1.
ネルドレク聖は老いと病に浸食されつくした体から離れてみて、遠い昔には当たり前だった身軽さというものを思い出した。死の間際のこととして思い浮かぶ光景――多くの信徒が代わる代わる訪れて、まもなく訪れる別れの瞬間を惜しみ、ネルドレク聖の勇気を讃えてくれた――は、現実か妄想か。どちらでもよい。八十数年という年月は人が生きた時間としては長い方である。
教団の教えによれば、死後、人は神の審判を経て、魂の救済の可否が決定される。しかしそのような常識は、この砂漠では当てはまらない。その審判を受ける前に、死者の魂は魔物に捕縛されて永遠に生と死の狭間をさまようことになるからだ。そこは地獄とも異なる場所で、神の手の届かない領域である。魂が捕縛された末にどうなるのかは不明である分、これは地獄に落ちる以上に恐ろしいものと言えるのかもしれない。そのため、教団の信徒たちは砂漠で命を落とすことを恐れていた。
しかしネルドレク聖は自ら進んで砂漠の聖堂にて死を迎えることを選んだ。神は砂漠の地で命を落とした者であっても決して見捨てず、等しく救済の手を差し伸べてくださるはずである。過去に命を落とした者たちもそのように救われてきたはずだし、これから死にゆく自分自身にもまた同様に神の救いがもたらされるのだ。そのことを証明するために我が身を差し出すのである。生前のネルドレク聖は周囲にそう説き、砂漠の西にあるザカタストラ国――教団の本拠地もそこにある――に帰るよう訴える信徒たちを宥めた。
そのようなことを思い出せる自分自身の意思が何者にも阻害されていないことを、ネルドレク聖は確かめた。霊体となった身も思う通りに動かすことができる。そうであるならば、今、ネルドレク聖がいるこの場所は錯覚や幻ではないとするのが妥当であろう。
そこは何もない空間であった。砂紋すらない平たい砂漠が四方に果てしなく広がり、彼方は白く濁って消えている。空も同じく白く不透明であった。
ここに突っ立っていても仕方ない。ネルドレク聖は適当に方角を決めて、歩き始める。足跡ははっきりと砂の上に刻まれる。
ネルドレク聖は歩きながら自分の人生を振り返っていた。彼が初めて砂漠の地域に訪れたのは、まだ幼い頃のことで、軍人だった父の赴任に付き添ってきたのだ。それ以来八十年あまり、人生の半分以上の時間を砂漠の地域での調査や奉仕活動に捧げてきた。苦労も数多くあったが、今となってはよい思い出である。
思い出が一巡し、改めて自分が砂漠の地での死を選んだ経緯を認識し直したところで、ついに待ち望んでいたものが現れた。ネルドレク聖は立ち止まり、ゆっくりと息を吐く。
白銀色の荘厳な門が圧倒的な存在感を放ちながら君臨していた。その様子は幼い頃に見たものと何一つ変わっていない。そして、その門の前には、黒髪で幼い風貌の少女――決して人間ではありえない超越的で美しい存在――が立っていた。かつては見上げる存在だったその少女も、今では孫娘のようである。一切の光を宿さず虚空を秘めた瞳がネルドレク聖を見据えている。
「また、会えましたね」
ネルドレク聖は思わず声が震えそうになるのを努めて抑えて言った。少女は表情を変えずに、感情のない声で答えた。
「そうだっけ」
「ええ。あなたが覚えていないのも無理はありません。初めてあなたに会ったとき、私はまだ七つか八つの子供でしたからね」
「そう」
「ここはあなたが来るべきところじゃないよ――かつてあなたはそう言って、道に迷っていた幼い私を帰してくれました」
少女は何も言わずにネルドレク聖を見上げていた。本当に、記憶にないのだろう。その事実はいくらかネルドレク聖を落胆させたが、このような存在に人間同士のような感情の交流を期待する方が不遜というものである。ネルドレク聖は首を横に振り、少女に訊ねた。
「あなたにお話ししたいことがたくさんあるのですが、私にはどれくらいの時間が許されているでしょうか」
「あなたが望むだけ。いくらでも」
「なんと。それはありがたいことですね」
ネルドレク聖は少女に微笑みかけたが、少女は相変わらず無表情のまま、じっとネルドレク聖の次の言葉を待っている。
「では、私の話を聞いていただけないでしょうか」
「いいよ。聞いてあげる」
「ありがとうございます」
ネルドレク聖は少女の横に並んで白銀色の門に向かい立つ。それから、その場に胡坐を組んで座った。少女を見遣りながら、右手で地面に座るよう促す。
「立ち話というのもなんですからね、どうぞお座りください」
少女は一瞬躊躇ったように見えたが、ネルドレク聖の隣に座って膝を抱えた。その様子を見届けてから、ネルドレク聖は前を向いた。
「さて、何からお話ししましょうか。いざとなると迷ってしまいますね」
少女は横目でネルドレク聖を一瞥して、視線を正面に戻した。
ネルドレク聖は自分の記憶を疑ったことはないが、その正確さまでをも盲信するほど愚かではない。しかし今、目の前にある門と隣の少女の姿は幼い頃の記憶と寸分違わぬものであった。自分だけが年老いたものだ。自分は十分すぎるほど長生きしたと思っていたが、しかし神や超越者の領域から見れば自分などまだ赤子と変わらないものなのだろう。自分が人生を賭して育て、研ぎ澄ませてきた心もまた、彼らにしてみれば一瞬の閃光に過ぎないものなのだろう。しかしそれでも構わない、とネルドレク聖は考えている。ほんの一瞬でも、彼女の意識に留まることができたのであれば、一生を捧げた甲斐があるというものだ。
ネルドレク聖は目を細めて、白濁とした景色の中にあって燦然と輝く白銀色の門を見る。その輝きの奥に浮かぶ記憶の欠片を見失わないよう瞳で射貫きながら、長い物語を語り始めた。
2.
後にネルドレク聖と呼ばれるようになるその人は、幼い頃にはアシュナールという名で呼ばれていた。軍人だった父が、兵士を先導する焔となることを願って与えた名だった。アシュナールには腹違いの兄が二人いたというが、言葉を交わしたことはない。アシュナールが十分に話をできるようになる前に二人とも戦死したからだ。ザカタストラ国の東にある砂漠の地でのことだったという。
亡くなった兄たちに代わり、アシュナールは強く逞しく育たなければならない。そして父を支え、いつか父の武勲と名声を継がなければならない。幼い頃はそれが自分の役目だと信じて疑わず、四つか五つの頃には武芸の訓練を始めていた。母は快く思っていなかったようだったが、彼女が父に異を唱えることはなかった。
アシュナールが八歳を迎えた年のこと。父は国からの命令で、砂漠での戦争に司令官として派遣されることになった。ようやく息子たちの仇を討てると目を血走らせる父の横顔は、アシュナールの目には聖書で描写される悪魔のように見えたが、もちろんそれは口には出さなかった。
「アシュナール、お前もついてくるのだ」
母の反対など受け入れられるはずもなく、アシュナールは父に従い馬車に乗り込んだ。遠のいていく生家を見送るアシュナールに対し、父は一言「振り返るな」とだけ言った。
清流と草原の道は次第に色褪せて、薄い土色の乾いた土地へと続いた。そこで馬車から砂鯨に乗り換える。初めて見た砂鯨は見上げるほどの巨体であるにもかかわらず、その体は地表に軽く触れる程度の接し方しかしておらず、不思議に感じたものだ。しかしその疑問を突き詰める間もなく、アシュナールは砂鯨に乗せられた。
道中、父はほとんど何も喋らなかった。たまに前線から届いた手紙を見て、じっと考え込んでいた。戦況を分析し、戦略を練っていたのだろう。父は復讐者である以前に多くの兵士の命を預かる司令官なのだと、アシュナールは幼心に理解した。自分もいつか父のようになるのだ。そこに憧れも興奮もなく、そのように運命づけられたものなのだと捉えていた。
生家を発ってから約二週間で前線に近い駐屯地に到着した。父は、さすがにここから先に幼いアシュナールを連れていくのは危険であると判断し、駐屯所の信頼できる部下にアシュナールを預けた。
「砂漠での暮らしに慣れておきなさい」
父はそう言ってアシュナールの頭を撫で、戦地へ赴いていった。アシュナールは小さくなっていく背中を見ながら、今更ながらこれが父の姿を見られる最後の機会になるかもしれないと気付き、怖くなった。しかし、その気持ちの吐き出し方までは知らず、漠然とした不安が影のように常にアシュナールの背後に付きまとうようになった。
ここでは、日中は灼熱の太陽が地面を焼き、夜間は全ての熱が失われて凍てつく世界に置き換わる。そのような過酷な環境のために、アシュナールは早々に病にかかってしまった。夢と現実の区別も曖昧なまま苦しむ日々が続くが、死には至らない。それはアシュナールが司令官の子息だったからである。アシュナールは朦朧とした意識の中で、貴重な水や薬が自分のために惜しみなく与えられ、四六時中誰かが付き添い看病してくれていたことを認識していた。そして、これは決して当たり前のことではないことも理解していた。なぜ誰もが自分を特別扱いするのか。それはやはりアシュナールが司令官の子息だからなのだ。アシュナールを介抱してくれる無数の手はいずれも優しく冷たく、そしてアシュナールにこう訴えかけているように感じられた。この長く続いた戦を終わらせ、砂漠の地に散っていった多くの兵士たちの無念を晴らしてほしい、と。顔も知らない二人の兄たちもアシュナールの枕元で冷たい手を弟の額に当てて訴えていた。頼む、どうか頼む、と。もちろんそれはただの錯覚でしかないのだが、当時のアシュナールはそう感じていた。
しかしそのような願いも虚しく、砂漠の熱病は着実にアシュナールの命の芽を枯らしていった。そしてある晩、とうとうアシュナールはひとつの夢を見たのである。
アシュナールは音も風もない砂漠の中にいた。見渡す限り全てが白濁としている様子は故郷の朝の深い霧を思い出させるが、優しい感触も瑞々しい香りもない。文字通りの意味として、何も無いのである。アシュナールは恐怖という感覚すら麻痺していた。代わる代わる自分に触れていた手もここにはない。漠然と、自分はもう死んでしまったか、あるいは今まさに死のうとしているのだということを予感していた。
長い時間が過ぎた。考える、行動する、恐怖するなど、あらゆる行為に対する気力が湧かないまま過ごした虚脱の時間は時計の針で計れるものではない。自分が何かを考えたり感じたりするとはどういうことなのかがわからなくなり、わからないこともわからなくなってきた頃、目の前に白銀色の門が立っているのを見た。それは唐突に現れたというよりは、既にそこにあったものにようやく自分が気付いたという方が適切である。首を目いっぱい上げてみてようやく最上部の先端が見えるほどに、その門は背が高く、アシュナールを威圧していた。固く閉ざされた門扉は見れば見るほどに細やかな装飾や紋様が刻まれている。このようなものはもちろん今まで見たことがないし、ザカタストラ国で一番華美な凱旋門すらもこれには劣るだろうと直感した。
その白銀色の門の前に人が立っていた。教会の司祭たちが儀式の際に着る法衣を濃灰色に染めて着古させたように見える。アシュナールがその人に対して最初に感じたのはそのようなことだった。
その人はアシュナールに向けて一歩進み出る。そして目深にかぶったフードを外すと、その下から黒髪の少女の顔が表れる。大人と呼ぶにはあまりに幼く、アシュナールよりもせいぜい四つか五つくらい年上にしか見えない。上流階級の女子であれば頭髪は丁寧に櫛で梳いて編まれたり装飾品で飾られていたりするのが普通であるが、その少女の髪の毛は先端も揃えられておらず、風で乱れるままにされているようだった。その様子だけを見れば貧民の娘のように見える。しかし、アシュナールの目を惹き付けて離さないのは、その瞳であった。門の白銀色の眩さとは対照的に、その瞳にはあらゆる光を吸って何も返さない虚無がある。
それは明らかに人ならざる存在で、そしてここは現世ではなかった。聖書で語られる人ならざる存在とは、ほとんど例外なく異形で描かれ、人を堕落させ神の教えに背くよう唆すものとされてきた。
アシュナールの瞳に宿った怯えを少女が読み取ったかどうかは、アシュナールにはわからない。逃げなければ。麻痺した頭の奥底にかろうじて残った理性が言葉を綴ったが、体はそれに応えることができない。そうしている間に少女はアシュナールのすぐ目の前に立った。見下ろされてみて初めて自分が腰を地面に付けているのだと知った。
背後に門を背負った少女の顔がアシュナールに近づく。二つの虚無の瞳はアシュナールの何を見ているのか。アシュナールは間近にそれを見て、何も映らないと思った瞳の奥に、森羅万象の片鱗を見た。可知不可知を問わずあらゆる事象が一定の法則に従うという当たり前の秩序があり、破綻もなく調和している。天体の運行や魂の生成と消失などの精緻な仕組みが意味するものは、正確な未来予知であり、おのずと永遠の正体をも詳らかにするだろう。アシュナールと彼女は住む世界の位相が根本的に異なることを理解した。
もっと見ていたい、と思った瞳は唐突にアシュナールから遠退いた。
「ここはあなたが来るべきところじゃないよ」
少女は見た目よりもずっと大人びた低い声でそう言って、ひとつの方角を指差した。
「真っ直ぐ行って。それで帰れるから」
そして用が済んだとばかりに、アシュナールに背を向けた。アシュナールは声を出そうとして、舌と喉が動かないことに気付いた。ひゅう、ひゅう、と空気だけが漏れ出る。
(待って、置いていかないで)
伸ばした手の指先が少女に届くことはなかった。
強い風が吹いて砂埃が舞い上がり、白く濁っていた視界はいよいよ何も見えなくなる。袖で顔を覆い、ようやく風が収まって目を開いたときにはもう何もなかった。白銀色の門も、少女も、消えた後だった。
これ以上ここに居ても何も起こらないことを悟ったアシュナールは、のろのろと立ち上がり、少女の指差した方角に向かって歩き始めた。歩くうちに白い靄がどんどん濃くなり、やがて何も見えなくなった頃にアシュナールの意識も所在を失った。
次に意識を取り戻したとき、そこは駐屯所のベッドの中であった。
アシュナールは先ほどの出来事のことを思い出そうと試みた。あれは夢だったのだろうか。そうなのだろう。しかし、白銀色の門も、人ならざる少女も、そしてその少女の瞳の奥に見た世界の真理も、夢で済ませるには生々しく、アシュナールの心に一生消えない痕跡を残した。白銀色の門の荘厳で精細な装飾、少女の風貌、桜色の唇、細く痩せた首筋、乱れた黒髪、そして表面ではなく本質を見抜く暗く透明な瞳。決して忘れられないし、忘れたいと思わない。どうすれば彼女にもう一度会えるだろうか。瞼の裏にその映像を徹底的に刻み込み、あの出来事は決して幻ではないことをよくよく自覚した。このようにしてアシュナールの初恋は永遠の恋となったのである。
教団の審問はアシュナールが上体を起こせるまで回復するのを待ってから行われた。
法衣で身を固めた司祭が三名、アシュナールのもとを訪れた。アシュナールは言われるがまま先日見た夢を告白した。もっとも、アシュナールからすれば体験したものを体験したままに話す以外のことはできない。何もない砂漠に出現した白銀色の門と黒髪の少女のこと、その少女に言われたこと、その通りにした結果今に至っていること。これが教団の教義に照らし合わせたときにどう評価されるのか。悪魔に魅入られたと判断されることもあるのかもしれないが、結局のところ、神の御心に問うほかにない。神は常に正しい判断をしてくださるものである。
司祭たちは散々話し込んだうえで、アシュナールが疲れて横になっている間に帰っていった。翌日、その翌日も来訪者はなく、アシュナールは療養に専念することができた。あの審問は一体何だったのか。疑問に思うことにも飽いた頃、前線の父から手紙が届き、簡潔にアシュナールの回復を喜ぶ一文と、「教団からの指示に従いなさい」という内容のことが書いてあった。
通常通りの食事や歩行ができるまでに回復したのは不思議な体験から一か月半が過ぎた頃のこと。先日の司祭たちが宿舎までアシュナールを迎えにやって来た。アシュナールを本国に戻し、神学校に通わせるのだという。もちろん父は了承済みで、今すぐに発つのだという。理由は道中で話す、と言われた。
アシュナールは世話になった人々に礼を述べてから砂鯨の背に登った。身を伸ばして荷物を受け取り、ぎゅっと抱え込む。不安はもちろんあるが、先日の父の手紙はこのことを指していたのだと思えば、自分はまだ父に守られているのだと信じることができる。
やがて砂鯨は御者の鞭に従い、身を震わせて浮いた。そして音もなく砂漠を泳ぎ始めた。数えて四か月足らずの砂漠の暮らしはこのようにして終わりを告げた。
アシュナールに同伴しているのは、三人の司祭のうち、一番若い人だった。常に眉間に皺を寄せ、険しい表情をしている人である。しかしアシュナールに悪感情があるわけではないことは、すぐにわかった。単に何事も堅苦しく考える性質であるというだけのことだった。彼は今回の経緯について以下のように語った。
「結論から言えば、アシュナール、君が経験したことはただの夢ではなく、悪魔が君を誘惑しようとして断念したものであると解釈された。何故君は悪魔に魅入られなかったのか、何故悪魔は君を諦めたのか。それは、君が神から恩寵を賜っていたからなのだ。わかるかね。悪魔は君の背中に神の威光を見て、恐れおののいたのだよ。君は神に認められた特別な存在である、というわけだ。故に今回、我々は君の身柄を預かり、君を神の僕として育てることにした。これは極めて栄誉のあることなのだ。神に感謝しなさい。そして、君の父上も君が正しき聖職の道に進むことを喜んでいらっしゃる」
反対も反論も許されなかった。アシュナールはただ一言「はい」と言うほかになかった。幼心に、教団とは父の意思を一方的に捻じ曲げられるほどに強力な権力を持っているものなのだということを理解した。だからこそアシュナールは、黒髪の少女のことは胸の奥底に隠し、その想いを一生の秘密にすると誓った。神はアシュナールの恋を知らない。
砂漠の境で再び砂鯨から馬車に乗り換え、来た道を戻って生家に戻る。事情は既に手紙で母には伝えられていた。母は複雑な心境でいただろうが、戦で命を落とすよりはましだと思っていたのだろう。いくらか和らいだ表情で「自分に与えられた役目を果たしなさい」と言った。
その日は生家で一泊し、神学校のある首都に向けて出発する。二日の行程を経て、長い旅は終わりを告げた。
同伴してくれた司祭はアシュナールを神学校の寄宿舎まで送り届けてから去っていった。以後、アシュナールが彼と再会することは二度となかった。
3.
アシュナールは九歳だったので、神学校初等部五年生に編入されることとなった。
神学校における基礎教育は初等部、中等部、高等部の三段階に分けて行われる。入学は五歳を迎えた後の最初の十月から認められ、生徒は年齢や事情によらず皆、寄宿舎での集団生活が義務付けられている。初等部は六年間、中等部は三年間、高等部は四年間の課程で編成されている。初等部では集団生活に馴染むことに始まり、その共同体の中で役割と責任を果たすことを覚え、同時に神学を修めるための基礎の学習に努める。その後中等部では、引き続き基礎の学びを深めるとともに、寄宿舎で室長や棟長として年下の子供たちを束ねる役割も担い、その経験を通して人を導くことを学ぶ。そして高等部では助祭見習いとして各地の教会に住み込みで働き実務を学ぶのだ。高等部の課程を修めた後は多くの者はそのままその教会に着任するか、実家に戻るかのどちらかである。しかし一部の者は神大学校に進学し、組織運営の中枢や教義研究に携わる道を選ぶ。アシュナールはゆくゆく神大学校への進学が期待されていた。
アシュナールはこのような説明を初等部の教育長から聞かされたのだが、まだ幼いその身で五年や十年も先の未来のことなどうまく想像できるはずもなく、アシュナールは首を傾げてしまっていた。かろうじて、自分が将来的に教会の中心に関わることが決まっているらしい、ということだけはうすらぼんやりと理解した。
「今すぐに全てを理解せずともよいが、くれぐれも神の恩寵に恥じない振舞いをするように」
そう言い残して教育長は部屋を出ていった。入れ替わりで五年生の教室を担当する若い男性の教師が現れ、これからの暮らしについて説明をしてくれて、こちらはいくらかわかりやすかった。日の出とともに起床し、夜は早く寝る暮らしに慣れること、寄宿舎の暮らしでは室長や棟長の言うことをよく聞くこと、ここに来たばかりであっても年上なのだから一年生や二年生の子たちが困っていたのなら率先して助けてあげること。
「それから」
教師は咳ばらいをして、慎重に言葉を選んで言った。
「とても残念なことだし、もちろんあるべきことではないのだが。アシュナール、君は否応なしに教室で同級生たちの注目を集めるだろう。中には君のことを快く思わない者もいるだろう。そのために、君自身も私の目の届かないところで不快な思いをすることがあるかもしれない。どうしてかわかるかな? それは、君が神から賜った恩寵とは強く眩しい慈愛の光だからだ。それゆえに、深く濃い影も生まれてしまう。恵まれなかった者たちのことをどうか許してやってほしい」
いじめられる前から自分をいじめる人のことを許すというのは気が早い話であるように感じられたが、この場において拒否するという選択肢はない。アシュナールは背筋を伸ばして顎を引き、ただ一言、「はい」と答えた。その様子は若い教師をすこぶる満足させた。
何か質問はあるだろうか、と問われ、アシュナールは訊ねた。
「神大学校ではどのようなことが学べますか」
「もうそんな先のことまで考えているのか、感心だね。私自身は神大学校に行っていないから正確なことは語れないのだが、神大学校とは、神と深く対話することを通して、神の真意をより明らかにする場であると聞いている」
アシュナールは直感的に違和感を覚え、その正体を探りながら言葉にする。
「それはつまり教団、えっと、我々はまだ神の真意をちゃんとは理解できていない、ということなのでしょうか」
「そうだ。神はときに我々の理解に苦しむような振舞いをされるものだ。愚かな者はすぐにそれを神に扮した悪魔の仕業と考えるが、しかし実はそれは神が我々に与えた試練で、神は我々が試練を乗り越えて知恵と勇気を身に付けることを期待している、ということもあるだろう。神は我々にたゆまぬ努力と研鑽を期待しているのだと私は考えているよ」
「つまり、わかりやすい解釈に飛びつくのではなくじっくり考えてみることが大事である、ということでしょうか」
「そうだとも。神大学校ではそういうことをより深く深く行うのだよ」
そういうことなら悪い話ではない。アシュナールは己の中に進むべき道を見た。悪魔が神に扮するならば、神が悪魔に扮して人に試練を与えることもあるのかもしれない。宇宙の真理を映す瞳が悪魔のものであるはずがないからだ。
なお、その無邪気な発想を口にして酷い目に遭ったのは学期が始まってからしばらく経った頃のことで、以後アシュナールは迂闊な言動を慎むようになった。
砂漠での出来事は人づてに伝わり続ける中で、不足した情報は推測で補完され、不正確な情報はもっともらしい解釈で上書きされてきたらしい。新しい暮らしが始まり、同級生に囲まれるなかで、アシュナールは例の一件について訊ねられる。いやに興奮した眼差したちに違和感を覚え、どういう風に伝わっているのか確認したところ、アシュナールは悪魔の侵攻を瀬戸際で食い止めた戦士ということになっていた。同級生の子供たちは恍惚とした表情で、口々に自分たちが聞いた伝説を語る。
――光を通さないほどに分厚い雲に覆われた空の下、地獄に通じる門は今まさに開かれようとしていた。その尖兵たる悪魔どもはアシュナールの背丈の五倍も六倍もあって、腐液と怒号を撒き散らしながらアシュナールに襲い掛かってくる。鉄をも切り裂く鋭い爪が何度もアシュナールの首筋のすぐ近くを掠め、アシュナールは幾度となく死を覚悟した。アシュナールは息も絶え絶えに悪魔の攻撃を避け続ける。しかしとうとう逃げ場を失ってしまう。悪魔の下卑た唸り声は無垢な魂を凌辱できる喜びに満ちていた。悪魔はゆっくりと大きく腕を振りかぶる。今まさに邪悪な爪が振り下ろされようとしていた。だが、まさにその瞬間のこと! 鋭く眩い光が暗天を切り裂き、アシュナールの体を包んだ。光は温かく柔らかい。悪魔どもはたじろいでいる。勇んで威嚇する悪魔の声も彼方に聞こえるようだった。アシュナールは己の身に起こったことに戸惑ったものの、自分の内側に確かな力が漲るのを感じる。これが神より己に与えられた使命なのだ。アシュナールはそのことを強く自覚し、神の意思に導かれるまま右手を天高くかざした。光がアシュナールの右手に収束し、限界まで圧縮された光の焦点は怒涛の大波となって爆発した。そして光の波は悪魔や魔界に通じる門を一瞬にして飲み込み、消滅させた。雲ひとつない青空には神の愛が溢れていた。こうして世界は守られたのである。とのことだった。
同級生たちは目を輝かせながらアシュナールに詳細を訊ねてきた。悪魔の肌の色はやはり聖書の通り黒かったのか、開きかけた門の奥に地獄の景色は見えたのか、光に包まれたときに神の言葉は聞いたのか、など。いずれにせよそれらの問いは、彼らが伝え聞いた話の真偽を問うものというよりは、自分たちの想像をより精緻にするためのものだった。アシュナールは答えあぐねて曖昧な笑みを浮かべていた。
鐘が鳴る。
休み時間の終わりを合図に生徒たちはアシュナールから離れる。アシュナールはほっと一息つく一方で、取り囲む生徒たちの体に隠れていた別種の視線に晒されることになる。アシュナールの英雄譚に懐疑の目を向ける者たちの目であった。
授業の後に担任の教師に同級生たちのことを相談すると、彼は苦笑して言った。
「彼らはまだ幼く、楽しみに飢えているのだ。許してあげなさい」
「でも僕は悪魔と戦っていません。真実ではないことを真実であるかのように振舞うのは、よくないことではないのでしょうか」
「しかし全てが嘘だというわけでもあるまい。神はなぜ君を救ったのか、これからの君に何を役目としてお与えになったのか。神の御心を考えなさい。そうすればおのずと友人たちに取るべき態度もわかるだろう」
アシュナールは釈然とせず、俯いた。その様子を見て担任の教師は優しい笑み浮かべた。アシュナールの肩を手に乗せ言った。
「これも君に与えられた試練なのかもしれないね。神の御心を読み解き正しい振舞いをしなさい」
寄宿舎に戻ると部屋には誰もいなかった。神は常に自分を見ているというが、真に心優しい神ならアシュナールの辛さも理解してくれるだろう。アシュナールはベッドに突っ伏し、深いため息をついた。
肺の空気を吐ききる。目を閉じて暗黒となった中に白銀色の門と黒髪の少女を思い浮かべる。もはやアシュナールの記憶以外にあの瞬間のことを証明し描写する手段はない。同級生たちが目を輝かせて語った光景とは明確に区別されなければならない。白銀色の門の荘厳さと微細な装飾を隅々まで思い出す。それから黒髪の少女のこと。頭のてっぺんから足のつま先、靴に付着した砂粒の一つまでを映像として再現する。暗く澄んだ瞳、小ぶりな鼻、眉にかかった前髪。そしてその瞳の奥にある不可知の法則のこと。そこにアシュナール自身の願望や妄想を混ぜてはいけない。あのとき見たものを見たままに思い出し、最新の記憶とし、忘却から遠ざけるのだ。
息苦しくなるなか、アシュナールは問いかける。神よ、彼女は何者なのですか。あるいは彼女こそがあなた自身なのでしょうか。黒髪の少女は何も語らない。ただじっとアシュナールの顔を見つめていた。
苦しさが限界に到達し、アシュナールは突っ伏していた顔を上げ、息を吸う。そこは寄宿舎の自室で、窓の外は暗くなりかけていた。そろそろ同室の上級生たちも戻ってくるだろう。アシュナールはベッドを整え直し、自分の苦悶の痕跡を消した。
アシュナールの存在が神学校の中で馴染んでくるに従い、同級生は新たな刺激に関心を向けるようになり、相対的にアシュナールが質問攻めに遭う機会は少なくなってきた。その分、アシュナールのことを怪しむ視線が際立ってくる。彼らは面と向かってアシュナールに問い質すことはしない。代わりに、アシュナールが神の恩寵を受けた者ではなく悪魔に魅入られた者であることを証明するような手掛かりを探していた。アシュナールの一挙手一投足をつぶさに観察し、堕落の痕跡を集めようとしていた。
そのような視線は上級生や下級生を問わずあらゆる角度から一定程度寄せられていた。しかし特に強いのは、やはり同じ教室の同級生からのものだった。たまに授業の課題を共同で担当することになったときなどは、彼らは表面的には友好的な態度を装いつつも、内心では強く警戒していることが肌でわかってしまう。それでも彼らが悪意を表に出さないのは、アシュナールが神の恩寵を受けた者であるという世論に逆らうことが得策ではないことを理解しているからだ。
そのような者たちのなかで、特に強い猜疑の目をアシュナール向けてきていたのはマハグールという男子だった。彼は勉学に秀でていたが体は小さく、誰とも目を合わせて話すことができないほどに内気で口下手だった。それでも彼の周囲に何人かの取り巻きがいたのは、マハグールの生家が教団の要職に就く人々を複数輩出する有力な家系だったからだ。もっとも、マハグール自身には己の両手にある借り物の権力を振りかざす意思はあまりなかったようで、あくまで己の信仰上の信念に基づいてアシュナールのことを疑問視しているようだった。アシュナールも特に具体的ないじめや嫌がらせを受けたわけでもないので、薄気味悪いと思いながらもそれ以上の反応をすることはなかった。
神学校での暮らしが始まっておよそ半年が経ち、気候がすっかり春めいてきたある日のこと。歴史の授業で、教会の布教の歴史が題材に取り上げられた。アシュナールや生徒たちは担任の教師の語りに耳を傾ける。マハグールは机に身を乗り出すようにして、特に真剣に聞き入っていた。
神歴千百年頃――現在から遡って数えればおよそ六百年前の大昔の時代のことである。後に聖者に数えられるようになる若い司祭が、信徒と家畜を引き連れて、東の国境を越えて布教の旅に出た。当時は今ほど他の地域のことは知られておらず、特に東の方は、神の手も及ばず、死の呪いに汚染され、悪魔や悪霊が跋扈する恐ろしい地であると考えられていた。草の一本も生えないのがその証拠である。しかしその若い司祭は霊樹を削り出して作った聖杖を手に、死の砂漠に向けて旅立った。彼の地に神の威光を知らしめるためである。
過酷な旅だったという。昼は地獄の炎の中を歩くようであり、夜は魂さえも凍てつくようである。行けども行けども砂ばかりの景色が続き、時折吹き荒れる砂嵐は聖者一行の辿ってきた足跡を吹き消し、彼らをあざ笑っていた。しかし聖者の握る聖杖は常に正しい道筋を示し、彼らの勇気が挫かれることはなかった。
聖者は訪れた先の土地にて、聖杖の先端で地面を叩き、地下に隠れて暮らす人々に神の救いの手が差し伸べられたことを報せた。地底で怯えて暮らしていた人々は初めて神の教えに触れ、涙を流しながら神に感謝を告げたという。そして聖者は多くの信徒と共に井戸を掘り、地上に水場を作り、そして井戸が枯れないよう神の祝福を与えた。このようにして地底で暮らしていた人々は地上で生きる術を得て、後に現在の砂漠の街となる小さな集落を形成した。聖者一行は多くの感謝に見送られながらさらに東を目指して進み、行く先々で地下で暮らす人々に神の手を差し伸べていった。
やがて聖者一行は東の果てに我々と全く異なる姿かたちの人々の暮らす異国を発見して、帰路についたという。その帰路でも砂漠の各地に点在していた人々に神の存在を伝えていった。このようにして呪われた地に神の教えを広げるための拠点が作られたのだった。
「そして聖者が歩いた道筋は『聖者の道』と呼ばれ、現在の交易路の起源となったのである」
そこまで語ったところで話はひと段落したらしく、教師は「ふう」と息をついた。それを合図に張り詰めていた空気が解れた。生徒たちは姿勢を崩して、呪われた砂漠の地に温かく柔らかい神の光が降る様子を想像した。
アシュナールはザカタストラ国と砂漠の関わりについては父から嫌というほど聞かされていたが、異なる視座から話を聞くというのはなかなか面白いことだと感じた。現実はもっと生々しく、どろどろとした権力闘争や経済的背景が絡む歴史であると聞いていたが、このように美しい逸話に昇華されたものとは、もはや別の物語である。
「何か質問はあるだろうか」
問われてマハグールが挙手して言った。
「地底で暮らしていたという人々は、その、なぜ神の救いもない中で生き延びることが、できていたのでしょうか」
「ふむ、良い質問だ」
教師は皆を見渡し、沈黙することで生徒に思考を促した。なぜだろうか。十分に考える時間を置いてから、教師は口を開いた。
「さて、これは一つの見解であるということを強調しておかなければならないのだが――彼らは、悪魔と契約していたから生き永らえることができた、という説がある」
小さな悲鳴がそこかしこから発せられ、教室はざわついた。収まるのを待ってから教師は続けた。
「賢明な君たちなら当然疑問に思ったことだろう。神は一度でも悪魔と通じた者をお救いになるのだろうか? では、逆に私から君たちに問おう。やむにやまれぬ事情で罪を犯してしまった者を、果たして神は見放されるだろうか? たった一度の過ちさえも許さないほどに、我々の神は冷酷であるだろうか?」
生徒たちの目に熱がこもる。
「もちろん過ちを過ちと認めない者には相応の罰が下るものだが、過ちを認め悔悟した者には再生の道が示される。人には常に正しい道を歩むことが許されているのだ。この学校で学ぶ君たちに期待されていることは、人が正しい道を歩むための導き手となることだ。そのためにはまず君たち自身が神の教えを正しく理解し、人々の模範となる必要がある。引き続き修練に励むように」
生徒たちは声を揃えて「はい」と返事をした。ひと際大きな声を出していたのはマハグールであった。
4.
春と夏は祈りの日々と共に過ぎていった。学期末を迎えた後は神学校の校門にひっきりなしに迎えの馬車がやってきて列を成し、生徒をそれぞれの実家へと送り届けていった。
もちろんそのような報せはあらかじめ実家から手紙にて届けられるものである。しかしアシュナールの生家からそのような手紙が届くことはなかった。手紙がないということは、つまり長期休暇を寄宿舎で過ごすということである。母は父の意見をうかがうことなく何か意思決定をするということはないし、父も父で戦線を離れられずにいるのだろう。
棟長の上級生が孤独なアシュナールを気遣って茶会に誘ってくれた。だが、大して話も弾まず、アシュナールは悪いことをした気がして申し訳なくなる。アシュナールがそのことを詫びると、棟長は構わないといったように首を横に振った。そして大きく息をついてからこう言うのだ。
「アシュナールはとても落ち着いているんだね」
皮肉というよりは感心の素直な発露であるようだった。
「そうでしょうか?」
「ああ。僕が言うのもなんだけど、普通、上級生と一緒にいるというのは緊張するものだが、君はそうではないようだ。しかも背筋がしっかり伸びていて姿勢が良い。育ちが良い人とはまさに君みたいな人のことを言うのだろう」
「父に徹底的に仕込まれたせいかもしれません。姿勢が悪いと、咄嗟のときに体が動かないのです」
「君の御父上は、そうか。彼の地で軍の指揮をしていらっしゃるのだったね」
「はい」
「心配だろう」
「僕などが心配したらかえって叱られます」
棟長は声を出して笑い、ただちに「失礼」と言って口元を手で押さえた。
「では一緒に祈ろうか。呪われた地で使命を果たそうとしている人々の無事と、その本懐が遂げられることを」
そう言って棟長は手を組み合わせ、目を閉じた。穏やかな顔の口元には優しい笑みが浮かんでいる。窓から射す夏の日差しも今だけは和らいでいるようで、神々しさすら感じられる。棟長は淡い黄金の光に包まれているように見えて、アシュナールは今自分が動揺していることに気付いた。
ああ、自分は父の無事を祈ってよかったのか。
冷静に考えてみればその通りだ。教団の人々がどれだけ軍人を毛嫌いしていようが、正しい行いをしている人々に祈りを捧げることを神が妨げるはずがない。
アシュナールは一年の間にすっかり慣れ親しんだ方法で手を組み、目を閉じ、心の内で祈りの言葉を紡ぐ。最後に見た父の姿とはどのようなものだったか。アシュナールが熱病に倒れる前、駐屯所から前線に向けて出立する様を見送ったときが最後だった。父の手は厚く固いもので、岩石のようだ。その手がアシュナールの頭を包み込むように撫で、そして離れていった。遠のく父の背中は勇ましく、たとえ二度と見ることがなかったとしても、父はアシュナールの誇りだった。アシュナールは自分に問う。果たして今自分は父の背中を正しく思い出せていただろうか。薄れかけていた記憶を慌てて思い出し、強固なものとする。そして父と父が率いる兵士たちの無事を心の底から祈った。神よ。
ずいぶん長い間祈っていたらしい。アシュナールが目を開けると、心配そうに顔を覗き込む棟長の顔があった。
「とても熱心に祈っていたね」
「はい」
「これからは毎日祈ったらいい。どうやら誰も君に家族の無事と平和を祈るということを教えてあげなかったようだ」
可哀想に、と呟いた声は音としてはアシュナールの耳には届かなかったが、心には確かに聞こえた。
「さて、そろそろ夕飯の時間だ。アシュナール、他の子たちを呼んできてくれ」
もしも兄たちが生きていたら、こんな気持ちだったのだろう。そう察せられるような温かさを胸の内に感じつつ、アシュナールは返事をして棟長の後に続いた。
寄宿舎にほとんど人がいなくなり、図書館で一日のほとんどの時間を過ごすようになった頃、アシュナールは教団の本部から呼び出しを受けた。書状に理由は書かれていない。日時と場所のみが記された文書であった。
初等部の教育長に連れられて神学校の外に出て、数分も歩かないうちに神大学校の広大な敷地に足を踏み入れる。門と壁の内側はさながら公園のようで、舗装された石畳の道が真っ直ぐ遠くまで続いていた。道の両脇には一定間隔で並ぶ銀杏の木があり、その外は芝生が日の光を受けて鮮やかな薄緑色に輝いていた。道はところどころで分岐しており、その先はそれぞれの研究棟や事務棟に通じている。教育長はアシュナールに構うことなく歩き始めたので、アシュナールは小走りでその後を追った。
すれ違う人々は、当たり前だが、神学校の生徒たちよりもずっと年上だった。見かけた中で一番若い人ですらクラスの担任教師ほどの年齢であるように見える。
校門から続く道の先には大きな噴水があり、透明で清らかな水を空に噴き上げていた。水膜越しに見える景色は、色合いはそのままであるのに輪郭がぐにゃぐにゃと歪んでいる。「アシュナール」と呼ばれて、アシュナールは自分が足を止めていたことに気付いた。教育長はアシュナールが追い付くのを待ってから歩き始めた。
歩くうちに目の前に迫ってきたのは、国内で最も規模の大きなもののひとつであろう聖堂だった。薄灰色の明るい石材を用いて作られた建物はまさに荘厳と言うほかにない。入口の扉の高さですら大人の二人分はあるだろう。歩くうちにアシュナールたちは聖堂の影の中にすっぽりとおさまって、開け放たれた入口から廊下が真っ直ぐ聖堂の奥の礼拝堂まで続いているのが見えた。しかし教育長は聖堂に入った後は礼拝堂を迂回し、奥にある教団本部に続く廊下を進む。そこまで来ると途端に人気がなくなり、回廊の外で日の光が草を焼く音までもが聞こえそうなくらいの静けさに包まれた。
一枚の扉の前に辿り着く。この先がいよいよ目的の場所なのだろう。教育長は扉に手をかける前にアシュナールに向き直り、アシュナールの髪や服の襟を改めて整えた。
「恐れずともよい。お前が真に正しき者であるならば」
そう言って教育長はアシュナールの反応を待たずに扉を開けた。錆びた蝶番の軋む音と共に、奥からいやに冷たい空気が溢れてアシュナールの足元を冷やした。
それから二人は階段を二階分のぼり、とある扉の前に辿り着いた。教育長が扉を叩くと、中から返事がある。扉を開き、教育長の後にアシュナールが続く。
中は正方形の部屋であり、奥に大きな窓ガラスがはめられていた。入口を除く三面の壁際にはそれぞれ長机が並び、左から順に三人、四人、二人の威厳のある長老たちが座ってアシュナールに視線を向けている。教育長が皆に対して挨拶をすると、中央の一人が「ご苦労」とだけ告げた。
教育長はアシュナールの背中をそっと押して、部屋の中央に立つよう促した。アシュナールは振り返り、目で戸惑いを伝えるが、教育長はそれを無視して右手側の空いている席についてしまった。
もはや逃げ道はなく、怯えて泣き崩れることさえも許されないようだった。アシュナールは息苦しさを堪えて部屋の中央に立つ。
「アシュナール」
ゆっくりと低い声で名前を呼ばれる。声の主は先ほど教育長を労った人であった。
「学校の暮らしには慣れたかね」
声色と話題が全く合っておらず、アシュナールはどう返事をしたらいいのかがわからない。乾く口内を何度も唾で湿らせ、言葉を探す。そのようなアシュナールの反応の全てが、二十の瞳によって三方向から観察されている。アシュナールが問いに答えるまで、彼らはいつまでも待つつもりのようだった。
「学校の暮らしには、慣れたかね」
先ほどもゆっくりと、言葉を区切って、その人は訊ねた。視線も眉も石のように固まって動く気配はないのに、その目の奥にはアシュナールを審判しようという意思がありありと見える。
「はい……いいえ、まだ」
この場ではほんの少しの嘘も許されないことを悟った。たとえそれが勘違いや気のせいであったとしても、真実ではない言葉は偽りであるとして断罪されるだろう。
「よろしい。お前は、これから我々がお前に問うことに対し、神に誓って真実を語らなければならない。真実を語ると誓いなさい」
「はい。僕……私は、真実を語ることを誓います」
アシュナールの誓いは重苦しい沈黙のなかで受け止められた。汗が背筋を伝うのを感じた。父に木剣の切っ先を突き付けられたときですら、ここまで緊張することはなかった。この場では一瞬の隙が命取りになるだろう。長らく忘れていた感覚であるが、決して知らない感覚ではない。自然と背筋が伸び、意識して呼吸を整える。
「お前は一年前、呪われた地で夢を見たそうだな」
「はい」
「その夢を、可能な限り詳細に説明しなさい」
アシュナールは目を閉じ、何度も何度も記憶に刻み付けた光景を思い浮かべる。
「私は病にかかっていました。全身が熱くて息苦しかったことを覚えています。寝ているのか起きているのかもわからないなか、冷たい手が交互に額に差し伸べられて、生きろ、生き延びろ、と訴えかけてくるようでした。しかしその感触も次第にわからなくなり、ぼんやりとした意識のなか、白銀色に輝く門を見たのです。すべてのものが曖昧になるなかにあって、それだけははっきりと存在していました。そして、門の前には一人の女の子がいました。貧民のような恰好をした、黒髪の子でした。その子は何も言わずに私の前に立ち、座り込んでいた私の顔を覗き込み、ここは私の居場所ではないと言いました。それから一つの方角を指差し、この先を真っ直ぐに行けば帰れると言いました。それから風が吹き、私が袖で顔を守っている一瞬の間に白銀色の門と女の子はいなくなっていました。私は女の子の言った通りの方角に向けて歩いていくうちに、目が覚めたのです」
丁寧に選んだ言葉に嘘も偽りもなかった。神に誓ってそう言える。アシュナールの話にじっと耳を傾けていた長老たちの一人が問いかける。
「その女の子とやらの正体について、君はどう考えているかね」
今この瞬間こそ、アシュナールは自分に正直にならなければいけない。神が真に神であるならば、この真実の告白が咎められるはずがないからだ。
「わかりません」
「なぜそう思うのか」
「これまで私の話を聞いた多くの人々が、彼女のことを悪魔と考えてきたようですが、私にはそうとは思えないからです。あのとき、彼女は私の命を奪うでもなく、私を堕落させるでもなく、生きて帰れる道を示しました。この一年、短い時間ではありますが、学校で色々なことを学ぶなかで、悪魔がこのような振舞いをする例を聞いたことがありません」
「つまり君はその子が自分を助けた、そう考えているのだね?」
「はい」
「人の理を超えた力で救済する所業は我らの神のようであるが、君はその子こそが神である、と考えているのだろうか?」
「正直に言えば、そういう風に考えたこともあります。しかし、結局のところ、私にはわからないのです。私自身は神の御姿を拝見したことがありませんし、御姿を伝える言葉も見たことがありません」
長老たちはアシュナールの返答をじっくりと咀嚼していた。睫毛や唇の震えまでもが監視されている。今この場で問われていることは、この一年の間にアシュナールが一人でずっと何度も考えてきたことだ。ありとあらゆる角度からつぶさに検討し尽くしてきたからこそ、長老たちが次に疑問に思うことも、察せられる。
「ここまで話を聞く限り、お前はずいぶんその女の子のことを想い、考えてきたようだ。それは見方を変えれば、お前はその娘に魅入られているとも考えられるだろう。実に悪魔じみた所業ではないかね」
「たしかに私はこの一年の間、神と同等かそれ以上にその女の子のことを考えてきました。しかし今この瞬間、私は神への信仰を失っておらず、少なくとも私は私自身の信仰が歪んでいるとも思っておりません」
「お前はその子のことを愛しているのか」
問われてアシュナールは赤面するのを感じた。
「いいえ。私の心は――神のものです」
アシュナールの心を奪ったのは、黒髪の少女そのものではなく、彼女の瞳の奥にあるものである。アシュナールは少女の瞳の奥に神の世界を見たのだ。これがアシュナールの真実である。
長い時間の果てに中央の長老が一言「よろしい」と告げ、アシュナールの審問は終わった。
後日、アシュナールの告白は真実であると認める通達が学校に届いた。この事実は、一部の生徒のアシュナールに対する態度を改めさせるのに十分な力を発揮した。
5.
学年が上がって初等部の最高学年となった。季節は巡り、神学校での暮らしはすっかりアシュナールの日常となった。何人かの親しい友人もでき、アシュナールを訝しむ視線もほとんどなくなった。
朝は起床とともに神に祈るとともに父の無事と勝利を願う。学校の授業も、入学が遅れていた分は十分に取り戻すことができている。放課後は図書委員の活動に勤しむ。長期休暇中に図書館に足繫く通って以来、そこがアシュナールの第二の居場所になったのだ。本の貸出手続きや返却された本を書架に戻す作業を行い、それでもあり余る時間を使って砂漠に関する書物を読み漁っている。
アシュナールは人目のつかない時間と場所を選んで、武芸の鍛錬も続けていた。もっとも、ここにはもう自分を指導してくれる人はいないから、昔会得したことを失わないようにするためという意味合いが強い。しかし、そもそも教会の世界で生きる上では必要のない技能であるのだから、鍛錬自体が無意味であるとも言えるだろう。汗を流しながらそう思うことは幾度となくあった。それでも体を動かさずにいられないのはなぜか。いつか父と再会したときに失望されたくないからなのだろう。その理由が一番アシュナールにとって腑に落ちるものだった。
季節が冬を迎えた頃、アシュナールはクラスの担任の教師に、実家に手紙を出してよいか訊ねた。学年が上がって新しく担任になった人は温和な老人であった。
「もちろんだとも。近況を伝えてあげなさい」
本当は父に宛てた手紙を出したいのだが、神学校から砂漠の戦線まで直接運んでもらうというのは現実的ではない気がする。そこで、まず実家宛に手紙を書き、その手紙の中に父宛のものも含めることで、実家経由で父に手紙を届けてもらうことを計画した。
手紙は封筒に入れて校内のポストに投函すればよいということになっている。便箋の枚数に制限はないが、それ以外のものを同封することは禁じられている。
さて、とアシュナールは机の前で手を揉んだ。手紙には何を書こう。まずは一年以上も音沙汰なしだったことを詫びなければいけないだろう。そのうえで、神学校での暮らし――一日の流れや季節ごとの出来事――を記述する。最近は図書館に通っていることも書いたらいい。そして、神大学校で審問を受けた話もする。それらは話題ごとに便箋を変えて書き綴る。
書き連ねた便箋は五枚に達した。それらを脇によけて新しい用紙を机に置き、続きを書く。
六枚目には父の近況を訊ねる文章を書いた。神学校にいると世間のことはまるで耳に入ってこず、しかし砂漠での戦のことについて学内に明るい人もいない。自分などが父の心配をするべきではないことはわかっているのだが、それでも自分が父の身を案じているのだ、ということを書き綴った。
便箋を新たなものにして続きを書く。もし可能であればこの手紙ごと今も砂漠の地で戦う父のもとに転送してほしい、という旨を記したうえで、父に直接宛てた文章を書く。先ほど書いた近況のうち審問以外のことを要約したものに加え、今も暇を見つけて鍛錬を続けていること。それから――アシュナールは迷った末に決意する――返事を待っていることを書いた。
結局便箋の枚数は八枚になった。それらを封筒に入れて、しっかりと糊で封をして校内の食堂前にあるポストに投函した。
アシュナールは心の内で呟いた。神よ、あなたを試すようなことをする私をお許しください。
冬と春の間の休暇期間はさほど長くないこともあり、校内に残る生徒も少なくない。暇を持て余した生徒たちは神への奉仕の傍らで束の間の自由を謳歌し、それぞれ遊んだり催し事を企画したりして過ごす。アシュナールも友人たちに誘われてそのような遊びをすることもあったが、やはり多くの時間を図書館での研究に費やしていた。
呪われた地とは一体何なのか。
もちろんこれまでの授業を通して、この国の東に広がる砂漠とは今なお神の教えが十分には届いていない地であり、そのためにしばしば呪われた地と呼ばれていることは知っている。昼夜で気温が大きく変化する過酷な環境であること、景色はどこを見てもことごとく砂に埋め尽くされて生命の気配などまるでないことなどは、アシュナール自身がよく知っている。しかし国内を見渡してみれば、痩せて草木に乏しい土地はいくらでもある。だがそれらの場所が呪われた地と呼ばれることはない。この違いは何に由来するものであろうか。土地の規模が違うからだろうか。教団が砂漠の地域と関わった歴史がまだ浅いからだろうか。彼の地に対する知識が不足しているが故に教団の論理で理解できないものを呪いと呼んでいるに過ぎないのか。そういう要因が全くないということはないのだろう。だが、それだけが理由だろうか。呪われた地と呼ばれるには相応の理由が何かしらあるのではないか。
一年半を過ごしてみて、アシュナールはつくづく思い知ったことがある。それは、教団の人々は砂漠の地のことを忌避し恐れているということである。神という秩序のない世界ではどんなに恐ろしいことも起こりうる。だからこそ、その地で病に倒れ、死にかけ、そして生還を果たしたアシュナールとは理解しがたい異質な存在なのだろう。無邪気な子供たちは奇跡に神の意思を見た。一方、思慮深い者たちは、アシュナールのような前例はないという歴史を重んじて、アシュナールの異質さを警戒する。もしもアシュナールが一年生から神学校に入学していたとして、ある日突然アシュナールのような経歴の同級生が現れたら、きっとアシュナールも警戒する側だったことだろう。
気付けば歴史書を読み進める手が止まっていた。日差しは傾きかけていた。薄暗くなりつつある空を見て、アシュナールは席を立ちあがる。続きはまた明日ということにして、書架に本を戻す。
この時間の図書館は特に静かで、アシュナールが気に入っている瞬間のひとつだ。時間や世界との関わりの一切と断絶されていて、礼拝堂で神に祈りを捧げているときよりも孤独でいられる。まるですべてが遠い異世界のことのようであるが、むしろアシュナールがいる今この瞬間こそが世界の一般的な事象から独立したものであると捉える方が妥当なのだろう。そのような時空間においてこそ素直な心持ちで白銀色の門と黒髪の少女に対峙できる。
お前はその子のことを愛しているのか、と審問のときに問われたことを思い出す。何を以て愛していると呼ぶのかにもよるのだろうが、もう一度会えるものなら会いたいと思っている。しかしどうやって? 方法はわからないが、再び会って、その瞳の奥にあるものを知りたい。その気持ちだけは確かな真実だった。
神に心の内を覗かれる前に、箱の奥深くに記憶をしまい、蓋をする。ここは神学校の図書館である。あくまで現実と地続きにある場所である。
さて、帰ろう。そう心の内で呟いて振り返ると、目の前に人が立っていた。アシュナールは心臓が握り潰されたようで、喉が詰まって声も出ない。
そこにいたのはマハグールだった。
「君は、いつもここで何を、調べているんだ」
声が震えているのは、人と話し慣れていないうえに緊張しているからなのだろう。アシュナールと比べて頭ひとつ分だけ背の低いマハグールは、目を泳がせながらもぐっとアシュナールの顔を睨みつけようとしていた。
「こんにちは、マハグール」
「こ、答えろ。君は、何を調べている」
マハグールの顔が赤らんで見えるのは、夕日が射しているからだけではないのだろう。アシュナールは自分でもぞっとするほどに心が冷えていくのを感じた。ここで感情のままに応対するのは簡単だが、果たしてそれは正しいことなのだろうか。アシュナールは誰に対しても、神に対しても、恥じるようなことは何もしていないのだから、堂々と真実を述べるだけでよいはずだ。
「砂漠の地のことを調べていたんだよ」
「やっぱりそうか」
「マハグールも興味があるのかい」
はっ、とマハグールは鼻で嗤った。
「まさか。どうしてあんな呪われた地のことなんか。でも君は、興味があるというんだな」
「そうだね」
「同族の故郷がどう見られているかが気になるんだろう」
顔を背けながら吐き捨てるその顔には勝ち誇ったような卑屈な笑みが浮かんでいた。素直に、醜いと思った。
「マハグール、そういう言い方はよくないと思うよ」
アシュナールは努めて穏やかに言ったつもりだったが、マハグールはさらに顔を紅潮させて言葉を震わせた。
「ぼ、僕に注意するというのか、君が、君みたいな奴が!」
「君は今と同じことを神の御前でも言えるのか。同じ神の教えに従う仲間を侮辱することを神がお認めになると思っているのか」
マハグールのような善良な人にはこういう言い方が一番効くことをアシュナールは知っていた。マハグールはたちまち罪の意識に包まれ、言葉を失った。
「マハグール。君が僕のことを怪しむのはもっともなことだと思う。思えば僕がこの学校に来たときから、ずっと、ずっと、君は疑いの目を向けてきたものね。僕もここで学ぶようになってから、いかに自分が特殊な体験をしたかをつくづく思い知らされたよ」
マハグールは俯いたままぴくりともしない。
「だけどね、僕は本当に奇跡を体験したんだ。どういう風に君の耳に伝わっているかまでは知らないけどね、僕は砂漠の地で命を落としかけて、不思議な経験をして、そして生還した。それは紛れもなく確かな事実で、だけどそれが何を意味することなのかまでは、僕にもわからない。神が何を思って僕にあのような体験を与えたのか。それを疑問に思って探求するというのは、そんなに悪いことなのかな」
顔を見ずともわかる。マハグールは今、顔を真っ青にしていることだろう。もう一押しだ。アシュナールはマハグールの横に立ち、その耳元に口を近づけ囁く。
「もしも砂漠の地のことを調べるのが悪いことだというのなら、どうしてこの図書館にその地について書かれた書物が置いてあるのだろうね。どうして偉大な先輩たちは己の命を賭して砂漠の地に足を運んで、神の教えを広めようとしてきたのだろうね。君が今さっきやったように、砂漠の地を呪われた地と一方的に呼び捨てて、理解することを放棄するというのは、僕にはとても神の御心に沿った行動だとは思えないのだが、君はどう思うだろうか」
脅かしすぎただろうか。しかし今後のことを考えれば、これくらい強く説得した方がよいのだろう、とアシュナールは自分を納得させた。これ以上ここに留まる理由もないので、荷物を取りに自分の席まで戻る。そのとき、背後からマハグールの懺悔が聞こえてきた。
「僕が悪かった。どうか、どうか、許してくれ」
「僕は何とも思ってないよ。ただ、神が君の振舞いを許すかどうかまでは、僕には判断できない」
では、またそのうち。アシュナールはマハグールに会釈をしてその場を去った。図書館を出る間際、受付の司書には、中にまだ一人残っているから閉館してしまわないよう注意を促しておいた。
図書館を出てから、アシュナールは心臓がいつもよりも強く鼓動していることに気付いた。神の名を借りて他者に影響力を行使するというのは、ある種の優越感を伴うものであることを認めた。これはとても危険な行為である。もう二度とやりたくない、とアシュナールは思った。しかしその一方で、正しいことを行うためならば、このような手段も候補の一つであることは認めざるを得ないともアシュナールは自覚した。
晩年になって、マハグールはこのときのことを笑って振り返り、こう言った。正直に言って、あの時のあなたは悪魔よりも恐ろしく見えましたよ、と。ネルドレク聖は後にカダル聖と呼ばれる人にこのような返事をした。私も若かったのです、どうぞ許してください、と。
6.
夏の盛りを過ぎた頃、アシュナールたちは学年末の長期休暇を迎えた。終日校門前に馬車が列を成す様子はもう見慣れたものであるが、今年はアシュナールも実家に帰省できることになった。同室の友人たちと取り留めのない話をしながら時間を潰している。しかし胸の内は必ずしも晴れやかではない。
その靄の正体は、先日、初等部の教育長に釘を刺された一件である。アシュナールは教育長に呼び出され、こう言われた。半年前の審問の件は決して口外してはならない、と。
「それは家族であってもですか」
「そうだ」
何故、と問うことは無言の圧力で封じられた。
「お前は身も心も神に捧げなければならない。もう世俗に還ることは許されない。他の子供たちとは立場が異なるのだ。己の使命を肝に銘じなさい」
「私の使命とは何でしょうか」
「お前が一番よく理解していることだ」
そう言ってアシュナールを見据える目は審問のときに向けられたものとまったく同じだった。アシュナールは自分が置かれた状況をおぼろげに察し、その仮説を前提に許される発言の境界を探る。
「……僕が家族に出した手紙のうち、どれがきちんと届けられたのでしょうか」
「それは帰省したときにおのずと明らかになることだろう」
ここまでの発言は、許された。アシュナールは再び許される発言の境界を探る。
「私が私の使命に殉じるべきだというのは、神のお考えでしょうか。それとも、あなた方のお考えですか」
「……どちらでもある」
「子が親に届ける手紙を歪めるのも神の御心の一部であると」
「結果的に神の御心に適うことになるならば、我々は正しい選択をすることをためらわない」
お互い無言で瞳の奥の意思を確認しあう。アシュナールは、今自分を見つめている目とは、かつては良心の呵責に悩み、悩んだ末に己の使命に殉じることに決めた者の目であると思った。神はこのような哀れな者もお救いになられるのだろうか。神の名のもとに己を正当化することをもお認めになるというのであれば、一体神は誰の味方なのだろうか。そして、このように自分が神に疑念を抱くことすらも神がお許しになるとするならば、いよいよもって神は誰を許し、誰を裁くというのだろう。
「今回の帰省は最初で最後のものとなるだろう。丁寧に別れを済ませるといい」
教育長がアシュナールに返事を求めることはなかった。アシュナールは彼のことをただただ哀れだと思った。
迎えに来た従者はアシュナールを見て顔を綻ばせた。ずいぶん大きくなられましたね、としみじみ言う様子には真心が溢れていた。
「父は家に帰ってきますか」
「ええ、アシュナール様が帰省されると聞いて、ご都合をつけてこられたようです」
「そうですか」
帰りの道中で従者はアシュナールがいなくなった後の家の様子のことを語った。といっても、総じて言えば特に大きな事件もない二年間だったとのこと。父も二年間ずっと前線から離れられずにいたので、アシュナールもいない家の中は灯が消えたようだったという。何人かの使用人には暇も出したそうだ。
家に着く。話に聞いていた通り、家の中は出たときよりもいくらか寂しくなった気がした。昔馴染みの使用人が何人かいなくなっていた。母も五歳か十歳は老けたように見えて、アシュナールは音沙汰がなかったことを申し訳なく思った。
「手紙に返事をくれないなんて薄情な子だこと」
「申し訳ありませんでした」
神よ。これもあなたの御心ですか。
夕食後は自室に戻る。最後にここに来たのは神学校に出立する前であるが、ゆっくり過ごすという意味では砂漠に行く前の夜以来である。物心がついた頃から使っていたベッドは寄宿舎のものよりももちろん立派であるが、それでも二年前ほどは広く感じない。編入学する際に家から持参した衣服も着られなくなっていたものだ。就寝前には母が訪れ、何も言わずにアシュナールを抱き締めていった。
翌日の午前に父は帰ってきた。元々険しかった顔がさらに険しくなったのは、それだけこの二年間で辛苦を重ねてきたからなのだろう。父はアシュナールの顔をじっと見つめた末に、「大きくなったな」と呟いた。それはアシュナールに呼びかけるというよりはしみじみと溢れ出た言葉のようで、アシュナールも曖昧に「はい」と返事をすることしかできなかった。
午後になり、父はアシュナールを庭に呼び出した。無言で木剣を渡し、自身もアシュナールに対して木剣を構える。父は言葉よりも行動で語る人であった。庭を見下ろす窓辺には母の姿もある。彼らも今回の滞在が自分たちの息子に息子として接することのできる最後の機会だと知っているのだろう。
幼い頃、といってもたかが二年前であるが、その頃はこのように対峙する父とは山よりも巨大で、打ち負かすことなど到底不可能な壁に見えていた。父とは越えがたい壁であるという認識は、今も変わらない。しかしそれは父と同じ道を行くときにこそ生じうる衝突である。今のアシュナールにとって、父とは、もはやいずれ乗り越えなければならない壁ではなくなっていた。むしろ、これほど頑健な人が我が国を守ってくれるのであれば、人々はきっと安心できるだろう、という安堵の方が大きいことに気付いてしまった。そのことに気付いてしまった以上、もうアシュナールに剣を振るう理由はない。
あなたたちの息子は、二年も前に砂漠の地で命を落としてしまっていたようです――アシュナールは木剣を下ろし、父の剣を受け入れる覚悟を示した。その様子を見て、何事にも動じないはずの父が動揺しているのが見て取れた。それでもアシュナールには彼の隙を突くことはできないだろうというほどに、父の立ち居振る舞いは完成されていて、尊敬の念が拭えない。美しいと思った。
やがて父は意を決した。
アシュナールとの間合いを一歩で詰め、アシュナールが目で動きを追うよりも速くアシュナールの胴を打ち据えた。アシュナールの体は後方へ吹っ飛び、倒れる。まともに呼吸することも叶わないが、気絶しなかったのは父が手加減したからである。
「弱くなったな。やはりお前を教団に引き渡すべきではなかった」
その声色の奥にあるものは、二人の亡くなった兄のことを語るときに滲んでいた絶望に似て、そしてそれよりも深く濃いものだった。
アシュナールは芝に仰向けたまま、細くゆっくりと呼吸をする。胸の痛みは心の痛みでもある。
夏の大空はどこまでも青く透明で、平和で、虚ろだった。
神よ。これもあなたの御心ですか。
問うがもちろん答えは返ってこない。しかしそれに失望はなく、むしろ当然だと思った。今日に至るまでアシュナールの身に色々な力学が働いたことは事実であるが、今こうして父と袂を分かつことを決めたのはアシュナール自身だったからだ。
これは神の意思などではない。他ならぬアシュナール自身の意思なのだ。
神は己の心を偽る者には答えを示さない――それだけの話であった。
7.
中等部の三年間は瞬く間に過ぎ、十四歳になったアシュナールは高等部への進学を果たした。昨年まで務めていた棟長の役割は次代に引き渡し、五年間を過ごした寄宿舎を後にする。
高等部での学びは校舎での座学ではなく、各地の教会に住み込んで行う実地研修が主な課程となる。実際に市井の人々と関わることで、神の教えを人々に広めるとはどういうことなのかということの現実を学ぶのである。
受け入れ可能な教会の一覧から生徒が希望する実習先を提出し、神学校側での調整を経て実習先が決定される。
アシュナールは、国外である砂漠の教会を希望し、無事承認された。そこは砂漠の地に赴くことができる唯一の候補であった。
同学年の生徒でわざわざ実習先に砂漠の地を希望する者などもちろんいなかった。ただし唯一、マハグールを除いて。他の生徒たちが自分の実家の近くなどそれぞれの目的に応じて希望を出した中、マハグールはアシュナールと同じ教会に割り当てられることになった。
「どうして」
アシュナールが訊ねると、マハグールはアシュナールの鼻先に指を突き付け言った。
「神の教えが一番届いていないところでこそ奉仕すべきだと思ったからだ。むしろ僕たち以外に希望者がいないことの方が問題だと思うぞ。君はそう思わないのか」
「考えは人それぞれだよ」
「ふん、君はつくづく甘い奴だな」
マハグールとは図書館での一件以来、話をする機会を得るようになり、中等部の三年間を経てすっかり親友と呼べるほどに親しくなった。マハグールがアシュナールの前でだけ口数が多くなる様子を見て、アシュナールは苦笑したものだ。
馬車に揺られて国境まで行き、砂鯨に乗り換えて砂漠を進む。マハグールの口数が多くなったり少なくなったりしてせわしなかったのは、彼なりに緊張していたからなのだろう。初めて砂鯨の背に乗ったときなどは、あまりの高さに泣きそうな声で強がりを言って、アシュナールにしがみついて離れなかった。
その後は変わりばえのしない砂の景色の中を延々と進み、マハグールが文句を言う元気を失ってから二、三日が経ち、ようやく実習先の教会がある街に着いた。
そこは交易路の要衝となる街で、中央交易路と南方交易路が合流する地だった。アシュナールたちの国が長年かけて築いてきた砂漠の拠点である。西の国から訪れた人たちだけでなく、長年この地で暮らす人、商売のために遠方から来る人、果てには東の大国から訪れる人もいる。服装や肌の色が一様ではない人々が往来を行く様子を見て、アシュナールもマハグールも自分たちが狭い世界で生きていたことを実感し、言葉を失っていた。
ここまでの道中を案内してくれた人に礼を言って二人は街中を歩きだした。手にした地図には最低限のことしか書かれておらず、アシュナールとマハグールは二人で地図と目の前の景色を見比べながら目的の場所を探した。
最初は、教会なのだから目立つ場所にあるのだろうと思っていた。しかし地図の示す場所はどんどん大通りから外れていって、ついに誰もいない道につながった。砂埃が低く舞う道はとても教会に続いているとは思えない。二人は何度も地図を見直し、来た道を戻ろうと考えたが、やはり地図はこの人気のない道を示していたし、もしも地図自体が間違っているというのであればいよいよ自分たちは迷子ということになる。眉を垂らして悲嘆にくれるマハグールの背中をアシュナールは優しく叩いた。
とぼとぼと歩いているうちに、やがて白塗りの壁で作られた建物が現れる。それは周囲の民家よりも一回り大きいが、すっかり砂埃に汚れていて、控えめに言ってもみすぼらしい。しかし地図が示すのはこの場所のようである。そっと覗いてみた軒先の入り口の上には、見慣れた聖印がある。あまり腕の良くない職人が彫ったのだろう、本来は真円であるはずの形はところどころ歪であった。
アシュナールは放心するマハグールを屋根の影になっているところに座らせて休ませた。それから薄暗い屋内に向かって声を掛ける。
「ごめんください」
反応はない。
再度声を掛けてみるが、やはり反応はなかった。
不在だろうか。たまたまそうであるなら、まだましだが――嫌な予感が頭を過ぎりかけたところで、
「こんにちは、何か御用ですか」
背後から声を掛けられてアシュナールは驚き振り返る。そこにいたのは日除けの白いベールをかぶった女性だった。顔のつくりは明らかに同郷の人ではなく砂漠で生まれ育った人のものだ。
「こんにちは、こちらの教会の司祭様を探しているのですが……」
「ああ、あの人なら今、所用で外出しておりまして。どうぞ中でお待ちください。そちらのお連れさんは具合が悪そうですね」
「砂漠に慣れていないものでして」
「西の方から来る方はそうでしょうね」
その女性はまるで自分の家で客をもてなすかのようにアシュナールとマハグールを屋内に招き入れた。この人は一体何者かと訝しがる気持ちもあったが、とりあえず地図は正しく目的地に辿り着けたらしいということに安堵する気持ちの方が大きかった。アシュナールはマハグールの手を引いて立ち上がらせると、女性の後について建物の中に入った。
中は礼拝堂になっていた。椅子は木箱を逆さにしたもので、祭壇は古びた木の机に布を被せたものである。お世辞にも立派なつくりであるとは言えない。建物自体がそもそも教会として作られたものではないようだ。部屋の形が歪んでいるように見えるのは、元々あった壁を壊して空間を作ったからなのだと後になって聞いた。
「どうぞごゆっくり」
アシュナールは素直に「丁寧で印象の良い人だ」と思ったが、マハグールは納得がいっていないようだった。頭を抱えたまま深々とため息をついている。まだ体調が優れないのだろうか。アシュナールがマハグールの背中をさすってやると、マハグールはくぐもった声で「やめてくれ」と言った。
「僕たちはとんでもないところに来てしまったのかもしれない」
「まあ、ね。お世辞にも清潔な場所だとは言えないけど、神学校と同じ環境を求める方が無謀という気がするよ」
「まったく、君は本当に呑気な奴だな」
どういうことか、とアシュナールは訊ねたが、マハグールは押し黙って何も答えなかった。
この教会の司祭が戻ってきた。
彼はヒッタと名乗り、アシュナールと握手をした。アシュナールも名乗り返し、これからこの教会で奉仕させてもらいながら実務を学ばせてもらう旨を伝えた。
「正直苦労することは多いかと思いますが、貴重な経験となることでしょう」
「お世話になります」
ヒッタの屈託なく笑う様子は幼さを感じるほどに若々しいが、目尻に刻まれた皺の深さが彼の積み重ねた苦労の歴史を物語っていた。異国の地で神の教えを広めることに苦労がないわけがない。だからこそ、彼のような自然な明るさが損なわれずにいるということは素晴らしいことだとアシュナールは思った。だがマハグールはどうだろうか。先ほどからの様子に一抹の不安を覚えつつ、横目でマハグールに挨拶をするよう促す。
マハグールも名乗ったうえで世話になる旨を伝え、ヒッタは愛想よく道中の苦労を労った。
「……これから世話になる身の上で大変恐縮なのですが、これからお互い良好な関係を築いていくために、一点確認させていただきたいことがあります」
マハグールは思い詰めたように申し出た。
「何でしょう?」
ヒッタは穏やかに返した。
「失礼ですが、こちらの女性とはどのような関係なのでしょうか」
マハグールはヒッタの隣に立つ人をじっと見つめた。恩義と質すべきことは別であるというのは、彼の几帳面さの表れである。
「彼女はカシュートと言います。この教会の運営を手伝ってもらっています」
「随分長い間手伝っていただいているようですね。それこそ、我々の国の言葉を流暢に喋れるようになるほどに」
「そうですね。彼女にはもう二十年も手伝ってもらっていますので」
「教団はこの人のことを知っているのでしょうか」
ヒッタはあくまで穏やかさを装いながら言う。
「……何かまずいことでも?」
「司祭の身分でありながら妻を娶る――しかも、砂漠の民を妻になど、許されることではない」
マハグールは真剣な表情で言ったが、アシュナールは呆気に取られていた。アシュナールの目から見て、確かにこの二人は他人同士という浅い仲ではないようだが、夫婦と見るのは想像が飛躍しすぎているのではないだろうか。カシュートと呼ばれた女性も表情を強張らせて驚いているようだ。
「なるほど、仰りたいことはわかりました」
ヒッタは目を瞑って深く頷いた。それからゆっくりと目を開き、マハグールに向き合った。
「神に誓って真実を語ると約束しましょう。まず、私とカシュートは夫婦の関係ではありませんよ。しかし夫婦と見紛うほどに親しく見えたのでしょうね。事実、私にとって彼女は大切な人でありますし、彼女も私に対して悪しからぬ感情を抱いていることを理解しています。二十年近くも並々ならぬ苦楽を共にしていれば、お互いに深い愛情も生まれるというものです」
愛情、という単語に反応してマハグールは語気を強める。
「しかしあなたの立場では許されないことだ」
「彼女と夫婦の契りは交わしておりませんよ」
「形式の問題ではありません。神以外のものに身と心を捧げることの是非を問うているのです」
「私の身と心は神のものです。それは神に誓って真実であると約束します。あなたのような潔癖な人には理解しがたいことかもしれませんが、心身の純潔を保ったまま他者と深く関わることはできるものなのですよ」
「詭弁だ」
マハグールは興奮して立ち上がった。カシュートが身を強張らせ、ヒッタが彼女をかばうように手で遮る。
「マハグール、座れ」
アシュナールが低い声で鋭く言った。マハグールが腰を下ろしたところでアシュナールが言う。
「非礼を詫びます。しかし彼の言うことはもっともだと私も思いましたし、ヒッタ様も我々のような事情を知らない者たちにそのように思われてしまう可能性は理解しておられたのではないでしょうか」
先ほどヒッタがカシュートを守るように手を伸ばしてマハグールを遮ったとき、カシュートもヒッタの方に一瞬だけ手を伸ばしかけて堪えた様子を見た。どうやらマハグールの推測はあながち間違いというわけではないようだった。
「ええ。理屈だけで言えば、彼女とはあなた方が考えるところの適切な距離を保つべきなのでしょうが、生憎今のところはそうするつもりはありません」
「我々は本国にお二人のことを手紙で伝えることができる、ということを承知の上でのお言葉でしょうか」
「……神への忠誠を証明するために己の心を偽り友を見捨てることなど、神はお許しになりますまい」
平行線だ、とアシュナールは思った。しかしこのままでは、マハグールの気が収まらないだろう。大騒ぎの末にザカタストラ国に帰国することになれば、実習先に砂漠の地を選んだ意味がない。論点を変えて落としどころを探らなければならない。
「つかぬことをお伺いしますが、どうして今回私たちを引き受けてくださったのでしょうか。温室育ちの世間知らずが来たらこうなることは予想がつきそうなものですが」
これが助け舟であると彼は気付くだろうか。気付かなければ、残念ながらそれまでの話だ。
「教団の命令は絶対ですからね――というのもありますが、期待があったのかもしれません」
「期待とは?」
「変わらない現状が変わるかもしれない、という期待です。普通の温室育ちの花々はわざわざ温室の外に根を下ろしたいとは考えないでしょう。温室で育ちながら外に飛び出そうとする変わり者なら、私たちと共に新たな可能性を切り開いてくれるかもしれない。そういう期待です」
ヒッタは穏やかに、しかし切実な祈りを込めてアシュナールとマハグールに向けて言った。その祈りは神を介することなく、二人に直接向けられたものだった。
マハグールがすぐに反発しないのを確かめてから、アシュナールは促した。
「マハグール、とりあえず詳しい話を聞いてみないか。寛容は神が我々に求める態度の一つだよ」
「当たり前だ。しかしアシュナール、君はどうも間が抜けているようだな。君が呑気でいる分僕が厳しく目を光らせないといけなくなっていることを忘れてくれるなよ」
「そうだったのか。それは知らなかった。いつもありがとう、マハグール」
ふん、と鼻を鳴らしてマハグールはようやくカシュートから目を逸らしたが、カシュートは申し訳なさげに俯いたままだった。
咳ばらいをして、ヒッタが切り出した。
「長旅の疲れも癒えないままこのような話をお聞かせするのは心苦しいのですが、お話ししてしまって構わないでしょうか」
「先にそうしていただいた方がお互いすっきりした心地で寝床に就けるかと」
「そう言っていただけると気が楽になります――さて、私がこの地に赴任してきたのは、今からもう二十年も前になりますね。まだあなた方が生まれていなかった頃の話です」
8.
ザカタストラ国にとって自国と東の大国をつなぐ交易路とは財政上欠かすことのできない収益源であった一方で、長々と伸びた街道とは、過去から現在に至るまで、絶えず独立派の攻撃対象となる場所であった。
ザカタストラ国と砂漠の民の関係の歴史は、神歴千百年頃、つまり現在から数えて六百年前に古の聖者が地下で暮らす人々を呼び起こしたところから始まったとされているが、以後の歴史的な経緯において両者の関係は必ずしも良好なものであるとは言えない。様々な立場があるので一概に語ることはできないが、砂漠の民の中にはザカタストラ国の支配や干渉を良しとしない一派が存在する。彼らはかつて自分たちの祖先が築いた自分たちだけの国の再興を目指し、ザカタストラ国からの独立を目指していた。そのことから、彼らは独立派と呼ばれていた。ザカタストラ国と独立派の確執はゆうに百年以上も続くものであった。
二十年前、神学校を卒業したばかりの若いヒッタは、この地の教会に赴任することが命じられた。教団内の政治の産物であったという。
ヒッタが実際に教会を訪れたとき、その街は長い戦乱が終わりようやく落ち着いたばかりの頃だった。ただし人々はその平穏が永遠に続くものとは信じていなかった。何かのきっかけで簡単に壊れてしまう儚いものだというのは歴史が証明してきたからだ。前任の司祭は戦乱の中で命を落としたという。ヒッタの最初の仕事は、そこら中に打ち捨てられていた死者を弔うことだった。
カシュートはその戦乱で孤児となった女の子だった。初めて彼女がヒッタの前に姿を現したのは、食料の施しをしていたときである。他にも孤児は何人かいたが、ヒッタは親の仇の国の人であったから、孤児たちはヒッタから最低限の施しだけを奪い取るように受けたら皆いなくなってしまった。一人の女の子だけが残っていた。見かけで言えば五歳か六歳の女の子はじっとぼんやりとした目でヒッタのことを見上げ、その場から離れようとしなかった。
一人残る彼女に対し、ヒッタは言葉が通じないことを知りながらも語りかけた。
「あなたはお友達のところに行かないのですか」
「お名前は何といいますか」
「私はヒッタといいます」
「ここにいていただいても構いませんが、あまりながく居ると仲間外れにされてしまいますから、ほどほどにしてくださいね」
女の子は何も言わずにじっとヒッタの顔を見ていた。やがて日が傾き、薄暗くなった頃、ヒッタが女の子の背中をそっと押してようやく彼女は帰っていった。だが翌朝に女の子はまた訪れ、ヒッタから離れない。それを何日か繰り返すうちに、女の子は教会で寝泊まりをするようになった。相変わらず言葉は通じず、彼女は何も話さなかった。この子は喋れないのかもしれない、可哀想に。それほどまでに辛い思いをしたのだろう、とヒッタは憐れんだ。
ある日、ヒッタは考え女の子に言った。
「いつまでも名前がないのは不便ですね」
相変わらず言葉は通じていないが彼女の耳はたしかに聞こえていて、雰囲気で意思疎通をすることもでき始めていた。彼女は首を傾げ、ヒッタを見上げている。
「カシュート、というのはどうでしょう。神の国の言葉で、虹、という意味です。あなたに明るい未来がありますように、と思いました」
きょとんとする女の子に、ヒッタは指で示しながら、カシュート、カシュート、と繰り返した。女の子はヒッタの口の動きをよく見て、真似をする。
カ、シュー、ト。
「そうです、そうです。ああよかった。ちゃんと伝わるものですね。私は、ヒッタ、です。ヒッタ」
ヒッ、タ。
初めて会ったときからずっとぼんやりとしていた目が、この瞬間にすっと焦点を得て澄んだ。
それからカシュートは布が水を吸うが如くヒッタの国の言葉をどんどん覚えていった。今まで話せなかった分を取り戻すように、ヒッタが一を話す間に九を話した。生来は活発で口が達者な娘だったのだろう。毎日その日にあったことを身振りも交えながら語った。その内容から、砂漠の世界の一端をうかがい知ることができるので、カシュートが話すことはヒッタにとっても有益な情報だった。
カシュートにとってヒッタの手伝いが日常の中心となったのは必然である。しかしそれは他の孤児たちにとっては面白くないことだったようで、カシュートはしばしば泣かされて帰ってきた。事情を訊けば、「あの子たちがヒッタ様の悪口を言ったのが許せなかった」という。喧嘩なのかいじめなのか、境目は曖昧でヒッタには判別がつかないが、目を赤くして憤る様子にカシュートという一人の人間の燦然とした意思を見た。
「あの子たちはヒッタ様に水や食べ物を恵んでもらっているのに、お礼を言わないんです。それどころか、奪われたものを取り返しただけだって」
「私は感謝されたくてやっているわけではないのですよ。目の前で怪我や飢えで苦しむ人がいたから手を差し伸べている。それだけです」
「でも、それはあの子たちがお礼を言わなくていい理由にはなりません」
「感謝は強制するものではありませんよ。器に注がれた水がやがて満ちてこぼれるように、心が満たされたときに感謝の心は自然と出てくるものです」
カシュートは納得がいかないようで、憮然として黙り込んでしまった。その様子を見てヒッタは愛おしさを感じずにはいられない。自分のために憤ってくれる人がいるというのは心が温かくなるものだ。ヒッタは咳ばらいをして、言った。
「……私の行いは神様が見守ってくれています。だからどのような仕打ちを受けるとしても、私が虚しいと感じることはありませんよ」
カシュートはヒッタに顔を向けて訊ねた。
「神様って何ですか?」
「そうですねえ。空のうんと高いところから私たちの行い、善い行いも悪い行いも全てを見ていらっしゃる方ですね」
「見てどうするのですか?」
「いつか我々が死んだ後にその魂を救うかどうかを判断されるのです。生前の行いを見て決められるのですよ。善い行いを積み重ねた者は永遠の平和と安らぎを、悪い行いを積み重ねた者は見放されて、永遠の苦しみを味わうことになります」
カシュートはじっと考え込んでから言った。
「神様は、今苦しんでいる人のことを見つけたらどうするのでしょうか。見ているだけなんですか? 助けてくれないんですか?」
「奇跡を起こして助けてくださることはありますが――」
ヒッタは宙を見て言葉を選ぶ。ここが神学校であれば、奇跡とは善い魂を持った人に対してもたらされるものです、とためらいなく続けられたのだが、カシュートにそう告げることは適切ではなかった。どうして彼女は孤児になってしまったのか、という問いに対する答えとしてこれほど不適切なものがあろうか。
「残念ながら常にそうというわけではありません。だから、神に代わり、我々は互いを助け合うのですよ。神は我々に善い行いをする機会を与えてくださっているのです」
この答えはカシュートにとって納得のいくものではなかったらしく、難しい顔をして考え込んでいる。小さな唸り声が続いた後に、結論が出たようだ。
「それだったら、私は神様よりもヒッタ様の方がずっといいです」
カシュートは小さい体で力いっぱいヒッタに抱き着いた。ヒッタの顔の近くにカシュートの頭があり、触れていないのに熱が伝わってくる。
「私を助けてくれたのはヒッタ様だから」
「……神と私は比べるものではありませんよ。でも、私がカシュートの助けになれているというのは、嬉しいものですね」
神に心を込めて祈りを捧げるとき、心の内が温かくなることはあるが、このようにはっきりと熱を感じることはない。カシュートは神が自分に与えてくれた恵みなのだろうか。……呪われた地で生まれ育ち、信仰も持たない娘を、神が?
迷った末に、ヒッタはカシュートの体を抱き返すことはできなかった。代わりに頭を撫でて立ち上がる。
「そろそろ夕飯にしましょう。支度を手伝っていただけますか?」
「はい」
カシュートはヒッタの心の内を知らないが、神には見透かされていることだろう。ヒッタは今自分がここにいる理由――すなわち、砂漠の地に神の教えを広めることと、この地で命を落とす兵士たちの魂が正しく救われるよう手助けすること――を強く意識する。神よ、私はあなたから与えられた使命を忘れておりません、という呟きは宣誓であり、言い訳でもあった。
ヒッタとカシュートが共に暮らし始めてから三年が経った頃、内戦が起こった。きっかけはいくらでもあって、小さな諍いは常にあったが、今回はいくつかの出来事が相乗して大火となって街を包み込んだ。
国軍はヒッタに安全な場所へ避難するよう呼びかけたが、ヒッタはそれを断った。カシュートを伴うことはまず許されないとがわかっていたからだ。
「今この瞬間にも傷つく人々がいるのですから、私も使命を果たさなければいけません」
嘘ではないが真実の全てでもない言葉に、伝令に来た兵士は敬礼で応えた。
足音が十分に遠ざかったのを確かめてからヒッタは言った。
「カシュート、もう出てきても大丈夫ですよ」
隣の部屋から出てきたカシュートの顔は青ざめていた。
「ヒッタ様、どうすれば」
「ここは戦場から遠い場所ですから、今すぐ危険になるということはないでしょうが時間の問題でしょうね。一番良いのはあなたが一人で親方さんのところに行くことですが」
カシュートはヒッタの服の裾を強く掴んで首を横に振った。
「そうですよね。あなたが私を捨てていくことなどできませんね。頑固なのも困ったものです」
「一緒に行きましょうよ」
「それは危険です。私がいることで、他の方々を危険に晒すことになってしまいますから」
復讐に燃える独立派の者にとって、ザカタストラ国の者は等しく敵である。その敵を匿う者は同郷の者であっても許さないだろう。それほどまでに両者の確執は根深いものだった。
「ここまで戦いが大きくなった以上、戦の炎は全てを焼き尽くすまで止まらないでしょう。その後にこそ我々の役目があります。今は隠れてこの場を凌ぐしかなさそうですね」
そのためには、この教会はもうもぬけの殻であると偽装しなければならない。慌てて逃げだしたように見せかけるには、屋内は多少荒れている方がそれらしく見えるか――。
そう考えて、戸棚の何を倒すかを選ぼうとした折、巨体がヒッタとカシュートのいる部屋に飛び込んできて、ぜい、ぜい、と荒い息をこぼしていた。身を固くしたカシュートの前にヒッタが立つ。影になっているせいで闖入者の顔は見えないが、何者であれ、ヒッタがカシュートを守らなければならない。
「ヒッタ様、こんなところで何をしているんだ。早くこっちに来い」
砂漠の言語で口早に訴える声の主は、この辺りで大工たちを取りまとめている親方だった。この三年の間にヒッタが信頼を獲得した砂漠の民の一人である。
あっけに取られるヒッタの手をカシュートが引く。
「私が行ってよいのですか」
「当たり前だ」
「……ありがとうございます」
ヒッタの礼を聞き遂げる前に親方は飛び出して行ってしまった。ヒッタはカシュートに手を引かれるまま人々が避難する場所に連れていかれた。
狭い建物の中でヒッタたちは身を寄せ合い固まって争いが鎮まるのを待っていた。壁越しに聞こえる外の音はくぐもっていた。荒々しく地面を蹴って走る音、怒号、断末魔、誰かの体がヒッタたちの建物の壁に打ち付けられる音。それらが聞こえるたびに人々は身を固くして早く事が収まるのを待ち望んだ。
ヒッタは人々を守る側ではなく、むしろ人々に守られる側だった。砂漠の民たちは自らの体でヒッタを囲んで隠した。カシュートもまだ小さな体でヒッタを覆い隠そうとしている。彼らはもし暴徒たちに見つかったとしてもヒッタの存在だけは隠し通す覚悟でいた。
息苦しいほどに体同士を密着させ合うなかでは、人々の鼓動が生々しく聞こえて、体温は汗ばむほどに高いことがわかる。外で何か音がするたびに人々の体は震え、熱はいっそう高まり、恐怖が伝染する。このような人々の感情を耳で感じながらヒッタは考えていた。
一体自分は何をしているのか。祈りを捧げて神に助けを求め、必死に命乞いをして、そして神は奇跡で以て誰を守ってくれるというのか。
やがて外は静かになった。長い時間だった。人々が外に出ると、そこには血の痕が道や壁などに数多くあり、見えている範囲に死体が一つあった。まだ少年に近いような若者だった。
そのようなことがあった後も、建物に隠れることが何度かあった。ようやく事態が収束したのは七日後のこと。事件の首謀者だという男たちが三人、広場で国軍の手によって斬首されたのだ。こうして街は一時の平和を得た。
ヒッタは国軍の駐屯所で市井の人々に関する報告を終え、日が傾きかけた頃にようやく教会に戻ると、カシュートが飛び込むように抱き着いてきた。
怖かった、という。嗚咽をヒッタの腹に押し付けて肩を震わせている。
このとき、ヒッタは自分の心に気付いた。神は教えに従わない者を救わない。故に神はカシュートを守らず、カシュートに神の奇跡が訪れることはない。カシュートが神の教えに従えば、神はカシュートを救ってくれるだろうか。そうすればいつか彼女が命を落としたとしても神はカシュートの魂を――そこまで考え、脳裏にカシュートの言葉が生々しく蘇った。
――神様は、今苦しんでいる人のことを見つけたらどうするのでしょうか。見ているだけなんですか? 助けてくれないんですか?
狭い建物の中で人々に守られていたときのことを思い出す。ヒッタが神に祈る傍らで外では少年兵が殺され、カシュートを含む人々は間近に迫る死に恐怖しながらも奮おうとしていた。緊張と興奮で高揚する人々の体温はそれぞれが火の玉のように熱かった。
二度とあのようなことはあるべきではない。カシュートを死なせてはならない。カシュートを守れるのは神ではなくヒッタ自身であることを自覚し、それが自分の使命であると見出した。ただしそれは神に与えられたのではなく、ヒッタ自身が担うことを決意したものである
ヒッタはカシュートの震える体を抱き締めた。
9.
「このようなことがあって、私はカシュートを守らなければならないと強く自覚したのでした。他にも色々な出来事がありましたが、私とカシュートの関係を決定づけたのはこの件だったと言えるでしょうね。いかがでしょう、お二人の目から見て、私の行いやカシュートの存在とは神の御心に反するものでしょうか」
語りに一区切りを付けたヒッタはアシュナールとマハグールに反応を求めた。マハグールは考えをまとめるのに時間がかかるだろうから、先にアシュナールが口を開く。
「お話しいただきありがとうございました。私のような若輩者が言うのもおこがましいことですが、とても大変な経験をなされてきたのですね」
カシュートは会釈でアシュナールの話を聞く意思を示した。それを受けてアシュナールは続ける。
「カシュートさん自身は神の存在についてはどのようにお考えなのでしょうか」
話を振られてカシュートは小さく頷き、緊張を含んだ声で答えた。
「はい。何もしてくれないなら存在しないのと同じではないか、と考えた時期もありましたが、今は私なりにその存在を感じています。何か物事を判断するとき、心を整理するとき、そういうときに神様はどうすべきと仰るだろうか。それを考えたときに、道をお示しいただけるように感じています」
「わかりました、ありがとうございます」
アシュナールは今の話を踏まえてヒッタの方に体を向けた。
「お話を伺う限り、カシュートさんは洗礼を受けていませんね。彼女に洗礼の機会を与えることは考えなかったのでしょうか」
「もちろん考えましたよ。しかし、今の教団が彼女の洗礼を認めるとは思えませんでした。むしろ彼女に対して執拗な審問を行う可能性の方が頭を過ぎりました」
ヒッタは珍しく苛立たし気な表情を浮かべた。
「ヒッタ様は教団を信用していないのですか」
「正しいことならば万人に障害なく受け入れられると無邪気に信じられるほど、この二十年は穏やかなものではなかった、と言っておきましょうか。残念ながら、ザカタストラ国の砂漠の民に対する視線は、正しく実像を捉えたものではありません」
「私の常識と、ヒッタ様の視界に見えたものを擦り合わせると、そのような疑念をお持ちになられるのも理解できます」
ヒッタは礼でアシュナールに応えた。
さて、いくらか時間は稼いだが、マハグールはどうだろうか。アシュナールが横目でマハグールを見遣ると、目が合い、彼はばつの悪そうな顔をしていた。
「……とりあえず、お二人が私の想像したような堕落した関係ではないということは理解しました。私の早とちりで不快な思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした。今の私には、何か意見を申し上げるにはまだ知識や経験が足りていないようです。これからこの地で、多くのことを学ばせていただければと思います」
苦々しい表情で言った言葉がどこまでヒッタとカシュートに本音として受け止められていたかは測りかねるところではあるが、アシュナールはマハグールの迷いを嗅ぎ取り、苦笑した。
朝の祈りと食事を終えた後、実習という名の奉仕活動が始まる。初日は午前に老人の世話、午後に民家の屋根の掃除をした。ヒッタとカシュートは地元の人々と世間話をしながら手を動かし、「困ったことがあれば何でも仰ってください」と告げて回っていたそうだ。辺りを歩くなかでは地元の人々と数多く出会った。道で会って立ち話をした人々も含め、皆例外なくアシュナールとマハグールの顔を見て体を強張らせ、ヒッタが砂漠の言葉で何かを言うのを聞いたら警戒を解き、笑顔で何かを言ってきた。「頑張れよ、とのことです」とカシュートが翻訳してくれる。
それから二週間を過ごしてみてはっきりと理解したことは、ヒッタは地元の人々から十分すぎるほどの信頼と尊敬を得ているということだった。二十年にわたるヒッタの地道な貢献の積み重ねの賜物である。一方で、ヒッタは地元の人々に神の教えを説くということはあまり取り組んでいないようで、マハグールはその点を不満に感じているようだ。
夜、あてがわれた部屋で寝る支度をしているときにマハグールが唐突に言い出した。
「ヒッタ様のやっていることの意義はわかる。信頼がなければ話を聞いてもらえない。それはそうだ。わかる、わかるけど、本来の使命を疎かにしてしまっては本末転倒ではないか。どんなに畑を耕したって種を蒔かなければ芽は出ない」
アシュナールはマハグールの方に体を向けて返事をした。
「まあまあ。信頼関係を築くというのは十分すぎるくらいやった方がいいことなんだと思うよ。一度神に見放された畑には二度と芽が出ないものだから」
「しかしだからといって、神だって種のない畑に芽を出させることはできないだろう」
「おや、君にしては珍しく不敬なことを言うじゃないか」
「揚げ足を取るのはやめたまえ。まったく、君といいヒッタ様といい、近頃の教団には随分と呑気な人が増えたものだ」
そのとき、戸を叩く音がして、カシュートが現れた。
「お二人は仲が良いのですね」
「外まで声が漏れていましたか。騒がしくしてしまい申し訳ありません」
「いいえ。賑やかなのは良いことですよ」
「して、何か御用でしょうか」
「しばらくお二人を働かせすぎたので、明日は自由に過ごしていただいて構わない、とのことです」
「そうですか。お気遣いいただきありがとうございます。ではお言葉に甘えて、明日はゆっくりさせていただきましょう」
マハグールも会釈で礼を伝えた。その様子を受け止めてからカシュートは提案した。
「それで、もしよろしければなのですが、明日は私がこの街をご案内しましょうか?」
「よろしいのですか」
願ってもない申し出だったので、アシュナールはマハグールの意思も確認せずにカシュートの提案を受け入れてしまった。横目でマハグールを見ると、悪くない話だとばかりに頷いていたので、アシュナールはほっとする。
「ええ。あなた方には私たちのことをもっとよく知ってほしく思いますので」
「何かお考えがあるようですね」
「はい。私もあなた方には期待しているのですよ」
カシュートは初日にヒッタがアシュナールたちに向けたのと同じ目で二人を見つめた。カシュートも神を介さず二人に対して直接祈りを捧げている。
「それは、どのような期待でしょうか」
「はい。私は、誰の目も憚ることなく、これからもあの人の隣に居続けたいのです。かつてあの人が私を救ってくれたように、私も生涯を賭してあの人の助けになりたい。しかし今のままでは、いつか必ず私の存在があの人の枷になってしまう。そうであるなら、私はいつかあの人のもとを去る選択をしなければいけなくなる。でも、それはしたくないのです。私はあの人と共に居続けられる未来を望み、そこに至る手掛かりはあなた方ならもしかしたら、という期待を抱いているのです」
真摯な眼差しでそう言われてしまっては、アシュナールとしては背筋を伸ばさざるを得ない。珍しくマハグールも異を唱える雰囲気はない。だから、代わりにアシュナールがはっきりと言葉にして確認する。
「カシュートさん、あなたはヒッタ様を愛していらっしゃるのですね。彼のことを養父としてではなく、一人の男性として」
カシュートの目は揺るがない。
「はい」
「彼は身も心も神のものですよ」
「存じております。何度も彼にはそう言われましたから」
「ヒッタ様はあなたの気持ちには応えられませんし、それでもあなたがヒッタ様に心を向け続けることは、彼を苦しめるものであるかもしれません」
「たとえば私が彼のもとからいなくなって、私が彼のことを忘れ去ってしまえば、彼は幸せになれるのでしょうか」
アシュナールは目を瞑り、カシュートを失ったヒッタの姿を想像してみる。たとえヒッタが幾重もの神の恩寵を受けて、死後に永遠の幸福と安寧が約束されたとしても、彼は深く悲しむだろうということが容易に想像できてしまった。
「……なれないでしょうね。あなた方二人の関係は深くなりすぎた」
「そうです。だから、私たちは共に前に進むしかないのです」
ヒッタとカシュートが望む未来とは決して安易に訪れることはなく、幾多もの困難が立ちはだかり、結局望みが叶わない公算の方が大きいものである。
アシュナール個人としては、率直に応援したいと思った。ヒッタとカシュートが互いに抱く感情は、純粋で美しく、決して堕落したものではないと感じたからだ。しかしマハグールはどうだろうか。
目線を向けると、マハグールはこれ以上とないくらい眉を顰め、深々とため息をついた。
「正直に言って、私は今、とても混乱しています。半月ほどが経って、さすがに私もあなたが誠実な方だというのはよくわかった、認めます。たとえ洗礼を受けていなかったとしても、あなたは神の御心に沿った心構えと行動を実践する方で、尊敬に値する方です。しかし、今あなたが行った告白とは明確に教会の教えに反するものだ。だけど、だけど、僕にはあなたの気持ちが間違いだと断じることができない。神がどうしてこのような愛情をお認めにならないのか、言葉で説明することができない。そして、そのように戸惑ってしまう自分自身が一番わからない」
それきりマハグールは黙ってしまった。
カシュートは寂しげに微笑み、おやすみなさい、と告げて部屋を出ていった。
灯りを消して暗くなった中でアシュナールはマハグールに呼びかける。
「神は我々に越えられない試練は与えない。一緒に考え続けよう」
「……そうだな」
不貞腐れたような声を聞いて、アシュナールはマハグールのことを微笑ましく思った。あの頑固で潔癖な男が随分丸くなったものだと。
翌日、アシュナールとマハグールはカシュートの案内で街中を散策した。
今は実質的にザカタストラ国の勢力下に置かれたこの街は、二本の交易路が合流する場所であることもあって、多くの人々と物が集まる。訪れた初日にはしっかり見る余裕もなかったが、改めて散策してみると、その人の多様さに驚く。見慣れたザカタストラ国の軍人と商人、地元の砂漠の民、これらに加えて、遠方から訪れた異国の商人は衣服や風貌が異質である。カシュートから説明を耳打ちされるまで、その異国の人々が商人であることすらわからなかった。
そのような人々が特に多いのは交易品の検品を行う検問所である。門の内外に商人と荷物が列を成し、順番を待っていた。門の両脇には、はっきりとした遮蔽物はないものの、一定距離ごとに監視の兵士がおり、逸脱を許さないという姿勢を示していた。
多くの人が集まるところに近付くほどに、カシュートは言葉を発することを控えるようになっていた。事前にカシュートがザカタストラ国の人々の前ではザカタストラ国の言葉を話さないようにすることは告げられていて、その意図も理屈では理解していたが、はっきりと肌で理解したのは以下のようなやり取りがあったときである。
検問所で検品の様子を詳しく見学させてもらっていた折、カシュートの馴染みの商人が現れたらしく、その人はカシュートに親し気に砂漠の言語で話しかけた。聞き取れた単語を繋げて察するに、こんなところで会うなんて驚きだ、といった内容のものだった。それに対し、カシュートも同じ言語で返事をする。今日は一日アシュナールたちの案内をしている、という内容なのだろう。検品の順番を待つ間、二人は世間話で盛り上がっていた。
その様子を見ていた衛兵がアシュナールとマハグールに耳打ちをした。
「現地の連中にはくれぐれもお気を付けを」
親切心と猜疑心が同居した声である。アシュナールは視線を動かさずに言った。
「あなたはなぜそのように思われるのですか?」
「連中は今でこそ表立って反抗するような真似はしませんが、腹の内では何を考えているやら。わかったものではありませんな」
「それはあなたの憶測ということでしょうか」
「まあ、明確な証拠はありませんがね。しかし、ここで監視をしているとね、ねっとりと感じるんですよ。媚びへつらうような視線の奥に、燻り続ける憎しみの残火を。もっとも、我々も連中に感謝されるようなことばかりをしてきたわけではないですからね。我々を親や兄弟の仇と考える連中がいてもおかしくはありません」
「確かに、ありうる話です」
「たとえば、ほら、そこの」
衛兵はカシュートと商人を顎で示し、続けた。
「今だって何の話をしているかわかったもんじゃありません」
「……彼女は教会の手伝いをしてくれている人ですよ」
「ヒッタ様のところのですよね。あの方も人が良いですからね。にこにこと手伝いをしてくれれば善人だと信じてしまわれる。でも彼だって連中が腹の内で何を考えているかまでは把握しておられないでしょう。今だって、ほら、探ってきた情報を仲間に伝えているのかもしれない」
邪推もここまでくれば噴飯ものであるが、衛兵にとっては生じうる現実の一つなのだろう。
「そのようなことをここで口にされて大丈夫なのですか。我々の言語を理解する異郷人だっているでしょう」
「そういうのは特別な訓練を受けた一部の者だけで、隣には必ず将校や派手な身なりの商人がいたりするものです」
「共に過ごす時間が長ければ自然と互いの言語を覚えるということもあるのでは」
「さて、どうだか。私ももうここに来て五年になりますが、連中の言葉なんてさっぱりわかりませんよ。畜生に芸を仕込むが如く徹底的にやらないといけないのではないでしょうか」
冷ややかに吐き捨てるのにはアシュナールもマハグールも返事をしなかった。衛兵も流石に言い過ぎたことを自覚したらしい。わざとらしく咳ばらいをして言葉を重ねた。
「あなた方はまだここに来たばかりだからご存知ないでしょうが、現実とはこのようなものなのです。教団の教えは我々の魂の救済に役立つでしょうが、その門戸がここの連中に開かれるかどうかは、正直怪しいものだと思いますよ」
「ご忠告いただきありがとうございます。全ては神の御心のままに」
「……ええ、そうですね。我々のような下賤の者の言葉よりも神の言葉の方が正しいものですからね」
しばらく前に知人と別れていたらしいカシュートは、アシュナールたちから少し離れたところで待っていた。アシュナールは衛兵に聞こえるように、カシュートに向かって砂漠の言語で挨拶をした。カシュートはその言葉に振り返ったかのように振舞い、手を挙げて応えた。
「貴重なお話をありがとうございました。行こうか、マハグール」
「そうだな」
アシュナールもマハグールもなるべく衛兵の顔を見ないよう努めていたが、それでも去り際に視界の端に映った顔は憮然として強張ったものだった。一刻も早くこの場を離れたがっていたのはカシュートではなくマハグールの方だった。
10.
カシュートの案内で散策をした日以降、マハグールは口数少なく、痛みを堪えるようしながら黙々と奉仕に努めていた。ひと月ほど経ったある日、マハグールは意を決してカシュートに申し出た。
「私にあなたたちの言葉をちゃんと教えていただけないでしょうか」
その日の夕食の席で、ヒッタの口から砂漠の言語を教わることの許可を得ることができた。マハグールは深々とカシュートとヒッタに頭を下げた。
「アシュナールさん、あなたはどうしますか」
ヒッタから目線を向けられ、アシュナールは背筋を伸ばし、頷いて答えた。
「私も、ぜひ」
「承知しました。では、お二人は明日から午後の時間はカシュートから言葉を教わるようにしてください。基本が身に付いたところで私からもお話ししたいことがあります」
はい、とマハグールは言葉を噛み締めるように返事をした。その様子をアシュナールは呆気に取られたように見つめていた。ここまでマハグールは思い詰めていたのかと。
「しかしマハグールさんが申し出てくるとは意外でしたね。こういう話はアシュナールさんの方から出てくると思っていましたから」
「そうなのですか」
「ええ。この地で神の教えを広めることを考えるならば、ここの人々の言葉を知ることは避けて通れないことです。彼らに目線を合わせ、彼らの言語で語りかけるというのは、意思疎通の第一歩です。マハグールさん、先日のことがよほど堪えましたか」
ヒッタの口ぶりは穏やかであるが、マハグールに向ける目は二十年分の疲労を帯びていた。マハグールはその重みを正面から受け止め答える。
「はい。ですが、誤解を恐れずに言えば、私は砂漠の民の全員が善良な人間であるとは思っていません。神の教えを拒み、我が国に仇なす者もいるでしょう。恨みと憎しみに染まって抜け出せない者もいるでしょう。あるいは自ら堕落する者だっているでしょう。しかし、全員がそうというわけではないことを私は知りました。
一方で、極めて残念なことに、我が国の者……おそらくほとんどすべての者は、我々を憎む者たちと同じ目で砂漠の民を見下し、憎んでいます。実を言えば私もその一人でした。人の話や噂話だけで愚かな存在であると決めつけて拒絶する。そのような断絶がある中で、どうして神の教えを広めるということが成り立ちましょうか」
ヒッタは目を瞑り、深呼吸をしてからゆっくりと目を開き、マハグールを鋭く睨みつけた。
「この地に暮らす人々は神に救われるに値するものでしょうか」
「神の救いは全ての人々に等しくもたらされるべきものです。この世に生きる全ての人に神の救いを得る資格が等しくあります」
「それは聖書のどこに書かれたものでしょうか」
「私の知る限り明言されたものではありませんが、我々の信じる神は人の行いを見て審判する以前に、あらかじめ救う人と救わない人を選別するということはしないでしょう」
「根拠のない言説である以上、あなたに異論や反論を述べる者も現れるでしょうね」
「そうだと思います。しかし最後には必ず神が我々に正しい道をお示しになることでしょう」
マハグールは静かに力強く言い切った。それから、ふっ、と息を吐き、続ける。
「ここに来た初日にあれほど失礼なことを申し上げた私がこのように考えを改めているのですから。正しい道が示されれば皆それに従いましょう」
「それはあなたが善き魂の持ち主だからですね」
「私はより善くあろうと心掛けているだけです。まだまだ道半ばです」
ヒッタは肩の力を抜き、カシュートに言った。
「明日からよろしくお願いしますね。あなたがいない分のことは気にしなくて結構です」
「はい」
アシュナールは一連のやりとりを不思議な心地で見ていた。マハグールのことは最初から純粋な心の持ち主であると思っていたが、今この瞬間、マハグールは柔らかくて温かくて優しい光を帯びているように見えた。その光はヒッタとカシュートを癒していた。これは神が人を救うということなのか、あるいは人が人を救うということなのか。いずれにせよ、精神が救われるということの何たるかを垣間見た心地でいる。マハグールと自分の違いを強く自覚してしまう。
このようにしてアシュナールとマハグールはカシュートから砂漠の言語を教わるようになった。この言語はカシュートが普段他の人々と交流するときに使っているものであるから、必然的に日常会話に関するものが中心となる。砂漠の言語には文字もあるようだが、そちらについてはカシュートはあまり明るくないようだった。仕方ないので、耳で聞いた砂漠の言語をザカタストラ国の言語で文字に置き換えて書き記す。それでも言葉を集めていくうちに、一定の法則性や特徴が見えてきて、それを踏まえてアシュナールとマハグールが砂漠の言語を発してみると、カシュートに意図が伝わっていることが明らかになり、二人は成長の手応えを感じられる。
ある程度慣れてきたら、教会の近辺で暮らす人々とも話をしてみる。カシュートが事情を説明し、アシュナールとマハグールがたどたどしく挨拶や自己紹介をしてみる。それに対する反応には個人差があったが、話をした人々は概ねゆっくりと一音ずつはっきりと丁寧に発音しながら、二人が言ったことに対して返事をしてくれた。それを受けてアシュナールとマハグールは言葉を返していく。慣れていくと冗談のひとつやふたつも言えるようになってきて、それに笑ってもらえるというのは素直に嬉しいものだと二人は感じた。
カシュートから言葉を習い始めてから約三ヶ月が経ち、十分に慣れてきたところでアシュナールたちは再びヒッタの手伝いを始める。三ヶ月前は逐一ヒッタやカシュートに翻訳してもらわないと意味がわからなかったやり取りが、今は二人を介さずとも理解できることに、二人は自身の確かな成長を実感した。奉仕の中で、ヒッタが砂漠の言語でアシュナールとマハグールに指示を出し、それに砂漠の言語で応える。その様子に人々はほとんど例外なく驚きと感心で応えた。
それから二ヶ月ほど経ったとき、ヒッタはアシュナールたちを呼んで言った。
「もうお気づきかと思いますが、言語とはその地域の文化や価値観を強く反映します。その人々にとって関心の深い事柄ほど多様な表現でそれぞれの違いを表そうとします。同時に、彼らの価値観や常識にないものについてはそれを言い表す言葉自体が存在しません。これらの傾向から、我々の文化と彼らの文化の差異を意識してみてくださいね」
ヒッタの言うことは、アシュナールとマハグールも薄々感づいていたことだった。たとえばアシュナールたちの言語では、砂埃、と一言で言い表す事柄についても、砂漠の言語では一晩かけて堆積したものと、地面の低い所で舞っているものと、突風が吹いて空全体を覆うものとではそれぞれ表現が違ったからだ。アシュナールたちの言語ではこのような区別はなされないが、砂漠の地では必要な区別だった。
その観点で人々とのやり取りを続け、振り返ってみると、一つの恐ろしい可能性が浮かび上がってくる。言葉にすることも憚られるような仮説はアシュナールたちの心の内に生じた瞬間から無視しがたいものとなる。お互い同じことを考えているらしいということが察せられた時、アシュナールとマハグールは夜中にひそひそ声で確認をし、やはり同じことを考えていたことを確かめた。その手応えを以て、二人はヒッタに申し出てみる。
「ヒッタ様、確認したいことがあります」
「伺いましょうか」
ある日の晩のこと。就寝前の落ち着いている時にまとまった時間を貰い、アシュナールとマハグールはヒッタのもとを訪ねた。ヒッタは落ち着いた様子で、二人が至った仮説を受け止める用意があることを示した。それはつまり、ヒッタ自身も辿り着いた答えであることを示している。
意を決し、アシュナールはその仮説を口にする。
「砂漠の言語には『神』に相当する言葉が存在しないのではないでしょうか」
ヒッタは、ゆっくりと、頷きで応えた。
「ええ。少なくとも私の知る限り、彼らの言葉にそのようなものはありません」
「どうして」
「我々の価値観や文化においては神の存在は絶対ですが、彼らにとってはそうではない、ということです」
マハグールは青ざめた顔を手で覆ってしまった。アシュナールはヒッタと話を続ける。
「彼らは神を知らないのではなく、彼らにはそもそも神が存在しないのですね」
「私がこの地での布教に苦労している最大の理由です」
「適当な言葉や比喩で部分的に置き換えることはできても、神とは何か、という全体像を彼らの言葉で言い表すことができないのですね」
「神の全体像を捉えることは我々の言葉でも神学者たちが苦労していることですが、この地ではさらに困難になっているのです」
ぽつりとマハグールが口を挟む。
「困難どころの話じゃない、不可能だ」
「おや。では諦めますか、マハグールさん」
ヒッタに問われてマハグールは身を起こした。
「いいえ。我々が諦めるということは、彼らが神の救いに至る道が閉ざされるということです。それはあってはならない」
「しかし今、あなたは不可能だと言いました」
「撤回します。必ず、彼らが神の救いに至る道は存在するはずです」
「それは確信ですか? それともただの願望ですか?」
ヒッタに問われてマハグールは答えられなかった。
一連のやり取りを見ながらアシュナールは別のことを考えていた。
そもそもなぜ自分たちは神の教えに従うのか。教えに従う結果得られる実利は信仰の目的ではないが、理由の一部にはなっている。たとえば死後のこと。生から死へは一方通行であるが故に、死後のことを知る者はいない。故に人は死を恐れる。しかしそこに、神の救済の可能性が示されることで、人々は安心して死に臨むことができる。ここで肝心なのは、真実として神の救済が行われるかどうかではなく、そういう可能性を信じられるかどうかである。死への恐怖は砂漠の民も変わらないものだろう。では、彼らはなぜ恐怖に発狂せずにいられるのだろうか。ここ数ヶ月を過ごしてみて思うのは、自分たちと砂漠の民の間に人間の感情の面で違いはないということだった。彼らにも当たり前のように喜怒哀楽の感情があり、死を恐れる気持ちはある。しかしザカタストラ国の人々が死を適切に恐れるのと同じように、ここの人々もまた死を適切に恐れているように見えた。自分たちが神の救済を信じることで死への恐怖を緩和させているのと同じように、砂漠の民にも死への恐怖を和らげさせている何かがあるのではないか。それは一体――。
「アシュナールさん?」
ヒッタに問われてアシュナールは我に帰る。
「申し訳ありません、考え事をしていました」
「そうですか――さて、砂漠の民に我々が信じるところの神が存在しない、というのは我々からするととても絶望的なことです。だからこそ、私はカシュートに可能性を見出しているのですよ。彼女の中にあるものは何でしょうか。今はまだ神の一側面かもしれませんが、奇しくも彼女は我々の言語を知るなかで神に触れつつあります。これは我々にとって大きな希望であると考えております」
ヒッタの言葉を聞いて、マハグールの顔が明るくなる。ヒッタが頼もしげに頷くのを見て、アシュナールは思索の続きに耽った。
砂漠の言語ではなくアシュナールたちの言語でこそ神に触れられるというのであれば、砂漠の民に自分たちの言葉を教えればいい。安直であるがもっともらしい発想はマハグールによって提案され、「どうぞ試してみてください」というヒッタの許可を受けて実践される。
マハグールは喜々として、日々の奉仕で関わる人々に対し、新しい言語を学ぶことを提案するが、それに従う者は一人もいなかった。わざわざ時間と手間をかけて自分の常識を変える意義がわからないからだ。神の教えの素晴らしさを説こうにも、的確に言い表す言葉がないため、マハグールは漠然と良いことがあるという程度のことしか主張することができない。そのうち相手の方が飽きて去っていく。マハグールは無力感に包まれ下唇を噛む。それから顔を上げて気を入れ直し、次の機会に望みを託す。このようなことの繰り返しだった。
「アシュナールさん、あなたは手伝ってあげないのですか」
「求められていないものを押し付けても受け入れられるはずがないですし、むしろ我々の印象を悪くしてヒッタ様が積み重ねてきた信頼を損なうことの悪影響の方が大きいように思います」
「良く言えば冷静、悪く言えば情熱に欠けるといったところですね」
ヒッタは苦笑した。すぐにヒッタの表情は険しくなる。その様子を横目で確かめてアシュナールは言った。
「マハグールのやっていることは、かつてヒッタ様もやられたことなのでしょう?」
「ええ。私は結局諦めてしまいましたがね」
「どうすべきだったとお考えですか?」
「……まずはアシュナールさんの考えから聞きましょうか」
「そうですね」
アシュナールは、マハグールの努力が実っていないことを無駄だとは思わない。ただ効率が悪いだけである。マハグールが気付いているかどうかはわからないが、年老いた人ほど早く話を切り上げようとする姿勢が見られた。
「子供でしょうね。まだ価値観や思想が凝り固まっていないうちに教育するのがよいでしょう。そして、学んだ言葉で何が得られるのかという実利を明らかにする。実際、この辺りでは我が国の軍人や砂漠を行き交う商人の傍らには報酬の良い仕事の口があることでしょう。この辺りで地道に稼ぐよりもよっぽど豊かな暮らしができる可能性が高い。親も自分の子が高給の仕事を得て、家族全体が潤うと考えれば、協力的な態度を見せるのではないでしょうか」
「あなたは随分現実的なものの見方をするのですね。率直に言って、それは教義のなかから出てくる発想ではありません」
「父の影響なのだと思います。私の父は軍人でした。私が神学校に来る以前には父から現実から目を逸らさないことの重要性を、繰り返し繰り返し、説かれていました」
「そうですか。面白いですね」
マハグールが通りかかった老婆に熱弁を振るっている。マハグールには老婆の戸惑った表情が見えているだろうか。見えていたとしても、それはマハグールからすれば老婆が乗り越えるべき試練であるというように見えているのかもしれない。
「それで、ヒッタ様のお考えは」
「だいたいあなたに同意ですよ。一点違うところを挙げれば、私には自分に許された時間と労力を子供にのみ注ぐという選択ができなかった、という点でしょうか」
「ヒッタ様とカシュートさんの二人だけでは手が足りませんか」
「ええ、全然足りません。国軍は治安の維持という役割に徹し、商人は通り過ぎるだけで、地元の人々は皆自分の暮らしで精いっぱい。つまり、ここには暮らしに困っている人々の助けになる者も仕組みもないのですよ。そういう人々の助けに奔走していると、時間ばかりが過ぎていきます」
「そこまで切迫しているのであれば、賛同者を増やすべきだったのでは」
「もっともですね。しかしそれができなかった理由は、先も言った通り、ここの人々は自分の暮らしで手一杯だというのが一つ。そして、ザカタストラ国の人々――教団と国軍、どちらもです――の無関心さが一つ。これまで私なりに打てる手は尽くしてきたのですよ。それでも結果はこの通りでした」
「だから、我々のような若輩者に期待せざるを得ないと」
「はい。既存の常識に囚われない異分子なら何かものすごいことをやってくれるのではないかと期待しているのですね」
「神に祈らないのですか」
「神は私の願望を望むままに叶えてくれる装置ではありませんからね。必ずしも実現が約束されているわけではない理想に挑む者の背中を支えてくれる存在です。神に見守られていると信じているからこそ、私は二十年も試行錯誤を続けてこられたのです」
とうとう老婆はマハグールの制止を振り切って去ってしまった。俯くマハグールの口が動いたのが見えた。その声は音としては届かなくても、アシュナールの心には聞こえた気がする。どうして。アシュナールは、哀れなマハグール、と胸の内で呟いた。
砂漠での実習が始まってから間もなく一年が経とうという頃、顔なじみの老人が一人亡くなった。老人の息子から報せを聞いたヒッタは、「そうですか」と寂しげに答えた。
ヒッタを先頭にアシュナールたち四人は老人の自宅へ行く。遺体は既に薄麻の白布で包まれた後だった。ヒッタが亡くなったときの様子を訊ねると、息子は「自分が今朝起きたときには亡くなっていて、眠っているようだった」と答えた。ながい人生を存分に生き抜いて満足とともに逝ったのだろう、とのこと。息子夫婦や孫たちは悲しみを感じていながらどこか晴れやかな顔をしていた。
「そうですか。私も彼には生前とてもお世話になりましたからね。安らかな眠りを願います」
「こちらこそ。最期までヒッタ様の世話になりっぱなしです」
日差しが弱くなるのを待ってから遺体を集団墓地まで運ぶ。墓地は街の端のところにあり、横に並ぶ数列の墓標が目印だった。その向こう側は果てしなく続く砂漠である。眼前の地平線にじりじりと沈みゆく夕日が一日の終わりを告げている。その光を受けて墓標たちは無限大の長さの影を手前側に伸ばしている。それはさながら聖書で語られる終末の光景のようであるが、これから滅びゆくというよりは既に滅んだ後の静けさを伴うものだった。黄昏の空には雲ひとつない。穏やかな風が低く砂埃を舞わせている。
墓地の一角に穴を掘り、遺体を横たえる。そして遺体の上に砂をなるべく多く被せ、風で遺体が露わにならないようにする。用意した墓標を遺体の頭部の上あたりに刺し、ここに故人が永遠の眠りに就いていることを示す。
ヒッタは墓前で砂の小山を見下ろし、手を組んで祈りの言葉を告げる。ただしそれは砂漠の言語でなされるもので、死者の魂が永遠の不滅と安寧が約束された世界に運ばれることを願う文言だった。聖書に書かれ、アシュナールとマハグールが神学校時代に散々唱えた祈りの文句は一言もそこにはない。そのような祈りの言葉の最後に、ようやくザカタストラ国の言語で短く神への祈り――死者の魂の救済を願う祈り――が告げられた。その場にいた皆が死者の行く末が安らかなものであることを心から願った。
長い沈黙の中で行われた祈りの末にヒッタは静かに言った。
「私の務めは以上です。皆さん、お疲れさまでした」
その言葉を合図に場の空気はいくらか解れたものとなり、それぞれが故人の思い出を口にする。
その中で困惑していたのは一番年の若い孫で、年は五歳か六歳といったところか。孫は自分の手をつないでいた父親に訊ねた。
「じいちゃんはどうなっちゃったの」
それに父親はゆっくりと言葉を選びながら答えた。
「冥界の門っていうのがあってだな、じいちゃんはその門を通って、いつまでも幸せに暮らせるところに旅立っていったんだよ」
「ふうん……」
孫がそれで納得できたかどうかは、アシュナールにはわからない。ただ、砂漠の言語を学び、この地の人々に神がいないことを知って以来、度々耳にする単語を聞き逃さなかった。
冥界の門。
ヒッタやマハグールに言わせれば、冥界の門とは土着信仰の一種であり、神の救済の代替手段として機能する概念だろうとのことだった。しかし、アシュナールにとっては決して聞き流せるものではなかった。
もう七年も前になるのか、とアシュナールは内心で呟いた。
砂漠の地で熱病にかかり、生死の狭間で見た荘厳な白銀色の門のことを思い出す。その白銀色の門と、砂漠の民が共通して寓話として語る冥界の門とは、果たして無関係であるだろうか。
これは砂漠の地のことを調べ続けてようやく見つけた手掛かりであった。アシュナールは興奮を決して表情には出さないものの、心の内で思考が加速するのを抑えることはしなかった。七年がかりでやっと見つけた手掛かりなのだから、当然であると言えよう。
冥界の門、それは人が死んだ後に赴く場所であり、生前に善行を積み重ねた良い魂は冥界の門の先で安らかな眠りについていつか現世に再生し、そうではない悪しき魂は門を通ることを拒絶され現世への再生の道が閉ざされるという。砂漠の民にとって魂とは循環し流転するものであって、神の審判を経て永遠の救済あるいは断罪に至るものではない。
このように冥界の門についてはしばしば語られる一方で、黒髪の少女やそれに類するものへの言及は一切得られていない。人々の語りの中では冥界の門それだけが存在しているのだった。
墓地からの帰路、集団の最後尾でアシュナールは黒髪の少女のことを懸想する。当時八歳のアシュナールから見て四つか五つか年上に見えた少女は、今ではもう年下の少女ということになる。
不揃いな毛先が眉にかかって揺れていた。そのすぐ下にある瞳はあらゆる光を吸い込んで暗く、深淵で、その奥には森羅万象があり、澄んで清らかな宇宙がある。その瞳に映るアシュナールとは幼い子供で、怯えつつ魅せられていた。もっと見ていたい、と願ったところで少女は顔を上げ、幼いアシュナールの後方を見て指差した。下から見上げた少女の横顔、首から顎、鼻先に至る輪郭を思い描く。何度も何度も空想に描いたものである。細くきめ細やかな白肌で、唇はぷっくりとした紅色をしていた。鼻腔は呼吸に合わせて小さく揺れていた。耳は黒髪にかかってほとんどが隠れていたが、垣間見える肌色にはしっかりとした凹凸があった。そしてその少女が、すっ、と伸ばした腕には濃灰色の衣の裾がかかっていた。肘と手首の半ばあたりからようやく現れた腕はほっそりとしていて、指差す爪先は迷いなく伸びて一点を指し示していた――。
アシュナールは己の中の永遠の恋が今なお新鮮な情感を伴うものであることを確かめた。
11.
二ヶ月の長期休暇は、休暇という名ではあるが休まる暇はない。ヒッタとカシュートのもとで学んだ教会から神学校まで移動に長い時間がかかることもあるが、ザカタストラ国ですべき準備が数多くあるからだ。
砂漠の地に信仰を広めるにはどうしたらいいか。二人が辿り着いた答えは、学校を作ることだった。
「僕は実家に戻って物品や人員の調達をしてくるから、君は教団側に話を通しておいてくれ」
マハグールと神学校の校門前で別れ、馬車ががらがらと音を立てて遠のいていく様子を見送ってから、アシュナールは懐かしの寄宿舎に戻る。高等部の生徒が一時的に滞在するための共用の部屋があるので、しばらくはそこで寝泊まりをする。
アシュナールが寄宿舎の敷地に足を踏み入れると、初等部や中東部の親しい後輩たちにたちまち囲まれて、挨拶に始まり、砂漠での実習はどうだったか、この一年の間に何があったか、半月後の行事での出し物を見てほしい、今朝は苦手な食べ物が出てひどい目に遭ったなど、それぞれが好き勝手なことを言う。寄宿舎の部屋についてほっと一息つくまでにアシュナールは消耗してしまったが、皆が元気そうでよかった、とも思った。
校舎へ行き、顔なじみの教師たちに挨拶をして世間話をする。学校側は特に変わったことのない一年だったとのこと。一方、アシュナールとマハグールの一年は教師たちに驚きと関心を以て聞き遂げられた。
高等部の実習担当で、アシュナールたちの実習先の調整を行ってくれた教師にも、その日のうちに挨拶をすることができた。
「大変だったでしょう」
「確かに楽ではありませんでしたが、私もマハグールも覚悟して臨んだことです。その分得られるものも多い一年でした」
「レポートは一週間程度でまとめて提出してください。それで、今後はどのようにする予定ですか?」
「砂漠の子供たちを対象として教育の機会、要するに学校を作ろうと考えています。これはヒッタ様の了解も得ております」
「なるほど、それは……大変な計画ですね」
その教師は顎に手を当てて考え込んでしまった。計画の仔細を語るよりも、今は話を先に進めてしまいたい。
「砂漠の地で神の教えを広めるためには、現地の言葉で布教するのではなく我々の言葉で行う必要があるという結論に至りました。この一年でわかったことのひとつは、砂漠の民が使う言語には神を言い表す言葉がないということです。つまり彼らにはそもそも神というものが存在しない。砂漠の民が神の存在を信じ祈れるようになるためには、我々の言語を通して神の存在を知ることが必要なのです。そのためには腰を据えてしっかりと我々の言語を学ばせる機会が必要です」
「なんと……」
「我々が今後そのようなことを推し進めることを教団として認可し、教団に後押しいただきたいのですが、いかがでしょうか」
「確認ですが、私や神学校の承認ではなく、教団全体としての承認が必要なのでしょうか」
「はい」
「そのように考える理由を話してください」
教師の座る姿勢がいくらか前のめりになり、目が真剣なものとなる。アシュナールは背筋を伸ばし、彼と同等の真剣さで言葉を口にする。
「砂漠の民に我々の言語を教えることは、砂漠の地での布教を推し進めるうえでの重要な布石となる一方で、我々の国の者と砂漠の民との間の断絶を決定的なものとしてしまう危険性も考えられるからです」
教師は深く頷いてアシュナールに続きを促した。
「現在、両者の間には相互に不理解に基づく断絶があるというのが実態です。ザカタストラ国の国軍は武力で砂漠の地を治安の維持を図り、原因や経緯が何であれ、結果的に多くの砂漠の民を殺害してきました。そして、それに対する報復の結果、砂漠の民もまた国軍の兵士を数多く殺してきたという歴史もあります。ここ数年は目立った争いもなく穏やかに見えるかもしれませんが、それは武力を背景とした抑圧によるものに過ぎず、積もり積もった憎悪が噴出して争いに至るということがいつ起こったとしてもおかしくありません。そのため、国軍の兵士たちは砂漠の民を潜在的な敵と見做し、猜疑の眼差しを向けざるを得ない状況に置かれています。
その状況下で、砂漠の民が我々の言語を学び、我々の言葉を理解できるようになったとしたら、何が起こると考えられるでしょうか」
しばらく考え込んだ末に、教師は言った。
「……わかりません、何でしょうか」
「最も重大な影響の一つは、砂漠の民による諜報活動が容易になることです。彼の地は、当然のことですが、国軍の兵士よりも砂漠の民の数の方が圧倒的に多い。今は言葉が通じないのが当然であるから、個々の兵士たちが何気なく口にしたことから情報が洩れる可能性というのは考えなくてもよかった。しかしその前提が崩れるとなると、兵士たちは今まで以上に気を張り詰め、さらに強い猜疑の眼差しを砂漠の民に向けざるを得なくなります。どこで何をするとしても、自分たちの会話が盗み聞きされるかもしれない、と身構えてしまう。彼らのそのような態度が神の教えを広めるうえでは障害になりかねないものであることは、多くを語らずとも伝わるでしょう。砂漠の民に我々の言葉を教えるということは、このような側面も併せ持つものなのです」
「なるほど、理屈はわかりました。治安の維持に障る可能性があるため、あなた方の計画に対しては国軍からの反発が考えられる。だから、それに対抗するために教団としての承認が欲しい、と」
「平たく言うと、そういうことです。繰り返しになりますが、砂漠の地で我々が神の教えを広めるためには、前提として、我々の言葉を教え伝えることが必要です。これは絶対です」
「確かに、そういう話であれば私の裁量の域を超えていますね。上層部に問い合わせてみましょう」
教師はアシュナールに返事をしたが、晴れない顔である。責任のある立場としては色々な可能性を考えなければいけないのだから、当然の反応であろう。教師がじっくりと考え込むのを待ってから、アシュナールは言葉を付け足す。
「――そもそも砂漠の民とは神の教えを広めるに値するものか、否か」
はっ、と教師が顔を上げる。
「こればかりは実際に砂漠の民と関わりを持ってみないと実感として伝わらないことかと思いますが、少なくとも私とマハグール、それからヒッタ様の印象で言えば、彼らは神の救いを受け取るに値する人々です。彼らも我々と何も変わらない、同じ人間です。喜怒哀楽の感情があり、日々を生き延びるために仕事をして飲食をする。親やきょうだいがあり、愛すべき人を愛する。そして、親しい人が亡くなれば悲しむ。我々が行い、感じ、思うことを、砂漠の民も同様に行うのです。その点で言えば我々とまったく差がない人々です。そうであるにも関わらず、彼らには神が存在しないが故に、彼らは神の救済を受けられない。この不平等は正されるべきものだと我々は考えます。少なくとも、砂漠の民とは悪魔と契約を結び堕落した人種である、というのは現実を知らない者の歪んだ視線であると言わざるを得ません」
時と場合を選んで使う強い言葉はとてもよく効くものだ。教師は無意識的に持っていた己の偏見を自覚し、反省する。
「あなたにそう言われてしまうと、反論のしようがありませんね」
「もしも彼らが本当に神の教えを受け付けないのであれば、六百年前の時点で既に、古の聖者の呼びかけにも応えなかったことでしょう」
「わかりました。あなた方はこの一年、とても良い経験をしてきたようですね」
「このような機会を与えて下さった先生、そして神に深く感謝を申し上げます」
アシュナールは手を組み、祈りを捧げる――第一段階は、これでいい。
翌日以降は神大学校の図書館に向かう。あらかじめ出しておいた利用申請は滞りなく承認された。
審問のために訪れたのはもう五年も前のこと。あのときに敷地内の全てから感じた言葉にし難い威圧感は、教団という組織の権威が放つものだったのだと、今ならわかる。その威圧感に怯え震えるのではなく、うまく利用する側に回ることがアシュナールには必要である。驕ることなく、卑屈になることもなく、堂々と振舞うだけでよい。アシュナールの行く道とこの教団の目指すところは同じ場所に通じているはずなのだから。そう思えば、神大学校の敷地の中は慣れ親しんだ神学校の中と大差ないはずだった。
図書館の入り口で利用許可証を提示し、注意事項に関する説明を受けてから館内に入る。そこは神学校の図書館よりも比較にならない広さであり、ザカタストラ国全ての図書や文献が収められているというのも納得できるものだった。五階までを貫く吹き抜けの先には高い天井があり、死後に行われる審判を描いた天井絵が描かれている。天井絵を囲むように配置された天窓から外の明かりが射し込み、館内に直接の光を当てるのを避けつつ十分な採光の役割を果たしている。
館内にまばらにいる人たちは大学生か研究者だろう。アシュナールに目を向けることなくアシュナールの前や脇を通っていく。その人の流れに従い、アシュナールも奥へ足を踏み入れていく。
アシュナールの目的は二つあった。そのうちの一つは、砂漠に関する記録や伝承、考察を探ることである。
砂漠の民が信じるところの冥界の門とは何なのか。なぜそれが死後の魂の行先であると語られるようになったのか。それはいつ頃に成立したものなのか。そのような伝承が成り立つような砂漠の歴史とは。そして、自分が見たあの白銀色の門と何か関連はあるのか。もし仮に白銀色の門と冥界の門が同一のものであり、そしてあの記憶がただの夢ではないとするならば、教団の語る神という論理体系では説明し難いものが存在するということになり、教義の根本が揺らぐことになる。
閲覧室で書物のページをめくり、ノートに重要な事柄や気付いたことを書き綴りながら、アシュナールは考える。
――自分は教団によって常に監視されている。教団は自分が砂漠について調べていることを知っている。知ったうえで教団は何もしてこない。つまり自分は教団によって泳がされていて、何かを成し遂げることが期待されている。それは砂漠に関する事柄で、且つ自分のみが到達しうる領域である。それには幼いあの日に経験したことが関連していることは疑いようがない。そうであるならば、白銀色の門、あるいは黒髪の少女という存在が教団の関心に掠ったことになる。教団は自分の経験がただの夢と断じられるものではないという相応の根拠を持っていて、それは砂漠に派遣された末端の司祭程度では知りようのないものである。
アシュナールがこれまでの人生で見聞きしたこと、自分に働いた力学、それらを総合的に踏まえて考察すれば、ほとんど確信に近い予想が生まれる。それはすなわち。
教団は冥界の門の存在を知っていた。
教団が公式的に砂漠の地と接点を持って以来、六百年もの間、ただの一度も砂漠への布教が試みられなかったということはあるはずがない。布教を試みるのであれば砂漠の言語を理解することは必須である。そのために砂漠の民と接触していけば必ず冥界の門という語を耳にする。そういう記録は、確率論から言って、存在する可能性の方が高い。そして、冥界の門に関し、教団はこれをただの迷信と判断しきれないだけの別の根拠を握っている。しかしその一方で、冥界の門とは何か、という直接的な問いに対する答えも明らかではない。だから、アシュナールに探らせている。
気付けば手が止まっていた。迂闊に考えたことの全てを文字にしてしまうと、自分の足元が掬われるかもしれないので、今考えたことは頭の片隅に強く刻むに留め、文献研究の続きに取り掛かる。しかし日は既に傾きつつある。暗くなるまであともう少し、アシュナールは書物に目を走らせ続ける。このようにしていれば、いずれ二つ目の目的も達せられよう。
それから一週間が経ち、アシュナールはついに目当ての文献に行き当たる。
それは神歴千四百年代、現在から三百年ほど前の国軍の通信記録だった。当時、ザカタストラ国と砂漠の民の王国は戦争状態にあり、その記録は国軍が捕虜を尋問した結果を報告したものである。文書の中で捕虜は「いずれ我々は冥界の門から再生し、お前たちに復讐を果たすだろう」と呪いを吐いたという。同様の呪詛の言葉は他の捕虜からも発せられていたらしい。書簡の余白に、冥界の門とは砂漠の民の死生観を表す概念である可能性がある、というメモもあり、これはその報告書を書いた者の判断だろう。
アシュナールはこの記述をノートに書き写した。アシュナールが今、これを書き写したこともどこかで見られているのだろう。しかし、それでいい――アシュナールは顔色に出すことなく、次の文献に手を伸ばす。
翌日のこと。
昨日に引き続き砂漠に関する書物を読み解いていた折、アシュナールの隣で椅子が引かれ、人が座る気配があった。その人も書物を開き、目を落としている。アシュナールは意に介することなく、自分の作業に集中する。見ずとも誰が座ったかはわかるから、確かめるまでもない。
「学校の暮らしには慣れたかね」
威厳を過剰に装ったその声は五年前に聞いたものと変わらないものだった。
「はい、おかげさまで」
アシュナールは書物に目を落としたまま、凪いだ心で返事をした。
声の主はハスターラ枢機卿である。五年前の審問で人々の中心に座っていた人であり、この図書館の主であり、そして教団の知を束ねる人物である。
「お前が見たという白銀色の門、あれは私も冥界の門とやらに相当するものであると考えている。しかし黒髪の少女に関する記述は私の知る限り、どこにも記されていない」
「そうですか」
「今後はこの件に関し気付いたこと、仮説として浮かんだことの全てを私に報せよ」
「どうして」
「神の背中の向こうを見ようとしているのはお前だけではない、ということだ。真に神なるものがあるとするならば、虚像が崩れた後にも確かな秩序が残るだろう。私は私の信仰を確かめたいのだ。同時に、私がそのようにすることが教団の未来にも通じるものだと考えている」
この時初めてアシュナールはハスターラ枢機卿の方を向いた。険しい横顔であるが、その瞳は澄んで彼方を見つめていた。
アシュナールの視線を感じながらハスターラ枢機卿はぽつりと言った。
「ところで、お前たちは砂漠の地に学校を作りたいそうだな」
「はい」
「カシュート、と言ったか。ヒッタが隠し育てた砂漠の娘をここに呼び、その信仰を確かめること。これがお前たちの学校づくりを認める条件だ」
「なぜ」
「とぼけるな。お前も理解しているだろう。砂漠の民に我々の言葉を広めたいのであれば、奴らに言葉を教えても無害であることを証明せねばなるまい。あの娘を差し置いて他に無害の証明として相応しい者などおらん」
「……あなた方であれば、彼女が既に神の教えを体現しつつあることを知っておられるのでは」
「神の御前で証明しなければ意味がない」
アシュナールは、あの正方形の部屋の中心にカシュートが立つ姿を想像する。砂漠の地に神の教えを広めることを実践するならば、教えが正しく伝わったかどうかは検証されなければならない。しかしそれが果たして今でよいものか。少なくともヒッタはカシュートが審問されることを快く思っていない。
それを見透かしたようにハスターラ枢機卿は言った。
「審問などいつやっても同じだぞ。善き魂は来年も善き魂であり、悪しき魂は来年になっても悪しき魂であることに変わりはないのだからな」
アシュナールは困ってしまった。アシュナール自身はカシュートの審問を認めるかどうかを決定する立場にはない。それはヒッタとカシュートが決めるべきことだ。そのような迷いすらもハスターラ枢機卿は見抜いて言う。
「神の教えに従うならば身も心も神のものである。一介の信徒の好き嫌いなど神が斟酌するべくもない。カシュートという神なき地で生まれ育った娘の信仰は本物か否か。論点はそこだけだ」
そう言ってハスターラ枢機卿は立ち上がった。去り際に彼はこう言い残した。
「お前たちの遊びに付き合ってやるのは教団の親心と思え」
再び一人になったアシュナールは天井を仰いだ。自分に力があるなどとうぬぼれたことはないが、教団という権威の前ではヒッタとカシュートが積み重ねてきたものもまた塵芥に等しいのだということを思い知ってしまった。
12.
長期休暇を終えてアシュナールたちはヒッタとカシュートが暮らす教会に戻ってきた。一年前はアシュナールとマハグールの二人だけだったが、今回は彼らに加えて、学校づくりの手伝いの役目を受けた若い使用人を四名ほど伴っている。使用人たちは緊張した面持ちで不安を隠せずにいるが、慣れてもらう他にない。
「戻りました」
「お帰りなさい。教団は我々の取り組みを認めたのですね」
「はい。無条件に、というわけではありませんが」
アシュナールはハスターラ枢機卿から預かった封筒をヒッタに渡した。金の蝋で封じられているのを確認したヒッタの顔が曇る。
「これは」
「カシュートさんの審問の日時と場所が書かれています。ヒッタ様の同伴も可能であると伺っています」
「……なるほど。それが条件というわけですか。事前に私たちに確認を取ってほしかったのが本音ですが、あなた方も何か言える状況ではなかったのでしょうね。相変わらず教団らしいやり方です」
「いずれ必要なことだったとお考え下さい」
マハグールは使用人たちに持参した物品の搬入を指示していた。カシュートはマハグールたちの手伝いをしながら、横目でアシュナールとヒッタの様子を伺っている。その時、ヒッタはカシュートの視線に気付くと、穏やかな笑みを返した。
「そうですね。いつかはやらねばならないことでした。ついにその時が来たということなのでしょう」
「神の御心に適ったものであるならば何も恐れる必要はありません。正しいことがあるがままに正しいと認められるだけです」
ヒッタは何も答えず、ただじっとアシュナールの顔を見つめていた。口に出してはいけないことばかりが頭に浮かんでいるのだろう。どうか堪えてほしい、とアシュナールは心の内で訴えかけた。皆、神を恐れながら神の愛を求めているだけなのです。各々が自分は神の寵愛を賜るに値する存在だと証明するために、より清廉に、より潔白であろうとしている、ただそれだけなのです――。
一日の準備を挟んだ翌日、ヒッタとカシュートはザカタストラ国へ発っていった。
二人を見送った後にマハグールは険しい表情で言った。
「何も間違っていないはずなのに、何かを間違えているような気がしてしまう。これは一体何なのだろうな」
「というと?」
「まず、砂漠の地に神の教えを広めることは正しいことだろう。そのために僕たちは学校を作り、言葉や思想をこの地の子供たちに教えると決めた。これも必要なことのはずだ。一方で、僕たちの言語を広めることは治安維持上の困難を伴うことも理解できるし、やり方次第では神の教えを広めるという目的が遠のいてしまうというのは、確かに君の言う通りなのだと思う。この問題に対処するためには、砂漠の民が我々の言語を習得しても安全であることを示す必要があり、その証明にはカシュートさんがうってつけだというのも、その通りだ。事実、彼女という存在があったから僕もこの地の人々が神に救われるに値すると信じられている。だから、今回の審問も、僕が彼女の信仰を正しいものだと判断したのと同じように、教団の上層部にも正しいものだと判断される、ただそれだけのことのはずなんだ。それなのに、どうしてこうも胸騒ぎがしてしまうのか」
「君はよくない未来を想像してしまっているのだね」
「そうだ。この二十年、ヒッタ様はカシュートさんのことを正式には教団に報告していなかった。どうせ内密に把握されているであろうことは知りつつも、カシュートさんという稀有な事例を教団に報告しなかった。なぜか。存在を表沙汰にすれば今回のような審問が行われることは明らかだったし、その結果、彼女が何らかの形で傷つくと考えたからだ。僕も、彼女が無傷で済むとは思っていない。だけど、しかし……それは神がヒッタ様とカシュートさんに与える試練であり、彼らは試練から逃げるのではなく、試練を乗り越えられるよう励むべきではないのか。そして、彼らなら十分に乗り越えられるはずだとわかっている。だというのに、なぜ、僕は。どうしてこんな……」
アシュナールは、横目で見たマハグールの瞳が潤んでいるのを見て、教団は彼のような人こそ尊重し大事にすべきだと思った。アシュナール自身も、これからカシュートが被る痛み、ヒッタが苛まれる無力感に共感することはできる。しかし、共感する苦しみに屈して自分の使命を曲げられるかと言われれば、アシュナールにはもうそれはできない。
「マハグール。カシュートさんが審問を受けることと、受けないこと。どちらが神の御心に適っているか。僕らは僕らの使命を忘れるべきではないよ。考えろ、神の教えは何のためにある。我々の神は、正しいことのために犠牲が生じることについて、仕方ないことだから割り切れと仰るものだろうか。考えよう。神は乗り越えられない試練は与えない」
「……そうだな。今は僕たちのできることをやろう」
ヒッタとカシュートの背中はとっくに視界から消えていたが、二人の影が長らくアシュナールとマハグールの目に残っていた。それを振り払い、マハグールは率先して教会に戻っていく。作業を進めていた使用人がマハグールに次の指示を訊ね、マハグールはそれに応える。アシュナールは、神の作った世界とは不自由が多いものだとつくづく思う。
教室には礼拝堂を転用した。元々あった木箱の椅子はそのまま使用することとして、机は廃材を使って作った。
アシュナールたちはヒッタに代わり地元の人々への奉仕活動をするなかで、子供がいる人たちを中心に学校について説明をする。しかし一通りの説明を受けても、親たちには子供に教育を施す意義が今ひとつ理解できていないようだった。
「子供に勉強させれば高い給金の仕事に就いて暮らしが楽になりますよ」
「でも今すぐってわけじゃないんだろう」
「そうですね、十年はかかるかと」
「その間の家の仕事はどうなるんだ」
「それは」
「うちはぎりぎりの暮らしをしているんだ。子供を遊ばせている暇なんかないんだよ。なあ、それよりもヒッタ様はいつ帰ってくるんだい」
「一か月後くらいかと」
「そうかあ。まあお仕事なら仕方ないな。あんたらも頑張りなよ」
そう言って彼らはアシュナールとマハグールの肩を叩いて去っていく。そのようなことの繰り返しであった。「先は長いな」「そうだな」とアシュナールとマハグールは互いを慰め合う。最初から楽に事が進むとは考えていなかった。
しかしそのような努力もまったく無駄ということはなく、一部の親は聞く耳を持ってくれるものである。
「じゃあ仕事が終わったら子供をそちらに向かわせてみますね」
そう言って実際に子供を教会に寄越してくれる。
午後を過ぎてしばらく経った頃、教会に幼い兄妹が現れた。アシュナールとマハグールは立ち上がって迎え入れる。兄妹は促されて木箱の椅子に並んで座った。マハグールは目に見えて気合を入れており、これからどうやってこの二人を神の教えに導こうかと考えている。しかし兄妹はきょろきょろと辺りを見回して何かを探しているのだった。
「何か気になるものでもあるのかな?」
マハグールが努めて優しい声色で問いかける。すると妹の方が舌足らずな声でこう訊ねるのだ。
「カシュートおねえちゃんは?」
その問いに対しすぐに答える者はいなかった。
マハグールが助けを求めるように目線をアシュナールに向けるが、それに構わずアシュナールはしゃがんで妹に目線の高さを合わせて言った。
「カシュートさんはお仕事でしばらく帰ってこられないんだよ。ごめんね」
「ふうん……」
アシュナールは想像する。こういうとき、ヒッタ様とカシュートさんならどう振舞うか。彼らの心の中には常にこの地で暮らす人々の存在があり、その人々が優先事項の上位にあった。ヒッタ様なら、カシュートさんなら、きっとこうするだろう――という振舞いを想像し再演してみせる。
「寂しいね。だから代わりに僕たちがお話をしてあげよう。君たちが少しでも、今日はここに来てよかった、と思えるように」
アシュナールは周囲の椅子と机を除けて空間を作る。その一角に座って胡坐をかく。それから兄妹を手で招き、アシュナールの手が届くくらい近い場所に座らせた。
んん、と咳ばらいをしてから、宙を見遣って考える。この感覚はアシュナールの知っている何かに似ていて、すぐに思い出した。寄宿舎での夜のこと、初等部の一年生で親元を離れて間もない幼い子を慰めていた時に感じたものに似ているのだ。それを思い出し、心の内にヒッタとカシュートを浮かべれば、自ずと自分のすべき正しい振舞いは明らかとなる。
「これはずっと遠い昔、君たちのお父さんとお母さんの、お父さんとお母さんの、そのお父さんとお母さんたちが生まれるよりも、ずっとずっと昔のお話です。ここから西の方にある国から、一人の若者が仲間を引き連れて、砂漠へ旅をしにやって来ました。その人は手に一本の立派な杖を持っていたのです――」
古の聖者が聖杖で地面を叩いた時、地下で暮らす人々はどんな気持ちがしただろう。どんな気持ちで聖者の一行を見送っただろう。これまでザカタストラ国の視点で語られてきた物語を砂漠の民の視点に反転させて語ってみる。ただし難しい言葉は避けなければいけない。神という概念を使わずに古の聖者の旅を説明しなければいけない。しかしそこで起こった苦難と感動は、言葉が違えども同じ印象として分かち合うことができるはずのものである。砂漠の旅の険しさ、暗い穴から現れた人の様子、あるいは何世代も地下で暮らした末に初めて見た地上の眩しさ、掘った穴から真水が湧いたときの喜び。聖者を見送る人々はどんな思いで手を振り感謝を叫んだことか。
苦労して話し終えた時にはもう外が暗くなりつつある頃だった。アシュナールは話すことに夢中になっていて、すっかり兄妹の様子に注意を払うことを忘れてしまっていた。二人は呆けたように固まって何も言わない。少し経ってからようやく二人の意識は現世に戻ってきたようで、兄も妹も興奮したように「すごい」「面白かった」と頬を上気させてアシュナールに言ってくれた。
「楽しんでくれたみたいでよかった。今日はもう遅いから、続きは今度。またおいで」
幼い兄妹はアシュナールに手を振って教会を出て行った。壁にもたれかかっていたマハグールが身を起こし、感心したように言った。
「君には子守の才能まであるようだな」
「そうみたいだね。我々はたぶんこういうことから始めていかないといけないのだろうな」
「せっかく苦労して教科書を持ってきたのに使うあてがなさそうだ」
「いずれ必要になるだろうさ。物事には順番がある、それだけだ」
「しかし、やり方が見えただけでも上出来というものだ。演劇に仕立て上げるのが一番伝わりやすいか」
「マハグール、君は台本を書けるのか?」
「まさか」
「僕もだ」
「では、一緒に頑張ろうか。まったく、中等部の頃にやった演劇の出し物の経験がこんなところで活きるとは思わなかった」
アシュナールは立ち上がり、伸びをして凝り固まった体を解した。その背中をマハグールが軽く叩いて労ってくれる。
一ヶ月と少しが経った頃、ヒッタとカシュートが戻ってきた。その時にはすっかり教会の様子は様変わりしていて、ヒッタもカシュートも驚きを隠せずにいる。
礼拝堂だった場所は祭壇がその名残である以外、何もない空間になっていたからだ。椅子も机も別の場所に移されていて、代わりに部屋の隅の箱には細々とした道具がしまわれている。
部屋の中には子供たちが十人ほど膝を抱えて座って、祭壇前のアシュナールとマハグールを見ている。二人は大きく体を動かしながら芝居をしていた。マハグールが連れてきた使用人のうち二人が子供たちの傍らに座って世話をしており、もう二人がヒッタとカシュートに気付いて出迎えに現れる。
「これは一体」
「説話を演劇にして伝えていらっしゃるのです」
悪の竜に扮したマハグールが断末魔と共に倒れ、子供たちは、わっ、と歓声をあげた。
「こうして若者は洞窟に囚われていた姫を救い出したのでした。めでたしめでたし」
アシュナールとマハグールが並んで一礼したところで劇は終わった。子供たちはそれぞれ姿勢を崩して楽にするが、ヒッタたちから見る限り、子供たちは満足といった表情をしている。
「では最後にお祈りをして終わりにしましょう」
子供たちはアシュナールたちの振舞いを真似して、手と手を組む。マハグールが砂漠の言語ではなくザカタストラ国の言葉で、今日も一日平穏であったことを神に感謝する祈りを口にする。ただし、子供たちが追い付いてこられるよう、ゆっくりと丁寧に発音し、一節ごとに区切っている。慣れている子は円滑に発音し、不慣れな子は使用人たちが手伝いながら音を真似する。
「ではまた明日。お父さんとお母さんの言うことはよく聞くように」
子供たちは元気よく返事をして立ち上がる。それから振り返ってみて、そこにヒッタとカシュートがいたことに気付き、さらに明るい声で二人の周囲に集まった。ヒッタもカシュートも膝を折って目線の高さを子供たちに合わせ、「ただいま」など声をかけている。二人は目元を綻ばせており、その様子をアシュナールもマハグールも微笑ましい心地で見守っていた。
一人の女児がカシュートに何か言ったらしい。その言葉はアシュナールには聞き取れなかったが、カシュートはみるみるうちに眉を垂れて涙ぐみ、嗚咽を漏らす代わりにその子を抱き締めた。カシュートの突然の変容に子供たちも戸惑っている。ヒッタはカシュートの肩を抱き、耳元で何か呟くと、カシュートが小さく頷くのが見えた。それからヒッタはカシュートの手を引いて立ち上がり、アシュナールたちに申し訳なさそうに頭を下げて寝室の方に行ってしまった。
「ヒッタ様もカシュートさんも長旅で疲れていますから、ゆっくり休ませてあげましょう」
子供たちは自分が何か悪いことをしたのではないかと不安げであるが、何をどうすることもできない。一人、また一人と教会を後にして、とうとう最後の一人もいなくなった。
アシュナールたちは後片付けをしたが、その間誰も何も話さなかった。しかし心の内はお互いはっきりとわかっていた。カシュートに一体何があったのだろうか――気がかりではあるが、その答えはいずれ本人たちの口から語られるはずであるから、余計な詮索をするべきではない。
このようにして緊張は数日間続くものと覚悟していたが、不穏の原因はその日のうちに語られた。夕食時、カシュートは疲れて眠っているとのことで、彼女を除く全員で口数少なくぼそぼそと食事をした。それが終わった後で、ヒッタがおもむろに「皆さんにお話があります」と呼びかけた。
ヒッタは全員が椅子に座って自分の方を見たのを確かめてから、咳ばらいをひとつして、教団本部での審問の結果について報告をした。
「カシュートが聖女として認定されました。私も、幼かったカシュートを見出し育てた功績が認められ、聖女の養父の座を賜ることになりましたよ」
使用人たちはたちまち顔を明るくさせて、「おめでとうございます」と口々に言ったが、自分の主人たちの顔色が暗いのを見て、ただちに口を噤んだ。
「……ありがとうございます。これからしばらく忙しくなるかと思います。皆さんには色々ご迷惑をおかけするかと思いますが、どうぞよろしくお願いしますね」
アシュナールも、マハグールも、何も言うことができなかった。
カシュートが聖女の称号を得ることは、この場にいる皆にとって完璧で、申し分のない結果だった。カシュートの信仰は公に認められただけでなく、教団の信徒が模範とすべき理想であると位置づけられた。これにより砂漠の民がカシュートの後に続くための礎が築かれた。聖女という立場と権威を得たカシュートの言葉は以後力を持ち、彼女が望めばその通りに砂漠での布教も奉仕も推し進められることだろう。聖女の言葉は神の意思を代弁するものであるからだ。たとえばカシュートが「学校を作って子供たちに神の教えを伝えたい」という意思を示せば、その通りに多くの人と金が動き、現実のものとなるだろう。かくしてヒッタの二十年来の献身が報われ、カシュートはいつかアシュナールたちの前で赤裸々に告白した通り、ヒッタの役に立つことができるのだ。
改めて、これは非の打ち所がない、完璧で、申し分のない結果である。最上の結果であるが故に、この栄誉を辞退することなど許されるはずがない。教団の思惑通りに事が進んでいる。カシュートの清廉な振舞いに対する評価が聖女の称号というのは、あまりに度が過ぎており、他意があると推測せざるを得ないからだ。教団はカシュートという存在を利用して何かを成そうとしている。それが何であれ、カシュートの意思を無視したものであることに違いない。
アシュナールは神に問う。これもすべてあなたの意思なのでしょうか。カシュートさん……否、これからはカシュート様と呼ばなければならない人の、一人の人間としての恋慕の心を踏みにじり、政治の道具とすることが、あなたの意思なのでしょうか――。
その後は大した会話もないまま解散となり、アシュナールとマハグールは部屋に戻る。二人きりになれたことで、ようやくマハグールは口を開くことができた。
「僕は、あの二人にどうなってほしいと思っていたのだろうな。まさか信仰を捨てて、一組の男女として夫婦となり、子を得て生涯仲睦まじく暮らして欲しいと、無意識のうちに願っていたとでもいうのだろうか」
アシュナールはマハグールが口にした光景を思い浮かべてみる。それはとても幸せな空気に満ちたもので、神への信仰以外に欠けているものは何もなかった。
「それも、一つの幸せの形だったのかもしれないね」
「神に背いて幸せになどなれるものか!」
マハグールは立ち上がり、身を震わせた。青ざめた顔も、荒い息も、上下する肩も、その全てが澄んでいて美しいものだとアシュナールは思う。マハグールの中には常に神がいて、同じようにヒッタとカシュートの中にも神がいる。
誰が悪い。誰を悪者にすれば、お伽噺のように皆が幸せになれる終わりを迎えられるか。しかしそのような可能性は存在しない。それぞれがそれぞれの立場で最善を追求した結果が、今現在なのである。
「……たとえばの話だ。ヒッタ様とカシュートさんが、全てを捨てて逃げ出すことを計画していたとしよう。君はひょんなことからその計画を知ってしまった。さあ、どうする」
「そんな、神の意思に背くようなことなど、見逃せるはずがない」
「気付かなかったふりをすることもできるだろうが?」
「僕は神の前で嘘偽りの振舞いをすることなどできない」
「その立場を取る君と、信仰を捨てて夫婦となる可能性を願う君と、真のマハグールとは一体どちらなのか」
「まったく、君は意地の悪い奴だな。同じ問いは君に自身にも当てはまるだろう」
「そうだ。僕たちはどこまでいっても教団側の人間なんだよ。君の言葉を借りれば、これは彼らが乗り越えるべき試練というやつだ」
マハグールは憮然として再び座り、窓の外を見遣って言った。
「僕たちはどこに辿り着くのだろうな」
「神のみぞ知ることだ。僕たちは僕たちのやるべきことをやって、その結果として然るべき未来に辿り着く」
「……そうだな」
マハグールは大きくため息をつき、それからぽつり、ぽつり、と呟くように語り始めた。
「少し前まで僕は神を信じていさえすればいいと思っていたが、どうもこの頃はそれではいけないように感じてしまう。神は僕たちというか弱い生物が信じて頼るべき標で、その絶対性に疑いはない。ないのだが、傲慢で思考停止に陥った者には偽りの標を示すという意地悪な側面もあるのではないか、ということをこの頃は思うよ。神の正しさを疑いながら信じ続けるというのが大事なのではないかって」
「驚いた。まさか君の口からそんな話が聞ける日が来るとは思わなかった」
「ふん、嘘つきめ。全然驚いてないじゃないか」
「確かにね。しかし少なくとも今、僕たちは同じ視座で神を見ているということだ。マハグール、これは偶然か必然か。方程式は誰が解いても同じ答えになるように、何事も然るべき結果に辿り着く、そう思わないか」
「そうだったらいいんだがな」
呟くように言ったマハグールが身を起こして外をじっと眺め始めた。
「どうかしたか?」
アシュナールも窓の外を見てみると、二つの人影が教会の門を出て行く様子が見えた。背格好からして、ヒッタとカシュートだろう。荷物は持たず、それぞれ身一つで並んで歩いていく。
「どうする?」
「見てしまった以上、後を追わないわけにはいかないだろう」
「君の突拍子もないたとえ話が早速本当になるとは思わなかったぞ」
「僕もだ」
二人を見失わないよう、アシュナールたちは手早く防寒具を着て教会を出る。まだかろうじて二人の背中を視認することができた。
肩を寄せ合い並んで歩くヒッタとカシュートの行く先は街の中心からどんどん外れていって、オアシスの端の草木に隠れた畔に至った。
そこは対岸に街の明かりを臨み、松明や星や月といった地上の光が水面に反映されている場所だった。人も動物もなく、かろうじて物静かな虫が葉や土の下にいるかもしれない。雲のない空には暗黒を背景に無数の星が、暗いものも明るいものも、赤も青も白も等しく空の隅まで散りばめられていた。その中央を白い煙のような星の道が縦断している。その有様がそのまま水面に映し出されている。
ヒッタとカシュートは一枚の外套の中に収まって岸辺に座り、互いを温め合っていた。一つの塊になった背中はぴくりとも動かない。二つあるはずの心臓も今はひとつなのだろう。
アシュナールはマハグールの裾を引き、立ち去るよう促す。マハグールも頷きで答えた。
13.
カシュートという砂漠の民が教団から聖女の称号を授与されたという事実は各地でそれぞれ一定の反応を引き起こした。ザカタストラ国の国民からすれば、呪われた地の呪われた人間にそのような聖性を認めることは直感に反するものであった。一方、独立派からすれば、同輩が仇敵に身も心も売ったも同然の結果であるため、彼らの心の内に失望と憎悪を引き起こした。そしてそれ以外の砂漠の民の目には、自分たちの暮らしに何か影響を与えるものではないため、特に意味のある出来事であるとは捉えられなかった。
そのため、街の広場で行われたカシュートの聖女の称号授与式は形ばかりの空疎なものであり、ぱらぱらとまばらに起こる拍手は、かえってカシュートのみじめさを強調するものだった。
その中にあってもカシュートは凛々しく顎を引き締め、その称号の名に恥じない振舞いを徹底することをザカタストラ国の言葉で神に誓った。ヒッタ、アシュナール、マハグールの三名は最前列でその痛ましい宣言を直視し聞き遂げた。
カシュートが独立派から命を狙われる危険性を持つようになったことは、砂漠の街に新たな緊張をもたらした。新しい聖堂の建設が終わるまでの間、カシュートは国軍の駐屯所で寝泊まりをすることとなり、その護衛にはハグナラガフ将軍が就くこととなった。この人は長年この地で軍の指揮を執ってきた人であり、アシュナールの父その人である。
思わぬところで父と再会したアシュナールであったが、親子としての再会ではないため、お互い会話をすることなく、互いの存在だけを認識していた。いずれ機会があれば話をすることもあるだろう、とアシュナールは暗い気持ちで考えた。
ヒッタたちは慣れ親しんだ教会に三人で帰った。カシュートが不在の空間は夜の冷気がそのまま流れ込んできているようであった。
翌日からはいつも通りの日々が始まる。奉仕活動で関わる人々や、教会に学びに来る子供たちはカシュートのことを話題に出して、最後には彼女がいないことを寂しがっていた。カシュートが聖女として召し上げられた後の現実に誰もが違和感を覚えていたが、それでもこれが新しい現実であるとして、時間がアシュナールたちの認識を上書きしていく。
称号授与式から一ヶ月が経った頃、ヒッタが国軍に呼ばれて駐屯所に行った。兵士たちに砂漠の言語を教授してほしいのだという。理由はおおよそ察せられることで、独立派との戦闘の日が近づいているのだろうとアシュナールたちは予感した。いずれ生じる戦闘で独立派の者を捕虜にしたときに、拷問して情報を吐き出させるために、国軍は砂漠の言語を必要としたのである。国として長年続いた確執に終止符を打つ気になったらしい。
カシュートに加えて、ヒッタという教会の主を失い、アシュナールとマハグール、それからすっかり慣れ親しんでくれた使用人たちが占める教会は、アシュナールたちが初めて訪れた頃と比べて活気づいて、同時に寂しくなった。
「まったく、僕たちは教団の手のひらの上だったというわけだな」
ここ数ヶ月の展開を総括してマハグールはため息をつき、苛立ちながら椅子を揺らした。
「カシュートさんを聖女に担ぎ上げ、独立派を刺激して炙り出し、一網打尽にする。それでこの地域の支配権を確立してしまおうという寸法だったわけだな。教団は聖女の称号を何だと思っているんだ」
「しかしこれで布教がだいぶやりやすくなったのも事実だ」
「まったくその通りだ。思惑通り信徒の数は増えるだろうよ。たとえ形ばかりのものであっても、だ。ああ、腹立たしい」
ザカタストラ国による支配が確立し独立派の影響力が絶えた後の砂漠の民の暮らしはいよいよザカタストラ国に依存することとなり、人々はザカタストラ国から派遣された役人の顔色を伺いながら暮らすことになる。そのときに、聖女カシュートが人々に神への信仰を促せば、彼らは生活のための手段として神を信じると誓うだろう。もちろん最初は形ばかりの信仰であるのかもしれないが、信仰が日常に溶け込んで新たな常識となるうちに、神の存在に触れる者も現れてくるだろう。形式に則ることの有効性はアシュナールたち自身が子供たちを対象に実践するなかで証明されているものでもある。
マハグールは嘆息しながら言う。
「ああ、僕らの高等部の三年間はこうやって終わっていくのだな」
「まだ一年残っているじゃないか」
「これ以上大きな出来事なんかあるものか。ヒッタ様とカシュートさんがここを離れた以上、僕たちがその代わりを務めるしかないだろう。一年なんかそれであっという間だ」
腕を組んで窓の外を見遣るマハグールは、砂漠に来てからの二年間ですっかり立派な青年に成長した。日々の奉仕活動の中で体を動かすなかで筋肉がついて日にも焼けた。神学校の五年生の頃、初めて会ったときは、ちびでひょろっとして、人と目も合わせることができなかったというのに。時間が経てば色々なことが変わっていき、その変化は決して止められるものではない。アシュナール自身も同じである。
「君は卒業後、ここに戻ってくるんだろう、マハグール」
「当然だ。ヒッタ様とカシュートさんの代わりが務まる人間なんて僕ら以外にいないぞ」
「その件だけど、僕は神大学校に進もうと考えている」
「知っている。君は冥界の門にご執心だものな」
拍子抜けするほどにマハグールの反応は淡泊なものだった。
「任せていいのか」
「それが神の御心に沿った道だと君が思うのなら、僕に阻む権利なんかないさ。それに、この地できちんと神の教えを広めるなら、冥界の門の位置づけをどうするかというのは避けて通れない問題だ。我々の教義に即した形でうまく解釈できる方法を模索してくれたまえ」
「本当に君は丸くなったな。昔の君だったら、冥界の門をたたき壊す方法を考えろと言っていただろうに」
「そこはヒッタ様とカシュートさんの影響だな。僕たちみたいに厳しい現実を知る者こそが、この地の人々を救うということの本当の意味を真剣に考えないといけないんだ」
そう言って窓の外を見るマハグールの目には、十年、二十年先の未来が映っている。彼も実家との兼ね合いなど頭の痛い問題はあるだろうに、とは思ったが、アシュナールは口に出さない。
ヒッタが駐屯地に留まるようになってから半月ほどして、カシュートが教会に現れた。聖女として地元の人々との交流を大切にしているとのことで、それが真実である反面、昔を懐かしみ安らぎを求めているという側面があることも察せられるのだった。
その日はちょうど教会で子供たちを相手に文字を教えていたところであった。
「こんにちは、皆さん」
教会に現れたカシュートは、聖女の称号に見合った格式の高い恰好をしており、化粧や香水など、砂漠の地では到底なされないような装いをしているのだった。護衛の任に就く二人の兵士も検問所で悪態をついていたような粗末な者ではない。磨き上げられた胸当ての眩さが地位を象徴していた。ハグナラガフ将軍の信頼を得ている人なのだろう。
「カシュートおねえちゃんだ!」
そう言って一番に立ち上がったのは、いつかカシュートの不在を寂しがっていた幼い兄妹の妹である。
「おねえちゃんきれいだねえ」
妹はカシュートの膝に手をつき、見上げて言った。すかさず世話役の使用人が妹をカシュートから引きはがし、非礼を詫びた。カシュートは寂しげに、構いませんよ、と首を横に振る。
それからカシュートは、裾が砂で汚れるのも構わず膝を地面につき、子供たちに目線を合わせて手を握り言った。
「ね、お勉強は楽しい?」
「うん。たくさんおもしろいお話が聞けて、楽しいよ」
「そう、よかったね」
カシュートは立ち上がり、アシュナールたちの方を向いた。
「アシュナールさん、マハグールさん、私たちの家を守ってくださり本当にありがとうございます」
そう言って深々と頭を下げるカシュートに対し、二人は恐縮しながら顔を上げるよう言うことしかできなかった。
その後はアシュナールとマハグールを先頭として、その直後にカシュートと護衛二人が並んで外を歩く。五人の目的はアシュナールたちがいつも行っている地元の人々への奉仕活動である。常に砂埃にまみれて薄汚い道を歩くカシュートは淡い光を湛えた宝玉のようである。幼い頃からのカシュートを知る老人や大人たちは気軽に声をかけることを躊躇ってしまう。その遠慮を知るからこそ、カシュートの方から積極的に「こんにちは」「お久しぶりです」「お元気ですか」と話しかけるのだ。そのようにされて、ようやく大人たちは言葉を選びながら失礼のないよう、カシュートに対する親しみを口にできるのだった。
教会に戻ってからようやくアシュナールたちはひと息をつくことができた。カシュートは懐かし気に台所を見渡し、飲み物の準備をしようとしたのを使用人が留めて座らせる。
「ヒッタ様はお元気ですか」
マハグールが訊ねたのに対し、カシュートが答えた。
「ええ、元気にしていますよ」
その声には翳が感じられて、アシュナールたちはヒッタの置かれた状況を察する。
「お戻りがいつ頃になるかというのは」
「ごめんなさいね、それはわかりません。いつかは戻って来られると思うのですが」
「そうですか」
「お二人は本来なら勉強のために来ていただいているというのに、実質的に働かせている形になってしまっていますね。申し訳ありません」
「いえ、それはいいのです。責任を負ってこそ学びや気付きも多いものですから」
カシュートはマハグールの本音に曖昧に微笑みながら首を傾けた。アシュナールは話題を切り替える。
「ところで、聖堂の建設は順調ですか」
「ええ。順調と聞いています。工事が滞りなく進めば、来年か再来年には完成するそうですよ」
「それまでは今の場所でずっと暮らすことになるのですか」
「そうでしょうね。警護のことを考えると私のことは迂闊には動かせないようです」
自虐めいた物言いは口にしたそばからカシュート自身にも自覚されられたようで、すぐに「ごめんなさい」と口にした。
「ハグナラガフ将軍にもお考えがあるのでしょう」
「そうなのでしょうね。アシュナールさんは将軍のことをご存知なのですか」
問われてアシュナールは返事に戸惑った。しかしこの質問が出るということは、父は自分のことをカシュートに話していないのだろう。そのことを前提にアシュナールは回答を考える。
「ええ。昔、とてもお世話になった方ですよ」
「そうでしたか。彼はとても良い方ですね」
「どんなところが」
「初めてお会いしてから少し経った頃に、彼はただ一言、堪えてほしい、と仰りました。私の置かれた複雑な状況を察したうえで、親が子供を案じるように、優しい御心でそう仰ってくださったのです。そのお言葉で、この方は信頼していい方なのだと感じました」
「なるほど、彼らしい振舞いですね」
内面に秘めた心に対して表に出る言葉が極端に少ないのは実に父らしい、とアシュナールは感じた。
「私が言うのもなんですが、将軍は信頼できる方です。きっとカシュート様のお力になることでしょう」
兵士二人も小さく頷いていた。
「なあ、僕はハグナラガフ将軍と面識がないのだが、そんなにすごい人なのか」
隣のマハグールがアシュナールの耳に口を寄せて囁いたが、その声はカシュートたちには隠せていない。
「私も将軍のことは先日初めて存じ上げたのですが、もう八年近く軍の最前線で指揮を執っていらっしゃったそうですよ。ここ数年、この街で争いがなかったのも、彼が前線を東の方に押し上げたからだという話です」
「そんな立派な方が前線を離れて護衛に就かれているのですか」
マハグールは手を顎に当てて考え込んでしまった。たっぷり時間をかけてから顔を上げて言う。
「それだけカシュート様の身が危ない、ということでしょうか」
「そうみたいです。将軍は私がこうやって街中を歩くのも快く思っていないようですが、無理を言って私のしたいようにさせてもらっています」
「そうですか。では、今日は気が晴れましたか?」
「はい。ですが、決して私の道楽のためだけにやっているわけではないのですよ」
静かに、しかし同時に力強くカシュートは言った。カシュートは背筋を伸ばし、閉ざしていた瞼をゆっくりと開いた。穏やかな慈愛の笑みを浮かべたその佇まいはまさに聖女であり高潔な存在である。以前から上品な気質ではあったものの、もう少し親しみやすい人だったはずだ。化粧や衣装だけが彼女の威厳を作っているわけではない。己に与えられた立場を使命として受け入れまっとうしようという意思が、カシュートを聖女として完成させたのである。
「私はヒッタ様に、そして神に誓ったのです。神の教えの届かないこの地で暮らす人々が幸福に安心して暮らしていけるよう、自分にできることの全てを為すのだと。棚に飾られるだけの聖女を頼りにする者などおりません。それが私を守り育てて下さったヒッタ様と神の御恩に報いる方法なのです」
その言葉にアシュナールとマハグール、兵士二人の全員が頭を下げて応えた。
「ですから、これからも頼りない私に力をお貸しくださいね。どうぞよろしくお願いいたします」
「はい、御心のままに」
心酔して呆けたように答えたのはマハグールだった。
14.
聖堂が完成するよりも前にアシュナールたちの高等部の三年間が終わってしまった。すぐに戻ってくるというマハグールと違い、アシュナールは少なくとも数年は戻ってこないため、別れの言葉は主にアシュナールに対して向けられた。三年の間で関わりのあった地元の人々や教会の学び舎で教えた子供たち、マハグールが連れてきた使用人たち、それからヒッタとカシュート。それぞれがアシュナールに礼を伝え、再び会える日を望んだ。
次にアシュナールがこの地を訪れる時とは、おそらく冥界の門に関する調査や研究のためであろう。それが何年後になるかまではわからないが、アシュナールが二度とこの地を訪れないということはない。
長旅を経て神学校に戻れば、後輩たちに懐かれる。砂漠の教会だけでなく神学校もまたアシュナールたちにとっては故郷の一つなのだということが思い出される。学校では決して聞くことのできない砂漠の体験談を求める者は生徒も教師も問わず数多くあり、それらに対応しているうちにあっという間に卒業式の日を迎えた。
その日はよく晴れた日で、人生の節目とするのに相応しい日であった。式典を行う礼拝堂に初めて足を踏み入れたのは初等部の五年生に編入したときのことで、そのとき礼拝堂は広く高く見えたものである。しかし体が大きくなった今ではいくらか小さく見えて、親しみを感じられるものである。初等部や中等部の頃には、演劇会や音楽会などの催し事を礼拝堂で行ったものだ。その思い出を胸に、アシュナールたちは式典のなかで讃美歌を歌い、神への祈りを捧げ、これから先の未来を神や人々の奉仕のために生きることを誓った。
「僕はもう行くぞ。手紙は神大学校の方に送ればいいか」
「それで届くはずだ」
「じゃあな。元気でやれよ」
「マハグールもね」
再会を信じて疑わない二人は簡単な挨拶をして別れた。
次にアシュナールが暮らす寮は神大学校の敷地内にあった。砂漠から持ち帰った荷物をそのまま寮の割り当てられた部屋に運び込む。近所の先輩たちに挨拶をしようとしたが、生憎不在だったのでそれは次の機会に持ち越すこととする。
寮を出たアシュナールは、約束の時間まで敷地内を散策して暇を潰し、それから教団本部の上層部にある一室を訪ねた。扉を叩いて名乗ると、中から返事があり、アシュナールは扉を開けて中に入る。
「これからお世話になります」
執務にあたっていたハスターラ枢機卿は筆を置き、顔を上げてアシュナールを見た。
「先に断っておくが、私からお前に教えることはない。知識とは自分で探し求めて獲得するものだ」
「承知しております」
「禁書庫含めあらゆる場所への立ち入りは許可されている。私の名を出せば閲覧できないものはない」
「ありがとうございます」
それで話は済んだとばかりに、ハスターラ枢機卿は再び筆を執り文書に目線を落とした。これ以上話すことがないならば、ここにいる理由もない。アシュナールは一礼をして背を向け、扉に手を掛ける。そのときだった。
「お前は何を考えている」
「さて、どういう意味でしょうか」
「住人の名簿を作って軍に流したそうだな」
ハスターラ枢機卿は筆を走らせ何気ない風を装っているが、意識がアシュナールに向けられていることは伝わった。住人の名簿とは、砂漠の教会に通っていた子供たちとその親の氏名と住所をまとめたものである。
「住人全体のごく一部ですが。誰が我々の言語を話せて、その縁者は誰か、というのは軍にとって有用な情報かと考えましたので」
「軍に恩を売ってどうする」
「いずれ砂漠の地を調査するときには護衛が必要でしょう。彼らとは良好な関係を築いておきたかったのですよ」
「恩を売るなら教団でよかっただろう」
「……なるほど、それもそうでした。気付きませんでした」
「ふん、白々しい。あの時怯えて震えていた子供が随分と小賢しくなったものだな」
「全ては神の御心のままに」
うやうやしく頭を下げたアシュナールに対し、ハスターラ枢機卿は不快さを隠さない表情で目を向けた。
「私がお前を引き立てたのは、お前が体験した奇跡のためだけではない。その体験に対する異常なまでの執念を評価したからだ。お前が神や教団を不審に思うのは勝手だが、神の名を借りれば全てが自分の行いの全てが許されると考えるのは誤りだ。つまらないことのために足を掬われるような真似をするのはやめなさい」
「つまらないこと、ですか。つまらないこととは何でしょうか。軍に力を貸してあなた方の機嫌を損ねたことでしょうか。取るに足らない者たちの心を踏みにじって顧みないことはつまらなくないと考えるのなら、それはあなた方の傲慢さの表れに他なりませんね。こう見えて、私は怒っているのですよ」
アシュナールは穏やかな口ぶりを崩さなかった。しかし頭の中には、まだ幼いアシュナールが両親から引き離されたこと、カシュートのヒッタに対する愛情が都合よく利用されたことの二点があった。これらは正義の名のもとに正当化されるべきことではなかったとアシュナールは考えている。
「ならば、その怒りで以て神に真意を問い質すがいい。私がお前に期待するのはそういうことなのだ」
「その結果、教団の根幹が揺らぐことがあったとしても」
「千七百年も続いた歴史を甘く見るな。教団は揺るがぬ。より正しい姿に修正されていくだけだ」
二人は長く睨み合った。
その膠着を先に破ったのはアシュナールである。
「私は私の中の真実を明らかにしたいというのが第一ですが、同時に、この世界で暮らす全ての人々が心穏やかに幸福であることを願う気持ちも確かにあるのですよ。それが誰かの犠牲の上にしか成り立たないものであるというのなら」
アシュナールを見据えるハスターラ枢機卿の瞳は神の瞳に等しい。しかし、臆すな、退くな。伸びた背筋をさらに伸ばし、アシュナールは――。
「それ以上は今はまだ胸の内に留めておきなさい」
ハスターラ枢機卿は優しい声でアシュナールを諭した。
「言葉とは思考であり魔法である。言葉によって輪郭を得たものはいずれ形を持って自他に影響を与えるものだ。お前の中にあるものにはまだ輪郭を与えるべきではない」
そしてハスターラ枢機卿は噛み締めるように丁寧に言った。
「神を信じなさい」
15.
アシュナールは食事と睡眠以外のほとんど全ての時間を図書館の中で過ごし、ハスターラ枢機卿が人生を賭して集めた知見の軌跡を辿った。その過程は、喩えて言うならば、どこまでも果てのない一本の道である。アシュナールの行路を阻むものはない。ただひたすらに遠く深淵な歴史と真実の探求の過程であった。一切の近道が存在しない、長く遠い道である。
気付けば六年の月日が流れていた。
長く遠い道の果てに、ハスターラ枢機卿の影が立っているのが見えた。ついに並び立ち見下ろす景色は、教団が自身の起源とする神歴元年以来、今日に至るまでの千七百年間という、歴史という名の記憶の系譜である。古の聖者が砂漠を横断したことさえも、長い歴史の記述の一つでしかなかった。楽園と呼ばれた地を追放されたことに始まる人類の歴史とは、今日に至るまで常に神と共にあるものだった。
ハスターラ枢機卿の影はその景色の彼方を指差した。お前はもっと先に行くのだ、と告げている。アシュナールは頷きで答える。これより先はハスターラ枢機卿も知らない前人未到の領域である。アシュナールは途切れた道の先へ足を踏み入れる。たちまち白い靄に包まれ前が見えなくなるが、その白さの彼方には一点の透明な光がある。それは白銀色の門が放つ光であり、そのふもとにはあの人が立っている。歩けば歩いた分だけ近づいているはずだが、それらは未だ遠くにあった。白い靄が立ち込めてアシュナールの視界を覆い隠そうとするたび、アシュナールは腕で靄を振り払い、手を伸ばして求めようとするが――。
アシュナールは目を覚まし、ここが自分の研究室の机の上であることに気付いた。時刻は深夜の遅い時間のようで、夜明けがあとどれほどで訪れるのかもわからない。世界は眠りの奥底に沈んでいた。
机に突っ伏して眠っていたため、体のあちこちが痛む。伸びをしながら体をほぐし、伸び放題の髭を撫でる。いい加減剃らなければ、などと思いながら部屋中に散乱した資料や紙片を見渡し、郵便物の山の上にマハグールからの手紙が届いていたのを見つけた。
レターナイフで封を切って開けてみれば、いつも通りの近況報告である。市場の新たな区画が近々完成しそうであるとのことで、それ自体は喜ばしい反面、土地の権利などを巡る商人や職人の対立に巻き込まれると思うと気が滅入る、という内容が苛立たしげな筆致で書かれていた。マハグールの様子が目に浮かぶようだった。アシュナールは苦笑しつつ、知人たちの近況にも目を通し、昔を懐かしんだ。
六年という月日は緩慢に過ぎ、色々なものを少しずつ変え続けた結果、年月相応の変化をもたらした。
これまでに送られてきたマハグールからの手紙を総合して理解するところによれば、おおよそ状況は以下の通りである。
聖女カシュートの地道な奉仕活動が功を奏し、多くの砂漠の民がザカタストラ国の言葉を喋るようになり、信徒も数多く増えて皆敬虔であった。また、ザカタストラ国から訪れた者たちも、今ではカシュートの清廉さを認め敬意を払うようになった。おかげでカシュートが暮らす砂漠の街は交易の要衝として日々多くの人の流出入があるにもかかわらず、治安と秩序が保たれている。かつて存在した砂漠の民に対する偏見も、カシュートや地元の人々の地道な働きの結果、いくらか改善したのだろう。そのような安定した環境のもとで、ザカタストラ国からその街までの大掛かりな街道の敷設も進められており、そこで多くの砂漠の民が職を得ている。教育や福祉の仕組みも整ったおかげで、砂漠の民の生活の水準は大幅に良くなった。ヒッタとカシュートが望んだ通りかどうかはわからないが、かつて彼らが願った砂漠の民が幸福に暮らす未来は、六年の年月を経て結実しつつある。
一方、独立派との確執は混迷を極め、度々カシュートが襲撃されるという事件もあったという。しかしその度にハグナラガフ将軍らがカシュートを凶刃から護ってきた。捕縛した襲撃者から独立派の拠点の居場所の情報を得て、将軍たちは砂もぐらの巣のように点在する拠点を一つずつ制圧していった。今では砂漠地域の三分の一を掌握し、安全な貿易体制の構築に一役買っている。その恩恵はザカタストラ国にも還元されているようで、アシュナールが暮らす神大学校の近辺もここ数年はとても景気が良いようだった。
ヒッタは聖堂内に設けられた教室で地元の子供たちの教育にあたっているという。マハグールの手紙の中ではあまり多く言及されることはないが、特筆すべき点もないほどに穏やかな暮らしをしているのだろう。ヒッタとカシュートの接点に関する話はほとんど全く書かれていないため、二人が交流できているのかはわからない。
そしてマハグール自身はどうかといえば、最近は司教として聖堂の主要な役職を務めている。責任ある立場で教団の行事だけでなく、行政にまつわる事柄の実務にもあたっているとのこと。手紙では文句や愚痴が多いが、それが絶えない辺りから察するに、真面目に対処し続けた結果、本人の希望に反して厚い信頼を得てしまっているのだろう。
アシュナールは手紙を畳んで片付けると、椅子に大きくもたれて天井を見上げた。眠る直前まで練り上げていた論考を頭の中で整理する。これは砂漠の歴史に関する仮説である。もしもこの仮説が正しければ、教団の教義の根本が覆る可能性があるだろう。これは、慎重に扱われなければならない類の仮説であった。
論考の練り直しはただ椅子にじっと座ってするよりも、散歩をしながら行う方が捗るものである。外はまだ暖かいだろうか、それとももう寒いだろうか。一応外套を着たうえで、深夜の散策に出ることにする。
図書館を出て吹き付けた風はすっかり秋めいた冷たさで、アシュナールは自分がいかに世間と隔絶した暮らしをしていたのかを改めて思い知った。しかし冷えた空気というものは、物事を冷静に考えるうえで助けとなるものである。半月が薄雲に隠れているせいで空全体がぼんやりと明るく見える。
外套のポケットに手を入れながら歩き、改めてアシュナールは六年の研究の成果を振り返る。大胆な仮説であるが、数々の証拠がそれこそが真実であることを示唆するものである。
――アシュナールたちの祖先はかつて砂漠の地で暮らしていたのではないか?
この結論を説得的に語るためには、教団の成り立ちにまで遡らなければならない。
教団が暦として用いる神歴は、人類の祖先が神と契約を結んだ年を元年として数えている。神歴以前、つまり人が神と出会う以前、アシュナールたちの祖先は、古の文書が「楽園」と呼ぶ土地で暮らしていた。そこは一年を通して穏やかな気候の地で、果実と麦と水に溢れる場所だったという。人々はそのような自然の恵みにあずかりつつ、羊や牛を飼い、馬を駆って暮らしていた。その楽園において、肉体は不朽であり、魂は永遠だった。人の望みうるあらゆる理想が体現された、まさに楽園の名に相応しい場所だった。
しかしその恵まれた環境故に人々は堕落してしまった。堕落した人々は大いなる意思によって楽園を追放され、放浪の時代に突入することとなる。人々は楽園を離れてから初めて飢えや病というものを知り、死を知った。放浪する人々は一人また一人と飢えや病によって倒れ、肉体を腐らせ、死んでいった。肉体という器を失った魂は行き場所を失くした結果、煙が風に吹かれて掻き消えるが如く霧散していった。人々は死に怯えながら自分たちの愚行を悔いるとともに、死から逃れる術を求めて放浪を続けていった。
そのような時代がしばらく続くうちに人々はかつての十分の一以下にまで減ってしまった。放浪の旅も道の果てに至り、そこでついに道が途絶えてしまう。これ以上どこにも行けなくなった人々は天に向かって仰ぎ、自分たちの愚かさを告白し、十分な悔悟を示した。
そのとき、人々の懺悔を聞き遂げた神が現れた。神と人はひとつの契約を交わした。それは人が神に対し信仰を示すならば、神は人の死後の魂を救済する、というものである。ただし神が人を死の運命から解き放たないのは、人々に己の罪を忘れさせないためである。以上が教団の語るところの人類の起源であり、誰もが知る物語であった。
さて、この物語はどこまで真実であるのか。これまで多くの神学者が検討し、それぞれが遺した文献を総括する限り、まず、楽園の場所や放浪の旅の行程などについては諸説あるものの、人間と神の出会いが現在から数えて千七百年ほど前の出来事である、という見解で合意が取れている。ザカタストラ国が成り立つ以前の人類史や、千七百年という数字を境としてそれ以前に文明が存在したという証拠を示すものが一切見られないためである。もちろん、教団がこの歴史を正史として上書きをした可能性を指摘した文献もあったが、その可能性を支持する議論は続いていない。ただし興味深いのは、人々が放浪してきたという事実それ自体の信憑性を疑う議論が存在しないことである。この点については教団が保有する文献であることの限界であるのかもしれないが。
いずれにせよ、教団としての歴史の起源は千七百年前、神歴元年である、という点は一応の事実として認めてよいだろう。
その後、人類は常に神を中心にいだき、暮らしの基盤を整え、子を産み増やし、新たな秩序を構築していった。もちろんその過程では人間同士の争いは絶えなかったものの、教団の名は常に歴史の中で大きな影響力を発揮していた。
そのような歴史の中において、特筆すべき事柄が一つある。それは、今からおよそ千年前、神歴七百年頃に東の地で大規模な災厄が起こったという記録である。東の地とはつまり砂漠の地である。複数の古い記録が共通して述べるところによれば、東の大地の全てが炎に包まれ、その炎は数年にわたり燃え続けていたという。砂漠から遠く離れたこの地域からも、地平線が常に赤く揺れている様子で観察できたという。火災という呼び名では穏やか過ぎる災厄が、砂漠のどの程度の範囲で生じたものかまではわからないが、そのようなことが事象として存在したことが複数の記録で示されている。
研究を進めるなかでアシュナールが違和感を覚えたのは、その災厄に関する記述の端々に、書き手の歓喜や愉悦の感情が垣間見えたことである。たとえば記述のひとつには、災厄が生じたことについて、神の鉄槌が下ったのだと表現する文言があった。どんな文献であれ人の手で書かれたものである以上、書き手の視点や思想を前提とした記述となるのは自然なことである。今日的な視点に立てば、砂漠の地は神の手が及ばない呪われた地であるから、災厄を神罰と見做すのは妥当な解釈であるのかもしれない。しかし、災厄以前の時代の文献において、東の地への言及はほとんどない。言及がないのであれば、それは無関心を意味するはずだが、無関心な対象の不幸を喜ぶというのは、人の心理として解釈に苦しむ。アシュナールが違和感を覚えたのはこの点であった。
災厄以前の東の地について。先述の通り言及した文献はほとんどないが、全くないわけではない。アシュナールが書庫を全て調べた結果、いくつかの記述を見つけることができた。ただしいずれも直接的に東の地について述べているというよりは、当時の地名や出来事などから位置関係を鑑みると東の地を指していると解釈できる事柄である。そのなかで、アシュナールの目から見て仮説の根拠として一定の強度を持っていると思われる記述を二つ取り上げよう。
一つは、祝祭に関するものである。何を祝ったものであるのかは明らかではないが、東の地で大きな祝い事があり、日記と思しき文書の著者が使節として祝祭に赴いた時の様子が記されていた。帆船に乗って草原を走ること数日、辿り着いた時には祝祭は初日の深夜であった。夜も遅いにも関わらず人々は焚火を囲んで酒を飲み肉を食い、腕を絡ませ合いながら陽気に踊っていたという。人々の頭には色とりどりの花冠があったという。
もう一つは、大河に架ける橋の建設の出稼ぎに行った若者が家族に送った手紙である。村の掲示板に張り出された募集を見て、同郷の幼馴染と一緒に迎えの車に乗ったという。荷車には若者二人と、大量の石材や木材が積まれていた。一週間かけて辿り着いたその現場には、同じく色々な地域から応募してきた者たちがそれぞれ石材と木材を持ち寄り、その場で役人に買い取ってもらい、建設作業に従事した。大河はかろうじて向こう岸が見えるほどに幅広いものである。手紙の中では季節は春で、大河の水量が増した日は休みになるのでありがたい、ということが書いてあった。
もしこれらの記述が東の地を指しているのだとすれば、災厄以前の東の地とは自然豊かな地域であったということになる。もちろんアシュナールの主張の根拠はこの二つをはじめとするいくつかの文献の断片的な記述だけであり、しかもアシュナールの解釈に基づく不確かなものであるから、確かな証拠とするに心もとない。しかし自然豊かな地であればこそ、災厄として語られる大火災が生じたこととも整合的である。東の地は災厄の後に砂漠に変化したのだとしたら? 災厄以前の文献が極端に少ないのも、当時の教団の意思が働いた結果であるならば、納得できるものだ。東の地は呪われた忌むべき地であるものだから、生命の息吹に満ちているというのは不適切である、というのは解釈として成り立ちうるものであろう。
なぜ当時の教団は東の地を忌み嫌い、憎悪していたのか。原因はともかく、それほどまでに憎悪の対象であるならば、当時の世相から言って、武力で直接的に屈服させる選択は取られて然るべきである。しかし記録上、そのような行動は確認されておらず、また、東方から攻撃を受けていたという記録も見当たらない。過去の人々は対外的な行動を取ることなく、ただ一方的に憎悪の眼差しを向けていたことになる。何をするでもなく、ただ憎悪の感情だけを燻らせていた。これはどういう心理であるだろうか。考えた末に、アシュナールが辿り着いた解釈は次のものであった。
すなわち、この憎悪とは羨望が反転したものではないか。羨ましくて憧れるが、決して手に入らないものだったからこそ、憎悪の対象に貶めることで自分の心を慰めていた。憎悪と羨望は対象への執着という一点で似た感情である。教団にとって、砂漠の地に対する根深い憎悪や恐怖と同程度の執着を想起し得るものとは何か。決して並大抵のものではあり得ない。この問いへの回答の候補の一つに楽園を挙げることができるのではないか。楽園とはその名が示す通り、理想の対象となるものであるが、教団は楽園を追放された歴史を持つとされている。すなわちアシュナールたちは楽園に帰ることができない。叶わない羨望は同じ強さの憎悪に反転する可能性があるのではないか。
以上を踏まえたうえでアシュナールが辿り着いた仮説は、教団で語られてきた楽園とは東の地を指しているのではないか、というものである。つまり、アシュナールたちの祖先は現在の砂漠の地からやって来たのではないか。
この仮説は同時に以下のような疑問を提示する。楽園が実際に存在した場所であるならば、教団の神話が語るところの「追放」の理由や、災厄が生じるまでの七百年間に楽園に帰還できなかった理由とは何なのか。災厄が文献の通りの大火災であるならば、一般的な感覚からすれば楽園の住人たちが生き延びることなどまず不可能に思えるが、そうであるならば現在の砂漠の民の正体とは何なのか、など。
しかしこれらの疑問の中で、もっとも教団にとって危険な可能性とは、以下のものである。すなわち、砂漠の民が「冥界の門」と呼ぶものこそが、教団が求めた魂の救済そのものであるかもしれない、という可能性である。楽園の永遠性が冥界の門による魂の循環と再生に起因するのであれば、楽園の追放とはつまり人々が冥界の門を通れなくなったことを意味する。この仮説を突き詰めていった先にある結論とは、本来教団の信じる神には魂を救済する力がないという絶望そのものであり、教団の敗北である。
故に――アシュナールは考える――、仮説の真偽によらず、教団はこの仮説の存在自体を認めないだろう。今の段階でこの仮説を公にするのは危険すぎてとてもできたものではない。しかし、このような仮説に至ったのがアシュナール一人かといえば、おそらく違うだろうと予感している。ハスターラ枢機卿も同じ可能性を見出しているのではないか。だからこそ、彼はアシュナールが神や教団を不審に思ったことに対して寛容であった。さらに七年前に神大学校の図書館で彼がアシュナールの隣に座って話しかけてきたときに、彼は既に教団が信じる神のことを虚像と呼んで看破していた。この事実は無視できるものではない。
冥界の門など呪われた民の勝手な妄想でしかないし、崇高な楽園と呪われた砂漠が同一の場所であるはずがない、馬鹿々々しい、と吐き捨てられたら、きっと楽なことなのだろう。しかしアシュナールはそのようにすることができない。幼い頃に生死の狭間で見た通り、白銀色の門は異界に存在する。故にアシュナールにとって冥界の門とはただの妄想ではない。さらに六年かけてつぶさに読み込んできた先人たちの記録が楽園と砂漠が同一の場所である可能性を無視しがたい説得力で示している。
これらの仮説を検証するためには物証が必要である。それは図書館にこもっていては決して手に入らないものである。
夜の庭園を歩くうちに体はすっかり冷えたが、頭は眩暈がするほどに明瞭で熱い。アシュナールはいくらか地平線に近付いた月を見て、同じ空の下にある砂漠の景色を思い出す。再びあの地に赴く日が来たのだ。
出立前に、六年にわたる研究の成果を論文にまとめ、ハスターラ枢機卿に預けておかなければいけないだろう。砂漠での調査には命の危険が伴うからだ。
アシュナールは意気込んで執筆に取り組んだものの、結局論文を仕上げるのにはそれから一年近くかかってしまった。その分、論理に抜けや漏れのないものになったと自負している。
執筆の合間に旅の準備やマハグールへの連絡は済ませてあるので、ハスターラ枢機卿に製本した冊子を預ければすぐにでも出立できる。アシュナールはすっかり旅装を整え、寮の部屋も片付けたうえで恩師のもとを訪ねた。
アシュナールは郊外にある邸宅を訪ねる。ハスターラ枢機卿は昨年頃から老衰のため臥していることが多くなっていた。この日、ハスターラ枢機卿は珍しく窓辺で揺り椅子に座って微睡んでいた。卿はすっかり皺枯れて小さくなり、白髪の奥に頭皮が透けて見えるようになっていた。
「こんにちは先生。ようやく論文が仕上がったので提出しに伺いましたよ」
聞こえているのか聞こえていないのか、ハスターラ枢機卿はゆらゆらと揺れている。彼の態度はついに変わらないものだった。偏屈であるが、アシュナールのことを気にかけていた。
アシュナールは机の上に論文を置いた。
「そういえば謝辞に書き損ねたことなのですがね。研究を進めるにあたり、教団から邪魔が入らないよう取り計らっていただきありがとうございました。おかげで集中して取り組むことができましたよ」
ぎし、ぎし、という音は揺り椅子の揺れる音である。
「さて、何のことだか。私は知らんな」
「私の気のせいでしたか。それは失礼しました」
ぽつりと呟くようにハスターラ枢機卿は言った。
「行くのか」
「はい」
「体には気を付けなさい」
「私はもう子供ではありませんよ」
「そう思っているうちはまだ子供だ」
「そういうものですか」
ふん、とハスターラ枢機卿は鼻を鳴らした。最後まで可愛げのない奴だ、とでも思っているのだろう。お互い、話をするのはこれが最後だと悟っている。だからこそ、ハスターラ枢機卿はアシュナールに訊ねた。
「人に救いはあるだろうか」
「どうでしょうね。ただし私が思うに、人を救う主体はその人自身なのだと思います。その人の自らを救う意思を前提としたうえで、神や他者による救済の手助けの可能性は論じられるべきでしょう。これまでずっとそうだったように、今も、そしてこれからも」
「……お前はそう思うのだな。ならば最後に私の話を聞いていきなさい。長くはならんし、どうせ長く話す体力も残っておらん」
アシュナールは黙って頷いたが、それはハスターラ枢機卿に伝わったかどうかはわからない。しかしハスターラ枢機卿にとってはどちらでも構わないことだった。彼は初めて他人に自分自身を語る。
「私は地方の文官の家庭の次男に生まれた。姉と兄と弟の四人きょうだいだった。教養を身に着けるためにと神学校に放り込まれて、普通の生徒と同じように学び育ったものだ。私が他の同級生と比べて違ったところと言えば、逸話や伝承といった物語が好きだったことだろうか。物語の中では自由に何者にもなれるのがよかった。それこそ砂漠を越えて東の大国まで旅をしてみたり、な。その趣味が高じて研究を生業とし、夢中になっているうちにこんなところまで来てしまった。実に、楽しい旅だった。読むに堪えない凄惨な記録でさえも、人の歴史と思えば愛しさを覚えるものだ。
アシュナールよ、お前がどこまではっきりと言葉にしたかは知らないが、論文の中では冥界の門と起源の神話の関係も論じたのだろう。楽園における魂の永遠性は冥界の門によって支えられたものだった。故に、かつてその楽園を追放された我々の祖先とは、冥界の門を通ることは許されなくなった者たちである。そうだな?
さて。その彼らの死への恐怖とは、一体どれほどのものだったろうな。当時は当たり前だった永遠が失われて、故に魂の消失した後のことなど誰も知らず、そもそも想像すらもしたこともなかったのだろう。しかし冥界の門を通れなくなった以上、彼らはいずれ自己が消失し無となることが運命づけられてしまった。無となることを恐れた末に、彼らは冥界の門に拠らない魂の救済という願望を擬人化し、ついに神を発明してしまった。妄想が妄想でなくなるまで神に救いを求めた末に、死に臨んだ者たちの死に際の瞬間を思うと、私は今でも胸が締め付けられるよ。ほんの一瞬でも、自分たちが見出した神がただの妄想なのだということを思い出してしまったならば、神は虚像となり果ててしまうのだから。神の存在は真実であると自分に言い聞かせ、そのように言い聞かせることさえも無自覚にして、意識が消える最期のその瞬間まで狂い続ける。過去も現在も、人とはなんと悲しい生き物であるか。
これは、もしも冥界の門が存在するならば、という仮定に基づく私の想像、退廃的でしかし甘美な想像であり、私にとっては長らく架空の物語でしかなかったものだ。しかしアシュナール、お前が、お前の行った告白が、この空想を生きた物語にしてくれたのだよ。もちろん礼は言わんし、お前が気に留める必要もなく、私自身お前に謝るつもりもない。私にとってお前とはそのような存在だった、それだけのことなのだ」
語り終えたハスターラ枢機卿はゆっくりと息を吐き、「もう行きなさい」と言って、再び深く揺り椅子に沈んだ。
邸宅を出た後にアシュナールは自分に言い聞かせる。自分とハスターラ枢機卿は同じ道を歩いたが、決して自分はハスターラ枢機卿の後継者ではない。自分は、ハスターラ枢機卿という人が存在したという事実を記憶したうえで、自分の行くべき道を行くのである。
ハスターラ枢機卿の訃報は後日、砂漠の地で手紙にて知った。
16.
アシュナールが砂漠の地に戻るのは七年ぶりのことである。
久々に訪れてみて最初に感じた大きな変化は、マハグールたちのいる街まで馬で来られるようになっていたことだった。以前は砂漠の入り口で砂鯨に乗り換えていたが、現在ではしっかりとした街道が敷設されたおかげで、馬の脚がここまで届くようになった。道中も何組かの馬車の商隊とすれ違ったものだ。アシュナールを運んでくれた御者も、ここ数年ですっかり様子が変わったと感想をこぼしていた。「これもカシュート様のおかげですな」とも言っていた。
街に入ると人の賑わいは一層大きなものとなる。その中で特に目を引いたのは、円形の広場の中央に設えられた池である。地下から水を引いているのだろう。石造りの縁の内側に清水がこんこんと溢れ、収まりきらない水は惜しげもなく縁からこぼれて石畳を濡らしていた。細く刻まれた溝が排水溝の代わりとなり、広場の端の方まで水が行き渡って濡れている。もちろんそれらの水はたちまち乾くため、広場の外周に近付くほどに元の石の色に戻るのだが、乾く過程で水が地熱を奪うおかげで、砂漠の地とは思えないような爽やかな涼を得ることに成功しているのだった。必然的にここには特に多くの人が集まっている。
その大通りから少し離れた区画に教団の布教活動の最前線とも呼ぶべき聖堂がある。市場の活気もここでは遠いものの、礼拝に訪れる信徒たちは数多くおり、それぞれが言葉少なに神へ感謝を捧げたり己の罪を悔いたりしていた。聖堂前の庭園は近年増築されたものなのだろう。この地には珍しく芝が絨毯のように敷き詰められており等間隔に植えられた低木が砂の風に吹かれながら眩い新緑をそよがせていた。
聖堂の中に入ると、青金石と銀を砕いて混ぜた石が床に大きな聖印を描いているのが見えて、さすがにアシュナールはうんざりしてきた。カシュートも権威をひけらかすために象徴に徹したわけではなかっただろうし、浪費はマハグールが忌避するところの堕落の第一歩である。
奥の事務棟でマハグールの名を出して取り次いでもらうよう依頼する。間もなく階上から懐かしい顔が現れ、明るい表情で「やっと来たか、遅かったな」と悪態をついた。七年前に神学校の卒業式の後に別れた時と同じ気楽さであるが、七年という時を経て、マハグールはますます精気を漲らせていた。
「どうだ、この街もずいぶん立派になっただろう」
「いささか悪趣味な気もするが」
「はは、それは否定しない。しかし、みすぼらしいままにしておくとうるさい連中がいるものだし、権威を演出することで物事が円滑に進んだ側面もあるというのは事実だな」
「すっかり君は私よりも現実的な人間になったようだ」
「神大学校の図書館に引きこもっていると、神に近付く分浮世離れするものなのだろう」
七年の隔たりを感じさせない気心の知れた仲の気楽さとは、素直に良いものだと感じた。
人に荷物を預けて今後寝泊まりする部屋に届けてもらうよう頼んだ後は、アシュナールはマハグールの案内で知人を訪ねて回った。途中でヒッタが聖堂内の教室で教鞭を取っているのを見た。アシュナールたちのかつての教え子たちは教会に関連する職を得ていて、それぞれが立派に役目に果たしている様子も見た。これらはいずれもマハグールの手紙の通りである。
一通り見てまわった後は応接室で休憩を取る。扉を叩く音がして、法衣を着た少女がマハグールに何かを耳打ちして、マハグールは頷いた。カシュートの側仕えをしている人なのだという。彼女が部屋を出た後に、マハグールは言った。
「カシュート様にお会いするのは明日か明後日だな」
「お忙しいのか」
「まあな。教団もまさか彼女がここまでうまくやってくれるとは思っていなかっただろうよ」
「それは褒めているのか皮肉なのか、どっちなんだ」
「僕視点では褒めていて、教団視点では皮肉だ。意のままに操るつもりだった人形が一丁前に意思をもって自律的に動いているのだからな」
「それでも彼女の頑張りの結果、教団が砂漠の地に進出する足掛かりが出来上がったのだから、教団としても文句はないだろう」
「まったくだ。彼女は本当によくやっているよ。心の底から尊敬する」
「今の状況はどの程度彼女の希望通りなんだろうな」
問われてマハグールは椅子にもたれて腕を組み、天井を見上げた。
「半分にも満たないだろうな。結局、ザカタストラ国から来た連中がずいぶん牛耳るようになってしまった。もちろん、あの連中が橋渡し役になってここに数多くの人員や資材を運んできたおかげで、街道の敷設や街の整備が進んだのは事実だし、それにより人々の暮らし向きが良くなったのも事実だ。しかし、連中は内心では昔と変わらず砂漠の民を見下している。カシュート様も度々苦言を呈するのだがな、その点に関してだけは、連中は頑なに耳を閉ざしている」
「まあ、そんなものだろうな」
深く考えてみるまでもなく、一部の司祭たちの傲慢で横暴な態度は容易に想像できた。
「あとは、そうだな。教団の教えが本当の意味で浸透しているかというと、難しいというのが率直な感想だ」
「言語の問題はだいぶ解決したんじゃないのか」
「ああ。そこが解決したからこそ顕在化した問題であり、僕が昔に予想した通りの状況になっている」
アシュナールは頷きで話の続きを促した。
「冥界の門というのがあるだろう。この地の人々が直面する迷いは、まさにこれだ。人は死後、冥界の門を通るべきか通らざるべきか。両親や祖父母からは門を通ることで現世への再生が叶うと教わったが、教団の教えでは神から魂の救済を賜った後は現世に戻ることはないとされている。現世に戻らないということはつまり冥界の門を通らないということになるのだが、自分はどうしたらいいのか。こういうことだ」
「彼らからすれば当然の疑問だろうな」
「別れる前に君に課していた宿題だ。さあ、答えを聞こうじゃないか」
マハグールは身を起こし、前のめりになってアシュナールの顔をじっと見た。
「君が知りたいのは、教団として砂漠の民と向き合うにあたり、彼らの中にある冥界の門という概念をどう位置付けたらいいか、ということでいいかな?」
「そうだ」
アシュナールは考える。さて一体どこまで話したものか。マハグールの口の堅さは疑っていないが、彼はアシュナールがこれから語る可能性に耐えられるだろうか――否、それは全て本人が決めることだろう。
「そうだな。結論から言うと、教団の思想と冥界の門を共存させるのはほとんど絶望的だと思ったほうがいい」
これはマハグールの望んだ答えではなかったらしく、残念そうな様子を見せた。しかしこの程度はマハグールも覚悟の範疇であるため、今すぐ反論しようという意思は見せない。アシュナールは続ける。
「私たちがまだ子供だった頃に、同級生たちが私の奇跡の体験について目を輝かせながら語った話を覚えているだろうか」
「君が神の恩寵を得て悪魔の軍団を追い払ったというあれか」
「そうだ。あの話のなかでは、悪魔たちは地獄に通じる門から出てきたということになっていたが、冥界の門はそのように地獄に通じるものであると解釈した方が、まだ教団の教えと整合性が取れる」
「つまり君はこう言っているのか。人々には、あなたたちが先祖代々信じてきたことは悪魔の甘言であったと。僕にそう言えというのだな」
「そこまで直接的な言い方はしなくていいが、教団としてはそういう解釈をするとうい立場を取らざるを得ない、ということだ。もっとも、善行によって救済に至るという点は、教団本来の教えでも冥界の門の考え方でも、お互い一致しているのだから、その点を強調したうえで、神に帰依することを促していくのが現実的だろう。一方、こちらから積極的に冥界の門に言及するようなことはしない。こんなところが落としどころではないだろうか」
「あれだけ冥界の門に執着していた君の答えがそれか。随分つまらない結論に落ち着いたものだな」
マハグールは釈然としていない。それはそうだろう、とアシュナールは思う。アシュナールの性格をよく知るマハグールだからこそ、彼は身を乗り出し、アシュナールに詰め寄った。
「正直に言ってみろ。この七年で君は何を掴んだ。こんなつまらない話に七年も費やすような奴じゃないだろう、君は」
「聞いたら君はもう知らなかったでは済まされない立場になるがいいのか?」
「それが怖いならさっきの君のつまらない答えで満足しているさ。君が知の探究に勤しんでいる間、僕たちも僕たちで手紙には書けないような危ない橋を渡ってきた。多少のことでは動じないぞ」
「そうか」
アシュナールは小さく笑い、腹を括った。マハグールのこのような姿勢は実に好ましいものである。
「神と人間の間で交わされた契約の神話があるだろう。我々の祖先は楽園を追放された末に、神と契約を結ぶことで魂が救済される可能性を得た」
「ああ」
「あの神話で語られた楽園は実在しており、しかもそれはこの砂漠の地ではないか、と私は考えている。根拠は語ると長くなるから今は割愛するが」
「ばかな」
「言いたいことは後で聞くから、今は先に話させてくれ。今僕たちがいるこの場所こそが楽園であるとしたうえで、冥界の門という存在を考慮すると、我々の信じる神とは冥界の門の代替物であるという解釈に至る。わかるか。
まず、かつて楽園が永遠の楽土たりえたのは、冥界の門なるものにより、魂が循環し再生していたからだと考えられる。そして、その楽園を追放された祖先とは、二度と冥界の門を通れない人たちであるから、彼らは自分たちの魂が消え失せてしまうことに、ひどく怯えていたと考えられる。これらを踏まえてあの神話を再解釈すると、かつて冥界の門に拒絶されて現世への再生を拒まれた祖先たちが、自分たちの救済を妄想した末に神を生み出した、という解釈が成り立つ。
教団の教えと冥界の門の概念は、魂の循環を認めるか否かという点で決定的に矛盾する。その対立があるなかで教団が冥界の門の存在を肯定するということは、つまり突き詰めていけば自分たちの教えは誤りで、ひいては信じ崇める神が虚像だったと認めるようなものだ。そんなこと、教団として許せるはずがない。だから、僕は教団の思想と冥界の門は両立しない、と言った」
「……前言撤回させてくれ。よくもこんな話を聞かせてくれたな」
指で頭を押さえたマハグールを見て、アシュナールは思わず笑ってしまった。
「君のことだからそれなりに根拠があって言ったのだろうが、まさか教団そのものを否定してくるとは思わなかったぞ」
「だから言っただろう。まあ、いざとなったら狂人の妄言と笑い飛ばせばいいさ」
マハグールは深々とため息をつきながら、いざとなったらそうさせてもらう、と呟いた。
「突拍子もなさ過ぎて、今すぐにはうまく返事ができない。落ち着いたら君に確認したいことが出てくるだろうから、その時に改めて訊ねよう」
「君の立場ならこれ以上掘り下げないほうがいい話題じゃないのか」
「君はわかってないようだが、これは僕自身の信仰にも関わる話だぞ。聞かなかったことになどできるものか」
マハグールは深刻な表情で押し黙ってしまった。アシュナールは、今の話が彼のような敬虔な人物にとっては衝撃的な内容であることは自覚しているつもりでいたが、一方で親友だと思って気楽でいたことを少しばかり後悔した。
翌々日、カシュートへの謁見ができることになった。マハグールは気を取り直したらしく、普段と変わらない態度でアシュナールの部屋の扉を叩き、要件を伝えてくれた。
「謁見?」
「そうだ。君はまだピンと来ていないようだから釘を刺しておくが、彼女はもう気軽に訪ねられる人ではないんだ。少なくとも表向きは、な」
マハグールは自分が所有するもののうち上等な法衣をアシュナールに押し付け、「三十分後、最上階の祈祷室前に集合だ」と言って扉を閉めていった。そういうものなのか。アシュナールは独り言を言って、渡された法衣に着替える。
指定された場所に向かうとマハグールもすっかり正装をしていた。
「行くぞ」
マハグールは険しい表情で言い、目の前の扉を拳で鳴らした。中からの返事を受けて「失礼します」と言って中に入る。
祈祷室はその名に反して、静かに神と対話する場というよりは王城の玉座の間のようであった。磨かれた白石の平台の上には椅子があり、そこにカシュートが座っていた。その隣で、いくらか老けたハグナラガフ将軍が聖女を護っている。玉座から入口までは深紅の絨毯が敷かれ、中心には金の糸で聖印が刺繍されている。その絨毯を挟むように、正装の司祭たちが並んでいる。
年月を重ねてカシュートは円熟し、さらに神秘性を帯びたようだった。
マハグールが行う形式的な挨拶に、カシュートは頷いて応えた。
「この方々とお話があります。皆さまは席をお外しください」
穏やかではあるが有無を言わせない声は、この数年間の間に身に付いたものなのだろう。アシュナールが顔も名前も知らない司祭たちはそれぞれカシュートに一礼すると、アシュナールの脇を通って退室していく。すれ違う際に、皆がアシュナールの顔をちらりと覗き見ていき、その表情は一様に嫉妬と警戒心を織り交ぜたものだった。
その流れに乗じてハグナラガフ将軍も退室しようとしたが、カシュートが声を掛けて引き止める。
「せっかくの機会ですから、将軍はお残りください」
優しく微笑まれて、ハグナラガフ将軍は元の位置に戻り、石像のように動かなくなった。
扉が閉まり、アシュナールたちだけになる。
「どうぞこちらにお越しください」
呼ばれてカシュートの前まで行くと、マハグールが跪いたので慌ててアシュナールも真似をする。
誰も何も言わない。
顔を伏せていると視界に入るのはカシュートのドレスの裾までであるが、不意にそれが揺れた。カシュートが立ち上がったらしい。それから一歩前に出て、かつておんぼろの教会でよく四人でそうしていたように、膝を折って床に座った。
「ここには誰もいませんから。昔のように楽にしてくださいね」
寂しげな声でカシュートが言ったのを受けて、マハグールが大きく息を吐きながら後ろに手をついて胡坐をかいた。
「ああ、くだらない」
「本当ですね」
ようやく懐かしい空気になったのを確かめてから、アシュナールも姿勢を崩した。
「お久しぶりです、アシュナールさん」
「ええと、カシュート、様もお元気そうで」
「様付けなんてやめてください。今ぐらいは気楽でいたいのです」
「そうですか。ではお言葉に甘えて。カシュートさん」
「はい」
「お久しぶりです」
「ええ、本当に。アシュナールさんはすっかり大人になりましたね」
「そうですか。実はこう見えて、マハグールとは同い年なのですよ」
「まあ、そうだったのですか」
隣からマハグールが「おいおい勘弁してくれよ」と苦笑交じりに言ったのを聞いて、三人とも声を出して笑った。三十歳を超えて成熟した美しさを纏っていたカシュートであったが、冗談を受けてころころと笑う様子は昔と変わらず若い娘のようで、アシュナールは安らいだ心地をする。
カシュートは身を捻って振り返り、首を上げて言った。
「将軍もどうぞこちらへ」
「私は結構です」
「そうおっしゃらずに。せっかくご子息がいらっしゃるのですから。ね?」
アシュナールが父に目を向けると、父もこちらを見ていたことがわかった。過去に父が教団とアシュナールに関してどのような約束をしたのかはわからないが、今なおそれに縛られている者の目であった。ハグナラガフ将軍がアシュナールの父であることは、さすがにもうカシュートたちには知られていたらしい。元々隠さなければいけない話題でもなかったのだが。
「私たちの神は、親子や友人が親しくすることを咎めるなどという、冷淡な御心はお持ちではありませんよ」
神にも等しい聖女の言葉を受けて、ようやくハグナラガフ将軍はアシュナールの父として輪の中に入って腰を下ろした。
「お久しぶりです、父上」
「無事でいるなら何も言うことはない」
「母上もお元気でいらっしゃいますか」
父は頷きで答えた後、アシュナールの視線に耐えられないといった様子で目を逸らしてしまった。
「アシュナールさん。将軍はとても悔いておいでだったのですよ。幼いアシュナールさんを砂漠に連れ出さなければ、こんなことにはならなかっただろうに、と」
「カシュート様、その話は」
「まったくもう。いいですか将軍、お二人は親子で、お互いまだご存命で、今こうして会って、お話ができているのです。気持ちは伝えられるときにちゃんと伝えましょうよ」
改めて見る父の横顔は見たこともないほどに苦しげなものだった。目尻には深い皺があり、頭髪にもずいぶん白髪が増えたものだと思う。率直に、老けたな、と思う。アシュナールが砂漠の熱病に倒れたのは、もう十六年も前になるが、この人は十六年間ずっと苦しんできたのだと思うと、申し訳なくて仕方なくなる。
アシュナールは背筋を伸ばして言った。
「長らくご無沙汰であったこと改めてお詫び申し上げます。神学校に進学して以来、色々なことがありましたし、父上の期待を裏切りもしました。ですが、私は今の自分に満足しておりますし、あなたの息子であることを誇りに思っているのですよ。だから――」
「もういい。何も言ってくれるな」
鎧の擦れてけたたましく金属音が響き、父は立ち上がった。そしてその場で背を向けてしまった。つくづく彼は己に厳しく不器用な人なのだとアシュナールは思った。カシュートが不安そうに父に向って手を伸ばそうとしたのを諌めてアシュナールは言った。
「そっとしておいてあげてください。父にとって許しとは人に与えてもらうものではないのです」
「アシュナールさんは将軍のことをよくご存知なのですね」
「ええ。父の気持ちを知ることができて私は十分満足しております」
そうですか、と言ってカシュートはアシュナールとマハグールの方に向き直った。
しんみりとした空気の中では他愛のない話をする気にはなれず、親しい者同士特有の沈黙を味わう。それぞれ長い時間を経て再会した人たちであるが、内面は昔のままであることにほっとする。昔はここにもう一人、ヒッタがいた。
「ヒッタ様もお変わりなく元気そうでしたね」
先日、子供たちを相手に教鞭を取っていた様子を思い出しながらアシュナールは言った。
「あの人も老けたでしょう」
「遠目に拝見しただけですが、以前とさほど変わらないように見えましたが」
「でも会って話をすると、近頃は体力が落ちただの、白髪が増えただの、そんなことばかり言うのですよ」
「元気のある子供たちの相手をするのに体力を使うのでしょうね」
「そうなのだと思います」
「カシュートさんは子供たち相手にお話はされないのですか」
カシュートは首を横に振って言った。
「私も子供たちとたくさん関わりたいのですけどね。なかなか時間が取れなくて」
これを受けてマハグールが会話に割って入る。
「だけど月に一回は教室で講話をなされているでしょう」
「そうですけど、あの場でするのは自分で選んだ話ではありませんからね」
カシュートは寂しげな笑みを浮かべた。アシュナールは訊ねる。
「話す内容は誰かに決められているのですか?」
「ええ。しっかり台本があって、その通りにやるようにと側近の方に言われてしまいます。本当はあの人と一緒に相談しながら決めたいのですけどね。聖女として果たすべき役割を考えてくださいと言われてしまうと、私は我儘も言えないのです」
「未来を担う子供たちに心のこもった講話をするのも聖女の大事な役割でしょうに」
「まったくです」
「では周囲の者たちを説得させましょうか。おいマハグール、できるな?」
意地の悪い笑みを浮かべながらマハグールを見遣ると、マハグールは憮然と目を逸らしながら言った。
「神大学校のお偉い博士様が命じればいいだろう」
「なんだ、君の手にある権力はただの飾りか」
「黄金の錫杖は自由に扱えるものではないというのはカシュートさんが証明しているぞ」
「まったく、窮屈な世界だな」
「君が奔放すぎるだけだろう。人間を七年間も世間から切り離して野放しにすると、ここまで傍若無人になるのだな。いい見本だ」
このような二人の様子を見て、カシュートは目尻に涙を浮かべながら笑った。アシュナールとマハグールは互いに目を合わせ、にやりと笑いあう。
このような話をしているうちに、時間は過ぎていった。約束していた時間を超えつつあり、祈祷室の外が何やら騒がしい。待機する司祭たちは中の様子を伺いたいのだろうが、それをしていいものかどうか逡巡しているのだろう。
「名残惜しいですが、もう時間ですね」
見送りがてらカシュートとハグナラガフ将軍は扉の前まで来てくれた。
「今日はとても楽しい時間でした。本当にありがとうございました。お二人とも、これからもどうぞお元気で」
「こちらこそ、今日はありがとうございました」
アシュナールは礼を言って外に出てから、カシュートがいやに寂しげな顔をしていたことに気付いたが、周囲の刺々しい視線から逃れるべく足早に去ることに意識を向けているうちに、その気付きはいつの間にか意識の外に漏れていた。
17.
カシュートへの謁見からひと月ほどが経ち、アシュナールが砂漠の暮らしの勘を取り戻した頃のこと。秘密裏に計画されていた独立派掃討戦がいよいよ実行に移された。その報せはアシュナールにとって寝耳に水であった。
マハグールも計画の存在は知らされていなかったらしく、カシュートとハグナラガフ将軍の不在から本件を知り、知己の軍の関係者に頭を下げ倒してようやく障りない範囲で計画の概要を教えてもらったのだという。
ここ数年、国軍は砂もぐらの巣のように点在する独立派の拠点を一つ一つ襲撃し、捕虜から他の拠点の場所を聞きだしては襲撃し制圧するということを繰り返していたが、ついに独立派の本拠地を突き止めたのだという。そこはかつて砂漠の民だけで作り上げた国があった場所で、独立派にとっては聖地に等しい場所だという。そのような場所があるということはマハグールも知っていたが、具体的な場所がようやく明らかになった。独立派の心の拠り所を制圧することができれば、独立派に対して大きな優位性を築けることは想像に難くない。当然独立派も彼らにとっての神聖な地を死守するだろうから、今回の戦は特に激しいものとなることが予想されていた。
このような話を聞きだす中で、マハグールは思わずその関係者の胸倉を掴んで怒鳴ってしまったという。それは、今回の掃討戦にはカシュートも同行すると聞いたからだ。
「なんだって?」
「一言で言えば、戦意高揚のため、だそうだ」
激しい戦の中では当然命を落とす者も現れるだろう。ハグナラガフ将軍が鍛え上げた精鋭たちはそのようなことで臆するほど軟弱ではないが、決して安い命ではない。誇り高き命とは、相応に価値や意義のあることにこそ捧げられるべきものである。今回の掃討戦を、ただの国軍と独立派の長年の因縁の決着の場とするのではなく、自分たちが敬愛する聖女、ひいては神の聖名のもとで行う神聖な戦争であると位置づける。神の教えを拒み神に仇なす者どもを討ち滅ぼすことは正しい行いである。たとえ命を落とすことがあろうとも、神は聖女の目を通して正しい行いを見届け、必ずや英霊の魂をお救いになられるはずだ。そのような約束をすることで、兵士たちはより勇猛に死を恐れることなく戦に臨むだろう。このような意図であった。今回の戦は趨勢を決するものとなるからこそ、確実に勝たなければならず、そのためならばありとあらゆる手段を講じるのだ。
「そのためにカシュートさんを危険に晒すというのか」
「どうせ教団側の大馬鹿者が考えたことだろうよ」
アシュナールは戦場を想像してみる。平坦な砂漠に整然と並ぶ兵士たち。彼方には廃墟と化した古の都があり、独立派の者たちが決死の覚悟で体を震わせこちらを睨みつけている。兵士たちの壁の最奥には一つの輿があり、その上にはカシュートが座っている。彼女のことだから、必要以上の責任感で兵士たちの戦いを見届けようとするだろう。剣で斬られる人、槍で貫かれる人、棍で頭を砕かれる人、弓で心臓を射抜かれる人、敵味方問わずそういう人々の最期を聖女として見届けようとするのだろう。やがて、独立派の人間が輿に座るカシュートに気付き、遠くから血に濡れた剣の切っ先を突き付ける。「裏切り者め」と吼える声は獣のそれに等しい。カシュートは聖女である以前に砂漠の民である。生来の気質ゆえに同胞の恨みをも一身に受け止めてしまうだろう。
最悪な結末はカシュートが命を落としてしまうことで、そうでなくてもカシュートが心に深い傷を負うことは確実であるように思われた。
「……ヒッタ様はこのことを知っているのか」
「少なくとも公式的には知らされていないだろうな。カシュートさんが個人的にヒッタ様と連絡を取っているのなら話は別かもしれないが」
「いずれにせよ、私たちから持ち掛ける話題ではないな」
「ああ」
重苦しい沈黙の末に、アシュナールは呟いた。
「皆の無事を祈ろう。カシュートさんだけでなく、今回の戦に臨む全ての人々の」
アシュナールは手を組みながら己を嘲った。散々神について考察し存在を解体したにもかかわらず、結局このような時には神に縋り奇跡を願ってしまうのだから。その身勝手さに呆れつつも、己の軽薄さはいくらでも詰ってもらっても構わないから父やカシュートたちを無事に帰してほしい、と心から願わずにはいられなかった。
それから数日間は不気味なまでに穏やかに日々が過ぎていた。商売や仕事に勤しむ商人と職人たちは活気づき、子供たちは無邪気に聖堂の庭園を駆け回る。毎日の神への祈りは滞りなく捧げられていた。このような穏やかさはこれまでも遠い戦線で戦う兵士たちによって築かれていたものである。戦争の生々しさを想像して初めて今の穏やかさを不気味に感じてしまうのは、いかに自分たちに想像力がなかったかを告白しているのと何も変わらない。アシュナールは今この瞬間も血を流して命を散らしているかもしれない人たちのことを祈るが、結局それ以上のことはできなかった。
組んだ手を解いて瞑っていた目を開く。そこは多くの信徒が出入りする礼拝堂である。ザカタストラ国から来た者も、砂漠の民も、長旅をする商人も、それぞれがそれぞれの理由で神に祈りを捧げていた。その心の内は神のみが知ることであり、アシュナールには窺い知るべくもない。
アシュナールは礼拝堂を出て、市場へ向かう。研究のための調査をするのにあたり、今後の旅に必要なものを調達するのだ。詳しい者を雇って準備を一任してもよかったのだろうが、こういうことは一通り自分でやってみて、やり方を学んでおく方が後々のためになるものである。
……戦況はどうだろうか。もう間もなく独立派の聖地での戦闘が決着し、カシュートたちが帰還するだろう。その後も戦後処理のために戦地と街を往復する動きがしばらくあるのだろう。安全性と交渉の結果次第であるが、アシュナールはなるべく早くにその独立派の聖地に赴き、ある調査をしてみたいと考えていた。
もしも教団の伝承で語られる楽園がこの砂漠の地であるならば、それを示唆する物証があるはずだ。この地に関する直接的な記録のうち公的なものはいずれも六百年前の古の聖者の旅以後のものであり、それ以前のものは公式には存在しないことになっている。しかしアシュナールの七年間の研究のなかでかろうじて集めた記述が正しければ、神歴七百年頃、千年前の災厄以前、この地は自然豊かな土地であった可能性が高い。かつてこの地には草花や木々に溢れ、多くの動物たちが命を育んでいた。それらの痕跡が地面の奥深くに眠っているのではないか、とアシュナールは考えている。
もちろん砂漠の地に着いて早々に穴を掘ってみたし、聖堂の建設にあたった者たちから工事の過程で何か見つからなかったかと訊ねることもした。しかし特に有益な成果は得られなかった。
やはりここは広大な砂漠である。やみくもに砂を掘り下げても時間を浪費するだけで終わってしまう可能性が高い。時間や資金など限りある資源を有効活用するためには、効果的な仮説を立てなければいけない。
そこで思い至ったのは、いまから三百年ほど前に存在したという砂漠の民の王国であった。砂漠の民が教団の歴史に登場するのは六百年前の聖者の探訪からであるが、聖者の探訪以後の彼らの立場はどのようなものであっただろうか。もっとも、全てが逸話の通りではないだろうが、今は真実を確かめる術も今はないので、ここでは仮に逸話の通りだったとして、という条件付きの推測をする。この前提において、砂漠の民が置かれた立場とは良好なものであったとは言い難いだろう。これまでずっと地下で暮らしていた人々が地上に出てみて、果たして最初から自立した生活ができていたとは考えにくい。教団と砂漠の民とでは文化水準に大きな差があっただろう。故に、最初期の砂漠の民は奴隷と同等かそれ以下の扱いを受けていたと考えるのが自然である。やがて年月が経ち、砂漠の民同士の交流が生まれてくる中で、彼らが自分たちの置かれた状況を改善するために立ち上がったのは必然と言えよう。長い闘争の果てに、ついに彼らは念願の砂漠の民だけの国を作り上げるに至った。
しかし国とは作り上げることが終点ではなく、むしろ始点である。これから自分たちの国を営み栄えさせるにあたって、おそらく彼らは「自分たちの歴史」を求めたのではないか。ここは神に見捨てられた地で、自分たちは自分たちを虐げてきた者たちに一方的に助けられた存在である――そのような惨めな歴史を正史として受け入れたいと思う者などいるだろうか。ザカタストラ国の人間がやってくる以前から、自分たちは立派に地下で暮らしてきたではないか。自分たちは憐れまれ虐げられるだけの存在ではなく、誇りに思えるような自分たちの起源があるはずだ。しかしそれらは数百年も昔のことであるから、当時国を作り上げた者たちの生きた記憶ではない。
ではそのとき、彼らは何をしただろうか。自分たちの起源を説明できるような物語を作り、それを正当化できるような根拠を探したのではないか。自分たちが地下での暮らしを余儀なくされた理由とは何だったのか、そして地下での暮らしを始める前は、自分たちはどのような世界で暮らしていたのか。これらのことに当時の人々が無関心であったとはアシュナールには到底思えない。間違いなく自分たちの誇れる過去を証明するような何かしらの痕跡を探し求めたはずだ。それこそが今、アシュナールが求めているものである。そして、その発見は、アシュナールが一人で広大な砂漠を探索するよりも遥かに高い確率で成功しているはずである。
以上の理由から、王国の跡地はアシュナールにとって探索する価値のある場所であった。
市場で買い集めた装備を担いで聖堂に戻る。居住棟に戻るために事務棟を経由したところで、アシュナールは途端に空気が張り詰めているように感じられた。不穏な予感がする。沈黙の中で足早に廊下を歩く者の靴の音が嫌に響いて、すれ違う人の表情は強張っている。何かあったのだろうか。アシュナールは逃げるように自室に戻る。
考えたくない可能性は無意識のうちに意識の外に放られ蓋をされる。しかし実際は非情なものであり、控えめに扉を叩く音によって現実と引き合わせられる。
部屋の外にいたのは、かつての教会でアシュナールとマハグールが学校を作ろうとした際に、最初に訪れてくれた兄妹のうちの妹だった人である。すっかり少女というよりは女性と呼ぶに相応しいほどに成長し、今ではカシュートの側仕えをしていた。
思いがけず親しい人が訊ねてくれたものだが、表情は暗く、今にも泣き出しそうなのを必死に堪えている。そして彼女は絞り出すように言った。
「カシュート様が、亡くなられました。ハグナラガフ将軍も……」
時が止まったような心地がしたが、それは気のせいに過ぎないことをアシュナールは知っている。思考が停止する一方で、冷静でいる自分が不思議だった。
その訃報は真実なのか。真実だとしたら、なぜ父がついていながらカシュートさんが命を落とすようなことがあるものか。ましてや父自身までもが? 誤報であるとするならどうしてそんな不謹慎な情報が出回るものか。誰が、何のために。
アシュナールはようやく自分が冷静ではないことに気付き、深呼吸をする。
「伝えてくれてありがとうね」
カシュートのことを誰よりも慕っていた娘は一礼すると、この情報を伝えるべき人に伝えるという自分の役目を果たしに次の場へ向かっていった。
氷よりも冷えた頭は聖堂の中にいる全ての人たちの挙動の全てが見透かせるようだった。自分がマハグールよりも先にこの情報を得ることはないだろうから、マハグールを含むこの聖堂内の権力者たちは既に事態を把握していて、今頃どこかに集まって相談をしているのだろう。当然情報が真実であるならば、これは慎重に扱われるべきものである。そのような機密をこそこそ話し合う場所など、片手の指で数えられるほどしかない。
アシュナールの足はある場所に向かっていた。そこは決して一般の信徒が近寄らない場所で、マハグールを始めとする司教以上の立場の人たちが執務をする建物である。その最上階、奥まったところにある小さな会議室。連中は普段は過剰に見栄えを気にするくせに、重大な秘密の隠し場所にはとにかく遠くて奥まっていて目立たないところを選ぶ。それではまるで神の怒りを恐れているようではないか。うっかり皿を落としてしまって、割れた皿の破片を部屋の隅の物陰に隠そうとする子供にも劣る品性である。
扉はアシュナールが思っていたよりも勢いよく開いたらしい。突然の大音に、飛び上がるという表現が比喩ではないほどに体を震わせて教団の長老たちが振り返る。
「アシュナール、どうしてここに」
「遅れてしまったよ、マハグール。すまなかったね。どういう状況か、教えてくれないか」
アシュナールは空いていた席の椅子を乱暴に引き、座る。何か言いたげな者には鋭く冷たい視線を投げて黙らせる。それでも何か文句を言おうものならば、徹底的に争う用意はあった。
「彼は本件に極めて深く関係する人です。真実を知る権利はあるでしょう。どうか私の名において彼の同席を認めていただきたい」
マハグールの提案を受けてようやく長老たちはしぶしぶこの無礼な闖入者を受け入れた。
「ご厚意に感謝申し上げます、マハグール様、それから皆様」
マハグールが、仕方ない、といった様子で頷くと、秘密の話し合いが再開された。
議題は、民衆に対してカシュートの死をいつどのように公表するか、ということだった。
18.
カシュートの葬儀は聖堂で一週間かけて行われた。
連日多くの人々が聖堂に安置された棺の前を訪れ、カシュートの死を悼み、別れを惜しんでいたという。そのための列は昼夜途切れることはなく、彼女がどれだけ多くの人に慕われていたかをよく示していた。聖女の称号を授与されてからの九年間の功績を何よりも示すものである。
一方、ハグナラガフ将軍の葬儀はザカタストラ国で行われるため、遺体は早々に運ばれていった。アシュナールも将軍の息子として遺体の搬送に同行していた。
その道中、将軍の副官であった人はカシュートとハグナラガフ将軍の最期について、以下のように語った。
独立派の掃討戦は順調に進んでいた。拠点を包囲して逃げ道を封じ、その日はいよいよ殲滅にかかる予定であった。将軍はあらかじめカシュートを安全な場所に避難させ、護衛も十分につけ、大事に備えていたはずであった。
しかし敵の中に相当な手練れの暗殺者がいた。その暗殺者は敢えて侵入の痕跡を残しながら拠点の奥深くに入り込み、カシュートの護衛につけていた兵士たちの首を切り裂いて殺害し、そしてカシュートの控える天幕に侵入した。ハグナラガフ将軍たちが駆け付けたとき、暗殺者はカシュートの首に刃を当てていた。砂漠の言語で「やっと来たか」と呟いてカシュートの首を斬った。即死であっただろう。
ハグナラガフ将軍は暗殺者と長い死闘を繰り広げた。半端な者が割って入っても暗殺者はいとも容易くすれ違いざまに首を斬ってしまうため、周囲の者は手を出すことができなかった。せいぜい体を重ねて逃げ道を封じることしかできなかったという。
剣戟が火花を散らす死闘の最後は相討ちだった。ハグナラガフ将軍が暗殺者の左腕を切り落とし、暗殺者は将軍の心臓を突き刺した。その後、周囲の者たちが動きの鈍った暗殺者を囲んで剣で刺し殺したそうだ。
将軍とカシュートの訃報は兵士たちに作戦の完遂を決意させた。副官であった人の指揮のもと、独立派の拠点は隠し通路や隠し部屋なども含めて完全に制圧し、独立派の者たちは一人残らず殺されたか、あるいは捕虜にされた。アシュナールが捕虜の行く末について訊ねたところ、その人は言葉を濁したので、怒りに任せて結局全員殺してしまったことが察せられた。
現場は凄惨だったことだろう。しかしアシュナールは父とカシュートの訃報を聞いて以来ずっと頭が痺れたようになっていて、想像した凄惨さに感情を伴わせることができなかった。たくさんの人が亡くなり、そして、どうなったのだろう? 神にせよ冥界の門にせよ、死後の魂が安らかであることを願うが、実際のことは確かめようがないのでわからない。これが教団に身を寄せてから十数年を過ごした人間の発想かと思うと、アシュナールは我ながら苦笑せざるを得ない。
「何かおかしなことでも」
「いえ、我が身を振り返ってみて、皮肉なものだなと思うことがありまして」
父の右腕だった人は訝しがりながらも再び目を閉じ黙った。アシュナールはその人の全身を見る。年齢はアシュナールと父の間くらいで、顔に刻まれた皺の深さと巨躯に刻まれた傷跡が彼の並々ならぬ経験を示していた。彼が父と共に過ごした時間は、自分が父と過ごした期間よりも長いことだろう。この人がどういう人で、父とどのような経験を共有してきたのだろうか。わからない。アシュナールは改めて自分が父のことをほとんど何も知らないのだということに思い至った。
「父は、あなた方にとってはどのような人でしたか?」
その人はゆっくりと目を開き、過去に思いを馳せながら言葉少なに語った。
「偉大な方でした。国家への忠誠と献身、勝利のための軍略と形勢判断、配下への模範と良心、そのいずれにおいてもあの方に勝る人を私は知りません」
「そうでしたか。長年父を支えていただきありがとうございました」
「礼には及びません。私こそあの方の下で共に戦えて幸福でした」
父という人物の人となりを語るのにこれ以上の言葉は不要である。そのような人が自分の父であった。
十数年ぶりに実家に戻り、一晩休んでから葬儀を行う首都の聖堂に向かう。馬車には母を伴った。母とは挨拶に始まり、近況のこと、父の最期のことをいくらか話したら早々に話題が尽き、残りの到着までの時間は誰もが押し黙ってやり過ごした。
それから訪れた葬儀の日は、虚しいほどによく晴れた秋の日だった。
参列者は国軍の関係者がほとんどで、教団からの参列者は数えるほどしかない。父のこれまでの功績――とりわけ砂漠の地で教団が布教を進めるにあたり、安全な環境を築いたこと――を考えると、父は冷遇されていると言っても差支えのないものだった。それほどまでに聖女カシュートの命を護れなかったことが父の名誉を傷つけているらしい。ただしそのことを罪と呼ばないのは、教団なりに後ろめたく思うところがあって、国軍の感情を刺激したくないという保身の表れなのだろう。
下級の司祭がその身分に釣り合わない重責の中、たどたどしく魂の救済を願う祈りを捧げていた。式は滞りなく厳かな雰囲気の中で進行した。司祭の彼は未熟ながら置かれた立場の中でよくやってくれたものだ、とアシュナールは思った。父の死に際してなおこのようなくだらないことに頭を使わなければいけないという事実には辟易する。
神も、教団も、今は関係ない。今は不肖の息子として父を悼み、父の死と向きあうべき時間なのだ。
父、それからカシュートと、最後に会ったのはあの謁見の場であった。思えばあの時点で二人は自分たちが死んでしまう可能性を生々しく感じ取っていたのだろう。
振り返るほどに自分と父の関係は奇妙なものであったように思う。自分は顔も知らない二人の兄に代わり父の跡継ぎになることを期待されたものの、結局それは叶わなかった。わずか八歳で親子は離れ離れとなり、十一歳で親子の縁を断たされた。そのような自分とは父にとって一体何だったのか。父は自分を教団に引き渡したことをひどく後悔していたという。父と関わった数少ない瞬間のことを思い返せば、父が自分のことを愛していてくれたことは自明だった。そして母もまた自分のことを。
アシュナールの運命が変わったのは、やはりあの出来事である。全ての始まりとなった夢に思いを馳せる。白銀色の門と黒髪の少女の姿かたちは今なお鮮明で忘れることは決してない。またその時感じた瑞々しい心は今でも思い出せるが、黒髪の少女はもう自分よりも一回りも年下の女の子になってしまった。今この瞬間に留め置こうとしても記憶がどんどん遠ざかり、あれはもう過去のことなのだということが否応なしに自覚させられる。自分は遠いあの日の影を追って、両親を蔑ろにして、教団を踏み台にしてここまで来たが、まだ何にも到達できていない。これから先には手の届くものがあるだろうか。しかしそのようなことはもはや何度も考え尽くしたことである。たとえ仮に自分の末期の際に何も残らなかったとしても、自分の姿勢を曲げることはできない。黒髪の少女のことを知るのは自分ひとりだけであり、彼女の存在の痕跡はどこにもなく、故に自分があの出来事を忘却することとは、彼女の存在そのものの消失を意味する。
あの日見た奇跡を、なかったことにしてはならないのだ。
それはこれまで自分を守り育て支えてくれた人たち、これから自分に対してそのように接してくれる人たちに背いてまで目指すべきことなのか――そう問われて否と答えるには、もう自分は遠いところまで来てしまった。
そのときふと、今は亡きハスターラ枢機卿は、アシュナールの中に神がもういないことを知りながら、それでも「神を信じなさい」と言っていたことを思い出した。その言葉の意味するところが今になってようやく察せられる。道なき道を行った先で人の世に立ち返れる不思議な縁があるという奇跡を信じること。それはアシュナールが黒髪の少女の瞳の奥に見た真理にも通じるものである。人にとって不可知であるものも含めて一貫した法則があるならば、か弱い人類が救済装置としての神を生み出したこと、その装置が虚像である暴かれることもまた、この世を統べる法則の一部であり、法則の頑健性は損なわれない。ハスターラ枢機卿はアシュナールが人の心を忘れないための標を示していてくれた。
ふと我に返り、アシュナールは今が父の葬儀の最中であることを思い出した。
赤や青や黄色など色とりどりの花々が木棺を取り囲み、若い司祭が皆に対して説法をしている。葬儀の場では定番の話であり、善き魂がいかに神に認められ救済されるか、その彼方にある天国がいかに穏やかで永遠の平和が約束された場所であるかを語るものである。皆が沈黙する中、若い司祭の声が聖堂の奥までよく響いていた。
今日は虚しいほどによく晴れた秋の一日である。天窓から差し込む日差しは柔らかく聖堂内を照らしていた。白塗りの壁や、薄茶色の木材は眩く、空中を舞う埃が日を透かして輝いていた。人々の重苦しい沈黙は、それだけ父が慕われていて、彼の死が惜しまれている証拠である。隣の母は気丈に振舞いながらも、在りし日の家族の記憶を遡っているのだろう。蒸し暑く感じる空気も、時々吹き込む秋風が爽やかに押し流して、新鮮な空気と入れ替えてくれる。今日は悪くない日だと思った。
ようやく、アシュナールは父が亡くなったことを受け入れることができた。
19.
父の葬儀の後、墓の整備や生前世話になった人への挨拶、実家での片付けなどをしているうちに、三か月ほどが過ぎてしまった。季節はすっかり冬になっていた。
窓の外、冷たく乾いた風が裸の枝を揺らすのを見た。暗い雲が低く広がる様子は憂鬱が形を持ったよう。アシュナールは春までの数か月を実家で過ごすことに決めていた。
葬儀後にマハグール宛に出した手紙に返事があり、砂漠に戻るのが遅くなることに対して了解した旨と、向こうの近況が記されていた。マハグールの皮肉めいた表現をそのまま引用すれば、『教団の筋書き通りに、象徴としての聖女カシュートの完成は相成った』。神の教えを砂漠の地に広めるという使命を持って生まれた聖女は運命に導かれて養父ヒッタに見出され、彼の教えと愛を受けて育った。そして神より与えられた使命の末に、彼女は神の教えを拒む者の凶刃に倒れてしまった。神は大層悲しみ、怒りを以て悪魔の生まれ変わりどもに天罰を与え給うた。聖女カシュートの聖なる魂は神の住まう天国に迎え入れられた。おお、聖女カシュートの尊き行いを知る者たちよ、お前たちは彼女を模範とし、神に信仰を誓わねばならぬ、彼女の高潔な善行を後世に伝えねばならぬのだ――仰々しい書き方であるが、マハグールに言わせれば、大真面目にこんなことを聖堂で喧伝する大馬鹿者がいて辟易する、ということなのだろう。
また、手紙の中ではヒッタの様子も一言だけ言及されていた。見ていられない、とのこと。たった一言であるが、ヒッタの心中は察して余りあるものがある。もし仮にヒッタが今アシュナールの目の前にいたとして、何と言って慰めたらいいのかアシュナールには皆目見当がつかない。マハグールも同様だからこそ、ヒッタについては多くを書くことができないのだろう。
手紙をしまい、部屋を出たら、アシュナールは母の様子を見に向かう。主人を失った屋敷とは空虚なもので、外以上に肌寒く感じる。もう家を守る必要もなくなったので、使用人のほとんどに暇も出した。母は実家の縁者の家に身を寄せることにしたのだという。
母の部屋も既にほとんど片付いていて、この冬をやり過ごすために必要なものだけが残されていた。しかしそれも必要最小限であるから、空き部屋と呼んで差支えがないほどに空っぽである。母は窓辺に椅子を置き、背筋を伸ばして中庭の様子を眺めていた。
「冷えるのではないですか? お体に障りますよ」
「構いません。もう生きる甲斐も失った身です」
「そのようなことは冗談でも言っていただきたくないものですね」
母の足元には衣装などを入れた鞄が置いてある。今すぐ発つことになったとしても全く問題がないようだ。母は文字通り全てを失ってしまったのだ。
アシュナールは母の傍らに立ち、一緒に中庭を眺める。そこはかつてアシュナールが父に稽古をつけてもらっていた場所であった。しばしば母はその様子を二階の窓辺から見守っていて、アシュナールが手を振ればそれに応えて振り返してくれたものだ。それは春の日だったか、夏の日だったか、秋の日だったか。よく覚えていないが、少なくとも今日みたいな曇天の日ではなかった。母の目には在りし日の穏やかで色鮮やかな記憶が映っているのだろう。
もうここに自分の居場所はない。アシュナールは暖炉に薪を足してから部屋を後にした。
長い冬はこのようにして過ぎていった。暦上の春を迎えた日、母の出立を見送ってからアシュナールも生家を後にした。
アシュナールは砂漠の街に戻ってきた。
半年前にここを発ったときは街全体が喪に服し、通り過ぎるだけの商隊さえも遠慮して控えめに過ごしていたものが、今ではすっかり元通りの活気を取り戻していた。しかし聖堂まで戻ればやはり空気はどこか寂し気で、ここの人々が再び前を向けるようになるまでは今しばらく時間がかかりそうに思えた。
聖堂の裏手に霊廟を建てるべく、工事の準備が進められていた。それまでは仮の墓が聖堂の庭の、ヒッタが開く教室の近くに作られ、そちらには今も人が絶えないという。カシュートが聖女になる以前から親交のあった人々が訪れていた。ヒッタを現世につなぎとめているのは、そのような人々との思い出話のようである。
アシュナールがその仮の墓を訪れたときも、アシュナールの見知った顔が近くの椅子に座って思い出話に花を咲かせているところだった。
「ご無沙汰しております」
「おお、アシュナールさん」
立ち上がって迎えてくれたのはかつて大工見習をしていた若者で、一緒に井戸を掘ったこともある人だ。今では親方として若者たちを束ねる立場にあるという。一方彼の話し相手をしていたヒッタは、わずか半年の間にすっかり老いてくたびれてしまったようである。ろくに睡眠も食事もとっていないことは明白であった。
「アシュナールさん、ヒッタ様を元気づけてやってくださいよ」
ヒッタと目が合う。魂の抜け殻のようであった。やつれた体とは対照的に表情は穏やかで、目は不気味なほどに澄んでいた。その透明さは黒髪の少女のそれにも似ているような気もするが、ヒッタの瞳の奥には絶望だけがあり、ただただ何も無いとしか形容のしようがない。
「お元気……ではありませんね」
「おや、アシュナールさん」
ヒッタがアシュナールの名前を呼び、ようやく彼の目はアシュナールを捉えた。
「カシュート様のことは、残念でした」
「はい。そうですね」
それ以上かけるべき言葉が見つからなかった。この半年の間に彼が歩いてきた絶望の谷の深さは冥界にも届くほどだったことだろう。
「少し、歩きましょうか」
ヒッタはそう言って立ち上がると、先に向かって歩き出し、それから振り返ってアシュナールを待った。大工の親方は居心地が悪くなったようで、ヒッタとアシュナールに挨拶をして去っていった。アシュナールが歩き出したのを見て、ヒッタはゆっくりと足を進めだした。やがて二人は並んで歩く。
ヒッタは特に行先を決めていなかったようで、交差点に着くたびに立ち止まって、どちらに進むか考えていた。少し考えて、歩き出す。二人の行く先はどんどん人気のないところへ移っていく。午後も人々が積極的に活動する時間帯を過ぎ、そろそろ夕支度の準備に取り掛かる頃である。ヒッタの散歩もようやく目的地を得たらしく、二人はかつての教会があった場所に向かっていた。
教会があった場所には新しい家が建てられていて、窓からこぼれる灯りはそこがもう新しい住人の居場所であることを示していた。かつての教会は聖堂の完成と共に取り壊されていた。もう七年だか八年だか、それくらい前のことである。
様子が変わったのは教会の跡地だけではない。この辺り一帯は開発が進められ、道の舗装や古い建物の建て替えなどが行われていた。かつては戦乱の傷跡も生々しかった塀も、今では綺麗に塗り替えられたものである。これらの変化はカシュートが取り計らってくれたおかげである。変わらないのは足元を低く舞う砂埃だけであった。
「すごいものですね。私が二十年かけても何も変わらなかったのに、あの子が聖女になった途端にこんな風に変わったのですから」
「肩書だけの力ではありませんよ」
「ええ、もちろんです。あの子はとてもよく頑張っていました」
「カシュート様にとってヒッタ様が心の支えだったのだと思いますよ」
「彼女には望まぬことをさせてしまいました」
「聖女であること、ですか」
「はい。思えばあの日……アシュナールさんとマハグールさんを実習生として受け入れると選択したことが、そもそもの誤りだったと思ってしまいますよ」
ヒッタは発言を訂正しなかった。その言葉の意味を自覚しながらも口にせざるを得ないというのは悲しいものである。かつてアシュナールが中等部の三年生だった頃、高等部に進学した後の希望実習先を選んだときには思いもしなかった未来である。
「……そうですか」
「神学校から届いた依頼文書の前で悩む私に、彼女は言いました。やってみたらいいじゃないですか、賑やかになりますよ、と。愉快なことばかりではないことは承知していましたし、平穏だった毎日が変わってしまう可能性も覚悟していたつもりでした。しかしその一方で、何かが変わるかもしれないという期待がありました。ですが、このような未来は私の想像を超えていました」
ヒッタはアシュナールの方を向き直り、言った。
「これも全て神の御意思なのでしょうか。アシュナールさんは神大学校に行かれて、たくさん勉強をなされたのですよね。もう私よりもずっと神の御心に近い立場にあらせられるのだと思います。だからこそ、どうか教えていただきたいのです。私の最愛の人があのような最期を迎えたのは、全て神の御意思だったのでしょうか」
ヒッタは問いながらも、肯定も否定も求めていなかった。ただの確認である。神とは信じ崇めるに値するものなのか。しかし神への信仰とは損得勘定で行うものではない。理屈を超越して信じるか否か、それだけである。
「もし仮に神の御意思だったとしても、ヒッタ様はもう神を受け入れることができないのですね」
「はい。私はもう神を信じることができません」
静かに言い切ってから、ヒッタは首を横に振った。
「いえ、幼いカシュートを守ると決めたあの時から、とっくに私の中で神は失われていたのかもしれませんね――私があの子を守ると決めたというのに、私は」
ヒッタはアシュナールから目を逸らし、のぼったばかりの月を見上げた。そのまま消えていなくなりそうで、気が付いたときにはアシュナールはヒッタの手を取っていた。
「ヒッタ様は、これからどうするおつもりですか」
「さて、どうしましょうかね」
「ならば私の手伝いをしていただけませんか」
咄嗟に出た言葉であったが、良い考えだと思った。これ以上、人の心が壊れていくのを見逃すのは忍びない。
「私が? アシュナールさんの? どうして」
「私はこれからかつて砂漠の民の王国があった場所へ調査に行こうと考えております」
そこはすなわちカシュートが最期を迎えた場所である。ヒッタにとっては決して無意味な場所ではないはずだ。
「何の調査でしょうか」
「詳しくは道中で話しますが、神や教団の成り立ちに関わるもの、とだけお伝えしておきます」
ヒッタはアシュナールの方に向き直った。表情のない顔でただ一言、こう言った。
「お供いたしましょう」
アシュナールはヒッタの目を見る。絶望の奥に白い光を見た。それは神を射殺す光である。
20.
交易路とはオアシスのある拠点を経由して結ばれた道であり、その拠点以外に目印になるものはないのが普通である。だから、基本的に拠点間の道とはほとんど直線で結ばれているものである。その直線から逸れた場所に足を踏み入れる理由はなく、むしろむやみに命を危険に晒す行為であるとさえ言えよう。しかしアシュナールたちの目指す場所――古の砂漠の民の王国跡地――は、そのような空白地帯にあった。
そこはかつて砂漠の民が自らの国を築いた場所であるから、人が住むための最低限の条件、すなわち水場があったはずである。しかしアシュナールたちがそこに着いた時には、湖の痕跡は見当たらず、視界に入るのは荒涼とした砂地でしかなかった。崩れかかった石の廃屋たちが、かろうじてそこが人の暮らしていた場所だったことを示している。そして同時に、ここは一年以内に壮絶な殺し合いが行われた現場でもあった。アシュナールたちは長い黙祷を捧げた。
アシュナールは、道中の案内をしてくれた人に礼を言う。帰りは一週間後を予定している。それまで留まるか、近くの村に戻るかは本人に任せるが、どうせなら同行してくれた方が心強い。礼金を上乗せすると言ったら、その人は快諾してくれた。
「ではここで野宿の準備をしておきましょう」
そう言ってくれたので、アシュナールたちは早速辺りを見てまわることにした。
今回の調査に参加しているのは、アシュナール、ヒッタに加えて、護衛を頼んだ兵士が二人、それから案内役の砂漠の民である。護衛役の兵士は、先の掃討戦に参加した人たちであった。ここに着くまでの道中で改めて戦闘の様子を語ってくれたが、ヒッタがどういう気持ちでそれを聞いていたかはアシュナールが推し量るべきことではない。
いくらか地理を知る兵士たちの案内で王国跡地を見てまわったが、日が暮れるまでの二時間ほどで全体の半分以上をまわることができてしまった。かつての王国の規模の程度はわからないが、まがりなりにも国を名乗るにしては小さすぎるように感じられる。アシュナールが疑問を口にすると、兵士はこう言った。
「地下に空間があるのです」
兵士が言うには、廃墟の中には地下へ続く階段があり、その先には街がまるごとひとつ収まっているのだという。それはまさに迷宮と呼ぶべきもので、それ故に兵士たちも独立派を殲滅することに苦労したのだという。
「その時に作成した地図も持参しましたから、アシュナール様たちが道に迷うことはありませんよ」
そう言って兵士が見せてくれた地図は、なるほどたしかにこの地が国を名乗るのに十分な規模を誇るものであると証明するに足るものであった。
本格的に辺りが暗くなる前に、拠点に戻る。旅の疲れもあったので、明日以降の計画もそこそこに皆眠りについた。
翌日は夜明け前に起床する。しっかり朝食をとった後、早速出発することとした。
「中に資料室のような場所はありませんでしたか」
アシュナールは一応兵士たちに訊ねてみたが、明瞭な答えは返ってこなかった。当時は彼らもじっくり探索するというよりは、独立派の生き残りを探すことに注力していただろうから、王国の跡地の社会構造を考えるところまで意識が回らなかったとしても無理のないことである。むしろそういうことをじっくり探索するために、アシュナールたちは調査に訪れたのである。
あらかじめ、ヒッタには調査の目標を共有しておいた。それは、砂漠の地がかつて自然豊かな場所であったことを証明するような痕跡を探すことである。砂漠の地が教団の神話が語るところの楽園に相当するのではないか、という仮説も伝え、その証拠は王国の跡地こそ見つかる可能性が高い、という考えも伝えてある。ヒッタは落ち着いてその仮説を受け止め、教団の欺瞞を暴けるのであれば何でも構わないという姿勢を示していた。
アシュナールたちは昨日立ち入れなかった地下を進む。松明の光が照らしだした場所はしっかりとした石造りの廊下であり、砂風に晒されていない分はっきりと数百年前の名残を残していた。ここは確かに人が暮らしていた場所である。
兵士たちが作成した地図に従い探索を進めるなかでは、たとえば当時の住民の民家だったと思われる場所や、憩いの場であっただろう広い空間もあった。枯れた井戸もあった。
長い通路を通り過ぎていくと、ある地点を境に、床や壁や天井を構成する石材が変化した。それまでは濃灰色のざらざらとした石材だったものが、そこは滑らかに磨かれた薄灰色の石材に変わっていた。松明の明かりを近づけてよく観察してみれば、壁や柱に白石や色鮮やかな宝石を砕いて嵌め込み、幾何学的な紋様を描いた場所もある。ここは明らかに身分の高い人のために用意された場所、つまり王族が暮らしていた場であり、アシュナールたちが目指すものが近いことを予感させた。
もっと先まで探索したくもあったが、外はもう日暮れも近いころだろう。地上からこの場所までの経路を確認したうえで、この日の探索は一旦切り上げることとした。
調査二日目。前日の続きの場所から探索を再開する。この日は徹底的に王城の跡を調査した。ひと際広い空間は謁見の間であり、天井を支える石柱が整然と等間隔に並んでいた。その空間を起点として、入口から遠い方には廊下を挟んで豪奢な寝室や執務室と思われる部屋が配置され、一方入口に近付くにつれて会議室や食堂や倉庫など、王族に仕える者たちの場が配置されていた。在りし日には多くの人々がここで暮らしていたことが想像できる。
その一方で、ところどころに最近まで人が暮らしていた痕跡もあった。独立派がここで息を潜ませ寝泊りしていたことが察せられる。しかし遺跡が荒らされているということはなく、むしろなるべく当時の面影を損なわないよう細心の注意を払った様子がうかがえて、改めてここが彼らにとっての聖地であったことを認識する。
調査を進めるなかで、廊下の一角に、地下のさらに深い所へ続く階段を見つける。その階段があるところは再び濃灰色の石材に戻っており、王城としての空間から離れることを示唆していた。そこは兵士たちが作成した地図にも記載がない場所でもあった。兵士たちは青ざめた表情をしていた。しかしこれだけ広い場所なのだから、見落とした場所があっても仕方ないことではあるだろう。いずれにせよ、ここから先は未探索の領域である。
先頭としんがりを兵士二人に任せて、四人は一列になって暗い階段を下っていく。進むほどに空気は冷えていく一方で湿り気も帯びていく。
やがて階段は細長い通路に変わる。道に分岐がないことを丁寧に確かめながら進む先に、アシュナールたちは一枚の扉を見つける。それは身を屈めないと通れないような小さなもので、驚くべきことに木材でできたものであった。板材が腐っている様子はない。取っ手と蝶番は黒い金属で作られていたが、こちらも腐食していないようである。しかし決して最近作られたものではなく、数百年単位の年月を感じさせる古さも伴っていた。
意を決し、取っ手を捻り、引いてみる。油を敷いているかのように、滑らかな手触りであった。
そして、開いた扉の隙間から、淡い光が漏れ出てくるのを見た。
扉の先にあったものを見て、アシュナールたちは言葉を失った。
そこは一般的な庶民の家庭の居間ほどの広さの空間である。四方の壁には扉と同じ板材の棚が敷き詰められており、その全てに同型の小さな硝子の瓶が所狭しと並んでいる。それらの瓶の中にはすっかり乾いた土が詰まっていた。しかしアシュナールたちが最も目を奪われたのは、天井や床を覆う苔が発光している様子と、部屋の中央でこんこんと清水が湧き出る泉である。泉は食卓程度の広さで、天井と同じ種類の苔が底を覆っているらしく、泉全体が淡く翡翠色に光っていた。
唐突に現れた生命の気配をどう捉えたらよいものか。これまで死と闇の空間でしかなかった場所の先に、生と光の空間が現れた。最近までここに人がいたということだろうか。しかしその可能性は、床の苔にアシュナールたちの真新しい足跡が刻まれたことで否定されてしまった。苔の瑞々しさは故郷の春を思わせるようで、アシュナールたちの混乱に拍車をかける。
皆がアシュナールの方を見て次の方針を求めた。
「なるべく元の形を保ったまま、慎重に調べてみましょう。それから、あなた方は部屋の外の警護をお願いしたいのですが、よろしいでしょうか」
ここは常人が足を踏み入れてよい場所ではない。教団はおろか、神さえも知らない場所だろう。兵士二人は黙って頷き、外に出た。それから扉が閉められ、中にはアシュナールとヒッタが残る。松明がなくとも十分な明るさが確保されているため、火は消した。
小一時間ほどその空間を調べてみた成果をまとめてみると、およそ以下の通りである。
どうやらここは植物に関する研究が行われていた場所らしい。
たとえば棚に並べられた硝子の小瓶の一つを取り上げ、中の土を指でほじってみると、植物の根や茎の残骸が指に引っかかり、さらにほじくるなかではいくつかの硬い粒も見つかった。その黒い粒はどうやら植物の種であるらしい。いくつかの小瓶も同じく調べてみると、やはり種らしきものが見つかる。同種のものもあれば、形状や色から別種と思われるものもある。おそらく土や生育方法を変えながら実験していたものと察せられる。壁の四方にある棚にはそのような小瓶が整然と並べられており、かつてここにいた人は植物の法則を解き明かそうとしていたことが想像できた。
一方、部屋中を覆う光る苔とは、よくよく見てみると、苔の表面に付着した粉が光っているらしい。アシュナールが指で苔をなぞってみると粉末が指に付着するが、光を保っていたのはほんの僅かな間のことで、すぐにくすんだ灰色になってしまい、以後二度と光ることはなかった。苔ごと削り取ってみれば、指でなぞるよりもいくらか発光は保たれたが、やがて同じく光を失い、ただの苔と同じになってしまった。当然のことながら、アシュナールもヒッタもこのように光る苔のことなど知らない。
そして部屋の中央にある泉に満ちる水とはまったくの清水であり、冷たく透明で無臭であった。さすがに口にする勇気はなかったが、おそらく体に悪影響はないのだろう。このような長らく閉鎖的な空間であった場所に清潔な水があるというのは、常識では到底考えられないことである。
棚の裏や地面の苔の下に何か隠されたものがあるのではないだろうか。そのような可能性が頭を過ぎるが、そのためには当然今あるものの形を崩す必要があるため、今すぐ行うのは賢明ではない。もし行うとしても、それは今ここにあるものを十分に調べた後に行うべきことだ。
いずれにせよ、ここまで確認できた事実から、問われるべきことが浮かび上がる。
「ここで植物の研究をしていた人とは何者で、その人はどこで植物の種を見つけて、何のために研究していたのか」
三つの問いのうち、三番目のものは容易に答えを察することができる。砂漠という不毛な地に生命を根付かせるためである。
次いで一番目のものもそれほど難しくない。滅びた王国で暮らしていた人である。おそらく砂漠の民の王国が抱えていた学者だったのだろう。王命を受けて、砂漠の地に緑を増やす方法を探していたのではないだろうか。
だからこそ、二番目の問いが重要となる。
「アシュナールさんの仮説の通り、かつてこの地にあった自然の痕跡を発掘して、復活させようとしたということでしょうか」
「そう考えたいところですが、別の土地から植物の種を持ち込んだ可能性も考えられます。たとえば、そう、東の大国とか」
「その場合、この光る苔も外から持ち込まれたものになりますか」
「わかりません。しかし、これが持ち運べる類のものでないならば、この苔はもともとここにあったものということになります。我々が足を踏み入れるまでの間、この苔は自生していたわけですから、増やすことができるものと考えてよいのでしょうが」
「そうだとすれば、この苔自体がかつてこの地が自然豊かな場所であった証拠、ひいては教団の語る楽園だった根拠となるのでは――」
「……この苔がそれほど昔から存在していたものだと断言する証拠がありません。我々がまだ見出せていない方法で運ばれてきた可能性は否定できないでしょう。それに、植物の種が外国から持ち込まれたものであるならば、それこそこの地が自然に溢れていた証拠にもなりません」
「しかし、たとえこの地が楽園ではなく有史以来ずっと砂漠に覆われた場所であったとしても、我々が発見したものは教団にとって都合の悪いものですよね。かつてここに暮らしていた人々は研究をしていて、確実に理性的な存在であった。そう、教団が語るような、悪魔と契約して堕落した人々では決して」
「ヒッタ様」
アシュナールはヒッタの言葉を遮った。ヒッタの虚ろな笑顔は時間を止めたように固まっていた。
「私の目的は、教団の欺瞞を暴くことではありません。真実を明らかにすることなのです。結果的に教団の欺瞞を暴くことになるかもしれませんが、それ自体は決して目的ではないのです。欺瞞を暴くために真実を歪めることは、あってはならないのです」
「……申し訳ありません」
ヒッタは俯き、痛みに耐えるように目を閉じた。
「ひとまず戻りましょう。我々も疲れがたまってきています。集中力を欠いて見落としがあってはいけません」
アシュナールは棚にあった瓶の一つを持ち帰ることにして、部屋を出る。扉の前にいた兵士たちには「お待たせしました」と労い、地上へ戻っていく。道中、兵士は何も訊ねず、アシュナールも中で見たことは何も語らなかった。
その日の夜中のこと。
隣のヒッタが寝床を抜け出す気配がした。アシュナールは夢現に、すぐに戻るだろう、と思い意識を手放したのだが、次に目を覚ました時にもヒッタの姿はない。どこへ行ったのか。アシュナールが身を起こすと、その気配で他の者たちも異変に気付き、顔を見合わせるが、誰もヒッタの行方を知らない。しかし砂の上には足跡が残されているので、行先を追うのは難しくなさそうである。その点に安堵し、アシュナールたちは緊張の糸を緩めた。
そして改めてアシュナールたちは選択を迫られた。後を追うかどうか。誰にも一人になりたい時というものはあるだろうし、そのような時間は他人が邪魔すべきものではない。しかしいつまでも帰ってこないとなれば、それは大きな問題であるので、せめて居場所ぐらいは把握しておきたいものだ。
「では私が行きましょう」
アシュナールは皆に見送られて、点々と続く足跡を追った。その方角は遺跡と反対側である。足跡は方角を確かめるように時折僅かに曲がっていることもあったが、概ね一つの目的に向かっているようだった。立ち止まることも駆けることもない、淡々とした足取りである。迷いの少ない足取りであった。
――道なき道を行く人の足跡にはその人の人生がよく表れる。なぜその方角を目指すのか、目的地に向かってどの程度力強い足取りで邁進するのか、時に迷って立ち止まることはあったのか、そして迷った末にどんな一歩を再び踏み出したのか。選択肢の数と種類はその人の置かれた状況によるところがあるのかもしれないが、最終的に何に向かってどう歩むかを決めたのはその人自身であるから、足跡には必ずその人の意思や価値観が表れる。これは文献を通して多くの著者の思考を追い続けた末に、アシュナールが辿り着いた普遍的な人に関する原則のひとつである。
ではアシュナール自身はどうだろうか。立ち止まって振り返ってみれば、ヒッタのものに加えて自分のものがある。ヒッタの足跡を汚さないよう、その傍らに付き添うものであった。そして今自分が立ち止まった痕跡も、この後に残るだろう。
緩やかな砂丘を上りきると途端に視界が開けて、砂紋の縞という縞に月影が浮かんでいるのを見た。夜と砂以外何もない場所の途中で足跡が途切れている。ヒッタが背を向けて座っていた。
そこは半年前の戦闘で国軍の本陣があった場所であった。振り返ってみれば遺跡の地上部を見渡すことができる。父はここから指揮を執っていたのだろう――つまりここは父とカシュートが最期を迎えた場所でもある。
ひとまずヒッタの行方はわかった。声をかけるか、そっとしておくか。今度こそいずれかを選ばなければならない。しかしここでそっとしておくことを選択するくらいならば、アシュナールはヒッタを調査に連れてくるべきではなかったのだろう。アシュナールは自分の責任から逃げるべきではない。自分が蒔いた種であるからこそ、怖い、と素直に思う。
「あまり長い時間寒い所にいると、お体に障りますよ」
返事はない。
少しでも拒絶されれば退くつもりで、近づき、隣に立ち、それとなく様子をうかがう。ヒッタは険しい表情でじっと砂漠を眺めていた。アシュナールの存在に気付いているが、返事をする気にはなれなかったのだろう。
長い時間が経ってから、ヒッタはぽつりと呟いた。
「死後の世界とはどのようなものなのでしょうか」
これは、カシュートは今どこにいるのか、という問いと同義である。
「わかりません」
「神による魂の救済、あるいは冥界の門。どうして我々は自分の目で見たこともないものを真実であるかのように扱ってきたのでしょうね。己の怠慢に反吐が出ます」
「ヒッタ様は、自分がわからないことを己の怠慢と捉えるのですね」
「神の救済と冥界の門が矛盾するものであることはわかっていました。しかし過去の私は神の教えこそが真実であると思い、深く考えるということをしませんでした。しかし神への信仰を失って、冥界の門こそが正しいものなのではないか、と今さらになって考えてしまいます。ですがそちらが真実である保証もありません」
ヒッタは一呼吸を置いてから続けた。
「もう三十年近くになりますか。初めてこの地に赴任してきて以来、私は多くの死者を弔い、多くの老人や傷病人を看取ってきました。名前も知らない人、数年来の付き合いがあった人、内乱の時には身を挺して私を守ってくれた人、そういう人々も見送ってきました。私は神の僕として死者を送り出してきました。しかし同時に彼らにとっての死後とは冥界の門の先にあるものであることを知りながら、すぐそばにいた遺族たちにとって甘く都合の良い言葉を選んで祈りの言葉を口にしたものです。そうすることが、彼らの心を慰めるものだと考えて。無責任で、いい加減な、偽りの言葉でした。それを愚かなことだと思えないというのは、常軌を逸したものですね」
「……そうだったのかもしれません。しかし、ヒッタ様の遺された人々を思う心までもが偽りだったわけではないでしょう」
「狂人の妄言など、本人にとっては真実の言葉であったとしても、傍から冷めた目で見る者にとっては滑稽で空虚なものでしかないでしょう」
「それを言うなら、人は皆狂人でしょう。真の意味で正気の者などおりません。確かなことなど何もない中で、もっともらしいこと、正しいものだと教わったこと、あるいはそうだったらいいなという願望を信条として、自分の心や行いを定めるのですから」
「なるほど、人は皆狂人ですか」
呟いた後に、ヒッタは静かに笑いだし、次第に大きくなって夜の砂漠に虚しく響いた。
「この悲哀も、罪悪感も、憤怒も、虚無感も、自我という狂気の産物というわけですね。この世は狂人だらけで、狂った人間同士が自分こそが正常であると、声高に訴えながら、一つの場所を奪い合って、結果多くの人々が死んで、その死後の行く末すらも我々は祈りなどという狂言で塗り潰していく」
「そういうつもりで申し上げたのではありません」
「いえ。全てが歪められた中で、人は皆狂人、というのは数少ない真理なのだと思いますよ。あなた自身の意図が何であれ」
ヒッタはアシュナールに向けて穏やかな笑みを向けたが、その瞳は何も見ていない。それから砂漠に目を戻し、言った。
「まあ、狂っていようが、狂っていなかろうが、もうどちらでも構わないのです。私のなかであらゆる感情が嵐のように吹き荒れて、最後に凪いで残るのは――彼女に会いたい、ただそれだけなのです。私は、彼女の後を追えば再会できるでしょうか」
「それは……わかりません」
「ははは。あなたは神大学校で何を勉強してきたのですか、まったく役に……いえ、失礼しました。つまらないことを言いましたね。
――あなたや教団を恨めしく思ったこともありましたが、今日の昼間にアシュナールさんに窘められて、私は気付いてしまったのです。私はもうこの世に馴染めないのだと。教団の欺瞞を暴いて、教団の罪を白日の下に晒し、彼らがカシュートを記号として弄んだことを詰って、断罪し復讐できたとしても、あの子はもう帰ってこない。むしろ教団を拠り所とする人の居場所を奪うことになるのでしょう。あのような連中でも人々の暮らしの役に立っているのは事実ですからね。もはやこの世界で歪なのは私の方なのです」
アシュナールは何も言うことができなかった。
すみませんが、一人にしてください。
最後にそう言ったきり、ヒッタは何も話さなくなってしまった。その様子を見て、アシュナールは無力感に包まれると同時に、不思議な神々しさも感じていた。
おそらくこのまま放っておけば、ヒッタは遅かれ早かれ自らカシュートの後を追うことを選ぶだろう。通常の倫理観に即して考えれば、それが予見できているならば引き止めるべきなのだろうと思う。しかしアシュナールには積極的にそうしようという気にはなれなかった。人が自分のまことの心に従った末に至った結論とはそれ自体が尊重されるべきものだと直感したからだ。その真摯さは、アシュナールが黒髪の少女に対して抱くものと何が違うのだろうか。アシュナールが自分の在り様を肯定するならば、ヒッタの姿勢も肯定しなければ筋が通らない。
一人で戻ったアシュナールを見て、兵士たちは深く追求しなかった。ヒッタが戻ったのは夜明けが近くなった頃のことで、皆はほっとした。
その後は遺跡の調査を継続したものの、植物の研究室以上の成果は得られなかった。アシュナールはひとまず研究室にあった小瓶を数個だけ持ち帰ることにした。そのうえで、アシュナールはヒッタや兵士たちに、今回の発見は決して口外しないよう強く求めた。
街に戻ってから数日が経った後のこと。ヒッタが行方不明となったと聞いた。しかし大きな騒ぎにはならなかった。誰もがこのような事態になることは予感していたため、一応一通りの捜索はしたものの、予想通りヒッタの行方は見つからなかった。やがて探す手がかりもないまま時間が経ち、ヒッタはいつの間にか人々の記憶から消えていった。アシュナールもマハグールも、積極的に消失した人の話題に出すことはしなかった。
21.
遺跡での調査の結果を携えて、アシュナールはザカタストラ国へ戻る。あのように重大な事実を発見してしまった以上、発見したものを報告せずにいれば、そのこと自体がアシュナールの落ち度となりうる。アシュナールはかつて教団の知を束ねたハスターラ枢機卿の後継者であると見做されている。教団の知に責任を負う者として、アシュナールは教団に貢献しなければならない。
調査の成果――楽園の再現に関する実験の考察、と題された論考が教団の最高幹部たちの前で報告されたとき、その場に居合わせた誰もが言葉を失っていた。報告者であるアシュナールは、聴衆の項垂れる様子には意を介さず、淡々と文献や物証が示唆する真実の可能性を描写する。唯一、アシュナールの真正面に座る教皇その人だけが、じっとアシュナールを見据え、アシュナールの語る可能性を受け止めていた。
今から約三百年前――神歴千四百年頃に成立し間もなく滅んだ砂漠の民の王国において、砂漠に自然を根付かせる試みが行われていた。それは喩えて言うならば、神に頼らず自らの手で奇跡を起こそうというものである。この喩えすら、アシュナールの眼前にいる人々にとっては冒涜的であったことだろう。しかしこの人々は教団の中枢を占めるだけあり、相応に冷静である。
「ここにおられる方々であればすでにご承知のことでしょうが、現段階で結論を急ぐのは不適切というもの。確かなことは、砂漠の民の遺跡で何か目的を持って研究が行われた痕跡があったこと、それだけです。そこから連想される可能性とは、例外なくご自身の想像の域を出ないものであること、ゆめゆめお忘れなきよう」
語り終えたアシュナールは教団の重鎮からの質問を待つ。
一人が手を挙げ言った。
「アシュナール殿自身はどのようにお考えでいらっしゃるのか」
想定内の質問であった。
「今はまだどのような可能性も否定できない、というのが率直な考えでありますが、判断を進める手掛かりは今回私が持ち帰ったこの物質であると思っております」
アシュナールは聴衆に対して小瓶をかざした。中には砂漠の遺跡で見つけた黒い粒が入っている。小瓶を振れば、からから、と軽く乾いた音がする。
「先ほどお話した通り、おそらく何かしらの植物の種ではないかと考えていますが、はたして一体これから何が芽生えるのか。植物に詳しい人にも訊ねましたが、少なくとも我が国では見られない種類のものだそうです」
「それは、その、そもそも安全なものなのだろうか」
「安全であると断言する根拠は残念ながら持ち合わせておりません。もしかしたら何かしらの毒性を有するものであるかもしれませんね」
悪い可能性の一つを挙げたことで、その場にいた人々の想像は具体性を持ってしまった。重苦しい沈黙の中、一人が呟くように心情を吐露する。
「……率直に申し上げて、私は恐ろしい。その種から芽生えるものが何であれ、それが我々にとって良い結果をもたらすものではないならば、今この場で破棄してしまってもよいのではないか」
「お気持ちはわからないでもありません。確かにそれも一つの選択なのでしょう――皆様が今日見聞きしたことをご自身の頭と心から完全に忘れ去ることができるならば。そして、そのようにすることの是非を神に問い、快い返事が得られる自負があるならば」
これに対する返事はない。
長い時間が経ち、教皇が「よろしいか」と申し出た。理知的で澄んだ瞳は亡きハスターラ枢機卿を思わせる。
「この場では誰もが神や他者の目を恐れて本音を語らないようだ。だからこそ、私が皆の心を代弁して問おうではないか」
アシュナールは頷いて続きを促した。
「仮に、その種が結果的に他のどの地域にも存在しない種類のものであったとしよう。そしてアシュナールの言う通り、彼の地こそ我々が遠い昔に失った楽園であったとしよう。それで、どうする? 我々やその祖先たちが長らく信じてきた神とは《魂の消失を恐れた者たちが妄想で作り出した虚像》であると断定し、これまで神を生きる標としてきた民に対し、これからは神なき世を生きよと説くか?」
「そのご質問には、はいともいいえとも答えかねます。誤解を恐れずに言えば――もしもその程度の真実如きで霧散する程度の神であるならば、最初から神は人を救済する力など持ち合わせていない、ということなのではないでしょうか」
一瞬の静寂を経た後に怒号が飛び交う。神を軽んじる発言はたとえ奇跡の子であっても許されるものではない、と叫んだのは誰だったか。
「静粛に」
教皇の一言で場は鎮まるが、アシュナールは憎悪と恐怖に満ちた視線に晒された。
「続きがあるのだろう。話しなさい」
「はい。……我々が千七百年間信じ崇めてきた神が虚像である可能性に思い至り、そうである可能性を仄めかす証拠を目の当たりにするたびに、私はずっと考えてきました。我々教団のあるべき姿とは一体何なのか。神の教えを信じ広めるとは一体どういうことなのか。神に御心を問い、正しい行いをするとは一体。我々は誰のために、何のために、祈り、善き行いを重ねているのか。
率直に申し上げて、私は、今の我々の在り方が完璧で正しいものであるとは考えておりません。若輩者の身ではありますが、私には既に多くの後悔や未練があります。私だけでなく、ここにいらっしゃる皆様もまた不完全なものであり、時に過ちを犯し、取り返しのつかない失敗をしてきたことかと存じます。
我々は、迷い、悩み、苦しみます。神に自らの振舞いの是非を問い、最善と信じて行ったことが裏目となり、自分自身に裏切られ、絶望し、失望します。しかしそれでも、我々は光を求めてしまうのです。より良い可能性を求め、それを諦めることができない。長く果てしない道の先に皆が幸せになれる未来があることを信じたいから。そうでなければ生きる甲斐を失ってしまうから。
これまで我々は神という概念を使って、その幸福の追求を目指してきましたが、果たしてそれは神という言葉でなければ語れない境地なのでしょうか。既存の教団の考えでは、我々は神が創造した理想郷を追い求めているとしています。しかし私は思うのです。はたしてその理想郷とは、神から一方的に示されただけのものだったのでしょうか、と。本来人には皆、共通して思い描く理想郷があり、我々にはそれを追求しようという善性があり、その心が我々の目指す理想郷をより崇高で、目指すに足るものにしているのではないでしょうか。そのような心を持てるよう我々自身を創造した者とは一体何者か。そのような者こそ、真に神と呼べる存在なのではないでしょうか。故に、私の仮説が真実であったとしても、我々教団がこれまでに目指してきたこと、そしてこれからも目指し続けることの意味や意義は何一つ損なわれないのだと、私は考えているのです」
語り終えてアシュナールは教皇の反応を待つ。その人はたっぷりと長い時間をかけて思索に耽った後に、訊ねた。
「それは、ハスターラの受け売りかね」
「いいえ。私自身が考えて至ったものでありますが、先生も同じことを仰っていましたか」
「ずっと昔に一度だけな。真実は神の存在をより確かなものにする、と」
それから教皇は厳かに宣言した。
「ご苦労であった。アシュナールは調査を継続し、明らかになったことは我々に報告すること。ただし、今日ここで語った内容は、くれぐれも民には伏せるように。真実とはもろはの刃であり、人を救うとは限らないものである」
教団本部での報告を終えて砂漠の聖堂に戻ると、マハグールに「話がある」と呼び出された。旅装を解くのもそこそこに、アシュナールはマハグールの部屋へ向かう。
「アシュナール、君とこうやってじっくりと話をするのも久々な気がするな」
「カシュートさんが亡くなってから色々あったからね。君は仕事で忙しく、私は葬儀だの調査だの報告会だので不在がちだった」
「そうだな。そんな日々の中で、僕なりに色々考えることがあった」
やれやれ、といった様子でマハグールは大きくため息をついた。それから椅子から身を乗り出し、アシュナールの顔を見据えて言う。
「前に、君が語ってくれたとんでもない話があっただろう。神は存在しないのではないか、という可能性の話だ。君はその後調査に行くなど探求を進めたわけだが、どうだ、何かわかったか? 話せる範囲で構わないから、嘘偽りのない話が聞きたい」
その瞳はアシュナールの顔の一点をぶれることなく見つめていた。何があっても動じまいという意思がある。このような目をする人に対しては真摯であらねばならない。
「具体的なことはまだ断言できる状況にはないが、あの仮説を否定する根拠はまだ出てきていないよ。だが、砂漠の民の王国の跡地で、興味深いものを見つけた」
アシュナールは先日の教団本部で行った報告会と同じ内容をマハグールに語って聞かせた。その反応は教団の長老たちと寸分違わぬものであったが、過不足なく正確に情報を受け止めようとしている分だけより冷静であったと言えるだろう。真実とはもろはの刃であり、人を救うとは限らないものである――教皇がそう言っていたことが思い出される。しかしアシュナールにはその刃を納めるための鞘がない。そうであるならばせめて、いつか父のように、人や国を守るために刃を振るえたらいいものだと率直に思う。そんなことを考えているうちに、マハグールが言葉を選びながら話しだした。
「僕がまだ四歳か五歳か、それくらいの頃のことだ。神学校に入る前だな。おばあちゃん――父方の祖母だ――がいて、僕は彼女のことが大好きだったんだ。晴れた日には彼女はいつも庭園に出て、日当たりのいいところで椅子に座ってのんびりと過ごしていた。僕はおばあちゃんの膝元にへばりついて、遊んでもらったり、話を聞いてもらったり、色々なことを教えてもらったりしていた。一日のほとんどの時間をおばあちゃんと過ごしていたな。彼女は、時にびっくりするくらい怖い顔と声で僕を叱ることもあったが、大抵の場合は穏やかににこにことしながら僕の相手をしてくれていたよ。とても、素晴らしい人だった。しかし、彼女は亡くなった。季節はいつだったかな。暑くも寒くもなかったから、春か秋か、その辺りだったのだろうな。彼女は十分に長生きをしたものだよ。
しかし幼い僕からしたら、おばあちゃんの死とは受け止めるには大きすぎる出来事だった。周囲の大人たちは呑気なもので、悲しみながらもどこかすっきりしたような顔をしていて、どうして平然としていられるのかがわからなかった。おばあちゃんも生前は、もうすぐ自分は死んでしまうという話をしていたから、ついにそのときが来たのだということはわかっていた。だけど、それがどういうことなのかまではわかっていなかった。おばあちゃんの死に顔は眠っているだけのように見えて、しかし息はしていない。おばあちゃんの形をした何かがそこにあるだけだった。もうおばあちゃんはここにはいないんだということだけが事実としてそこにあって、そのことに戸惑っているのが自分ひとりだけだということに混乱していた。
母や姉などはそんな僕の様子を見て、大好きなおばあちゃんが亡くなって悲しいんだね、と言っていたが、そんな生ぬるいものじゃない。つい最近まで生きて動いていた人が、ある日、その姿かたちだけを残していなくなってしまう。ではおばあちゃんはどこへ行ってしまったのか? その想像は当然自分自身にも当てはまる。僕は死んだらどうなってしまうのだろう? 四歳か五歳かの子供がそんなことを思い詰めたらどうなるか、想像がつくだろう。廃人同然まで心が壊れたよ。
そんな中で、おばあちゃんの葬儀が行われた。流す涙なんかとっくに枯れ尽くして、呆然としながら、体を母に支えてもらいつつ椅子に座って、礼拝堂の中央で花々に埋もれる棺を眺めていた。そこはとても天井の高い場所でね、天窓にはめられた色ガラスが赤や青や黄色の光を透かして祭壇の彫刻に色を与えていた。その彫刻は人の魂が神の救済を経て天へのぼっていく様子を表したものだった。人の体が煙になったのか、あるいは煙が人の形をしていたのかわからないが、しかし魂として表現された造形が光の中に受け入れられていく様子だ。まあ、神学校の礼拝堂にあったのと同じものだよ。今にして思えばありふれた魂の救済の様子だが、当時の僕にとっては新鮮なものだったのさ。神父様の説教の声は厳かでね、僕はすっかりその彫刻に見入っていた。
泣き疲れてぼんやりとした頭でそれを眺めているうちに、僕はある光景を見た。棺から、すうっと半透明の白い影のようなものが立ちのぼって、ゆっくりと浮かんでいくんだ。あれがおばあちゃんの魂なんだって、思った。おばあちゃんは、色ガラスを透かした光の中を虹色に染まりながら通り抜けていくんだ。聖堂の中のわずかな空気の動きに身を委ねて、ゆっくりと、ゆっくりと、彫刻で描かれた救済の光に向かっていく。その様子に気付いているのはどうやら僕一人だけのようだった。みんな足元や手元ばかりを見ている。隣の母も、目を開けながら眠っているようで、服の裾を引っ張ってみても何も反応してくれない。この体験は、今なら奇跡と形容すべきものだろうが、当然当時の僕はそんな言葉など知らないから、何か不思議なことが起こっていると思っていた。
やがて白い影は天井に近いところにまでのぼって、それから振り返った。そこで僕はおばあちゃんと目が合った。それは人の形をしていなかったのだが、確かにそう感じだんだ。あのときおばあちゃんは何て言っていたんだろうな。わからない。わからないが、何か言葉を僕に告げて、それから救済の光の中に溶けて消えていった。
その時、ぼくははっきりこう思った。おばあちゃんはちゃんと神様に救ってもらえたんだって。それで、おばあちゃんは永遠に幸福でいられるんだって。そのことに僕はほっとして、嬉しくなって、いつか僕自身もそうやって救われるんだって思ったら、死ぬということへの怖さが和らいだんだよ」
長い話を語り終えて、マハグールは大きく息をついた。
「だから、何が言いたかったかというとだ。僕が信仰に目覚めたきっかけは祖母の死だったということ。そしてそこで僕が体験したことは、君からすれば子供の疲れた頭に浮かんだ幻に過ぎないのかもしれないが、しかしそこで僕が得た安らぎそれ自体は紛れもない真実であるということ。そして、その真実は、たとえ今後君がどんな事実を詳らかにしたとしても、僕にとっては未来永劫不変なものであること。その点において、僕にとって神とは確かに存在するものであること。僕はこういうことを君に伝えたかったんだな」
話しながら思考を整理することができたらしく、マハグールは晴れやかな様子であった。それに懐かしさを覚えてしまうのは一体どういうことか。
気付けばマハグールが心配そうにアシュナールの顔を覗き込んでいる。
「突然ぼうっとして、どうしたというんだ」
「いや、君はすごいなと思って」
「そうかそうか、ようやく君は僕を認める気になったか」
「ずっと昔から君は大した奴だと思っていたさ」
「いいや、違うな。君は昔から、自分は特別で他人とは違う存在なのだと、人間関係に線を引いて区別をする奴だった。だから人並みに怒りも悲しみも喜びもしない。そういう超然としたところが、僕は昔からずっと嫌いで、憧れてもいた。でも今はっきりとわかったぞ。君にはそもそも自覚がなかったんだな。今自分がどんなにひどい顔をしているのかもわかっていないくらい、自分自身に無頓着なだけなんだな」
マハグールは部屋の鏡を指差した。アシュナールが呆けていると、もう一度鏡を指差す。アシュナールはのろのろと立ち上がり、鏡の前に立つ。そこに映っていたのは、目の下に深いくまを浮かべ、肌が乾いて見るからにやつれているにもかかわらず、目だけが異様に澄んだ男の顔であった。最後にゆっくり眠ったのはいつだったか。
「君も、僕も、所詮ただの人間だ。ここしばらくの間に僕たちが体験したこと――カシュートさんとハグナラガフ将軍が亡くなって、ヒッタさんが呪いを抱えたままいなくなった――を他の人が経験したとして、もしもその人が平然としていたら、かえって心配になるだろう。そういうことだ。平気なわけがないんだよ。僕も、君も。お互い、大事な人々を亡くして、その喪失は君の方が大きいはずなんだ。君は君にしかできないことをしているのだろうが、君自身は特別でも何でもない、普通の人間なんだよ。君は平然としているように見えるから、他の人に気付かれにくいのかもしれないがな。そういうことは肝に銘じておかなければいけないようだな、お互いに」
頼むから君までいなくなってくれるなよ。そんな声が聞こえた気がして振り返ると、マハグールはばつが悪そうに目を逸らした。改めて、マハグールとは大した奴で、可愛い奴なのだと認識した。
22.
不在となったヒッタの穴を何かの折に埋めているうちに、そこがアシュナールの新たな居場所となる。本職は調査と研究であるから、毎日常に教室にいるというわけではない。しかし、誰もヒッタの代わりを務めたがらなかったこと、学校運営とは元々アシュナールとマハグールが始めた事業であること、そしてマハグールは日々忙しくヒッタの代わりを務める暇がないこと、これらの事情が重なり、アシュナールが教壇に立つ機会はおのずと増えていつしか日常になっていた。
そのうち後任者が現れるだろう。そう思っているうちに三年、五年と時間ばかりが経っていく。車輪が坂道を転がり落ちるように体感上の時間は加速度的に早くなっていた。もちろん毎日はそれなりに忙しく、長い時間が経つなかで常に何かしらの出来事や事件は起きていた。子供たちは若者へ成長し、驚くほどの変化や成果を示してくれる。一方で年老いた者たちは病や老衰などそれぞれの事情で亡くなっていく。そのような日々が目まぐるしく過ぎていくなかで、砂漠の歴史に関する新たな発見も積み重なり、それらは教団の禁忌として奥深く秘匿されていく。アシュナールは、表向きは砂漠の聖堂の教師であるが、その一方では教団の知を司る番人としての地位を確立していった。今やアシュナールが幼い頃に神の恩寵を賜った子であったことを知る者は少ない。
そのような日々が十年、二十年と過ぎていくうちに、アシュナールはカシュートの年齢を追い越し、ヒッタの年齢に並び、父の年齢に追いつくのもそう遠くないところまでやってきていた。さすがにもう人生も折り返し地点を過ぎたことだろう。近頃は体力の衰えというものをひしひしと感じている。
先生、先生、とアシュナールを慕って集まる子供たちは、つい先日巣立った教え子が「生まれた」と報告してくれた子たちである。顔を見るたびに「大きくなりましたね」と声をかけていたら、子供たちにはそれがアシュナールの口癖であると捉えられてしまったらしい。昼休みの時間には軒先の椅子に座って、子供たちが歓声を上げて遊んでいるのを眺めることが楽しみのひとつになっていた。
アシュナールが五十歳を迎える年のこと。長年の教団に対する貢献――砂漠の地域における布教と研究の活動――を讃えて、アシュナールに聖人の称号が贈られることとなった。その報せを聞いたアシュナールは表情を変えることなく、伝えてくれた人に「そうですか、ありがとうございます」と礼を伝えた。
カシュートの時とは異なり、今回は本来通りの教団に対する貢献が評価されたものであろう。前年にマハグール改めカダル聖が受けたものと同様である。
ハグナラガフ将軍と聖女カシュートの命を代償として、独立派という教団への抵抗勢力が殲滅されて以来、砂漠の一帯はすっかり安寧を得た。もちろん小悪党は絶えずいたるところに存在しているものであるが、大規模な戦争は過去二十年間一度も起こっていない。カシュートの名は今では歴史の一部となり、慈愛と献身の聖女としてすっかり偶像化された。ただし当時を知る者が減るにつれ、聖堂の裏にある霊廟に訪れる者も減り、皮肉にも静かな空間が保たれるようになっていた。このようにしてカシュートのことは忘れられていくのだろう、とアシュナールは石碑を撫でながら思う。カシュートを守り育てた養父の名は人々の記憶から失われて久しい。
アシュナールは純白の石碑から手を離し、その前にあぐらをかいて座る。
「すっかり長い年月が経ちました。カシュートさんたちとあの教会で過ごした数年間が、思えば私にとって一番平和で安らかな時間でした。ヒッタ様がいて、カシュートさんがいて、マハグールがいた。四人で助け合いながら人々への奉仕を行い、夜には温かい食卓を囲んでいましたね。懐かしいものです」
石碑は何も言わない。
「多くのことを知るにつれ、私の心はどんどん遠いところへ、他の人のいない孤独なところへと離れていくようですよ。教団の千八百年にわたる歴史もまたそれ以上長く続く世界全体の歴史からすればほんの一部でしかなく、そこで起こっていることは一人一人の人間が何を思いどう考えたかの積み重ねそれ以上でも以下でもありません。そういうものを眺める私は一体どういう視座で見ているものなのやら。いやはや。誰も彼もが可愛いくて悲しいものですね」
そろそろ出発の時間である。アシュナールは立ち上がり、「また来ます」と告げて霊廟を後にする。ザカタストラ国の教団本部で行われる称号の授与式に臨むのだ。
このようにしてアシュナールは聖人の称号を得て、ネルドレク聖と名を改め、以後そう呼ばれるようになった。聖人の言葉とは神の意思を反映したものであるから、大抵のことは自身の望む通りとなり、神の御心を知らない者にほど聖人の言葉はよく届くものである。ただし意のままに人を動かせる権力とは、正しいが困難なことを成し遂げるために振るわれるべき暴力である。もっとも、そのようなことすらもわからない者はそもそも聖人の称号に相応しくないのだが。
ネルドレク聖は第一声で、皆にこう呼びかけた。
「砂漠の地に図書館を作りましょう。人々が自ら学びを深められるように、先人たちの知識を収集し保存するのです」
その意図はネルドレク聖の言葉の通りであり、そして同時に、ネルドレク聖自身の研究をより深めるためでもある。砂漠の地域の歴史と伝承を詳らかにして、冥界の門、そして黒髪の少女の正体に迫るための事業である。
そのようにして完成した図書館の一角がネルドレク聖の新たな棲家となり、ザカタストラ国の神大学校にある図書の複写本が数多く作られては移送され、新品の本棚を順番に埋めていった。その棚の一部に、ネルドレク聖の成果のうち公表できるものが収蔵され、そうではないものは禁書庫に秘匿された。
年月が流れた。
大した事件もない平穏な日々のある日、弟子の一人がネルドレク聖のもとを訪ねてきた。この人は弟子たちのなかでも特に信心深く、砂漠の民が考える神と自分たちザカタストラ国の民が考える神の像に差はあるかないのか、という点に関心を持つ若者である。その人がネルドレク聖におずおずと質問をした。
「先生は何を成そうとしていらっしゃるのでしょうか」
その声色は固く、自ら訊ねておきながら返事を聞くことを怖がっているようであった。ネルドレク聖は優しく微笑みながら、問い返した。
「そのこころは?」
「先生はお若いころから一貫して砂漠の地域における伝承や、教団の歴史から見た砂漠の地に関する研究を行っていらっしゃいました。私も先生の著作を拝見して感動し、かつては神なき地だった場所に神の教えを広められた功績にいたく感銘を受けました。ぜひとも先生のもとで学びたいと強く思い、願いが叶って弟子にしていただきました。ですが、実際先生のもとで学ぶうちに、拭い難い疑問が湧いてきてしまったのです」
弟子はその先を言い淀んでしまうので、ネルドレク聖は「どうぞ言葉にしてみてください」と促した。弟子はしばらく逡巡した末に、意を決し、口を開いた。
「この地に神の教えを広め、より多くの人々が神に救済される機会を増やしていくことは、実は先生にとっては関心の外にあることなのではないか。もっと直接的に、言葉を選ばずに言うならば、先生は神にさえ興味がないのではないかと……ならば先生は一体何のために日々を過ごしていらっしゃるのだろうかと、そんなことを私は考えてしまって……」
「なるほど。あなたには私のことがそう見える、ということなのですね」
ネルドレク聖の堂々と落ち着いた振舞いはかえって弟子を動揺させる。
「申し訳ありません。このような無礼を働いてしまったことを心からお詫び申し上げます」
「いいえ構いませんよ。私の振舞いがあなたにそう思わせてしまったということなのでしょうから。参考までに、あなたがそう思うに至った経緯や理由についてお聞かせいただいてもよろしいでしょうか?」
師匠の赦しを得て弟子はようやく表情を明るくさせた。それから自分がネルドレク聖に疑問を抱いてしまった経緯を語りはじめた。
「気付くきっかけは、初めて先生にお会いした時から、実を言えば、ありました。私が先生のことをいかに尊敬しているかを熱を込めて語ったときに、先生は謙遜した風でいて、ご自身の功績は些事であるかのようにお話しされました。その時は、謙虚な性格でいらっしゃるのだろうと思っていました。ですが、砂漠の伝承の話題になったら、先生は目を輝かせて楽しげにお話をされました。ああ、この方は好きで研究をなさっていて、そういう風な振舞いをする側面もおありなのだなと、その時はその程度に思っておりました。
しかし先生とお話を重ねていくうちに、私が神を思う気持ちとは異なるものを先生は神に感じていらっしゃって、むしろ私の神に対する熱量に近いのは、先生にとっての砂漠の伝承や歴史のことなのだと、次第に感じるようになりました」
「なるほど、なるほど。研究者とは厄介な生き物ですね。関心事となると我を忘れて子供のように喜々としてしまう節がある」
ネルドレク聖が笑う声に合わせて、弟子は愛想笑いを浮かべた。それから弟子はネルドレク聖の様子をじっと眺め、表情を曇らせた。
長い沈黙の末に、彼は絞り出すように言った。
「先生は、私の言ったことを否定してくださらないのですか?」
ネルドレク聖は目を細め、笑顔を浮かべたまま弟子の言葉を待つ。
「お前の言っていることは誤りで、自分は若輩者であるお前以上に神を信じ、敬い、神の素晴らしい教えを人々に広めようとしているのだと。どうしてそう言ってくださらないのですか? 先生がそう言ってくださらないのであれば、私の邪推の通りであると認めていることと同義ではないでしょうか? もしそうであるとするならば、先生は研究だけに邁進していればよかったはず。では先生の何十年間にもわたる砂漠での布教活動とは一体何だったのでしょうか? 先生は一体何のために、何をしていらっしゃるのでしょうか? 人々に対して神の教えを説くとき、その心の内には一体何があったのでしょうか。それがわからなくて、私は不安になってしまったのです……」
そう問われてふと浮かぶのはヒッタとカシュートの姿である。本来、教団に立ったり砂漠の民に神の教えを説いたりするのは、二人の役目だったはずだった。しかし自分が二人の居場所を奪い取ってしまった。そのことへの負い目と罪滅ぼしのために、二人に代わり、砂漠での布教に従事したという側面がないということはないが、しかし理由の全てではない。ひどく独善的な理由で、しかしネルドレク聖にとっては必然的な理由で、ネルドレク聖は権力を求めた。教団に貢献することで地位を獲得してきた。その独善性を咎める神は、確かにネルドレク聖の中にはいない。
しかしそれにしても、この若者は実に優れた観察眼をしているものだ、とネルドレク聖は思った。ここまで正確に自分の本性を見抜いた者はこれまでに会ったことがなく、かろうじて近しいのはハスターラ枢機卿だったことだろうか。カダル聖は善良で平凡な人であるからネルドレク聖の中にあるものに気付いていない。後世の人々は、いつか今彼が述べたような人物評でネルドレク聖を記述するのかもしれない。ネルドレク聖は自分の評判や名誉に拘泥しないから、他者にそのように思われるのは構わないと思っている。しかし、今はまだ早すぎる。今はまだ、背徳者の烙印を押されてこの地位を失うには早すぎる。齢は六十に迫ろうとしているが、頭も体も、まだ研究と調査に耐えうるものである。かねてから思っている通り、死ぬことなど、どうせいつでもできる。ならば四肢の動かなく最後の瞬間まで、自分に許された時間の全てを調査や研究に注ぎたい。
故に、ネルドレク聖は自分の持つ権力を正しく行使することにした。
「哀れなことです。あなたは慣れない地で精神が摩耗しまっているようですね。どうでしょう。一度私のもとを離れて、ザカタストラ国で療養してはいかがでしょうか」
ネルドレク聖がとうの昔にその名を忘れてしまった弟子は、うな垂れたまま「はい」と呟いた。
それからさらに年月が流れた。
カダル聖はもう亡くなったか、まだ生きているか。訃報を聞いた覚えはないが、ネルドレク聖が忘れてしまっているだけかもしれない。病床で仰向けになりながら、一瞬だけ頭に浮かんだ悪友のことを思い、すぐに忘却する。そもそも今自分は起きているのか、眠っているのか。
幼い頃から、繰り返し、繰り返し、何度も、絶えず、細部まで思い出して記憶に上書きしてきた映像は、瞼を閉じればただちに思い浮かべられるほどにまで現実と地続きのものとなった。年老いて近頃は眠って過ごすことの方が多くなったために、病床で行う信徒との対話の方がむしろ夢の中の出来事のように思えてしまう。
長い夢の中では、ネルドレク聖は八歳の幼いアシュナールのままである。しかし熱病の苦しみや死への恐怖は遠い彼方にあって、穏やかな心持ちで白銀色の門と、その前に立つ黒髪の少女を見上げている。
擦り切れた靴から伸びる足は小枝のように細く、視線を上にずらしていくうちにたちまち濃灰色の外套の裾に隠れてしまう。姉が弟の様子を伺うように、黒髪の少女じっとアシュナールの顔を覗き込んでいる。ネルドレク聖も少女の顔をじっと見返す。少女らしい柔らかな肌と幼さの残る輪郭はたくさん見てきた幼い教え子たちのそれに似ているものだ。桃色の唇も、小ぶりな鼻も耳も、よくいる子供のものと変わらない。しかしその瞳――深淵とその彼方にある宇宙の真理――だけは、ネルドレク聖がこれまでに出会った誰もが持ちえないものである。その瞳に吸い込まれて、落ちていってしまいたい。ちりちりと胸が痛むのは、初めて感じた時とまったく同じ印象の恋である。手を伸ばして、黒髪の少女の手や頬に触れられたらどんなによかったことだろう。しかし記憶の中にいるのは怯えて混乱の最中にあるアシュナールであった。ネルドレク聖は一瞬を永遠に引き延ばしながらその瞳を見続けることしかできない。黒髪の少女は瞬きすることを忘れたように、ただ、じっとアシュナールの顔を覗き込んでいる。
それから少女はアシュナールから目を逸らし、彼方を指差し言うのだ。大人の女性のような低く落ち着いた声で、「ここはあなたが来るべきところじゃないよ」と。
その言葉の意味するところは、ネルドレク聖には永遠にこの地を訪れる資格がないということなのか、あるいはいつか然るべき時が来たら再び訪れることが許されているということなのか。鼻筋と唇と顎の作る輪郭の美しさに見惚れながらネルドレク聖は考えている。
ネルドレク聖は長い時間をかけて黒髪の少女に再会する方法を探してきたが、その方法とは実際に自分が死んでみること以外にないのだとついに悟ったのは、三十歳か四十歳か、それくらいの頃のことだった。挑戦の機会はたった一度きりしかなく、確実な成功が保証されたものではなく、そして成功確率を高める有効な手段もないようである。失敗する可能性も織り込んだうえでたった一度の一瞬に賭けるしかないというならば、せめて願った通りに彼女に再会できたときに有意義な時間となるよう、備えを十分にしておきたいものだ。そう考え、ネルドレク聖はそのことに残りの人生の全てを注いできた。どうせ死ぬことなどいつでもできるのだ。ならば幸福の瞬間が極上のものとなるようにすることに全力を尽くすべきである。いつか彼女と再会することができたら、たくさん話がしたいものだ。そのためには土産話が必要である。その一心で調査と研究に邁進し、それを進めるための権力を確立し守ってきた。
ネルドレク聖は目を開く。そこは聖堂内の自室の寝室で、まだ自分は死なないらしい。咳をすれば全身が痛むし、何もしていなくても体のどこかがやはり痛い。周囲の者たちが看病してくれるおかげで、ネルドレク聖は今日もしぶとく生き永らえている。
黒髪の少女に再会することができたら、どんな話をしよう? 朦朧とする意識の中、目を瞑って浮かぶ双眸に向かって問いかける。話題の種はたくさん揃えてきたつもりだが、どんな話だったら彼女の気を引くことができるだろうか。
褒めてもらいたい、認めてもらいたい、といった子供じみた欲求は今更持っていない。一生を賭して研ぎ澄ましてきたこの心がどこまで彼女に届きうるものなのか――それを確かめてみたいというのが、ネルドレク聖の素朴な疑問であり、残りわずかとなった余生を生きる理由だった。
23.
昼も夜もない虚空の砂漠にて、白銀色の門を前にネルドレク聖と黒髪の少女が並んで座っている。
「――そして、こうして私は再びあなたと会うことができました。とても幸せなことですね」
ネルドレク聖は自分の一生を語り終えて、あらためて自分の生涯の中心には黒髪の少女がいたことを認識した。ネルドレク聖の少女に対する心情に名を与えるならば、それは執着と呼ぶのが相応しい。理想、羨望、未練、後悔、憎悪――どのような呼び方をしたとしても、その生涯においてネルドレク聖の中から少女の存在がなくなることはなかった。一人の男が生涯を賭して、年端もいかない少女に執着する様とは実におぞましいものであると自虐する。
少女に対して激しい感情を抱いたこともあった。しかしそれも過去のことであり、今はこの砂漠のように一切が凪いで穏やかで、その穏やかさの地下深くには衝動が眠っている。
ネルドレク聖は隣を横目で見る。黒髪の少女は膝を抱いて座っており、小さな頭のてっぺんにつむじが渦巻いているのが見える。少女は無言のままじっと座っている。返事はおろか反応もない。しかし呼吸はしているらしく、細い肩がわずかに揺れ動いている様子がうかがえた。
やはり一人の矮小な人間の心など、超越的な存在にとっては塵芥に等しいものであるか――寂しいことであるが、ネルドレク聖自身もまた自らがこれまで蔑ろにしてきた者たちの心情を慮らなかったのだから、これこそが自然な道理なのかもしれない。
「やっぱり私は、あなたのことを覚えていない。ごめんね」
ぽつりと、少女が呟いた。聞き間違いではなく、たしかに返事を得ることができた。ネルドレク聖は俄かに胸が苦しくなる。話を聞いてもらえていたらしい、ということがたまらなく嬉しく感じられてしまう。
「幼い子供というのは魂が不安定で、ときどきここまで迷い込んできてしまうことがあるの。そういう子を元の居場所に帰してあげる、ということは、たしかに何度かやったことはある」
「そう、なのですね」
「うん。よかれと思ってやっていたけど、あなたの人生を歪めてしまっていたんだね」
「歪めるだなんて、そんなことはありません。あの日、私はあなたに出会って、あなたの瞳の奥にあるものを見て、私は私になったのですから」
「そうだとしても、私は自分が他の誰かに影響を与えるということに慣れていない。だから、戸惑っているというのが正直な今の感想だよ」
黒髪の少女は、ひどく人間じみた振舞いと言動をしているように見えた。ネルドレク聖はまさに老爺が孫娘を眺めるように目を細めた。失望と愛しさがないまぜになる。
「私自身ですら持て余しているこの感情を見せつけられて、まったく動じないということであれば、それはそれで寂しいものがありますね。だから、あなたが戸惑うのも無理からぬこと。いやはや。ですが、今回だけは謝りませんよ」
「いいよ、別に」
「逞しいのですね。心強いものです」
ほっほっほ、と笑う声は異界の砂漠の空に拡散して消えていった。
ネルドレク聖は後ろに手をついて空を仰ぎ見る。ここは八十年ほど前に訪れた時と同じ場所なのだろうが印象はずいぶん違っていた。白銀色の門と黒髪の少女、それ以外は何もなく、砂紋すらない場所である。かつては死の気配に満ちた恐ろしい場所であると感じていたが、今は煩わしいものの一切が排された静謐で清浄な場所であると感じている。教団にある聖堂たちも荘厳にして静寂な空間であったが、神の威厳を示そうという欲が装飾のあちこちに滲んでいて、この場所と比べるとやはり煩わしい場所だった。それと比べると、こちらの方が好ましいとネルドレク聖は感じる。人生の最期にここに辿り着くことができて、自分はなんと幸せ者なのだろうと感じ入る。
「最期にあなたともう一度会うことができて、私は満足してしまったようです。私が踏みにじって蔑ろにしてきたものたちのことが心の遠い彼方に追いやられてしまうほどに、今私は幸せを噛みしめています。こんな幸せなことが私の身に訪れることなどあるべきではないと、矛盾したことも思いますがね」
「未練とか後悔とか、あなたがそういうことも話したいなら、聞いてあげるけど」
「おや、もうあなたには伝わっているのでは?」
「さあ、どうだろう」
とぼけているのか、本心なのか。少女の横顔からは真意は読み取れない。
「ふむ、あなたに訊ねてみたく思いました。私は自分のことを、たった一瞬の夢に執着し、そのためだけに世間を欺き裏切り、挙句そのことに悪びれていない邪悪であると思っているのですがね。しかし往々にして我々は自分自身のことほど正確に理解できないものです。どうでしょう、ここまでの話を聞いてみて、あなたは私のことをどのような人間であると思いましたか?」
ネルドレク聖は少女の方に向き直る。どんな言葉でもいい。彼女が自分に向けて、自分のために発してくれた言葉の全てが百万の宝石に勝る価値があるものだ。
少女は顔をネルドレク聖の方に向けてじっと見上げた。その瞳に自分の顔が映っている。そのことがたまらなく嬉しい。嬉しくて仕方ない。乾いた砂が滴った水を吸い込んで逃さないように、ネルドレク聖は自分に向けられた視線を一瞬たりとも見逃さない。今のこの瞬間、彼女の瞳に映っているのは自分だけである。彼女にこそ自分の醜さを暴かれたいと切に思う。どうか、どうか、自分を壊してくれないか。ネルドレク聖の痛切な願いに少女は動じない。ああ、嬉しい、素晴らしい。
長い思考を経て、少女がゆっくりと桜色の唇を開き、胸に溜めた空気を吐きだしながら言った。
「あなたは、誰も救えなかった人なんだね」
その瞳には憐れみも義憤も同情もない。淡々と事実のみを語っている。
一度閉じた唇がふたたび開き、ネルドレク聖を評する言葉が続く。
「そのことが後ろめたくて、それで、私……ううん、幼い頃に見た幻に執着することで逃避するしかなかった人。他の人たちが当たり前のように他者と関係を結んで、助け合って、支え合って、そして愛し合っていることが羨ましくて、妬ましかった人。そして自分自身にも他者と絆を結ぶ機会があったにもかかわらず、どうしていいのかがわからないまま何もできなかった人」
言うべきことは全て言ったらしい。黒髪の少女はネルドレク聖から目を逸らした。ネルドレク聖は目を閉じ、今自分に与えられた言葉を自分の中で繰り返し、その意味を受け止める。
「あなたには私のことがそう見えたのですね。ありがとうございます。ええ、私の自覚とおおよそ合致していますね。ですが一点だけ訂正させてください――私があなたのことを想い続けたのは決して現実逃避のためだけではないのですよ。
あの日のあの瞬間、私はあなたの瞳の奥に絶対的な美を見出したのです。それは絶対的なものであるからこそ、その価値を語るのに他の何かと比べる必要もないものです。ただ美しく尊いものだから。私にとって絶対的な美とは、そのような理由のみで私の人生の全てを捧げるに値するものでした。結果的に……いいえ、半ば意図的に、蔑ろにすべきではないものまでもたくさん蔑ろにしてしまって、その事に罪の意識はあります。しかしそのために美しいものを諦めて忘れることなどできなかったし、私が真に恐ろしかったのは、その絶対的に美しいものに裏切られることだったのですよ。ですが実際はどうでしょう。今この瞬間に至るまで、真に美しいものは美しいままだった。私はそのことがどうしようもなく幸福だと感じてしまうのです」
「それを私の中に見出したということ?」
「はい。正確には、あなたという存在に象徴される、この世界の在り様の中に、ですね」
黒髪の少女は腑に落ちない、といった様子でネルドレク聖を見ている。自分は彼女にこのような表情をさせることができるのだ。そう思うと、世界とは一体どこまで広いものなのだろうと考えさせられる。この少女という存在もまた世界の一端に過ぎないものであるからだ。
「……私はすっかり満足してしまったから、つい先ほどまで、用意してきた土産話をする気が失せてしまっていたのですがね、今のあなたのお顔を拝見して少し気が向いてきました」
少女は怪訝な表情でネルドレク聖の言葉の続きを待っている。
「冥界の門とは何か、ひいてはあなたは何者なのか」
少女は努めて表情を変えまいとしたのだろうが、瞼がわずかに揺れたのを見逃さなかった。しかし気付かないふりをしてネルドレク聖は続ける。
「――私なりに一生懸命考えてきたのですがね。どうでしょうか、私が辿り着いた仮説を聞いて、何か感想や見解を教えていただけませんか? お伝えした結果あなたがどんな反応をするか、気になりましたので。どんな反応でも結構です。よろしければお付き合いください」
「……いいよ」
ネルドレク聖は立ち上がって首を横に振り、「では、歩きながら話しましょう」と少女に促した。
ハスターラ枢機卿が辿ってきた道程を追い越して以来、ネルドレク聖は道なき道を自らの足で踏み開いて長い旅をしてきた。そしていまこの瞬間より黒髪の少女と共に歩く道が、ネルドレク聖にとって最後の旅となるだろう。ネルドレク聖はここまで辿り着くことのできたいくつもの幸運と偶然を感謝する――ああ、神よ。
ネルドレク聖と少女は白銀色の門から離れたところを並んで歩いている。無風の砂漠に二人分の足跡がくっきりと残っている。
「先ほどあなたにしたお話の中で、私が砂漠の民の王国の遺跡で種と思しきものを見つけてきたというくだりがあったのを覚えていますか? あれは一体何だったのか。やはりあれは植物の種子でした。土に植えて水を与えたら発芽しましたよ。まあ、それもなかなか苦労したのですがね、それはいいでしょう。
さてその種から芽生えたものですが、これは小花でして、やがて小さな薄紫色の花びらをつけました。六枚の絹のような花びらが天井に向かって咲いて、そよそよと揺れるのです。他にもいくつかの種類がありましたが、いずれも小さく可憐な小花で、色や形状は様々でした。
私の祖国の草原には実に様々な種類の植物があるのですが、困ったことに、それらの種から芽生えた花はいずれもどうやら祖国にはない種類のもののようでした。では東の大国に由来するものでしょうか? 詳しい人たちに頼んで散々調べてもらいましたが、東方にもない種類のもののようでした。同一のものはもちろん、類似するものも見られないのです。
古の砂漠の民は、これらの種をどこで入手したのでしょうね。考えられる可能性は、部分的に重なり合りうるこの二つでしょう。一つは、元々砂漠にのみ自生していたものだった。そしてもう一つは、砂漠の東西以外の場所から持ち込まれたものだった。あなたはどう思いますか?」
少女は黙ったまま答えない。
「失礼、子供たちを相手に授業するときの癖が出てしまったようです。ははは――ですが、あなたは答えてくれないのですね。迂闊なことを言いたくないのか、それともあなたには答えられない問いだったのか」
やはり少女は答えない。一通り少女の反応を確かめた末に、ネルドレク聖は「続けましょう」と話題を戻した。
「長らく種の正体はわからないままでした。しかし、あれは私が聖人の称号を得てから十年目くらいだから、そうですね、今から二十年ほど前ですね。あの種から芽生えた小花に近い種類のものが見つかったのです。場所は砂漠の北部、絶えず氷雪に覆われた未知の山岳地帯です。私の古い知り合いの一人に東国出身の占星術師の風変わりな男がいるのですがね、その男が北部を旅している時に、私が研究していた小花に似た花を見たと言うのです。切り立った崖の壁に貼りつくように咲いている花だったそうですよ。どうしてそんなところに咲く花の種が砂漠の遺跡の地下にあったのか?
もちろん彼の見間違いだったかもしれませんし、あるいは口から出まかせの嘘かもしれません。しかし、わずかでも真実を明らかにする手掛かりが見つかったのならば、調べないわけにはいきません。
私は調査団を作って派遣し、砂漠の北部の調査を進めさせました。その結果、たしかに彼が言った通りの花が断崖絶壁の高い所に自生しているのが確認できたのが、調査開始から七年目か八年目のことでした。
そしてその調査の過程で、現地で暮らす人々の存在を確かめることもできました。驚きましたよ。まさかあんな雪だらけの凍てついた土地で暮らす人がいたとは。まあ、砂漠の地下で何百年も生き延びたとされる人々がいるくらいですから、人間というのはどんな環境でも生き延びられるしぶとい生物であるのかもしれません。調査団からの第一報は、吹雪の奥に人影を見たというものでした。はじめは何か動物の影と見間違えたのではないかと調査団は考えたようですが、吹雪が止んだ一瞬の間にその姿を見たとのことです。薄い陽光の下、雪山で暮らすその人々は、真白い肌に銀色の髪をしていました。雪景色のなかに溶け込んでいるように佇んでいて、不気味に揺らめく瞳の赤色が忘れられない、と調査団の者は話していました。結局そのときは彼らの行方はわからなくなってしまったのですがね、調査を進めるうちに調査団も安全に探索できる経路も確立できてきまして。最近になってようやく銀髪の現地民たちと交流を持つ機会を得るに至ったのですよ。まあその頃には私はもうすっかり床に伏してしまっていたので、すべて信徒から伝え聞いた話ばかりですがね。
なんとなく、私が言いたいことは察せられるでしょうか。砂漠の北部で暮らしていたという人々と、砂漠の民の間には何かつながりがあるのではないか、ということです。花の種は北の山岳地帯に由来するものである見るのが自然です。砂漠の遺跡で発見された種がいずれも北の山岳地帯に自生している植物のもので、遺跡の研究室で研究対象となっていた以上、遺跡の研究者たちはそれが雪国からもたらされたものであることに自覚的であったと捉えるべきでしょう。しかし、雪山で暮らす人々の存在が明らかになった当時はもちろん、私がまだ元気よく活動していた頃に、砂漠の民がその人々と交流を持っていたという話は一度も聞いたことがありません。つまり少なくとも過去数十年間、実際にはおそらく過去数百年間、砂漠の民と雪山の人々の間の交流の歴史は途絶えていたことになります。いつ、どういう理由で断絶してしまったのか? 砂漠の地を襲った災厄が契機となったのでは? 想像はいくらでも膨らみますね。しかし、今の私にはそこから先について何かを判断するための材料がありません。
いずれにせよ、事実として認めてよさそうなのは、古の砂漠の民の王国の遺跡で見つかった種は砂漠北部の山岳地帯に由来するものと考えられること、そしてその地には我々の歴史から断絶された人々が暮らしていたということ。この二点までです」
ネルドレク聖の話は一区切りがついたようであるが、彼は足を止めない。砂の上にはネルドレク聖の足跡が刻まれ、黒髪の少女――マユワはその足跡を辿ってネルドレク聖の後に続く。見上げて見えたネルドレク聖の背中が後を追ってこいと語りかけているからだ。
「ところで話は変わりますが、私の祖国では長らく砂漠の地は『呪われた地』と呼ばれていまして、本国には今でもそう呼ぶ者がおります。若い頃は無知に由来する恐怖と偏見がそのような呼び名を生み出したのではないかと思っていたのですが、近頃――といってももう三十年くらいですか――は、なかなか言い得て妙であると思っています。砂漠の地では、まさに呪いと呼ぶほかにないような、道理の通らないことがあるのですよ。
たとえば、砂鯨というものがありますね。その生態が特徴的であるのは言うまでもありませんが、特に面白いのは、砂鯨は決して砂漠の外に出ようとしないことです。砂鯨は人に対して従順ですから、指示されたことには大人しく従うのですが、砂漠の外に出ることに対してだけはひどく抵抗するのです。まるで砂漠の内外を仕切る見えない境界線があるようで、そこに近付くと砂鯨は梃子でも動かなくなります。一度、国軍の兵士たち総動員で砂鯨を砂漠の外に押し出させようとしたのですがね、結果は悲惨なものでした。十数人はいたであろう兵士たちがあの巨体に薙ぎ払われたり圧し潰されたりしてしまいました。砂鯨というのは、それほどまでの激しい抵抗をするのですよ。砂漠の外に持ち出せるのは、死んで骨や皮になった後のものだけです。
不思議ですよね。人や羊など、同じく砂漠で生まれ育った他の生物は問題なく砂漠の外へ出て行けるというのに、砂鯨だけが砂漠という檻の中に閉じ込められているのです。そもそも砂鯨という生物自体が我々の国や東国にはないもので、おそらく北の雪山にもいない生物なのでしょう。砂鯨は砂漠の地にしかいないのです。では、砂鯨とは、歴史上一体いつの時代にどのように生じたものであるのか。砂漠の地を焼いたという災厄以前に存在していたのかどうか。まったく謎の多い生物ですよ」
ネルドレク聖は苦笑して肩を震わせていた。マユワは砂鯨に圧殺された兵士たちの姿を想像するが、その中にネルドレク聖の姿を見出せてしまう。彼はその光景を見ながら今と同じように考察していただろうか。
マユワの足が俄かに重くなり、その分ネルドレク聖との距離が開く。先を行く人は構わず続ける。
「あるいは、冥界の門の伝承。再びこうして目の当たりにした以上、冥界の門が実在するものであることは疑いようがありません。その機能や役割の是非は一旦置いておくとしても、そのようなものが実在している以上、伝承という形で人々に知られるのは十分にあり得る話です。しかし、私の知る限り、死者の魂が冥界の門を通じて循環し再生するという話は、この地だけでしか語られていないことなのです。ザカタストラ国はもちろん、東国にもそのような言い伝えはありません。北の雪国はまだわかりませんがね。砂漠の南は広大な海ですから、ここは議論から割愛しましょう。
砂漠の地で冥界の門の伝承が伝承として成立した背景に、このような異界の地に冥界の門が実在していて、何者かが何かの折に異界に迷い込んで、そこで目の当たりにした記憶を現世に戻った時に語り継いだ、という経緯があったとしましょう。いえ、仮定をするまでもなく、そういう経緯で知られるようになったとするのが自然であるように思います。さて、そうだとするならば、冥界の門あるいはそれに準ずる内容の伝承が発生しなかった地では、そもそも冥界の門とは観測できないものだった、ということになりますね」
ネルドレク聖は歩く速度を緩め、立ち止まるとマユワの方を振り返った。
「これはあなたにお聞きする方が確実でしょうね。冥界の門が死者の魂の循環と再生に大きな役割を果たしているというのは本当ですか?」
マユワはネルドレク聖を見上げた。その表情は影になっていて見ることができないが、全てを悟ったような穏やかで透明な目でマユワを見ていることだろう。
「本当だよ。死者の魂はこの門を通って冥府に行って、そこで魂の坩堝に還る。そしていつか再び新しい魂として門を出て、現世に再生する」
「伝承の通りですね。ありがとうございます。では、砂漠の外で死んだ者の魂とは、死後に冥界の門に迎えられるものでしょうか?」
「……ううん。門を通れるのは砂漠で死んだ魂だけ」
「なぜ砂漠で死んだ者の前だけに冥界の門は現れるのでしょう?」
マユワは沈黙してしまう。答えることができない。その沈黙の正体を推し量って、ネルドレク聖が答えを代弁する。
「そういうものだから、ですよね。砂漠で死を迎えた魂――正確には、砂漠の地という限られた領域内において、肉体から離れた魂――を等しく絡め取って集約する機構、それが冥界の門というものなのではないでしょうか。
集約した魂がどうなるかというのは今あなたが言った通りであるとして、いやはや。冥界の門とは実に不自然なものだと思いませんか? 太陽や月が天を巡り、風が吹き、雨が降り、雷鳴が轟き、磁石が鉄を吸い寄せ、油が燃えるといった自然の現象と比べたら、冥界の門とはこのような自然の一貫した法則に従っているとは到底言い難いものではないでしょうか。砂漠の地だけに適用される特別な法則というのは、決して自然な法則ではありえない」
ネルドレク聖は腰に手をやり、伸びをしながら四方を見渡し、深呼吸をした。
「そもそもこの場所は一体何なのでしょうね。私はなんとなく異界と呼んできましたが、人の見る夢や幻に類するものなのか、あるいは一種の異空間なのか。後者であるならば、冥界の門もですが、これらは到底自然に生じるものではありません。自然なものではないならば、何か。人為的なもの、人工的なものと捉えるべきでしょう。何者かが、少なくとも私が理解しうる範囲の自然の法則にはない手段――神の御業にも等しい手段を使って作り上げた空間ということになります。
つまり、私が言いたいことはこういうことなのです。冥界の門とは、門という形状からして自明であったように、何者かが目的を持って作り出した人工物であり、それに付き従うあなたもまた、何者かに生み出された人工的な機能なのではないか。
この仮説の先にあるものは、この問いですね。では誰が何のために冥界の門やあなたを生み出したのか。魂の循環と再生の機構を仕組みとして創造したということは、その意図は極めて人間的なものであることを示唆します。つまり、その者にとっても死とは恐ろしいものであり、これを克服するために死後に魂の救済を実現する仕組みを作ったのです。超常的な技術を行使できる者でさえも、死を恐れる性根は我々と大差ないというのは、大変興味深いものですね。
そして冥界の門やあなたを生み出した者とは一体誰なのか。その正体に一番近いのは、雪国の人々ではないか。私はそう睨んでいます。雪国の人々が答えそのものかまではわかりませんがね。何者であれ、古代にはそのような技術と文明を持つ人々がいて、その人々があなた方を生み出した。
この可能性を示唆する証拠は他にもありますよ。砂漠の王国の遺跡にあった光る苔は明らかに自然の世界に存在するものではなく、何者かの手によって生み出されたものです。その技術は冥界の門に似て我々の理解が及ばないほど高度なものです。百歩譲ってもしも光る苔が自然に生じたものであるとしても、その類縁種が見当たらないことが不思議です。光る苔もまた人工物と見做すのが適当であるように思います。すなわち人工物である以上、それを生み出した存在がいる」
ネルドレク聖は大きく深呼吸をする。ゆっくりと目を開き、マユワに語りかける。
「さて、まとめましょう。神暦以前の時代、人々は現代では考えられないほど高度な文明を築いており、冥界の門や光る苔、そしてあなた自身といったものを生み出し、砂漠の地に楽園を創造した。我々の祖先はその楽園を何らかの理由で離れ、我々の教団を創り出した。一方、楽園に残った人々もいて、彼らは楽園を焦土に変える災厄が起こった際に地下へ逃げ込み、現在の砂漠の民となった。そして、災厄の原因はついぞわからないままではありますが、それをきっかけに、楽園にあった機構は失われてしまった。今残っているのはその残骸なのでしょうし、もしかしたらこの空間も昔はもっと賑やかな場所だったのかもしれませんね」
私の用意してきた土産話は以上です、とネルドレク聖は明るく言い放った。
ネルドレク聖は腰に手を当て、マユワの返事を待っている。あなたの心に引っかかるものはありましたか、と祈っているのは声に出さずとも十二分にマユワには伝わっていた。
マユワは改めてネルドレク聖が辿ってきた思索の旅の長さについて考えさせられてしまう。よくぞ人の身でここまで考えが至ったものである、と。感心すると同時に、虚しさも覚えてしまう。これは自分自身には関係のない話である、と。
「……あなたの考えた通りだったとして、それはあなたにとってどんな意味を持つものなの?」
「そうですね。神は存在するか否かという問いが振り出しに戻った、ということですね」
ネルドレク聖があまりにもあっけらかんと言うので、マユワは反応に困ってしまう。その様子を見てネルドレク聖が補足を加えてくれる。しかし真にマユワを動揺させたのは、先ほどまでの恐ろしい雰囲気は消え失せ、人好きのする笑みを浮かべていたことであった。
「先ほどした話の中で、私が教団の信じる神の存在を否定する論拠となったのは、冥界の門こそが本来自然な魂の救済の形式だったのではないかという可能性です。この可能性を前提としたうえで、冥界の門による救済が叶わなくなった人々がそれでも救われる可能性を求めて神を発明したのではないか、と推測しました。しかし、今こうして、むしろ冥界の門という在り方自体が不自然なものであるという可能性に至れたならば、やはり本来死者の魂とは循環も再生もせずに消えてしまう性質のものなのでしょう。ならば消え去った果てに何があるのかについては、未だに不明であると評するのが妥当です。もしかしたら、消え去ったきり何も無いのかもしれないし、あるいは神なるものが手を差し伸べてくれることがあるかもしれない。
教団の開祖たちも、もしかしたら、冥界の門が人工物であることを知っていて、そのうえで冥界の門に頼らない魂の救済の可能性を積極的に模索していたのかもしれませんね」
マユワはいよいよどうしていいのかわからなくなってしまう。ネルドレク聖の穏やかな語りが不思議と胸にしみていくからだ。マユワの知る限り、冥界の門を拒んだ魂の行く末とは悲惨なものである。その魂が自分の知らないところで救われる可能性は考えたことがなかった。でもそうだとしたら、それは、もしかしたら、素敵なことなのかもしれない。そんな可能性を考えてしまい、胸を手で押さえて自分が今ここにいることを確かめる。
ネルドレク聖はマユワの前にしゃがみ、マユワに目線を合わせた。その顔に刻まれた皺の数と深さは彼の長い旅路を表すものである。そのような顔がマユワの目の前にあり、愛し気にマユワのことを見つめている。
「あなたという存在にも、始まりがあるならば、いつか終わりがあるのでしょう。あなたが神やそれに準じた高次元の存在であったならば、そもそも起源や帰結を論じるのもおこがましいことでした。しかしそうでないならば話は別です。きっとあなたは私たちとは違う時間を生きる存在なのでしょうから、終焉の到来はずっと遠い未来のことなのかもしれません。しかしそれでも、永遠の存在でないならば、いつかあなたにも終わりの時が来るでしょう。そのときに、あなたが救われてくれたらいいな、と私は今、あなたのお顔を見て、切に、心の底から思いました。だって、こんなにも心細そうな顔をしているのですから。ここではあなたを救ってくれる奇跡をもたらす存在のことを神と仮称しておきましょう。神があなたのことを救ってくれますようにと、私は祈ります」
ネルドレク聖は目を閉じ、一言ずつ噛み締めながら愛を告白する。
「あなたは私に生きる意味を与えてくれた、とても大切で愛しい存在なのですよ。そう言われても迷惑かもしれませんけどね、私にとってはたしかにそうだったのです」
マユワは顔を伏せる。ネルドレク聖の気持ちを受け止めきることはできず、そのことはネルドレク聖も承知のうえである。ネルドレク聖の恋は既に十分すぎるほどに報われている。
「さて、これでいよいよ思い残すことはありません。といっても、悔いはたくさんありますし、悪いこともたくさんしたとわかっています。私を恨む人もたくさんいるでしょう。今さら私自身が救われるに値するとは思いませんが、それでも、自分の心に嘘をつかなかったことだけは誇らしく思いますよ」
その晴れやかな顔を見て、マユワは唐突にはっきりと理解した。ネルドレク聖の意思を確かめる。
「あなたは、冥界の門を通る気がないんだね」
立ち上がっていたネルドレク聖はマユワに背を向け、宣言した。
「ええ。門を通ってしまったら、他の魂と一緒にひとつの坩堝に溶かされてしまうのでしょう? 私のあなたに対する気持ちは私だけのものだというのに。この心を他の誰かと混ぜられてしまうというのは、嫌ですね」
拗ねたような声である。
「それに、私はあなたに信じてほしいのですよ。冥界の門を通らず、魂の再生が叶わなかったとしても、魂の救済は成るのだということを。夢想を形にした楽園で安寧を得ることだけが救済なのではありません。己自身を唯一無二の存在として認め、その純潔を保ち永遠のものとすることもまた、救済の形なのだと。だから、私にとって死ぬことは決して怖いことではないのですよ。どうでしょう、こんな私は愚者であると思いますか?」
人には愚者も聖者もない。人とは人であって、それ以上でも以下でもない。あるのはお互いがどの程度の距離でいるかということと、それぞれが志向するものがどの程度重なり合うかということだけである。マユワにとって人とは等しく皆観察するものである。
マユワは改めて思う――この人が追い続けてきたのは黒髪の少女であって……マユワ自身ではない。
ネルドレク聖の問いに立ち返り、マユワは首を横に振って答える。
「ううん。あなたのしたいようにしたらいい。私は、死にゆく人々のことを記憶するだけで、人に干渉は――しない」
「おや、今度は私のことを憶えていてくれるのですか」
「うん。あなたという人が存在したことを、私は記憶する。あなたという人がたしかに存在して、生涯のなかで何かを想い、悩み、迷い、苦しみ、考え、貫いたということだけは真実だから。あなたに限らず、人のそういうものは、なかったことにさせたくないって思う」
「そうですか、そうですか。ならばいよいよ思い残すことはありません。が、最後に一つだけ、私の願いを聞いていただけないでしょうか?」
なに? とマユワが問うと、ネルドレク聖はその場に座り、隣を示しながら言った。
「私が消失する最後の瞬間まで一緒にいていただきたいのです。さっきから少しずつ意識がぼんやりしてきていましてね、いよいよ終わりの瞬間が近づいてきているようなのです」
マユワは頷き、ネルドレク聖の隣に座る。
24.
眠気に抗う子供が離れた意識を無理やり引き戻すように、ネルドレク聖も、うつらうつらとしながら時々顔を横に振り、それから隣にマユワがいることを確かめてほっとする。一回あたりの呼吸が少しずつ長く静かになっていっていることに自覚はあるだろうか。
「何か、話をしてください」
消え入る掠れ声はネルドレク聖のものだった。マユワが横目でネルドレク聖の様子を伺うと、重たい瞼を必死に開いて保とうとする瞳と目が合う。
マユワは正面に目線を戻す。こういうときにどのような話をしたらいいのかがわからない。どんな話でもいいのだろう。しかし言葉とはひとつひとつが力を持つものであり、その言葉で織り成される物語とは語られたそばから一つの像を結ぶ。突拍子もない法螺話でさえ、語り手と聞き手が想像しさえすれば、人の意識の中に生じた物語であるという事実が痕跡として残ってしまう。故にいい加減で適当なことは言いたくないとマユワは思ってしまう。
これから消えゆく人に手向けるべき言葉とは何だろう――真っ平らな砂漠と無数の煌めく星の空を睨みながら考えるが、そこに答えはない。答えがないながらも、手掛かりを探り、おぼろげに浮かんだ映像や記憶をつなげて、言葉にしてみる。
「これは昔の話。大災厄で全てが燃えて砂漠になってしまう前のこと。ここはとても自然豊かな土地で、辺り一面が草原だったの。春は新緑が鮮やかで、一夜にして開いた蕾が七色の花畑となってそよ風に揺れていた。夏は陽光が緑をいっそう眩く照らしていて、昼間に人々が一生懸命働いた後は、月夜になって虫の音に混じって人々の楽しげな歌声が聞こえてきていた。秋は短くて、一日ごとに草葉が色づき、麦穂が揺れて、やがて刈り取られて、少しずつ景色が寂しくなって、動物たちは冬に備えていく。そして空から雪がひとひら舞ってきたら、それが冬の合図。北から溢れるように流れる雪雲が空を低く覆って、白い欠片を一つ、また一つ。それらはたちまち無数の雪となって、草原全体を静かに覆っていくの。人々は家にこもって暖炉に薪をくべて、秋のうちに蓄えた食料で温かい食卓を囲んでいた。二日もすれば辺りはすっかり真っ白な雪景色で、そう――今私たちが見ているような、真っ平らで何の痕跡もない静かな景色になるの」
マユワは今見ている景色が過去に見た何かに似ていた気がして、思い浮かんだことを浮かぶままに口にしていたら、それはかつて見た四季の景色に似ていたのだということに気付いた。取り留めもない話で、つまらない話だ。
横目でネルドレク聖の様子を伺うと、彼は目を閉じたまま、少しだけ頭を垂れていた。それからうっすらと目を開き、言った。
「そうですか。かつてここは、そのような場所だったのですね。あなたは……その景色をどこから、眺めていたのですか」
「外で」
「隣に、誰かいましたか」
「……ううん」
「あなたひとり、だったのですか」
「うん」
「それは、淋しいことですね」
ネルドレク聖の憐れみに満ちた呟きはマユワを通り過ぎて虚空に掻き消えていく。
「そうだったのかもしれないね」
「ええ、きっとそうですよ……あなたの心に引っかかるものだったから、今、こうして……言葉にしてみたく思ったのでは、ないでしょうか」
マユワは返事をしない。
「ですが、あなたは決して孤独ではありませんよ……あなたの行いを見守り、あなたを慈しむ存在とは、きっと、必ず、この世界のどこかに、いるものです」
ネルドレク聖は途切れ途切れに言葉をつないでいる。ゆっくりと、ひと際長く息を吸って、吐いた。
「あなたが私のことを記憶すると約束してくれたように……私も、今あなたが語ってくれたことを、決して、忘れません」
それきり声は途絶えた。薄く開かれたままの目はもう何も見ていない。それからネルドレク聖はゆっくりと輪郭を失っていった。蝋燭が溶けるように、体の形が崩れ、その場で白い塊となって、それさえも表面からうっすらと薄らいでいく。
マユワは手を伸ばし、白い塊に触れる。もうこうなってしまえば、マユワの中に流れ込むものは何もない。
かつてアシュナールと呼ばれていた少年のことは本当にマユワの記憶にないのだろうか。思い出そうとして、ついにそれらしい記憶は見当たらなかった。忘却とはとても残酷なことである。だからこそ、今度はこの人のことを決して忘れまいと、マユワは胸に強く刻んだ。
長い時間をかけて、ネルドレク聖の魂は宙に溶けて消えていった。
それを見計らったように、背後からマユワに掛ける声がある。冥界の門の番人である。
「逝ったか」
「うん」
「解せんな」
「何が」
「魂が霧散した先にその魂を救済する神がいる、か。もしもそのようなものがいるのであるならば、そもそも彼の者たちは我々を創造しなかっただろうに」
「それはそう」
「なぜ姫はその話をあの者にしてやらなかったのだ」
都合よく魂を救ってくれる神などいないことがわかれば、大人しく冥界の門を受け入れる気にもなっただろうに。
「あの人、たぶんわかっていたんだと思うよ。わかったうえで、神は存在するということにして、それでああなることを選んだ」
「……やはり解せんな」
「神というものがいるかどうかというのは、私たちにもわからないこと。いるかいないか、わからないのであるならば、いると仮定した方が……あの人の言葉を借りるなら、救いがある」
「詭弁だな」
「あなたがそう思うなら、あなたにとってはそうなんだろうね」
マユワの呟きに対する番人からの返事はなかった。代わりに番人がマユワに背を向ける気配がした。背中越しに番人が言う。
「我はあちらに戻ることにする。またそのうち会えることを期待しておるよ」
ではまた、と言い残して気配は消えた。
一人その場に残ったマユワは両腕と両足を投げ出してその場で仰向けになる。
これまでマユワが見送ってきた者たちとは一味違った感覚があった。理由は明白である。彼ほどマユワ自身に迫ろうとした死者は他にいなかったからだ。生前誰一人として救うことのできなかった者が、最期にマユワを救おうと手を伸ばした――その企みが成功するかと言われたら、その公算は失敗に終わったと言うべきである。しかし、かつて楽園の四季の移ろいを眺めていた自分の傍らに、共に並んで立ってくれる人の幻を思い浮かべることができてしまう。
――先ほど話した四季の移ろいには話しそびれた続きがある。
長い冬が明けて、やがて春の陽光が草原を覆っていた雪を解かす。すると、その下から水に濡れた新緑が現れる。冬の間に蓄えられていた生命力が爆発して、再び一夜のうちに色とりどりの花が咲き乱れて、辺りはすっかり花畑になるのだ。うららかな春の陽気のもとで動物たちも長い眠りから醒め、新たな命たちが活気づき始める。
この土地は悲劇の末に不毛な砂漠の地となってしまったが、地中のあちこちに植物の種が埋まっている。いつかの未来に花が芽吹いて乾いた砂の景色が塗り替えられることが、あるのかもしれない。それはとても甘美な想像であり、同時に破滅的な幻想でもある。
今、目の前にあるのは偽物の星空である。マユワは袖で目を覆い、溢れる涙を袖に吸わせて声を堪えている。
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