2021年2月11日木曜日

砂漠の幻葬団(1. 砂鯨 another side)

  心臓と胃袋の間あたりを撫でられるような違和感。強いて喩えるならばそんな不快さでマユワは目を醒ました。窓の外を見なくても、どの方角に冥界の門が建ったのかはわかる。
 マユワは上体を起こし、むかむかする腹を手でさする。こうしたところで少しも良くはならないのだが、気休めくらいにはなる。
 そんなマユワの気配を察して、隣で寝ていたアルフィルクも目を醒ます。
「死んだのか」
「うん、すごくおっきいの」
「……砂鯨か」
「たぶん」
「水はいるか?」
「ちょうだい」
 アルフィルクが降りる弾みでベッドが軋み、反動でマユワの体が軽く上下に揺れる。その揺れですら今は気持ち悪い。水差しからコップに水を注ぐ音は近いような、遠いような、はたしてベッドからテーブルまでの距離はどの程度だったか。無意味な思索だが、今は意識を少しでも逸らさないと嘔吐してしまいそうだった。
「ほら」
「ん……」
 受け取った水を半分ほど飲み、一度喉に通す。それからもう一度、今度は最後まで飲み干した。夜の冷気で冷えた水が胃に広がるのがわかる。その清涼さはいくらかマユワの気分を和らげてくれた。
 その間にアルフィルクは身支度を整える。部屋を出て、別室のグラジとルシャにも声を掛ける。俄かに宿の二階は物音で溢れるようになった。
 私も準備しないと……。しかし体は動いてくれない。冥界の門はいつも不快を伴うやり方で己の存在をマユワに伝えてくるが、今回は特にひどい。ただ冥界の門が大きいだけでなく、そこに伴う思念が色濃いのだ。愛にせよ、憎しみにせよ、込められた気持ちの濃度が並大抵ではないようだ。マユワの手足は蝋で固められたよう重たく、動かそうという意思に反して体が応えてくれない。
「無理するな、じっとしてろ」
 部屋に戻ったアルフィルクが準備の手を止めずに声をかける。
「マユの分はいつも通りでいいな。反応はなくていい。違うなら言ってくれ」
 マユワは小さく頷いた。いつも通りでいい。その頷きをアルフィルクが見ていたかどうかはわからないが、どのみち沈黙は肯定を意味する。
 暗い部屋の中、灯りもつけずにアルフィルクは手際よく出発の準備を進める。行って帰ってくるまでは最長で四日程度を見積もる。その間の水と食料、仕事道具一式、その他雑貨類。適宜グラジとルシャに指示を出し、部屋を出入りする。一連の準備の一部として、アルフィルクはマユワの寝間着を脱がせた。
「汗、かいてるな」
 水差しの水を布に含ませ、マユワの背中や腋を拭う。体から熱が抜けていく感覚がマユワには心地良い。一通り全身を拭い終わると、新しい下着に替えて出立用の衣服を着させる。着替え終わる頃には、気分はだいぶ良くなっていた。
「団長、準備できたぞ」
「わかった、行こう――マユ、歩けるか?」
「もう大丈夫」
 グラジとルシャに続いてアルフィルクとマユワも部屋を出る。

「門はどっちだ」
 アルフィルクに問われ、マユワはある方角を指さした。グラジが帆を操り、舳先をそちらに向ける。マユワの目には白銀色の光を淡く帯びて輝く巨大な門が砂漠の彼方に見えているが、他の三人はそうではない。しかしマユワがあると言うのだから、あるのだ。
 今宵はよく晴れているが月のない夜だった。どこまでも続く星々の海を空に仰ぎながら砂船は走る。その間は誰も喋らない。グラジは風を読んで帆を操り、ルシャは荷物に背もたれて空を見上げ、アルフィルクは船の先端に座り込み、マユワはアルフィルクのマントの陰に座って舳先が指し示す冥界の門を見つめている。
 冥界の門が建ったということは、その近くで何者かが命を落としたということだ。砂漠の旅には常に危険が伴うので、たとえ砂鯨だろうが、いつ誰が命を落としたとしても、決して不思議なことではない。一人旅だろうが、二人以上の旅だろうが、危険性に差はない。熱病、毒蠍、野盗など、砂漠には危険が溢れている。
 一人旅をしている者が死んだのならば、その亡骸は自然のままに任せるよりも、人の手で弔い、砂ではなく人間の社会に還した方が良いものはそうしてやるのが良い。二人以上の旅の場合、全員が死んでいれば同じく弔うべきだし、もし生き残っている者がいれば極力平和裏に事を進めるのが良い。すなわち、話し合いだ。交渉が成立すれば手間賃を貰う代わりに街まで生き残った人間を運ぶし、遺体も場合によってはその場で弔う。
 無論、アルフィルクたちのこれらの活動は誰かに頼まれてやっていることではないし、善意でやっていることでもない。各自ができることを繋ぎ合わせたら、葬儀屋のようなことをするのが一番仕事として形になったというだけのことだ。
「この辺りでいいよ」
 発ったときには親指ほどの大きさでしかなかった冥界の門が、すっかり見上げるほどになるまでに砂船は近付いた。白銀色の門柱は冥界の風を浴びていくつもの細かい傷を負っている。しかし門扉の方は、同じく白銀色であるにもかかわらず、そこに傷はなく、代わりに死神の国の文字が細かく刻まれている。門はまだ開いていないらしい。
 アルフィルクに手を引かれてマユワは船を降りる。冥界の門までは歩いて数十歩の距離だった。
「じゃあ、行ってくるね」
「おう」
 マユワはアルフィルクに小さく手を振った。砂船の縁でルシャも手を振っているのが見えたので、そちらにも手を振り返す。
 冥界の門が建ったときの不快感はだいぶ収まっていたものの、いざ門の前に立つとやはり腹の底がざわざわする。しかし今用事があるのは冥界の門ではなく、すぐ近くにいるはずの死者の魂だ。マユワは目を閉じ、耳を澄ませ、額の辺りに神経を集中させる……。
 さり、さり、さり……。砂の擦れる音が聞こえてきた。それは彼方からやってきたというよりは、すぐそばに来ていたことが不意に意識上に浮かんだと言うべきものだった。足音の主はずっと前からそこにいて、マユワが遅れてその事実を察知したのだ。だから瞼を開いてみたときに、目の前に砂鯨がいたとしても、それは驚くべきことではない。
 美しい砂鯨だった。娘と呼べるほど若くはないが、老女と呼ぶにはまだ早すぎる。冥界の門と対峙する横顔は凛として静かだった。自分が死んだ事実は既に受け入れており、ただ静かに冥界の門が開くのを待っているようだった。やがて冥界の門が開き、そこから現れる死神が彼女を冥府に導いていくことだろう。
 生者が死者と関わる術を持たないのと同じように、死者もまた生者と関わる術を持たない。だから、今この瞬間、砂鯨自身からしてみれば、彼女は何も無い世界の中に佇んでいる。すぐそばにマユワがいることなど知る由もない。マユワはその様子をそっと見守り続けていてもよい。しかし、穏やかな見た目や佇まいとは裏腹に、砂鯨の心の内には罪の意識と愛慕の情が激しく渦巻いているのが見て取れて、無視し難いものだった。
 マユワは手を伸ばし、砂鯨に触れた。指先から砂鯨の熱が伝わってくる一方で、砂鯨も自分が触れられたことを認識する。一瞬驚いた様子だったが、どうやらマユワを迎えに来た使者と誤認しているらしい。
「ごめんね、違うの。私はあなたを連れていく人じゃない」
 では、あなたは一体……? 
「生者と死者のあいだを漂ってるだけの……ただの人間」
 ……何か特別な事情があるようですね。しかしきっと何か意味があって、あなたは私の前に現れたのでしょう。
「ううん、私があなたに与えてあげられる意味なんて、何もないよ。私ができるのは、あなたという存在を認識し、記憶することだけ。私が見聞きして理解しうる限りのあなたの像を、私の中に複製する。それ以上のことはできない」
 そういうことをあなたが望むならば、だけど。そう付け加えて、マユワは砂鯨の反応を待つ。
 砂鯨はしばらく逡巡した後、言葉を探しながら語り始める。砂鯨に触れたマユワの指先から、砂鯨の思念がマユワの中へ注がれていく。

 百年分の記憶がマユワの中を駆け巡る。砂鯨の半生のほとんどは砂漠の旅であった。生まれたばかりの頃こそ他の兄弟や親と砂漠を放浪していたが、ある時からは家族と離れて人間に飼われて砂漠を旅するようになった。主となった人間は、マユワが数えた限りで四人ほどいた。
 一人目は行商人の男だった。一番目の主にとって砂鯨はと砂漠を旅するための足であると同時に資産だった。買われてから十年ほど経ったある日、異国の彫刻物を買う資金を作るために砂鯨は市場で売られた。砂鯨は主に対して彼女なりの親しみを持っていただけに、何の躊躇いも労いもなく売られた時には大変悲しかったものだ。
 二人目の主も行商人の男だったが、こちらは砂鯨をとてもよく扱ってくれた。砂鯨に白く可憐な花を意味する名前を与え、朗らかに笑いながらその名を呼んでくれた。砂鯨は男を背に乗せて砂漠中を隅々まで旅した。危険な目には数えきれないほど遭ってきたが、砂鯨と男は共に助け合い、危機を乗り越えてきた。
 出会ってから三十数年後、二人目の主は若い妻を娶り、東西の貿易の要衝となる街の一角に居を構えた。蓄えた財をはたいて家と商店を手に入れたのだ。行商人として大成したのだから、実にめでたい話である。砂鯨も敷地の中に専用の小屋を貰ったものの、主と寝食を共にすることはなくなった。朝と晩に小間使いの小僧が雑穀と水を運んできてくれるし、毒蠍に襲われる危険もない。安全と平和が約束された退屈な日々を手に入れることができた。
 それから二年後、主人夫婦に長男が生まれた。彼が後の三人目の主となる。砂鯨は彼が乳飲み子だった頃から成長を見守ってきた。一人で歩きだし、言葉を発し始めるようになる頃から彼は砂鯨の元を頻繁に訪れるようになった。最初は母親や召使いを引き連れてだったが、一人で来るようになるまでにさほど時間はかからなかった。
 人間と砂鯨では寿命が三倍以上も差があるので、砂鯨の時間感覚から比べると人間は実に驚くべき速度で成長するように見えるものだ。男の子が少年となり、青年となるまでの十五年間は、かつて旅をしていた頃の日々とは違った新鮮さと面白さがあった。
「いつか君と一緒に、父のように行商の旅に出たい」
 その声色は父親によく似ていると砂鯨は感じた。そして、果たして青年の夢は叶うことになる。
 二人目の主は、彼の息子が二十歳を迎えた年に天寿を全うした。葬儀の間、砂鯨は小屋から出ることはできなかったが、彼女なりのやり方で主の死を悼んだ。数えてみれば、五十年以上の付き合いだった。
 父親の跡を継ぎ、息子は商会の当主となったが、新しい当主は信頼できる幹部にその座を譲ると、自分は行商の旅に出ると宣言した。この辺りのくだりは砂鯨が三人目の主となった青年から聞いたことだったが、砂鯨にとっては重要な話ではない。肝心なのはおよそ二十数年ぶりに旅に出られたということだ。広大な砂漠に躍り出る瞬間は心も踊るものだとつくづく感じた。
 砂鯨にとって、三人目となる新しい主は赤子の頃から見守ってきた人であり、息子同然の存在だった。しかし彼は二人目の主に見た目も気質もよく似て、砂鯨を最良の相棒として扱ってくれた。旅を続けるうちに彼は砂鯨が初めて彼の父親と出会った時の年齢となり、ますます砂鯨は懐かしくなっていく。そして当時無意識に感じていた恋心を思い出し、意識し始めるのにさほど多くの時間は要さなかった。
 季節を経る毎に青年は日に灼け、逞しくなっていく。目尻に刻まれる皺が深くなっていくのは、それだけ彼が行商人として経験と苦労を積み重ねてきた証拠である。しかし砂鯨の名を呼ぶときの声は変わらず甘く優しいのだ。彼に名を呼ばれ、触れられるだけで砂鯨は幸せだった。彼を乗せて砂漠をどこまでも行けたらいいなと思う。もちろん人間と砂鯨とでは流れる時間の早さが違うので、いずれ死が二人を隔てる日も来ることだろう。その最期の日まで一緒にいられたらいいと砂鯨は思っていた。そして、その願いが儘ならないものであることも、知っていた。
 ある晩、焚火の傍らで彼は砂鯨にもたれて座りながら語った。
「僕と君が行商を始めて、もう三十年くらいになるね」
 そうですね。
「最近、よく思うことがあるんだ。父は、ちょうど今の私と同じくらいの年で母と結婚をした。若い頃は、なぜ父はもっと早く身を固めなかったのか不思議に思ったものだけど、気付けば私もこんな年になってしまってね、今ならわかるよ。君とする旅はすごく楽しいんだ。いつまでも続けていけたらと思って、やめるのが惜しくなる」
 ……。
「けどね、私も年だ。もう長旅に耐えられるような体力はないよ。だからね、父がそうしたように、私も私の旅を終わらせようと思うんだ。どこかの街に家を買ってね、君と一緒に余生を過ごしてみたい。そう思うんだけど、どうだろう?」
 ……ああ、既に意中の人がいて、あなたの中ではもう旅は終わっているのですね。
 彼は砂鯨の予想を裏切らず、婚約した女性の話をし始めたが、それは砂漠を吹き抜ける風と同じで聞き流すべき雑音だった。そんな話は聞きたくないし、知りたくもない。
 薄々予感はあった。商談と称して酒場に行ったものの、いやに帰りが遅くなる日がここ数ヶ月は多かったし、行く先々の街で受け取る便箋の中にはなぜかいつも同じ香りの手紙があった。それは前の主が妻を娶る数か月前の状況と酷似していた。
 人間と砂鯨では流れる時間の早さが違うのは、嫌というほどわかっているはずだった。人間は人間の時間を生きるし、砂鯨には砂鯨の時間がある。生まれた時から見守ってきたはずの男の子は、いずれ自分よりも先に逝ってしまう。同じ時間を生きられるのは砂鯨の生涯の中の一部だけだ。
 砂鯨は永遠を欲していた。愛する人、魂を補い合う人との終わらない日々が欲しかった。死が二人を隔てるのであれば、後を追えばいい。しかし現実はもっと残酷で、そもそも彼は砂鯨を愛しておらず、永遠にしたいとも思っていなかった。人間の時間の中で人生を歩んでいたのだ。しかしそれは仕方ないことなのだろう。何せ、人間と砂鯨だ。根本的に種族が違う。人間である彼が人間の女と番になるのはとても自然なことなのだ。
 五十数年前もそんなことを無意識に考えた。その結果、小屋という名の牢獄を与えられた。愛した男が知らない女のものになるのを見てきた。安全と平和で蓋をした地獄に突き落とされた。愛した人に別れを告げて旅に出る自由すら得られなかった。その苦しみを思い出すと、砂鯨は気が狂いそうになる!
 そんな砂鯨の心中など彼が知る由もなく、ついに婚礼の日は訪れた。彼とは親子ほどに年の離れた花嫁は純白のヴェールを被っており、一切の穢れを知らない生娘であった。彼は花嫁を愛おし気に見つめ、花嫁も精いっぱいの愛を彼に向けて見つめる。そして二人は仲睦まじく手を取り合い、花びらの舞う道を歩き出した。彼の商売仲間や花嫁の縁者が道の両脇に立ち、二人の新しい門出を祝福する。人間の言葉が聞き取れないと感じたのはこれが初めてだった。
 そこから先のことは覚えていない。発揮し得る限りの暴力を発揮し、そして全てが終わったとき、愛した人は砂鯨の胸の中で息絶えていた。ついぞ砂鯨が望んだ永遠は手に入らなかった。

 辛苦の末にようやく幸福を迎えた老商人に突如降りかかった災厄は、よりにもよって、彼に長年仕えてきた砂鯨の錯乱によって引き起こされた。実に不幸な事故である。妻になるはずだった女は「あの砂鯨は八つ裂きにして殺すべきだ」と主張したというが、砂鯨の所有権は故人にあり、所有者が死んだ後の所有物の扱いは人間の法に従わなければならない。故人の血縁は既に一人残らず亡くなっており、また、件の女もまだ法的な婚姻関係は結んでいなかった。よって、故人の遺産を相続する者はいない。以上のことから砂鯨を含む故人の遺産は公正に売却処分され、売却益は国庫に納められることとなった。妻となるはずだった女はその決定を知ると気が触れて、とても人間とは思えないような怨嗟の声を上げたというが、以後その行く末を知る者はいない。
 換気のために開けられた小さな穴からは町人の噂話を囁く声がいくらでも聞こえてくる。ひどい雑音だった。砂鯨は光も射さない暗い部屋に閉じ込められていた。暗闇の中で終わりのない夢を見ていた。
 遥か遠くの未来、人間の娘に生まれ変わった砂鯨は、愛した男に再会する。前世の記憶はないが、魂で結ばれた二人であるから、再会は必然だった。砂鯨だった娘は人間の言葉で愛を囁き、自分の気持ちを伝える。男は娘の気持ちに応え、力強く娘を抱きしめてくれる。そんな自分たちを砂鯨は遠くから見ている。そして然るべき疑問に気付く。あの人に抱かれている女は誰で、今思案している自分は誰なのだろう。どちらが本当の私なのだろう。しかしこれは問いが既に解となっている。すなわち、あの人に抱かれている女は自分以外の誰かであり、今思案している自分こそが自分自身なのだ。その事実に気付いた瞬間、一切が砂となり崩れ落ちる。そこは広大な砂漠で、灼熱の太陽が燦々と輝き、自分は砂鯨である。砂鯨の身でありながら人間を愛してしまっただけでなく、嫉妬と憎悪に駆られて彼の命まで奪ってしまった、愚かで罪深い砂鯨である。砂鯨は砂鯨以外の何者にもなることはできないというのに。そしてハッと目覚めてみれば暗闇の中である。光のない部屋に閉じ込められて久しいことを思い出す。前方に外の光が扉の輪郭を縁取っているのが見える。いつか扉が開くことがあるのかもしれないが、今は閉ざされている。砂鯨は再び眠りに落ちる。雑音が煩い。
 長い時間を経た後、砂鯨は砂鯨商人の市場に連れていかれた。遠い昔、数えれば八十年以上前に、一時期身を置いていた場所だった。砂鯨は砂鯨として三度売りに出されたのだ。また誰かが砂鯨を買い、その人と主従関係を結ぶことになる。死ぬことも許されず、砂鯨は長い時を生きる。
 ――そんな折に現れたのが、ほとんど子供と言っても差支えのない少年だった。後に四人目の主となる者である。
 なぜか少年は他にたくさんいる同朋ではなく、その砂鯨を選んで足繁く通っていた。毎度必ず少年は砂鯨の頭に手を乗せる。そして何か独り言を呟く。数分、あるいは小一時間、日によってまちまちだが、彼は忙しい時間の合間を縫って砂鯨の元を訪れているようだった。足音で少年を判別できるようになるまでそう多くの時間はかからなかった。
 心を閉ざすように瞼も閉じていた砂鯨だったが、あまりに熱心に足を運ぶものだから、一度だけ薄く瞼を開いてみたことがある。いったいどんな物好きなのだろうか。
 そこにあったのは瞳である。少年の瞳は砂鯨と同じように疲弊していたが、その奥には絶えることのない旅への憧れが息づいているのが見えた。それは二人目の主、砂鯨が最初に愛した人が持っていたものだった。同時に、三人目の主、砂鯨が命を奪ってしまった人も持っていたものだった。それと同じものを、この少年も瞳に宿していた。純粋無垢な憧れは、尊いものであると同時に眩すぎるものだ。砂鯨は嘆息する。なぜ、どうして、自分の前には同じ瞳の人たちが現れ続けるのだろう。
 もし人間が信じるところの神なるものが在るのだとしたら、彼あるいは彼女は、砂鯨に啓示を与えているのかもしれない。それを読み解けば、少年が現れた意味もわかるのかもしれない。しかし砂鯨に信仰はなく、あるのは空と砂漠と万物を統べる法則である。偶然は偶然でしかなく、そこに意味はない。少年が砂鯨を欲し、砂鯨商人が少年に砂鯨を売却することにしたのならば、砂鯨の意思とは関係なしに、再び旅は始まる。広い砂漠をどこまでも行くのだ。
 檻の戸が開かれる。出口は黄色く眩く輝き、少年の影が立っている。さあ、旅に出よう! 未知が俺たちを待っている! 差し伸べられた手に、砂鯨は自らの頭を寄せる。
 いつか終わることが約束された旅へ、さあ、参りましょう……。
 かくして少年イトと砂鯨の旅が始まった。

 およそ五年の時間をかけて、イトと砂鯨は砂漠の街々を巡った。イトが地図につけたバツ印は無数にあり、それらがイトの旅の痕跡である。もっとも、砂鯨からしてみれば、どれも数年から数十年ぶりに訪れる馴染みの場所だったのだが、まだ幼いイトにとっては訪れる場所の全てが新鮮であり、そして次第に飽きて失望するものでもあった。どこへ行こうが、魔法も奇跡もない。あるのは結局同じ人間だけだ。
 それはそうだろう、と砂鯨は思う。栄枯盛衰はあれども、人間がいるところには必ず人間の営みがある。ある程度衣食住を効率化させることができたら、余暇時間で文化的な営みや戦争的な営みを行うのが人間という生き物だ。それはどの地域で暮らそうが変わらないものである。期待が外れてがっかりするのは可哀相ではあるが、そもそもの期待が間違っているのだから仕方ない。
 そしてイトはついに最後の街にバツ印をつけた。もうこれ以上行くべき場所はない。次に訪れる街は、どこであれ、決して初めての場所ではありえない。
 バツ印で埋め尽くされた地図から顔を上げると、イトはぽつりと呟いた。
「行けるところまで行ってみるか」
 砂鯨はイトの真意を測りかねたまま、イトの望むままに進路を南に向けて砂漠を泳いだ。最後の街は砂漠の南端にあったので、地図の端に向かって進むことになる。
 当たり前のことだが、行けども行けども砂漠である。何もないどころか、進むほどにますます太陽は高くなり、垂直に降り注ぐ日光が容赦なくイトと砂鯨を焼いた。砂漠の砂は一粒一粒が太陽の欠片のようであり、砂鯨の分厚い皮膚を貫通して熱を伝えてくる。いくら砂漠に生きる砂鯨といえども、死のリスクが無視できないほどの存在感で脳裏に浮かぶのだから、一介の人間に過ぎないイトは如何ほどか。
 街から離れれば離れるほど、戻るにも同じだけの時間がかかる。水と食料、それから自身たちの体力の残量を正確に見極めなければならない。さもなくば、イトも砂鯨も砂漠の真ん中で野垂れ死ぬことになるだろう。それにもかかわらず、イトは前へ前へと突き進んだ。
 日が沈み、月が昇る。月が沈み、日が昇る。日が沈み、月が昇る、そして再び月が沈み、日が昇る。慣れ親しんだはずの砂漠の日常であるにもかかわらず、イトが熱に浮かされたように南を目指し続けるものだから、砂鯨は困惑し、そら恐ろしくさえあった。
 私たちは一体どこに向かっているのでしょう? あるいはそもそも、どこかに辿り着くのでしょうか?
 砂鯨の疑問などイトが知る由もなく、イトはただひたすらに前だけを目指していた。
 ――何度目とも知れない夜明けを迎えたとき、不意に吹いた風は今まで嗅いだことのない香りを孕んでいた。それは砂鯨の背中に乗っていたイトにも分かったらしい。
 永遠に続くかと思われた砂と空の景色の彼方に、イトと砂鯨が知らない何かがある。それは一体何か。わからない。わからないことに、砂鯨は興奮する。百年以上生きてきて、世界の事は何でも知っていると思っていたのに、まだ知らないものがあったなんて!
 そしてついにそれは現れた。
 これまで空の境界は砂の乾いた色で描かれているものだった。しかし、この日初めて砂鯨は、空より色濃い青色で空が区切られているのを見た。オアシスで見た湖とは比べ物にならないくらい広大な水の塊だった。果てが見えない。砂漠と同等か、もしかするとそれ以上に広いのかもしれない。
「これが、海か……」
 イトの呟いた言葉で砂鯨は海というものを知った。
 波打ち際でイトと砂鯨は並んで佇んでいた。潮の香りは瑞々しく、寄せて返す波が引いた後にはいくつもの泡が残り、弾けて消えていく。その途中で、新たな波が泡を飲み込み、イトと砂鯨の足元にまで迫ってくる。
 砂鯨はここが己の限界だと悟る。これ以上先に砂鯨は進むことはできない。砂鯨という種族ゆえの限界だ。砂鯨は目を瞑り、潮騒に耳を傾けた。瞼越しに暮れなずむ空の茜色を見た。
 しかしイトはおもむろに立ち上がると、靴を脱ぎ、一歩、もう一歩と歩み出る。濡れた砂はイトの足の形に沈んで跡となる。寄せた波によりイトは足首まで海水に浸る。そして波が引くと、足跡は薄らいでいた。もう何度か波をかぶれば足跡は完全に消えてなくなるだろう。
「冷たいな」
 イトはそう言って笑った。今まで聞いたことのない、朗らかな声だった。砂鯨の方を振り返り、目を輝かせた。
「やっぱり世界ってまだ広い」
 砂鯨はその瞳に再び恋をして、絶望する。

 砂漠の北端は曇天の下に純白に輝く山々を臨んでいた。西端では彼方に果てのない花畑が広がり、石がむき出しになった荒地が砂漠と花畑の間を隔てていた。東端には石畳の始点があり、そこから続く人工的な道は異国の文明の存在を示唆していた。
 砂漠の境界を辿る旅は、否応なしに、砂鯨に己の世界の輪郭を自覚させた。こうして見てみれば、広大に思われた砂漠も、より大きな世界の一部でしかない。砂鯨は砂鯨であるがゆえに、そこから先に出ることはできない。しかしイトは違う。二本の足で砂漠の外に出ていくことができる。二本の手で、不可能を可能に変えていくことができる。
 しかしイトは砂漠の境界で長時間彼方を眺めた後に、必ず砂鯨の方を振り返りこう言うのだ。
「よし、帰ろうか」
 その顔は十二分に満足したというよりは、何かを諦めたものに見えた。彼は何を諦めたのか。考えるまでもない。砂漠の先に行くことだ。それを諦める理由になったのは砂鯨以外にあり得ない。砂漠の先に行くためには砂鯨を手放さなければならないが、その選択をイトが否定したのだ。砂鯨は自身がイトの可能性を妨げていることを自覚せずにはいられない。しかしその一方で、イトが自分の夢よりも砂鯨と共に過ごす時間を選んでくれたことに、喜びを感じなかったかといえば嘘になる。砂鯨が望んだ永遠を垣間見た気がした。しかしそれが醒めない夢だと信じられるほど砂鯨も若くはない。年甲斐もなく見た束の間の夢と自覚していることを免罪符に、今しばらくは夢に浸っていたくなる。
 イトと砂鯨は砂漠の境界から先に行かないことを選んだが、踵を返した砂漠の内側にイトと砂鯨の居場所はなかった。これまでの主たちとは違って、イトは自身の生計を立てる術を知らなかったのだ。その日を生き延びるために、多くの人々の恨みを買うようなこともやらざるを得なかった。そんなことを繰り返していれば行き場所を失うのは必然である。かくしてイトと砂鯨は、街から街へと逃げるように転々としていた。
 このままでは自分たちはどこにも行けなくなってしまう。その前に手を打たなければならない。
 イトも砂鯨も了解していることだったし、現にイトはそのために行いを改め、まっとうに生きようと努力していた。しかし我慢ならなかったのは砂鯨の方である。
 イトが人々の住む街の一角に根を下ろすということはつまり、イトが様々な人と関わるようになるということである。イトと砂鯨の二人で完結していた世界に部外者が立ち入ることを意味する。それは砂鯨の臨んだ永遠ではない。むしろ、遠からぬ将来に、かつて愛し憎んだ男たちが砂鯨にした仕打ちと同じことをイトも行うことを示唆している。その可能性に怯えた砂鯨はイトに近づく人間を追い払ってしまう。そしてそのことをイトに窘められる度に、幾度となく自己嫌悪に陥った。イトと砂鯨が共に生きる先に明るい未来は見えなかった。
 もしも二人の気持ちが同じであるならば。イトが砂鯨と同じく、永遠に魂を共存させあう仲であることを望んでいるならば。もしそうであるならば、二人が行く先は一つしかない――愛情と焦燥が溢れて止まらなくなった末に、ある晩、砂鯨はイトを押し倒した。
 愛しい人よ、どうか私の気持ちを汲んでください。私はあなたが恋しくて愛しくて仕方ないのです。あなたと私が永遠に結ばれるには、もはや共に冥界の門をくぐる他にないでしょう。
 しかしその願望はイトの生存本能によって裏切られる。そして同時に、束の間の夢と自覚することが免罪符あったのに、それを失念していたことを思い出した。たかが砂鯨の分際で思い上がりも甚だしいだけでなく、同じ過ちを繰り返しかけたのだ。以来、砂鯨はただの砂鯨に徹することにした。燻ぶり続ける熱情から目を背け逃げるように、砂鯨は考えることをやめた。

 ――毒蠍というのは気を付けていないと刺されてしまうのに、いざ自分から探そうとするとなかなか見つからないものでした。しかし昨晩。私は、ついに自分の死に場所を見つけたのです。
「……」
 私は愚かでした。他の兄弟や同朋たちと同じように、ただ人に飼われるだけの砂鯨でいられたらどんなに良かったでしょうか。
「後悔、してる?」
 正直に言うと、わかりません。強いて言うならば、私が私に生まれてしまったことが最大の罪だったように思います。特に、大切な人の命を奪ってしまったことについては、もう何と言っていいのかわかりません。でも、もし時の針を巻き戻して最初からすべてをやり直したとしても、同じことをしたのではないかと思います。そうとしか思えない自分はきっと異常なのでしょうね。
「そっか……ねえ、今の話、イトって人に伝えてほしい?」
 こんな話を知らされてどうしろというのでしょう。どうもしなくていいですよ。……それでも、もし私が望むことがあるとすれば、こんな愚かな砂鯨のことなど忘れて、彼には彼にしか行けないところに行ってほしく思います。もうこれ以上私のために選択肢を狭めてほしくない。私は私という存在を消滅させてしまいたいのです。
「でも、あなたは私に全てを教えてくれた。あなたが教えてくれたことは、私はずっと覚えてるよ。私が記憶している限り、私の中にあなたが存在し、あなたが何かを想っていたという事実はなくならない」
 そうなのですよね。消えてなくなりたかったはずなのに、あなたに全てを話してしまった。だからきっと、私も誰かにこの気持ちを知ってほしかったのでしょう。百年抱えてきたこのどうしようもない気持ちを誰かと分かち合いたかった。理解なんてされなくていい。ただ、露と消えゆくのが淋しかった。私という存在の痕跡を、この世界のどこかに刻んでおきたかった――。
 砂鯨は全てを語り終えたようだった。もう砂鯨に触れた指先からはマユワの中に何も流れ込んではこない。あとはこのまま静かに消えゆくことだけを望んでいる。罪も後悔も、全てが砂鯨の生きた証だった。
 そのタイミングを見計らったかのように、冥界の門がゆっくりと音もなく開く。夜の砂漠の冷気が生温く感じるほどに鋭く凍てついた冥界の瘴気が吹き込んだ。その瘴気を爪先で裂いて現れたのは黒いローブを頭から被った異形の者だった。手には青い炎を灯したランタン。死者の魂を冥界に導く死神である。
「冥府の姫か」
「姫って呼ばないで」
 死神は枯れ枝のような指先を顎に当てて黙考していたが、彼なりに結論は出たらしく、返事もないままに話題を変えた。砂鯨の方に顔を向ける。
「汝の魂は流転し再び現世に還ることもあるだろう。その時まで暫し休むといい」
 ……私は人を殺めました。その罪はいかに裁かれるのでしょうか。
 砂鯨の告白に対し、死神は首を傾げ、理解に苦しんでいるように見えた。しかし生じ得る可能性に思い至り、合点がいったようである。
「成程、汝はそれほどまでに人間の価値観に毒されたか。汝が人間を殺めることと、鷲が兎を食い殺すことに一体何の差があるものか。象が逃げそびれた土竜を気付かず踏み殺すのと何が違うのか。人間の死は罪となるが、兎や土竜の死が罪とならないのだとしたら、それこそまさに人間の傲慢というものだ。人間が人間の世界の法と秩序に従うのは連中の勝手だが、それに汝のような砂鯨が従うというのは、私には道理の通らぬことに思えるが」
 そう、なのでしょうか……?
 戸惑う砂鯨に対し、死神は指を立てて言葉を続けた。
「罪だの裁きだの都合の良い言葉で己を偽るのは関心せんな。つまるところ、汝自身が汝自身を許し難く思っているに過ぎないのだろう。それは汝自身の内で解決すべき問題であり、我々の関知するところではない」
 もう他にないか? と死神は砂鯨に促すが、砂鯨は一言、いいえ、と静かに返した。
「では行こう。姫も壮健でな」
 死神は踵を返し、砂鯨を先導して冥界の門をくぐる。その後に砂鯨が続く。砂鯨はついにマユワの方を振り返ることなく、瘴気の海の中に消えていった。間もなく門扉は開いた時と同じように、ゆっくりと音もなく閉じた。そして役目を終えた冥界の門は、煙が空に溶けていくように消えていった。
 マユワは一連のやりとりに一切口出しせず、干渉もしなかった。マユワは冥界の門が見えるだけで、それ以上でも以下でもないからだ。死者の魂が死神に導かれて冥界の門をくぐる、という自然な営みは妨げられるべきではないし、マユワ自身にも妨げるつもりはない。
 それよりも今は、一刻も早くアルフィルクのもとに帰りたかった。何者であれ軽薄な一生涯を生きる者はない。その記憶を余さず引き継いで平気でいられるほどの余裕はない。
 暗い砂漠の中でマユワは孤独だった。心が凍えてしまう前に、あの砂船に帰らなければならない。心労で重たくなった足を力いっぱい引きずり、マユワは歩き出した。立ち止まれば涙が溢れて止まらなくなるだろうし、そうなったら歩くことができなくなるだろうから。

「おかえり」
 アルフィルクはマユワの手を取り砂船に引き上げた。勢い余ってマユワはアルフィルクの胸に頭から突っ込んでしまうが、そのままくっついて離れようとはしない。マユワがこのように甘えてくる時とはほぼ間違いなく重たい記憶を背負ってきた時なので、アルフィルクも何があったのかは訊ねない。代わりに右手を挙げてグラジとルシャに合図をする。マユが落ち着くまで待機せよ、と。
 マユワはアルフィルクの腕の中で、小さな肩を大きく上下させ、嗚咽を零した。砂鯨の記憶にあったことはもはや我が事であるが、マユワの心はその記憶を余さず受け止められるようには作られていない。心の器に収まりきらない分が嗚咽となり、涙となって溢れて流れる。人間のように泣くことを知らなかった砂鯨の代わりに、マユワが百年分の涙を流すのだ。
 アルフィルクからしてみれば、マユワは砂船を下りた後、砂漠の一点にしばらく立ちつくし、戻ってきただけに過ぎない。しかし、その立ちつくしていた間に、マユワはアルフィルクが経験しようのないことを経験し、抱えきれない程の何かを無理やり抱えて戻ってきたのだ。アルフィルクにはそれが何なのかはわからないが、マユワを信じていた。
 小一時間が経って、ようやくマユワの嗚咽は収まり、話ができる程度に落ち着いてきた。マユワの中を荒れ狂っていた愛憎の感情もようやく心の器に収まる程度には鎮まってきた。
「もう、大丈夫」
 そう言って顔を上げたマユワは、アルフィルクの目には大人びているという形容を通り越して、くたびれて疲れた老女のように見える。しかしそれでもマユワの本質が変わることはないとアルフィルクは知っている。
「……おっきな砂鯨だったよ。砂鯨の女性」
「そうか」
 アルフィルクはマユワの頭を撫でる。手の平に簡単に収まってしまうくらい、小さな頭だった。

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