舌打ちをする。

「戻ったぞ」

 アルフィルクが呼びかけると、砂船の陰から女と子供が顔を出した。

「あれで俺たちは全員だ」

「冗談だろ」

「いいや本当だ。俺たちはこじんまりとした葬儀屋なのさ」

「よくわからん奴らだ。よくそれで俺たちに接触しようと思ったな」

「相手を選んで商売できるほどの余裕もないんでね。駄目そうなら逃げるだけさ」

「死体漁りがしたいなら、俺たちがいなくなってからやればよかっただろうが」

「だからさっきも言っただろう。葬儀ってのは遺された奴がいるところでやらないと意味がないって」

「押し売りでやる葬儀にどんな意味があるんだか」

「意味はあんたらが見出すもんさ。俺たちは機会を提供するだけ」

「勝手な奴だ」

「そのお節介が人を助けることもあるかもしれないさ」

 話しながらアルフィルクと女は木箱や板で即席の椅子とテーブルを作った。

「簡素なもんで悪いが、まあ座ってくれ」

 アルフィルクはアルタヤを促し座らせる。そしてテーブルを挟んだ向かい側にアルフィルクと女子供の二人がそれぞれアルフィルクを挟む形で座った。

「こっちがルシャで、こっちがマユワ。葬儀を主に取り仕切るのはルシャだ」

「初めまして」

 フードの下から覗く顔は小娘に近い年頃のものだったが、目鼻立ちの整った美しい女だった。

「具体的な段取りはルシャと話し合って決めてもらうとして、先にやらなきゃいけないのは」

「こんな茶番に付き合う意味について、だな」

「違うね、お互いが何者かってところからさ」

 はあ、とアルタヤはため息をついた。

「俺はアルタヤ、この近くの街で食肉組合で仕入れと卸を担当しているしがないおじさんだ。知り合いから珍しい品種の羊が入ったと聞いて、実物を見て、仕入れて帰る途中だったが、不幸にも仕入れ品が死んで、今に至る。俺たちはさっさと戻って損失分の穴埋めをしなきゃならん。こんなところでのんびり世間話をしている余裕なんか、本当はないんだ」

「へえ、食肉組合でねえ。この仕事は長いのか?」

「ああ、十四で働き始めてから三十年間ずっと一筋だ」

「死ぬまでずっと続ける気か」

「まあ、そうだな。この辺りの人間は家業を代々受け継いで暮らしてきた。きょうだいも家の仕事を手伝うのが慣習だ」

「で、あんたもその例に漏れないと」

「そういうことだ」

「そりゃ立派なことだ。まあ、それだけ長く続けてりゃ、黒羊どもが死んでも損得勘定にしか頭が行かなくなるか」

「可哀相なことになったとは思うさ」

「けど仕方なかった、どうしようもなかった」

「そういうことだ。慣れるってのはそういうもんだ。いちいち感傷に浸っている暇はない。それに、家畜として扱っている時点であれらはいずれ死ぬ運命にある。死ぬのがちょっと早くて、死に方がちょっと違っただけの話だ」

「そうかい」

 アルタヤの話をルシャは頷きながら、マユワはじっとアルタヤの顔を見つめながらそれぞれ聞いていた。アルフィルクはその様子を横目で確認する。それから視線をアルタヤに戻し、

「仕方ないってのは便利な言葉だな」

 ため息交じりに呟いた。アルタヤが口を開く前に続ける。

「臭いものに蓋をすることを正当化してくれる」

「蓋をしないと臭くて頭がおかしくなる仕事だからな」

「流石に三十年目のベテランが言うと説得力が違うね。そこの辺り、若い連中はどうなんだ」

「みんなそれぞれ折り合いを付けていくよ。折り合いを付けられなきゃこの仕事は務まらん。折り合いの付け方に巧拙はあるが」

「そこは本人任せか」

「そうだ。いくら教会が生物の命を奪うことにお墨付きを出したって、結局心の問題だからな。最後は自分で自分を説得しなければならん。それができなければ、結局自分の仕事がなくなるだけだ。けど、傍で寄り添ってやるぐらいのことは、周りの人間にもできることだ」

 今度こそアルフィルクは腕を組んで唸ってしまった。

「あんたみたいな人が上についているなら、いよいよ俺たちは余計なお節介をしていることになりそうだな」

「そうだな、余計なお節介だな。しかしお前たち、ただのごろつきにしては随分道徳的だな」

「そろそろただのごろつきじゃないって信じてくれたかい」

「見た目よりも話の通じる奴だってことは認めてやろう」

「それはどうも」

 アルフィルクは手を上げて肩をすくめる。その様子を見ながらアルタヤは感心していた。

「何の話をしているのかよくわからないんだけど」

 アルタヤに、というよりはアルフィルクに向けてルシャが訊ねた。アルフィルクは腕を組み、どこから話したものかと思案したうえでおもむろに喋り始めた。

「そうだなあ。食肉組合ってのは何をする人間の集団か知っているか」

「肉を作って売る集団でしょう」

「そうだ。その仕事の中には当然、家畜を殺すことが含まれる。食肉文化には鶏、豚、羊、牛、そういった生き物を継続的かつ大量に殺すことが欠かせない」

 ルシャが頷くのを横目で確認し、アルフィルクは続ける。

「けど、それを実行する側には相当な心理的な負荷がかかる。想像できるか? 殺生はよくないと小さい頃から教わった連中がその手で命を奪うんだ。一頭一頭が殺される間際に断末魔をあげていくのを聞き続けるんだ。そういう矛盾とどう折り合いを付けるか、って話」

「教義や法で行為を正当化できても、心の救済まではできないってことだ」

「わかったか、ルシャ」

 アルフィルクとアルタヤの二人の説明を受けて、ルシャは一応理屈としては理解したようであった。

「さて時間を取らせて悪かったな。今回はもう俺たちに出る幕はなさそうだ」

 アルフィルクが切り上げようとしたところをアルタヤが制する。

「おいおい、聞きたいことを聞くだけ聞いておしまいか」

「時間を取らせたお詫びも兼ねて、あんたに知りたいことがあるなら答えるが」

「お前たちは何者だ」

「ただの葬儀屋なんだがね。でもそれで納得してもらえるものでもないわな」

「わざわざ教会の目につくことをして何になる。しかも女子供を連れて砂漠をうろうろする奴がまともなわけがないだろう」

「それ、答えないと駄目か」

「俺がちょっと寄り道して帰るだけで、お前たち全員よくて牢屋行きだってことを忘れるなよ」

 アルフィルクは手を挙げ、降参の意を示した。

「わかった、わかった。マユ、すまない。ちゃんと話さないと解放してもらえなさそうだ」

 隣のマユワと呼ばれた子供の方にアルフィルクは言った。

「いいよ、別に。どうせ信じてもらえないから」

 マユワはそう言って顔を背けてしまった。

「俺たちには生物の死をただちに探知する術がある」

「ほう」

「生物が死ぬと冥界の門が立つっていうだろう。この子――マユワには冥界の門が見えるんだ。」

 アルタヤは一瞬呆気に取られた後、鼻で笑ってしまった。嘘をつくにしても、もう少しましなものがあるだろうに。

「ほら」

 マユワが顔を背けたまま呟いた。

「まあ、信じろってのが無茶な話だな。そりゃそうだ。けど実際そうなんだから、そうとしか答えられない」

「何か証拠はないのか」

「そうだなあ。黒羊が死んだ翌朝に俺たちが駆け付けたこととかどうだ。そもそも俺たちがあんたらを見つけたきっかけは、ばかでかい冥界の門が立ったからなんだよな」

「お前が見たのか」

「いいや、俺もルシャも見えない。マユだけが見える。でもマユが立ったって言うのなら、立ったんだよ」

「どうせ昨晩俺たちが焚いていた焚火の明かりや煙が見えていただけだろう」

「そう捉えるのが普通だよなあ。実際見えたしな」

 アルフィルクは頭を掻き途方に暮れてしまう。その様子を見ながらアルタヤは考える。

 アルフィルクが嘘をついているか否か。口ぶりは真実を述べているように見えるが、内容を真実と認めることはほとんど不可能だ。その話しぶりも真実を述べている風に装うことは十分可能な範疇であろう。総じて言えば嘘をついていると見なすのが適切であるように思うが、嘘と断じきる根拠もない。そういう意味では、お互い主張が平行線を辿ることになるだろう。切り口を変えなければならない。

「仮にその子に冥界の門が見えるとして、なんで葬儀屋なんだ。もっとましな能力の活かし方がありそうなものだが」

「あんた、冥界の門が見えてしまう子の生き辛さなんて想像したことがないだろ」

 想像したことなどあるわけがない。そう言いかけた言葉を堪え、アルタヤは想像力を働かせてみる。人々が見えないものを見えると言い張ったらどうなるか。

「嘘つき呼ばわりされるだろうな」

「そうだ、今さっきあんたがしたように、鼻で笑われるわけだ。でも笑われるだけならまだましさ。正確に生物の死を言い当てられる、って言い換えれば、どうだ。これならわかるか」

 アルタヤは目を瞑り、その様子を想像してみる。マユワが指さした方角には必ず死体があるということだ。

「……死神扱いされるってことか」

「順番は逆なんだけどな。マユが冥界の門が立ったと言ったから死ぬんじゃなくて、死んだから冥界の門が立った。けど、普通の連中にはその区別なんかつかない」

「それは難儀な話だ」

「ま、冥界の門が見えた結果、他にも色々あるんだがな。いずれにせよ、この子はもう普通の人間社会の中じゃ暮らしていけないのさ。けど生きるためには飲むもの食べるものが必要だ。道に背かず生きていこうとしたら、やっぱり金かそれに代わるものが必要になる。それで俺たちにできることってのを考えたら、葬儀屋に行き着いた」

「俄かには信じがたい話だな」

「そりゃそうだ」

 アルタヤは腕を組み、考える。もし冥界の門が見えるとしたら。その仮定が真とするならば、それはさぞかし生きにくいことだろう。しかし仮定そのものがやはりそもそも信じがたい。それが普通の感覚だからこそ、冥界の門が見えるというこの子供は生きにくいわけだ。見えないふりをして生きていく道もあったのかもしれないが、そういう生き方は常に嘘をつき続けることになるので、そちらもそれなりに困難だということは想像に難くない。この部分については、これ以上は押し問答になる。再度切り口を変えなければならない。

「どうしてあんたらはその話が信じられる。自分で見えるわけじゃないんだろう」

「そうだなあ、助けられたから、だな」

「助けられた?」

「そう。冥界の門を通りかけたところを引き戻してもらった。俺も、ルシャも」

 アルタヤがルシャに目を向けると、ルシャはアルタヤの方を見て頷いた。

「体験したことのない人間に信じろってのが無茶なのはわかっている。けど、そう言い張る人間がいるってことだけは確かな事実だ」

「その子にあんたらが騙されてるって可能性は」

「否定できないだろうな。でも、もしそうなら俺たちは随分幸せな夢を見させてもらっているよ」

 アルタヤはため息をついた。話にならない。

「あんたらがその子に陶酔するのは勝手だが、そこに他人を巻き込むな」

「だから葬儀屋という商売の範疇で話を進めようとしたんじゃないか」

「葬儀屋としての正当性にまで踏み込まないなら、口先だけでそれらしいことをやって見せるだけの詐欺と区別がつかないだろうが。

 これは年長者としての忠告だ。早晩、あんたらの『商売』は破綻するぞ。手を引くなら早い方がいい。それで、もっとまっとうに生きられる手段を探すべきだ」

「ご忠告どうも」

「まったく」

「で、結局俺たちは見逃してもらえるのかい」

「どうしたもんかな」

 ここまで聞いたことを総合的に判断してアルフィルクの一連の話を信じるか否かで言えば否であるが、野放しにして街に有害な存在かと言われればそれも違うように思う。死亡した黒羊の肉や皮を街に持ち込まない限りは、という条件付きであるが。結局のところ、正体が彼らの語る通りであるかどうかは確かめようがないが、常人のようにまっとうに職を得て働くことができないことは確かなようである。そういう意味では彼らもまた生きることに苦労している若者というわけだ。アルタヤは生来の面倒見の良さが頭をもたげるのを自覚し、自制しながら言葉を選んでみる。

「お前ら、もし仮に今回俺が葬儀を引き受けると言っていたとしたら、代価に何を要求するつもりだったんだ」

「そうだなあ。金目のものなら何でもよかったが」

「いくらだ。言ってみろ」

 アルフィルクは呆気に取られていたようだが、おもむろに指を三本立てて見せた。

「ふむ、いいだろう。その倍を出してやる」

「ずいぶん気前がいいな。何が狙いだ」

「砂鯨の死体を見つけてこい。なるべく早くだ」

「おいちょっと待て、砂鯨なんかそう簡単に死ぬもんじゃないぞ」

「生き物なんだから、いつかどこかで死ぬ砂鯨が出てくるだろ」

「そりゃそうだが」

「期限を定めずに待っていてやる。悪い話じゃないだろ。いくら死体漁りで食ってると言ったって、お前らじゃ砂鯨の死体なんか手の付けようがないだろう。しかし俺たちに話を通せば砂鯨を解体できる奴を紹介してやれるし、そうすればお互いいくらか金になる」

「で、あんたからしてみればこっちの言い分を検証すると共に、俺たちの首に縄を着けられる」

「俺としてはどっちでも構わないんだがな。お前らが砂漠で野垂れ死のうが知ったこっちゃないが、機会をくれてやる。どうする、やるのかやらないのか」

「いいだろう、やってやるよ。別にやましいことはしていないしな」

「よし言ったな。砂鯨を見つけたら俺のところに来い。住所は……口頭でいいか」

 アルフィルクが頷くのを確認し、アルタヤは食肉組合の住所を告げた。

 もしアルフィルクの言う通り、彼らが生物の死をただちに探知できるというならば、「見つけた」と言って見せてくる砂鯨の死体は死後間もないもののはずだ。砂鯨の狩とは多くの人員と多大な危険を伴うものであるが、それらを介さずに砂鯨の死体が手に入るならば、費用対効果の面で極めて優れている。もっとも砂鯨の死体のうちどこまで商品になるかは状況次第であるが、少なくとも骨や髭は使い物になるだろうし、それだけでも十分である。そうして恩を売ってアルフィルクたちを囲い込むことができれば、商売上の恩恵は計り知れないものとなるだろう。アルフィルクたちが砂鯨の死体を用意できなければ、彼らの話は全て嘘だったというだけの話だ。半日ほど足止めを食らった以上の損失はない。

「なるべく早く連絡するようにしたいもんだな」

「期待しないで待っているよ」

 このようにしてアルタヤはアルフィルクたちに見送られ、戻っていった。


「――で、今朝、ひと月ぶりにあいつがやって来て、砂鯨を見つけたと言ってきた」

 夜はすっかり遅くなっていた。もう日付を跨いだ頃だろうか。

「グラジ、お前にはあいつの言葉の真偽を確かめてきてほしい。それでもし本当に砂鯨がいたのなら、その場で解体するのも頼みたい」

「もし、嘘だったら」

「その時はあいつらの砂船を奪って逃げてこい。お前の体格ならできるだろ」

「それはわからないですが」

「うちのひよっこ共よりずっと頼りにしているよ」

「……おじさんがそう言うならば」

「お前にとっても外の世界に出てみるいい機会になるだろうよ。どんな結果になるにせよ、色々見て聞いて考えておいで」

 アルタヤに優しい声色でそう言われてしまったら、グラジはそれ以上もう何も言えなくなってしまう。



 昼に俺のところに来い。砂鯨の捌き方を教えてやろう。あと、専用の包丁もくれてやる。

 別れ際のアルタヤの言葉に従い、翌朝、グラジはアルタヤのもとへ向かった。

「こっちへ来い」

 グラジの顔を見るなりアルタヤは顎で促し、二人は母屋から離れた物置へ行く。物置はずいぶん古びていたが、中は見た目に反して綺麗に整えられていた。大きな布や太いロープ――砂船の航行に使うものたちだ――を横目に奥へ進むと、壁には一本の巨大な刃物があった。長い柄とそれと同じくらいの長さの刃があり、合わせればグラジの肩にも届くだろう。

「立派なものだろう」

「はい」

「これはお前に譲ってやろう」

「そんな、俺には受け取れません」

「どうせ俺にはもうこれを振り回す体力がない。物置の奥で埃を被せておくよりも、誰かに使ってもらった方がこいつも幸せだろうよ」

 食肉を扱う者にとって包丁は仕事道具であるが、鯨包丁は殊更特別なものだ。かつて砂鯨は砂漠で最も偉大な動物であるとして、それを狩る者は大いに尊敬されていた。鯨包丁は砂鯨に打ち勝つ者の象徴として特別な意味を持ち、食肉を扱う者であれば一家に一本、父から息子へ受け継がれていく。グラジにとっては遠い異国のような伝統だった。

「ほとんど骨董品のようなものだが、道具としての性能は保証する」

 それはそうだろう。遠目にも明らかなほどに、刃はよく研がれていた。アルタヤが現場を退いたのは十数年前のことと聞いているが、その後も一人で時間のあるときに研き続けていたのだろう。アルタヤはそのようなものをグラジに譲り渡そうというのだ。

「そんな顔をするんじゃない。俺はお前に渡したくて渡すんだ。ありがたく受け取っておけ」

「……はい」

「さて、それじゃあ始めるか。持ってみろ」

 アルタヤに促され、グラジは鯨包丁の柄掴んでみる。巨大な鋼鉄の刃はずしりと重たいものだったが、見た目以上に重たく感じられた。手放してはいけないと、グラジは柄を強く握る。

 それから正午を挟んだ数時間、アルタヤは鯨包丁の振るい方に始まり、砂鯨を解体する手順や注意点を説明した。

「実物を使いながらやるのが一番いいんだがな、そればかりは仕方ない。大体の流れはわかったか」

「はい」

「砂鯨といっても結局のところ、皮、肉、血、骨、内臓の複合体に過ぎない。それらを切り分けるのがお前の仕事だ。お前なら問題なくできるだろう」

「おじさん、ありがとうございました」

 深々と頭を下げるグラジに、アルタヤは一言「おう」とだけ応えた。


 日暮れが近くなった頃、アルフィルクが作業場に現れた。

「依頼されていた件、引き受けよう」

「そうか。改めてよろしくな」

 差し出された手をグラジは握り返した。



 ***



 夏至と冬至にそれぞれ行われる祝祭は、それぞれ生と死を象徴しているとされている。あらゆる生命の誕生を喜び、死んでいった命たちを悼むのだ。祝祭の成り立ちは、これを取り仕切る教会の者たちが詳しいが、住人の多くにとっては大した問題ではない。大いに歌い、笑い、非日常を楽しむのだ。

 そんな宴の最中に儀式は行われる。といっても形式ばかりのもので、その意義は教会の古書の中で語られるのみであるが。

 かつて旅の途上でこの地に辿り着いた聖人は、病のため死の淵に瀕していた。聖人は弟子たちを集め、自分の亡骸はこの地に残して東方を目指すよう言い、眠りについた。弟子たちは必死に聖人の回復を願い、祈りをささげたが、異国の地にまで故郷の神の慈悲がもたらされることはなかった。代わりに弟子たちの祈りは砂漠の精霊に届き、精霊は祈りを捧げる弟子たちに語りかけた。曰く、五つの命を捧げよ、さすれば彼の男の命を死の淵から掬い上げん、という。弟子たちは話し合った末に、自分たちが連れてきた奴隷の中から生贄を選び、捧げた。かくして聖人は死の淵から蘇ることができた。聖人は五つの命の献身への感謝から、弟子の一人にこの地に留まり、後に訪れる人々に彼らのことを語り継ぐよう命じた。

 儀式はこのような故事に倣って行われる。冬至の祝祭では聖人のための五つの命――すなわち鶏、豚、羊、牛、砂鯨――を砂漠の精霊に捧げ、夏至の祝祭では聖人の復活を祝うのだ。



 ***



 日暮れと同時に砂船は砂上を滑るように走り出した。まだ熱を孕んだ風が帆を膨らませ、舳先は北を向いている。アルタヤから譲り受けた鯨包丁を傍らに置き、グラジは船尾の近くに腰を下ろしていた。

 アルフィルクは慣れた手つきで帆を操りながら、マユワに細かく方角を確認していた。マユワがひとつの方角を指さすと、アルフィルクは頷き、その方角へ砂船が進むよう帆を操る。

 竜骨が砂面を擦るときを除けば砂船はおおよそ揺れることなく進み、乗り心地は悪くない。

「こんばんは、グラジさん。隣、いいかしら」

 目線を上げてみれば、ルシャが風にそよぐ髪を手で抑えながらグラジを見下ろしていた。

「構わない」

「それじゃあ失礼するね」

 ルシャがグラジの隣に腰を下ろすと、砂船はわずかに左右に揺れ、すぐに落ち着いた。

「それは何?」

 ルシャは鯨包丁に目を向けた。鯨包丁だ、と告げると、ルシャは、わあ、と感嘆の声をあげた。

「こんな大きな包丁、見たことない」

「そうだろうな。俺も初めてだ」

 ルシャが布に包まれた鯨包丁を覗き込んでいる。その瞳には好奇心が宿っているのが見て取れた。目元に落ちる影が深い分、まつ毛の長さが際立つ。整った鼻筋は余計なところも足りてないところもなく、美しいものだと感じる。

「今日の昼間に、アルタヤおじさんから貰った」

「たしか、あなたの雇い主の人だっけ。こんな素敵なものをくれるなんて、とても気前がいい人なのね」

「気前がいい……いや、そんな表現をするのはおじさんに失礼だ」

 グラジは顎に手を当て、熟考して言葉を選んだ。アルタヤはたしかに心優しい人ではあるが、根本は生粋の商売人であり、価値のあるものを簡単に人に譲り渡すような人ではない。そこには必ず損得勘定が入る。だから、気前がいいというのは適切な表現ではない。しかし、だからといって、グラジ自身がアルタヤの大事な鯨包丁に見合うだけの価値がある人間だとも思えない。鯨包丁を譲り渡してくれた以上、アルタヤ自身はグラジに何かしらの価値を見出したはずなのだが、それが何なのだかグラジにはわからない。そういう意味では、グラジにとって鯨包丁は分不相応な贈り物だった。

「俺は、また、おじさんに恩を受けてしまった」

「また?」

「親父がまだ生きていた頃から、ずっとだ。おじさんは俺に仕事を与えてくれた。それだけでも申し訳ないのに、死んだ親父に代わって俺を息子のように扱ってくれる」

「いい人だね」

「いい人……ああ、そうだな。おじさんは『気にするな』と言ってくれるが、俺は――一生をかけて受けた恩に報いていかなければならない」

「受けた恩ねえ……ありがたく貰っておいて、ありがとう、でいいんじゃないのかしら。そんな一生をかけて、だなんて大げさなことを言わずに」

 この世は交換関係で成り立っている。だから受けた恩に見合う何かを返さなければ、釣り合いが取れてない。グラジは自分の「ありがとう」という言葉に価値があるとは感じられない。これは所詮ただの言葉だ。グラジが礼を述べたところでアルタヤの懐には銅貨の一枚も入らない。それよりも、一頭でも多く家畜を解体し、アルタヤのために働いてみせた方が彼のためになるだろう。

「俺は、それでいいとは思わない。受けた恩には行動で返さなければならない」

「ふうん」

 それきり会話が途絶える。ルシャはグラジの隣に腰を下ろしたまま星空に右手を伸ばし、空を掻くような仕草をしている。それは手の届かないものを掴もうとしているようにも見えた。不思議なことをするものだとグラジは思う。やがて満足したのか、ルシャは腕を下ろし、空を見上げたまま目を閉じた。鼻腔が呼吸に合わせて微かに膨らみ、震えていた。

「ねえ」

「なんだ」

「そんな風にじっと見られると、恥ずかしい」

「そうか。それはすまなかったな」

 ルシャがそう言うので、グラジは目線を前に戻した。

 息を吸って、吐く。それを五回ほど行うほどの間を置いてから、ぽつりとルシャが言った。

「私の顔を見て、何か思うことでもあったの?」

「特には何も……いや、綺麗な顔をしているなとは思ったな」

 ふっ、と呆れた風にルシャは鼻で笑う。

「そんなはっきりと言われたのは初めてだわ」

「そうか」

「ねえ、グラジさんっていつもそんな風なの?」

「そんな風とは」

「言われた側がどう思うかはお構いなしに、思ったことをそのまま言っちゃう」

「迷惑だったか」

 ルシャは首を横に振った。

「別にそんなことはないけど、普通は……ああ、またマユちゃんに怒られちゃうわね。でも、まあ、うん、普通は、自分がこう言ったら相手がどう反応するかを予想して、言葉を選ぶわよ」

「そうか、そうなのだろうな、普通は。俺は、そうだな、取り繕うというのが下手なのだろう」

「それはわかるわ。そうでしょうね」

「だから、俺は自分が思ったことを思った通りにしか言えない。それでよく他人を怒らせてしまう」

「あなたも苦労しているのね」

「いや、別に苦労と感じたことはない」

 苦労というよりは、申し訳なさが先立つのだ。グラジが他人を怒らせたくて怒らせているわけではないように、その人もまた怒りたくて怒っているわけではないはずだから。相手に不本意な反応を強いているのが自分自身だからこそ、申し訳ない気持ちになる。

「ねえ」

 二人のあいだにできた間を埋めるようにルシャは切り出した。

「グラジさんのこと、もっと教えてよ。興味が湧いてきた」

「俺のことなんか知ってどうする」

「どうもしないわよ。ただ、知りたいなって思っただけ」

 そう言ってこちらを覗き込むルシャの目から好奇の光がこぼれていた。先ほど鯨包丁に向けていたものと同じ類のものだ。グラジはその目から思わず顔を逸らしてしまう。

「ね、いいじゃない」

 グラジが顔を背けて離れた分の距離をルシャが詰めて近寄り、見上げるかたちで覗き込んでくる。大きな瞳には星が映り込み瞬いているようで、意識が奪われかけていることをかろうじて自覚する。

「俺に、近づくと穢れるぞ」

 苦し紛れに出たのはその言葉だった。昔、多くの大人や子供たちがグラジを指さしそう言ったものだ。

 言われたルシャの方も、最初はきょとんと呆けていたが、遅れて頭で理解できると、随分ばかなことを言われたと気付き、たちまち腹が立ってくる。

「穢れるですって?」

 ルシャがさらに距離を詰めてくるので、グラジは思わず身を捩って逃れてしまう。ルシャは口元に笑みこそ浮かべているものの、目は笑っていない。グラジはぞっとするほど手に冷たいものが当たるのを感じる。視線を落としてみれば、ルシャの小さな手がグラジの拳の上に置かれている。それは氷の塊ようだった。

「これで私の何が穢れるっていうのかしら」

「わからない」

「お願いだから、そんなくだらないこと、言わないでよ」

「くだらないことなのか」

「人間が人間に触ったぐらいで穢れるなんてこと、あるわけないじゃない」

「でも皆が」

「皆って誰? あなたが言うところのみんなが『グラジに触ったら穢れる』っていうから穢れるの? じゃあ今、私の何が穢されたのか、教えてよ」

「それは、俺にもわからない」

 幼い頃から生まれや育ちが卑しいと言われてきた。子供同士の無邪気さで仲良くなった子たちは、帰宅後に親に諭され翌日にはグラジと距離を置くようになるのが常だった。屠殺業を営む家の子は、生まれつき全身が家畜の血にまみれ、その手は数多の命を奪った罪に染まっている。皆はそう言うが、もちろん幼い頃のグラジは家畜の血を浴びたことなどなかったし、家畜の命を奪ったこともなかった。だからグラジが「違う」と訴えても返事は暴力でなされた。

 果たしてグラジは穢れているのかいないのか。穢れている証拠はないが、穢れていない証拠もない。グラジにはわからないが、自分より賢い人々が「グラジは穢れている」と言うのであれば、そうなのだろう。成長して父親の後を継ぎ、屠殺業に就いてからは、実際に数多の家畜を手にかけ、その手は確実に血に染まってきた。目を瞑れば家畜たちの断末魔の叫び声が鼓膜に生々しく蘇る。少なくとも殺された家畜たちはきっとグラジのことを赦さないだろう。あの作業場がグラジの居場所だ。

「わからないってことはさ、本当は穢れてないかもしれないってことじゃない」

 ルシャに覗き込まれるとグラジは居心地が悪くなる。痛みには強い性質だと思っていたが、この居心地の悪さだけはどうにも耐え難い。

「俺は」ルシャから目を逸らしたまま、喉から声を絞り出す。「お前みたいな美しい人を穢したくない。だからそういう可能性があるのなら、お前は俺に触れるべきではないんだ」

 グラジの拳に乗せられたルシャの手がぴくりと震えた。逸らした目をルシャに戻してみれば、ルシャの目が丸くなっている。

「……あなたって本当に面白いわね」

 ルシャは立ち上がると、足早に船室に戻っていってしまった。

 グラジはようやく一息をつくことができた。そして不意に、遠巻きにアルフィルクとマユワが一連のやり取りと見ていたことに気付いた。グラジと二人の目が合うと、アルフィルクがマユワに「ありゃ一体何だ」と訊ね、マユワが「さあ?」と興味なさげに答えていた。



 アルフィルクが言った通り、ぴったり三刻で砂船は砂鯨のもとへ辿り着いた。

 辿り着いて見た砂鯨は重力に押し潰されて平たく伸びていた。頭から尾びれまでの長さは牛数頭分にも相当するだろう。もしまだ生きていて、噂で聞く通り地表に浮かんでいるとすれば、グラジを見下ろしていたことだろう。今まで捌いてきたどの家畜よりも大きかった。

「どうだ、大きいだろう」

「ああ」

「でも、砂鯨の中じゃまだ小さい方だ」

「そうなのか」

 グラジの隣でアルフィルクは腰に手を当て言った。

「どうだ、やれそうか」

「やってみなければわからない」

「手伝いは必要か」

「できるなら頼みたい」

「よしわかった。指示は任せる。ルシャやマユワもあてになるなら使え」

 グラジは頷き、手にした鯨包丁の布の包みを外した。

 はたしてアルフィルクの言う通り砂鯨はあった。砂鯨を見つけたからこそアルタヤを訪ねたのだろうから、砂鯨があること自体は不思議なことではない。しかし、砂鯨が死後さほど日にちが経っていないことには驚いた。ここから街までの往復の時間やアルタヤやグラジを説得する時間から逆算すれば、この砂鯨は死後間もなくアルフィルクたちに発見されたことになる。運がいいか、あるいは彼らの言う通り生物の死を探知する術があるか。一つの事例で判断するのは尚早というものであろう。

 いずれにせよ、確かなことは、今目の前に解体すべき砂鯨があるということだけである。仕事として請け負ったからには、やるべきことはやらなければならない。アルフィルクたちを見極めるための時間はまだある。

「さて」

 グラジは砂鯨を見上げる。

 砂鯨はうつ伏せの状態で死んでいた。小さな家畜であれば解体しやすい姿勢に動かすことができるが、砂鯨は巨体であるので今の状態のまま取りかかるほかにない。アルタヤに教わった通りの手順で進めていくことにする。

 まず砂鯨の下腹に鯨包丁の刃を水平に刺し込み、横に引く。赤黒い血が溢れて砂を濡らした。砂鯨の自重に任せて血が抜けきるのを待った後、砂鯨の背にのぼり、刃を垂直に立てて尾に向けて進めていく。


「大したもんだな。手際がいい」

 アルフィルクが腰に手を当て、感心して呟く。その傍らでマユワはじっと唇を一文字に結んだまま、グラジが包丁を振るう様を見ていた。

 グラジの仕事の前では砂鯨とは骨と肉と皮の集合体であり、生前に砂鯨が積み重ねてきた歴史が顧みられることはない。もちろん彼にそのような悪意がないことは知っているし、野生の生き物の過去に思いを馳せる方がどちらかといえば普通ではないことはマユワも承知している。しかしそれでも、かつて心を持っていた者が物のように扱われる様子を見るのは気分のいいものではなかった。知らなければそれはただの砂鯨なのかもしれないが、冥界の門を通る様子を見届けた以上、もはやただの砂鯨と同じように見ることはできない。

「船室に戻るか?」

「ううん、いい。見てる」

 しかし今グラジが砂鯨を解体していることは、肉食動物が他の生物を殺して食べるのと何が違うのか。何も違わない。マユワたちは砂鯨の肉などを市場に卸して日銭を稼ごうとしていて、その肉は結局誰かの胃袋に収まるのだ。生きるためにしていることという点ではまったく同じことだ。もしも今ここで感じる気分が悪いと感じるならば、それはただの欺瞞でしかない。グラジはマユワの代わりにそうしているのと同義である。この空と砂漠の狭間でアルフィルクと共に生き続けようと願うのであれば、この気分の悪さは受け入れなければならないものである。

「マユ」

 名前を呼ばれてマユワはアルフィルクを見上げる。アルフィルクは目線とグラジと砂鯨に向けたまま続けた。

「お前、また変なことを考えていただろう」

「……うん」

 グラジは鯨包丁を振るい、手際よく砂鯨を肉と皮に切り分けていく。魂を失った肉体は抜け殻であり、ただの物体でしかない。グラジは冥界の門の門番を彷彿とさせるように、ひたすら淡々と作業を進めていく。

「なあマユ、俺たちは自由を知らない。けれど、不自由であることは身をもって知っている。うんざりするほど、嫌というほど知っている。俺たちの人生はままならないことだらけだ。たくさんのことを諦めてきた。これから先も、失うものがたくさん出てくるだろう。だから、もし不自由じゃなくなれれば俺たちは自由になれるって、そんな夢を見てしまいそうになる」

 アルフィルクが苦々しそうな顔をしていることは、見なくてもわかる。

「けど、自然の仕組みの中で生きている限り、俺たちが完全な意味で不自由から解放されることはない。結局のところ、俺たちはどうやったって、この世界の中で生きる以外の生き方はないし、世界を統べる法則に抗うことはできない。これからも不自由を強いられ続ける。だから、たぶんだけど、もし自由というものがあるならば、それは不自由の中にあるんだろうな」

「生きるって難しいね」

「難しいな」

 マユワはじくじくと胸が膿んで痛む心地がする。結局最後は仕方ない、と納得する、あるいは諦めることになるのだが、今この瞬間感じた痛みだけは誰にも否定できないものだ。いつか痛みに慣れてしまう時が来たとしても、せめて痛いと感じたことだけは忘れたくない。

 皮を剥ぎ始めたグラジが作業の手を止め、アルフィルクに向かって手を挙げた。手助けを求めているようだ。

「じゃあ、行ってくる」

 そう言い残してアルフィルクはグラジの方へ駆けていった。グラジが身振りを交えてアルフィルクに説明し、アルフィルクが頷き了解している様子がうかがえた。アルフィルクは全身で皮の端を掴んで引き、できた隙間にグラジが鯨包丁を刺す。

 砂鯨はこのようにして解体されていく。マユワは、その砂鯨が冥界の門を通るまでの束の間に、彼が伝えてくれたその生涯を思い出す。彼もまた誇り高く立派な志の持ち主だったのだ。

 もしもあの砂鯨に、「あなたの死骸は私たちが好きに切り刻んで市場で売り払う」と伝えたら、彼はどう応えただろうか。マユワは考えてみるが、すぐに意味のない問いであることに思い至った。他者の意思や感情は他者のものであり、憶測はどこまでいっても憶測でしかない。彼がどう応えたとしても、マユワたちは自分たちの都合でそのようにすることを変えないのだから、この問いは自己正当化以上の意味を持たない。

 アルフィルクはマユワと一緒に堕ちていってくれる。そのことを申し訳ないと思う時期はとうの昔に通り過ぎていた。



 満月が天頂に到達する頃に、やるべき作業の最低限が終わった。

 砂鯨はおおよそ骨と肉と皮に切り分けられた。この後は、切り分けたものの中から市場に卸せそうなものを選別する作業に取りかかるのだが、砂船の容量には限りがあるため、金になりそうなものを優先して厳選しなければならない。

「複数回に分けて運ぶってのはできないのか」

 アルフィルクの問いにグラジは首を横に振る。

「いや難しいだろう。夜が明けて気温が上がれば、肉や皮はすぐに痛んでしまう。往復するのもそれなりに時間がかかる」

「骨は長持ちするんじゃないか」

「肉や皮よりはましだろうが、どうだろうな」

「わからないのか」

「ああ。砂鯨は初めてだったし、そもそも解体した後のことは他の人たちにすっかり任せていたからな」

「そうだよなあ。ま、仕方ない。できる限りのことをやろう」

 アルフィルクが膝を叩いて立ち上がると、グラジはその後に続いた。アルフィルクは歩きながら体を捻って後ろを向き、休んでいたマユワとルシャに向かって呼びかける。

「マユ、ルシャ! 獲物を運び込めるよう、砂船の片付けをしておいてくれ」

「了解」

 ルシャが軽く手を挙げてそれに応えた。

「行こう、マユちゃん」

 マユワはルシャに手を引かれて立ち上がった。

「あれだけ大きかったのに、何とかなるものだね」

「うん」

「マユちゃんは血がどばーって出るのは大丈夫だった? 私はしんどく感じるところもあったな」

「それは別に大丈夫」

 冥界の門を通る前後ではもっと酷い光景が繰り広げられることもある。死体が死に物狂いで抵抗しない分だけ、砂鯨の解体の方がまだ穏やかというものだ。

「そっか。……ねえ、ちょっと質問なんだけどさ」

 ルシャは作業の手を止めた。神妙な面持ちである。

「私ね、あの人に『俺に触れるとお前が穢れる』って言われたんだけど、どういう意味だと思う?」

 マユワはルシャから手元の作業に目線を戻す。

「さあ。その通りの意味なんじゃないの」

「あの人くらいで穢れているというのなら、私たちなんてどうなっちゃうのかしらね」

 ルシャは冥府との繋がりを得た中指に目を落とした。その様子を横目で見て、マユワはぽつりと呟く。

「あれは、綺麗なものが良いものだという無意識と無自覚の表れ」

「無意識で無自覚ねえ。そんなの、まるでただの子供じゃない」

「そう、ただの子供。無垢で純粋。まだ何も知らない人。だから自分がやっていることの意味や重みにも無意識で無自覚。愚かさを理由に考えることを放棄し、正当化している。そして何よりも、そうすることを自分で選んでいると思っている」

 一度口に出してみると言葉がどんどん溢れてきて、マユワ自身が戸惑ってしまった。

「マユちゃんは、あの人が苦手なの?」

「そうかもしれない。たぶん、自分に似ているから」

「マユちゃんに?」

「そう。自分の意思ではままならないことに振り回されているところが似ている」

「ふうん。人間なんて多かれ少なかれそんなものだと思うけど」

「そうなんだけどね」

 いつの間にか作業の手が止まっていたことに気付き、マユワは再び手を動かし始める。グラジに自分自身を投影して自己嫌悪に陥るなど、しょうもないにも程がある。グラジはたまたま知り合っただけの他人であり、それ以上でも以下でもない。この仕事が終わればまた三人に戻るだけだ。彼がどのような生きづらさを抱えていたとしても、それは彼自身の問題でしかない。

 だから首を突っ込み過ぎない方がいいのだが、ルシャはそうでもないらしく、じっと考え込んでいる。

「みんなもっと楽に生きればいいのにって思うんだけど、私がおかしいのかな」

「楽に、って?」

「なんていうんだろう。誰かに何かしてもらったら『ありがとう』って言えばいいし、それで必要以上の恩義に縛られる必要はないじゃない。その人だってしたくてしたんだろうし。あるいは、誰かに何か悪口を言われたって、それはその人が勝手にそう言っているだけで、世界中の全員がそう言っているわけじゃないでしょう。そりゃ人間だからしがらみはあるし、それに多少はとらわれていたとしても、一方で自分の気持ちや意思というのもきっとあるんだし。ほら、いつかマユちゃんが言ってくれたみたいに、自分がそういう風に感じたということ以上に確かな事実はないって思うの。だから、その感覚に素直になれたらいいんじゃないかなって。大事なのはこれまでがどうだったかじゃなくて、これからどうするかだから。そういう未来を考えるときに、しがらみが足枷になるのはもったいないなって思っちゃう」

 言葉を探しながら喋っているうちに、ルシャは自分で納得がいったらしく、うん、うん、と頷きながら力説していた。

 たしかにルーの言う通り、とマユワは思う。しかし一方で、過去があるから今の自分がある以上、過去の存在そのものを否定することはできないとも考える。しがらみから解き放たれることと、しがらみを忘れることは同じではない。

「あの人に足りてないのは、未来そのもの。五年後や十年後に幸せでいる自分自身が描けていないし、それを描くという発想すらない。過去のなかで生きていて、そのことに安心しきってる」

 自分が飛べることを知らない鳥籠の中の鳥は幸せか不幸せか。鳥籠の中の鳥を見て可能性が奪われているように見えるのは、見ている側が鳥に可能性があることを知っているからこそで、そのことを知らない立場であれば最初から選択肢などなく、道は常に一本道である。そこに不満や不幸は生じようがない。

「口に出さないだけで、本当は他にやりたいこととかやってみたいこととかってあるのかなあ」

「そういうのは彼自身が考えること。今の自分は偽りで、本当の自分がどこかにいるはずなんて、それこそ呪いみたいなものだよ」

 だから放っておくのがいいよ、とマユワは言外に含ませた。

 基本的に自分のことは自分でどうにかするものであり、他者は不干渉であるべきだ。しかし、その隔たりを乗り越えて寄り添ってくれる人がとてもありがたいものであることもマユワは知っている。そういうことをしてくれるから特別な人になるのか、あるいは特別な人だからそういうことをしてくれるのか。どちらが先かはわからない。

 ルーがグラジにとってのそういう人になってくれることを自分は期待しているのだろうか、とマユワは自分に問う。おそらくそうなのだろう。人の人生はその人のものであるから、幸せになるのも不幸せになるのもその人の勝手であるが、救われる人は少ないより多い方がいい。どうも自分はグラジに自分を重ねすぎているようだと、マユワは反省する。



「ま、こんなところだな」

 砂船に荷を運び終えたところでアルフィルクは言った。夜明けはまだ遠く、黒く塗り潰された空には無数の星々が瞬いている。月や星の明かりが地表を青白く照らしていた。

 結果として砂鯨の体の大半は残していくことになった。肉は痛みが少なく、かつ高値で売れそうな部位を選んだ。骨と皮は大きさと市場での希少さとの兼ね合いで判断した。

「悪いな、せっかく切ってもらったのに。ほとんど残していくことになってしまった」

「いや、構わない」

 一晩かかった仕事を終えてみて、グラジはいくらか疲労していたものの、特に達成感はなかった。わかっていたことであったが、砂鯨を解体するということは他の動物を解体することと大差ないものだった。体が非常に巨大であるからそのぶんの手間や苦労はあったが、アルタヤに教わった通り、肉体としての基本的な構造に変わりはなく、解体のための手順も同様だった。アルタヤの教えやアルフィルクたちの手伝いのおかげもあっただろうが、おおむね躓くところもなく仕事を終えることができた。

 こんなものか、とグラジは思う。

 砂鯨とは砂漠で最も偉大な生物であるとされている。だから砂鯨を解体することは、他の動物とは違って特別な名誉であるとされてきた。アルタヤも若い頃に砂鯨を捌くことで一人前と認められたという。しかしグラジ自身はそのような名誉とは無縁であった。だが、まったく興味がなかったかと言われれば嘘になる。アルタヤから鯨包丁を譲り受けたことは存外に自分にとっては誇らしいことだったらしい。

 かちゃり、と胸の内で枷の外れる音が聞こえた気がした。

「出かける前に食事にしよう。さすがに疲れたな」

 アルフィルクは腕を回してから手を腰に当て、伸びをする。ルシャとマユワが食事の支度を始め、捨て置くことになった肉を小さく切り分けたり、簡単な椅子や机が設えたりする。グラジが手伝いを申し出ようとすると、アルフィルクたちが手で静止するので、グラジは所在なさげにその場に立ち尽くすしかなかった。

「楽にしていたらいいじゃない」

 すれ違いざまにルシャが呟くように言ったので、グラジは思わず振り返った。ルシャは木箱を両手で抱えたまま立ち止まっていた。顔はグラジの方には向けずに続ける。

「あなたは頼まれた仕事を立派にやり遂げて、私たちの中で一番疲れているはずなんだから。ゆっくり休んでよ」

「いや、俺は別にこれくらいでは」

「でも」

 ルシャがそう言いかけたところで、マユワが横から現れ、グラジのズボンの裾を引いた。

「こっち。手伝って」

「ああ、わかった。何をしたらいい」

「火を大きくしておいて」

 マユワはグラジに木筒を渡した。それに息を吹き込んで空気を送り、おこした火を大きくしろというのだ。

「薪は船の中にあるから。必要なら足しておいてね」

「わかった」

「あなたは、そういう風に何かに束縛されているほうが安心できる人だものね」

 一拍置いてグラジが返す。

「……そうなのかもしれないな」

「かもしれない、じゃなくて、そうなんだよ」

 それはグラジに向けられた言葉であったはずなのに、言ったマユワ自身が苦しそうにしていた。マユワは唇の端を噛み、俯いている。そんなマユワの様子を見て、ルシャも困惑し、かけるべき言葉を見失っていた。

 どうやら自分はまた何かしてしまったらしい。

「すまない」

 しかしグラジの言葉はすぐに風に流されて消えていってしまった。

「ごめんね、これは私の問題。あなたは関係ないの」

「しかし」

「何でもかんでも自分のせいになるほど、あなたは他人を左右できる人じゃないよ。あなただけじゃなく、みんなそうだけど。……火、よろしくね」

 マユワがいなくなった後でグラジは木筒に息を吹き込みはじめた。火は大きく燃え上がり、熱気がじりじりとグラジの顔を焼く。額にうっすらと汗が浮かんでいる。役割に没頭するうちにグラジはようやく安心できた。

 いつの間にかルシャは抱えていた木箱を足元に置き、不機嫌そうにグラジのそんな様子を見ている。

「どうかしたか」

「別に。何でもない」

 不貞腐れたように、ルシャは吐き捨てた。マユワは自分には他人を左右できるほどの影響力はないと言っていたが、明らかに自分の態度が二人を怒らせていたところを見ると、マユワの言っていることは間違っているようにグラジは思ってしまう。

「すまなかった」

 しかしその言葉が余計にルシャに怒らせてしまう。

「ああもう、もっと堂々としていてよ。まあ私がこうなってるのはあなたのせいなんだけど、あなただけのせいでもなくて。なんていうのかなあ、あなたは卑屈すぎて、見ててもやもやするの。なんですぐ謝るのよ。あなた何も悪いことなんかしてないじゃない。私がもやもやしてるのも私が勝手にそうなってるだけなんだから、一々こっちの顔色なんかうかがわないでよ」

 そういう風に言われてしまうと、グラジは返す言葉を失ってしまうと同時に、既視感にも襲われていた。その正体は何だっただろうか。記憶の中で「グラジ」と呼びかける声は申し訳ないほどに優しい声色である。その声の主は、アルタヤと食堂のおばさんだった。

 どうして、今思い出すのがこの二人なのか。

「ちゃんと人間をやってよね。人間なんだからさ」

 グラジは人間をやるとはどういうことか訊ねたいと衝動的に感じたが、また叱られる気がして、何も返せずにいた。そんなグラジの様子を見かねてルシャは何か言いたげにしていたが、やがてため息をついた。

「……火。任されていたんでしょ」

 グラジは得も言われぬ不快感が胸の内に生じたのを感じた。他人に呆れられることには慣れていたつもりであったが、失望されるのは初めてであったように思う。

 ――一体、何なのだ。自分などに何を期待しているのか。思えば最初からそうだった。この女、ルシャは俺に普通や常識とやらを要求してきて、俺がそれに当てはまらないと知ると「興味を持った」などと言い出し、そうかと思えば勝手にがっかりする。挙句に「あなたのせいなんだけど、あなただけのせいではない」「ちゃんと人間をやってよね」などという意味の分からないことを言い出す。言っていることが滅茶苦茶ではないか。

 この腹の底がむず痒くなる感覚は、グラジにとっては初めてのものだった。

「何よ。何か言いたいことでもあるの」

「いや、別に。……俺にもよくわからない」

「眉間に皺が寄っているじゃない」

「む、そうなのか」

「うん。鏡があれば見せてあげたいくらい、すごく皺が寄っている。うわあ、すごい、へえ、ここまで皺が寄ることってあるのね」

 そう言ってルシャは吹きだした。

 この女は一体何なのだ。何がおかしいのだ。

「はあ、面白い。ちゃんと腹を立てて、そういう表情もできるんじゃない。ああよかった。笑いすぎて涙が出そう」

「俺は腹が立っていたのか?」

「知らないわよ。私はあなたじゃないんだから。でも私の目にはそういう風に見えたってだけ」

「お前は一体何なのだ。よくわからん女だ」

「あら、もしかして、私に興味が湧いた?」

 にやついた顔でルシャはグラジを見上げる。そのきらきらと輝く目が苦手だ。無視することができない。

「そうかもしれない。ルシャ、お前は俺が知っている人の誰にも似ていない。お前に見られると胸がざわざわする」

 唐突に名前を呼ばれてルシャの体が跳ねた。

「ずっとお前呼ばわりだったから、名前を覚えられていないんだと思ってた。ああびっくりした」

「そんなことはない。ただ、名前で呼ぶ必要がなかっただけだ」

「必要がなくたって人には名前があるんだから、名前で呼んだらいいじゃない」

「そういうものか」

「そうよ。グラジさんってそういうところがズレてるよね」

 人のことを名前で呼ばない、というのは自省してみてたしかに思い当たるところがあるものだった。なぜ自分は人を名前で呼ぶことがほとんどないのか。グラジは考えてみて、ただちに答えに気付く。それは、グラジ自身が名前で呼ばれた経験がほとんどなかったからだ。両親を除けば、アルタヤと食堂のおばさん以外に自分のことを「グラジ」と呼んだ人はいなかった。皆、グラジのことを「お前」と呼んできた。だから、自然とグラジも人に呼びかけるときは「お前」となった。

 そのことを思いつくままに語っている間、ルシャは頷きながら、うん、うん、と耳を傾けていた。そしてグラジが全てを語り尽くした後、ルシャは一言こう訊ねた。

「グラジさんって元々よく喋る人なの?」

「どうだろうな。よくわからない」

「寡黙な人なのかと思ってたけど、今、話を聞いてて印象が変わったわ」

 ルシャは柔らかく笑う。

「どうも俺はルシャの前だと調子がおかしくなるようだ」

 グラジがそう言うと、ルシャはまた目を丸くして見せた。

「ねえ、それってどういう意味なの?」

「今まで感じたことのない気持ちを立て続けに感じる。なんだろうな。よくわからない」

 今晩だけで何度、わからない、と言ったことか。グラジは戸惑ってしまう。

「そう。へえ、そうなの。そうなんだ。やっぱりあなたは面白いわ」

 ルシャは上機嫌でいる。どうやら今度はルシャを怒らせずに済んだらしい。どうしてそういうことになるのかまではグラジにはわからないが、人が嬉しそうにしていて不愉快だということはない。

「おい、お前ら、くっちゃべってないで、働け」

 遠くからアルフィルクが声を張り上げる。

 はあい、とルシャが返事をして、

「また後でゆっくり話をしましょ」

 とグラジの耳元で囁いた。




 促されるままに、いただきます、と皆で言葉を揃えた後、焼いた砂鯨の肉に歯を立てた。アルフィルクとルシャが「美味い」「美味しい」と感嘆をもらす一方で、グラジとマユワはただ黙々と肉を咀嚼していた。鯨包丁で切った感触と同じように、砂鯨の肉は弾力性があり、噛み応えのあるものだった。火で溶けた脂が溢れて舌の上に広がる。確かに美味いものだが、それ以上のものは特にない。こんなものか、こういうものか。

 そうして食べ終えた後にルシャは立ち上がり、尻に付いた砂を手で払った。

「ねえ、発つまでまだ時間があるでしょ」

「ああ。どうせ今すぐ戻ったって市場は開かない」

「じゃあアレやっていい?」

「おう」

 ルシャは大きく伸びをし、左手を空に伸ばし、指を開いたり閉じたりする。アルフィルクも立ち上がり、食事の後片付けを始める。火には薪を足し、湯を沸かす。

「何が始まるのだ」

「俺たちなりの区切りの付け方、かねえ」

 どういうことだ、と言いかけたところで、ルシャが、ねえ、とグラジに呼びかける。

「グラジさんは仕事で、その、家畜を殺した後ってどうしてるの?」

「なるべく早く皮を剥ぎ、肉を切り分ける」

「いや、それはそうなんだろうけど、私が言いたいのはそういうことじゃなくて。鶏、豚、羊、牛、それらにも命ってのはあるわけじゃない。死んだものに対して何かこう、冥福を祈るようなことっていうのはやるの?」

「やらないな。やっている暇がない」

「一度もないの?」

「ああ」

「これまで一度も?」

「そうだが」

 そっか、と心なしか寂しげに呟いた後、ルシャはグラジの目を見つめ、言った。

「グラジさんは死後の世界ってどう思う?」

「どう、とは」

「そうだなあ、まず、死後の世界というものがあると思うかどうか。それから、冥界の門をくぐり抜けるということについてどう考えているか、かな」

「ふむ」

 よくわからない問いではあるが、問われたからには答える必要がある。

「俺が自分自身でこの目で見たわけではないから、死後の世界や冥界の門が実在するかどうかはわからない。わからない以上、そこから先を考えることは、その内容が何であれ、妄想と同義になるだろう。だが、皆があるという前提で物事を語るのであれば、あるのではないか」

「最後、なんだか急に曖昧な話になったわね。けど、わかった」

 ルシャはグラジの前に踏み出し、グラジの手を取る。左手の中指が相変わらず異様に冷たい。

「すごく変なお願いに聞こえるかもしれないんだけどね、さっきグラジさんに解体してもらった砂鯨くんのことについて、

これから少しの時間の間だけでいいから、考えてみてほしいんだ」

「砂鯨の何を考えたらいい」

「それは、何でもいいの。これから私が見せるものを通して、何か感じたり考えたりすることがあればいいなって思うから」

 グラジが自分の眉間に皺が寄るのを感じる。意味がわからない。

「付き合ってやってくれ。ルシャなりに考えて言ったりやったりすることだ」

 アルフィルクに助け舟を出されてルシャは唇を尖らせ、そのままグラジに背を向けてしまった。そして歩き出し、グラジたちから遠のいていく。

「葬儀屋として俺たちが何をしているか、見せてやる」

 アルフィルクはルシャの方を向いたまま口の端を上げた。

「グラジ、お前のためにやるんだからな。よく見て考えろよ」

 見ればわかる、ということだろうか。グラジは腕を組んでルシャがこれから行うことをじっと見てみることにした。



 グラジは馬鹿だ。

 ルシャは心の底からそう思う。そして同時に、少し前までの自分にもよく似ているとも思った。自分の感情に無自覚で、孤独であることにも気付いていなかった頃の自分だ。生死の狭間で偶然マユワに出会い、そこで自分自身に気付かせてもらえたことは、ルシャの人生においてまったくの幸運というほかにない。

 嫌なことや未練や後悔はたくさんあった。一方で貴重なものも多く受け取ってきた。もしも、と起こり得なかった未来の可能性を数えて悔やむこともあるが、心の痛む過去を否定したら今の自分は自分自身ではないだろう。そうして全ての経験に感謝の気持ちを持てる程度には、ルシャは自分の人生を肯定している。だから、今度は自分から他の人へ、今まで貰ってきたものを返す番だと考えている。

 グラジの心は美しいと思う。水晶のように透き通っており、彼が経験してきたどんな過去もついにグラジの心を穢すことはできなかった。もっとも、透明すぎるが故に、グラジ自身には何も見えていない。本当はそこにグラジの心があるのに、本人がそのことに気付いていない。

 グラジの顔と体の半分が焚火に照らされて明るくなっていた。マユワやアルフィルクも同じようにルシャの方を見ている。

 雲一つない空には地平線まで全てを埋め尽くす星があり、光の粒たちはそれぞれの色を持って瞬いていた。そして西の方に満月が傾いている。夜明けは遠くないだろう。朝になればいつもの日常に回帰していく。今は束の間の特別な時間だ。

 凍てついた砂漠の風を胸いっぱいに吸う。ゆっくり吐き出しながら喉を震わせる。そうして紡がれるのは、眠りゆく全てのものたちが素敵な夢を見られるようにと願う子守歌である。 夢の中では辛いことも苦しいことも寂しいこともない。ただ優しい音色に包まれていればいい。そうして死者は永遠に眠り、生者はやがて訪れる明日に目覚めるのだ。

 ルシャは左手の冥府と繋がる中指を振り下ろした。その動きに従い、星々のうちのひとつが流星となって夜空を滑り降りる。星の光は雫となって滴り、地表の砂漠を濡らした。ひとつ、またひとつと降ればそれはさながら雨のようであり、たちまち地表にもう一つの星空を映しだした。現実ではあり得ない空間のなかであれば不思議なことのひとつやふたつくらい起こってもおかしくないのかもしれない。そう錯覚してくれたらいい。

 しかしルシャ自身、今のこの光景はただのまやかしに過ぎないことを知っている。星が降ることに意味はない。星が降ったところでなんだというのか。現実の何かが具体的に変化するわけではない。ただ不可知の法則を借用して見せただけの無意味で無害な手品だ。しかし、その結果、人の心の内に生じた動揺や、不可知の法則が実在するという認識それ自体は、その人の心を変えるきっかけにはなるかもしれない。

 祈るような心地でグラジの方を見る。グラジは微動だにせずルシャの方を向いていた。今この瞬間、その目で何を見て、その頭で何を考えているのだろうか。

 隣でマユワが何かを言ったらしい。グラジの顔がマユワの方に向けられて、それから再びルシャの方に向いた。ルシャの耳には届かないが、どうやら二人は何か話をしているらしい。そんなやり取りを、アルフィルクが背後から見守っていた。悪がきが何か企んでいるときのような意地の悪い笑みを浮かべているのだろう。


 ルシャの歌声が冷たい空気を伝って耳に届いてくる。柔らかく優しい歌声だった。それが子守歌であると気付くのに時間がかかった。それほどに、このような優しい歌はグラジにとって縁のないものだった。

 わからない。

 なぜ、ルシャが突然子守歌を歌い出したのか。ルシャは自分に何を伝えようとしているのか。今、自分には何が期待されているのか。自分はどうしたらいいのか。このままルシャを見続けていれば答えはいずれ現れてくるのだろうか。ルシャが見ていろというならば、今はそれに従うほかにない。

 やがてルシャは歌いながら舞い始めた。すると、視界の端を何かが過ぎていくのが見えた。最初は気のせいかと思ったが、その後も何度か、ちら、ちら、と過ぎていくので、見間違いではないらしい。

 夜空を何か光るものが通り過ぎていく。虫か鳥か、発光する生物――それだけでも十分珍しいのだが――かと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。光るものの正体が夜空に浮かぶ星であると気付いたとき、グラジは我が目を疑った。しかしそうと気付いてしまえば、それ以外の解釈は得られなかった。

 文字通りの意味で、星が天から降り注ぎ、砂の上に滴り落ち、光の粒としてその場に残っていた。そういうものが次から次へと降り注いでいく。光の雨である。

 今、自分は何を見ている? これは一体何なのだ。

 見知った現実が非現実へと塗り替えられていく。ここではないどこかへ連れていかれる。自分が知らないものを見たり知ったりすることが恐怖であるとグラジは初めて知った。

「大丈夫だよ。あなたがあなたのままであることに変わりはないから」

 焚火越しにマユワが語りかけてきた。異変はグラジたちの足元までは到達しないようで、その点には安心する。

「あのね、あなたに謝らないといけないことがあるの」

「なんだ」

「昨日か一昨日に、一緒にごはん食べたでしょ。そのときに、『このお肉はあなたが殺した動物のものなの?』なんてひどいことを言ってしまって、ごめんなさい」

 一瞬何のことかと思ったが、食堂での一場面を思い出す。

「いや、それは事実だろう」

「ううん。あれは私があなたを傷つけるつもりで言ったの。少しでもあなたを罪悪感で苛むことができればって、意地悪をしたの。たくさんの動物の命を奪い続けてきたあなたのことが、苦手だった。ううん、正直に言えば今でも慣れない。

 頭じゃわかってるの、そういう仕事も必要なんだって。けど、どうしても私は死ぬ側の肩を持ってしまう。殺された子たちの怒りや悲しみ、嘆き、そういったものを無視することができない。私はそういうのがわかっちゃうから」

「どういうことだ」

「私はね、冥界の門が見えるの。生き物が死んだ時に冥界の門が立つの。それでね、その立場でいうと、あなたの仕事場ってすごく歪な場所なの。断続的に、幾重にも冥界の門が立っていて、不自然に命が消費されている場所。見える側からしてみると、そんな場所にずっといられるというのは常軌を逸しているとしか言いようがない。でもあなたはそういうのがわからない人だから仕方ないし、さっきも言った通り、人が生きていくうえではそういう仕事が求められていることもわかる」

 グラジは黙ってマユワの話を聞いていた。光の雨が降る、降る、降る。滴った雫は地表にもう一つの星空を作り出していた。

「だから、私があなたにひどいことを言ったのは、ただの八つ当たり。ごめんなさい」

 鎮魂の子守歌が、痛いことも、苦しいことも、寂しいことも、全て忘れて眠れと歌っている。

「……お前たちに出会ってから、驚くことばかりだ。今、お前が言ったことも、信じろという方が難しい。冥界の門が見える人間など見たことも聞いたこともない」

「そうだよね」

「でも、もし本当にそうだというなら、教えてほしい。俺が殺してきた動物たちは、何か言っていたか?」

「直接は聞いたことがない。ただ、遠くから痛いとか、苦しいとか、どうしてとか、そういう感情が伝わってきただけ」

「そうなのだろうな。あの動物たちに意思というものがあるとすれば、そう感じるのが当然だ」

「……だから、自分が穢れているというのも仕方ないことだと思うの?」

「ああ」

「今の仕事を辞めたいと思ったことはない?」

「ないな」

「どうして」

「それ以外に生きていく術がない」

「もし他に生きていく術があったら?」

 考えてみたこともなかった。しかし、少しの間考えてみて、ただちに結論は出る。

「いや、それでも俺は――今の仕事を続けるのだろうな」

 グラジの頭に浮かぶのはアルタヤと、そして父だった。

「俺は、アルタヤおじさんを、父を裏切ることができない」

「どうして」

「今の仕事を辞めてしまったら、彼らとの繋がりがなくなってしまう」

「その仕事をすることが、その人たちとの絆になっているのね」

「そうだ」

「それがあなたの自由を奪う鎖になっていたとしても」

「ああ」

「そのために、これからも動物を殺し続けるの?」

「そうだ」

「何千、何万の屍の山を築き続けるの?」

「ああ、そうだ」

「そう」

 もし仮にグラジが今の仕事を辞めたとしても、他の誰かがその仕事を引き継ぐだけで、人の社会がある限り、家畜が殺され続けることに変わりはない。誰がそれをやるか、というだけの話だ。やれるだけの意思と能力のある人間がいるならば、その者がその仕事を務めるのが自然というものだろう。少なくともグラジには動物を殺し続ける理由がある。

「私には、あなたのそういう生き方を否定する権利はない。けどね、きっとルーはそれを嫌がると思う」

「俺には関係のない話だ」

「そう、それはただのルーのわがままだから。あなたがそれに付き合う必要はない。でも、あなたがそれに付き合いたくないと思うかどうかとは、たぶん別の話なんだと思うよ」

 星々の宇宙の中心でルシャが踊っている。美しい光景だった。

「ねえ、あなたがこの世で一番怖いことって何?」

「……何だろうな。わからない」

「私はね、大事だと思うものや、愛しく思うものが傷つけられたり失われたりするのがね、一番怖い。自分が死んじゃうよりもずっと怖い」

 マユワの言葉の最後は消え入るようだった。

「だからね、私はあんまり大事なものを増やしたくないの。失って傷つきたくないから。もしそんなことが起こったら、って想像しただけで、胸が張り裂けそうになる。それと比べたら、自分が痛かったり苦しかったりすることなんて、全然怖くない。自分の心や気持ちなんて、どうとでもできるから。でも、自分以外の大事なものが損なわれるのだけは、どうにもならないの」

「それは……わかる気がするな」

 アルフィルクがアルタヤを引き合いに出して仕事を引き受けるよう迫ったときを思い出す。あれは嫌だった。

「私たちはよく似ているんだと思う。私もあなたも、これ以上大事なものを失いたくない者同士。一度大事だと認めてしまったものを諦めることができない」

 大事なものが損なわれるのは怖いことだ。しかしそれ以上に怖いのは、変わりゆくことだとグラジは思う。自分が大事なものを大事と思えなくなるのが怖い。それはこれまで積み重ねてきた自分の過去を否定するようなものである。

 砂鯨を解体してみて、こんなものか、と何の感慨も湧かなかった。それが嫌だった。そう感じたとき、自分の中で何かが変わってしまったように思った。砂鯨に対して夢を見ていたつもりも、期待していたつもりもなかった。ただ、漠然と予想していた結果が、現実という確定的な事実になってしまった。そういう意味で、取り返しのつかないことが起こってしまったように感じられた。

 そして今この瞬間も、グラジがこれまで知らなかったことを見せつけられている。ルシャがグラジの中の何かを変えようとしている。足元が揺らぐような錯覚があり、心臓の鼓動がにわかに早まる。

「お前たちは俺をどうしたいのだ。依頼の通りに砂鯨を解体してやっただろう。それ以上何を望むのか。これ以上俺から奪わないでくれ」

「あなたは今、私たちに何を奪われたと感じているの?」

 もし今回の依頼を受けずにいれば得られたであろう平穏である。あの暗い部屋の中で毎日毎日、家畜を殺し続けていたかった。鮮やかに家畜どもの喉を切るとき、グラジは父を思い出す。父が愛用していた包丁たちで牛や羊や鶏の肉を裂き、血の滴る音は十数年の年月を経ても変わらないものだった。グラジはあの部屋で家畜を食肉に加工し続けるはずだった。そうしてグラジは年を取り、いつか死ぬはずだった。

「私たちはあなたから何も奪わないよ。あなたが気付くだけ。今まであなたが見ないふりをしてきたり、無意識に無視してきたりしたことに。それらは今になって突然現れるわけじゃない。あなたが私たちと出会うずっと前から、最初から、そこにあったもの。あなたの中にずっとあったものだよ」

 グラジは自分の手のひらを見る。かつて、父がグラジに包丁の研ぎ方を教えた時、父は背後からグラジを抱くように、グラジの手に自分の手を添えて砥石と刃先を擦り合わせてみせた。グラジの手は父の手にすっぽり隠れてしまい、感触だけで手の動かし方を学ばざるを得なかった。その頃と比べれば、自分の手はすっかり大きくなったものだ。あの頃の父と比べてどちらの方が大きいだろうか。それはどちらでもいい。比べられるくらいグラジが成長し、そのぶん父の死が過去になったという事実がグラジを動揺させる。

 グラジの父はグラジが十一歳のときに亡くなった。その日の朝、いつもならグラジよりも先に起きているはずの父が起きておらず、グラジが様子を見に行くと、父はベッドの上で冷たくなっていた。夜、寝る前に「おやすみ」と告げた時にはまだ息があったから、グラジが眠っている間に息を引き取ったことになる。

 泣き方もわからず途方に暮れていると、家畜を卸しに来たアルタヤの使いが不機嫌そうに現れた。グラジと父を一瞥すると、男はさっさと部屋を出ていった。それから間もなくアルタヤが現れ、部下たちに命じて父の遺体をどこかへ運び去っていった。

 ――お前、たしかグラジといったな。お前の父親は、残念ながら亡くなってしまった。これからお前は一人で生きていかなくてはならん。父親の後を継いで、立派に生きていくんだぞ。

 アルタヤは床に膝をつき、目線の高さをグラジに合わせたうえで、そう言った。グラジは自分が独りであることを覚悟した。

 仕事を始めたばかりの頃は父を想い、包丁を振るっていた。家畜たちの怨嗟の断末魔を浴びるたび、グラジは自分が父に近づけたように感じていた。父を感じるために自ら進んで家畜たちを押さえつけ、刃先を家畜の首に押し当て、引いた。アルタヤはグラジの仕事ぶりを喜んでくれた。そうしてグラジの手は血にまみれ、穢れ、いよいよグラジに近づく者はいなくなった。

「……ルシャは、なぜ歌い踊っているのだろう」

 星々の湖の中心で歌い踊る人を見ている。水面の上を風が吹き抜けるが、乾いていることかろうじてそこがまだ砂漠であることを教えてくれる。夢のような光景と比べて自分のなんと場違いなことか。

「それは、自分で考えてみて。考えることを諦めないで」

 グラジは自分に問う。

 俺は間違っていたのだろうか。世の中の連中が俺を指さし嘲ってきたことに対しては、仕方ないし当たり前だと思ってきた。しかしそれでも、父の跡を継ぎ、立派に、必死に、仕事をしてきたことは、少なからず誇りに思っていたことだったが、それが間違っていたのだろうか。マユワの言う通り命を理不尽に消費することに意味を見出していた自分は間違っていたのか。

 罪人の子であるがゆえに、グラジの手には生まれつき見えない枷がかけられていた。いつの時代の祖先がどのような罪を背負ったのかはわからないが、祖先が犯した罪を償うことが救いの道であるという。その罪滅ぼしのためにグラジの家は代々屠殺業に従事してきた。少なくともそういうことになっている。一旦そういうことにしておこうと取り置きにしていたことを、グラジは思い出す。

 なぜそのようにしたのか、なぜ今までそれを忘れていたのか。さらに記憶を遡れば答えは自明であった。「なぜ自分たちが犯したわけでもない罪を父や自分が償うのか」と父に訊ねた時、父が困った顔で首を横に振ったからだ。父はただ黙ってグラジの傷の手当てをしてくれた。その傷は、街で子供たちにいじめられてできたものだった。すり傷などいくらできても痛くはなかったが、父を困らせるのは胸が痛かった。

 しかし、今になって思う。なぜ父は幼いグラジの問いに何も答えず、ただ黙って首を横に振ったのか。グラジの主張に賛同しても、そこに未来がないからだ。たとえ本当は自分たちが祖先の罪を肩代わりする必要がなかったとしても、世間が都合よく鬱憤を晴らせられる対象を手放すはずがなく、祖先の罪の名のもとにあらゆる不利益を強いてくるはずだからだ。その証拠に、グラジの主張はいつも暴力で封じられてきた。罪に対する暴力は制裁と言い換えて正当化される。

 だから父は代わりにグラジに生きる術を教えることに全力を注いだ。いつか自分が死んだ後にもグラジが一人で生きていけるようにと願いを込めた。

 家畜をただ効率よく殺すだけではいけない。屠殺した家畜がその後どういう処理を経て市場に出回るのか。そのとき、より高値で取引されるためには何が大事なのか。あるいは自分たちの雇い主が自分たちに何を期待していて、それに対して自分たちはどういう仕事をするべきなのか。そういった社会や市場という仕組みの中で自立するための方法や心構えを、父はグラジに丁寧に教えた。それこそが父の知る唯一の自立した生き方だった――グラジの中でちゃり、ちゃり、と鎖が擦れる音がした。違和感があった。その正体を探るべく、さらに思考を深めていく。

 暖炉の火と、その前で包丁を研ぐ父の横顔。その横顔は火のゆらめきに合わせて影が揺れていた。父がグラジに気付き、顔を上げる。グラジのもの言いたげな様子を察し、父はこちらに来るよう呼びかける。そうしてグラジは父の傍らに座り、昼間に思いついたことを話してみる。父は包丁を研ぎながらじっとグラジの話に耳を傾けていた。それに対して何か返事や感想を言うわけでもなく、ただ黙ってグラジの話を受け止めていた。それがグラジにとってとても心地が良かった。砥石と刃の擦れる音が耳に心地よく、いつの間にか眠っていたグラジは父の手でベッドに運ばれていった。父はその大きな手でグラジの頭を撫でていった。

 思えば父がグラジの思いつきを否定したのは、身に覚えのない罪を贖うことの理由を問うたときだけだった。

 もし父がそれを肯定したら、グラジはどうなっていただろうか。行き着くところは世間に対する反発と敵対心であり、その末路には破滅しかない。だから父はあの問いだけには否と答えたのだ。言い換えれば、それ以外の問いは否定されていなかった。

 父はグラジに何を期待していたのか。何のために生きる術を教えたのか。思い出しうる限りの父の振舞いを総合的に勘案したとき、ひとつの可能性に行き着く。

 すなわち、生きる術を身につけて自立することは目的ではなく過程であり、その先で自分の考えや気持ちを自然な形で持つことが期待されていたのではないか。少なくとも、ただの腕の良い屠殺業者にさせることが目的だったようには思わない。

 この考えを保証する根拠はないが、否定する根拠もない。ただ怖いのは、そういう考えを持つことで、いよいよもって父の遺志を歪めることになるのではないかということだった。結局のところ、父が亡くなっている今、父が真に期待していたことが何だったのかなど確かめようがない。その確かめようがないことについて、あれやこれやと妄想を膨らませて自分にとって都合の良いように解釈するのは、それこそ冒涜的なように思う。

 考えすぎて頭が痛くなってきた。グラジは今自分が何を考えているのかもわからなくなってきた。

 ルシャの歌は終わりに近づいていた。砂漠に滴った星の光はだんだんと弱まり、元の砂漠に戻ろうとしている。夜空を滑り落ちたはずの星々は最初から動いていなかったとでもいうように、それぞれが元の場所で瞬いている。夢を見ているようだった。しかし頭の中に鈍い痛みを伴って残る疼きは嘘や偽りではない。

 皆、俺に好き勝手なことを言い、期待してくる。俺はただ、これ以上何も変わらず、何も失わずにいたいだけなのに。

「それが、あなたの本音なの?」

 グラジが無自覚にこぼした呟きを、マユワが拾い上げる。

「そうだね。過去に安心できる幸福な瞬間があったなら、その瞬間に留まって永遠になれたらどんなにいいことかって、私も思う」

「……わかっているさ。永遠に不変なものなどない」

「自分が望んでも望まなくても、時間の流れはあらゆるものを変えていってしまう。過去はどんどん遠のいていく。そして、無慈悲にも未来がやってくる。だからね、私たちは自分の足で歩かないといけないの。それでも未来を怖れて立ち止まりたいなら、自分自身の時間を無理やり止めるしかないってみんな考える。でもね……すごく残酷な話をするけどね、それでも時間って止まってくれないんだよ」

 嫌になっちゃうよね、とマユワはため息をついた。

「みんなそれぞれ何かしらの制約を背負っている。それは生物の種としての肉体的な制約かもしれないし、あるいは生まれた環境に由来するものかもしれない。家畜に生まれた動物たちはいずれ人間のために殺されるし、あなたも、『穢れ』という言葉が自然と出てくるような背景を背負っている。私も、アルも、ルーも、みんな、程度に大小はあるかもしれないけど、それでも何かしらの制約を背負っている。運命や宿命といった言い方もされるそれらに対してどう向き合うかは、みんな手探りで模索するし、その結果覆せる場合はあるかもしれないし、ないかもしれない。けど、完全に無視することはできなくて、どんなに疎ましくてもうまく付き合ったり対処したりしていくしかない。そういう意味で、この世界で生きるものたちはみんな不自由。可哀相になるくらいに」

「そうだな」

 グラジを制約するものは、卑しいとされる血筋だけではない。父への想い、父がグラジに向けてくれた想い、アルタヤへの恩義、その他大事だと思うすべてのもの。そういったものが鎖となって手足に絡みついて枷となっている。しかし、その重さや息苦しさが生の実感につながっている。鎖に縛り付けられているからこそ、今自分がここに在ると感じられるし、ここに在る理由にもなる。

「ねえ、ルーがなんであなたにこだわっているかわかる?」

 歌い終えたルシャがゆっくり顔を上げる。遠くてよく見えないが、グラジの方を向いているようだった。

「それはね、あなたが自分では何も選んでいないから。自分の心や気持ちに基づいて判断していないように見えるのが、ルーにとっては我慢できないこと。何かを選ぶことは自由であるための最低条件。だから、不自由に甘んじているあなたのことを見て、やきもきしているの」

「何だそれは」

「そう、あなたは何も選んでいないわけじゃない。今のままでいることを自ら進んで選んでいる。だから、そういう在り方を容認できないのは、ルーのただのわがまま。あなたからしてみればただのとばっちり。私は、あなたがルーのわがままに付き合う必要はこれっぽっちもないと思う。放っておけばいい。勝手に言わせておけばいい。ルーが勝手に、あるかどうかもわからないあなたの本当の気持ちとやらにあなたが気付いて、それに素直に本当にやりたかったことを選べるようになったらいいなって期待しているだけ」

「無茶苦茶な女だ」

「お気の毒さま」

「そう言いながらお前はよく解説してくれるのだな」

 グラジが横目を向けると、マユワは唇を尖らせてそっぽを向いてしまった。

「……私にとってルーはもう『どうでもいい人』じゃなくなっちゃったから。ルーがやりたいことは、私のできる範囲で手伝ってあげたいって思っただけ」

「そうか」

「あのね、お節介はこれで最後にするけどね。私はあなた自身も、ルーがもう『どうでもいい人』じゃなくなってるんだと思ってるよ」

「どういうことだ」

「だって、さっきからルーのこと、名前で呼んでるじゃない。私のことはずっと『お前』だけど」

「むう」

 グラジに言わせればそれは名前で呼ぶきっかけの問題でしかないのだが、マユワの中では名前を呼ぶことは特別な意味を持った行為であると捉えられているらしい。

「誰かの期待に応えたいって思うのも立派な自分の意思のひとつだと思うよ。生きていると大事なものが増えていくから、大変だよね」

 喋り疲れた、と最後にそう言って、マユワは一切口を閉ざしてしまった。

 ルシャが戻ってきた。不安げな眼差しでグラジを見上げている。グラジもじっとその目を見返す。

 やがて痺れを切らしたルシャが問う。

「どうだった?」

「正直に言えば、よくわからない。ただ、色々考えて、思うことがあった」

 ルシャの期待に背かない回答になれているだろうか。

「よくわからない、か。ううん、ま、とりあえず無駄ではなかったみたいだから、とりあえずそれで良しとしようかしら。あとでその『色々』の内容、詳しく聞かせてね」

 そう言って笑うルシャからグラジは目を逸らした。

 一連のやり取りを岩のように押し黙って見ていたアルフィルクが立ち上がり、号令をかける。

「よし、それじゃあそろそろ帰るか」

 東の空がほのかに明るくなりつつあった。望むと望まざるとに関わらず、朝は万人に等しく訪れる。




 アルタヤは寝ずに待っていたらしく、グラジたちの顔を見ると呻き声を上げながら伸びをし、立ち上がった。

「本当に砂鯨を拾ってきたらしいな」

「そうでなけりゃ最初からあんたのところに顔なんか出さないよ」

「そうなんだがな」

 アルタヤは頭を掻きつつため息をついた。

「もう卸す準備は始めさせている。昼には市場に出回っているだろう」

「わかった」

「分け前の話だが、お前たちとこちらで半々だ」

「もう少しどうにかならないか」

「グラジの技術料と、こちらの流通経路を使わせてやる分。それらを考えればずいぶん譲歩してやっていると思うがな」

「それを言われちゃぐうの音も出ない」

 アルフィルクが両手を挙げ、アルタヤは頷いた。

「さて、こっちが本題なわけだが――グラジ、お前の見立てはどうだ」

 アルフィルクたちは詐欺師か否か。それを確かめるのがグラジの役割だった。

「はい、彼らの言う通りたしかに死後間もない砂鯨の死体がありました。砂船での往復時間や俺たちと接触する時間を加味すれば、砂鯨が死んですぐに砂鯨を発見したと捉えるべきです」

「問題はそれがただの偶然か、何らか要因に由来する必然だったか」

「少なくとも俺が彼らから聞いた話の範囲では、おじさんの話と矛盾はなかったです。それから、得体の知れないものも見させられました」

「なんだそれは」

「うまく説明できないのですが、星がたくさん降って天地がひっくり返ったような、不思議なものでした」

 グラジは身振り手振りを交えて夜明け前に見たルシャの歌と踊りを説明してみせるが、アルタヤは首を傾げ、その首はなかなか元に戻らない。

「お前まで頭がおかしくなったか」

「……そう思われても仕方ありません」

「しかし、お前がそう言うのなら、そういうものがあったのだろうな」

「俺たちの言うことを信じる気になったかい?」

 得意顔のアルフィルクをアルタヤは一瞥する。

「馬鹿を言え。冥界の門が見える、なんて話があってたまるか。少なくとも、法螺話ということにしておいた方がお互い都合がいいだろうが」

「そうだな。俺たちもお尋ね者にされるのは都合が悪い」

「いいか、俺はまだお前たちのことを信用していない。今回事実としてかろうじて認められるのは、お前たちが金になる程度には新鮮な砂鯨の死体を見つけてきたことと、グラジが不可思議な体験をしてきたこと、この二点までだ」

「そうだな。そこから先は俺たちも論理的な証明のしようがない。信じるか信じないか、あるいはどこまで信じるか、そういう態度の問題だ」

「少なくとも俺としては、お前たちがこの街に害を与える存在でなければ、それでいい」

「まだ俺たちがそういう有害なごろつきに見えるか?」

「グラジの様子を見れば、そうじゃないことぐらいはわかる」

「それはどうも。なあグラジ、お前ずいぶんこの人に信頼されているんだな」

 アルタヤからの信頼を正面から受け止められるほどにはグラジは自分のことを認めていない。ありがたいやら恥ずかしいやらで、グラジは俯いてしまう。しかしそんなグラジの様子に介することなく、アルタヤが言う。

「当たり前だ。こいつが赤ん坊の頃から見てきた間柄だ」

「ずいぶん昔からの付き合いなんだな。グラジの親父さんが亡くなってからはあんたが親代わりだったってことは聞いていたが」

「そうだ」

「そりゃ、さぞ可愛かろうな」

「ああ、自慢だ」

 はっきりと言い切る。

「なるほどねえ。そうやって溺愛してりゃ、グラジもあんたから逃げづらくなるし、手元に置き続けられるだろうよ」

「なんだ、何が言いたい。俺がグラジを騙しているって言いたいのか」

「いいや、そうじゃないさ。あんたがグラジを心から可愛がっているのは事実なんだろう。けど、俺の目から見て不思議なのは、どうしてそこまでグラジに入れ込むのかってことさ。早くに親父さんを亡くし、天涯孤独になったグラジ少年が、そんなに可哀相だったか? 損得勘定で動く商売人の鑑であるというあんたが、可哀相、なんて感情だけでそこまでするかね」

 アルタヤは瞬間的に頭に血が上る心地がしたが、ここでアルフィルクのふざけた横っ面を殴り飛ばしても何にもならない。深呼吸をし、冷静であるよう努める。

「お前に俺の何がわかる。俺は商売人である前に、そもそも一人の人間だ」

「そうだな。あんたの考えていることなんか、俺にはわからないよ。けど、これだけは俺が言っておきたいんだ。グラジは、可哀想だって一方的に憐れまれるだけの奴じゃないよ」

 だから、いい加減子離れをしろ。アルフィルクは言外にそう意図を込めた。アルフィルクの目にはそれほどにアルタヤがグラジに対して過保護であるように見えたらしい。アルフィルクがアルフィルクなりにグラジのことを考えているのであれば、それはアルタヤとしては否定する道理がない。

 アルタヤは椅子に座り、腕を組む。

「ふん、一丁前に偉そうなことを言いやがって、若造が。だから今回、グラジに行かせたんだろうが」

 アルフィルクは唇の端を上げた。計算通り、とでも言いたげな顔だった。

「ああ、そうなんだろうな。で、あんたがそう言うってことは、これからもグラジを借りていいってことだな」

「グラジがそうしたいと思うことを止める権利なんか、俺には最初からないさ」

「ということだ。これからよろしくな。それから、グラジ、お前いい人に育てられたな」

 アルフィルクに肩を叩かれたグラジはきょとんとしている。

「おじさん、話が見えません」

「グラジ、お前がこれからの身の振り方を好きに選んでいいってことだよ。俺としてはこれからもうちの仕事を続けてくれたらありがたいけど、もしお前がアルフィルクたちと一緒に行きたいというなら、俺に止める権利はない。そうしたらいい」

「あるいは、お前が望むなら、これまで通りあの作業場に居続けてもいい。まあ、俺たちとしてはお前に一緒に来てもらって、獲物を見つけたらすぐに解体できるようにしておきたいのが本音だがな」

 背筋が凍るような心地がした。好きにしろ、とはつまり、アルタヤを裏切るような選択をしたとしても構わないということだ。アルタヤの中では、そうされても困らないと考える程度にグラジの価値が低いということか。それ以上に違和感があるのは、あたかも最初からそういう段取りだったかのように、アルタヤとアルフィルクがグラジの処遇について合意している点だ。いつから自分はアルタヤに見捨てられていたのか。

「俺は、あそこを離れるつもりはありません」

「ほう、なぜだ」

「俺にとっては、あそこが居場所です。おじさんの下が居場所です」

「そう言ってくれるのはありがたいんだがな」

「どうしてですか。どうして、突然そんなことを」

「突然じゃないさ。ずっと考えていた。お前はもっと広い世界に出るべきだ。この街にいる限り、お前は一生貶められ続ける。それが忍びないんだ」

「そんなこと、俺にとってはどうということはありません」

「グラジ、蔑まれることに慣れるな。俺が言えた義理ではないかもしれないがな」

 アルタヤは自嘲気味に鼻で笑う。

「親父さんを亡くしたばかりの頃のお前はまだ子供で、俺みたいな大人の手がないと生きていけなかった。しかし、今のお前はもうその頃の子供じゃない。立派な大人だ。自立できるだけの、社会という人同士の営みの中で生きていけるだけの技術はもう身につけている。お前の腕だったら、お前を必要とし求めてくれる人がきっとどこかにいる。そう確信していたよ」

「俺はこれからもおじさんの役に立ちたいです。そう認めてくれるだけの腕が俺にあるというなら、これから先も使い続けてくれればいい。どうして俺をおじさんから遠ざけるようなことを言うんですか」

 グラジは毅然としてアルタヤに反論する。その様子はグラジが幼かった頃からは変わらない。昔からグラジは頑固者だった。一度そうだと思ったり決めたりしたことは、曲げようとしない。

「なあ、横からで悪いんだけどさ」

 アルフィルクが小さく手を挙げながらアルタヤとグラジの間に割って入った。

「別にいいんじゃないのか、今の仕事を続けさせてやったって。それだけ慕われていれば親代わりとしては本望だろう。こいつは自分が置かれた状況を全て理解した上で、あんたと一緒にいることを選んでいるんだ。別にあんただって、グラジがこれ以上一緒にいて困ることなんかないだろう」

「当たり前だ」

「じゃあいいじゃないか。俺としては、必要になった時に手を貸してもらえればそれでいいんだ」

 なあ、とアルフィルクはグラジの方に向き直る。

「どうだ、これからも仕事を引き受けてくれないか。お前の腕は十分信頼に足る。それは今回の件でとてもよくわかった」

「おじさんに迷惑をかけない範囲なら、俺は構わない」

「だ、そうだ。これ以上何か問題があるか?」

 アルフィルクは振り向きアルタヤの顔を見る。苦虫を嚙み潰したような顔だった。

 ――こういうのはマユの領分なんだがな。仕方ない。

 アルフィルクは内心で呟き、ため息をつく。

「なあ、あんた、今幸せか?」

「何だ突然。突拍子もないことを言い出しやがって」

「訊いているのはこっちだ。幸せ? 不幸せ? どっちだ?」

「ああ、幸せだよ。お前みたいな生意気なのがいなければもっと最高だがな」

「そうか、なら結構。じゃあグラジの幸せについてはどう思う?」

「それはこいつが決めることだ。ただし少なくとも、生まれたときから祖先の罪というグラジには何の非もないことで貶められることは不幸だろうと思うよ。でもこいつにとってはそれが当たり前のことだから、理不尽だという感覚すらない」

「なあ、あんた、今矛盾したことを言っているって自覚はあるか。幸せかどうかを決めるのがグラジ本人なら、不幸せかどうかを決めるのも本人だろう。なんでグラジの生まれや育ちを不幸だって決めつけているんだ。一度でもこいつがそんなことを言ったか」

「普通に考えりゃそうだろう」

「でもあんたはグラジに幸せになってほしいと考えている」

「当然だ」

「じゃあなんでこの街に蔓延る差別や偏見と戦わなかった。あんたがこの街でどれくらいの権力者で、この街にどんな思い入れがあるのかなんて知らないが、そんなにグラジの置かれた環境を哀れに思うなら、変えてみせろよ。

 ああ、でもあんたはこう言うんだろうな。『簡単に覆せないくらい根深い問題なんだ』ってな。そうなんだろう。人間の無意識ってのはそういうもんだ。あんた一人が奮闘したところで覆りはしないだろうし、下手したらあんた自身の立場も危うくなるのかもしれない。だからあんたは戦うのではなく逃げる方を選ぶんだ。ただし逃げたのはグラジじゃない、あんた自身だ。わかるか。あんたがあんた自身に向ける目を塞ぎ、グラジのために、を口実にグラジが望んでもないことを善意のようなもので押し付けるんだ。なるほどな。そういうことか。なあ、言っちまえよ、本当はグラジを見ているのがしんどいんだろう。グラジが自分を慕えば慕うほど罪悪感を刺激されて苦しいんだろう。だからグラジがあんたではなく俺たちを選んでくれたらほっとするんだ」

「貴様」

 アルタヤはアルフィルクの胸倉を掴み上げるが、アルフィルクは冷めた目でアルタヤを見返す。

「あんた、自分が許せなくて嫌なんだな。無力な自分が。グラジを差別と偏見の目から救ってやれない自分自身が。けどなあ。それこそ、グラジには関係ない話だろう。自分が楽になるためだけにグラジを見捨てるなよ」

 アルタヤは鼻息荒くアルフィルクを睨みつけている。

「なんかさ、ちゃんと伝わってなかったみたいだから、もう一回言ってやるよ。グラジは、可哀想だって一方的に憐れまれるだけの奴じゃないよ」

「お前にグラジの何がわかる」

「あんたこそ、グラジの何をわかっているつもりだ。……あのさ、自分以外の人間のことなんか、誰にもわからないよ。自分のことすら自覚できているか怪しいのに。わからない中で、手探りで輪郭を確かめ合って、自分の感覚とすり合わせて、それでようやくなんとなくお互いのことがわかってくるもんだろう」

 アルタヤは舌打ちをしてアルフィルクを突き飛ばした。態勢を崩したアルフィルクが床に尻もちをつく。

「どうだグラジ。お前の大好きなおじさんがこんなことを考えて、苦しんでいたって知っていたか」

 グラジは首を横に振る。

「ああ、俺も知らなかった。今、煽ってみて初めて知った。でも、必ずしも見えていないだけで、人には皆それぞれ悩みや苦しみってのがあるもんだ」

 アルフィルクが立ち上がる。尻を手で叩き、埃を払う。

「俺の見た範囲ではあるが、グラジ、お前は自分のことを知らなすぎる。だからお前に外の世界を見せようとしたアルタヤさんの行動自体は正しいものだと思うよ。あの作業場で動物を屠殺し続けるのも、俺たちと部分的にでも一緒に来るのも、そりゃお前の勝手だけどさ、自分が何かを感じることや何かを考えることを放棄するのは間違っていると、俺は思うよ。俺の信念や価値観の尺度に照らし合わせて言えば、そう思う」

「……お前たちといれば、俺は俺自身のことを知ることができるか」

「そりゃお前次第だな、グラジ。でも、少なくともルシャはそういうことには積極的に協力してくれそうではあるな」

 満月のような眩い笑顔のルシャがグラジの脳裏に浮かぶ。それからグラジの胸の内に去来するのは、父やアルタヤへの恩義である。

 グラジは思う。つくづく自分は恵まれている。こんなにも自分のことを思ってくれる人がいることに対する感謝の念は言葉では言い表し難い。何とかしてその恩義に報いたい。その恩義の報い方は、恩人の望みを実現すること以外に思い当たるものがない。もしアルタヤが、自分が差別や偏見から自由になることを望んでいるというならば、それに応えてみよう。それが本当の意味での彼らの望みに応えたことになるかどうかはわからない。わからないからこそ、手探りで色々試してみるほかにない。

「おじさん」

 グラジはアルタヤの前に進み出て立つ。アルタヤは体格の良い方ではあるが、グラジはそれ以上の体格をしている。

「正直に言えば、俺にはまだわかりません。どうしておじさんが俺に対してそこまでよくしてくれるのか。しかし、俺はやっぱりおじさんを裏切りたくないし、おじさんが困る顔も見たくないです。だから、今はまだ、おじさんが望むから、という理由でしか行動できません。でもいつか、自分の言葉で、おじさんと話ができる日が来たらいいなと、よくわからないしなんとなくだけど、思います」

 いつの間にかアルタヤから逸れていた目を戻してみると、アルタヤはグラジが今まで見たこともないくらい優しい顔をしていた。




 それから何度か、グラジはアルフィルクに頼まれて行動を共にする機会があった。しかし砂船が辿り着く先で砂鯨を目にすることはなく、大抵の場合は旅人や砂兎などの死体があるだけである。それどころか、死体を見つけられないこともたまにあった。しかし総じて言えば、マユワの指さした方角には何らかの生物の死体があった。これほどの確率で死体の在処を指し示せるのであれば、冥界の門が見えるという主張にもいくらか信憑性が出てこないでもない。

 最初に死体を発見したとき、まずマユワが一人で砂船を下りて歩いていく。「一人で行かせて危なくないのか」とアルフィルクに訊ねるが「大丈夫だ、問題ない」と呑気に構えている。マユワは何もないところで立ち止まり、数十分ほどただじっと佇んでいる。それから砂船の方に戻り、アルフィルクに何かを話しかける。何の話をしているのか。グラジが聞き耳を立ててみてもよくわからない。「あれはあの二人だけの特別な儀式みたいなものだよ」背後からルシャが言う。

 その後は死体に手を付けることになるのだが、その前には皆で死体に黙祷を捧げる。死体が人間でも、それ以外の生物でも平等に行う。それがグラジには解せなかった。

 死体は死を迎えた瞬間から死体だ。それが生きていたのはもはや過去のことであり、そこにあるのはただの肉塊でしかない。仮に魂というものがあると仮定するならば、そこにあるのはただの抜け殻だ。死に方によっては違うのかもしれないが、少なくともグラジが知る限り、死にゆく生物というものは風船から空気が抜けていくように、本人の意思にかかわらず生気を失っていくものだ。耳を劈く断末魔、死に抗おうともがく手足、そういったものが次第に弱くなっていき、やがてあらゆる活動が停止する。そのようにして生物は死体となる。その後は肉塊として朽ちていくのみである。だから、死体に何か祈りや願いを捧げたとしても、その死体に何かしらの変化が生じることはない。黙祷に費やす時間の分だけ、無駄に死体を痛めることになる。

「ま、効率性だけを考えたらそうなんだけどな」

「死んでいったものたちの孤独に寄り添いたいの。たとえ自己満足だとしても」

「立ち止まって、ゆっくり考えてみるのも悪くないんじゃないかな」

 グラジがふと疑問に思ったことを口にしてみると、三人から口々にそう言い返されてしまい、グラジは閉口してしまう。グラジ自身には理解しがたいことではあるが、黙祷することに意味や価値を見出す者がいることだけは理解した。

 街へ戻る砂船の上で、グラジはルシャと語り合う。グラジの生い立ちのことを語ることもあれば、ルシャの過去の話を聞くこともあった。冥界の門の前で死者の魂に触れた結果、左手の中指から冥府に属するものとなり、永遠に熱を失った代わりに、星を降らせる魔法を得たことも聞いた。

「嘘だと思う?」

 意地悪く笑うルシャは、グラジの手を取り、左手の中指を握らせた。ルシャの中指はグラジの手の熱を奪い続け、たしかに温まることはなかった。他の指はやがてグラジの体温と等しくなったというのに。

 それからルシャは中指を折り、星を一つ、二つと動かして見せた。中指の動きに応じて星が降る様は、とても不思議なものだった。

「世の中には不思議なことや、知らないことがいっぱいある。だから、面白いし、飽きない」

「そうだな」

「昔は、知らないことがあるというのが嫌で、たくさん勉強したわ。でも、『全てを知る』というのは不可能だと知った。そう悟ったら、もっとたくさん知らないことが出てきた」

「それでも、ルシャは俺よりもたくさんのことを知っている」

「そりゃ、たくさん勉強したもの。本当に、たくさん」

 ルシャは得意げだった。

 ――ねえ、知ってる?

 そんな切り出し方で、ルシャは古今東西の歴史的な出来事や自然の法則についてグラジに語る。ルシャの話は要領を得ないこともあったが、おおむねグラジにとっては新鮮であると同時に、長年疑問であったことに対する回答になることもしばしばあった。

 グラジの方からルシャに質問することもあった。そのすべてにルシャが満足に回答できるとは限らなかったが、ルシャは一生懸命自分の知る範囲のことでグラジのからの質問に回答した。

 ある時、ふとルシャはこう言った。

「大婆様のことを思い出すな」

「ルシャの育ての親だったという人か」

「そう。あの人は同時に私の先生でもあったんだよね。たくさんのことを教わったよ」

「まるで、今の俺とルシャの関係みたいなものか」

「そう! 私が先生で、グラジが生徒」

 人差し指を立てて声を弾ませた後、ルシャはグラジの方を見て提案する。

「そうだ、今度、文字の読み方と書き方を教えてあげる」

「それはありがたい」

「うん、それがいい。次までに勉強できるものを用意しておくね」

 ルシャの楽しげな顔。苦手だと感じていたその顔は、いつの間にか苦手ではなくなっていた。

「どうかした?」

「いや、なんでもない」

 そう、と呟いたそばからルシャは宙を見上げてグラジに文字の読み書きを教える段取りを考え始めていた。



(了)


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