1.
砂鯨が死んだ。
出会ってから八年間を共にした青年の家族だったが、昨晩、毒蠍に刺されて死んでしまった。幸いなことに、近くの街まではさほど遠くはないので、砂漠の真ん中で野垂れ死にすることはないだろうが、余計なことを考える必要がない分だけ悲しみが募る。青年は地べたに座り、冷たくなりゆくだけの砂鯨を見つめている。死んだ砂鯨とは重力に押しつぶされるために、生前よりも低く平たくなるものであるということを、麻痺した頭で学んだ。
夜が明けて朝日が砂鯨の巨大な体の背後に迫り、輪郭を光で描き出す。麻色の肌の艶やかさはいくらか失われはじめていた。じりじりと日がのぼるにつれて、その全体像が浮かび上がってくる。巨体に比べて著しく小さな瞳は開かれているが、それはもはや結晶のように澄んだ黒色ではなくなっていた。濁り始めた瞳は宙を向いており、そこに青年の姿が映ることは二度とない。
改めて、死んでしまったのだな、と青年は思う。砂鯨はもう泳がない。青年を運んで砂漠を旅することもしない。これからは、青年は自分の足でこの広い砂漠を旅しなければならない。だから、さっさと立ち上がり、荷物をまとめて、とりあえず街まで戻って次の旅の準備をしなければならないのだ。砂鯨の死体は置き去りにすることになるが、一人で弔うには巨大すぎるし、そもそも砂漠で命を落とした生物とは野晒しにされるのが常である。死体はやがて干乾び、砂に埋もれて地に還るだろう。この広い砂漠にはそうやって置き去りにされた死体があふれているものだ。
それでも立ち上がれないのは、それだけ砂鯨が青年にとってかけがえのない家族だったからだ。目を瞑れば脳裏に昨日のことが生々しく蘇る。
青年と砂鯨はあてのない旅をしていた。太陽を目印にひとつの方角を目指して進み、太陽が空の端にかかり始めた頃に、砂鯨は突然大きく震え、青年の視界は突如反転し、地面に放り出された。体を打った痛みよりも、劈くような砂鯨の鳴き声に反応して青年は身を起こし、砂鯨に駆け寄り声をかける。砂鯨は苦しみながらのたうち回り、振り下ろされたひれが青年のすぐ隣を掠めて砂埃を巻き上げた。しかしそれもそう長くは続かず、やがて砂鯨は暴れる体力を失い、力なく倒れた。砂鯨は、時折弱々しく震える以外のことは、もう何もできないようだった。そのような痙攣が二、三時間ほど続き、月が天頂に届く頃に、ついにぴくりとも動かなくなった。夜の冷気は砂鯨の体から残った熱を奪い、岩のように固くさせていく。このように砂鯨が息絶えていく間、青年は何もすることができなかった。仇の毒蠍の行方は知れない。
俺がもっと気を付けていれば、毒蠍なんかに刺されなかった?
もしも時間を遡ることができたならば、と青年は叶いもしない妄想に耽る。
太陽が天頂近くまでやってきた頃、青年を巨大な影が覆った。その少し前から何者かの砂を踏む音は聞こえていたのだが。
「お前はまだ生きているな」
野太く低い声が青年に呼びかける。
「団長、まだ生きているのがいる」
「おう、そうか」
鬱陶しいと思いながら青年が顔を上げて振り返ると、大男の背中と、その大男が顔を向けている先からやってくる別の男が見えた。二人とも熱除けの白いマントとフードを被っていた。
「毒蠍にやられちまったか。運がなかったな、あんた」
団長と呼ばれた男はしゃがんで砂鯨に手を当て、言った。運がなかったな、という言葉にはそれ以上の他意はなかった。
「運がなかった……ああ、そうなんだろうな」
青年は呟いた。今朝からずっと過去をやり直す想像を繰り返してきたが、ついに砂鯨が死を免れる未来は見えなかった。何が悪かったのか? 強いて言うならば、運が悪かった。たまたま砂鯨の進む道の上に毒蠍がいて、毒蠍は自分の身を守るために砂鯨の腹に尾針を刺し、そしてそれを避けられなかった砂鯨は死んでしまった。それ以上でも以下でもない。不幸な事故だ。だからさっさと切り替えて、次の行動を――いや、その前にこの者たちだ。
「で、あんたらは何だ? 俺は金目のものなんか持ってないぞ」
「砂鯨からは色々なものが採れる。肉、皮、骨、肝、髭。無駄なものはほとんどない」
「……それは勘弁してくれ。大事な家族だったんだ」
「しかしもう死んでしまったのだろう」
大男は語尾を上げた。沈黙が流れる。大男の言う通り、砂鯨の体からは金目のものが数多く採れるというのは真実で、有効活用することは悪いことではない。青年は何も言い返せなかった。
沈黙を破ったのは団長と呼ばれた男が大男の脛を蹴る音だった。
「お前は、少しは言い方ってものを考えろ」
「……気を悪くしたのならすまない」
「言い方を取り繕ったところで、あんたたちの目当てがこいつだってところに変わりはないわけだ」
とことん運がないもんだ、と青年は毒づいた。かけがえのない家族を亡くしただけではなく、その死さえも弄ばれようとしているのだから。
「こいつに手を出してみろ。お前ら全員ぶっ殺してやる」
懐のナイフは殺傷を目的としたものではないが、人を殺めるには十分なものだ。しかし一対二ではそもそも分が悪い。せめてどちらか一人とでも刺し違えられれば上々か。それであいつのところへ行けるならば、それも悪くはないのかもしれない。
「ほら話がややこしくなった」
「すまない」
「ま、いいけどさ」
さて、と団長と呼ばれた男が青年に向き直る。敵意がないことを示そうと、軽く両手を挙げている。
「とりあえず、話をしよう。前向きな話だ」
団長を名乗る男、アルフィルクの話を要約すると以下のようになる。
彼らはこの辺りで葬儀を執り行う集団だという。青年イトのように不幸な事故で旅の相方を亡くす旅人は珍しいものではなく、そんな時には彼らがやってきて葬儀を行うのだ。死者を弔いつつ、近くの街まで遺された人々を送り届ける仕事をしている。そしてその見返りが、たとえば砂鯨の体の一部なのだという。
「仮に俺たちが来なくても別の誰かがやって来て、結局砂鯨をバラすだろう。ただしそいつらは俺たちみたいに建設的な話し合いをしてくれる連中ではないだろうな。あんた、間違いなく殺されるね」
「葬儀屋と死体漁りの盗賊は、何が違うんだか」
吐き捨てるイトに対してアルフィルクは明るく笑う。
「何も違わないな」
「せめてこいつももっと街から離れたところで死ねば、あんたらみたいなのに見つからなかったかもしれないのにな」
「さあ、それはどうだかね。どこで死んでも俺たちはきっとあんたらを見つけていただろうよ」
「嫌な奴だな」
「よく言われる――で、どうするんだ?」
どうする、と言われてもイトからしてみれば選択肢は一つしかない。拒否したところで、結局力ずくで砂鯨を奪われるのが関の山だ。そうなるくらいならば、せめて平和裏に事を済ませる方がまだ賢いというもの。しかしアルフィルクたちがあくまで葬儀屋を名乗り、形だけでも交渉の体を取るのならば、せめて腹いせにその偽善を暴いてやるのも一興だ。
「一つだけ条件がある」
「何だ?」
「喉響骨をくれ」
喉響骨とは砂鯨の発声器官であるが、加工すれば骨笛の素材になるものである。動物の骨から作る骨笛には色々な種類があるが、その中でも砂鯨の喉響骨で作ったものは、砂鯨の個体の絶対数の少なさ故に希少であり、最高級のものになれば貴族の邸宅一戸分の値が付くこともある。これは人の拳ほどの大きさしかないにも関わらず、砂鯨の部位の中では最も高価なものだ。
「いいだろう。他には?」
「いや、それだけでいい」
「ずいぶん控え目なんだな」
喉響骨の要求を控え目と表現するあんたらの方がよほど控え目だがな、とイトは内心毒づいた。なるほど偽善を塗りたくった面の皮はなかなかに分厚いらしく、本物と区別がつかなくなって久しいようだ。イトは鼻を鳴らし、吐き捨てる。
「どうせ一人で持てるものなんかたかが知れている」
「懸命だな」
アルフィルクは手を叩き、その音が交渉の区切りとなる。
「よし、じゃあ交渉成立だな」
「その代わり、ちゃんとこいつを弔ってくれるんだろうな」
「任せとけ。あんたの気の済むようにしてやるよ」
「……俺のことはいいから、ちゃんとこいつを送り届けてやってくれ」
「ん、まあそうだな――おい、グラジ! 砂船からマユワとルシャを呼んできてくれ!」
グラジと呼ばれた大男はアルフィルクに応えることなく砂船へ戻っていった。その後をアルフィルクが追っていく。
風が吹き、砂が舞う。砂鯨の巨体に薄く砂が被さる。もう二度と動くことのない様子に、お前本当に死んじまったんだな、とイトは呟くが、今朝から数えて何度目の呟きかはわからない。何かの拍子にぶるっと身を震わせて体を起こしてもおかしくないくらい、砂鯨の体は昨日までと同じ形をしていた。
さく、さく、と砂を踏む足音が二人分。イトの背後で立ち止まったが、振り返る気にはならなかった。その意図を察してか、立ち止まった二人もイトに声を掛けることはしなかった。結果、沈黙が流れる。
さっき、アルフィルクって奴が大男に誰かを呼んでこいと言っていたっけな。誰だったか。まあ、いっか……。
「気を遣ってくれているのかもしれないが、話しかけてもらっても構わない」
「そうですか」
振り返るとフードとマントを羽織った若い女と、それよりさらに若い齢一桁に見える少女が立っていた。
「ご挨拶に参りました。此度の葬儀を執り行いますルシャと、こちらがマユワです」
ルシャと名乗った女に続いて、マユワが頭を下げる。
「……こいつが目当てだってんならわざわざ面倒なことなんかやらなくてもいいだろうに。さっさとバラしてしまえばいいんだ。あんたらも暇だな」
「意味なんてないって、思ってる?」
訊ねたのはマユワと呼ばれた少女だった。夜闇よりも暗い瞳で見据えられる。イトは視線に耐えかねてやがて目を逸らしてしまう。
「さあ、どうだかな。こいつの魂が行き場を失って悪霊になっちまったら可哀相だなって思うけど、正直、葬儀とやらでこいつが救われるかどうかなんてわからねえよ。それでも、やらないよりはやった方がいいんだろうなって思うがな」
「そう。じゃあ最後のお別れの言葉、考えておいて」
それだけ言い残してマユワはイトに背を向け、一人でさっさと砂船に戻っていってしまった。
「気を悪くしないでくださいね」
「別にいい」
「そうですか――さて、式は日が暮れた後、星が瞬きだした頃に始めます」
「俺は最後のまとめにお別れの言葉ってのを言えばいいのか?」
「いいえ、それには及びません。あなたは見ているだけで結構です」
「何だそりゃ」
「でもその代わり、あの子の言った通り、最後のお別れの言葉は考えておいてください。そしてそれを、ちゃんと胸の中に浮かべておいてください。ただそれだけで結構です」
真に力強い想いを込めた言葉は口に出さずとも伝わるということだろうか? 馬鹿馬鹿しい。
「あんたらが何をしたいのかさっぱりわからんな」
「あら、これはあなたのための葬儀ですよ。あなたが明日からちゃんと前を向いて歩けるようになるための儀式です。彼女は死んでしまったけど、あなたはまだ生きていて、明日も明後日もこれからずっと生き続けます。今のあなたにとっては残酷な話かもしれませんが」
偽善者め、とイトは内心毒づいた。
「……ま、やりたいようにやってくれ。俺はきちんと片が付くなら何でもいい」
「そうですか。それなら私からはこれ以上何も言いません――が、あと一点だけ。アルフィルクからの言伝ですが、日が暮れるまでウチの砂船で休んでいても構わないとのことです」
では、とルシャは頭を下げ、踵を返した。
再び一人になる。イトは砂鯨の体に額を当てて目を瞑った。体熱を失って冷えた分は太陽の熱が温めて、結果、冷たくも温かくもない。ただし少しだけ固くなったイトの家族。溜息がこぼれ、それから虚無感が胸の穴から溢れる。
最後のお別れの言葉、だって?
さようなら、今までありがとう、これからは俺一人で頑張るよ?
何を思い浮かべても軽薄で馬鹿らしくなる。今のイトに必要なのは、そんな綺麗事ではなく、過去を改編し、毒蠍に砂鯨が刺されない未来を選び直す力だ。過去をやり直して現在を捻じ曲げる奇跡だ。大切な家族が死んだという事実そのものが塗り替えられない限り、この虚しさは消えない。それから目を背けて語る「お別れの言葉」に一体何の意味があるものか。綺麗事で済ませてなるものか。拳に力がこもることにイトは気付かない。
日中の砂漠は一面黄色の世界であるが、夜になると一転して薄灰色の世界になる。空と砂漠の境界は融けて混ざり合い、青灰色となって四方を円環で包んでいた。空に瞬く星の色は一様ではなく、赤色、青色、白色に黄色と様々であり、そこに濃淡が加わった結果、地表よりも遥かに賑やかである。
「月のない夜は星がよく映えますね」
声を掛けてきたのはルシャである。マントを脱いだら腰まで届く栗色の髪が垂れて、夜風に揺れた。歩くたびに、シャン、と鳴るのは手首に付けた鈴による。踊子の衣装に身を包んだ姿は、昼間に見た姿とはまったく異なり華やかであるが、過度に華美というわけでもない。裾に縫い付けられた薄く儚い紗とは、舞ったときに手足の軌跡を美しく見せるための装飾である。
「他の連中は?」
「男二人は邪魔者が来ないように離れたところから見張っていて、マユワちゃんは別の場所で役目に就いています」
「役目?」
「冥界の門の門番に死者の魂を引き渡す役です」
「何だそりゃ」
「生あるものは死ぬとその体から魂が抜けて、魂は門番に導かれて冥界の門の先にある冥府へ行くのです」
「それは知ってるけど、そうじゃなくてだな」
「彼女はそういうことができる特別な子なんですよ」
イトは眉を顰めた。
死者の魂が冥界の門を通って死後の世界に旅立つということは、この地域では昔から信じられていることだが、もちろん普通は死者の魂も冥界の門も見ることのできないものである。たまに「それらが見える」と言い張る者もいるが、そんな奴らは例外なく詐欺師か狂人のいずれかだ。だから実際には、死者の魂は冥界の門を通って死後の世界へ行く、ということにしておいて、それ以上は言及しないのが普通だ。死後のことは誰にもわからないものであろう。
ルシャはおこした火の前に座り、イトを呼び寄せる。揺れる火がルシャの頬に影を落とし、鼻梁の高さを証明していた。
イトは火を挟んでルシャと向かい合うように腰掛ける。
「さて、始める前にお願いしたいことがあります。あなたと砂鯨の昔話を教えていただけませんか?」
2.
ルシャに促されるまま、イトは砂鯨との出会いを語り始める。
イトはここから遥か東、砂漠に侵食されかかった農村で生まれた。上に五人の兄姉と、下に二人の弟がいた。祖父の代までは農業で生計を立てられていたが、年々進む砂漠化は村をじわじわと蝕み、イトの物心がつく頃には、父や兄姉は畑に向かうよりも、遠くの街に出稼ぎに行くことの方が多くなっていた。そのため、家の仕事は残った母やイトを含めた幼い子供たちが担うことになっていた。そのような事情はどこの家族でも同じことだったので、水汲みや炊事に洗濯、乳飲み子の世話など一通りのことは、この農村で生まれ育った者ならばできて当然のことだった。
家事に追われて代わり映えのしない毎日をやり過ごすなかでの楽しみは、たまに帰郷する父や兄姉が語る出稼ぎ先での出来事である。もっとも、彼らが語ることの大半は、いかに仕事が大変でつまらなくて、苦労に見合う対価が得られないものであるか――つまり愚痴であるのだが、その語りの合間に異国の風が吹くことがある。そのとき、イトは父や兄姉に「もっと詳しく聞かせて」と食いついては鬱陶しがられていたが、イトの輝く目に根負けして、彼らは渋々語り始める。
たとえば父が砂鯨宿の建築現場で肉体労働に勤しんでいると、遥か遠くの北国からやってきた高貴な人々の一団とすれ違うことがあった。砂鯨の背の上、白絹のヴェールを三重に重ねた天蓋の輿に乗っていたのは一団の中で最も位の高い人であろう。父はすれ違いざまにその人の横顔を一瞬見ただけであったが、その様子はとても印象に残るものだったという。曰く、その人は白く痩せこけていて病人のようであり、幼くも年老いているようにも見えて不思議だった。しかし真に父の印象に残っていたのは、天蓋の薄闇の中で紅い瞳が光を帯びて輝いていたことだった。すれ違いざまの一瞬のことだったので、もう一度確かめる機会はなかったという。
あるいは、姉が奉公する大商人の屋敷には、砂漠を超えた遠く西方の国から持ち込まれたものが数多く収蔵されていたという。姉の足りない語彙力では微細を描写するには不足であったが、かえってその曖昧さがイトの想像力を刺激した。たとえば彼女が見たある本は、小指の爪よりも小さいのに百頁以上もある本であったという。とても本としての機能を有しているとは思えないのに、蜘蛛の糸くらい細い金糸の刺繍で装丁されているというのだから、ますます本としての目的がわからない。姉は「お金持ちって本当に暇よね、わけがわからない」と理解を投げ出すが、イトはそうではない。その本には何が書かれているのか、誰が何のために作ったのか、そういうところに気が向いてしまう。
こういった話を聞くたびに、イトはいつか自分が出稼ぎに出る日のことを夢見た。もちろん出稼ぎであるのだから、家族のために一生懸命働かなければならないのだが、見知らぬ土地で見知らぬ人や物に出会えることに変わりはない。父や兄姉が体験したように、いつか自分もふとした拍子に未知なるものに出会い、世界の広さと可能性を、その目で、その耳で、その手で、鼻で、舌で、全身で感じる日が来るのだ。イトはその日を心待ちにしていたのだった。
それからいくつかの年月が流れ、イトが十二歳になった年の冬、ついにイトは父に連れられて初めての出稼ぎに出た。父の紹介で瓦焼き職人の手伝いをすることになったのだ。仕事柄、熱風渦巻く窯のそばを行ったり来たりするため、真夏の炎天下に立っていたときよりも汗をかくような仕事だったが、イトは懸命に取り組んだ。いつか父や兄姉が語ったような出来事がイト自身の身に起こると期待して、日々親方の理不尽な叱責にも耐えた。しかし、その時がついに訪れることなく、季節は春になり、迎えにきた父に連れられて、何枚かの銀貨を懐にイトは帰郷した。銀貨は一枚残らず母に取り上げられた。
次に行った倉庫での荷運びの仕事でも、その次に行った教会の建築の仕事でも、さらにその次に行った街道整備の仕事でも、何も起こらなかった。日々理由もなく叱責されながら小銭を稼ぎ、一銭残らず家に納めるだけの帰郷。腹立たしいことに、帰った次の日には早く出稼ぎに行ってこいと責め立てられるのだ。
十四歳になると、父からは「仕事はもう自分で探せ」と突き放されるようになった。イトはその場しのぎのような仕事を転々として過ごすようになった。しかしそれでは自分の食い扶持を維持するのに精いっぱいで、故郷には手ぶらで帰らざるを得ない。事情を母に説明するが、母はあからさまに残念がった。その横っ面をぶん殴ってやりたくなる衝動に駆られつつも、しかしイトは寸前のところで堪えた。そんなことがあって、イトの心は家族と故郷から離れていった。出稼ぎと称して向かった交易の要衝となる大きな街では、同じような年ごろと境遇の少年たちと不満を燻ぶらせあう日々を過ごすようになるのだった。
砂鯨は砂漠を旅するうえで欠かせない生き物だ。移動を楽にしてくれるだけでなく、背に乗れば地面から遠ざかるので、照り返しの熱で体力を奪われることもなくなるからだ。加えて性格も大人しく従順な個体が多いため、旅の相棒としてこれほど優れた生き物は他にない。一般的には、砂鯨はそのような生き物であるとされているが、何事にも例外はつきものだ。
砂鯨の市場では様々な砂鯨が売買されている。出自は問われない。人工的に交配して養殖した砂鯨も、自然で生きていたところを密猟者が攫った砂鯨も、あるいは誰かが誰かから盗んだ砂鯨も、押し並べて等しく檻に閉じ込めて売買されている。どんな過去を持っていようが、砂鯨は大人しく従順なので、一度躾をしてしまえば、たちまち快適な乗り物に早変わりする。故に砂鯨の買い手はその砂鯨の出自を気にしないし、砂鯨商人も商品が売れるならば出自は気にしない。たまに砂鯨の一頭を指して「これは盗まれた私の砂鯨だから返してほしい」と訴える者もいるが、それは詐欺の常套句なので相手にしてはいけない。
イトもいつか自分の砂鯨を持ちたいと考えていたが、砂鯨とは決して安い買い物ではなく、十代の少年ならば二年間は必死に貯蓄に勤しんでようやく手が届くかどうかというものだ。
しかし、その『訳ありの砂鯨』は、市場の隅の、暗く目立たない場所で売られていた。イトが砂鯨商人にその訳を訊ねると、砂鯨商人は投げやり気味にこう吐き捨てた。
「こいつは飼い主を殺したのさ。こう、ぶちっとね」
両の手のひらを重ね合わせて、ぎゅっと擦り潰す仕草をする。
「砂鯨の事故なんて珍しくないだろう?」
「事故じゃない、殺人だ。こいつはこいつの意思で飼い主を殺したんだ」
「へえ……」
「とんでもないじゃじゃ馬さ。おかげで誰も買おうとしない。このまま売り手がつかないんじゃ、いっそ家畜として解体しちまった方がまだ元が取れるってもんだ。どうだい少年、お前くらいの年の子供なら、多少訳ありくらいの方が手を出しやすいんじゃないか?」
大人しさと従順さ故に人に飼われてきた砂鯨が飼い主を殺す状況がどのようなものか、イトには想像がつかなかった。よほど性格に難のある砂鯨だったか、よほど飼い主が砂鯨の恨みを買ったか、はたまたその両方か。いずれにせよ、砂鯨――あの巨躯で砂漠と悠然と泳ぐだけのでかぶつに、人間じみた喜怒哀楽の感情が存在すると仮定しなければ成り立たない話だ。
イトは件の砂鯨に目を向ける。檻の中で死んだように横たわるそれは、ただの岩のようであり、他の檻にいる砂鯨との違いは見出せない。時折尾びれを震わせるが、その動きも緩慢で、世の恨みや辛みとは無縁であるように見える。
「しばらくはここに置いておいてやるよ。少年、そいつに興味が湧いたんだろう」
「いや、別に」
そう返事しようとした矢先、砂鯨商人は別の客に声を掛けられ、そちらへ向かっていってしまった。
取り残されたイトは少しだけ迷った後に、檻の奥側に回り込み、訳あり砂鯨の前にしゃがみ込んだ。イトに気付いていないのか、砂鯨は目を閉じたまま動かない。
じっと耳を傾けていると、砂鯨が呼吸する音が聞こえる。吐息で地面の砂粒がかすかに震える。そのリズムはイトが呼吸するときよりもずっとゆっくりで、深呼吸をして溜息をするようにも見える。
「お前、飼い主を殺したんだってな。よほど嫌な奴だったんだろうな」
想像の中の『ご主人様』は、ちびで、でぶで、禿げ頭の、中年の男だった。甲高い声で砂鯨を罵り、手にした鞭や棒で砂鯨を叩く様子を想像した。砂鯨からすればそんなものはきっと痛くも痒くもないのだろう。刃物で切ったり刺したりでもしないと、砂鯨が痛がることはないのだろう。それほどに砂鯨は巨大で、人間は小さいものだ。
改めて砂鯨の巨体を眺めてイトは思う。逆に、何をしたら砂鯨に殺されるなんてことがあるんだ、と。生来、イトは想像もつかないことに対して好奇心を抱く性質であっる。知らないこと、わからないことの先には新しい世界が広がっているものである。
「お前のことに興味が出てきたよ。何があったんだろうな」
砂鯨は黙して答えず、イトの好奇心など知るはずもない。
小一時間をそんな風に過ごした後、イトは立ち上がり、砂鯨商人に一声掛けて去っていった。
それから何度となくイトは訳あり砂鯨のもとに通った。砂鯨は常に檻の隅でほとんど死んだように横たわっていた。他の砂鯨たちは所在なさげに檻の中をうろうろしたり、道行く客に視線を投げかけたりしていたりしたが、訳あり砂鯨だけはその場から一歩も動こうとはしなかった。その様子は何かにじっと耐えているようにも見えた。一体何に? 飼い主を殺した件と関わりがあるかどうかはイトにはわからないが、この砂鯨自身の事情に関することなのだろうと想像する。
砂鯨の鼻息が砂埃を震わせるのを見ながら、イトは故郷でよく見かけた野良犬のことを思い出していた。その野良犬は家々を回っては残飯をせびっていた。もっともどの家も貧しく、野良犬に食わせるような残飯はなかったのだが、たまに近所の老夫婦が気まぐれで残飯を与えていた。そのせいで野良犬は惨めな鳴き声を出していれば飯にありつけることもあることを学習してしまった。当時はうるさく迷惑にしか感じていなかったが、今にして思えば野良犬にとっては媚び諂うように鳴き声を出し続けることが生きるための唯一の手段だったのだろう。あの痩せ細って虚ろな目をした野良犬は、自分なりに生きるための手段を考え実行していたのだ。野良犬ですらそうなのだから、砂鯨が同じように自分なりの哲学を持っていたとしても、もしかするとそれはおかしなことではないのかもしれない。
そう考えたとき、イトは自分でも気付かず砂鯨に手を伸ばしていた。表皮は冷たく、柔らかく、そして滑らかだった。そのとき初めて砂鯨は瞼を開いた。闇夜よりも暗いのに透き通った硝子のような瞳だった。
イトが件の砂鯨を買うと決意するのにそう多くの時間はかからなかった。一度決意してしまえばやるべきことは限られていたので、以後イトが悩んだり考えたりすることはほとんど何もなかった。立ち上がり、その足で砂鯨商人のもとへ向かう。
「あの砂鯨を買いたい」
と砂鯨商人に宣言すると、「三ヶ月までなら待ってやろう」と言質を得ることができた。路地裏で同年代の少年たちと愚痴を言い合っていた時間はすべて仕事に充てた。朝から晩まで働き、その合間に市場へ通って砂鯨に会いに行った。砂鯨は変わらず岩のようにじっと動かずにいたが、イトの砂を踏む音が聞こえると、尾びれをそっと波打たせるのだった。
砂鯨を買うための資金が溜まったのはちょうど約束の三ヶ月目だった。銀貨を数え終えた砂鯨商人は「頑張ったな」と口端を持ち上げた。
「……そんなことがあって、あいつと旅立ったのが八年前のことだ。それからも、まあ色々あったが、特に大した出来事も事件もないな。季節や世相に合わせて西や東を行ったり来たりだ」
これで終わりとばかりにイトは両手を挙げた。
「旅立ってから故郷には戻られたのですか?」
「いや、戻ってない。戻る理由がない」
「彼女が元の主を殺してしまった理由とは何だったのでしょう?」
「さあ、知らないね。ぶっ殺したくなるくらい嫌な奴だったってことなんだろう」
「そうですか……」
「他には何かあるか? なければ、もういいだろう。そんな風に俺たちは出会い、旅をして、あいつは昨晩死んで、そして今に至る。特に面白くも何ともない、平凡な過去だ」
「でもあなたにとっては」
「そう、特別。唯一無二。しかしそれは俺にとっては、の話だ。そして、今日会ったばかりのあんたには分かられたくない話だ。もうはっきり言うけどな、心に土足で立ち入られるのはさ、辛いんだよ」
それきりイトは口を閉ざしてしまった。その口が開くことはもうないのだろうと、ルシャは見切りをつけた。間をつなぐために、焚火に木炭を足す。黒色の奥で赤が明滅する。細く立ち上る煙は星空に溶けて消えていく。
ルシャがイトに対して個人的に言いたいことや言えることは山ほどあるが、それを口に出すことは間違いなく今は適切ではない。優しく触れられることにすら心が傷つくならば、そっとしておく他にない。思い出も、痛みも、悲しみも、全てイト自身のものである以上、今しがたイト自身が言った通り、赤の他人が無闇に触れるべきものではないのだ。
おそらく――ルシャは思案する――おそらく、予想が正しければ、彼は砂鯨が元の主を殺してしまった理由を知っているのだろう。そして、その理由が彼と砂鯨の仲を更に特別なものにしたのだ。だから、彼は急に言い淀み、話を切り上げた。人の心とは、喩えて言うならば、繭のようで、幾重にも層が重なり形成されている。心の外側は人に晒すことができても、深層に近づけば近づくほど、心は秘匿されていく。彼に関して言えば、家族との確執や未知と旅への憧れは他人に話して差支えのないものだが、砂鯨との絆は差支えのあるものだった。だけど――。
ルシャは首を横に振る。深呼吸をして、自分の役割と、為すべきことの優先順位を確認する。すなわち、第一は深く傷ついたイトの心が立ち直るきっかけを作ることであり、彼と砂鯨の間に何があるのかを知ることは今この瞬間の自分の役割ではない。そして、立ち直れるかどうかは、究極的にはイト自身の問題だ。本人自身に立ち直る気がなければ、ルシャたちがどれだけ手を尽くそうがいつまでも悲嘆に暮れ続けることだろう。
時の流れが過去へ遡ることはない。それを可能にするいかなる手段もない。死者が蘇る奇跡もない。一度生じた事象が覆ることはなく、ただ事実を事実として受け止め適応していくしかない。それがどんなに辛く苦しく受け入れ難いことだったとしても、万人に等しく明日は訪れてしまう。そしてあらゆるものが過去となっていく。時の流れる速度で現在は過去と隔てられていく。
しかしそれでも、魔法は存在する。時を戻すことはできないが、幻と夢を見せて心を騙し、幻想のなかで癒すことはできる。その上で、イトが何を信じるか。要は選択の問題だ。
「そろそろ、始めましょうか」
雲も月もない夜空には無数の星が瞬いている。魔法を使うのにこれほど相応しい夜も珍しいものだ。
3.
昼間には風が吹いて砂が舞い上がることもあったが、夜になってからはすっかり凪いで穏やかものである。しかし砂漠の地とは目に見えなくとも生物や自然が息づくものであり、その痕跡はたとえば砂紋として砂上に残されていた。四方を見渡せばいくつかある足跡以外はすべてが砂紋である。砂紋は星々の光を受けて淡い陰影を地表に作り出すことでその凹凸を示していた。
ルシャが歩く度に手首の鈴がシャンと鳴る。小さな足跡が砂紋の上に新たに刻まれる。その背中は小さく、広大すぎる砂漠に紛れて消えてしまいそうにも見えるが、白銀の腕輪が僅かな星の光を眩く照り返し、三日月のように鋭く夜闇に傷をつけているおかげで、イトはその背中を見失わずに済んでいる。
ルシャは十分に開けた場所まで歩み出ると、跪き、合掌した。口早に祈りの言葉を囁く。凪いでいた風が南から北へ、脈打つように柔らかく吹いた。
ルシャが立ち上がる。空を見上げる。無数の星々を目で追い、今この場に相応しいものを探し出す。小さい星は力不足だが、あまり大きすぎる星は他の光を掻き消してしまう。青い星は静かであるが同時に冷たく、赤い星は温かいが同時に騒がしくもある。調和を保つことは大事であるが、しかしそれだけでは取るに足らないものに留まってしまう。調和を破壊しながら再構築し、より大きな唄に育てていかなければならない。
息を吸う。凍てつくような空気がルシャの肺を満たし、手足の先まで冷えていく。心を澄み渡らせ、意識を手放す。これより先において、身体はルシャ自身のものではなく、空と大地とそして宇宙の一部である。たとえば天体の運行が自然の法則に従ってなされるように、ルシャの身振りや振舞いもまたより大きな意思に委ねて従わせるのだ。全ては在るがままに、為すがままに。心臓の鼓動のリズムは大気の鳴動と同期し、ルシャは無限の星空を見上げつつ同時に空から己自身を俯瞰する。手足の指先までくまなく霊気が行き渡ったとき、ついに唄が喉から溢れ出る。指先は空を撫で、つま先が弧を描き、鈴の音が脈打つように鳴り響く。
いくつかの星々から地表に向けて光が降り始めた。最初は一つ、二つ、次第に雨のように降り注ぎ、細く垂れた光の糸々は砂紋と結びつき、円い印を残す。印は元の星々の赤、青、白、黄それぞれの色を反映させ、淡くゆったりと明滅する。そんな印が地表のあらゆる場所に刻まれ、砂漠は星空を映す鏡となった。天地の区別はもはやなく、先ほどまで地平線だった場所も天地の星々が混ざり合って境界を失う。
それらの光景を、イトは息を呑んで見つめていた。地表に投影された星の光たちは無秩序にちりばめられているように見えたが、そこに意味があると気付くのに多くの時間は要さなかった。すなわち、譜である。ルシャの喉から溢れる音楽の音程や拍が、砂紋に落ちた星の光と同期していた。地表の光の全てが過去から未来に至る全ての音楽を記述していた。
シャン、シャン、とルシャが舞う度に鈴が鳴る。すらりと伸びた手足が宙を舞い、音楽が風に乗って砂漠中に響き渡っている。その響きはイトの鼓膜を心地よく揺らし、時間の感覚を麻痺させる。天地は反転し、時の流れも一様ではないため、もうずっと長い間、幻想の星海の中を漂っているような錯覚に陥っていることに気付くが、しかしどれくらい前からここにいるのかもわからなくなる。始まりと終わりは解け、永遠に今この瞬間が続くならば、それはつまり時空間の超越にも至るものであり――不意に舞うルシャとイトの目が合い、彼女は目で訴える。
(お別れの言葉)
はっと我に返ったイトは心に言葉を浮かべる。昼間にマユワとルシャに言われた通り考えたものもあったが、それは直観的に今この瞬間は相応しいものではないと感じた。ありがとうも、さようならも、違う。もっと他に言うべきことが、砂鯨に届けるべき言葉があるはずだ。そしてそれは、本能的にイトは知っている。既に存在する正しい言葉はイトに自覚されるのを待っている。
天の星々と地の星々の狭間でイトは立ち尽くす。ルシャの音楽が終わる時が葬儀の終わる時であり、その瞬間、砂鯨の魂は冥界の門をくぐることだろう。今ならまだ砂鯨の魂はこの幻想の星海を漂っていて、イトの言葉も届くかもしれない。一縷の望みが今ならまだあるかもしれなくて、しかしその可能性が途絶えるまでもう間もない。地表に落ちた星の印は徐々に輝きを失いつつあるからだ。地平線と重なり合ったとこrにある印は既に光を失った。もはや迷っている暇もない。束の間見た永遠は所詮ただの錯覚だった。
イトの半端に空いた口が言うべき言葉を探している。言うべき言葉は既にそこにある。後はそれに相応しい音を当ててやるだけだ。天の星々、地の星々、四方を取り巻く地平線、彼方には砂船、舞い唄うルシャ、耳に響くは星の歌声、そして目に留まった砂鯨の死骸。小山のような体は八年前に砂鯨商人の檻で会った時と変わらない。走馬灯のように駆け巡る八年間の思い出。砂鯨は唯一無二の家族だった。いや。家族という形容では不十分なほどに浅からぬ仲であり、イトと砂鯨は二人で一つだった。お互い欠けた魂を補い合っていた。人はそれを愛と呼ぶのだろう。砂鯨がとっくの昔に自覚し、イトが今初めて自覚したものだった。
動悸は激しく、息は吸うほどに苦しく、見開いた眼は瞬きすることを忘れていた。醒めゆく夢の終わりに掠れた声でイトはついに言葉に出会う。それは「ごめん」の一言だった。
お前が死んだとき、悲しむよりも先にほっとしてしまってごめん、と。
4.
イトが砂鯨と続けてきた八年間の旅路は目的も目指すところもなく、ただ流されるがまま東から西へ、西から東へと移動するものだった。旅立った当初こそ、見知らぬ土地へ行けば想像を超える出会いがあるかもしれないと期待に胸を膨らませたものだが、そんなものがついに現れることはなかった。砂漠はどこまで行っても砂漠だったし、行く先々で肌の色や言語に違いはあれども、そこにいたのは同じ人間だった。そんな失望を繰り返し、ついに地図上にある町や村の全てを訪れてしまった。砂漠から先に行けばもっと新しいものがあったのかもしれないが、砂鯨とは砂漠に生きる生物であり、砂漠を離れて生きる術はない。砂鯨と共にある限りイトは砂漠の外に出ることができなかったが、砂鯨を捨てるという発想は微塵もイトの頭にはなかった。世界にはイトと砂鯨の二人きりであり、お互い以上に大事にすべきものはない。
一方、閉ざされた砂漠の中に二人の居場所はない。二人で居続けるためならば多少の悪事に手を染めることも厭わなかったからだ。わずかばかりの路銀を懐に抱えて夜中に街から逃げ出すことも珍しくなかった。遠のく街の灯りを振り返りつつ、「もうあの街には行けないな」と砂鯨に語りかけたものだ。風とは止んだ瞬間に風ではなくただの空気になってしまうものであるように、二人もまた放浪し続けることで、かろうじて二人で共にある状態を維持することができていた。
こんな暮らしがあと何年続くのだろうか――砂鯨の背に揺られていて、ふと考え始めてしまう。しかしその結論が明るく幸福なものであることはない。それでもすべてがうまくいって、後ろ指をさされることなく、穏やかに暮らす方法はないものか。そう考えて浮かぶのはこれまで散々裏切ってきた恩人たちの顔である。彼らの失望と憎悪に染まった顔が、どちらの方角を向いても視界に入り、罵声が耳に届く前に手で耳を塞ぐ。このような思考の悪循環から逃れることができない。こんな暮らしをこれから五年、十年と続けていくのだろうか。イトも砂鯨もいずれ老いていく。そうでなくとも、こんな日陰者の生き方をしているのだから、いつ野垂れ死にしてもおかしくない。イトは自分が死ぬこと自体に未練はないが、砂鯨を残していくことは心残りだった。残された砂鯨は野生に還り、何者かに捕まってどこかの砂鯨商人のもとで再び商品として売り出されてしまうのだろうか。
そう考えると、こんな暮らしは長く続けるべきではないという結論に至る。どこかの街に根を下ろし、定職を見つけ、家を持つ。所帯を持つことまで想像するのは流石に妄想が過ぎるとしても、砂鯨と二人で安定して暮らせる場所を見つけるべきだ。もはや旅に対して無邪気な憧れを抱ける年でもない。誠心誠意、地に頭をこすりつけて謝れば聞く耳のひとつでも持ってもらえるだろうか。あるいはまだ行ったことのない場所、それこそさびれた小さな村でもいい、とにかく自分たちのことを知らない人たちの間で、人生をやり直してみるのがいいだろうか。
しかし、ふらりと訪れた素性の知れない青年と砂鯨に土地と建物を分けてやるお人好しなどそうそういるものではない。それどころか、イトの悪評がどこからともなく噂として流れ着き、昨日まで笑顔でいてくれた人が翌日には目も合わせてくれなくなる。小声で囁かれる言葉の全てがイトを責め立てるもののように錯覚してしまう。もはや家探しや仕事探しどころではなくなってしまう。その結果、これまでそうだったように、夜闇に紛れてこっそり逃げ出さざるを得ない。そして、たまに真心から情けを掛けてくれる人が現れたとしても、砂鯨が嫉妬に駆られて追い払ってしまうのだ。巨体で親切にしてくれた人に迫り、圧殺する寸前でイトが間に入って食い止めたことは、決して一度や二度ではなかった。
砂鯨のイトに対する態度が変わってきたのはおよそ一年前、旅立ってから七年目のこと。きっかけが何だったのかは思い出せない。積もり積もったものが我慢の限界を超えて少しずつ溢れていった、というのが実態だったのだろう。いずれにせよ、イトが気付いた頃には砂鯨はすっかりイトのことを愛していた。
四六時中常にイトの傍を離れようとせず、体をイトに擦り付け、甘えたような鳴き声を出す。砂鯨は元々人に懐きやすく、そのような挙動をすることはそう珍しいことではないのだろうが、たとえば旅の途上でたまたま関わりを持った人を追い払おうとする、といったようなことが起こってしまうと、流石に度が過ぎていると判断せざるを得なかった。
「お前、最近どうしたんだよ」
イトが頭を撫でてやると、砂鯨は満足げに深く息をついた。イトの苦悩などまるで知らず、今この瞬間が永遠に続くものと信じて疑わないようだった。しかしその呑気さに心が苛立ってしまう。つい気が立って言葉が荒くなる時もあったが、砂鯨の悲し気な鳴き声を聞くと、たちまち苛立ちは消え失せ、申し訳なさの方が先立ってしまう。そして途方に暮れる。
七年間を共に過ごしてきて、砂鯨に砂鯨なりの感情があることを疑う余地は今更ない。問題は、どの程度複雑な感情を有し得るかを想定することだ。人間であれば、喜怒哀楽を基本的な感情の幹として、そこから枝葉が分かれて得も言われぬような感情が果実としてなることもあるだろう。純粋な喜怒哀楽とはそうそうあるものではなく、往々にして、嬉しいけど悲しい、腹立たしいけど楽しいといった、相反する感情が同時に心に去来することも少なくない。人同士ならば自分自身のことから類推して、相手も自分と同じように複雑な感情を有し得ると想定するのは自然なことだが、はたしてその類推を砂鯨にも当てはめてよいものか。おそらく大多数の人がそうであるように、イトもまた、砂鯨に対して人間と同等の複雑な感情が生じ得るとは想定していなかった。どんなに大事な家族だとしても、砂鯨は所詮砂鯨である。人と砂鯨の間には種族の壁があり、その壁を跨いで夫婦になるなどというのは遠い異国の神話の世界だけで十分だ。
しかしイトはその考えが誤っていると思い知らされた。ある晩のことである。
その日、砂鯨は特にイトに対して甘え、じゃれついていた。砂鯨の巨躯でじゃれつかれるのは、一歩間違えば死に直結するものだが、少なくともこの七年間はそのような危険に晒されることはなかったのだ。
しかしその晩は違った。砂鯨はイトの頬に頭を擦り付け、そのままイトを押し倒した。そしてイトの上半身を押さえつけ、くぉん、くぉん、と悲しみの声で鳴いていた。その様子は遥か昔にイトが捨てた、故郷の弟たちを思い起こさせる。弟たちも互いに喧嘩してはイトの胸の中でいかに自分に非がないかを訴えたものだ。
「どうしたんだよ、本当に……」
イトは仰向けになりながら砂鯨の頭を撫でてやる。そして離れるよう砂鯨の頭を軽く叩いて合図を出したが、砂鯨は鳴き続けるばかりで一向に動こうとはしなかった。それどころか、ますます強く頭を擦り付けてくる。ゆっくりと、しかし確実に肺が圧迫される。肋骨が軋み、内臓が居場所を失いつつあるのを感じる。逃れることはできそうにない。その先にあるものは――死。
唐突に訪れた生命の危機はイトに一切の思考を許さなかった。あの砂鯨がどうして突然こんなことを、と考える暇などない。本能が死を恐れる。殺されたくない、死にたくない。ただその一念で、イトは砂鯨の頭を力の限り殴りつけた。しかし人と砂鯨とでは体格に歴然たる差があり、巨躯にはびくともしなかった。それでもイトは砂鯨の頭を殴り続ける。殴り続けた。
体にかかる圧力は唐突に途切れた。朦朧とする意識の中、必死に肺に空気を送り込む。遅れて今になってようやく自覚された痛みが全身を駆け巡る。視野はしばらく明滅していたが、次第に収まり像を結ぶようになってきた。そこに至ってようやく、イトは自分の身に起こったことについて考える余裕が出てきた。
一体何が起こったのか。イトは砂鯨に押し倒されて、殺されかけた。そう、砂鯨はイトを殺そうとしたのだ。そして、それを途中で思い留まった。
七年間の軌跡を思えば俄かには信じがたいことだったが、そうとしか表現せざるを得ない。首だけ起こして辺りを伺うと、砂鯨は少し離れたところで蹲り、イトの方を見つめていた。いつもの見慣れた黒い双眸に浮かんでいたのは。憔悴の色だった。今の状況に閉塞感を感じ、もがき苦しんでいたのはイトだけではなかったということだ。
砂鯨はのそりと起き上がると、再度イトの傍にやってきた。そして今度は優しくイトの頬に頭を擦り付けたが、それは許しを請うようでもあった。
その一件以来、二度と砂鯨がイトを襲うことはなかった。また、砂鯨がイトに近づく人を追い払うこともなくなった。砂鯨はすっかり砂鯨らしい砂鯨になり、イトと砂鯨の間には見えない境界線が引かれたのだった。
イトは砂鯨の背に揺られ、どこまでも続く砂色の地平線を見つめながらぼんやりと思い出す。いつだったか、砂鯨商人が「この砂鯨は訳ありだ」と言っていた。すっかり忘れていたが、この砂鯨は過去に一度、自分の主を己の意思で殺しているのだ。今なら何があったのかは大体想像がつく。
「人と砂鯨だもんなあ……そりゃあ、無理だよ」
イトと砂鯨が共に行く先には破滅しかないが、そこから逸れる道もない。終焉に向かってゆっくりと一人と一匹は旅を続けていた。
砂紋に刻まれた最後の印が消えると、辺りは元の夜闇に包まれた。イトは肩を上下させながら大きく呼吸をしていた。心臓の脈打つ音は未だ収まらない。
砂鯨が毒で弱っていく数時間のあいだ、イトは砂鯨の傍にいたが、傍にいただけで何もしなかった。もちろん言い訳ならばいくらでも出てくる。たとえば、助けを呼びに街まで徒歩で行ったとしても、戻ってくるまでに半日はかかるだろうから、毒蠍に刺された時点で既に手遅れだった、など。持ち合わせに解毒薬などあるはずもなかったし、どう足掻いても手遅れであることに疑いはなかった。しかし、「これはもう手遅れだ」と見切りをつけるのが、あまりに早すぎた。冷静で現実的な判断といえば聞こえはいいのかもしれない。しかしそれでも、苦しみ悶える砂鯨のために、もっと何かしてやれることはないかと考えるべきだったのではないだろうか。
混乱していた、戸惑っていた、憔悴していた、それらはいずれも偽りではない。しかし、それらに紛れて、ほんの僅かなの安堵があったこともまた真実だった。もしこのまま砂鯨が死んでしまえばどうなる? イトの行き詰まった状況が変わるきっかけになる、イトは砂漠の外へ出て行ける、そうして旅をやり直すことができる! そんな可能性に一瞬でも心が揺らいでしまった。その事実は、イトが砂鯨と過ごしてきた八年間に対する冒涜であり、そんな気持ちが自分の中に一瞬でも芽生えたことなどあってはならないことである。故に、イトは、即座に思考を停止させ、浮かんだ可能性を忘却し、思い出すことさえも放棄した。目の前の砂鯨を助けたり、苦痛を和らげたりするための方策もろとも、考えることを放棄したのだ。そして、イトが呆然としている間に、砂鯨は苦しみ抜いた末に事切れた。このようにしてイトは砂鯨を見殺しにしたのだ。
「最低だ」
そう呟く自分自身をイトは軽蔑した。イトと砂鯨は魂の片割れのように互いで互いを補い合ってきたはずだし、そのことに安らぎを感じてさえいたはずなのに、今やその自負やすっかり空虚なものになってしまっていた。
唄と舞を終えたルシャはイトの前を素通りし、再び火をおこしていた。ちりん、ちりんと鳴る鈴の音がいやに響いて聞こえてくるのは、お互い何も喋らないからである。
ルシャは茶を淹れていた。外套を羽織り、コップを両手で包んで暖を取る。背後でイトが呆然と立ち尽くしているのは知っているが、声は掛けない。イトが自身の心の奥底に見つけた真実が何であれ、それと対峙するのは本人がすることであり、部外者であるルシャたちが立ち入るべき領域ではないからだ。
見上げれば空には先ほどと変わらず星々が瞬いている。静かな夜が戻ってきている。
天は地上にひしめく生き物の個別の心を斟酌などしない。世界は森羅万象を統べる法則と秩序に従い、流転していく。死んだ者は肉体と魂に分かれ、肉体は地に還り他の生物の命の糧となる。魂は冥界の門を通っていく。人も、砂鯨も、あらゆる生物においてもその道理に例外はなく、抗う術はない。道理の絶対性を嘆き、憎み、怒りを振り向けても、天が地上にひしめく生き物の個別の心を斟酌などしない以上、心なるものを得てしまった者は、溶岩のように煮え滾る苦汁を嚥下し、堪え忍び、受け止めていく他にない。それができなければ心を手放すしかない。
ルシャは茶を飲み干すと、二煎目を淹れた。そろそろ日付を跨ぐ頃だろうか。夜明けはまだ遠い。
5.
夜明けは唐突には訪れない。無限の星々の背後にあるのは暗黒の宇宙だ。それが東の方から次第に紫紺、藍色を得ていく。星の光は夜闇が薄らいでいくとともに目醒めつつある空の色と同化していく。それと時を同じくして空全体が赤く焼けていき、太陽が地平線から顔を覗かせる。
射し込んだ光がイトの瞳を貫いた。砂鯨の巨躯を照らし出し、曲線の輪郭を浮かび上がらせた。
「夜が明けたな。気持ちの整理はついたか?」
焚火の火を踏み消しアルフィルクが立ち上がる。傍らにはグラジとマユワ、ルシャ。
「これで整理がついたように見えるか?」
「見えないな。しかし、関係ない」
イトは目を逸らし、薄れゆく夜闇に目を向けた。アルフィルクはそれを黙認と受け取る。
「グラジ、始めるぞ」
「わかった」
「死んでからもう丸一日以上経っている。使えない部位は捨てろ。砂漠の野ネズミどもにくれてやれ。俺たちの取り分は使えるところだけでいい。細かい判断と指示はお前が出せ。ただし二秒以上迷ったら俺に聞け。判断してやる」
グラジは長柄の鯨包丁を手に歩みだし、その後ろにアルフィルクが続く。二人はイトの傍らを通り過ぎた。
砂鯨の解体はまず尾鰭から頭に向けて一直線に刃を入れることから始まる。厚い皮は砂漠を生きる砂鯨が日光の熱から身を守るために発達したものだ。断面は真っ白であり、日光を照り返すと実に眩く、思わず目を細めるほどである。手頃な大きさに皮を区切ったら、今度はアルフィルクとグラジが二人がかりで皮と皮下の肉を切り分ける。一人が皮を引っ張り、もう一人が刃を差し入れて皮を剥ぐのだ。そうして剥き出しになった砂鯨の肉は死後一日以上経過したにも関わらず瑞々しく波打っていた。
しかし日の下に晒された以上、肉は刻一刻と干乾びていく。夜が明けて間もない今は夜の冷気が腐敗を遅らせてくれているが、気温が上がればそうはいかなくなる。ただちに血抜きをして、乾燥させるのに最適な状態にしなければならない。同時に各種臓物も摘出し、部位毎に整理し後々活用できるものはそれぞれに合った保存方法を適用してやらなければいけない。また、食用の部位は街に戻った後、市場で売るのだが、毒蠍の毒に冒された箇所は商品にはならないので、その見極めも正確にやらなければいけない。作業の優先順位、廃棄するか否かの判断は砂鯨の状態を見ながらグラジが即座に判断し、アルフィルクに指示を出す。そして先ほどアルフィルクが言った通り、グラジが判断に迷う場合には逆にアルフィルクに指示を請うのだ。たとえばこのように。
「団長、人間が食うには危険だが、家犬に食わせる分には売り物になりそうな肉だ。どうしたらいいだろうか」
「あの街で犬を飼う金持ちなんか指で数えるくらいしかいない。捨てろ」
このようにして二人は作業の効率性を極限まで高め、一瞬たりとも無駄な時間は生まないようにしていた。
みるみるうちに砂鯨が小さく切り分けられていくのをイトは眺めていた。心の内が凪のように静まり返っているのは、あまりの手際の良さに感心しているからだった。所詮、砂鯨の体とは骨と肉と血と皮の複合体なのだということを嫌というほど思い知らせてくれる。共に過ごした八年間を思い出して感傷に浸る余地がない。人の手で解体されるか自然の生物により食い散らかされるかという差はあれども、死んだ生物とはこのように分解されて自然に還っていくものなのだ。
解体作業は一時間程度で終了した。夜の冷気はすっかり消え失せ、じりじりと地表から熱がせり上がってきている。アルフィルクとグラジは小分けにした肉や皮を砂船に運び込み、ルシャとマユワが布で臓物の血抜きをしたり骨を磨いたりするほかに、それ以外の細かい作業を行っている。グラジとアルフィルクの判断で不要とされた残骸は小山となって砂鯨が死んだ場所に積まれていた。毒に冒されたであろう肉や皮、使い道のない骨など。これらはこのまま捨て置かれて、砂を浴びて、やがて地に埋もれていくのだろう。あるいはその前に砂漠の生物たちが齧っていくのかもしれない。
「はい、これ」
唐突に声を掛けられ振り返ると、マユワが拳大の白骨をイトに突き付けていた。昨日、イトがアルフィルクたちを試すために、喉響骨をよこせと言ったことを今になって思い出す。
手を差し出し、イトはそれを受け取った。大きさに反して驚くほど軽く、滑らかな手触りだった。マユワが丁寧に磨いてくれたのだろうが、喉響骨には肉片が一切残っていなかった。角度を変えながら、砂鯨の喉にあった骨を眺めまわす。これをこのまま懐に忍ばせて持ち運ぶには少し大きすぎるように思う。何かしらの工夫が必要だが、案は今すぐには出てこない。まあ、後で考えるか……。イトが顔を上げるとマユワは既に立ち去った後だった。
「さて、朝飯にするか! 落ち着いたら飯の準備をするぞ!」
ルシャがイトを一瞥する。しかし、それにイトが気付いて目が合う直前にルシャは顔を背けた。その様子を遠巻きに見ていたアルフィルクが溜息をつく。グラジとマユワは黙々と自分の作業をこなしていた。
朝食は砂船の影で食べることになった。火をおこし、今切り分けたばかりの砂鯨の肉を焙る。各自が鉄串とナイフで肉塊を切り分け、塩と胡椒を振りかける。イトを除く四人が食べている。
「どうした、食べないのか?」
肉を咀嚼しながらアルフィルクがイトに声を掛ける。
「嫌がらせか?」
「そんなんじゃないさ。お前、もう丸一日以上何も食べてないだろう。だから俺たちの獲物を分けてやろうって言っているんだ。とれたての砂鯨の肉なんか滅多に食えるもんじゃないぞ。ほら、食えよ」
「八年間を一緒にした家族をか?」
「そうだ」
一口大に切られた砂鯨の肉を鉄串に刺してイトに突き出す。それは砂鯨の胸肉だったかもしれないし、鰭肉だったかもしれないものだ。それをこいつらは食っている――イトは全身の毛が逆立つのを感じつつ、顔を横に背け、吐き捨てる。
「……いらない」
「そうかい。じゃあ好きにしろ」
イトに突き出した肉をアルフィルクは一口で頬張った。三度、四度と咀嚼し、嚥下する。砂鯨の肉はアルフィルクの食道を通って胃に到達し、小腸に至る過程で分解され、アルフィルクの体に吸収されていく。同じことが、グラジの、ルシャの、マユワの、それぞれの体内で行われている。鳥や牛を食べるのと全く同様の、自然の営みだ。良心に著しく欠けるという一点を除けば、何もおかしいことではない。
「ねえ、普通の食べ物だってあるじゃない」
「口出しするな」
堪らず申し出たルシャをアルフィルクが即座に窘める。イトとアルフィルクは睨み合う。しばらくお互い押し黙った末に、イトは努めて冷静に言葉を選ぶ。
「確かに、喉響骨以外は好きにしていいとは言ったさ。でも、よりにもよって俺の目の前で俺の家族を食って、挙句俺にも食え、だと? 頭おかしいだろ、あんた」
「なんだ、気遣ってほしかったのか?」
「疲れるから無意味に煽らないでくれ」
悪かった、とアルフィルクは両手を挙げる。しかしイトを睨みつける目付きは変わらない。
「砂鯨は死んだ。体はこの通りもうバラバラだ。時間は無慈悲に流れて今日は来たし、今この瞬間も太陽はしっかり動いている。やがて日が暮れて夜になるだろう。そしてまた朝が来る。俺たちも、お前も、生きている限り腹は減るし、行動しないと生きていけない。死にたくなければ動くしかない。お前の感傷に付き合うほど俺たちも暇じゃないんだよ」
砂鯨の死を悼む時間なら十分くれてやっただろう、とまでは言わない。代わりに長い沈黙が流れる。イトが先に手を出しても、ただちにアルフィルクに組み伏せられるだろう。そもそもアルフィルクを殴り飛ばしても何も得られるものがない。真に殴りたいのは自分自身なのだから。
「人は――」
ぽつりと呟くように、マユワが沈黙を破った。その目は揺れる焚火を見ている。そして焚火の彼方に何かを見出しているようだった。
「人は、誰もが自分の物語のなかにある。どんな生き物も、うまれて、生きて、死んでいくけど、そこに意味や理由を求めてさまようのは人間だけ。生きているなかで色々なことを見て、聞いて、考えて、気付いて。そうして見出した意味や理由が積み重なって、その人の物語を作っていく。でもね、物語に支配されているうちは人は自由になれない。物語を自分で語らなければ、あなたは自由になれない」
そして一呼吸を置いた後に、マユワはイトに向き直り、一言訊ねた。
「あなたはどうするの?」
四人がそれぞれじっとイトを見つめている。イトの覚悟を問う厳しい目、イトの心中を慮って立ち直ることを願う目、イトを世界の一部として成り行きを観察する目、そして未来の選択という決断をただ見届けようという目。それらの目に見守られながらイトは考える――過去に囚われるか、未来を見るか。
瞼を閉じれば砂鯨の面影が浮かぶ。イトにとって砂鯨とは一体何だったのか。最初は、砂漠を旅するための手段だった。砂鯨商人で砂鯨が前の主を殺したと聞いてからは、砂鯨そのものに興味が湧いた。それから数年間、共に旅をする過程で、二人で世界から孤立していった。互いに互いがいないと生きていけない関係になった。しかし、いざ砂鯨から求められるとイトはそれを拒絶してしまい、挙句砂鯨を持て余すようになった。砂鯨が死ぬと、悲しいと感じる片側で安堵もした。そして今、砂鯨の死骸が目の前でいいように切り刻まれ、焼かれて食われているのを看過している。改めて自問する。砂鯨とはイトにとって一体何だったのか。ただの家畜か、はたまた大事な家族か。しかし自問して即座に自覚する。この種の分類に意味はないのだと。事の本質はイトにとって砂鯨が何者かということではなく、砂鯨を過去に追いやってこれからの未来をのうのうと生きていく自分を、自分自身が許し、受入れ、認められるかどうかだ。
「罪は消えない。過去はなくならない。時間は遡らない。顔を背ければ、目を瞑れば、少しは紛らわせられるかもしれないけど、でもそんなのはただのまやかし。どんなに時間が経っても、一度起こったことはなかったことにはならない。過去に、罪に、後悔に圧し潰されて、それでも卑しく、惨めったらしく、しぶとく、死に損ないながら人は生きていくんだよ」
喋り過ぎた、と消え入るように呟くと、いよいよマユワは黙り込み、砂鯨の肉を食べ始めた。小さな歯でしっかりと肉を食い千切っている。
イトは懐に仕舞った喉響骨の存在を強く意識する。砂鯨に対する義理や悔恨はもはや飲み下すしかない。そのうえで、これから自分はどうするのだろう。どうしたいのだろう。そこにはきっと色々な道がある。たとえば砂鯨に懺悔し、贖罪しながら生きる道がある。あるいは、砂鯨のことは二度と振り返らず、自由気ままに生きる道もある。道は無数にあるが、しかしイトが選べる道は一つだけだ。そして、不思議とそこに迷いはない。これから自分がどう生きるか。すなわち――。
イトは火で焙られる鯨肉の前に立つと、鉄串とナイフで肉を切り分けた。肉が柔らかいのか、ナイフの切れ味が良いのか、撫でるだけで肉は切れた。その感触は現実感を喪失させる。
手の震えは止まらないが、恐る恐る肉を口に運ぶ。口に含んだ瞬間、甘い香りが構内に広がる。肉の柔らかさを舌で味わい、しっかり咀嚼し、飲み込む。砂鯨の肉が喉を通り、胃に滑り落ちていく。砂鯨を血肉に変えて二人は同化するのだ。そしてようやく、イトは声を殺して泣いた。
「食べ終わったらここを発つぞ。正午前までに戻らないと、市場が閉まっちまう」
アルフィルクはぶっきらぼうに言い放った。アルフィルクは砂鯨の死やイトの葛藤を特別扱いしない。
いち早く食事を終えたグラジは立ち上がる。そのまま作業の続きに戻っていこうとしたが、ふと思い立ってイトに向き直り、声を掛ける。
「街には楽器職人がいるが、紹介は必要か?」
意図を測りかねる、といった様子でイトは赤らんだ目をグラジに向ける。見かねたアルフィルクが仕方なしに補足を入れる。
「喉響骨はそのままだと脆くて壊れやすいから、加工して笛にするんだよ。金具で補強したり専用の容器が付いたりするから、これからの旅で携帯するのに都合がよくなるんだ。まあ、笛として吹くにはそれなりに練習する必要があるらしいがな」
イトは懐から喉響骨を取り出す。これを形見と呼ぶのは寂しいことだ。いつか自分に嘘をつくことなく、相棒と呼べるようになれたらいいと思う。
「……頼む」
「わかった。市場に卸すのが終わったら紹介しよう」
必要なことを言い終えると、グラジは今度こそ自分の作業に戻っていった。その間にルシャとマユワも十分食べて満足したようだ。だいぶ大きかった砂鯨の肉の塊も、すっかり小さくなっていた。
「残りはお前が始末しておけ。寝るなら砂船の中で適当に横になっていても構わない」
アルフィルクも立ち上がると自分の作業に戻っていった。
その後、イトは長い時間をかけて砂鯨の肉をすべて胃袋に納めていった。一片残さず、血の一滴すらもすべて己のものにした。完食し終わった後、イトは胃の辺りに手を当て、目を瞑っていた。
6.
「もういいな? よしグラジ、発つぞ」
アルフィルクの声を合図にグラジが砂船の帆を張る。砂漠の風を受けて砂船はゆっくりと走り出す。やがて風に乗り、砂面を滑るように走り出した。
「これからどうするの?」
切り捨てられた砂鯨の残骸が小さくなっていくのを名残惜し気に見送っていたイトに、マユワが問いかける。
「あの街から一番近い砂漠の端は西だからな。西の方に行って、砂漠の外に出てみるよ」
「そう」
マユワのその一言がイトには優しく響いて聞こえた。だから、胸の底に残る疑念を晴らさずにはいられない。
「……なあ、お嬢ちゃんは昨晩、冥界の門であいつの魂を送り届ける役目ってのをしていたんだろ? その……どうだった?」
マユワは黙して中々答えない。豆粒よりも小さくなった砂鯨の残骸を見ながら、答えを選んでいるように見える。
「ちゃんと門をくぐっていったよ。未練なく、後悔なく、堂々と。綺麗な砂鯨だなって思った」
「そうか」
「うん」
イトは冥界の門の姿形や色を想像しようとしてみて、うまくいかないことに気付いた。そのようなことはしっかりと考えたことがないからだ。イトにとってはその程度のものでしかなかった冥界の門の先へ、砂鯨は旅立ったのだという。
「……正直言うとさ、俺、まだお嬢ちゃんたちのこと、そんなに信用してないんだ。悪い人たちじゃないってのは流石にわかった。でも、都合のいい幻を見せられて誤魔化されているんじゃないかっていう疑念は拭えない。本当は、あいつは俺のことを恨んでいたんじゃないかって、そんな可能性がずっと頭にある。だから、もし本当にあいつが未練も後悔もなく旅立っていったっていうなら、証拠が欲しいよ」
口に出した瞬間からイトは知っている。そんな都合の良い証拠などあるはずがない。それを出せと迫るのは、自分の弱さの表れ以外の何物でもない。だからマユワが呆れたように向き直るのも仕方のないことだ。
「もし仮に彼女があなたを恨んでいたとして、それであなたのやることって変わるの? あなたの言う『証拠』があったとしたら、あなたは信じるの?」
「悪い、つまらないことを訊いた」
「もっとちゃんとしてね。あなたはもう一人きりなんだから」
それきり二人は黙って吹く風に身を委ねた。
すっかり砂鯨の痕跡が見えなくなった頃、唐突にマユワが訊ねた。
「ねえ、彼女の名前って何だったの?」
真剣な眼差しだった。その黒い双眸は、どことなく砂鯨に似ているような気がした。
八年前、砂鯨商人から砂鯨を買い取って旅を始めて、長い夜を越えて空から星々の光が薄れて消えていく中、朝日に負けず輝く星があった。そのたった一つの光にイトの旅立ちが祝福された気がして、イトは砂鯨に名を与えて呼ぶことにした。
「ヴィネ――夜明けの星の名前から取った」
「そう。ありがとう」
なぜ礼を言われるのかは解せないが、マユワは満足しているように見えた。
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