2021年2月11日木曜日

砂漠の幻葬団(1. 砂鯨 another side)


 1. 

 心臓と胃袋の間あたりを撫でられるような違和感。強いて喩えるならばそんな不快さでマユワは目を醒ました。窓の外を見なくても、どの方角に冥界の門が建ったのかはわかる。
 マユワは上体を起こし、むかむかする腹を手でさする。こうしたところで少しも良くはならないのだが、気休めくらいにはなる。
 そんなマユワの気配を察して、隣で寝ていたアルフィルクも目を醒ます。
「死んだのか」
「うん、すごくおっきいの」
「……砂鯨か」
「たぶん」
「水はいるか?」
「ちょうだい」
 アルフィルクが降りる弾みでベッドが軋み、反動でマユワの体が軽く上下に揺れる。その揺れですら今は気持ち悪い。水差しからコップに水を注ぐ音は近いような、遠いような、はたしてベッドからテーブルまでの距離はどの程度だったか。無意味な思索だが、今は意識を少しでも逸らさないと嘔吐してしまいそうだった。
「ほら」
「ん……」
 受け取った水を半分ほど飲み、一度喉に通す。それからもう一度、今度は最後まで飲み干した。夜の冷気で冷えた水が胃に広がるのがわかる。その清涼さはいくらかマユワの気分を和らげてくれた。
 その間にアルフィルクは身支度を整える。部屋を出て、別室のグラジとルシャにも声を掛ける。俄かに宿の二階は物音で溢れるようになった。
 私も準備しないと……。しかし体は動いてくれない。冥界の門はいつも不快を伴うやり方で己の存在をマユワに伝えてくるが、今回は特にひどい。ただ冥界の門が大きいだけでなく、そこに伴う思念が色濃いのだ。愛にせよ、憎しみにせよ、込められた気持ちの濃度が並大抵ではないようだ。マユワの手足は蝋で固められたよう重たく、動かそうという意思に反して体が応えてくれない。
「無理するな、じっとしてろ」
 部屋に戻ったアルフィルクが準備の手を止めずに声をかける。
「マユの分はいつも通りでいいな。反応はなくていい。違うなら言ってくれ」
 マユワは小さく頷いた。いつも通りでいい。その頷きをアルフィルクが見ていたかどうかはわからないが、どのみち沈黙は肯定を意味する。
 暗い部屋の中、灯りもつけずにアルフィルクは手際よく出発の準備を進める。行って帰ってくるまでは最長で四日程度を見積もる。その間の水と食料、仕事道具一式、その他雑貨類。適宜グラジとルシャに指示を出し、部屋を出入りする。一連の準備の一部として、アルフィルクはマユワの寝間着を脱がせた。
「汗、かいてるな」
 水差しの水を布に含ませ、マユワの背中や腋を拭う。体から熱が抜けていく感覚がマユワには心地良い。一通り全身を拭い終わると、新しい下着に替えて出立用の衣服を着させる。着替え終わる頃には、気分はだいぶ良くなっていた。
「団長、準備できたぞ」
「わかった、行こう――マユ、歩けるか?」
「もう大丈夫」
 グラジとルシャに続いてアルフィルクとマユワも部屋を出る。

「門はどっちだ」
 アルフィルクに問われ、マユワはある方角を指さした。グラジが帆を操り、舳先をそちらに向ける。マユワの目には白銀色の光を淡く帯びて輝く巨大な門が砂漠の彼方に見えているが、他の三人はそうではない。しかしマユワがあると言うのだから、あるのだ。
 今宵はよく晴れているが月のない夜だった。どこまでも続く星々の海を空に仰ぎながら砂船は走る。その間は誰も喋らない。グラジは風を読んで帆を操り、ルシャは荷物に背もたれて空を見上げ、アルフィルクは船の先端に座り込み、マユワはアルフィルクのマントの陰に座って舳先が指し示す冥界の門を見つめている。
 冥界の門が立ったということは、その近くで何者かが命を落としたということだ。砂漠の旅には常に危険が伴うので、たとえ砂鯨だろうが、いつ誰が命を落としたとしても、決して不思議なことではない。一人旅だろうが、二人以上の旅だろうが、危険性に差はない。熱病、毒蠍、野盗など、砂漠には危険が溢れている。
 一人旅をしている者が死んだのならば、その亡骸は自然のままに任せるよりも、人の手で弔い、砂ではなく人間の社会に還した方が良いものはそうしてやるのが良い。二人以上の旅の場合、全員が死んでいれば同じく弔うべきだし、もし生き残っている者がいれば極力平和裏に事を進めるのが良い。すなわち、話し合いだ。交渉が成立すれば手間賃を貰う代わりに街まで生き残った人間を運ぶし、遺体も場合によってはその場で弔う。
 無論、アルフィルクたちのこれらの活動は誰かに頼まれてやっていることではないし、善意でやっていることでもない。各自ができることを繋ぎ合わせたら、葬儀屋のようなことをするのが一番仕事として形になったというだけのことだ。
「この辺りでいいよ」
 発ったときには親指ほどの大きさでしかなかった冥界の門が、すっかり見上げるほどになるまでに砂船は近付いた。白銀色の門柱は冥界の風を浴びていくつもの細かい傷を負っている。しかし門扉の方は、同じく白銀色であるにもかかわらず、そこに傷はなく、代わりに冥府の文字が細かく刻まれている。門はまだ開いていないらしい。
 アルフィルクに手を引かれてマユワは船を降りる。冥界の門までは歩いて数十歩の距離だった。
「じゃあ、行ってくるね」
「おう」
 マユワはアルフィルクに小さく手を振った。砂船の縁でルシャも手を振っているのが見えたので、そちらにも手を振り返す。
 冥界の門が建ったときの不快感はだいぶ収まっていたものの、いざ門の前に立つとやはり腹の底がざわざわする。しかし今用事があるのは冥界の門ではなく、すぐ近くにいるはずの死者の魂だ。マユワは目を閉じ、耳を澄ませ、額の辺りに神経を集中させる……。
 さり、さり、さり……。砂の擦れる音が聞こえてきた。それは彼方からやってきたというよりは、すぐそばに来ていたことが不意に意識上に浮かんだと言うべきものだった。足音の主はずっと前からそこにいて、マユワが遅れてその事実を察知したのだ。だから瞼を開いてみたときに、目の前に砂鯨がいたとしても、それは驚くべきことではない。
 美しい砂鯨だった。娘と呼べるほど若くはないが、老女と呼ぶにはまだ早すぎる。冥界の門と対峙する横顔は凛として静かだった。自分が死んだ事実は既に受け入れており、ただ静かに冥界の門が開くのを待っているようだった。やがて冥界の門が開き、そこから現れる死神が彼女を冥府に導いていくことだろう。
 生者が死者と関わる術を持たないのと同じように、死者もまた生者と関わる術を持たない。だから、今この瞬間、砂鯨自身からしてみれば、彼女は何も無い世界の中に佇んでいる。すぐそばにマユワがいることなど知る由もない。マユワはその様子をそっと見守り続けていてもよい。しかし、穏やかな見た目や佇まいとは裏腹に、砂鯨の心の内には罪の意識と愛慕の情が激しく渦巻いているのが見て取れて、無視し難いものだった。
 マユワは手を伸ばし、砂鯨に触れた。指先から砂鯨の熱が伝わってくる一方で、砂鯨も自分が触れられたことを認識する。一瞬驚いた様子だったが、どうやらマユワを迎えに来た使者と誤認しているらしい。
「ごめんね、違うの。私はあなたを連れていく人じゃない」
 では、あなたは一体……? 
「生者と死者のあいだを漂ってるだけの……ただの人間」
 ……何か特別な事情があるようですね。しかしきっと何か意味があって、あなたは私の前に現れたのでしょう。
「ううん、私があなたに与えてあげられる意味なんて、何もないよ。私ができるのは、あなたという存在を認識し、記憶することだけ。私が見聞きして理解しうる限りのあなたの像を、私の中に複製する。それ以上のことはできない」
 そういうことをあなたが望むならば、だけど。そう付け加えて、マユワは砂鯨の反応を待つ。
 砂鯨はしばらく逡巡した後、言葉を探しながら語り始める。砂鯨に触れたマユワの指先から、砂鯨の思念がマユワの中へ注がれていく。


 2. 

 百年分の記憶がマユワの中を駆け巡る。砂鯨の半生のほとんどは砂漠の旅であった。生まれたばかりの頃こそ他の兄弟や親と砂漠を放浪していたが、ある時からは家族と離れて人間に飼われて砂漠を旅するようになった。主となった人間は、マユワが数えた限りで四人ほどいた。
 一人目は行商人の男だった。一番目の主にとって砂鯨はと砂漠を旅するための足であると同時に資産だった。買われてから十年ほど経ったある日、異国の彫刻物を買う資金を作るために砂鯨は市場で売られた。砂鯨は主に対して彼女なりの親しみを持っていただけに、何の躊躇いも労いもなく売られた時には大変悲しかったものだ。
 二人目の主も行商人の男だったが、こちらは砂鯨をとてもよく扱ってくれた。砂鯨に白く可憐な花を意味する名前を与え、朗らかに笑いながらその名を呼んでくれた。砂鯨は男を背に乗せて砂漠中を隅々まで旅した。危険な目には数えきれないほど遭ってきたが、砂鯨と男は共に助け合い、危機を乗り越えてきた。
 出会ってから三十数年後、二人目の主は若い妻を娶り、東西の貿易の要衝となる街の一角に居を構えた。蓄えた財をはたいて家と商店を手に入れたのだ。行商人として大成したのだから、実にめでたい話である。砂鯨も敷地の中に専用の小屋を貰ったものの、主と寝食を共にすることはなくなった。朝と晩に小間使いの小僧が雑穀と水を運んできてくれるし、毒蠍に襲われる危険もない。安全と平和が約束された退屈な日々を手に入れることができた。
 それから二年後、主人夫婦に長男が生まれた。彼が後の三人目の主となる。砂鯨は彼が乳飲み子だった頃から成長を見守ってきた。一人で歩きだし、言葉を発し始めるようになる頃から彼は砂鯨の元を頻繁に訪れるようになった。最初は母親や召使いを引き連れてだったが、一人で来るようになるまでにさほど時間はかからなかった。
 人間と砂鯨では寿命が三倍以上も差があるので、砂鯨の時間感覚から比べると人間は実に驚くべき速度で成長するように見えるものだ。男の子が少年となり、青年となるまでの十五年間は、かつて旅をしていた頃の日々とは違った新鮮さと面白さがあった。
「いつか君と一緒に、父のように行商の旅に出たい」
 その声色は父親によく似ていると砂鯨は感じた。そして、果たして青年の夢は叶うことになる。
 二人目の主は、彼の息子が二十歳を迎えた年に天寿を全うした。葬儀の間、砂鯨は小屋から出ることはできなかったが、彼女なりのやり方で主の死を悼んだ。数えてみれば、五十年以上の付き合いだった。
 父親の跡を継ぎ、息子は商会の当主となったが、新しい当主は信頼できる幹部にその座を譲ると、自分は行商の旅に出ると宣言した。この辺りのくだりは砂鯨が三人目の主となった青年から聞いたことだったが、砂鯨にとっては重要な話ではない。肝心なのはおよそ二十数年ぶりに旅に出られたということだ。広大な砂漠に躍り出る瞬間は心も踊るものだとつくづく感じた。
 砂鯨にとって、三人目となる新しい主は赤子の頃から見守ってきた人であり、息子同然の存在だった。しかし彼は二人目の主に見た目も気質もよく似て、砂鯨を最良の相棒として扱ってくれた。旅を続けるうちに彼は砂鯨が初めて彼の父親と出会った時の年齢となり、ますます砂鯨は懐かしくなっていく。そして当時無意識に感じていた恋心を思い出し、意識し始めるのにさほど多くの時間は要さなかった。
 季節を経る毎に青年は日に灼け、逞しくなっていく。目尻に刻まれる皺が深くなっていくのは、それだけ彼が行商人として経験と苦労を積み重ねてきた証拠である。しかし砂鯨の名を呼ぶときの声は変わらず甘く優しいのだ。彼に名を呼ばれ、触れられるだけで砂鯨は幸せだった。彼を乗せて砂漠をどこまでも行けたらいいなと思う。もちろん人間と砂鯨とでは流れる時間の早さが違うので、いずれ死が二人を隔てる日も来ることだろう。その最期の日まで一緒にいられたらいいと砂鯨は思っていた。そして、その願いが儘ならないものであることも、知っていた。
 ある晩、焚火の傍らで彼は砂鯨にもたれて座りながら語った。
「僕と君が行商を始めて、もう三十年くらいになるね」
 そうですね。
「最近、よく思うことがあるんだ。父は、ちょうど今の私と同じくらいの年で母と結婚をした。若い頃は、なぜ父はもっと早く身を固めなかったのか不思議に思ったものだけど、気付けば私もこんな年になってしまってね、今ならわかるよ。君とする旅はすごく楽しいんだ。いつまでも続けていけたらと思って、やめるのが惜しくなる」
 ……。
「けどね、私も年だ。もう長旅に耐えられるような体力はないよ。だからね、父がそうしたように、私も私の旅を終わらせようと思うんだ。どこかの街に家を買ってね、君と一緒に余生を過ごしてみたい。そう思うんだけど、どうだろう?」
 ……ああ、既に意中の人がいて、あなたの中ではもう旅は終わっているのですね。
 彼は砂鯨の予想を裏切らず、婚約した女性の話をし始めたが、それは砂漠を吹き抜ける風と同じで聞き流すべき雑音だった。そんな話は聞きたくないし、知りたくもない。
 薄々予感はあった。商談と称して酒場に行ったものの、いやに帰りが遅くなる日がここ数ヶ月は多かったし、行く先々の街で受け取る便箋の中にはなぜかいつも同じ香りの手紙があった。それは前の主が妻を娶る数か月前の状況と酷似していた。
 人間と砂鯨では流れる時間の早さが違うのは、嫌というほどわかっているはずだった。人間は人間の時間を生きるし、砂鯨には砂鯨の時間がある。生まれた時から見守ってきたはずの男の子は、いずれ自分よりも先に逝ってしまう。同じ時間を生きられるのは砂鯨の生涯の中の一部だけだ。
 砂鯨は永遠を欲していた。愛する人、魂を補い合う人との終わらない日々が欲しかった。死が二人を隔てるのであれば、後を追えばいい。しかし現実はもっと残酷で、そもそも彼は砂鯨を愛しておらず、永遠にしたいとも思っていなかった。人間の時間の中で人生を歩んでいたのだ。しかしそれは仕方ないことなのだろう。何せ、人間と砂鯨だ。根本的に種族が違う。人間である彼が人間の女と番になるのはとても自然なことなのだ。
 五十数年前もそんなことを無意識に考えた。その結果、小屋という名の牢獄を与えられた。愛した男が知らない女のものになるのを見てきた。安全と平和で蓋をした地獄に突き落とされた。愛した人に別れを告げて旅に出る自由すら得られなかった。その苦しみを思い出すと、砂鯨は気が狂いそうになる!
 そんな砂鯨の心中など彼が知る由もなく、ついに婚礼の日は訪れた。彼とは親子ほどに年の離れた花嫁は純白のヴェールを被っており、一切の穢れを知らない生娘であった。彼は花嫁を愛おし気に見つめ、花嫁も精いっぱいの愛を彼に向けて見つめる。そして二人は仲睦まじく手を取り合い、花びらの舞う道を歩き出した。彼の商売仲間や花嫁の縁者が道の両脇に立ち、二人の新しい門出を祝福する。人間の言葉が聞き取れないと感じたのはこれが初めてだった。
 そこから先のことは覚えていない。発揮し得る限りの暴力を発揮し、そして全てが終わったとき、愛した人は砂鯨の胸の中で息絶えていた。ついぞ砂鯨が望んだ永遠は手に入らなかった。

 辛苦の末にようやく幸福を迎えた老商人に突如降りかかった災厄は、よりにもよって、彼に長年仕えてきた砂鯨の錯乱によって引き起こされた。実に不幸な事故である。妻になるはずだった女は「あの砂鯨は八つ裂きにして殺すべきだ」と主張したというが、砂鯨の所有権は故人にあり、所有者が死んだ後の所有物の扱いは人間の法に従わなければならない。故人の血縁は既に一人残らず亡くなっており、また、件の女もまだ法的な婚姻関係は結んでいなかった。よって、故人の遺産を相続する者はいない。以上のことから砂鯨を含む故人の遺産は公正に売却処分され、売却益は国庫に納められることとなった。妻となるはずだった女はその決定を知ると気が触れて、とても人間とは思えないような怨嗟の声を上げたというが、以後その行く末を知る者はいない。
 換気のために開けられた小さな穴からは町人の噂話を囁く声がいくらでも聞こえてくる。ひどい雑音だった。砂鯨は光も射さない暗い部屋に閉じ込められていた。暗闇の中で終わりのない夢を見ていた。
 遥か遠くの未来、人間の娘に生まれ変わった砂鯨は、愛した男に再会する。前世の記憶はないが、魂で結ばれた二人であるから、再会は必然だった。砂鯨だった娘は人間の言葉で愛を囁き、自分の気持ちを伝える。男は娘の気持ちに応え、力強く娘を抱きしめてくれる。そんな自分たちを砂鯨は遠くから見ている。そして然るべき疑問に気付く。あの人に抱かれている女は誰で、今思案している自分は誰なのだろう。どちらが本当の私なのだろう。しかしこれは問いが既に解となっている。すなわち、あの人に抱かれている女は自分以外の誰かであり、今思案している自分こそが自分自身なのだ。その事実に気付いた瞬間、一切が砂となり崩れ落ちる。そこは広大な砂漠で、灼熱の太陽が燦々と輝き、自分は砂鯨である。砂鯨の身でありながら人間を愛してしまっただけでなく、嫉妬と憎悪に駆られて彼の命まで奪ってしまった、愚かで罪深い砂鯨である。砂鯨は砂鯨以外の何者にもなることはできないというのに。そしてハッと目覚めてみれば暗闇の中である。光のない部屋に閉じ込められて久しいことを思い出す。前方に外の光が扉の輪郭を縁取っているのが見える。いつか扉が開くことがあるのかもしれないが、今は閉ざされている。砂鯨は再び眠りに落ちる。雑音が煩い。
 長い時間を経た後、砂鯨は砂鯨商人の市場に連れていかれた。遠い昔、数えれば八十年以上前に、一時期身を置いていた場所だった。砂鯨は砂鯨として三度売りに出されたのだ。また誰かが砂鯨を買い、その人と主従関係を結ぶことになる。死ぬことも許されず、砂鯨は長い時を生きる。
 ――そんな折に現れたのが、ほとんど子供と言っても差支えのない少年だった。後に四人目の主となる者である。
 なぜか少年は他にたくさんいる同朋ではなく、その砂鯨を選んで足繁く通っていた。毎度必ず少年は砂鯨の頭に手を乗せる。そして何か独り言を呟く。数分、あるいは小一時間、日によってまちまちだが、彼は忙しい時間の合間を縫って砂鯨の元を訪れているようだった。足音で少年を判別できるようになるまでそう多くの時間はかからなかった。
 心を閉ざすように瞼も閉じていた砂鯨だったが、あまりに熱心に足を運ぶものだから、一度だけ薄く瞼を開いてみたことがある。いったいどんな物好きなのだろうか。
 そこにあったのは瞳である。少年の瞳は砂鯨と同じように疲弊していたが、その奥には絶えることのない旅への憧れが息づいているのが見えた。それは二人目の主、砂鯨が最初に愛した人が持っていたものだった。同時に、三人目の主、砂鯨が命を奪ってしまった人も持っていたものだった。それと同じものを、この少年も瞳に宿していた。純粋無垢な憧れは、尊いものであると同時に眩すぎるものだ。砂鯨は嘆息する。なぜ、どうして、自分の前には同じ瞳の人たちが現れ続けるのだろう。
 もし人間が信じるところの神なるものが在るのだとしたら、彼あるいは彼女は、砂鯨に啓示を与えているのかもしれない。それを読み解けば、少年が現れた意味もわかるのかもしれない。しかし砂鯨に信仰はなく、あるのは空と砂漠と万物を統べる法則である。偶然は偶然でしかなく、そこに意味はない。少年が砂鯨を欲し、砂鯨商人が少年に砂鯨を売却することにしたのならば、砂鯨の意思とは関係なしに、再び旅は始まる。広い砂漠をどこまでも行くのだ。
 檻の戸が開かれる。出口は黄色く眩く輝き、少年の影が立っている。さあ、旅に出よう! 未知が俺たちを待っている! 差し伸べられた手に、砂鯨は自らの頭を寄せる。
 いつか終わることが約束された旅へ、さあ、参りましょう……。
 かくして少年イトと砂鯨の旅が始まった。


 3. 

 およそ五年の時間をかけて、イトと砂鯨は砂漠の街々を巡った。イトが地図につけたバツ印は無数にあり、それらがイトの旅の痕跡である。もっとも、砂鯨からしてみれば、どれも数年から数十年ぶりに訪れる馴染みの場所だったのだが、まだ幼いイトにとっては訪れる場所の全てが新鮮であり、そして次第に飽きて失望するものでもあった。どこへ行こうが、魔法も奇跡もない。あるのは結局同じ人間だけだ。
 それはそうだろう、と砂鯨は思う。栄枯盛衰はあれども、人間がいるところには必ず人間の営みがある。ある程度衣食住を効率化させることができたら、余暇時間で文化的な営みや戦争的な営みを行うのが人間という生き物だ。それはどの地域で暮らそうが変わらないものである。期待が外れてがっかりするのは可哀相ではあるが、そもそもの期待が間違っているのだから仕方ない。
 そしてイトはついに最後の街にバツ印をつけた。もうこれ以上行くべき場所はない。次に訪れる街は、どこであれ、決して初めての場所ではありえない。
 バツ印で埋め尽くされた地図から顔を上げると、イトはぽつりと呟いた。
「行けるところまで行ってみるか」
 砂鯨はイトの真意を測りかねたまま、イトの望むままに進路を南に向けて砂漠を泳いだ。最後の街は砂漠の南端にあったので、地図の端に向かって進むことになる。
 当たり前のことだが、行けども行けども砂漠である。何もないどころか、進むほどにますます太陽は高くなり、垂直に降り注ぐ日光が容赦なくイトと砂鯨を焼いた。砂漠の砂は一粒一粒が太陽の欠片のようであり、砂鯨の分厚い皮膚を貫通して熱を伝えてくる。いくら砂漠に生きる砂鯨といえども、死のリスクが無視できないほどの存在感で脳裏に浮かぶのだから、一介の人間に過ぎないイトは如何ほどか。
 街から離れれば離れるほど、戻るにも同じだけの時間がかかる。水と食料、それから自身たちの体力の残量を正確に見極めなければならない。さもなくば、イトも砂鯨も砂漠の真ん中で野垂れ死ぬことになるだろう。それにもかかわらず、イトは前へ前へと突き進んだ。
 日が沈み、月が昇る。月が沈み、日が昇る。日が沈み、月が昇る、そして再び月が沈み、日が昇る。慣れ親しんだはずの砂漠の日常であるにもかかわらず、イトが熱に浮かされたように南を目指し続けるものだから、砂鯨は困惑し、そら恐ろしくさえあった。
 私たちは一体どこに向かっているのでしょう? あるいはそもそも、どこかに辿り着くのでしょうか?
 砂鯨の疑問などイトが知る由もなく、イトはただひたすらに前だけを目指していた。
 ――何度目とも知れない夜明けを迎えたとき、不意に吹いた風は今まで嗅いだことのない香りを孕んでいた。それは砂鯨の背中に乗っていたイトにも分かったらしい。
 永遠に続くかと思われた砂と空の景色の彼方に、イトと砂鯨が知らない何かがある。それは一体何か。わからない。わからないことに、砂鯨は興奮する。百年以上生きてきて、世界の事は何でも知っていると思っていたのに、まだ知らないものがあったなんて!
 そしてついにそれは現れた。
 これまで空の境界は砂の乾いた色で描かれているものだった。しかし、この日初めて砂鯨は、空より色濃い青色で空が区切られているのを見た。オアシスで見た湖とは比べ物にならないくらい広大な水の塊だった。果てが見えない。砂漠と同等か、もしかするとそれ以上に広いのかもしれない。
「これが、海か……」
 イトの呟いた言葉で砂鯨は海というものを知った。
 波打ち際でイトと砂鯨は並んで佇んでいた。潮の香りは瑞々しく、寄せて返す波が引いた後にはいくつもの泡が残り、弾けて消えていく。その途中で、新たな波が泡を飲み込み、イトと砂鯨の足元にまで迫ってくる。
 砂鯨はここが己の限界だと悟る。これ以上先に砂鯨は進むことはできない。砂鯨という種族ゆえの限界だ。砂鯨は目を瞑り、潮騒に耳を傾けた。瞼越しに暮れなずむ空の茜色を見た。
 しかしイトはおもむろに立ち上がると、靴を脱ぎ、一歩、もう一歩と歩み出る。濡れた砂はイトの足の形に沈んで跡となる。寄せた波によりイトは足首まで海水に浸る。そして波が引くと、足跡は薄らいでいた。もう何度か波をかぶれば足跡は完全に消えてなくなるだろう。
「冷たいな」
 イトはそう言って笑った。今まで聞いたことのない、朗らかな声だった。砂鯨の方を振り返り、目を輝かせた。
「やっぱり世界ってまだ広い」
 砂鯨はその瞳に再び恋をして、絶望する。

 砂漠の北端は曇天の下に純白に輝く山々を臨んでいた。西端では彼方に果てのない花畑が広がり、石がむき出しになった荒地が砂漠と花畑の間を隔てていた。東端には石畳の始点があり、そこから続く人工的な道は異国の文明の存在を示唆していた。
 砂漠の境界を辿る旅は、否応なしに、砂鯨に己の世界の輪郭を自覚させた。こうして見てみれば、広大に思われた砂漠も、より大きな世界の一部でしかない。砂鯨は砂鯨であるがゆえに、そこから先に出ることはできない。しかしイトは違う。二本の足で砂漠の外に出ていくことができる。二本の手で、不可能を可能に変えていくことができる。
 しかしイトは砂漠の境界で長時間彼方を眺めた後に、必ず砂鯨の方を振り返りこう言うのだ。
「よし、帰ろうか」
 その顔は十二分に満足したというよりは、何かを諦めたものに見えた。彼は何を諦めたのか。考えるまでもない。砂漠の先に行くことだ。それを諦める理由になったのは砂鯨以外にあり得ない。砂漠の先に行くためには砂鯨を手放さなければならないが、その選択をイトが否定したのだ。砂鯨は自身がイトの可能性を妨げていることを自覚せずにはいられない。しかしその一方で、イトが自分の夢よりも砂鯨と共に過ごす時間を選んでくれたことに、喜びを感じなかったかといえば嘘になる。砂鯨が望んだ永遠を垣間見た気がした。しかしそれが醒めない夢だと信じられるほど砂鯨も若くはない。年甲斐もなく見た束の間の夢と自覚していることを免罪符に、今しばらくは夢に浸っていたくなる。
 イトと砂鯨は砂漠の境界から先に行かないことを選んだが、踵を返した砂漠の内側にイトと砂鯨の居場所はなかった。これまでの主たちとは違って、イトは自身の生計を立てる術を知らなかったのだ。その日を生き延びるために、多くの人々の恨みを買うようなこともやらざるを得なかった。そんなことを繰り返していれば行き場所を失うのは必然である。かくしてイトと砂鯨は、街から街へと逃げるように転々としていた。
 このままでは自分たちはどこにも行けなくなってしまう。その前に手を打たなければならない。
 イトも砂鯨も了解していることだったし、現にイトはそのために行いを改め、まっとうに生きようと努力していた。しかし我慢ならなかったのは砂鯨の方である。
 イトが人々の住む街の一角に根を下ろすということはつまり、イトが様々な人と関わるようになるということである。イトと砂鯨の二人で完結していた世界に部外者が立ち入ることを意味する。それは砂鯨の臨んだ永遠ではない。むしろ、遠からぬ将来に、かつて愛し憎んだ男たちが砂鯨にした仕打ちと同じことをイトも行うことを示唆している。その可能性に怯えた砂鯨はイトに近づく人間を追い払ってしまう。そしてそのことをイトに窘められる度に、幾度となく自己嫌悪に陥った。イトと砂鯨が共に生きる先に明るい未来は見えなかった。
 もしも二人の気持ちが同じであるならば。イトが砂鯨と同じく、永遠に魂を共存させあう仲であることを望んでいるならば。もしそうであるならば、二人が行く先は一つしかない――愛情と焦燥が溢れて止まらなくなった末に、ある晩、砂鯨はイトを押し倒した。
 愛しい人よ、どうか私の気持ちを汲んでください。私はあなたが恋しくて愛しくて仕方ないのです。あなたと私が永遠に結ばれるには、もはや共に冥界の門をくぐる他にないでしょう。
 しかしその願望はイトの生存本能によって裏切られる。そして同時に、束の間の夢と自覚することが免罪符あったのに、それを失念していたことを思い出した。たかが砂鯨の分際で思い上がりも甚だしいだけでなく、同じ過ちを繰り返しかけたのだ。以来、砂鯨はただの砂鯨に徹することにした。燻ぶり続ける熱情から目を背け逃げるように、砂鯨は考えることをやめた。


 4. 

 ――毒蠍というのは気を付けていないと刺されてしまうのに、いざ自分から探そうとするとなかなか見つからないものでした。しかし昨晩。私は、ついに自分の死に場所を見つけたのです。
「……」
 私は愚かでした。他の兄弟や同朋たちと同じように、ただ人に飼われるだけの砂鯨でいられたらどんなに良かったでしょうか。
「後悔、してる?」
 正直に言うと、わかりません。強いて言うならば、私が私に生まれてしまったことが最大の罪だったように思います。特に、大切な人の命を奪ってしまったことについては、もう何と言っていいのかわかりません。でも、もし時の針を巻き戻して最初からすべてをやり直したとしても、同じことをしたのではないかと思います。そうとしか思えない自分はきっと異常なのでしょうね。
「そっか……ねえ、今の話、イトって人に伝えてほしい?」
 こんな話を知らされてどうしろというのでしょう。どうもしなくていいですよ。……それでも、もし私が望むことがあるとすれば、こんな愚かな砂鯨のことなど忘れて、彼には彼にしか行けないところに行ってほしく思います。もうこれ以上私のために選択肢を狭めてほしくない。私は私という存在を消滅させてしまいたいのです。
「でも、あなたは私に全てを教えてくれた。あなたが教えてくれたことは、私はずっと覚えてるよ。私が記憶している限り、私の中にあなたが存在し、あなたが何かを想っていたという事実はなくならない」
 そうなのですよね。消えてなくなりたかったはずなのに、あなたに全てを話してしまった。だからきっと、私も誰かにこの気持ちを知ってほしかったのでしょう。百年抱えてきたこのどうしようもない気持ちを誰かと分かち合いたかった。理解なんてされなくていい。ただ、露と消えゆくのが淋しかった。私という存在の痕跡を、この世界のどこかに刻んでおきたかった――。
 砂鯨は全てを語り終えたようだった。もう砂鯨に触れた指先からはマユワの中に何も流れ込んではこない。あとはこのまま静かに消えゆくことだけを望んでいる。罪も後悔も、全てが砂鯨の生きた証だった。
 そのタイミングを見計らったかのように、冥界の門がゆっくりと音もなく開く。夜の砂漠の冷気が生温く感じるほどに鋭く凍てついた冥界の瘴気が吹き込んだ。その瘴気を爪先で裂いて現れたのは黒いローブを頭から被った異形の者だった。手には青い炎を灯したランタン。死者の魂を冥界に導く門番である。
「冥府の姫か」
「姫って呼ばないで」
 門番は枯れ枝のような指先を顎に当てて黙考していたが、彼なりに結論は出たらしく、返事もないままに話題を変えた。砂鯨の方に顔を向ける。
「汝の魂は流転し再び現世に還ることもあるだろう。その時まで暫し休むといい」
 ……私は人を殺めました。その罪はいかに裁かれるのでしょうか。
 砂鯨の告白に対し、門番は首を傾げ、理解に苦しんでいるように見えた。しかし生じ得る可能性に思い至り、合点がいったようである。
「成程、汝はそれほどまでに人間の価値観に毒されたか。汝が人間を殺めることと、鷲が兎を食い殺すことに一体何の差があるものか。象が逃げそびれた土竜を気付かず踏み殺すのと何が違うのか。人間の死は罪となるが、兎や土竜の死が罪とならないのだとしたら、それこそまさに人間の傲慢というものだ。人間が人間の世界の法と秩序に従うのは連中の勝手だが、それに汝のような砂鯨が従うというのは、私には道理の通らぬことに思えるが」
 そう、なのでしょうか……?
 戸惑う砂鯨に対し、死神は指を立てて言葉を続けた。
「罪だの裁きだの人間じみた言葉で己を語るのは錯乱あるいは狂乱と呼ぶべきものだろうよ。生物が他の生物を殺すことは自然の営みの一部であるし、汝に人間の世界の法は当てはまらない。故に汝に罪はないのではないか」
 もう他にないか? と門番は砂鯨に促すが、砂鯨は一言、いいえ、と静かに返した。
「では行こう。姫も壮健でな」
 門番は踵を返し、砂鯨を先導して冥界の門をくぐる。その後に砂鯨が続く。砂鯨はついにマユワの方を振り返ることなく、瘴気の海の中に消えていった。間もなく門扉は開いた時と同じように、ゆっくりと音もなく閉じた。そして役目を終えた冥界の門は、煙が空に溶けていくように消えていった。
 マユワは一連のやりとりに一切口出しせず、干渉もしなかった。マユワは冥界の門が見えるだけで、それ以上でも以下でもないからだ。死者の魂が門番に導かれて冥界の門をくぐる、という自然な営みは妨げられるべきではないし、マユワ自身にも妨げるつもりはない。
 それよりも今は、一刻も早くアルフィルクのもとに帰りたかった。何者であれ軽薄な一生涯を生きる者はない。その記憶を余さず引き継いで平気でいられるほどの余裕はない。
 暗い砂漠の中でマユワは孤独だった。心が凍えてしまう前に、あの砂船に帰らなければならない。心労で重たくなった足を力いっぱい引きずり、マユワは歩き出した。立ち止まれば涙が溢れて止まらなくなるだろうし、そうなったら歩くことができなくなるだろうから。

「おかえり」
 アルフィルクはマユワの手を取り砂船に引き上げた。勢い余ってマユワはアルフィルクの胸に頭から突っ込んでしまうが、そのままくっついて離れようとはしない。マユワがこのように甘えてくる時とはほぼ間違いなく重たい記憶を背負ってきた時なので、アルフィルクも何があったのかは訊ねない。代わりに右手を挙げてグラジとルシャに合図をする。マユが落ち着くまで待機せよ、と。
 マユワはアルフィルクの腕の中で、小さな肩を大きく上下させ、嗚咽を零した。砂鯨の記憶にあったことはもはや我が事であるが、マユワの心はその記憶を余さず受け止められるようには作られていない。心の器に収まりきらない分が嗚咽となり、涙となって溢れて流れる。人間のように泣くことを知らなかった砂鯨の代わりに、マユワが百年分の涙を流すのだ。
 アルフィルクからしてみれば、マユワは砂船を下りた後、砂漠の一点にしばらく立ちつくし、戻ってきただけに過ぎない。しかし、その立ちつくしていた間に、マユワはアルフィルクが経験しようのないことを経験し、抱えきれない程の何かを無理やり抱えて戻ってきたのだ。アルフィルクにはそれが何なのかはわからないが、マユワを信じていた。
 小一時間が経って、ようやくマユワの嗚咽は収まり、話ができる程度に落ち着いてきた。マユワの中を荒れ狂っていた愛憎の感情もようやく心の器に収まる程度には鎮まってきた。
「もう、大丈夫」
 そう言って顔を上げたマユワは、アルフィルクの目には大人びているという形容を通り越して、くたびれて疲れた老女のように見える。しかしそれでもマユワの本質が変わることはないとアルフィルクは知っている。
「……おっきな砂鯨だったよ。砂鯨の女性」
「そうか」
 アルフィルクはマユワの頭を撫でる。手の平に簡単に収まってしまうくらい、小さな頭だった。


(了)

砂漠の幻葬団(1. 砂鯨)

 1. 

 砂鯨が死んだ。
 出会ってから八年間を共にした青年の家族だったが、昨晩、毒蠍に刺されて死んでしまった。幸いなことに、近くの街まではさほど遠くはないので、砂漠の真ん中で野垂れ死にすることはないだろうが、余計なことを考える必要がない分だけ悲しみが募る。青年は地べたに座り、冷たくなりゆくだけの砂鯨を見つめている。死んだ砂鯨とは重力に押しつぶされるために、生前よりも低く平たくなるものであるということを、麻痺した頭で学んだ。
 夜が明けて朝日が砂鯨の巨大な体の背後に迫り、輪郭を光で描き出す。麻色の肌の艶やかさはいくらか失われはじめていた。じりじりと日がのぼるにつれて、その全体像が浮かび上がってくる。巨体に比べて著しく小さな瞳は開かれているが、それはもはや結晶のように澄んだ黒色ではなくなっていた。濁り始めた瞳は宙を向いており、そこに青年の姿が映ることは二度とない。
 改めて、死んでしまったのだな、と青年は思う。砂鯨はもう泳がない。青年を運んで砂漠を旅することもしない。これからは、青年は自分の足でこの広い砂漠を旅しなければならない。だから、さっさと立ち上がり、荷物をまとめて、とりあえず街まで戻って次の旅の準備をしなければならないのだ。砂鯨の死体は置き去りにすることになるが、一人で弔うには巨大すぎるし、そもそも砂漠で命を落とした生物とは野晒しにされるのが常である。死体はやがて干乾び、砂に埋もれて地に還るだろう。この広い砂漠にはそうやって置き去りにされた死体があふれているものだ。
 それでも立ち上がれないのは、それだけ砂鯨が青年にとってかけがえのない家族だったからだ。目を瞑れば脳裏に昨日のことが生々しく蘇る。
 青年と砂鯨はあてのない旅をしていた。太陽を目印にひとつの方角を目指して進み、太陽が空の端にかかり始めた頃に、砂鯨は突然大きく震え、青年の視界は突如反転し、地面に放り出された。体を打った痛みよりも、劈くような砂鯨の鳴き声に反応して青年は身を起こし、砂鯨に駆け寄り声をかける。砂鯨は苦しみながらのたうち回り、振り下ろされたひれが青年のすぐ隣を掠めて砂埃を巻き上げた。しかしそれもそう長くは続かず、やがて砂鯨は暴れる体力を失い、力なく倒れた。砂鯨は、時折弱々しく震える以外のことは、もう何もできないようだった。そのような痙攣が二、三時間ほど続き、月が天頂に届く頃に、ついにぴくりとも動かなくなった。夜の冷気は砂鯨の体から残った熱を奪い、岩のように固くさせていく。このように砂鯨が息絶えていく間、青年は何もすることができなかった。仇の毒蠍の行方は知れない。
 俺がもっと気を付けていれば、毒蠍なんかに刺されなかった?
 もしも時間を遡ることができたならば、と青年は叶いもしない妄想に耽る。

 太陽が天頂近くまでやってきた頃、青年を巨大な影が覆った。その少し前から何者かの砂を踏む音は聞こえていたのだが。
「お前はまだ生きているな」
 野太く低い声が青年に呼びかける。
「団長、まだ生きているのがいる」
「おう、そうか」
 鬱陶しいと思いながら青年が顔を上げて振り返ると、大男の背中と、その大男が顔を向けている先からやってくる別の男が見えた。二人とも熱除けの白いマントとフードを被っていた。
「毒蠍にやられちまったか。運がなかったな、あんた」
 団長と呼ばれた男はしゃがんで砂鯨に手を当て、言った。運がなかったな、という言葉にはそれ以上の他意はなかった。
「運がなかった……ああ、そうなんだろうな」
 青年は呟いた。今朝からずっと過去をやり直す想像を繰り返してきたが、ついに砂鯨が死を免れる未来は見えなかった。何が悪かったのか? 強いて言うならば、運が悪かった。たまたま砂鯨の進む道の上に毒蠍がいて、毒蠍は自分の身を守るために砂鯨の腹に尾針を刺し、そしてそれを避けられなかった砂鯨は死んでしまった。それ以上でも以下でもない。不幸な事故だ。だからさっさと切り替えて、次の行動を――いや、その前にこの者たちだ。
「で、あんたらは何だ? 俺は金目のものなんか持ってないぞ」
「砂鯨からは色々なものが採れる。肉、皮、骨、肝、髭。無駄なものはほとんどない」
「……それは勘弁してくれ。大事な家族だったんだ」
「しかしもう死んでしまったのだろう」
 大男は語尾を上げた。沈黙が流れる。大男の言う通り、砂鯨の体からは金目のものが数多く採れるというのは真実で、有効活用することは悪いことではない。青年は何も言い返せなかった。
 沈黙を破ったのは団長と呼ばれた男が大男の脛を蹴る音だった。
「お前は、少しは言い方ってものを考えろ」
「……気を悪くしたのならすまない」
「言い方を取り繕ったところで、あんたたちの目当てがこいつだってところに変わりはないわけだ」
 とことん運がないもんだ、と青年は毒づいた。かけがえのない家族を亡くしただけではなく、その死さえも弄ばれようとしているのだから。
「こいつに手を出してみろ。お前ら全員ぶっ殺してやる」
 懐のナイフは殺傷を目的としたものではないが、人を殺めるには十分なものだ。しかし一対二ではそもそも分が悪い。せめてどちらか一人とでも刺し違えられれば上々か。それであいつのところへ行けるならば、それも悪くはないのかもしれない。
「ほら話がややこしくなった」
「すまない」
「ま、いいけどさ」
 さて、と団長と呼ばれた男が青年に向き直る。敵意がないことを示そうと、軽く両手を挙げている。
「とりあえず、話をしよう。前向きな話だ」

 団長を名乗る男、アルフィルクの話を要約すると以下のようになる。
 彼らはこの辺りで葬儀を執り行う集団だという。青年イトのように不幸な事故で旅の相方を亡くす旅人は珍しいものではなく、そんな時には彼らがやってきて葬儀を行うのだ。死者を弔いつつ、近くの街まで遺された人々を送り届ける仕事をしている。そしてその見返りが、たとえば砂鯨の体の一部なのだという。
「仮に俺たちが来なくても別の誰かがやって来て、結局砂鯨をバラすだろう。ただしそいつらは俺たちみたいに建設的な話し合いをしてくれる連中ではないだろうな。あんた、間違いなく殺されるね」
「葬儀屋と死体漁りの盗賊は、何が違うんだか」
 吐き捨てるイトに対してアルフィルクは明るく笑う。
「何も違わないな」
「せめてこいつももっと街から離れたところで死ねば、あんたらみたいなのに見つからなかったかもしれないのにな」
「さあ、それはどうだかね。どこで死んでも俺たちはきっとあんたらを見つけていただろうよ」
「嫌な奴だな」
「よく言われる――で、どうするんだ?」
 どうする、と言われてもイトからしてみれば選択肢は一つしかない。拒否したところで、結局力ずくで砂鯨を奪われるのが関の山だ。そうなるくらいならば、せめて平和裏に事を済ませる方がまだ賢いというもの。しかしアルフィルクたちがあくまで葬儀屋を名乗り、形だけでも交渉の体を取るのならば、せめて腹いせにその偽善を暴いてやるのも一興だ。
「一つだけ条件がある」
「何だ?」
「喉響骨をくれ」
 喉響骨とは砂鯨の発声器官であるが、加工すれば骨笛の素材になるものである。動物の骨から作る骨笛には色々な種類があるが、その中でも砂鯨の喉響骨で作ったものは、砂鯨の個体の絶対数の少なさ故に希少であり、最高級のものになれば貴族の邸宅一戸分の値が付くこともある。これは人の拳ほどの大きさしかないにも関わらず、砂鯨の部位の中では最も高価なものだ。
「いいだろう。他には?」
「いや、それだけでいい」
「ずいぶん控え目なんだな」
 喉響骨の要求を控え目と表現するあんたらの方がよほど控え目だがな、とイトは内心毒づいた。なるほど偽善を塗りたくった面の皮はなかなかに分厚いらしく、本物と区別がつかなくなって久しいようだ。イトは鼻を鳴らし、吐き捨てる。
「どうせ一人で持てるものなんかたかが知れている」
「懸命だな」
 アルフィルクは手を叩き、その音が交渉の区切りとなる。
「よし、じゃあ交渉成立だな」
「その代わり、ちゃんとこいつを弔ってくれるんだろうな」
「任せとけ。あんたの気の済むようにしてやるよ」
「……俺のことはいいから、ちゃんとこいつを送り届けてやってくれ」
「ん、まあそうだな――おい、グラジ! 砂船からマユワとルシャを呼んできてくれ!」
 グラジと呼ばれた大男はアルフィルクに応えることなく砂船へ戻っていった。その後をアルフィルクが追っていく。
 風が吹き、砂が舞う。砂鯨の巨体に薄く砂が被さる。もう二度と動くことのない様子に、お前本当に死んじまったんだな、とイトは呟くが、今朝から数えて何度目の呟きかはわからない。何かの拍子にぶるっと身を震わせて体を起こしてもおかしくないくらい、砂鯨の体は昨日までと同じ形をしていた。
 さく、さく、と砂を踏む足音が二人分。イトの背後で立ち止まったが、振り返る気にはならなかった。その意図を察してか、立ち止まった二人もイトに声を掛けることはしなかった。結果、沈黙が流れる。
 さっき、アルフィルクって奴が大男に誰かを呼んでこいと言っていたっけな。誰だったか。まあ、いっか……。
「気を遣ってくれているのかもしれないが、話しかけてもらっても構わない」
「そうですか」
 振り返るとフードとマントを羽織った若い女と、それよりさらに若い齢一桁に見える少女が立っていた。
「ご挨拶に参りました。此度の葬儀を執り行いますルシャと、こちらがマユワです」
 ルシャと名乗った女に続いて、マユワが頭を下げる。
「……こいつが目当てだってんならわざわざ面倒なことなんかやらなくてもいいだろうに。さっさとバラしてしまえばいいんだ。あんたらも暇だな」
「意味なんてないって、思ってる?」
 訊ねたのはマユワと呼ばれた少女だった。夜闇よりも暗い瞳で見据えられる。イトは視線に耐えかねてやがて目を逸らしてしまう。
「さあ、どうだかな。こいつの魂が行き場を失って悪霊になっちまったら可哀相だなって思うけど、正直、葬儀とやらでこいつが救われるかどうかなんてわからねえよ。それでも、やらないよりはやった方がいいんだろうなって思うがな」
「そう。じゃあ最後のお別れの言葉、考えておいて」
 それだけ言い残してマユワはイトに背を向け、一人でさっさと砂船に戻っていってしまった。
「気を悪くしないでくださいね」
「別にいい」
「そうですか――さて、式は日が暮れた後、星が瞬きだした頃に始めます」
「俺は最後のまとめにお別れの言葉ってのを言えばいいのか?」
「いいえ、それには及びません。あなたは見ているだけで結構です」
「何だそりゃ」
「でもその代わり、あの子の言った通り、最後のお別れの言葉は考えておいてください。そしてそれを、ちゃんと胸の中に浮かべておいてください。ただそれだけで結構です」
 真に力強い想いを込めた言葉は口に出さずとも伝わるということだろうか? 馬鹿馬鹿しい。
「あんたらが何をしたいのかさっぱりわからんな」
「あら、これはあなたのための葬儀ですよ。あなたが明日からちゃんと前を向いて歩けるようになるための儀式です。彼女は死んでしまったけど、あなたはまだ生きていて、明日も明後日もこれからずっと生き続けます。今のあなたにとっては残酷な話かもしれませんが」
 偽善者め、とイトは内心毒づいた。
「……ま、やりたいようにやってくれ。俺はきちんと片が付くなら何でもいい」
「そうですか。それなら私からはこれ以上何も言いません――が、あと一点だけ。アルフィルクからの言伝ですが、日が暮れるまでウチの砂船で休んでいても構わないとのことです」
 では、とルシャは頭を下げ、踵を返した。
 再び一人になる。イトは砂鯨の体に額を当てて目を瞑った。体熱を失って冷えた分は太陽の熱が温めて、結果、冷たくも温かくもない。ただし少しだけ固くなったイトの家族。溜息がこぼれ、それから虚無感が胸の穴から溢れる。
 最後のお別れの言葉、だって?
 さようなら、今までありがとう、これからは俺一人で頑張るよ?
 何を思い浮かべても軽薄で馬鹿らしくなる。今のイトに必要なのは、そんな綺麗事ではなく、過去を改編し、毒蠍に砂鯨が刺されない未来を選び直す力だ。過去をやり直して現在を捻じ曲げる奇跡だ。大切な家族が死んだという事実そのものが塗り替えられない限り、この虚しさは消えない。それから目を背けて語る「お別れの言葉」に一体何の意味があるものか。綺麗事で済ませてなるものか。拳に力がこもることにイトは気付かない。

 日中の砂漠は一面黄色の世界であるが、夜になると一転して薄灰色の世界になる。空と砂漠の境界は融けて混ざり合い、青灰色となって四方を円環で包んでいた。空に瞬く星の色は一様ではなく、赤色、青色、白色に黄色と様々であり、そこに濃淡が加わった結果、地表よりも遥かに賑やかである。
「月のない夜は星がよく映えますね」
 声を掛けてきたのはルシャである。マントを脱いだら腰まで届く栗色の髪が垂れて、夜風に揺れた。歩くたびに、シャン、と鳴るのは手首に付けた鈴による。踊子の衣装に身を包んだ姿は、昼間に見た姿とはまったく異なり華やかであるが、過度に華美というわけでもない。裾に縫い付けられた薄く儚い紗とは、舞ったときに手足の軌跡を美しく見せるための装飾である。
「他の連中は?」
「男二人は邪魔者が来ないように離れたところから見張っていて、マユワちゃんは別の場所で役目に就いています」
「役目?」
「冥界の門の門番に死者の魂を引き渡す役です」
「何だそりゃ」
「生あるものは死ぬとその体から魂が抜けて、魂は門番に導かれて冥界の門の先にある冥府へ行くのです」
「それは知ってるけど、そうじゃなくてだな」
「彼女はそういうことができる特別な子なんですよ」
 イトは眉を顰めた。
 死者の魂が冥界の門を通って死後の世界に旅立つということは、この地域では昔から信じられていることだが、もちろん普通は死者の魂も冥界の門も見ることのできないものである。たまに「それらが見える」と言い張る者もいるが、そんな奴らは例外なく詐欺師か狂人のいずれかだ。だから実際には、死者の魂は冥界の門を通って死後の世界へ行く、ということにしておいて、それ以上は言及しないのが普通だ。死後のことは誰にもわからないものであろう。
 ルシャはおこした火の前に座り、イトを呼び寄せる。揺れる火がルシャの頬に影を落とし、鼻梁の高さを証明していた。
 イトは火を挟んでルシャと向かい合うように腰掛ける。
「さて、始める前にお願いしたいことがあります。あなたと砂鯨の昔話を教えていただけませんか?」


 2. 

 ルシャに促されるまま、イトは砂鯨との出会いを語り始める。
 イトはここから遥か東、砂漠に侵食されかかった農村で生まれた。上に五人の兄姉と、下に二人の弟がいた。祖父の代までは農業で生計を立てられていたが、年々進む砂漠化は村をじわじわと蝕み、イトの物心がつく頃には、父や兄姉は畑に向かうよりも、遠くの街に出稼ぎに行くことの方が多くなっていた。そのため、家の仕事は残った母やイトを含めた幼い子供たちが担うことになっていた。そのような事情はどこの家族でも同じことだったので、水汲みや炊事に洗濯、乳飲み子の世話など一通りのことは、この農村で生まれ育った者ならばできて当然のことだった。
 家事に追われて代わり映えのしない毎日をやり過ごすなかでの楽しみは、たまに帰郷する父や兄姉が語る出稼ぎ先での出来事である。もっとも、彼らが語ることの大半は、いかに仕事が大変でつまらなくて、苦労に見合う対価が得られないものであるか――つまり愚痴であるのだが、その語りの合間に異国の風が吹くことがある。そのとき、イトは父や兄姉に「もっと詳しく聞かせて」と食いついては鬱陶しがられていたが、イトの輝く目に根負けして、彼らは渋々語り始める。
 たとえば父が砂鯨宿の建築現場で肉体労働に勤しんでいると、遥か遠くの北国からやってきた高貴な人々の一団とすれ違うことがあった。砂鯨の背の上、白絹のヴェールを三重に重ねた天蓋の輿に乗っていたのは一団の中で最も位の高い人であろう。父はすれ違いざまにその人の横顔を一瞬見ただけであったが、その様子はとても印象に残るものだったという。曰く、その人は白く痩せこけていて病人のようであり、幼くも年老いているようにも見えて不思議だった。しかし真に父の印象に残っていたのは、天蓋の薄闇の中で紅い瞳が光を帯びて輝いていたことだった。すれ違いざまの一瞬のことだったので、もう一度確かめる機会はなかったという。
 あるいは、姉が奉公する大商人の屋敷には、砂漠を超えた遠く西方の国から持ち込まれたものが数多く収蔵されていたという。姉の足りない語彙力では微細を描写するには不足であったが、かえってその曖昧さがイトの想像力を刺激した。たとえば彼女が見たある本は、小指の爪よりも小さいのに百頁以上もある本であったという。とても本としての機能を有しているとは思えないのに、蜘蛛の糸くらい細い金糸の刺繍で装丁されているというのだから、ますます本としての目的がわからない。姉は「お金持ちって本当に暇よね、わけがわからない」と理解を投げ出すが、イトはそうではない。その本には何が書かれているのか、誰が何のために作ったのか、そういうところに気が向いてしまう。
 こういった話を聞くたびに、イトはいつか自分が出稼ぎに出る日のことを夢見た。もちろん出稼ぎであるのだから、家族のために一生懸命働かなければならないのだが、見知らぬ土地で見知らぬ人や物に出会えることに変わりはない。父や兄姉が体験したように、いつか自分もふとした拍子に未知なるものに出会い、世界の広さと可能性を、その目で、その耳で、その手で、鼻で、舌で、全身で感じる日が来るのだ。イトはその日を心待ちにしていたのだった。
 それからいくつかの年月が流れ、イトが十二歳になった年の冬、ついにイトは父に連れられて初めての出稼ぎに出た。父の紹介で瓦焼き職人の手伝いをすることになったのだ。仕事柄、熱風渦巻く窯のそばを行ったり来たりするため、真夏の炎天下に立っていたときよりも汗をかくような仕事だったが、イトは懸命に取り組んだ。いつか父や兄姉が語ったような出来事がイト自身の身に起こると期待して、日々親方の理不尽な叱責にも耐えた。しかし、その時がついに訪れることなく、季節は春になり、迎えにきた父に連れられて、何枚かの銀貨を懐にイトは帰郷した。銀貨は一枚残らず母に取り上げられた。
 次に行った倉庫での荷運びの仕事でも、その次に行った教会の建築の仕事でも、さらにその次に行った街道整備の仕事でも、何も起こらなかった。日々理由もなく叱責されながら小銭を稼ぎ、一銭残らず家に納めるだけの帰郷。腹立たしいことに、帰った次の日には早く出稼ぎに行ってこいと責め立てられるのだ。
 十四歳になると、父からは「仕事はもう自分で探せ」と突き放されるようになった。イトはその場しのぎのような仕事を転々として過ごすようになった。しかしそれでは自分の食い扶持を維持するのに精いっぱいで、故郷には手ぶらで帰らざるを得ない。事情を母に説明するが、母はあからさまに残念がった。その横っ面をぶん殴ってやりたくなる衝動に駆られつつも、しかしイトは寸前のところで堪えた。そんなことがあって、イトの心は家族と故郷から離れていった。出稼ぎと称して向かった交易の要衝となる大きな街では、同じような年ごろと境遇の少年たちと不満を燻ぶらせあう日々を過ごすようになるのだった。

 砂鯨は砂漠を旅するうえで欠かせない生き物だ。移動を楽にしてくれるだけでなく、背に乗れば地面から遠ざかるので、照り返しの熱で体力を奪われることもなくなるからだ。加えて性格も大人しく従順な個体が多いため、旅の相棒としてこれほど優れた生き物は他にない。一般的には、砂鯨はそのような生き物であるとされているが、何事にも例外はつきものだ。
 砂鯨の市場では様々な砂鯨が売買されている。出自は問われない。人工的に交配して養殖した砂鯨も、自然で生きていたところを密猟者が攫った砂鯨も、あるいは誰かが誰かから盗んだ砂鯨も、押し並べて等しく檻に閉じ込めて売買されている。どんな過去を持っていようが、砂鯨は大人しく従順なので、一度躾をしてしまえば、たちまち快適な乗り物に早変わりする。故に砂鯨の買い手はその砂鯨の出自を気にしないし、砂鯨商人も商品が売れるならば出自は気にしない。たまに砂鯨の一頭を指して「これは盗まれた私の砂鯨だから返してほしい」と訴える者もいるが、それは詐欺の常套句なので相手にしてはいけない。
 イトもいつか自分の砂鯨を持ちたいと考えていたが、砂鯨とは決して安い買い物ではなく、十代の少年ならば二年間は必死に貯蓄に勤しんでようやく手が届くかどうかというものだ。
 しかし、その『訳ありの砂鯨』は、市場の隅の、暗く目立たない場所で売られていた。イトが砂鯨商人にその訳を訊ねると、砂鯨商人は投げやり気味にこう吐き捨てた。
「こいつは飼い主を殺したのさ。こう、ぶちっとね」
 両の手のひらを重ね合わせて、ぎゅっと擦り潰す仕草をする。
「砂鯨の事故なんて珍しくないだろう?」
「事故じゃない、殺人だ。こいつはこいつの意思で飼い主を殺したんだ」
「へえ……」
「とんでもないじゃじゃ馬さ。おかげで誰も買おうとしない。このまま売り手がつかないんじゃ、いっそ家畜として解体しちまった方がまだ元が取れるってもんだ。どうだい少年、お前くらいの年の子供なら、多少訳ありくらいの方が手を出しやすいんじゃないか?」
 大人しさと従順さ故に人に飼われてきた砂鯨が飼い主を殺す状況がどのようなものか、イトには想像がつかなかった。よほど性格に難のある砂鯨だったか、よほど飼い主が砂鯨の恨みを買ったか、はたまたその両方か。いずれにせよ、砂鯨――あの巨躯で砂漠と悠然と泳ぐだけのでかぶつに、人間じみた喜怒哀楽の感情が存在すると仮定しなければ成り立たない話だ。
 イトは件の砂鯨に目を向ける。檻の中で死んだように横たわるそれは、ただの岩のようであり、他の檻にいる砂鯨との違いは見出せない。時折尾びれを震わせるが、その動きも緩慢で、世の恨みや辛みとは無縁であるように見える。
「しばらくはここに置いておいてやるよ。少年、そいつに興味が湧いたんだろう」
「いや、別に」
 そう返事しようとした矢先、砂鯨商人は別の客に声を掛けられ、そちらへ向かっていってしまった。
 取り残されたイトは少しだけ迷った後に、檻の奥側に回り込み、訳あり砂鯨の前にしゃがみ込んだ。イトに気付いていないのか、砂鯨は目を閉じたまま動かない。
 じっと耳を傾けていると、砂鯨が呼吸する音が聞こえる。吐息で地面の砂粒がかすかに震える。そのリズムはイトが呼吸するときよりもずっとゆっくりで、深呼吸をして溜息をするようにも見える。
「お前、飼い主を殺したんだってな。よほど嫌な奴だったんだろうな」
 想像の中の『ご主人様』は、ちびで、でぶで、禿げ頭の、中年の男だった。甲高い声で砂鯨を罵り、手にした鞭や棒で砂鯨を叩く様子を想像した。砂鯨からすればそんなものはきっと痛くも痒くもないのだろう。刃物で切ったり刺したりでもしないと、砂鯨が痛がることはないのだろう。それほどに砂鯨は巨大で、人間は小さいものだ。
 改めて砂鯨の巨体を眺めてイトは思う。逆に、何をしたら砂鯨に殺されるなんてことがあるんだ、と。生来、イトは想像もつかないことに対して好奇心を抱く性質であっる。知らないこと、わからないことの先には新しい世界が広がっているものである。
「お前のことに興味が出てきたよ。何があったんだろうな」
 砂鯨は黙して答えず、イトの好奇心など知るはずもない。
 小一時間をそんな風に過ごした後、イトは立ち上がり、砂鯨商人に一声掛けて去っていった。
 それから何度となくイトは訳あり砂鯨のもとに通った。砂鯨は常に檻の隅でほとんど死んだように横たわっていた。他の砂鯨たちは所在なさげに檻の中をうろうろしたり、道行く客に視線を投げかけたりしていたりしたが、訳あり砂鯨だけはその場から一歩も動こうとはしなかった。その様子は何かにじっと耐えているようにも見えた。一体何に? 飼い主を殺した件と関わりがあるかどうかはイトにはわからないが、この砂鯨自身の事情に関することなのだろうと想像する。
 砂鯨の鼻息が砂埃を震わせるのを見ながら、イトは故郷でよく見かけた野良犬のことを思い出していた。その野良犬は家々を回っては残飯をせびっていた。もっともどの家も貧しく、野良犬に食わせるような残飯はなかったのだが、たまに近所の老夫婦が気まぐれで残飯を与えていた。そのせいで野良犬は惨めな鳴き声を出していれば飯にありつけることもあることを学習してしまった。当時はうるさく迷惑にしか感じていなかったが、今にして思えば野良犬にとっては媚び諂うように鳴き声を出し続けることが生きるための唯一の手段だったのだろう。あの痩せ細って虚ろな目をした野良犬は、自分なりに生きるための手段を考え実行していたのだ。野良犬ですらそうなのだから、砂鯨が同じように自分なりの哲学を持っていたとしても、もしかするとそれはおかしなことではないのかもしれない。
 そう考えたとき、イトは自分でも気付かず砂鯨に手を伸ばしていた。表皮は冷たく、柔らかく、そして滑らかだった。そのとき初めて砂鯨は瞼を開いた。闇夜よりも暗いのに透き通った硝子のような瞳だった。
 イトが件の砂鯨を買うと決意するのにそう多くの時間はかからなかった。一度決意してしまえばやるべきことは限られていたので、以後イトが悩んだり考えたりすることはほとんど何もなかった。立ち上がり、その足で砂鯨商人のもとへ向かう。
「あの砂鯨を買いたい」
 と砂鯨商人に宣言すると、「三ヶ月までなら待ってやろう」と言質を得ることができた。路地裏で同年代の少年たちと愚痴を言い合っていた時間はすべて仕事に充てた。朝から晩まで働き、その合間に市場へ通って砂鯨に会いに行った。砂鯨は変わらず岩のようにじっと動かずにいたが、イトの砂を踏む音が聞こえると、尾びれをそっと波打たせるのだった。
 砂鯨を買うための資金が溜まったのはちょうど約束の三ヶ月目だった。銀貨を数え終えた砂鯨商人は「頑張ったな」と口端を持ち上げた。

「……そんなことがあって、あいつと旅立ったのが八年前のことだ。それからも、まあ色々あったが、特に大した出来事も事件もないな。季節や世相に合わせて西や東を行ったり来たりだ」
 これで終わりとばかりにイトは両手を挙げた。
「旅立ってから故郷には戻られたのですか?」
「いや、戻ってない。戻る理由がない」
「彼女が元の主を殺してしまった理由とは何だったのでしょう?」
「さあ、知らないね。ぶっ殺したくなるくらい嫌な奴だったってことなんだろう」
「そうですか……」
「他には何かあるか? なければ、もういいだろう。そんな風に俺たちは出会い、旅をして、あいつは昨晩死んで、そして今に至る。特に面白くも何ともない、平凡な過去だ」
「でもあなたにとっては」
「そう、特別。唯一無二。しかしそれは俺にとっては、の話だ。そして、今日会ったばかりのあんたには分かられたくない話だ。もうはっきり言うけどな、心に土足で立ち入られるのはさ、辛いんだよ」
 それきりイトは口を閉ざしてしまった。その口が開くことはもうないのだろうと、ルシャは見切りをつけた。間をつなぐために、焚火に木炭を足す。黒色の奥で赤が明滅する。細く立ち上る煙は星空に溶けて消えていく。
 ルシャがイトに対して個人的に言いたいことや言えることは山ほどあるが、それを口に出すことは間違いなく今は適切ではない。優しく触れられることにすら心が傷つくならば、そっとしておく他にない。思い出も、痛みも、悲しみも、全てイト自身のものである以上、今しがたイト自身が言った通り、赤の他人が無闇に触れるべきものではないのだ。
 おそらく――ルシャは思案する――おそらく、予想が正しければ、彼は砂鯨が元の主を殺してしまった理由を知っているのだろう。そして、その理由が彼と砂鯨の仲を更に特別なものにしたのだ。だから、彼は急に言い淀み、話を切り上げた。人の心とは、喩えて言うならば、繭のようで、幾重にも層が重なり形成されている。心の外側は人に晒すことができても、深層に近づけば近づくほど、心は秘匿されていく。彼に関して言えば、家族との確執や未知と旅への憧れは他人に話して差支えのないものだが、砂鯨との絆は差支えのあるものだった。だけど――。
 ルシャは首を横に振る。深呼吸をして、自分の役割と、為すべきことの優先順位を確認する。すなわち、第一は深く傷ついたイトの心が立ち直るきっかけを作ることであり、彼と砂鯨の間に何があるのかを知ることは今この瞬間の自分の役割ではない。そして、立ち直れるかどうかは、究極的にはイト自身の問題だ。本人自身に立ち直る気がなければ、ルシャたちがどれだけ手を尽くそうがいつまでも悲嘆に暮れ続けることだろう。
 時の流れが過去へ遡ることはない。それを可能にするいかなる手段もない。死者が蘇る奇跡もない。一度生じた事象が覆ることはなく、ただ事実を事実として受け止め適応していくしかない。それがどんなに辛く苦しく受け入れ難いことだったとしても、万人に等しく明日は訪れてしまう。そしてあらゆるものが過去となっていく。時の流れる速度で現在は過去と隔てられていく。
 しかしそれでも、魔法は存在する。時を戻すことはできないが、幻と夢を見せて心を騙し、幻想のなかで癒すことはできる。その上で、イトが何を信じるか。要は選択の問題だ。
「そろそろ、始めましょうか」
 雲も月もない夜空には無数の星が瞬いている。魔法を使うのにこれほど相応しい夜も珍しいものだ。


 3. 

 昼間には風が吹いて砂が舞い上がることもあったが、夜になってからはすっかり凪いで穏やかものである。しかし砂漠の地とは目に見えなくとも生物や自然が息づくものであり、その痕跡はたとえば砂紋として砂上に残されていた。四方を見渡せばいくつかある足跡以外はすべてが砂紋である。砂紋は星々の光を受けて淡い陰影を地表に作り出すことでその凹凸を示していた。
 ルシャが歩く度に手首の鈴がシャンと鳴る。小さな足跡が砂紋の上に新たに刻まれる。その背中は小さく、広大すぎる砂漠に紛れて消えてしまいそうにも見えるが、白銀の腕輪が僅かな星の光を眩く照り返し、三日月のように鋭く夜闇に傷をつけているおかげで、イトはその背中を見失わずに済んでいる。
 ルシャは十分に開けた場所まで歩み出ると、跪き、合掌した。口早に祈りの言葉を囁く。凪いでいた風が南から北へ、脈打つように柔らかく吹いた。
 ルシャが立ち上がる。空を見上げる。無数の星々を目で追い、今この場に相応しいものを探し出す。小さい星は力不足だが、あまり大きすぎる星は他の光を掻き消してしまう。青い星は静かであるが同時に冷たく、赤い星は温かいが同時に騒がしくもある。調和を保つことは大事であるが、しかしそれだけでは取るに足らないものに留まってしまう。調和を破壊しながら再構築し、より大きな唄に育てていかなければならない。
 息を吸う。凍てつくような空気がルシャの肺を満たし、手足の先まで冷えていく。心を澄み渡らせ、意識を手放す。これより先において、身体はルシャ自身のものではなく、空と大地とそして宇宙の一部である。たとえば天体の運行が自然の法則に従ってなされるように、ルシャの身振りや振舞いもまたより大きな意思に委ねて従わせるのだ。全ては在るがままに、為すがままに。心臓の鼓動のリズムは大気の鳴動と同期し、ルシャは無限の星空を見上げつつ同時に空から己自身を俯瞰する。手足の指先までくまなく霊気が行き渡ったとき、ついに唄が喉から溢れ出る。指先は空を撫で、つま先が弧を描き、鈴の音が脈打つように鳴り響く。
 いくつかの星々から地表に向けて光が降り始めた。最初は一つ、二つ、次第に雨のように降り注ぎ、細く垂れた光の糸々は砂紋と結びつき、円い印を残す。印は元の星々の赤、青、白、黄それぞれの色を反映させ、淡くゆったりと明滅する。そんな印が地表のあらゆる場所に刻まれ、砂漠は星空を映す鏡となった。天地の区別はもはやなく、先ほどまで地平線だった場所も天地の星々が混ざり合って境界を失う。
 それらの光景を、イトは息を呑んで見つめていた。地表に投影された星の光たちは無秩序にちりばめられているように見えたが、そこに意味があると気付くのに多くの時間は要さなかった。すなわち、譜である。ルシャの喉から溢れる音楽の音程や拍が、砂紋に落ちた星の光と同期していた。地表の光の全てが過去から未来に至る全ての音楽を記述していた。
 シャン、シャン、とルシャが舞う度に鈴が鳴る。すらりと伸びた手足が宙を舞い、音楽が風に乗って砂漠中に響き渡っている。その響きはイトの鼓膜を心地よく揺らし、時間の感覚を麻痺させる。天地は反転し、時の流れも一様ではないため、もうずっと長い間、幻想の星海の中を漂っているような錯覚に陥っていることに気付くが、しかしどれくらい前からここにいるのかもわからなくなる。始まりと終わりは解け、永遠に今この瞬間が続くならば、それはつまり時空間の超越にも至るものであり――不意に舞うルシャとイトの目が合い、彼女は目で訴える。
(お別れの言葉)
 はっと我に返ったイトは心に言葉を浮かべる。昼間にマユワとルシャに言われた通り考えたものもあったが、それは直観的に今この瞬間は相応しいものではないと感じた。ありがとうも、さようならも、違う。もっと他に言うべきことが、砂鯨に届けるべき言葉があるはずだ。そしてそれは、本能的にイトは知っている。既に存在する正しい言葉はイトに自覚されるのを待っている。
 天の星々と地の星々の狭間でイトは立ち尽くす。ルシャの音楽が終わる時が葬儀の終わる時であり、その瞬間、砂鯨の魂は冥界の門をくぐることだろう。今ならまだ砂鯨の魂はこの幻想の星海を漂っていて、イトの言葉も届くかもしれない。一縷の望みが今ならまだあるかもしれなくて、しかしその可能性が途絶えるまでもう間もない。地表に落ちた星の印は徐々に輝きを失いつつあるからだ。地平線と重なり合ったとこrにある印は既に光を失った。もはや迷っている暇もない。束の間見た永遠は所詮ただの錯覚だった。
 イトの半端に空いた口が言うべき言葉を探している。言うべき言葉は既にそこにある。後はそれに相応しい音を当ててやるだけだ。天の星々、地の星々、四方を取り巻く地平線、彼方には砂船、舞い唄うルシャ、耳に響くは星の歌声、そして目に留まった砂鯨の死骸。小山のような体は八年前に砂鯨商人の檻で会った時と変わらない。走馬灯のように駆け巡る八年間の思い出。砂鯨は唯一無二の家族だった。いや。家族という形容では不十分なほどに浅からぬ仲であり、イトと砂鯨は二人で一つだった。お互い欠けた魂を補い合っていた。人はそれを愛と呼ぶのだろう。砂鯨がとっくの昔に自覚し、イトが今初めて自覚したものだった。
 動悸は激しく、息は吸うほどに苦しく、見開いた眼は瞬きすることを忘れていた。醒めゆく夢の終わりに掠れた声でイトはついに言葉に出会う。それは「ごめん」の一言だった。
 お前が死んだとき、悲しむよりも先にほっとしてしまってごめん、と。



 4. 

 イトが砂鯨と続けてきた八年間の旅路は目的も目指すところもなく、ただ流されるがまま東から西へ、西から東へと移動するものだった。旅立った当初こそ、見知らぬ土地へ行けば想像を超える出会いがあるかもしれないと期待に胸を膨らませたものだが、そんなものがついに現れることはなかった。砂漠はどこまで行っても砂漠だったし、行く先々で肌の色や言語に違いはあれども、そこにいたのは同じ人間だった。そんな失望を繰り返し、ついに地図上にある町や村の全てを訪れてしまった。砂漠から先に行けばもっと新しいものがあったのかもしれないが、砂鯨とは砂漠に生きる生物であり、砂漠を離れて生きる術はない。砂鯨と共にある限りイトは砂漠の外に出ることができなかったが、砂鯨を捨てるという発想は微塵もイトの頭にはなかった。世界にはイトと砂鯨の二人きりであり、お互い以上に大事にすべきものはない。
 一方、閉ざされた砂漠の中に二人の居場所はない。二人で居続けるためならば多少の悪事に手を染めることも厭わなかったからだ。わずかばかりの路銀を懐に抱えて夜中に街から逃げ出すことも珍しくなかった。遠のく街の灯りを振り返りつつ、「もうあの街には行けないな」と砂鯨に語りかけたものだ。風とは止んだ瞬間に風ではなくただの空気になってしまうものであるように、二人もまた放浪し続けることで、かろうじて二人で共にある状態を維持することができていた。
 こんな暮らしがあと何年続くのだろうか――砂鯨の背に揺られていて、ふと考え始めてしまう。しかしその結論が明るく幸福なものであることはない。それでもすべてがうまくいって、後ろ指をさされることなく、穏やかに暮らす方法はないものか。そう考えて浮かぶのはこれまで散々裏切ってきた恩人たちの顔である。彼らの失望と憎悪に染まった顔が、どちらの方角を向いても視界に入り、罵声が耳に届く前に手で耳を塞ぐ。このような思考の悪循環から逃れることができない。こんな暮らしをこれから五年、十年と続けていくのだろうか。イトも砂鯨もいずれ老いていく。そうでなくとも、こんな日陰者の生き方をしているのだから、いつ野垂れ死にしてもおかしくない。イトは自分が死ぬこと自体に未練はないが、砂鯨を残していくことは心残りだった。残された砂鯨は野生に還り、何者かに捕まってどこかの砂鯨商人のもとで再び商品として売り出されてしまうのだろうか。
 そう考えると、こんな暮らしは長く続けるべきではないという結論に至る。どこかの街に根を下ろし、定職を見つけ、家を持つ。所帯を持つことまで想像するのは流石に妄想が過ぎるとしても、砂鯨と二人で安定して暮らせる場所を見つけるべきだ。もはや旅に対して無邪気な憧れを抱ける年でもない。誠心誠意、地に頭をこすりつけて謝れば聞く耳のひとつでも持ってもらえるだろうか。あるいはまだ行ったことのない場所、それこそさびれた小さな村でもいい、とにかく自分たちのことを知らない人たちの間で、人生をやり直してみるのがいいだろうか。
 しかし、ふらりと訪れた素性の知れない青年と砂鯨に土地と建物を分けてやるお人好しなどそうそういるものではない。それどころか、イトの悪評がどこからともなく噂として流れ着き、昨日まで笑顔でいてくれた人が翌日には目も合わせてくれなくなる。小声で囁かれる言葉の全てがイトを責め立てるもののように錯覚してしまう。もはや家探しや仕事探しどころではなくなってしまう。その結果、これまでそうだったように、夜闇に紛れてこっそり逃げ出さざるを得ない。そして、たまに真心から情けを掛けてくれる人が現れたとしても、砂鯨が嫉妬に駆られて追い払ってしまうのだ。巨体で親切にしてくれた人に迫り、圧殺する寸前でイトが間に入って食い止めたことは、決して一度や二度ではなかった。
 砂鯨のイトに対する態度が変わってきたのはおよそ一年前、旅立ってから七年目のこと。きっかけが何だったのかは思い出せない。積もり積もったものが我慢の限界を超えて少しずつ溢れていった、というのが実態だったのだろう。いずれにせよ、イトが気付いた頃には砂鯨はすっかりイトのことを愛していた。
 四六時中常にイトの傍を離れようとせず、体をイトに擦り付け、甘えたような鳴き声を出す。砂鯨は元々人に懐きやすく、そのような挙動をすることはそう珍しいことではないのだろうが、たとえば旅の途上でたまたま関わりを持った人を追い払おうとする、といったようなことが起こってしまうと、流石に度が過ぎていると判断せざるを得なかった。
「お前、最近どうしたんだよ」
 イトが頭を撫でてやると、砂鯨は満足げに深く息をついた。イトの苦悩などまるで知らず、今この瞬間が永遠に続くものと信じて疑わないようだった。しかしその呑気さに心が苛立ってしまう。つい気が立って言葉が荒くなる時もあったが、砂鯨の悲し気な鳴き声を聞くと、たちまち苛立ちは消え失せ、申し訳なさの方が先立ってしまう。そして途方に暮れる。
 七年間を共に過ごしてきて、砂鯨に砂鯨なりの感情があることを疑う余地は今更ない。問題は、どの程度複雑な感情を有し得るかを想定することだ。人間であれば、喜怒哀楽を基本的な感情の幹として、そこから枝葉が分かれて得も言われぬような感情が果実としてなることもあるだろう。純粋な喜怒哀楽とはそうそうあるものではなく、往々にして、嬉しいけど悲しい、腹立たしいけど楽しいといった、相反する感情が同時に心に去来することも少なくない。人同士ならば自分自身のことから類推して、相手も自分と同じように複雑な感情を有し得ると想定するのは自然なことだが、はたしてその類推を砂鯨にも当てはめてよいものか。おそらく大多数の人がそうであるように、イトもまた、砂鯨に対して人間と同等の複雑な感情が生じ得るとは想定していなかった。どんなに大事な家族だとしても、砂鯨は所詮砂鯨である。人と砂鯨の間には種族の壁があり、その壁を跨いで夫婦になるなどというのは遠い異国の神話の世界だけで十分だ。
 しかしイトはその考えが誤っていると思い知らされた。ある晩のことである。
 その日、砂鯨は特にイトに対して甘え、じゃれついていた。砂鯨の巨躯でじゃれつかれるのは、一歩間違えば死に直結するものだが、少なくともこの七年間はそのような危険に晒されることはなかったのだ。
 しかしその晩は違った。砂鯨はイトの頬に頭を擦り付け、そのままイトを押し倒した。そしてイトの上半身を押さえつけ、くぉん、くぉん、と悲しみの声で鳴いていた。その様子は遥か昔にイトが捨てた、故郷の弟たちを思い起こさせる。弟たちも互いに喧嘩してはイトの胸の中でいかに自分に非がないかを訴えたものだ。
「どうしたんだよ、本当に……」
 イトは仰向けになりながら砂鯨の頭を撫でてやる。そして離れるよう砂鯨の頭を軽く叩いて合図を出したが、砂鯨は鳴き続けるばかりで一向に動こうとはしなかった。それどころか、ますます強く頭を擦り付けてくる。ゆっくりと、しかし確実に肺が圧迫される。肋骨が軋み、内臓が居場所を失いつつあるのを感じる。逃れることはできそうにない。その先にあるものは――死。
 唐突に訪れた生命の危機はイトに一切の思考を許さなかった。あの砂鯨がどうして突然こんなことを、と考える暇などない。本能が死を恐れる。殺されたくない、死にたくない。ただその一念で、イトは砂鯨の頭を力の限り殴りつけた。しかし人と砂鯨とでは体格に歴然たる差があり、巨躯にはびくともしなかった。それでもイトは砂鯨の頭を殴り続ける。殴り続けた。
 体にかかる圧力は唐突に途切れた。朦朧とする意識の中、必死に肺に空気を送り込む。遅れて今になってようやく自覚された痛みが全身を駆け巡る。視野はしばらく明滅していたが、次第に収まり像を結ぶようになってきた。そこに至ってようやく、イトは自分の身に起こったことについて考える余裕が出てきた。
 一体何が起こったのか。イトは砂鯨に押し倒されて、殺されかけた。そう、砂鯨はイトを殺そうとしたのだ。そして、それを途中で思い留まった。
 七年間の軌跡を思えば俄かには信じがたいことだったが、そうとしか表現せざるを得ない。首だけ起こして辺りを伺うと、砂鯨は少し離れたところで蹲り、イトの方を見つめていた。いつもの見慣れた黒い双眸に浮かんでいたのは。憔悴の色だった。今の状況に閉塞感を感じ、もがき苦しんでいたのはイトだけではなかったということだ。
 砂鯨はのそりと起き上がると、再度イトの傍にやってきた。そして今度は優しくイトの頬に頭を擦り付けたが、それは許しを請うようでもあった。
 その一件以来、二度と砂鯨がイトを襲うことはなかった。また、砂鯨がイトに近づく人を追い払うこともなくなった。砂鯨はすっかり砂鯨らしい砂鯨になり、イトと砂鯨の間には見えない境界線が引かれたのだった。
 イトは砂鯨の背に揺られ、どこまでも続く砂色の地平線を見つめながらぼんやりと思い出す。いつだったか、砂鯨商人が「この砂鯨は訳ありだ」と言っていた。すっかり忘れていたが、この砂鯨は過去に一度、自分の主を己の意思で殺しているのだ。今なら何があったのかは大体想像がつく。
「人と砂鯨だもんなあ……そりゃあ、無理だよ」
 イトと砂鯨が共に行く先には破滅しかないが、そこから逸れる道もない。終焉に向かってゆっくりと一人と一匹は旅を続けていた。

 砂紋に刻まれた最後の印が消えると、辺りは元の夜闇に包まれた。イトは肩を上下させながら大きく呼吸をしていた。心臓の脈打つ音は未だ収まらない。
 砂鯨が毒で弱っていく数時間のあいだ、イトは砂鯨の傍にいたが、傍にいただけで何もしなかった。もちろん言い訳ならばいくらでも出てくる。たとえば、助けを呼びに街まで徒歩で行ったとしても、戻ってくるまでに半日はかかるだろうから、毒蠍に刺された時点で既に手遅れだった、など。持ち合わせに解毒薬などあるはずもなかったし、どう足掻いても手遅れであることに疑いはなかった。しかし、「これはもう手遅れだ」と見切りをつけるのが、あまりに早すぎた。冷静で現実的な判断といえば聞こえはいいのかもしれない。しかしそれでも、苦しみ悶える砂鯨のために、もっと何かしてやれることはないかと考えるべきだったのではないだろうか。
 混乱していた、戸惑っていた、憔悴していた、それらはいずれも偽りではない。しかし、それらに紛れて、ほんの僅かなの安堵があったこともまた真実だった。もしこのまま砂鯨が死んでしまえばどうなる? イトの行き詰まった状況が変わるきっかけになる、イトは砂漠の外へ出て行ける、そうして旅をやり直すことができる! そんな可能性に一瞬でも心が揺らいでしまった。その事実は、イトが砂鯨と過ごしてきた八年間に対する冒涜であり、そんな気持ちが自分の中に一瞬でも芽生えたことなどあってはならないことである。故に、イトは、即座に思考を停止させ、浮かんだ可能性を忘却し、思い出すことさえも放棄した。目の前の砂鯨を助けたり、苦痛を和らげたりするための方策もろとも、考えることを放棄したのだ。そして、イトが呆然としている間に、砂鯨は苦しみ抜いた末に事切れた。このようにしてイトは砂鯨を見殺しにしたのだ。
「最低だ」
 そう呟く自分自身をイトは軽蔑した。イトと砂鯨は魂の片割れのように互いで互いを補い合ってきたはずだし、そのことに安らぎを感じてさえいたはずなのに、今やその自負やすっかり空虚なものになってしまっていた。
 唄と舞を終えたルシャはイトの前を素通りし、再び火をおこしていた。ちりん、ちりんと鳴る鈴の音がいやに響いて聞こえてくるのは、お互い何も喋らないからである。
 ルシャは茶を淹れていた。外套を羽織り、コップを両手で包んで暖を取る。背後でイトが呆然と立ち尽くしているのは知っているが、声は掛けない。イトが自身の心の奥底に見つけた真実が何であれ、それと対峙するのは本人がすることであり、部外者であるルシャたちが立ち入るべき領域ではないからだ。
 見上げれば空には先ほどと変わらず星々が瞬いている。静かな夜が戻ってきている。
 天は地上にひしめく生き物の個別の心を斟酌などしない。世界は森羅万象を統べる法則と秩序に従い、流転していく。死んだ者は肉体と魂に分かれ、肉体は地に還り他の生物の命の糧となる。魂は冥界の門を通っていく。人も、砂鯨も、あらゆる生物においてもその道理に例外はなく、抗う術はない。道理の絶対性を嘆き、憎み、怒りを振り向けても、天が地上にひしめく生き物の個別の心を斟酌などしない以上、心なるものを得てしまった者は、溶岩のように煮え滾る苦汁を嚥下し、堪え忍び、受け止めていく他にない。それができなければ心を手放すしかない。
 ルシャは茶を飲み干すと、二煎目を淹れた。そろそろ日付を跨ぐ頃だろうか。夜明けはまだ遠い。


 5. 

 夜明けは唐突には訪れない。無限の星々の背後にあるのは暗黒の宇宙だ。それが東の方から次第に紫紺、藍色を得ていく。星の光は夜闇が薄らいでいくとともに目醒めつつある空の色と同化していく。それと時を同じくして空全体が赤く焼けていき、太陽が地平線から顔を覗かせる。
 射し込んだ光がイトの瞳を貫いた。砂鯨の巨躯を照らし出し、曲線の輪郭を浮かび上がらせた。
「夜が明けたな。気持ちの整理はついたか?」
 焚火の火を踏み消しアルフィルクが立ち上がる。傍らにはグラジとマユワ、ルシャ。
「これで整理がついたように見えるか?」
「見えないな。しかし、関係ない」
 イトは目を逸らし、薄れゆく夜闇に目を向けた。アルフィルクはそれを黙認と受け取る。
「グラジ、始めるぞ」
「わかった」
「死んでからもう丸一日以上経っている。使えない部位は捨てろ。砂漠の野ネズミどもにくれてやれ。俺たちの取り分は使えるところだけでいい。細かい判断と指示はお前が出せ。ただし二秒以上迷ったら俺に聞け。判断してやる」
 グラジは長柄の鯨包丁を手に歩みだし、その後ろにアルフィルクが続く。二人はイトの傍らを通り過ぎた。
 砂鯨の解体はまず尾鰭から頭に向けて一直線に刃を入れることから始まる。厚い皮は砂漠を生きる砂鯨が日光の熱から身を守るために発達したものだ。断面は真っ白であり、日光を照り返すと実に眩く、思わず目を細めるほどである。手頃な大きさに皮を区切ったら、今度はアルフィルクとグラジが二人がかりで皮と皮下の肉を切り分ける。一人が皮を引っ張り、もう一人が刃を差し入れて皮を剥ぐのだ。そうして剥き出しになった砂鯨の肉は死後一日以上経過したにも関わらず瑞々しく波打っていた。
 しかし日の下に晒された以上、肉は刻一刻と干乾びていく。夜が明けて間もない今は夜の冷気が腐敗を遅らせてくれているが、気温が上がればそうはいかなくなる。ただちに血抜きをして、乾燥させるのに最適な状態にしなければならない。同時に各種臓物も摘出し、部位毎に整理し後々活用できるものはそれぞれに合った保存方法を適用してやらなければいけない。また、食用の部位は街に戻った後、市場で売るのだが、毒蠍の毒に冒された箇所は商品にはならないので、その見極めも正確にやらなければいけない。作業の優先順位、廃棄するか否かの判断は砂鯨の状態を見ながらグラジが即座に判断し、アルフィルクに指示を出す。そして先ほどアルフィルクが言った通り、グラジが判断に迷う場合には逆にアルフィルクに指示を請うのだ。たとえばこのように。
「団長、人間が食うには危険だが、家犬に食わせる分には売り物になりそうな肉だ。どうしたらいいだろうか」
「あの街で犬を飼う金持ちなんか指で数えるくらいしかいない。捨てろ」
 このようにして二人は作業の効率性を極限まで高め、一瞬たりとも無駄な時間は生まないようにしていた。
 みるみるうちに砂鯨が小さく切り分けられていくのをイトは眺めていた。心の内が凪のように静まり返っているのは、あまりの手際の良さに感心しているからだった。所詮、砂鯨の体とは骨と肉と血と皮の複合体なのだということを嫌というほど思い知らせてくれる。共に過ごした八年間を思い出して感傷に浸る余地がない。人の手で解体されるか自然の生物により食い散らかされるかという差はあれども、死んだ生物とはこのように分解されて自然に還っていくものなのだ。
 解体作業は一時間程度で終了した。夜の冷気はすっかり消え失せ、じりじりと地表から熱がせり上がってきている。アルフィルクとグラジは小分けにした肉や皮を砂船に運び込み、ルシャとマユワが布で臓物の血抜きをしたり骨を磨いたりするほかに、それ以外の細かい作業を行っている。グラジとアルフィルクの判断で不要とされた残骸は小山となって砂鯨が死んだ場所に積まれていた。毒に冒されたであろう肉や皮、使い道のない骨など。これらはこのまま捨て置かれて、砂を浴びて、やがて地に埋もれていくのだろう。あるいはその前に砂漠の生物たちが齧っていくのかもしれない。
「はい、これ」
 唐突に声を掛けられ振り返ると、マユワが拳大の白骨をイトに突き付けていた。昨日、イトがアルフィルクたちを試すために、喉響骨をよこせと言ったことを今になって思い出す。
 手を差し出し、イトはそれを受け取った。大きさに反して驚くほど軽く、滑らかな手触りだった。マユワが丁寧に磨いてくれたのだろうが、喉響骨には肉片が一切残っていなかった。角度を変えながら、砂鯨の喉にあった骨を眺めまわす。これをこのまま懐に忍ばせて持ち運ぶには少し大きすぎるように思う。何かしらの工夫が必要だが、案は今すぐには出てこない。まあ、後で考えるか……。イトが顔を上げるとマユワは既に立ち去った後だった。
「さて、朝飯にするか! 落ち着いたら飯の準備をするぞ!」
 ルシャがイトを一瞥する。しかし、それにイトが気付いて目が合う直前にルシャは顔を背けた。その様子を遠巻きに見ていたアルフィルクが溜息をつく。グラジとマユワは黙々と自分の作業をこなしていた。

 朝食は砂船の影で食べることになった。火をおこし、今切り分けたばかりの砂鯨の肉を焙る。各自が鉄串とナイフで肉塊を切り分け、塩と胡椒を振りかける。イトを除く四人が食べている。
「どうした、食べないのか?」
 肉を咀嚼しながらアルフィルクがイトに声を掛ける。
「嫌がらせか?」
「そんなんじゃないさ。お前、もう丸一日以上何も食べてないだろう。だから俺たちの獲物を分けてやろうって言っているんだ。とれたての砂鯨の肉なんか滅多に食えるもんじゃないぞ。ほら、食えよ」
「八年間を一緒にした家族をか?」
「そうだ」
 一口大に切られた砂鯨の肉を鉄串に刺してイトに突き出す。それは砂鯨の胸肉だったかもしれないし、鰭肉だったかもしれないものだ。それをこいつらは食っている――イトは全身の毛が逆立つのを感じつつ、顔を横に背け、吐き捨てる。
「……いらない」
「そうかい。じゃあ好きにしろ」
 イトに突き出した肉をアルフィルクは一口で頬張った。三度、四度と咀嚼し、嚥下する。砂鯨の肉はアルフィルクの食道を通って胃に到達し、小腸に至る過程で分解され、アルフィルクの体に吸収されていく。同じことが、グラジの、ルシャの、マユワの、それぞれの体内で行われている。鳥や牛を食べるのと全く同様の、自然の営みだ。良心に著しく欠けるという一点を除けば、何もおかしいことではない。
「ねえ、普通の食べ物だってあるじゃない」
「口出しするな」
 堪らず申し出たルシャをアルフィルクが即座に窘める。イトとアルフィルクは睨み合う。しばらくお互い押し黙った末に、イトは努めて冷静に言葉を選ぶ。
「確かに、喉響骨以外は好きにしていいとは言ったさ。でも、よりにもよって俺の目の前で俺の家族を食って、挙句俺にも食え、だと? 頭おかしいだろ、あんた」
「なんだ、気遣ってほしかったのか?」
「疲れるから無意味に煽らないでくれ」
 悪かった、とアルフィルクは両手を挙げる。しかしイトを睨みつける目付きは変わらない。
「砂鯨は死んだ。体はこの通りもうバラバラだ。時間は無慈悲に流れて今日は来たし、今この瞬間も太陽はしっかり動いている。やがて日が暮れて夜になるだろう。そしてまた朝が来る。俺たちも、お前も、生きている限り腹は減るし、行動しないと生きていけない。死にたくなければ動くしかない。お前の感傷に付き合うほど俺たちも暇じゃないんだよ」
 砂鯨の死を悼む時間なら十分くれてやっただろう、とまでは言わない。代わりに長い沈黙が流れる。イトが先に手を出しても、ただちにアルフィルクに組み伏せられるだろう。そもそもアルフィルクを殴り飛ばしても何も得られるものがない。真に殴りたいのは自分自身なのだから。
「人は――」
 ぽつりと呟くように、マユワが沈黙を破った。その目は揺れる焚火を見ている。そして焚火の彼方に何かを見出しているようだった。
「人は、誰もが自分の物語のなかにある。どんな生き物も、うまれて、生きて、死んでいくけど、そこに意味や理由を求めてさまようのは人間だけ。生きているなかで色々なことを見て、聞いて、考えて、気付いて。そうして見出した意味や理由が積み重なって、その人の物語を作っていく。でもね、物語に支配されているうちは人は自由になれない。物語を自分で語らなければ、あなたは自由になれない」
 そして一呼吸を置いた後に、マユワはイトに向き直り、一言訊ねた。
「あなたはどうするの?」
 四人がそれぞれじっとイトを見つめている。イトの覚悟を問う厳しい目、イトの心中を慮って立ち直ることを願う目、イトを世界の一部として成り行きを観察する目、そして未来の選択という決断をただ見届けようという目。それらの目に見守られながらイトは考える――過去に囚われるか、未来を見るか。
 瞼を閉じれば砂鯨の面影が浮かぶ。イトにとって砂鯨とは一体何だったのか。最初は、砂漠を旅するための手段だった。砂鯨商人で砂鯨が前の主を殺したと聞いてからは、砂鯨そのものに興味が湧いた。それから数年間、共に旅をする過程で、二人で世界から孤立していった。互いに互いがいないと生きていけない関係になった。しかし、いざ砂鯨から求められるとイトはそれを拒絶してしまい、挙句砂鯨を持て余すようになった。砂鯨が死ぬと、悲しいと感じる片側で安堵もした。そして今、砂鯨の死骸が目の前でいいように切り刻まれ、焼かれて食われているのを看過している。改めて自問する。砂鯨とはイトにとって一体何だったのか。ただの家畜か、はたまた大事な家族か。しかし自問して即座に自覚する。この種の分類に意味はないのだと。事の本質はイトにとって砂鯨が何者かということではなく、砂鯨を過去に追いやってこれからの未来をのうのうと生きていく自分を、自分自身が許し、受入れ、認められるかどうかだ。
「罪は消えない。過去はなくならない。時間は遡らない。顔を背ければ、目を瞑れば、少しは紛らわせられるかもしれないけど、でもそんなのはただのまやかし。どんなに時間が経っても、一度起こったことはなかったことにはならない。過去に、罪に、後悔に圧し潰されて、それでも卑しく、惨めったらしく、しぶとく、死に損ないながら人は生きていくんだよ」
 喋り過ぎた、と消え入るように呟くと、いよいよマユワは黙り込み、砂鯨の肉を食べ始めた。小さな歯でしっかりと肉を食い千切っている。
 イトは懐に仕舞った喉響骨の存在を強く意識する。砂鯨に対する義理や悔恨はもはや飲み下すしかない。そのうえで、これから自分はどうするのだろう。どうしたいのだろう。そこにはきっと色々な道がある。たとえば砂鯨に懺悔し、贖罪しながら生きる道がある。あるいは、砂鯨のことは二度と振り返らず、自由気ままに生きる道もある。道は無数にあるが、しかしイトが選べる道は一つだけだ。そして、不思議とそこに迷いはない。これから自分がどう生きるか。すなわち――。
 イトは火で焙られる鯨肉の前に立つと、鉄串とナイフで肉を切り分けた。肉が柔らかいのか、ナイフの切れ味が良いのか、撫でるだけで肉は切れた。その感触は現実感を喪失させる。
 手の震えは止まらないが、恐る恐る肉を口に運ぶ。口に含んだ瞬間、甘い香りが構内に広がる。肉の柔らかさを舌で味わい、しっかり咀嚼し、飲み込む。砂鯨の肉が喉を通り、胃に滑り落ちていく。砂鯨を血肉に変えて二人は同化するのだ。そしてようやく、イトは声を殺して泣いた。
「食べ終わったらここを発つぞ。正午前までに戻らないと、市場が閉まっちまう」
 アルフィルクはぶっきらぼうに言い放った。アルフィルクは砂鯨の死やイトの葛藤を特別扱いしない。
 いち早く食事を終えたグラジは立ち上がる。そのまま作業の続きに戻っていこうとしたが、ふと思い立ってイトに向き直り、声を掛ける。
「街には楽器職人がいるが、紹介は必要か?」
 意図を測りかねる、といった様子でイトは赤らんだ目をグラジに向ける。見かねたアルフィルクが仕方なしに補足を入れる。
「喉響骨はそのままだと脆くて壊れやすいから、加工して笛にするんだよ。金具で補強したり専用の容器が付いたりするから、これからの旅で携帯するのに都合がよくなるんだ。まあ、笛として吹くにはそれなりに練習する必要があるらしいがな」
 イトは懐から喉響骨を取り出す。これを形見と呼ぶのは寂しいことだ。いつか自分に嘘をつくことなく、相棒と呼べるようになれたらいいと思う。
「……頼む」
「わかった。市場に卸すのが終わったら紹介しよう」
 必要なことを言い終えると、グラジは今度こそ自分の作業に戻っていった。その間にルシャとマユワも十分食べて満足したようだ。だいぶ大きかった砂鯨の肉の塊も、すっかり小さくなっていた。
「残りはお前が始末しておけ。寝るなら砂船の中で適当に横になっていても構わない」
 アルフィルクも立ち上がると自分の作業に戻っていった。
 その後、イトは長い時間をかけて砂鯨の肉をすべて胃袋に納めていった。一片残さず、血の一滴すらもすべて己のものにした。完食し終わった後、イトは胃の辺りに手を当て、目を瞑っていた。


 6. 

「もういいな? よしグラジ、発つぞ」
 アルフィルクの声を合図にグラジが砂船の帆を張る。砂漠の風を受けて砂船はゆっくりと走り出す。やがて風に乗り、砂面を滑るように走り出した。
「これからどうするの?」
 切り捨てられた砂鯨の残骸が小さくなっていくのを名残惜し気に見送っていたイトに、マユワが問いかける。
「あの街から一番近い砂漠の端は西だからな。西の方に行って、砂漠の外に出てみるよ」
「そう」
 マユワのその一言がイトには優しく響いて聞こえた。だから、胸の底に残る疑念を晴らさずにはいられない。
「……なあ、お嬢ちゃんは昨晩、冥界の門であいつの魂を送り届ける役目ってのをしていたんだろ? その……どうだった?」
 マユワは黙して中々答えない。豆粒よりも小さくなった砂鯨の残骸を見ながら、答えを選んでいるように見える。
「ちゃんと門をくぐっていったよ。未練なく、後悔なく、堂々と。綺麗な砂鯨だなって思った」
「そうか」
「うん」
 イトは冥界の門の姿形や色を想像しようとしてみて、うまくいかないことに気付いた。そのようなことはしっかりと考えたことがないからだ。イトにとってはその程度のものでしかなかった冥界の門の先へ、砂鯨は旅立ったのだという。
「……正直言うとさ、俺、まだお嬢ちゃんたちのこと、そんなに信用してないんだ。悪い人たちじゃないってのは流石にわかった。でも、都合のいい幻を見せられて誤魔化されているんじゃないかっていう疑念は拭えない。本当は、あいつは俺のことを恨んでいたんじゃないかって、そんな可能性がずっと頭にある。だから、もし本当にあいつが未練も後悔もなく旅立っていったっていうなら、証拠が欲しいよ」
 口に出した瞬間からイトは知っている。そんな都合の良い証拠などあるはずがない。それを出せと迫るのは、自分の弱さの表れ以外の何物でもない。だからマユワが呆れたように向き直るのも仕方のないことだ。
「もし仮に彼女があなたを恨んでいたとして、それであなたのやることって変わるの? あなたの言う『証拠』があったとしたら、あなたは信じるの?」
「悪い、つまらないことを訊いた」
「もっとちゃんとしてね。あなたはもう一人きりなんだから」
 それきり二人は黙って吹く風に身を委ねた。

 すっかり砂鯨の痕跡が見えなくなった頃、唐突にマユワが訊ねた。
「ねえ、彼女の名前って何だったの?」
 真剣な眼差しだった。その黒い双眸は、どことなく砂鯨に似ているような気がした。
 八年前、砂鯨商人から砂鯨を買い取って旅を始めて、長い夜を越えて空から星々の光が薄れて消えていく中、朝日に負けず輝く星があった。そのたった一つの光にイトの旅立ちが祝福された気がして、イトは砂鯨に名を与えて呼ぶことにした。
「ヴィネ――夜明けの星の名前から取った」
「そう。ありがとう」
 なぜ礼を言われるのかは解せないが、マユワは満足しているように見えた。

概要

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2015年1月8日木曜日

アンブロシアの仮面

 0.夢の始まり


学校から帰宅すると、いつもだいたい夕方五時前だ。それから夕飯までおよそ二時間。軽い睡眠を取るには十分な時間だ。宿題は夜に寝る前にやればいい。
部屋に入るなり鞄を放り出し、柔らかいベッドに倒れこむ。階下から母親の、「皺になるから制服は脱ぎなさい」という声にくぐもった声で答え、もう僅かしか残っていない理性をたたき起こして上着とスカートだけは脱いでおく。ハンガーに掛けている余裕はもはやない。顔を壁側に向け、膝を畳み、背中を丸め、意識を聴覚から遠ざけ、次第に近づく眠りの気配にじっと気を向ける。
ああ、もうすぐ来る。
眠る自分を眺める自分がいる。眠る自分はうつらうつらと授業で習った余弦定理のことを思い出しながら、脳内に描いた円がいつの間にか2つ、3つに増えて、不可思議な幾何学無用を描いていることに気付いていない。それに気付いているのは、眠る自分を眺める自分だけだ。思考が眠る自分の支配を脱して自由に駆け回るようになったとき、思考の軌跡は未知の世界の骨格を築き、そこに次第に肉がついて色が付く。こうして夢の世界は出来上がる。
今日は一体どんな夢になるのだろう――夢の世界を満喫することこそが、私の唯一の楽しみと言っても過言ではない。もちろん幸せな夢ばかりでもないし、悪夢を見た日には寝汗をたっぷりかいていることも珍しくない。しかし夢の世界というものは、夢であるくせに、どんな現実よりも生々しい。その生々しさが恋しくてまた夢の世界に回帰していく。おかげで夢ばかり見ている。夢の中で生きた時間の方が、現実を生きた時間よりも長いくらいだ……――。



1.暗い森の中で


そこは暗い森の中だった。枝葉が空を厚く覆っているせいで、今が昼か夜なのかさえわからない。私はただぼうっと立っていた。立っていたことにふと気付いたというほうがおそらく正確だ。魂を得た私の体は一方向に向けられる。
城。そう、城だ。私は城に行こうとしていたのだ。何のために? 仮面舞踏会に参加するために。
足元がふわふわと柔らかいのは降り積もった濡れ葉のせいなのか、まだ意識がおぼつかないせいなのか。いやに生温い森の吐息が首筋を撫でる。
遠くにぼんやりとした灯りが漂っている。白いような、黄色いような、あるいは橙色にも見えるようなそれは、明確に私を導こうとしていた。あれは決して悪いものではないと、私は直感的に思う。
私が歩き出したのを確認したのだろう。灯りは中空でくるりと円を描いた後、淡い軌跡を残しながら私を先導した。
風一つ吹かない森の中は、おそろしく静かだった。音という音が全て森の柔らかさに吸収されている錯覚さえ覚える。生々しい感覚の夢だった。
歩き、歩き続け、このままで大丈夫なのだろうか、と不安に思い始めた頃、彼方に森の出口が見えてきた。
灯りは自分が役目を終えたとでも言わんばかりに、出口に近づくにつれて次第にうっすらと薄らいでいき、やがて消えた。
振り返ればほとんど虚無であるような暗闇がある。さっきまであそこにいたのかと思ったら、急におそろしい気がしてきた。
「こんばんは」
息が詰まる程驚いた。向き直ると、カンテラでこちらを照らすメイドが立っているのが見えた。フードを被り、厚手のコートに袖を通している。ボタンを留めず開かれたコートから見えるエプロンドレスのおかげで、かろうじて彼女がメイドであることがわかったのだ。
「あなたをお迎えに参りました」メイドは色のない声で言った。「さあ、参りましょう、オデット様」
――それが自分の名前であることに気付くのに少し時間を要した。しかし一度気付いてしまえばそれ以上の違和感はなかった。私ことオデットは頷く。私は城へ行くのだ。
「もう他のお客様は来ているの?」
「私がお城を発ったときにはまだ殆どいらっしゃいませんでしたが、もういくらか時間が経ちましたので」
「そう、ありがとう」
メイドが一瞬立ち止まる。何か返す言葉を探していたようだが、結局そのまま歩き出してしまった。そしてそれっきり彼女は喋らなくなってしまったので、私もこれ以上喋るのは控えるようにした。
森の外はすっかり暗くなっていた。しかし日が暮れてからまだ間もなかったらしく、空の一端にはまだほんのりと赤みが残っていた。その反対側では丸い月がまだ低空を漂っているのだった。
砂地だった道は背丈より少し高い生垣の角を曲がった所で石畳に変わった。馬車一台分の道を挟むように作られた生垣はよく手入れされており、ここがもう城の敷地内であることに気付かされる。ならば肝心の城はどこにあるのだろう――辺りを見回し、じっと目を凝らしてみてようやく、夜闇にシルエットが溶けていることに気付いた。そして、思いの外すぐ近くまで来ていることも知った。
いつの間にか足が止まっていたらしい。先を歩いていたメイドが少し離れたところで振り返りこちらの様子を伺っている。
「ごめんなさい」
私が詫びると、代わりにメイドは懐から仮面を取り出し被ってしまった。どのような仮面なのかはわからないが、メイドが仮面をつけるとそれまでわずかに聞こえていた息遣いまでもが遠のいてしまった気がした。
「ねえ、私は自分の仮面を持っていないんだけど、どうしたら」
「ご心配は不要です。あとでちゃんとご用意しますので。――それよりも、急ぐことにしましょう」
メイドは踵を返し、心なしか早足で歩き始めた。


裏手の通用口から城の中に入ると、肉を焼く芳ばしい香りが嗅覚を刺激した。
等間隔で灯りが並ぶ石壁の廊下は途中で曲がっており、その先は見えない。
ここまで案内してくれたメイドの姿は、ここにきてようやくちゃんと見ることができた。結い上げられた栗色の髪からはほんのり赤みがかった耳がのぞいていた。小ぶりな耳だった。顔の上半分を白灰色の無機質で平坦な仮面が覆っていたが、下から見上げていると仮面と顔の間には僅かばかりの隙間が空いておりそばかすのある顔であることがわかったが、すぐに彼女はこちらを見下ろしてしまったために、のっぺりとした面と向き直ることになってしまった。
薄いが形の良い唇が踊る。
「城の中では可能な限り素顔を見られないようにしてください。今宵は仮面舞踏会の宴の日、素相が見えてしまうのは興が削がれる、というのが我が主の意ですので」
「わかった」
そう答えたものの、しかし今の私には顔を隠す術がない。外着一枚、手ぶら。そこまで思ってから、そもそも自分には仮面舞踏会に参加する上でのドレスも靴もアクセサリーも何もないことにようやく気付いた。先ほど彼女が「心配不要」と言ったのは、そういったところも含めてのことだったのだろうか。
「間に合わせで恐縮ですが、ひとまずこちらをご利用ください」
彼女は着ていたコートを脱ぎ、私に着せた。フードは目深に被る。なるほどこうすればいくらか顔は隠れるのだろう。――彼女の匂いもした。
「不愉快でしょうがご容赦くださいませ」
私の返事を聞く前に彼女は歩き始めてしまった。慌てて後を追う。しかしいつ人と出くわすかわからないから、私は俯き、彼女の足元だけを見ながら歩いた。
厨房前を通り過ぎると、次第にオーケストラの演奏が聞こえるようになってきた。私の知らないワルツの曲のようだった。
もう舞踏会は始まっているのだろうか?
ホールにつながる扉が開くと、一気に音の津波と人々の気配が押し寄せた。入れ替わりで空き皿を持ったウェイターが入ってきたので、壁に身を寄せてやり過ごす。
(絶対はぐれる……!)
反射的にそう思うと同時に、私の手はメイドの裾を掴んでいた。彼女は振り返り、仮面越しに私を見下ろしていた。しかし私の不安を察してくれたのだろう、私の手を遠慮がちに握ってくれたのだった。自分がこんな大それたことをしていいのかと戸惑っている気配さえ見えた。しかし彼女の行為が失礼であるわけがない。力を込めて握り直すと、間もなく彼女は歩き始めた。
壁沿いに目立たないように歩いていた。人々は談笑に夢中になり、ウェイターたちも自分の仕事に忙しく、誰も私たちが歩いていることに気付いていないようだった。
花崗岩で作られた石床は相当丁寧に磨かれているらしく、シャンデリアの絢爛な光をそのまま反射させているように見えた。ホールの隅のオーケストラ一団は次の曲を演奏し始めている。
ホールを出て、階段を登るとようやく人の気配も弱まった。そしてそのまま私は階上の一室に連れていかれた。
「お好きなものをお選びください」
壁の三面全てに仮面が掛けられていた。色も形も様々で、飾り眼鏡のようなものもあれば、ほとんどフェイスマスクみたいなものもある。
「どれがいいかしら」
彼女を見上げて尋ねてみる。彼女は一瞬思案した後、首を横に振りながらこういった。
「仮面はオデット様の心そのもの。私が仮面選びに携わるべきではないのです」
「そんなこと言われたって私にはわからないもの」
「仮面が決まったら、それに合わせてお召し物を決めましょう」
彼女は私の手を離し、その手で私の背中を押した。振り返ったときにはもう扉は閉められている。仮面を選ぶしかないということだ。
「どうしようかな」
ほんとにどうしよう。
仮面舞踏会に参加する、という目的意識ばかりが先立つあまり、なぜ仮面舞踏会に参加するのか、仮面舞踏会に参加してどうしたいのか、といった前後の動機が空っぽであることに否応無しに気付かされる。改めてここは夢の中だったことを思い出す。
(なんかパッとしない夢だなあ)
急に冷めた心地がしてしまう。
経験則的に、夢が夢であると気付いたときには、現実世界の自分の目覚めが近い時である。だから間も無く夢から覚めるのだろうと思った。
しかし、部屋の中はしんと静まり返ったまま、私が夢から覚める気配はない。
たくさんの仮面がじっと私を見下ろしている。
どうやらこの夢はまだ私を逃がしたくないらしい。
「……変なの」
釈然としないまま仮面選びに取り掛かることにした。
しかしいざ仮面を選ぼうとすると、思っていた以上に迷ってしまった。仮面とはなんとなく自分の素顔を隠すだけのものかと思っていたが、そうではなく、新しい自分の顔を選ぶことと同じことだと気付いてしまったからだ。
仮面を通じて私は私のなりたい顔になれる、というのは少々誇張しすぎたところがあるかもしれないが、本質的な意味では相違はない。もし自分以外の何かになれるとしたら、何になりたいのだろう。自分以外の何かになりたいと思ったことはあっても、特定の何かになりたいと思ったことは実はあまりない。
じっとしていても埒が明かないので、適当に仮面を一枚取り被ってみる。鏡があればよかったのだが、生憎そういったものはここにはないため、仮面を被った自分を想像してみて判断するしかない。
想像してみる。何か違う気がする。
そうしてとっかえひっかえしているうちに、頭の中には仮面舞踏会でダンスしている自分の姿がだんだんと生まれていった。あの絢爛なダンスホールの中でダンスをする自分、というのは気恥ずかしい気もするがそこまで嫌な心地がするものでもない。しかしだんだん関心はダンスしている自分そのものよりも、一緒にダンスをする相手に寄せられていっていた。その相手は自分より背が高く、細身で指が長い。まるでさっきのメイドのような。
(……バカだ)
自分の思考の暴走に呆れながら手に取ったのは、額から顎先までが隠れる薄ピンク色の優しい表情をした仮面だった。被ってみると不思議な安心感がある。やはり自分の顔が隠れるというのは、どんなに変な顔になっても相手にばれないという点で良いものだと思うからだ。
(しかしそれはつまり、つい変な顔になってしまう可能性があって、さらにそれが相手にばれると嫌だと思っているということであってだね)
……なぜこうも理屈っぽくなってしまうのか。
いずれにせよ仮面は決まった。これでいいと思った。色々理由を挙げることはできるが、つまるところは勘である。
部屋の扉を開けると、彼女が振り返り、こちらを見下ろし微笑んだ。何か言ってくれるのかと思いきや、彼女はそのまま歩き出し、それから足を止めて私が来るのを待っていた。追いかけてみると、彼女は歩き始める。これがおそらく彼女にとって一番心地の良い距離感なのだろう。そう気付いたら、なるほどそれも悪くないかな、という気がした。

仮面に合わせて着るものは決める、とメイドが言った通り、彼女は私のドレスを要領よく決めていった。派手すぎず、地味すぎず、しかし決して無難というわけでもないそれは、私の目にもとても良いもののように見えた。
彼女は私を浴室へ追いやり、その間に装飾品や靴などを揃え、私の体が乾く頃にはすっかり準備が整っていた。
さすがにここから先は彼女一人の手には余ったのだろう。浴室から出ると彼女のほかにもう二人メイドがおり、彼女の指示の下で私は実に効率よく装飾されていったのだった。文句や感想を言う間もなく私の身支度は完了する。
「とてもよく似合っております」
「あなたのセンスが良いのよ、きっと」
「さあ、参りましょう」
いよいよ仮面舞踏会に赴くのだ。
わくわくするか、と問われれば、そうでもない、というのが正直なところではあった。私が仮面舞踏会に参加することはある意味で運命として定められたものであり、それについて良いという感覚も悪いという感覚もない。仮面舞踏会に参加することそれ自体が目的であり、私の到達点だった。妙な話であるのかもしれない。いや、十分に妙な話だ。なぜならば、仮面舞踏会に参加した後のことがまったく思い描けないからだ。
この物語は、私が仮面舞踏会に参加した時点で終わる。その先はない。無意味という有意味性。そう言ってしまうと、それは少々言葉遊びが過ぎるのかもしれないが。
「ここまで連れてきてくれてありがとう」
「務めですので」
「そうよね」
彼女がそう応えるのは、今までのやりとりからなんとなく予想はしていた。彼女とは個人的に親しくなりたい気もしたが、彼女は所詮私の夢の中の登場人物で、想像の産物だ。夢であるとわかっている夢は、どこか味気ない。
「ねえ――」
名前を教えてよ。
尋ねようと振り返ったときには、もう彼女も他のメイドたちもおらず、ただ私一人だった。


2.舞踏会の夜

ホールの入口で散々左右に往復した挙句、結局私が取った行動は、誰にも気取られぬようそっとホールに入り、壁際で飲み物片手にすっかり疲れたフリをすることだった。
私はさっきまで踊っていて、今は一休みしているところなのです――だから誰も話しかけないでいただきたい、と。
そんな私の気持ちがどこまで態度に表れていて、尚且つそのことを周りの紳士淑女たちが汲んでくれたのかは定かではないが、私は沈黙を守ることができた。
曲の終わりから次の曲の始まりまでの間は実に慌ただしく、仮面を被った人々が忙しく交差している。
この舞踏会はいつから始まっていて、そしていつ終わるのだろうか。不意に湧いた疑問を今すぐ解消する術はない。
ただじっと待っていれば、いつか誰かが解散を宣言するのだろうか。あるいは一人また一人と散っていき、やがて自然と終わりを迎えるのだろうか。いずれにせよ「終わるのを待つ」以外にないらしい。しかしそれはそれで味気ないのもまた事実だろう。
せっかくの機会なんだから、踊ってみればいいじゃない。どうせ夢の中なんだし。
試しに心の中で言葉にしてみるが、やはり気が乗らない。気が乗らないならば無理して踊る必要もないだろう。だからじっとするのだ、ぼうっとするのだ。そして無為に時間を過ごすのだ。そうしていればいずれ夢から醒めていつも通りの日常に戻るだろう。
壁に寄りかかり、目を閉じる。前を横切る人の気配、遠くで誰かと誰かがぶつかった音、決してミスのないプロフェッショナルの演奏。
そして瞼越しに見えたのは真っ黒なダンスホールで踊り狂う真っ白な傀儡たちの姿。
ハッとして目を見開けばそこは豪華絢爛なダンスパーティー。一瞬だけ見えたその光景は悪夢というよりは真実の姿を捉えたものだったように思えた。
(……気持ち悪い)
通りかかったウェイターにグラスを預けると、壁に手をつきつつ外へ向かう。新鮮な空気が必要だった。
「お嬢さん、大丈夫かな」
「気分が優れなくて?」
途中、何人かが私に声を掛け、中には背中に手を添えてくれた人もいたが、私はそれらの全てを無視した。愛想良くそして体裁良く断る余裕もなかった。
バルコニーまで出ると気分は多少良くなった。心臓の鼓動もいくらか落ち着いてきた。しかし頭の中はさっきの光景がまだこびりついて仕方ない。
深呼吸を一つ。足りなかったのでもう一つ。バルコニーの縁を両手で掴み、両足で石床をしっかり踏んでいる感覚を意識しながら、思い出す――。
真っ黒なダンスホールはよくよく思い出してみればさっきのダンスホールとまったく同じ構造をしていた。ただ配色が決定的に異なっていた。しかしそれも、壁が黒かったというよりは、暗闇に覆われていたという方が正確だろう。普通のシャンデリアが明るい光を放つように、その世界のシャンデリアは暗い闇を放っていたのだ。写真で喩えるならばネガとポジを反転させたようなものだった。そしておぞましかったのは真っ白な傀儡たちだった。彼らは楕円を繋げたような四肢を振りまわしていた。とてもダンスなどと呼べたようなものではなく、そこにはリズムもステップもなかった。個性も人格もなかった。彼らはただの人形だった。
もちろんそれだけならば私はここまで動揺したりなんかしない。一番堪えたのは、その光景があの豪華絢爛な仮面舞踏会の本質であることがわかってしまったからだ。一度そう認識してしまった以上、もうあの仮面舞踏会はそういう風にしか見えない。
(なんか……すごく嫌だ)
無意識的に仮面に手をかける。手をかけてから、自分もまた仮面を被っていることを思い出した。
「仮面を外すのは止めておいた方がいい」
澄み通る声が私を諌める。
「誰?!」振り返った私の手首が捻り上げられる。
「最初に言われただろう、城の中では仮面を外すなと」
「いたい……」
「――すまない」
解放された手首をさすりながら声の主を見上げる。髪さえ覆い隠す黒のマスクに、暗色のタキシードを着た青年である。
「仮面を外してはいけない」
「……どうして」
「仮面を被っている限り、君は安全だからだ」
「意味が分からない」
「分からなくていい。ただ僕の言うことを信じてくれればいい」
混乱と唖然ならば後者が僅かに勝った。突然表れたこの青年は何者なのかや、仮面が持つ重要性についてなど分からないことは様々あれども、ただ癪なのはそういう疑問を素通りして「ただ僕の言うことを信じろ」と言われたことだった。一体、どうして、私はこの人の言うことを鵜呑みにせねばならないのか。掴まれた手首が痛みで以て相槌を打つ。
「手荒な真似をしてすまなかった。……君はとてもわかりやすい顔をするんだな。仮面を被ってるのに」
ここが笑いどころをばかりに青年は私の反応を待つ。
知るかそんなもの。
――OK、わかった。青年は手を挙げて降参する素振りを見せた。
「さあ、質問を受け付けよう」
「仮面舞踏会って何」
単刀直入。それくらい興奮していたと言っても差し支えない。
「いきなり来たね」
最初からいくらか違和感はあったが、ここに来ていよいよ確信した。これは異常事態であると。まず、ここはただの私の夢の中ではない。その根拠は、私の意思による支配が及ばないからだ。夢の中の大抵は思い通りになるのに、この世界はその点において明らかに異質だった。そして一番の決め手は、黒マスクの青年という明確な他者が存在することだ。彼は私の意識的・無意識的な想像の産物ではない。故にここは、一切が私の想像で賄われるはずの夢の世界ではあり得ない。
単なる夢の世界でない、ならばここは何なのか。この世界の中心は間違いなく仮面舞踏会だ。仮面舞踏会という舞台を中心にこの世界は構築されている。ならば仮面舞踏会には一定の役割ないし機能があるはずだ。故に問いは、誰が何のために“仮面舞踏会”を開いているのか、ということに集約される。
「それは一概には答えられないな。簡潔に説明するには複雑すぎる」
「説明してよ」
「無茶を言うね、君は――ここは喩えて言うなら、次元の裂け目みたいな場所だ。意識空間の落とし穴と言った方が正確か。さっぱりわけがわからない、うん、そうだろう。
そうだな。構造として直感的にわかりやすいのは、夢魔が作り出した悪夢空間かな。夢を操る悪魔が人々を悪夢に誘い込み、君がそれに引っかかってしまった、という具合だ。この空間にやってきてしまった人々はここに囚われているうちに、この空間の一部になってしまい、空間の形成に一役買ってしまう。そうしてどんどん人を取り込んでいって、巨大化したのがここだ。」
「なんていうか、ゾンビ映画みたい」
「ミイラ取りがミイラになっている点ではそういうことだね。理解が早くて助かるよ」
黒マスクの青年は微笑んだ――ような気がした。
「さて、そうなると俄然気になるのは、この世界からの脱出方法だ。先に僕の答えを述べよう。結論から言えば、ある。鐘が三度鳴り終わるのを待てばいい。それで舞踏会は終わり、お開きになり、君は元の世界に帰れるだろう。君は何もしなくていい。ただ鐘が三回鳴るのを待てばいい。ただそれだけでいい」
青年はあっけらかんと言ってのける。その軽い口ぶりとは裏腹に、どこか荒んだ気配も感じられる。
「簡単な話だろう?」
青年はバルコニーの縁に腕を乗せた。
「あなたは随分ここについて詳しいのね」
「そうだね」
「ここはもうながいの?」
「日にちを数えるのはとうの昔に諦めた」
彼の言葉の最後は夜風に飲まれて消えていった。
たった三回、鐘が鳴るのを聞き遂げれば元の世界に帰れるのに、日にちを数えるのも諦めるくらいながくここにいるこの青年は、この世界に囚われた人なのだろう。
それからしばらく私たちは二人並んで夜景を眺めていた。夜景と言っても点々と並ぶ松明の明りの他は、一面闇色だった。森の影と山の影は多少色合いが異なったがいずれにせよ暗いことに変わりはない。月と星々はただ沈黙している。
「ねえ、そうだ」不意に青年が身を起こす。「踊ろうよ」
「……嫌だ」 。
踊るということは、あのダンスホールに戻るということだ。先ほどの一瞬の光景を思い出して身震いをする。
「ある程度この世界に馴染むことも、ここで生き延びる上では必要なことだ」
「そうなの?」
「彼らは異質なものには手厳しい――だから仮面はきちんと被らなければいけない」
差し出された手のひらは絹の白手袋に包まれていた。しかし生地越しにもなかなか線の細い指をしていることがわかった。
指先を彼の手のひらに当て、びくっと驚き、それからおずおずと再び指を伸ばす。その間、彼はただじっと待っていてくれた。
「ダンスの仕方」
「ん?」
「やり方がわからない」
「適当でいいよ。踊ってるフリでいいんだ。どうせ誰もお作法なんか気にしてないし、知りもしないんだから」
さあ、行こうか。
彼が優しく私の手を引いた。
「せっかくの仮面舞踏会だ。楽しもう」
皮肉と諦念の混じった、寂しい声だった。


ホールに足を踏み入れても、私たちに目を向ける人はいなかった。皆、踊ることに忙しい。人の流れはせわしなく無秩序で、一体の巨大な軟体生物が蠢いているようにも見える。
入るタイミングが掴めず足踏みをする私をよそに、黒マスクの彼は私の手を引き、いとも容易く人の流れに溶け込んでいった。
「君は何も考えなくていい」
彼が小声で囁く。
右、左、前、後ろ――最初は訳も分からず運んでいた足も、しばらくするとそこには一定のリズムがあることに気付いた。ある程度基本的な法則がわかれば、いくらか余裕も生まれてくる。
「飲み込みが早いね」
心なしか彼は嬉しそうに言った。そしてすぐに、悪戯心を含んだ声色で、
「じゃあ、これはどうだ」
と、彼は私から手を離し、視界から一瞬のうちに消えた。驚く間もなく私の体は宙に浮かび、急に高くなった視野には無数の人の頭が飛び込んできた。
一瞬の無重力。
ひゅっとおなかの底が竦み、私は彼に抱きかかえられる。
仮面の青年の瞳は好奇で満ちている。
――どう、驚いた? と。
それが無性に腹立たしかったので、つま先で彼の靴を思い切り踏んでやった。

数曲を踊り終えたところで重苦しく鐘が鳴った。一度目の鐘の音である。
近くの階上で鳴ったのであろう、鐘の音はホール全体に響き、床までも震えているようだった。
その最中、彼の足がぴたりと止まる。
「……ごめん、行かなきゃ」
「え?」
問い直す間もなく彼は私から身を離した。追いすがる私の手は宙を掴み、彼はあっという間に人の影に隠れてしまう。
「待ってよ――」
人々の間に肩をねじ込み、人々を押し分け、黒マスクを追いかけようとするが、行けども行けどもそこに彼はいない。鐘の音はタイムリミットのようで、一つ鳴り終わるごとに急き立てられる心地がする。
そして最後の鐘が鳴り終わり、次の曲が始まってしまう。人々は一斉に踊り始め、逆に私の方が突き飛ばされる形になってしまった。
やっとのことで壁際まで逃れる。そこでようやく沸々と怒りが湧いてくるのだった。彼は自分から踊ろうと誘っておきながら、突然いなくなったのだから。彼にも何か理由があったのかもしれないが、それよりも先に、一人取り残されたことの理不尽さに腹が立つ。そしてそれからすぐに寂しさが際立つのだった。最初にダンスホールに足を踏み入れた時よりも、私は孤独になっていた。
「まったくどうしてみんなすぐにいなくなってしまうのだろう」
森の外で出会ったメイドといい、先ほどの黒マスクの青年といい、彼らは突然現れては一方的に去っていってしまう。
あと二回。
口の中で呟く。あと二回、鐘が鳴ればこの夢から醒めることができるはずだ――彼の言葉通りならば。きっとすぐには忘れないだろうが、それでも虚構の世界の出来事としていずれ記憶の片隅に追いやられていくだろう。間もなく過去のものとなる。黒マスクの青年はここに残されてそれっきり。そうなることに一抹の罪悪感を感じないでもないが、そもそもこちらには何の責任もないことだ。
このままどこかでじっとしていれば全てが事足りるのだろう――深呼吸をして息を止め、数を数える。十まで数えたところで息を吐き、それはそのまま溜息となる。
何ができるわけでもないが、このまま見ないフリでいるのは良心の呵責に耐えかねる。だから自分への言い訳として彼を助ける方法を探すフリをする。清々しいほどに偽善である。偽善だから何だというのか。偽りではない善とは何だというのか。
(と、決めたはいいものの)
何から始めようか。何をするにしても、黒マスクの青年を探しださないことには何も始まらないであろう。
人探しという具体的な目的ができたことで、ようやく私にいくらかのやる気が出てきたことは否定できない。


3.白蝶の仮面の少女

ホールにいる人々は皆踊り狂うことしか頭にないらしい。下手に声を掛けようものならば、「そんなことよりも踊りましょう」と手を握られかける始末だった。
逃げるようにホールの外に出て扉を閉めると、途端に周囲は静寂に包まれた。照度は落ち、廊下の奥や階段の先など、暗がりへつづく場所がいくつも点在していた。
おそらく彼はもうホールの中にはいないのだろう。だから暗がりの中に足を踏み入れていかなければならないのだが、結局運次第という意味でどれを選んでも同じことのように思われた。
ならばせめて道に迷わない場所を選ぶべきである。せめて壁伝いに歩くようにすれば、またここに帰ってくることができるだろう。
そういうわけで左手の壁に沿って歩き続けること数分。すっかり舞踏会の音は遠くなり、前にも後にも暗がりしかない。等間隔で並べられたランプの灯りだけが頼りである。たまにある扉もそっと押し開いてみるが、物置であったり書庫であったり、あるいは通用口の入り口であったりして、人の気配はまるでない。
予想していたとはいえやはり無謀だった感は否めないだろうか――。
角を曲がる。曲がり切ったところで何か柔らかいものとぶつかった。小さな悲鳴。
「ごめんなさい」
反射的に謝罪の言葉が飛び出し、次いで「私ってばぼーっとしてて」と間に合わせの言葉を続けながら今しがたぶつかったものを見る。
それは小さな少女だった。真っ白なワンピースに白い蝶の仮面をつけている。仮面舞踏会の参加者だろうか。
「大丈夫?」
私が手を伸ばすと彼女は無言で私の手を握り立ち上がった。その手はすっかり冷え切って冷たかった。
「どこか怪我とか――」
「うん、大丈夫! ありがとう」
溌剌とした声で少女は言う。あまりに場違いな明るさだったので私はどきっとしてしまった。
私よりも首二つ分小さい少女はじっとこちらを見上げている。仮面の奥の瞳は好奇に満ちていた。そしてその瞳は私の頭の天辺から足の爪先までじっくりと見回す。直感的に嫌な予感がした。
「ねえ、私と踊りましょうよ」
「えっ」
「ね、いいでしょ?」
少し拗ねたような甘え声。私は思わず答えに窮してしまった。
気まずい沈黙が流れる。
「ねえってば」
腕を引かれたその時、私の背後から声がした。
「お嬢様。お客様が困っていらっしゃいますよ」
「あ、オルデアだ」
そこにいたのは、私を森から城まで案内し、私のドレスを選んだメイドだった。彼女は彼女がお嬢様と呼んだ少女をじっと見つめている。
「そんな怒らなくたっていいじゃない」
「怒ってはいません。ただお客様の嫌がることをするのはいかがなものかと」
「え、あなた嫌だったの?」
少女が首を傾げる。言外に、まさかそんなことはないでしょうね、と言いたげに。
しかし同時に、オルデアも私の背中に手を添える。これで察しろと言わんばかりに。
二者の板挟みに混乱した私が咄嗟に口にしたのは、これだった。
「さっきまで踊っててね、少し疲れてしまったの」
語尾が消え入るように弱々しくなってしまったのは、ほとんど嘘だと告白しているようなものだと思った。
しかし少女は少し間を置いた後にむくれたのだった。
「むー、しょうがないなあ」
「ごめんなさいね」
「じゃあ、後で踊ろうよ。私、あなたとダンスがしたいの」
「ええ、そうね」
「約束だよ」
少女が右の小指をピッと突き出したので、私は何気なく自分の小指をそれに絡めてしまう。背後でオルデアが焦った気配を見せたのはそのすぐ直後のことだった。
「ふふ、約束約束! じゃあね!」
少女はくるりと身を翻し、手を振って廊下の彼方へ駆けていってしまった。
すっかり少女の気配がなくなってから私は振り返ろうとした。しかしそれとほぼ同時にオルデアは私の右手を掴み、そして舌打ちをした。
見てみれば私の右の小指――今さっき少女と指きりげんまんをした小指――は真っ黒に変色していた。意識してみれば小指の感覚もなくなっている。思わず悲鳴が零れる。
「何これ」
「……とりあえず命に別状はないですが、厄介なことになりましたね」
「え、それってどういうこと」
「詳しい話は後にしましょう。とりあえず今はどこか休めるところに」


「あなた、オルデアって言うのね」
「ええ」
粗末なところですが、と通されたのは使用人の休憩室だった。今は他の使用人はおらず、私とオルデアの二人きりだった。
「その名前に記憶はありませんか?」
「え?」
「……いえ、何でもありません――今はそれよりも」オルデアは私の手を取る。「痛みはありませんか」
「痛みはないけど……感覚自体がない」
「指は動かせますか」
「えっと」
意識を集中させてみると――指を動かしているという感覚はある。しかしそれが何かに触れているという感覚はない。
「何これ、すごく変な感じ」と呟く私をよそに、オルデアはひとまず安堵の表情を浮かべた。
「指を動かせるということは、それはまだあなたのものだということですね。ならばまだ取り返せる」
強烈な違和感を覚える。
取り返せる? それはつまり。
「私は小指を取られたの? あの子に?」
「そうです」
「なんで」
「あなたが気に入ったんでしょうね。だから、あなたとダンスをする約束の約束手形として、指を持っていった」
なんだそれは、と言わんばかりに私は仮面の下で顔を歪めた。しかし今はそれよりも尋ねなければならないことがある。
「ねえ、あの子は何なの?」
「我が主でございます」
「この仮面舞踏会の主催者ってこと?」
「厳密には違いますが、ほとんどそのようなものと考えて差し支えないでしょう」
「……あなた、自分のご主人様に対して結構反抗的なのね」
「所詮私は我が主の手の平の上なので、私のやっていることなど取るに足らぬものです」
それはどこか諦めきっているような口調だった。その様子に直感的にピンと来るものがあったが、その正体が何なのかを考える前にオルデアが言葉を続けた。
「時間がないので手短にいきましょう――あなたはホールに戻って我が主と一曲踊ってください。ダンスをしているとき、おそらく我が主から色々お願いや質問をされるでしょうが、全てノーと答えてください。絶対にイエスと答えてはいけません。我が主の全てを拒否してください。
そして、きっと焦れた我が主は最後に『あなたのお願いを一つだけ叶えてあげるから』という“約束”を持ちかけてくるでしょう。
そうしたら、『指を返して』と言ってください。もし我が主がごねたとしても、一緒にダンスをするという“約束”を果たしたことを主張すれば、我が主といえどもあなたに指を返さざるを得なくなるでしょう――ここはそういう場所ですから」
「そういう場所」
「そうです。
きちんと指を取り返し、一曲踊り終えたら我が主から離れてください。それで全てが事足りるでしょう」
「ねえ、もし指を取り返すことができなかったらどうなるの?」
「あなたの指は我が主の所有物となり、それに伴ってあなた自身も未来永劫この城に留まることになるでしょうね」
その迷いのない口ぶりは、一切の異論を挟むことを許さなかった。
「まぁ、こうなってしまったものは仕方ありません。正しいことを正しいようにやれば問題は起こりません――あなたもこれ以上厄介事に巻き込まれたいとは思わないでしょう」
「それはそうだけど」
「じゃあ早速行動しましょう」
パン、とオルデアが手を叩く。
「ちょっと待って」
「何でしょう」
咄嗟に呼びとめたものの、明確な質問があるわけではなかった。気になることやわからないことはそれこそ山のようにあったが、どれから手をつけたものか、という具合である。
迷った結果、一番胸に残った質問がこれだった。
「――なんでオルデアはそんなに私に良くしてくれるの?」
「それは……あなたがあなただからですよ」
「どういうこと?」
首を傾げる間もなくオルデアは私を立たせた。これでもう話は終わりだと言わんばかりの振る舞いである。
「さあ、行きましょう。あなたはこんなところにいるべきではないのだから」
オルデアに促されて私は立ち上がった。黒マスクの青年を探しに出たはずがどうしてこんなことに、と思いながら。


4.小指の約束

白蝶の仮面の少女はホール入口の扉の横で壁にもたれかかって爪ををいじっていた。
私の気配に気づくと少女はぱっと顔を上げる。
「待ってたよ」
そして少女は、はい、と手を差し出した。何のことかと思いあぐねていると、たちまち少女の機嫌が悪くなる。
「ちゃんとエスコートしてよ、もう」
膨れる少女にこちらもいくらかカチンとくるところはあったが、今はそうしている場合ではないと自分に言い聞かせる。
私は少女の手を取った。それは相変わらず氷のように冷たい。
「さあ、行こうよ」
少女は無邪気にはしゃいでみせる。

扉を開けると先ほどと変わらない盛り上がりがホールを包んでいた。人々は一秒をも惜しんでくるくると回っている。
その中に少女はいとも容易く飛び込んでいき、引っ張られるように私もその中に入っていく。
少女は当然のように女性のステップを踏み始めたので、私が男性のステップを踏むことになる。先ほど一緒に踊った黒マスクの青年のステップを思い出しながら踊ってみるが、所詮付け焼刃に過ぎず、幾度もミスをしていまう。その度に少女は、しょうがないなあ、といった風に私の試行錯誤を見守るのだった。
何曲か経ち、いくらか慣れてきた頃、おもむろに少女が話しかけてきた。
「オルデアってばあなたのことを随分気にかけているのね」
「そうかな」
「――あのね、オルデアは私の最初のお友達なの」
少女は、お友達、という言葉に一際強い力を込めた。
「大事なお友達なの。素敵なお友達」
「……へえ」
「ね、あなたとオルデアって知り合いなの?」
「いいえ、今日初めて会ったのよ」
「ふぅん……でも、オルデアはあなたのことを知ってるみたいだったけど」
「まさか」
「気のせいじゃないと思うけどなあ……」
少女は物言いたげな様子で口ごもる。
「素敵な人だと思うわ」
「ね、そうでしょ!」少女がパッと顔を輝かせる。「オルデアは少し口うるさいところもあるけど、でも絶対に私を裏切らない優しい人よ」
「あなたはオルデアが好きなのね」
「うん!」
無邪気で無垢すぎて、それは私にとっては眩しすぎるものだった。
「でもねー、私はあなたともお友達になりたいと思っているのよ」
「え?」
「お友達。ね、私たち、お友達になろうよ」
来た、と思った。オルデアの忠告を思い出す。白蝶の仮面の少女のお願いや質問にはすべてノーと答え、拒否しなければいけない。
「それは――できないわ」
「なんで?」
「だって、私はいつまでもここにはいられないから」
「なんで?」
「なんでって……」
裏返せば少女はこう言ったのだ――ここに残れと。
率直に言って、私はぞっとした。ここに取り残されることそのものも嫌なことであったが、それ以上に、その選択が少女にとってはまるで軽いものであることが否応なしに伝わってしまったことにぞっとした。
この少女には根本的に相手の気持ちや都合を理解するという発想がない。自己中心的であることに何の迷いもないどころか、そもそも自覚すらない。だから、自分とは相容れないだろうと思う。
「むぅ……どうしたらいいんだろ」
仮面の下で私が眉を顰めていることなど、この少女には知る由もないのだろう。彼女は少し俯きながら考え込み始めてしまった。
それから不意にパッと顔を上げる。
「ね、やっぱり私はあなたとお友達になりたい。でも、あなたは嫌だっていう。だからね、どうしたらいいかなーって考えたんだけどね。まずはお互いのことを知ることから始めた方がいいと思うのよ」
「……たぶん気は変わらないと思うけど」
「そう? やってみないとわからないじゃない――どうせ時間なんていくらでもあるんだし、のんびりやろうよ」
長丁場になるらしい。それだけで私は辟易としてしまう
「ええと、じゃあまず私から。えー、でも何から話したらいいんだろう。うーん……そうだなあ。
私ね、このお城の城主の娘なの。お父様、お母様、お兄様、それから私の四人家族。自分で言うのもあれだけど、領民のみんなに愛されているのよ。だってみんな仮面舞踏会に遊びに来てくれるもの。あ、この仮面舞踏会ってね、お父様が私のために開いてくれたものなんだよ。私、生まれつき体が弱くて、お城から外に出たことがなかったの。毎日退屈でね。そんな私のために始まったのが仮面舞踏会」
「ただの舞踏会ではなくて」
「そう。招待状を出してお招きする舞踏会じゃ迂闊に断ることもできないけど、参加自由の仮面舞踏会なら来るも来ないも自由! ――お父様はね、領民のみんなに自分で参加したいと思って来てほしかったんだ」
それはあまりに甘い想定であるように聞こえた。領民にとって、領主が主催する仮面舞踏会は、たとえ匿名性が担保されていたとしても“気兼ねなく”参加できるものだろうか。
「たくさんたくさんお客さんは来てくれたんだけどね、でもやっぱりお友達が欲しいの。ほら、お客さんとお友達ってやっぱり違うじゃない。わかるでしょ?」
「…………」思わず同意しかけるところをぐっとこらえる。
「だから私はオルデアとお友達になれて本当に嬉しかったんだ。
――オルデアは仮面舞踏会に来ていたお客さんだった。私が一人でいたところにオルデアの方から話しかけてきてくれて、一緒に踊ったんだよ。私たちは相性がいいって一発でわかった。すごく気が合ったんだもの。私が欲しいと思ったタイミングで欲しいステップを踏んでくれるんだから。
曲が終わった後、私は勇気を出して、『お友達になってください』って言ったんだ。そうしたらオルデアは『喜んで』って言ってくれた。だから、オルデアとずっと一緒いられるように、オルデアはうちで雇うことにしたの」
……オルデアは少女と友達になったことを後悔しているのだろうか。最初は何気ない同情心だったのかもしれない。しかし結果的に、この世界に囚われることになったことも事実だろう。
「私はオルデアが好き。オルデアが大事にしているものは、私にとっても大事なもの。だからオルデアが気に入っているあなたのことは、私も大事にしたいんだ」
「友達なら友達の指を取っていったりなんかしないわ」
「それは……ごめんね。でもそうしないと、あなたが私に会ってくれなくなるって思ったから」
少女がしょぼくれる。そこに悪意はない。だからややこしい。
「ねえ、怒ってる?」
「……怒ってはいないよ」
「そっか、よかったぁ」
「でも指は返してね」
少女は俯いた。簡単に返す気はないらしい――予想通りではあるが。
「あの指切りは、あなたとダンスをするっていう“約束”だった。だからちゃんとダンスが終わったら指は返してもらうからね」
「なんでそんな意地悪言うのよ……」
「あなたのやり方が強引だから」
一通り話をしてみてわかったことが一つあった。この白蝶の仮面の少女の中にはオルデアしかいないということだった。少女はオルデアに精神的に強く依存している。
少女が私にこだわっている理由は、オルデアが気にしているからで、それ以上でも以下でもない。少女自身には私に対する興味はない。彼女にとって私は「オルデアのお気に入り」なのだ。
そんなことは私の知ったことではない――率直に言って、私は少女に対するヘイトが溜まっていた。しかしそのせいで、少女の我慢の限界の見極めを誤ってしまったのは、私の手落ちであったと言わざるを得ない。
「決めた、私、絶対あなたに『お友達にして』って言わせる」
あからさますぎるほどの、対抗心。
「あなた、オルデアのこと何も知らないんだよね」
「……さっき初めて会ったばかりだもの」
「オルデアってば可哀想!」
わざとらしく、大きな声で少女は言ってのける。……何のことだかわからない。訝しんでいる私に少女は続ける。
「オルデアとお友達になった後ね、オルデアは私に昔のことを話してくれたの。自分はどこの誰で何をしていた人かって。
――オルデアはたった一人のお友達に忘れられて、居場所を失って、それで旅して来た人だって言ってた。オルデアはその子が物心ついた頃からずっとお友達で、いつも一緒に遊んで、その子が親に叱られたときは一晩中慰めたりしていたって。でもその子が成長して大きくなるにつれて、いつの間にかオルデアは忘れられていったんだって。その話をしたときのオルデアは、本当に寂しそうだったな」
「それと私に何の関係が」
「鈍いなあ! その子があなただって言ってるの」
「証拠は?」
「さあ。でも、オルデアのあなたに対する態度は普通じゃないよ。ずっとオルデアと一緒にいるけど、あんなオルデア、初めてみたもん。オルデアがそんな特別な態度を取るのはな何故かって考えらたら、あなたがオルデアを忘れてしまった『お友達』だから。それしか考えられないよ」
少女は自信満々で言い切った。
少女の話は所詮少女の憶測でしかないが、まったく的外れでもないように思う。たしかにオルデアの態度は、彼女がもともと親切な人であることを差し引いても、私に対してとても良くしてくれたものだっただろう。
なるほど理屈は通っているのかもしれない。しかし、私自身にその記憶がない。どうやら私はオルデアのことをすっかり忘れてしまっていて、もっと言えば忘れてしまったことすらも忘れてしまっているらしいのだから、まるで思い当たるところがないのはある意味当然と言えば当然だ。だが身に覚えのないことを事実と認めることはできない。
「ねえ、思い出した?」
「――さあ、身に覚えがないわ」
「あっそう。可哀想なオルデア! あなたがオルデアを裏切っても、私は絶対にオルデアを裏切らないんだから!」
そのとき、二度目の鐘が鳴った。
私と少女はじっと睨み合う。仮面の奥の瞳は、私に対する憤怒で溢れていた――そしてそれは彼女自身が私に対して向けた初めての感情でもあった。
鐘が鳴り終わる。いつの間にか演奏も止み、次のワルツに向けて周囲の人々が動き出していた。
「あ、そうそう。ダンスに付き合ってくれてありがとうね。はい、小指。返すよ。返してほしかったんでしょ。約束だもんね」
じゃあね、と手を振って少女は人ごみに紛れてしまった。
右手の小指の感覚が戻っていることに気付く。見てみれば確かに元通りに小指がくっついていたのだった。


5.オルデアの選択

使用人の休憩室に戻ると、そこにはオルデアと白蝶の仮面の少女がいた。
少女はオルデアの膝の上に座り、首に腕を巻き付けているところだった。
オルデアの目はまず私の右手に向く。そこに元通り指があることを確認して、ひとまず安堵の表情を浮かべるのだった。
「ね、ちゃんと返したでしょ?」
得意げに少女が言う。
「お嬢様の我儘に付き合っていただきありがとうございました」
「ねえ、オルデア。聞きたいことがあるんだけど」
私がそう言うと、オルデアは俄かに首を傾げた。同時にオルデアの膝の上の少女の口元が意地悪く歪んだ。
「オルデアは私のこと、知ってるの?」
「……どういうことでしょうか」
「質問を変えよっか――オルデアが私の友達ってどういうこと?」
オルデアの動きがピタリと止まる。少女はそんな状況にわくわくしているように見えた。仕掛けた悪戯に対する反応を待っているような素振りであった。
しかしそのオルデアの様子は、彼女の中で様々な感情が激しく渦巻いた結果表面上は平静になってしまっている、そんな風に見える。
あまりにぴくりともしないので、少女がオルデアに視線を向けて様子を伺った。
「お嬢様――変なこと言いましたね」
「変なことじゃないよぅ。オルデアが昔言ってた、最初のお友達がこの人なんじゃないかって話をしただけだもん」
少女は頬を膨らませたが、ただちにただならぬ状況であることに気付いた。
オルデアは肩を震わせていた。それは傍目から見ていても明らかなほどであった。ただしそれが怒りによるものなのか、悲しみによるものなのかまではわからない。
「……お嬢様。それはお嬢様だけにお話しする大事な秘密だって言いましたよね」
「確かに言ってた言ってたけど」
「二人だけの秘密にするって約束しましたよね」
「したけど、でも……」
「お嬢様。私はがっかりしました」
努めて冷静に振る舞おうとしている分、オルデアは相当怒っているらしい。少女は、でも、だって、と繰り返していたが、オルデアの無言の圧力の前にとうとう屈する。
少女は項垂れたままじっとしていたかと思うと、次第にうっすらと姿が薄らいでいき、やがて消えてしまった。
「後でフォローしに行かないと」
オルデアは軽くため息をついた。どうやら見た目ほどは怒っていなかったらしい。それよりもむしろ、しょうがいないなあ、と少女を可愛く思っている気配さえ感じられた。
「多少腹が立ったのは事実ですが、本気で怒るほどのものでもないですから――さて」
オルデアがこちらに向き直る。
「大きくなったね。きっとあなたは覚えていないんでしょうけど」
「本当なんだ」
「私は一目見てわかったよ」
「…………」
それからオルデアは懐かしさに身を任せて昔話をし始めた。
たとえば幼稚園のお絵かきでオルデアの絵を書き、先生や両親にひどく心配されたこと。二人で一緒に川辺で遊びをしたこと。それから夜、布団の中で一緒に物語を考えたことなど……。
それらのエピソードは最初こそピンと来なかったものの、次第におぼろげな記憶が鮮明になっていく。
幼い頃の窓辺、一枚の紙に二人でお絵かきをして遊んだ記憶。それは、傍目には一人で遊んでいるように見えただろうが、あの時、私たちは確かに一緒だったのだ。
――オルデアは私の友達だった。想像の中の友達だった。しかし大事で素敵な友達だった。
「オルデア」
成長した私は、現実の友達を得ていくにつれて、いつしか彼女のことを忘れてしまった。そして忘れたことさえも忘れてしまっていた。
「仕方ないことだよ」
オルデアは首を横に振る。
自然と、私の手はオルデアに伸びていた。手、腕、そして肩。懐かしさと申し訳なさがないまぜになった心地でオルデアの肩を抱いた。
「オデット、あなたは何も知らないまま元の世界に帰るべきだったのに。懐かしさに抗えなかったよ」
ごめん、とオルデアが呟いた。
私には彼女の胸の内が痛いほどわかってしまった。
なぜ彼女が自分の正体を隠すようにしたのか。もしも私がオルデアのことを思い出してしまったら、私はきっと何もなかったことにして元の世界に戻れることはないだろう。言い換えればそれは、暗にオルデアがこの世界から脱出できないことを告白していた。
それでも尋ねずにはいられない。
「一緒に帰ろう」
「それはできない」
「なぜ」
「あの子は私の友達だから」
そっか、わかった、元気でね。そういう風に言う気がまるで起きないのは、ここが明らかに良くない場所だからだ。
傀儡のように人々が踊り狂う仮面舞踏会はいつまでも続くのだろう。オルデアはその永遠の時を、地縛霊と化した少女と共に過ごすことになる。
私が何も知らなかったならばまだしも、今はもう違う。
どうすればいいのだろうか。
一つ、オルデアのことをすっかり忘れてしまう。これは論外。
あるいはオルデアを少女から切り離し、オルデアを連れ帰る。
……いずれも最適解ではないように思う。
「どうしたらいいんだろう」
「というより、あなたにはどうしようもないことだよ」
「どうして」
「あなた一人の力でどうにかするには、この世界は歪み過ぎている」
それは諦念に満ちた言葉だった。
「私はあなたに幸せになってほしい。オデット、あなたは私の初めての友達だから」
――そっくりそのまま言い返してやりたい、と思った。
「私はオルデアを諦めない」
「……馬鹿な子。あなたは昔っからそうだった」
オルデアは立ち上がり、私の肩を押して突き放した。
「さようなら」
そしてオルデアは壁に立てかけてあった鏡に手を触れると、そのまま鏡の向こうへ行ってしまった。鏡の表面はとぷんと波打ち、間もなく静まり返る。
その後を追おうと私も鏡に触れたが、それはただの鏡でしかなかった。


6.鏡の回廊

オデットが誰もいなくなった休憩室を後にし、残り少ない時間の中でオルデアを助け出す方法を模索しようと足掻き始めた頃のこと――。
オルデアは鏡の回廊を通り、白蝶の仮面の少女――アンブロシア――を探していた。しかし探していたと言っても、おおよその場所の検討はついている。彼女が不貞腐れたときは、いつも行く場所があるのだ。
オルデアが歩く廊下の左右には合わせ鏡になった鏡が等間隔で並べられている。右にも、左にも、無数のオルデアが並んでいるのだった。
ここは山深蒼緑の城ミ・ルシェに隠されたもう一つの世界であった。表のミ・ルシェで華やかかつ盛大に仮面舞踏会が催されている頃、ここは深海の奥底のようにひっそりと静まり返り、あらゆるものが眠りについて夢を見ているのだ。
無数の鏡が一つ、また一つと夢を見始める。
それはこの城の記憶の再演であった……。

【庭師グレゴリーの記憶】

庭師のグレゴリーが働き始めてちょうど十年目になる頃、領主夫妻に長子が生まれた。
連日連夜、近隣の諸侯の使いが祝いに訪れ、また領民たちも公子の誕生を我が事のように喜び、贈り物をしようと城を訪れていたのだった。
グレゴリーが知る限り、庭がこうも賑わうことは初めてのことで、最初の頃こそ戸惑ったものの、こういうときこそしっかりと庭を手入れして見栄えの良いものにしておかなければならないと、ますます仕事に精を出していたのだった。

しかしそんなお祭り騒ぎも半年もすればすっかりおさまってしまうのが世の通りだ。
「グレゴリー、精が出るわね」
「やや、奥方」
台に上って高枝の手入れをしていると、公子を連れた領主夫人が散歩がてらグレゴリーに話しかけてきたのだった。
腕の中の公子はすやすやと眠っているが、見るたびに大きくなっているのがわかる。
「ぼっちゃんも大きくなりましたね」
「そうね」
それからグレゴリーが会釈すると、夫人は散歩に戻り、グレゴリーもまた仕事に戻るのだった。

そんな穏やかな日々がひと月、ふた月と流れ、いつしか季節が一巡りする。
公子が初めてはいはいをした、立った、言葉を喋った、という報告は噂として城内を疾風のように駆け巡り、半刻もしないうちに城の誰もが知り、そして喜ぶ。グレゴリーには城のメイドの一人で間もなく夫婦の契りを結ぶ女性がいたが、彼女と共に未来の主人の成長を我が子のことのように喜んでいたのだった。

公子が三歳になる頃、領主夫妻が第二子を授かったことが公にされた。
三年前と同様に皆が喜び、その誕生をまだかまだかと待ち侘びた。
そしてある満月の晩、夫人は第二子を生んだが、その知らせの伝わりは疾風どころか泥のように鈍かった。グレゴリーがその知らせを聞いたのは、第二子が生まれてから二日も後のことであった。
「どうしてすぐに教えてくれなかったんだ」
しかし彼女は複雑そうな顔をするのだった。それから辺りを見回し――それは誰か家の外で聞き耳を立てていないかどうかを探るような動きだった――、私の耳に顔を近づけた。
「お嬢様にはお顔がないんですって」
「顔がない、だって?」
「そう」
どういうことかと問い質したが、どうやら彼女も事情がよくわからないらしい。ただ、正常な生まれではないこと、そしてそのことは決して公にされるものではないことではあるらしい。なるほどそれならば、領主夫妻の第二子誕生の知らせが全然出回らなかったことも納得ではある。しかし同時に、自分たちは知るべきではないことも知ってしまい、きっと今後は平常ではいられないことも察せられるのだった。そして何よりも、領主夫妻の心中を慮れば慮るほど、心苦しくなるのだった。

三年前であれば誕生祝にとひっきりなしに来客が絶えなかったのに、今回は葬式のようにひっそりとしていた。
巷では、領主一家の二人目の子供は死産だったらしいという噂がまことしやかに流れ、いつしかそれが真実となっていた。しかしその“真実”が領民の領主に対する敬愛を一層深める結果となったのは、皮肉なことだったと言わざるを得ない。
グレゴリーは、すっかり寂しくなった庭を手入れしながら、城の窓を見上げるのだった。第二子が女の子であるらしいというのは妻から聞いていたことであったが、彼がその子の姿を見ることは、とうとう叶わなかった。


【執事ダニエルの記憶】

奥方の出産に立ち会ったメイドが、青ざめた顔で書斎に飛び込んできた。
その様子に領主とダニエルは冷たい汗をかく。
「お子様がお生まれになられました。女の子です。ですが――」
顔がない。
彼女はそう言った。

産室に飛び込んでいった領主の後を追うと、未だかつてないほど重苦しい空気が部屋を包んでいた。奥方の痛ましくそしてか細い嗚咽が事の重大さを物語っている。
領主はメイドたちを掻き分け、人垣の中心へ行くと、生まれた我が子を見て膝を崩したのだった。
「旦那様」
産婆が申し出る。
「僭越ながら、婆やの経験から申し上げまして、お嬢様が人並みの幸せを得ることは難しいかと存じ上げます。かくなる上は……厳しい判断も止むを得ないかと」
その選択肢を提示することが産婆としての自分の責任であると言わんばかりに、産婆の態度は堂々たるものだった。
しかし領主が取った選択は、生まれてきた赤子を殺すことなく育てるというものだった。
ダニエルは、心優しい領主らしい判断であると思うのと同時に、それが更なる茨の道を彷彿とさせるもので、今後はもう安泰な時間は流れないだろうとも思うのだった。
「……ここにいる者は、此度の件をくれぐれも口外しないように」
「ですが、城の者、皆がお子様の誕生を心待ちにしておりました。どうやって伝えれば――」
「生まれつき生死を彷徨う難病を患っていた、という噂をひっそりと立てよ」
我が子に関する暗い噂を指示することがどれだけ心苦しいことか、ダニエルには想像してもしきれないものだった。
「この子にはアンブロシアと名付けよう」
尊大にも不死の象徴の名を冠した少女は、かくしてこの世に生を受けたのだった。

アンブロシアの誕生を境に、ダニエルの目から見て明らかに領主夫妻の振る舞いは変化した。領主は一層熱心に公務に励み、奥方は一層心優しく周囲や子供たちを気遣うようになった。それは彼らの徳の高さの表れであると同時に、彼らの心が確実に病んでいっている証拠でもあった。
たとえば、巷でお嬢様は死産だった、という噂がまことしやかに囁かれているという話を聞いても、領主は眉ひとつ動かさなかった。そうか、と一言返事をしただけで羽根ペンを再び走らせる。

「ぼく、将来医者になって、アンブロシアの病気を治すんだ」
領主夫妻の長男であるマスケラは、事あるごとにダニエルにそう言った。八歳とは到底思えない決意の固さである。
「ええ、是非そうしてください」
そう言いながらダニエルは何とも言えない虚しさを感じるのだった。
机に向かって背を丸めるマスケラを見ながらダニエルは思い出す。あの日、アンブロシアが生まれた日に見た彼女の顔を。
(あれは、病気とかそういう類のものではない……)
そこには顔が“無かった”。虚無の暗闇が赤子の顔の上半分を覆っていたのだ。

アンブロシアは尖塔で“大事に育てられた”。立ち入れるのはごく一部の者たちに限られていたのだった。
ダニエルはそのごく一部の者たちには含まれていなかったが、領主からは度々彼女が“健やかに”育っていることを聞いていた。

そうして年月が流れ、間もなくアンブロシアが十二歳の誕生日を迎える頃、領主はダニエルにこう言った。
「仮面舞踏会を開こうと思う」
「それは――」
「いつまでもあそこに閉じ込めておくのはあの子が可哀想だからな」
アンブロシアは、顔が無い以外は普通の子供と何も変わらなかったという。普通の子供と同じように、泣き、笑い、怒り、悲しむのだ。
数ある催し事の中でなぜ仮面舞踏会なのかと問うのは野暮というものだ。
「領民や近隣諸侯など、身分問わず幅広い人々を招待してほしい。舞踏会の名目は適当にしてくれて構わないが、あの子の誕生日を祝うのにふさわしい催し事にしてくれ」
「かしこまりました」
この十数年の間に、領主もダニエルもすっかり老けた。髪の半分近くは既に白髪であったし、目尻に刻まれた皺は深いものだった。


【世話付きパーニャの記憶】

馬車が門をくぐり中庭に入っても、そこには人気というものがまるでなく、喪中であるかのようにひっそりと静まり返っていた。
(そろそろお姫様が生まれるって聞いてたんだけどなあ)
パーニャが訝しがっているうちに、馬車は城の入り口に着いた。

パーニャがアンブロシアの世話付きに選ばれたのは、彼女が領主に信頼されている人からの紹介だったからだ。
「彼女は主人に忠実で賢く、そしてよく気が利く娘です」
パーニャに言わせればそれは少々誇大された部分があったが、誰かが誰かに人を紹介するときというのは大抵そういうものだ。
しかし彼女が世話付きに選ばれた一番の理由は、彼女には城の知り合いがおらず、また身寄りもいないからというものであったことは彼女が知る由もない。

メイド長に連れられて尖塔の螺旋階段を上っている間中、パーニャは内心ため息をついていた。
(あんまりいいお仕事じゃなさそうだなあ)
仰せつかった仕事は、アンブロシアの世話をすることだった。「乳は出ませんが」とおずおずと申告すると、メイド長はパーニャを一瞥して「乳母は別にいます」と言った。
生まれたばかりの姫君の世話付きになれることは一般的には名誉なことであったが、それを初めて城に来た小娘に任せることの異例さや、喪中のように辛気臭い城の雰囲気から察するに、並ならぬ事情があることはなんとなくわかっていた。極め付けはこの尖塔だ。明らかにアンブロシアは城から隔離されていることの証左だった。

最上階の小部屋がパーニャの仕事部屋であった。清潔に整頓された部屋で、隅には白いカーテンに包まれたベッドがある――あそこに我が主がいるのね、とパーニャは思った。
パーニャたちに気付いた乳母が立ち上がり、黙礼する。肌の色艶の割に目の下の隈は色濃く、良い母乳が出せる乳母であるかというと、一抹の不安を感じるところがあった。
「……さて」
ぱたんと閉じ、パーニャと二人になったところでメイド長が重い口を開いた。
「これから何があっても声を出さないこと。よろしいですね?」
「はあ」
キッと睨まれてパーニャは背筋を伸ばし直した。
「こちらへ」
メイド長はベッドのカーテンをめくり、パーニャを呼び寄せる。
体を包むタオルは真っ白で、窓から差し込む明りを眩く照り返していた。その隙間から除く手はまだぷっくりと小さい。しかし、その顔は禍々しいほどの闇色をしていた。驚きすぎて悲鳴さえ出ない。
「つまり、こういうことです」
「病気、ですか」
「わかりませんが、少なくとも今すぐ感染(うつ)るという類のものではありません」
合点が行ったような、がっかりするような――思うことは色々あるが。
「お嬢様のお世話の役目、引き受けさせていただきます」
「……理解が早くて助かります。ありがとう。こちらも手助けできる限りのことはするつもりです――あなた、見た目よりも賢いのね」
心底意外そうに言われたのがパーニャにとっては一番衝撃的だった。

城の姫君がこうも公に出来ない秘密を抱えているならば、世話付きに求められる条件は、何よりもまず周囲と縁故がなく、身寄りのない人間であることだ。なぜならばそういう人間には秘密を漏らす相手がいないし、そして――。
(もし逃げ出しても口封じに殺してしまえばいい)
図らずも俗世と縁を切ることを余儀なくされたパーニャであったが、自分でも驚くほど冷静だった。
最初こそアンブロシアの暗闇は薄気味悪かったものの、数日も経てば見慣れるものであったし、特に害があるものでもないことがわかった。
定期的にアンブロシアのおむつを換え、アンブロシアがぐずれば抱いてあやしてやり、眠ればその間に部屋の掃除を済ませる。仕事といえばそれくらいのもので、その割にもらえる給金は満足以上のものだった。元々身寄りもなく、未来もない人間だったことを思えば、この待遇は十分すぎるものだ。
片や乳母はと言えば、数週間おきに入れ替わっていた。ふるい乳母たちがどうなったかはパーニャの知るところではない。

アンブロシアが城の中でどういう扱いを受けているかは、定期的にアンブロシアの部屋を訪れる人々の態度で察せられた。
しかし、訪れる人々の種類が限られるようになってくると、次第に彼らとは仲間意識が芽生えるようになり、時々の来客も心待ちになるものだった。

年月は流れ、アンブロシアは成長していった。
普段は白い包帯で顔を覆っているが目は見えるらしく、たびたび窓から上半身を乗り出しては周囲の山や空、列をなして飛ぶ鳥を指差し、そしてパーニャの肝を冷やした。その振る舞いは普通の子供と何ら変わるところがない。それだけに、城の人々がアンブロシアを少なからず忌まわしいものと思っていることが腹立たしい。
パーニャがアンブロシアを育てるにあたって気を付けていたのは、部屋に鏡を置かないことだった。もしアンブロシアが自分の顔を見れば、その普通ではないものにきっとひどく傷つくだろうと思ったからだ。

アンブロシアがひっそりと四歳の誕生日を迎えたある日の午後、ごんごんと扉を叩く音がした。それは知り合いがノックするものよりもずっと荒々しく、パーニャは咄嗟にアンブロシアをベッドの陰に隠した。
「ねえ、アンブロシア! アンブロシア! いるんだろ」
甲高い子供の声だった。
「ぼくだ、マスケラだ。君のお兄ちゃんだよ」
どこかで話を聞きつけたのだろう。アンブロシアの兄がやってきたのだ。
パーニャは扉を押さえ、しゃがんで扉の向こうの少年の高さに口の位置を合わせる。そして扉の隙間から語り掛けた。
「坊ちゃん、恐縮ですがお嬢様にお会いすることはできません」
「……お前、誰だ」
「アンブロシア様のお世話をさせていただいておりますパーニャと申します」
「開けろよ」
「できません」
「ぼくの命令が聞けないのか」
「ご主人様からそう仰せつかっておりますので」
背中にアンブロシアの視線が突き刺さっているのを感じる。
ながい沈黙だった。
「わかった。お父様にお許しをもらってきてやる」
「是非そうしてください」
「アンブロシア! また来るからね!」
いつの間に来ていたのだろう、アンブロシアはパーニャの肩に腕を乗せた。そして声を発しようとしたその間際、パーニャはアンブロシアを抱きしめ、声を出せないようにした。
アンブロシアが胸の中で何かを叫んでいるが、どうやらそれは外には漏れていなかったらしい。
やがて妹からの返事を諦めたマスケラが、重い足取りで階段を下りていく音が聞こえた。
十二分に時間が経った頃、ようやくアンブロシアを解放してやる。腕を離すや否や、アンブロシアは激昂した。

それから定期的にマスケラがアンブロシアの部屋を訪れた。パーニャが「お父様の許可は得られたのですか」と尋ねても、彼は黙して答えなかった。
だからマスケラを追い返すことがおそらく正しいことであったのだろうが、兄が妹に会いたいと思う気持ちを咎める道理が一体どこにあるというのか。
アンブロシアの世話付きを任された人間の責任として、扉を開けて会わせてやることだけはできなかった。しかし扉越しの会話ならば、とパーニャは目を瞑ることにした。
幼い兄妹が一枚の分厚い木の扉を挟んで話をするのを見ながら、パーニャはアンブロシアをただただ憐れむのだった。
マスケラとアンブロシアの件は間もなくメイド長に知られることになったが、パーニャが説得した結果、メイド長も見逃してくれることになった。

アンブロシアが十二歳の誕生日を迎える日のちょうど一か月前、パーニャは城で仮面舞踏会を開催するという話を聞いた。日付はちょうどアンブロシアの誕生日だ。つまり対外的な名目はともかく、内実的にはアンブロシアの誕生日祝いとして開催されるものだ。
「仮面舞踏会?」
首を傾げるアンブロシアにパーニャは説明する。次第にアンブロシアの顔は明るくなっていき、パーニャが説明を終えた後、アンブロシアは第一声、
「ここから出てもいいの?」
と色めき立った。
「ご主人様に感謝しなければなりませんね」
「うん!」
――アンブロシアにとってはこの部屋が彼女の世界だった。アンブロシアが外に出たいと思ったことは一度や二度ではないどころか、ほとんど常だった。アンブロシアが外に出たいと喚き、パーニャがそれをなだめるののがいつものことだった。

それからの一か月間は非常に慌ただしいものだった。
まずは仮面作りと、舞踏会に来ていくドレスや靴、その他アクセサリー選び。それからダンスの仕方や男性にエスコートされる上でのマナーなどを一から練習した。
もちろんパーニャ自身にもそういった舞踏会や社交の場でのマナーに関する経験がなかったので、まずはパーニャ自身がそれらに詳しい人から教わり、それをアンブロシアに教えるという流れであった。
尖塔の最上階、二人きりの小部屋で伴奏もなくステップを踏む。お互い下手だから足が絡み合って転んだのは数知れず、その度に面白くて二人して大笑いするのだった。

「ねえ、どう?」
白いドレスは控え目な見た目であるが、よく見てみればとてもよく凝った作りになっているのだった。アンブロシアのためにしつらえた白蝶の仮面は、パーニャが予想した通りとてもよく似合っていた。そして、彼女の暗闇をしっかりと覆い隠していた。
アンブロシアがその場でくるりと回ってみせると、スカートの裾がふわりと膨らんだ。
「とてもよく似合ってますよ」
パーニャは目を細める。
十二年という年月は、長いようであっという間だった。ここまでのアンブロシアの人生は必ずしも幸せなものだったとは限らないかもしれないが、それでもパーニャにとっては何物にも代えがたいものだった。


【料理長ジャックの記憶】

こんなに大きな催し事だなんて、何年振りだろうか――
「腕が鳴るってもんだ」
丸太のような腕の袖をまくり、ジャックは鼻を鳴らした。
今宵は仮面舞踏会。数日前から仕込んでいた食材たちは今や作業台の上にずらりと並び、あとはそれらを調理するだけだった。
ただ美味しい料理を作るだけではいけない。舞踏会の進行に合わせて出来立ての料理を提供できるよう、逆算しながらコックたちに指示を飛ばさなければならない。
来場者たちの舌と喉を潤すことこそがジャックの役目であり、料理人としてのプライドを実践する場であった。

料理は当初の予想よりもずっと早いペースで消費されていった。
ホールから次の料理を催促する声が右から飛べば、間髪入れずにローストチキンが焼き上がった知らせが左から飛び込んでくる。
「よし持ってけ!」
ジャックは快哉を叫ぶ。
忙しく、一瞬たりとも気が抜けないが、その緊張感はかえって興奮を促し、未だかつてないほど集中力が高まる。そんなジャックの気迫は厨房全体に伝わるのだった。
山盛りだった大皿が空き皿となって返ってくるのを見るのは実に愉快だ。

――――深夜、静まり返った厨房。初めての仮面舞踏会はかくして盛況のうちに終わりを迎え、ジャックは厨房で一人佇んでいた。
「お疲れ様でした」
「や、どうも」
声を掛けてきたのは執事のダニエルだった。
「お客様には好評だったようですよ、料理。旦那様も褒めておいででした」
「そりゃありがたい」
「今後、仮面舞踏会は定期的に開かれるとのことです」
「そうですかい」
「――嬉しそうですね」
「まあ、そうかもしれませんな」
ジャックは自分の口元が緩んでいることに気付いたが、敢えて隠そうとも思わなかった。ここまで心地よい疲労感に包まれたのは、もしかすると生まれて初めてだったかもしれない。
「次もよろしく頼みますよ」
「お任せを」
次回はどんな料理を出そうか。早くもジャックは次の舞踏会で出す料理のことで頭がいっぱいになるのだった。


【バイオリニストサヴェーラの記憶】

弓を構えた瞬間、それがとても良い曲になるのがわかった。
指揮棒が振り下ろされ、それに合わせて最初のフレーズを奏で始めれば、後は流れるようにワルツを演奏するだけだった。
仮面舞踏会と聞いたとき、何か怪しい集まりではないかと思ったが、それはただの杞憂だった。演奏台の上からでも皆が心からこの場を楽しんでいることがわかったからだ。
色とりどり、形も様々な仮面たちがくるくると舞い踊る様子は傍目に見ていて単純に面白いものだった。

……そんな仮面舞踏会はその後定期的に開かれることになったのだが、いつからだっただろう、淀みが生まれてきたようにサヴェーラには感じられた。
明確なものがあったわけではない。ただ、演奏のリズムに対して、微妙に合っていないテンポで踊る人たちが現れ始めたのだ。
始めは不慣れな人たちかと思ったが、一向に上達する気配がないどこか、他の人たちとダンスをする気配さえもない。
率直に言って、それは目障りなものだった。美しかった調和に混じったノイズ。今はまだ無視しようと思えばまだ無視できるものであったが。

しかし淀みは舞踏会が開かれる度に増えていった。それは違和感を通り越してもはや異質さと呼んで差支えのないものにまでなっていた。
彼らは一か所にまとまって踊るフリをしながら仮面舞踏会に“寄生していた”。
一体彼らは何がしたいのか。サヴェーラには解せない。ただひたすらに気持ちが悪かった。そしてそれは楽団全員が感じていることでもあったのだった。

そしてその淀みが最高潮に達した日のこと。
舞踏会も半ばを過ぎた頃、突然ホールに鉄の鎧を身に纏った騎士たちが押し入ってきた。
何が起こったのかわからず皆が混乱に陥る中、誰よりも早く反応したのは淀みの一団だった。彼らは身を翻し、まだ騎士の姿のない出入り口から脱出を図る。しかしそこも騎士たちに塞がれてしまうと、今度は懐から刃物を取り出し、騎士たちに切りかかった。悲鳴をかき消すように剣戟の音が鳴り響く!
サヴェーラは演奏台の上にいたために、ホール全体の様子がよく見え過ぎてしまった。騎士たちは攻撃してきた者に反撃するだけでなく、無抵抗の参加者たちにまでその切っ先を向けていた。
その混乱の最中、どこかで落ちた火が絨毯に引火し、たちまちホールは炎の海に包まれる。
騎士たちは撤退し、扉を閉めてしまう。
熱気と煙に包まれたホールの中、周りの人間たちは一人また一人と倒れていく。
そしてとうとうサヴェーラも倒れてしまった。


【武器商人ザンドの記憶】

ザンドが、山の中のとある城で仮面舞踏会をやっているという話を聞いたのは決して最近のことではなかったが、そこが商売上役に立つという話を聞いたのは最近のことだった。
合言葉は「紅い月の夜」。
「後はうまくやりな」
と情報屋の男はザンドの肩を叩いた。
参加資格不要の仮面舞踏会を開くなど、ここの領主はよっぽど間抜けで酔狂なのだろう。そこは普段はお近づきにはなれないような高貴な方々と商談をするには格好の場だった。誰が最初に始めたのかはわからないが、その仮面舞踏会は裏取引の商談や密談の場として使われていることは、裏世界の人間にとってはすっかり常識となっていることだった。

「紅い月の夜には血のように赤いワインが似合うのでしょうな」
「面白いことを仰る方だ――どれ、あちらへ行きましょうか」
ホールの片隅、怪しまれない程度に適当なステップを踏みながらザンドたちは商談を行う。
普段店を構えていてば一日に数個の商品が売れれば御の字であるのに、ここに来れば数百単位の商品をやり取りすることができる。得られる儲けは桁違いだった。
(なるほど、そりゃ俺みたいなのが集まってくるわけだ)
口元に浮かべた笑みは仮面に隠れるのだから、なお都合がいい。

しかしそんな美味しい場は長続きしないのが世の常だ。
ある舞踏会の晩、突然騎士たちがホールに踏み込んできたのだ。
(ちっ、引き際を見誤ったか)
ザンドたちが大儲けするということは、どこかで誰かが割を食うということだ。その負債は正義の看板を背負って復讐にやってくる。大方、不正の温床となっている仮面舞踏会を粛清せよ、という決議が中央議会で内々に決定され、秘密裏に実行されたというところだったのだろう。
最後の逃げ場もとうとう騎士たちに塞がれ、いよいよ進退に窮した折、室内のどこかから火の手が挙がった。それはたちまちホール中を包んだのだった。


【公子マスケラの記憶】

――夜が明け、全てが燃え尽きた後、マスケラは瓦礫を押しのけ立ち上がった。
「アンブロシア、アンブロシア!」
ところどころからまだ煙がか細く立ち上っている中、マスケラは妹の名を呼び彼女を探していた。
アンブロシア――月に一度の仮面舞踏会の日にしか会えない彼の妹。彼女は白蝶の仮面の通り、蝶の如く軽やかに彼の腕の中で踊る子だった。
太陽が天頂を通って西の山の稜線に沈む頃になっても、マスケラはアンブロシアを見つけることができなかった。あるのはただただ無数の仮面たちのみだ。

やがて日が暮れ、紅い月が昇る。
マスケラは瓦礫の海の上にとうとう膝を突いた。見渡す限り瓦礫、瓦礫、瓦礫。
「アンブロシア、君にもう会えないのか」
ぽつりと呟いた自分の言葉を直ちに自分で否定する。否、断じてそんなことは認めない。

「君と合えるのが仮面舞踏会だけだというならば、父上に代わって僕が何度でも開いてみせる」

マスケラは自分に不思議な力が漲っていくのを感じた。仄かに青く光る魔力の潮流が全身に行き渡るのだ。
腕を天に突き出し力を込める。周囲の瓦礫が、朽ちた仮面たちが、かたかたと揺れ出し浮き上がる。死者の魂は己の仮面を憑代にして再び体を得る。瓦礫たちは罅割れの痕跡もなく元の城の形になおっていく――。

――――。

――。

アンブロシアが目を覚ますとそこはオルデアの膝の上だった。冷たい青灰色の月の光がさめざめと降る窓辺。
アンブロシアは無言のままオルデアの膝の上で泣き続け、オルデアはそんなアンブロシアの髪をただ優しく撫で続ける。


7.魔力の泉

長い螺旋階段を上る間、私の意識はオルデアとリンクしており、彼女が鏡の回廊で見たものは私と共有されていた。それはかつて同一のものだったことの名残か。少なくともオルデアは私にこの城の過去について知ってもらいたかったように思えた。
この城や、それぞれの人々が持つ過去について私は何も言うべきではないだろう。それでも一言感想を述べるならば、痛ましいの一言に尽きる。何が正しいことなのか、オルデアやアンブロシアたちはどうあるべきなのか、そういったことがすっかりわからなくなってしまっていた。
尖塔の長い螺旋階段を上った末に私は小さな部屋を見つけた。そこは、アンブロシアの部屋だった。
「オルデア」
彼女は窓辺のベッドに腰掛けていた。その膝の上ではアンブロシアが丸まっている。
「不貞腐れ方があなたとそっくりなのよ、この子」
……私も、親に叱られたときはいつも押し入れに逃げ込み、そこで丸くなっていたものだ。その時の姿はちょうど今のアンブロシアのようだったのだろうか。
「オルデアはここにいて幸せなの?」
「ここが居場所だとは思ってるわ――どんなにいびつな世界だったとしても。あなたも見てきたのでしょう」
仮面舞踏会に寄生する無数の矮小な悪意を土壌として、兄マスケラの妹アンブロシアに対する妄執で作られた永遠の仮面舞踏会。自我のない仮面たちは傀儡のようにただひたすらに踊り狂い、まだ悪意に侵されていなかった頃の仮面舞踏会を繰り返し繰り返し追憶し続ける。それは彼が妹と再会するための舞台として作られたものだ。
「ねえ、一つ聞きたいんだけど」
「なあに?」
「マスケラはアンブロシアと再会できたの?」
「ああ、そのこと――」
オルデアの声が俄かに曇った。語るか語るまいか、少しだけ逡巡した後、ここまで秘密を共有したならば最後まで教えるべきだろうとオルデアは考えたのかもしれない。
「二人は会えたわ。そして、マスケラはアンブロシアを受け入れることができず、心をなくした」

***

溢れる魔力はマスケラの意のままに働き、あの平和だった頃の仮面舞踏会を寸分違わず再現してみせた。
魔力の胎動がゆっくりと静まり、やがて収まる。そこは見慣れた自分の部屋だった――マスケラは自室を飛び出す。階段を滑るように下り降り、立ち話をする仮面の紳士淑女を押しのけ、アンブロシアの名を呼びながらいつも待ち合わせていた大鏡の前に辿り着いた。
「アンブロシア!」
その声に彼の妹がハッと振り返る。白蝶の仮面に白のドレス。ぼうっとした淡い光に包まれているその姿は、泡沫のように曖昧であった。
マスケラは今しがたまで自分を包んでいた魔力と同じ波動を彼女から感じ取り、彼女こそがその力の源泉だったことを理解した。
「お兄様」
「もう一度、君に会えた」
マスケラはアンブロシアの手を取り、その感触が嘘偽りのないものであることを確かめる。アンブロシアもまたマスケラの手を握り返した。
「アンブロシア、僕と踊ってくれないか」
「はい、喜んで――」
ダンスホールの扉を開くと、あちこちの硝子装飾のそれぞれに小さな灯りが宿り光の雨が降っていた。いつものワルツであるのに既にどこか懐かしい。
吸い付くようにぴっとりと合わさった両の手のひら、それからつま先、彼らは一対で一体の動物のようだった。目配せし合うだけでお互いの思考、気持ち、そして至上の歓喜が伝わり合う。
一度踊ったくらいではちっとも満たされない。だから二人は何度も何度も舞い続け、幾度鐘が鳴っても踊り続けた。
そしてとうとう最後のワンフレーズを踊り終え、最後の鐘が鳴る。
もうこれでおしまいなのだろうか――一抹の寂しさが兄妹の胸中を交差する。
「僕はアンブロシアと一緒にいたい」
今や仮面舞踏会の支配者はマスケラとアンブロシアの二人だった。彼らが望むものは全てが実現する。何者にも妨げられない。

これ以上満ちる余地がないくらい満ち足りた心地でアンブロシアはベッドに仰向けになった。腕を伸ばし、兄の頬を撫でる。
マスケラはゆっくり仮面を外し、初めてその素顔をアンブロシアに晒した。
「綺麗なお顔」
アンブロシアはうっとりと甘い微笑みが浮かべる。
マスケラの手はアンブロシアの白蝶の仮面に向けられる。アンブロシアはぴくりと体を震わせ、身を固くした。
「駄目かい?」
――仮面は決して外してはなりません、とパーニャにきつく言われたことをアンブロシアは思い出す。何故かと尋ねてもパーニャはとうとう教えてくれなかった。
しかし今、アンブロシアは心が揺れていた。マスケラに全てをさらけ出してしまいたい。己の身を貫く衝動はアンブロシアの手に負えるものではなく、戒めを守る心はとうとう押し負けてしまう。
アンブロシアは頷き、顎を少し上げた。
マスケラの嘆息。
震える指が白蝶の翅に触れ、持ち上げる。青い月の光が、仮面の下のアンブロシアの顔を照らしていく。さやけき月光でも照らされない虚無の暗闇が露わになる。禍々しく、忌避感を免れ得ない、蠢く暗闇が。
――冷たく凍っていく顔を見るアンブロシアの不安な心地は筆舌にし難い。
「どうしたの?」
「アンブロシア、その顔は……」
努めて優しく振る舞おうとするその声は、隠しようもなく震えていた。
その瞬間、マスケラは全てを理解していた。なぜ両親や使用人は自分にアンブロシアの存在を隠したのか、なぜマスケラがアンブロシアの存在を知った後も頑なに会わせなかったのか、なぜ実の兄妹でありながら仮面舞踏会でしかアンブロシアと会うことができなかったのか、そしてなぜアンブロシアの仮面が外されることがなかったのか。全てはアンブロシアの秘密を隠すためだった。それはマスケラに対してだけでなく、アンブロシアの秘密を知る資格のない全ての者に対して秘匿されてきた秘密であった。
「なんて惨い……」
絞り出された言葉は、アンブロシアの耳には侮蔑の言葉として聞こえてしまった。たとえそれが、妹の不幸な生い立ちを憐れみ嘆いたものであったとしても。
アンブロシアは手で顔を覆って泣きじゃくる。虚無の暗闇がその手を慰めるように優しく包む。
「違うんだ、アンブロシア――」
マスケラが差し伸べた手をアンブロシアは手厳しく振り払う。そしてマスケラを突き飛ばし、部屋を飛び出していった。
アンブロシアが風よりも速く螺旋階段を下り降りる一方、マスケラの踏む石段は粘りつくように靴の裏に絡みつく。マスケラが生み出した城であったはずなのに、今やミ・ルシェの主はアンブロシアただ一人であるようだった。待って、とアンブロシアを呼ぶ声は虚空にこだまし届かない。

人のいなくなった広間にアンブロシアが滑り込む。勢いそのままに大鏡の前に立ち、宙からランプを取り出し鏡を照らした。
そこに映るのは、初めて見る己の素顔だった。蠢く虚無の暗闇がそこにあった。明らかに常人のものではない、異様で気味の悪いものがそこにある。
そうか、全てはこれを隠すためのものだったのか、とアンブロシアは悟った。世話付きパーニャの機転か誰かからの差し金かわからないが、アンブロシアが育ったあの部屋には鏡というものがまったくなかったことに改めて気づく。自分の体、それもすぐ近くの顔に、こんな秘密が隠されていたことなどまったく知らなかった。
騙された、裏切られた、と腹を立てるが、この怒りのやり場はどこに向ければいいのだろう。
アンブロシアは指先から魔力の糸を飛ばし、城の奥からパーニャの仮面と魂を射抜いてこちらに手繰り寄せる。パーニャは仮面を憑代に、青白い霊体となってアンブロシアの前に現れる。
もの言わぬパーニャの亡霊は虚ろな顔で俯いている。アンブロシアの罵声にもぴくりとも反応しない。それは、ただのパーニャの形をした人形でしかない。
この裏切り者……!!
カッとなったアブロシアは、パーニャの仮面を掴み、地面に叩きつけ、仮面を粉々に踏み割ってしまう。憑代を失ったパーニャはうっすらと薄らいでいき、間もなく消え失せてしまった。そしていよいよアンブロシアは復讐する相手をなくしたことに気付いた。
「アンブロシア!」
その時ようやく追いついたマスケラが、壁に手をつき肩を上下させている。
「嫌! 来ないで!」
一層激しくアンブロシアの虚無の暗闇がざわめき、一層強くアンブロシアの魔力は高まった。脈打つ怒気は心臓が高鳴るたびにますます激しくなる。
「みんな嫌い!」
悲鳴のような叫び声は衝撃波となって周囲の一切を吹き飛ばし、マスケラの体も背後の壁に叩きつけられた。マスケラは一瞬のうちに呼吸を失い、体から力を抜けていくのを感じる。しかしそれは、単に意識が遠のいていくだけでなく、自分の魂が強烈な力で束縛されていく感覚でもあった。アンブロシアが力任せに自分を押さえつけ、城に埋めてしまおうとしているのだとわかった。自分がだんだんただの城の一部になっていくことよりも、アンブロシアに誤解されたまま消えていくことの方がよっぽど辛いことだった。
じくじくと膿んだように顔の表面が傷む。アンブロシアは自分の顔を覆う暗闇が魔力の泉であり、自分はその力を使いすぎたのだとわかったが、そんなことよりも胸の内の方が痛くてたまらなかった。

かくしてアンブロシアはミ・ルシェにただ一人取り残されることになった。
その強大な魔力故に果てることも叶わず、ただいたずらに仮面舞踏会の夜を繰り返すしかなかった。
記憶はやがて風化し、なぜ自分がここにいるのかも忘れてしまった。楽しかった仮面舞踏会の記憶だけが、彼女のただ唯一の憧憬であった。

***

広間の大鏡の前でオルデアが語り終えると同時に、大鏡は再び元通りのただの鏡に戻ってしまった。
「可哀想なアンブロシア」
オルデアがぽつりと呟く。
「いつかあの子の魔力が枯れ果てたとき、あの子は解放されるんじゃないかって思ってるのよ」
「それまでどれくらいの時間がかかるの?」
「さあ。でもいつかきっと」
――あなた一人の力でどうにかするには、この世界は歪み過ぎている。
オルデアが言った言葉を思い出し、その意味をいまさらになってかみしめる。それでも何か、どうにかできる余地があるんじゃないかと頭を巡らせるが、アイデアは何も浮かばない。

三つ目の鐘が鳴る。重苦しく、腹の底に響くような鐘の音は今宵の仮面舞踏会の終演を知らせるものだった。

「時間切れ。さあ、お帰りなさい」
「…………」
私は元の世界に帰り、オルデアはほとんど永遠みたいな時間をここで過ごす。結局これしかないのだろうか。気持ちのいい結末とは到底言えるものではないが、現状それ以上のものが出てこない。オルデアを諦めない、と啖呵を切った自分は結局口だけで終わってしまうのだろうか。そう思うといささかばつが悪い。
「あなたともう一度会えるなんて思わなかった」
「そんな寂しくなるようなこと言わないでよ」
私はもう二度とオルデアと会うことはないのだろう――そう思うと喉の奥がきゅっと苦しくなる。
「送っていくわ」
彼女もまた名残惜しげに言ってくれるところが嬉しい反面、己の無力さが悔しくなってしまうのだった。

――オルデアぁ、どこぉ……

遠くからアンブロシアの、眠たいような鳴き声のような掠れ声が聞こえてきた。
我儘で自分勝手なお嬢様に対する反感がすっかり孤独な少女を憐れむ気持ちにすっかり変わっていることに気付き、そしてそんな自分が少しだけ嫌になる。
「オルデア、いなくならないでよ……」
影を泳いで移動してきたアンブロシアは、物陰から現れ、オルデアの背中にぎゅうと抱き着いた。白蝶の仮面はしっかりとオルデアの顔に張り付いている。
「お客様のお見送りに行って参ります」
「えー、そんなのいいよ」
アンブロシアはオルデアの脇から顔を出し、思いっきり顔を顰め、舌を突き出した。
「私、あの子嫌ーい」
「……お嬢様、お客様に失礼です」
「私は気にしてないから」
オルデアが心苦しげに眉を顰めるだけで私は十分だった。
「見送りもいいよ。……じゃあね」
あまりもたもたしているといつまでも出ていける気がしなかったので、思い切りよく足を踏み出した。
元の世界に戻って目覚めてしまえば、自分はまたオルデアのことを忘れてしまうのだろうか。せっかく思い出せたのに。だから、忘れないようにしよう、もう二度と……。


来ていたドレスや仮面を元あった場所に返し、着替え直して城を出ると東の空がすっかり白じんでいた。あれほど賑やかだった仮面舞踏会はすっかり終わり、城全体が眠ったようだった。
中庭を通って裏門を抜ける。振り返って見上げてみれば、そこには冷たい石の壁が空高くにそそり立っている。
「おおい」
私を呼ぶ声がする。それは黒マスクの青年だった。
「無事に乗り切ったようだね、よかった」
「よくも私を置き去りにしてくれたわね」
「急用ができてしまってね――悪かったと思ってる」
「まぁ、もう済んだことだからいいけど」
「送っていくよ。あんまり長い間は無理だけど」
「無理しなくていいよ」
「君を送っていきたいんだ」
「……そう」
青年は肩を上下させていた。相当急いで走ってきたのだろう。
どうして彼はそこまでしてくれるのだろう、と考えて、そして考えることをやめた。
「舞踏会はどうだった?」
「色々なことがあったよ。一言じゃ語り切れない」
「そうか――でも、君が本当に無事でよかったと思う」
「助けてくれる人がいたから」
もしも、最初に会ったのがアンブロシアだったら、私はどうなっていただろうと思うと、ぞっとする。彼女の可哀想な身の上に同情して、安易に「お友達になってあげる」などと約束をしていたら、きっと無事に城を出られることはなかったのだろう。しかし、だからと言って、アンブロシアと共にいることを選んだオルデアが、罠にかかった可哀想な囚われ人であるかというと、それも違うように思う。それは選択の余地のない選択だったのかもしれないが、結果的に彼女はそれを受容した。片や私は、アンブロシアの友達になるかならないかという最低限の選択の余地があった上で、一つの選択をした。理想を言えば、オルデアも、そしてアンブロシアも、皆が救われるのが良かったのだが。
決して最善とは言えない結果に終わってしまったことを、仕方ないと正当化するにはきっと時間がかかるだろうし、そもそもそうすることに私の良心がどこまで耐えられるかというと、それは未知数である。
「あなたにもお世話になった」
「……そっか」
無言だが、お互いの距離感を噛み締め合うような時間が流れる。
一歩、一歩が愛おしい。

小橋を渡り、森の入り口が見えてきた頃――。
ズン、と大地が揺れ、森から無数の鳥がはばたいた。
何事かと振り返ると、それは今まさにミ・ルシェが瓦解していく最中であった。尖塔が折れ、落ちて地響きを鳴らす。
土煙が立ち込める中、漆黒の巨人が立ち上がる。その頭は雲にも届く勢いで、黄金色の双眸を旋回させて何かを探している。
「――ッ! 走って!」
黄金色の双眸が私と青年を捉える。
地を這う大蛇のような黒い腕が、石畳を巻き上げながらこちらに迫ってくる。
あれは怒り狂ったアンブロシアだった。漲る魔力が際限なしに解放した結果だ。
漆黒の巨人の表皮から離れた黒い粒が鴉の姿を成し、次々と私たちに襲い掛かってくる。硬い嘴が容赦なく頭や肩を突き、皮や肉が啄まれ、その痛覚に思わず悲鳴を上げてしまう。

――やめて、やめてよ、アンブロシア!

青年が叫ぶがそれは怒りで我を忘れたアンブロシアにはまるで届いている気配がない――青年は舌打ちをする。そして、
「オデット、君は僕が守る」
青年は漆黒の巨人に向き直る。鴉たちがいっせいに青年を取り囲んだ。
「走って!」
「嫌だ!」
「走れ!」
黒い腕が瞬く間に押し寄せ、青年を掴む。一瞬のうちに青年の体は空高くまで持ち上げられ、鴉に啄まれた黒マスクが剥がれ素顔が露わになる。
頬にそばかすのある、女性の顔。苦しげに顔を歪め、唾を飛ばしながら私に「逃げて」と叫んでる。
初めて見る顔だが、それが何者かなど、わかりきったことだった。
「オルデア!」
オルデアは巨人の手の中で身を捩るが、巨人はびくともしない。そうしているうちに、巨人の拳からアンブロシアが身を起こし、オルデアの頬を両手で包み、額と額を重ねる。その顔から溢れる虚無の暗闇が、泥のようにオルデアの頭に降りかかる。
「オルデア、ひどいよ……私を捨ててここから出ていくつもりだったんでしょ」
「違う……私はあなたを裏切ったりなんかしない」
「嘘つき。じゃあなんで男の人の格好までしてお城を抜け出したの。メイドの格好のままじゃ私の目を逃れることができなかったからだよね」
「信じてよ、嘘じゃない、私はただ」
「うるさあい!」
アンブロシアから噴き出した暗闇がオルデアの全身を包み込んだ。
ヘドロのように垂れた暗闇が飛沫となって私の足元近くまで跳ねた。


***

……その後のことはよく覚えていない。
ただ一つ確かなこと。それは、私はあそこから逃げ出した、ということだった。
オルデアを見捨て、我が身可愛さを第一に、みっともなく、腰を抜かしながら森の奥まで逃げてきた。
出口が針の穴よりも細くなり、手元も見えない暗黒となり、何も考えられずただ歩き通し、気が付いた時には私は森の中の少し拓けた場所にいた。
朽ちた大樹には体がすっぽり収まりそうな洞があった。私はそこに身を忍び込ませ、ぎゅっと膝を抱えて目を閉じた。


8.夢の終わり

身体を起こすとそこは柔らかいベッドの上だった。夏場の遅い日暮れの名残が、窓の外にあった。
「ごはんだよ。……まったく、この子は本当に寝てばかり」
母だった。

今さっきまで見ていた夢のことは鮮明に思い出せる。
山の奥深くにある古城、艶やかな仮面舞踏会、鏡に映し出された様々な人々の記憶、そしてそれらをすべてかき消すような巨大な漆黒の体躯、その拳に囚われた男装の麗人、そしてその人が自分にとってかけがえのない人であったこと。
「オルデア」
涙が玉となって滴る。

私は自分のことが許せない。

せめてこの名前は忘れてはならないと、メモにきつく書き記した。

(了)

***

38,397字。
長期RP村、<a href="http://redabyss.sixcore.jp/abyss/sow.cgi?vid=224&cmd=vinfo" target="_blank">深海国(赤)224 とある仮面たちの舞踏会</a>に寄せて。

2011年12月7日水曜日

風香の行進

  一.
 
 立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花――東の国の洒落た言い回しを理解する機微が彼の国の者どもに備わっているかどうかは知らぬ。
 一人の娘が歩いている。名は風香という。風に乗って香る腐臭の甘く芳しいことに名は由来する。十の花の香りよりも甘く、蜂蜜のようにねっとりとした香りである。その匂いを嗅げば誰もが振り返る。あの芳しい娘御は何者だろうと気に掛ける。そうしていよいよ声を掛けてみれども反応がなく、顔を覗き込んでみて、ぎゃっ、と腰を抜かすのだ。腐れば腐るほど芳しくなる性質はなるほど稀有である。
 風香嬢は吐瀉物やごみにまみれた路地裏を歩いている。一歩一歩に渾身の力を込めて歩いている。曇天の薄暗い空の下を徘徊している。ずるり、ぺちゃり、という音はぼろの靴が石畳と擦れたり、同時にむき出しの肉と踵が叩きつけられたりする音である。前のめりの体躯はいかにも屍人らしい。両腕を前に突き出すやり方が世界の東西に共通する屍人の典型的スタイルであると知られているが、風香嬢はそうではなく、両腕を肩からだらりと垂らしたまま歩く。全体的にガスを含んでいるのでいくらか体が浮腫んでいるように見えるが、元が細身の少女であったので、かえって健康的にも見えなくはない。もっとも、後姿だけであろうが。黒色のショートボブは色艶を失って久しいものの代わりに波打つウェーブを得て、それはそれで似合っていて愛らしいものである。元は真っ白だったワンピースも雨風に晒された結果、若干くすんだ灰色になってしまっている。袖の辺りが黒ずんでいるのは腐汁によるものである。
 読者諸君においては色々抱く疑問に感じるところもあることだろう。一、風香嬢は何者か、二、風香嬢はどこから来たのか。三、風香嬢はどこへ行くのか。四、先刻より訳知り顔で喋るお前は何者か。これらの問いに順番に且つ簡潔に答えれば以下の通りである。愛すべき宝である、知らぬ、知らぬ、風香嬢を愛好する者の集まり、である。
 我々のうちの誰が最初に風香嬢を発見したのかは、もはやわからぬ。我々は各々が風香嬢と運命的な出会いをし、風香嬢を背後十メートルからお慕い申し上げるという唯一絶対の共通目的の下に連帯しているのである。我々はこの絶対的な目的にのみ規律される。硬直化した組織にありがちな賞罰を伴うルールも階層的権力構造も要さない。我々は我々という呼称のみで我々のアイデンティティを表現することができる。この点において我々は洗練されているのである。風香嬢を先頭に、昼も夜も行進を続ける。晴れの日も、雨の日も。風香嬢が行く道こそが我々の歩む道である。どうぞ読者諸君は目の潰れるほど眉を顰めるがいい。我々とて風香嬢と我々の旅の魅力が容易に理解されるとは思わないし、そもそも理解されたいとも思わない。しかし、もしも、共感を得られるところがあればなかなか心強い。
 閑話休題。話を戻そう。
 風香嬢の旅はいよいよ東欧にまで至ったところであった。前日の昼ごろに国境を跨ぎ、夜半に都市部に入り、夜が明け間もなく東欧人が闊歩する大通りに侵入する。
 これほどの大人数の前に風香嬢が登場することは、少なくとも我々の大多数が共有する歴史の中では初めてのことであるため、今朝より我々は大変緊張していた。我々の緊張に反して路地裏の何と静かなことか。この辺りの住人にとっては太陽が天頂を跨ぐまでは夜の内であるようである。静けさ故に、間もなく訪れるであろう革命的瞬間に対する想像が促進される。結果、ますます緊張し、様々な感情や考えが嵐のように我々の内で暴れまわる。風香嬢が彼らの前に現れた時、風香嬢は間違いなく大衆の目を惹くだろう。その約束された未来が誇らしい反面、我々は同時に怯えもする。衆前に晒され辱められるかもしれない。我々はその可能性を恐れ、あるいはあらかじめ憤る。長身で裕福な西洋男子が風香嬢の心を射止め風の如く攫っていってしまう可能性も危惧する。風香嬢は我々の象徴であるが故に、風香嬢が失われることはあってはならないのである。我々はその可能性を最も恐れている。しかし我々は平和的であることを是としているのである。徹底的に見守ることを是としているのである。どのような事態にあっても、我々は決して暴力的な手段には訴えてこなかった。誇るべき歴史である。
 日が昇るにつれて空を覆う厚い雲は途切れ、雲の切れ間から差し込む光が路地裏を照らしていく。風香嬢が行く跡には腐汁の足跡が点々と残る。これはすなわち旅の軌跡である。いつ始まったとも知れぬ軌跡の途上で、我々は我々を形成していったのだ。はじめは数えるほどであった我々も今や背後数メートルにわたって群れを為す集団に成長したのだ。
 喧騒が近付く。近付くほどにここがいかに静かであったかが改めて強調される。嵐の前の静けさよ、と我々の一人が呟きほくそ笑んだ。
 路地裏の出口は眩い光で満ち満ちている。そこを抜ければ人があるだろう、車があるだろう。魔術や神秘を太古に追いやった者らが作りあげた文明があるだろう。それらは皆、今日この日まで、ソンビとはグロテスクで生理的に厭悪すべきものであるという前時代的な固定観念に囚われてきたであろう者たちあるいは前時代的固定観念の象徴である。風香嬢の存在が我々にとってそうであったように、彼らにとっても風香嬢の存在は革命であるに違いない。然らば驚嘆を以て我らが風香嬢を迎えるべきである。
 
 旧き世の者どもよ、剋目せよ!
 
 かくして風香嬢は光の中に飛び込んだ。眩い光が風香嬢の輪郭を融かし、影が背中の一点に収束していく――その背中が光に完全に隠れるまでの数秒間を我々は息を止めて見守った。花の香りがふっと遠のいたような心地がした。この瞬間が、一つの区切りであることを我々は同時に理解した。風香嬢と我々はここまで来たのだ、という達成感がある。
 しかしこれは決して終わりではない。またここから全てが始まるのである。風香嬢がどこまで行くのか――我々はそれを見届けなくてはならない。そのためだけに我々は我々以前の社会生活の全てを捨ててきたのだから。ある者には仕事があり、養うべき家族もいた。読者諸君よ、愚か者、と嗤いたければ嗤うがいい。嘲るがいい。我々は我々になるために生まれてきたといっても過言ではないのだ。我々の魂は常に風香嬢と共にあるのである。
 耳を澄まさずとも聞こえてくる……。
 嬌声めいた阿鼻叫喚よ!
 まったく愉快、痛快、爽快である。革命的にして楽しい宴は今まさに始まったのだ。
 さあ、我々も行こう。
 我々は東欧の街を行進するべく、誇りに満ちた一歩を踏み出すのである。


 二.
 
 風香嬢は四車線の中央を闊歩する。車も人も風香嬢から一定の距離を作り、遠巻きに風香嬢と我々の行進を眺めていた。風香嬢は、かつて仏国にいたという農民の戦乙女よろしく、勇ましく道を拓いていく。風香嬢が行けば自ずと道が拓けていく。我々は風香嬢が切り拓いた道を行く。
 まだいささか冷たい春風の吹く太陽の下を、大手を振って歩くのはまさしく爽快の一言に尽きる。我々のうちの調子の良い者らが七色の紙吹雪を振り撒く。笛を吹く。このように風香嬢の行進をは祝福される。
 しかしこれだけ派手にあらゆる意味での社会的規範や常識や良識を逸脱すれば、道徳と規範の塊が我々の前に立ち塞がるのもまた時間の問題であった。
 我々を追い抜いた公僕の車が三台ほどドリフトを利かせつつタイヤをけたたましく鳴かせつつ風香嬢の前に停車し、のっぽとでぶっちょが踊り出るや否や異国の言語で罵声を捲し立て始める。が、無論、我々に通じるはずがない。ましてや風香嬢には音が通じているかも怪しい。
 立ち止まる気配のない風香嬢に公僕どもは慌てふためき、腰から下げたピストルを引き抜いた。
 暴力的な牽制に我々は徹底的なブーイングを試みる。しかしその銃口が我々に向くと、元来人畜無害な我々は脆くもその暴力的牽制に怯んでしまう。
 怖れを知らぬは唯一風香嬢である。風香嬢は生者の論理にはそもそも関知しない。風香嬢は風香嬢の行く道を行くのみである。風香嬢は車両の間の隙間へ向かって歩を進め、通り抜け、再び拓けた道を行くのである。風香嬢にとっては公僕の車両など突然目の前に現れた障害物以外の何ものでもない。路傍の石と変わりない。このような障害に対しては避けて通れば済む話以上の何ものでもないのである。このようにして風香嬢の前では公僕の権威の一切が無視される。反抗ではない、無視だ。ただののっぽとでぶっちょに過ぎない彼らがふてぶてしくいられるのはその制服に裏打ちされた権威があってこそである。その権威が元来実体を持たないものであることを、風香嬢はまざまざと示して見せる。至極愉快である。至極痛快である。至極爽快である。風香嬢の在り方は我々のような元来ひ弱な者どもには大変輝かしく見えるのだ。
 すれ違いざまに香った風香嬢の芳しく濃厚な腐臭が公僕の鼻腔を通じて脳を麻痺させたらしく、彼らは蕩けたような顔をしている。こうなれば我々とて恐るるに足らぬ。公僕を避け、車両を踏み越え、風香嬢の背後十メートルに続く。
 我々が通過した後には踏み荒らされて凹凸と汚れの激しい車両が三台あるのみである。公僕どもはもういない。あるのは我々である。
 
 かくして我々の第一歩は比較的平和裏に達成されたものと判断できよう。あの暴力的牽制はいただけないが、結果的に怪我人がなかったことで溜飲を下すことにする。
 その後、風香嬢と我々は二時間ほど四車線を行進し、風香嬢と我々は大通りを外れた。今は夜更けである。長く続く田園風景の一本道を風香嬢を先頭に、その後ろ数十メートルを細く長くなった我々が追従している。
 月灯りの下の風香嬢はやはり日中よりも生き生きとしているように見える。死者に“生き生き”という表現が不相応であるならば、“潤っている”と言い換えよう。銀色の光が風香嬢を包み、夜風に乗って花の香りが流れ、その香り列の末尾までに行き渡る。土は柔らかく虫の音は細やかに。不穏な気配は微塵もなく、夜さえ明けなければ永遠にこのまま行けるところまで行けることだろう。
 至福である。
 我々は風香嬢のすらりと伸びた赤黒い指をいつまでも眺めていたかった。眺めるに飽き足らず、たとえば爪の剥げた指をそっと両手で包んでやりたい劣情にもほんの少し駆られることはあった。我々の秘めたる欲情を列記すれば、それは十人十色である。風香嬢に並び、その柔らかな手を取り指を絡めたいと思う者がいる。肩を抱き寄せ、風香嬢に一時の安らぎを提供したいと思う者もいる。午後三時のカフェテラスでエスプレッソを嗜みたいと思う者もいる。黒ずんだ唇を優しく食み、内腔に舌を這わせ、ぷくぷくに膨らんだ風香嬢の舌と絡ませたいと思う者もいる。あるいは風香嬢と床を共にし、肉体的調和を通じて精神的な融合を果たしたいと欲する者もいる。しかし我々は我々であるからこそこの尊い関係を維持できるのだと思えば、一人の男になることを抑えることができるのだった。自制は美徳である。
 夜が明ける頃には次の街に着くだろうか。問いは直ちに我々の列を縦断し、末尾まで行って返ってくる頃には秒単位の正確な計算結果が我々全体で共有されている。これは多様性の賜物である。
 
 明くる朝の朝刊の第二面は風香嬢に関する話題であった。まずまずの戦果である。昨晩からの新入りが早速記事を翻訳し、例によって情報のフローが我々を一往復する頃には我々は記事の要約を共有しているのである。
 その要約は、以下の通りである。
 A通りに突如出現した正体不明の一群、その先頭に立つのは齢僅かの東洋人の少女である。目撃者の談によれば、少女の衣服はぼろぼろで、皮膚は融け、肉は削げ、文字通りの意味でゾンビであったという。こう記した上で記者は以下のように述べている。21世紀のこの時代ゾンビなどとはまったくただのファンタジーである――このように一笑に付し、一応仮説と断った上で更に以下のように述べている――おそらく悪ふざけの一環に違いないだろうが、ただしこれだけの大衆の目を欺いた点を鑑みれば大変手が込んでいたことは認めざるを得ないだろう。そして記事は風香嬢と我々の行先に触れ、その行先に相当する市街の住民は十分警戒されたし、という旨の内容で締めていた。
 実に、中身のない記事であった。我々は紙とインクの無駄であると嘲った。少なくとも記者自身は風香嬢の存在を信じていないようだった。己の目で見たものを伝えないジャーナリズムがどの面を下げて真実を語るというのか。
 我々の経験上マスコミによる風香嬢の記述は、自然科学の常識に囚われた結果、往々にしてありのままの風香嬢を認めない傾向にある。最も多いのは今朝の記事同様、手の込んだコスチュームプレイであるという解釈であり、言い換えればそれが一番もっともらしい答えなのだろうと推測できる。この認識はおそらく我々がどれだけ真摯に風香嬢の存在を訴えたところで変化しないだろうし、逆に風香嬢がまさしく生ける屍である証明が要求されることになるだろう。生と死を定義し、それらが同時に成立している状態を証明できなければ、風香嬢はゾンビであるという命題そのものが偽であったと判断され、風香嬢を言語的に描写することの正当性を失う。しかし文字通りの生ける屍という状態を定義し弁別できる尺度を我々は持たない。そのため実証主義者どもは、それ見たことか、と言わんばかりの得意顔で鼻を鳴らすことだろう。宗教家もまたきっとおそらく教義上の理由で存在を否定するだろう。その他色々な立場の者どもがそれぞれの理由でこれまでの常識に馴染みのない風香嬢を否定するだろう。全ては自分たちの常識を前提とするが故の話である。まったくもって愚かしいことであった。
 現に、風香嬢は、存在する。
 これ以上の存在証明がどうして存在しようものか。
 人というものはおかしなもので、目の前の現実と己が信じる常識との間に乖離が生じた時は往々にして、己の常識を反省する前に現実に対する解釈を歪曲させる。あれは何かの間違いである、あるいは例外である、故に自分の常識を否定するものではない。このように頑なであるからこそ守れるものがある一方、見失うものがあることは大抵の場合は気付かれない。我々が風香嬢に惹かれる理由の一つはそういうところにあるのかもしれない。すなわち、“常識外れ”が大手を振って歩く姿を発見することあるいは発見してしまったことで、その“常識”自体が外れたものであったことに気付かされるのだ。世界はかくも広い――新たな視点は常に我々に新鮮な感動と興奮を提供するのである。ならばもはや風香嬢という存在が己の常識の中でいかに非常識的であったかを論じている場合ではない。新鮮な感動と興奮をままに味わう方がよほど生産的ではないだろうか。
 風香嬢は行く。
 夜明けが訪れる。鮮烈な朝日が風香嬢の背中を照らし、影が標のように西へ西へと延びている。その背中に我々は心の内で呼び掛ける。
 行けよ、行け。
 その腐った足で行けるとこまで行けよ、風香嬢。


 三.
 
 風香嬢と我々の旅路は中欧を越えたところに差し掛かった。街を抜け、川を渡り、山を越えた。歩けるところは全てが道である。
 行く先々で風香嬢は人々を驚かせ、時に悲劇的な暴力的牽制の憂き目に遭うこともあったが、最終的には何者も風香嬢を阻むことはできなかった。牽制に遭遇する度に我々も肝を冷やした。しかし、二時間一話で完結する勧善懲悪の物語よろしく最後は風香嬢の勝利で幕を閉じるのである。その度に我々は同志を獲得し我々はより大きな集団へ成長していく。
 これから語るのは、数多の勧善懲悪物語の中のエピソードの一つである。数あるエピソードの中でもこれを選んで語ることにしたのは、このエピソードが我々の風香嬢と我々自身に対する考察を深めるきっかけになったからである。しかし我々は決してこのエピソードのもう一人の主人公には感謝することはないだろう。
 語るにあたっては一抹の苦々しさを感じずにはいられないが、それでも語るべきエピソードであると信じているので語るのである。
 だが、一度だけ、口汚い言葉で罵ることが許されるのならば、我々は口を揃えてこう叫びたい。
 ネクロフィリアなンざ漏れなく例外なくく全員くたばッちまえ!
 異論は受け付けよう。
 
 我々の色眼鏡が多分に含まれていることを前置いた上で言うことであるが、風香嬢は大変可愛らしい。
 たとえば時折見せる物憂げな横顔。目尻から垂れる汁は涙のようにも見える。その涙を己が人差し指の背で拭ってやりたいものだと我々の誰もが思っている。だが、そのような妄想が下賎で低俗であるとラベリングされる根拠が、風香嬢と我々の間の十メートルの空白にある。その空白は我々が風香嬢に近付けるぎりぎりの距離である。その絶対的な隔たり故に風香嬢は高次の精神的象徴に昇華されるのである。
 たとえ我々が風香嬢の前に立ったとしても風香嬢は我々を見ないだろう。涙を拭ってもそもそも涙を流しているとすら思っていないだろう。思うという感情的行為すらもそこにはなく、我々の目を通じてかろうじて“在る”という限りなく消極的な動詞が適用されるのがせいぜいである。そのような在り方を指して孤高と呼ぶのは必ずしも適切ではない。風香嬢は我々にとっての象徴であるが、風香嬢自身は何かしらの行為の主体ではない。風香嬢はレンズである。レンズを通して我々は我々が知り得ない世界を垣間見る。しかし同時に、その背中を見つめる度に我々は何とも言えず心を締め付けられるような甘美な痛みに襲われるのである。これは恋であるか。断言しよう。恋である。我々の誰もが泣きたくなるような恋をしているのである。
 儚く、幽か。そして力強く。
 上記のような言葉に集約することが適切かどうかはわからない。しかし、我々が信じる風香嬢の魅力を語る上では、このような精神性に対する言及を欠かすことはできないのである。
 精神性。
 読者諸君は、どうかこの単語を手元の紙にメモするなりして常に念頭に置いていてもらいたい。くどくどと論じなければならぬほどに、このキーワードは重要なのである。
 
 さて、本題に移ろう。
 小雨の降る夕暮れであった。そこは人通りの少ない住宅街の一角で、狭い通りを挟んで立ち並ぶアパート群は一様におんぼろで、ドットのパネルのように虫食いで各々の窓は灯りを孕んでいた。足早に駆ける人がおり、慌しく洗濯物を取り込む人がいる。暗がりに加えて雨が風香嬢の香りと気配を殺しているせいか、風香嬢は誰にも気付かれなかった。誰もが自分のことで精いっぱいであるようだった。
 辺りはますます暗くなり、人の通りもほとんどなくなってくる。代わりに街灯がジ、ジ、と鳴り始め、間もなくその役割を果たそうとしていた。
 雨が風香嬢を濡らす。髪は水気を取り戻し、頬にぴたりと張りついていた。ワンピースも水に染みて黒ずみ、ふくらはぎを水滴が伝う。道に迷った仔犬のような――そんな風にも見える。
「お嬢さん」
(その声を聞くや、我々は現地語を解するものを数人先頭に立たせて同時通訳を試みる。例によって伝言ゲーム式情報伝達法を用いてリアルタイムでの情報共有を行った。)
「傘も差さずに歩いては風邪を引いてしまいますよ」
 風香嬢に語りかけたのは一人の初老の紳士である。スーツに帽子にステッキに豊かで白い口髭と、絵に描いたような紳士である。その身なりはこれからコンサートに向かうことを我々に予想させた。
 このように風香嬢が人に話かけられることは決して少なくはない。しかしいずれの場合も、風香嬢がただの美少女ではなくれっきとした死体であることが分かった時点で、不届き者たちは早々に退散してしまうのが常であった。
 だが。
「屋根のあるところまでご案内しましょう」
 差していた傘を半分差し出したところで紳士の手が止まる。驚きをもって風香嬢を上から下まで舐めるように眺める。風香嬢は我関せずという風で歩を進めていく。すれ違いざま、風香嬢独特の香りが踊った。
 紳士は一言、信じられない、と呟いた。みるみる間にその目に邪な光が宿っていく。
「お急ぎのようですな、車をお貸ししましょう」
 紳士、もとい淫猥で肉体的性欲に忠実な獣は己の半身が濡れるのも構わず傘で風香嬢を雨と周囲の目から守る。間もなく薄暗い住宅街から抜け出すと、通りに停めてあった高級車の形をした牢へ風香嬢を促した。そしてすっかり風香嬢を閉じ込めてしまうと自身もまた運転席へ乗り込み、とても紳士的とは呼び難い動作で車を走らせ、たちまち他の車の中に紛れてしまう。
 あっという間の出来事であった。しかし我々には十分な時間であった。外見的特徴や車のナンバープレートという客観的証拠から獣の氏名や住所等の社会的情報を明らかにし、風香嬢に対する行動的特徴から車で向かう先にあたりをつけることなど、我々にとってはさほど難しいことではない。
 我々は期間限定的な指揮官を速やかに定め、風香嬢の安全を確保し再び旅路へ回帰させるという暫定的目標の達成に関する一切の権限を承認した。指揮官殿は簡単な挨拶と所信を表明した後、収集された情報と予想を基に、ハコという意味での組織を形成し、各々のボックスに人員を配分し、情報のやり取りに関する取り決めと、各小隊に許される裁量の境界を設定した。
 諸君らの健闘を祈る、以上。
 かくして我々は夜の街に散開する。
 
 風香嬢発見の一報がもたらされたのは散開からわずか十分後のことである。場所は郊外にある獣の邸宅であった。
 我々は続々と目標の邸宅に集結し、正門、裏門、ガレージと退路になり得るところを優先的に制圧した。同時に先行隊が邸宅の探索を開始し、まもなく二階の寝室に風香嬢が軟禁されていることが明らかになる。木に登り、窓から中の様子を伺った一人によれば、風香嬢は出口を探して部屋の中で円を描いている、とのことだった。
 以下の描写は、視覚的描写については窓の外から観察する者からの、音声的描写については部屋の外で待機する者からの、各々の報告を合成してなされたものである。もしも描写に多少の悪意が感じられるとすれば、それは一次的には観察者自身の非公正性によるものであるが、二次的にはその非公正的報告を修正することなく受け入れた我々の暗黙的総意によるものである。
 
 獣は隣室から酒瓶とグラスを持って現れると、椅子に荒々しく腰掛け足を組んだ。真っ白なバスローブから生える腕や脚は毛むくじゃらで、清潔感に著しく欠ける。獣は手酌でグラスに赤ワインを注ぐ。そうしてグイッと一息に杯を仰ぐと、まったく愉快で仕方ないといった風に一つ高笑いをする。次いで二杯目に手をつける。
 檻に閉じ込められ、人工の灯りに晒される風香嬢からはあらゆる神秘的なヴェールが失われていた。あるのはかつては美しくそして聡明であったであろう美少女の腐乱死体である。垂れた前髪が眼窩の窪みを隠している。かろうじて残る歯がむき出しの顎に刺さっている。客観的に見れば醜い魔物と形容せざるを得ないだろうか。
 獣はそんな風香嬢を、頬杖を突きながら下から上まで眺め、その瞳に嗜虐的性向の光を浮かべていた。
 やがて淫獣はおもむろに立ち上がる。そっと風香嬢に寄り添い、肩を抱く。太くこわばった指がワンピースの上から風香嬢の肩に沈んだ。獣は風香嬢をベッドに腰掛けさせる。風香嬢はそんな束縛から逃れようと身じろぎをするが、その素振りは決して荒々しくはなれず、かえって獣の興奮を誘うばかりであった。
「逃げてはいけないよ、レディ……」
 囁くような、猫なで声。
 獣は肩に抱いた腕を解き、腐汁と蛆の踊る指で風香嬢の髪を梳く。顕わになった黒色の耳に口を寄せた。獣の陰茎は逞しく勃起し、股間に世界で最も下品な円錐を形成させる。なるほど立派なtiny towerである。
 これらの一挙一動に対する我々の反応たるや筆舌し難いものがある。ただ一言、真っ白になるほどの怒り、と述べれば読者諸君は我々の胸の内を過不足なく察することができるものと信じている。我々に対する言及はこの程度に留め、今はまだ叙述を続けねばならない。
 淫獣は風香嬢の手を取り、己の腿の上に乗せた。そして開かれた股間へ風香嬢の赤く爛れた手を導く。が、一物には触らせない。腿の内側を腰から脚先にかけて、脚先から腰にかけて、幾度も重ねた手を往復させる。風香嬢のふっくらとした愛らしい手が汚らわしいふぐりに近づく時には獣は中空を仰ぎ、今にも泣き出しそうな顔で口をへの字に曲げ、部屋の外にも漏れ出るほど大きくそしてだらしない嘆息を零すのだった。獣の興味は、普通の女性と比べれば明らかに特徴的である外見的特異にしか向けられていない。風香嬢の何が貴いものであるかなど、獣には決して気付かれない。この男はただの盛った猿である。半世紀遅れの思春期である。哀れで惨めなその半生に同情しないこともない。
 一方、一連の行為の間、風香嬢はがらんどうの瞳に胡乱な光を湛えていた。徹底した無関心っぷりであったし、風香嬢自身、自分が今何をされているかに関する考察も持たないだろう。風香嬢を支配するのは、ただ、ただ、再び旅路に戻りたいという本能的欲求であった。風香嬢はそれのみを欲している。それ以外は何ものも欲していない。風香嬢の振る舞いはかような本能的衝動によってのみ決定される。
 ところでこのような光景――すなわち、初老の男性が半屍人の少女を強姦しようとしている様子――を一般の者どもが見たら何と思うだろうか。非現実的にして非常識的な事象が折り重なるこの光景、かろうじて「狂っている」と呟くのがせいぜいではなかろうか。
 だが我々に先立つのは前述の通り憤怒である。それは、神聖なる我らが風香嬢が今まさに穢されようとしていることに対する宗教的憤怒というよりは、無垢にして純粋そしてあどけなく愛らしく貴い我らが風香嬢が今まさに淫らな大人の悪意に一方的に凌辱されようとしていることに対する道徳的憤怒である。
 眼前の光景は、道徳的に、誤っているのである。絶対的に誤っているのである。
 淫猥な獣が風香嬢を凌辱する様々な手段を持ち、かつ、それらを実行する能力があるのに対して、風香嬢はその大きく損なわれた体を以てして己の身を守る手段に著しく欠いている。風香嬢は暴力を伴う強制的行為に対しては抗うことができない。強者から弱者に対する一方的な行為、という構図がそこにある。それ故、我々が風香嬢に味方し風香嬢を守ることは道徳的にも正しいのである。そのために全てを捧げることを改めて決意することができたのである。
 そして何よりも、一連の行為の間、風香嬢の精神性は決して傷つけられなかった。それは必ずしも風香嬢が意識するところではなかっただろうが、いずれにせよ風香嬢の精神的純潔は守られたのである。旅への飽くなき欲求が風香嬢の本質的な魅力であるならば、風香嬢はその欲求を保ち続けた。我々が恋した背中は失われなかった。
 風香嬢に意図するという能動的な行為は認められないにせよ、ある種の比喩として、風香嬢は我々が風香嬢に期待するものを守ったのだ。それだけで我々は救われたのである。その恩義は返されなければならぬ。我々は風香嬢を護る騎士とならねばならぬ。ここで騎士にならねば何のために我々は男子として生まれたというのか。心に秘めた大剣が、眩く、眩く、光り輝く。我々は風香嬢に恋したあの瞬間から風香嬢に剣を捧げることを誓ったのである。
 指揮官殿の合図!
 刹那、我々は黒い竜巻となる。枠ごと窓をぶち壊し、扉を粉砕し、獣を風香嬢から引き剥がし、それでも有り余るエネルギーを部屋中のたとえばデスクに、カーテンに、ベッドに、飲みかけのワインボトルとグラスに叩きつける。獣には呻くことすら許さない。我々の暴力的本能の凄まじさに我々自身が驚くほどであった。
 破壊し、粉砕する――その快楽に溺れる寸前、指揮官殿から攻撃中止の命令から下る。幸いであった。壊れた窓から吹き込む雨風が我々の火照った頭を冷やしてくれた。そうして改めて室内を見回してみれば、惨状と呼ぶに相応しい惨憺たる有様が広がっている。獣はベッドから離れた部屋の隅で丸くのびていた。時折、ぴく、ぴく、と震えていた。
 風香嬢はしばらく儘に徘徊した後、裏門から脱出することに成功した。十分に邸宅から離れたところで指揮官殿は目的が達成されたことを確認し、期間限定的組織の解散を宣言し、己の地位と権限を返上し、そして我々のうちの一人に戻った。組織解散後も慣性で我々の足並みは揃っていたが、緊張が解けるにつれて我々の行軍は再び集団のぞろぞろとした動きに戻っていく。
 風香嬢の背後十メートルの距離も再び保たれた。
 雨は未だ止まない。小雨は先刻と同じく風香嬢の気配と香りを殺していた。
 静かだった。
 まだ出来事から一時間も経たないというのに、夢だったのかと錯覚するほどであった。
 しかし夢まぼろしではないことは、我々自身が最もよく知っている。一度自覚された剣はしっかりと鞘に納められ、白銀の刃の眩さは決して忘れることができないものとなる。その輝きの強さは我々の誇りの高さと同値である。
 我々はかつて風香嬢を悪意に満ちた手から救うべく共闘した。その記憶は我々が我々であることをより明確に定義する。すなわち以下の通りである。
 我々は風香嬢を慕い、風香嬢に従順である。その関係性においてはとりわけ精神性を重視する。そして風香嬢を脅かす者に対しては暴力的措置を講じること可能である。
 今回の件を通じて我々は我々が思っていた以上に物理的が力を持っていたことを学習した。これは、今後、過剰な暴力的牽制や具体的な事件への対抗手段となると同時に、我々の暴力的性向を助長しかねないものである。我々がもはや一定の力を持つ集団であることに対する責任と相応の義務を自覚せざるを得なかった。我々はもはや単一の目的にのみ規律される集団ではいられないのかもしれない――確信に近しい予感であった。
 このような反省を残し、かくして二時間一話のドラマよろしくこのエピソードの幕はとじられるのである。
 
 このエピソードが我々にとって特に重要な点は、風香嬢と我々の関係を再考させると同時に我々自身のあり方それ自体のターニングポイントとなった点である。これは冒頭で述べた通りであった。
 しかし、実を言えば、もう一点大きく変わらざるを得ない点があったのである。くしくも“我々”はその時その事に気付くことができなかったのだが。


 四.
 
 それから数週間後、風香嬢と我々はとうとう欧州の最西端の国に至った。特に東欧に入ってからは一貫して進路は西を向いていたわけであるが、地理的限界により間もなく風香嬢と我々は今後の進路を再検討せざるを得なくなる。しかしそれは風香嬢の決めることである。風香嬢の行くところが我々の目的地である。もっとも、それよりも喫緊の検討課題があったわけだけれど。
 思えば風香嬢と我々は幾度も夜を跨いだ。星が流れ、月が喰われるのも見た。複数の季節を経験した。愉快な時期も、不快な時期もあった。もはや我々の歴史は一言では語り尽くせぬほどに長いものになっていた。
 途中、我々から脱した者もいた。あるいは我々に参加して間もない者もいる。もはや我々の内で誰が最古であるかもわからない。旅の出発点もわからない。
 ながい旅路である。
 本当にながい旅路であった。
 日夜、雨風に晒され続けてきた風香嬢の体は、確実に風化していたのである。
 
 交代する雨天と晴天、容赦ない日光、加えて潮風。
 近日の気候を描写すれば以上のようになる。風香嬢の腐った体に追い討ちをかけて痛めつけるには十分であった。
 指先から絶えず滴る汁は雨の残りであるのか風香嬢自身のものであるのかわからなかった。鴉は絶えず風香嬢の頭上を旋回していた。風香嬢が放つ香りに誘われた虫も多い。風香嬢の体に巣食った蛆どもが続々と成虫になる。風香嬢の運動によって遅らせられてきた腐敗もいよいよ限界であるようだ。我々は、基本的には風香嬢を背中からしか見ない。しかし、そこからでもここ数日は急激にその背中が小さくなっていることがわかった。
 そしてとうとう――。
 ぼとり、という音がする。風香嬢の左腕が肩から千切れて落ちたのだ。落ちた衝撃で左腕からは蛆と黒いのが放射状に広がり、黒いのは霞のように宙へ舞い上がる。
 肉だと思っていたのはほとんど蛆であり、蛆が散開すると残ったのは穴だらけの皮と華奢な骨だけであった。
 我々は風香嬢の一部を拾い、木箱に納める。驚くほど軽かった。
 
 風香嬢の腕の欠落は、風香嬢の体が限界に達していることを象徴するものである。我々はそのことを自覚せずにはいられなかった。葬送めいた重苦しい雰囲気が我々を覆う。
 それでも風香嬢は前へ行く。だが、腕を失い、体のバランスを取ることが一層難しくなったようである。一度転べばきっともう立ち上がれないだろう。脚だってもはやいつもげてもおかしくない。
 何がそこまで風香嬢を駆り立てるのか――今さらその問いを立てるのは愚かである。
 問うべきは、あとどこまで風香嬢は行けるのか。風香嬢にはあとどれほどの時間が残されているのか。
 そして、我々はどうするべきか。
 朽ち行く風香嬢を朽ち行くまま見届けるか。あるいは積極的に介入するべきか。介入するにしても、我々が風香嬢の杖となり脚となって旅の継続を支援するか、あるいはもういっそ休ませてやるべきか。
 いずれ訪れるであろう終末に対する態度については、我々の内では表立っては論じられてこなかったものの、誰もが考えていたことであった。口にすれば論じざるを得なくなるし、論じれば風香嬢の二度目の死を意識しなければならなくなる。しかし風香嬢の体の限界が具体的な出来事となって明らかになったことで、いよいよ我々は紛糾する。我々が取り得る選択肢は複数あり、それぞれの選択に従って派閥が形成される。各々の主張は以下の通りである。
 第一は、風香嬢に対しては一切介入することなく、我々が元来共通して持つ、風香嬢を背後十メートルからお慕い申し上げる、という目的に忠実であろうとする原理主義派である。彼らは徹底して風香嬢の影となることを是とした。彼らは、風香嬢と我々の間の十メートルの空白こそが風香嬢と我々の関係を象徴するものであり我々を我々たらしめる要因であると信じている。故に風香嬢自身に対する一切の干渉は無礼であり、むしろ風香嬢に触れようとする一切を遠ざけることにこそ――彼らの言葉を借りれば――我々の風香嬢に対する貢献の余地が残されているのである。(ところで大きな共通目標という点では依然として我々は我々であり、その点については派閥を横断して合意が形成されている。しかしここでは便宜的に各派閥を客観的に捉える意味で“彼ら”と呼ぼう――しかし、このような呼称を用いらざるを得ないこと自体が、もはや我々という集団がかつてとは変容してしまったことを象徴するものである。)
 第二は、風香嬢の杖となり脚となり、風香嬢の旅の継続を支援する立場を取る目的支援派である。彼らは風香嬢の意――そのようなものがあると仮定する――を汲み取り、そのためには単なる影を脱却して例外的自発的行動を取ることもまた必要であると主張する。彼らに言わせれば、原理主義派は頭の凝り固まった融通の利かない者どもである。
 第三は、一般的常識に立ち返り、道義的観点から述べて一刻も早く風香嬢を安らかに眠らせることこそが正しく優しいことだと主張する安眠派である。
 無論、三者はいずれも間違ってはいない。間違ってはいないからこそ結論が出ない。そして結論が出ない決定的な理由は、風香嬢自身の意思が明らかにならないためである。もっとも、元来意思という理性的な判断があるかどうかも疑わしい存在に、ある意味比喩として“風香嬢の意思や目的”を設定してしまった我々自身の落ち度でもある。どのような議論をしても論理的に合意を導くことは不可能であると我々は自覚していた。しかし、それでも我々はやはり己の信念に基づいて各々の立場を主張せざるを得なかった。
 ところで着目すべきは、各派閥の構成である。全体を10とすれば、原理主義派は5、目的支援派は4、安眠派は1である。差し当たって、十メートルの空白を飛び越えて風香嬢に介入するかしないか、という判断をするにしても丁度五対五で勢力が拮抗するという状態であった。
 そしていよいよ興味深い点は、各派閥の構成員の属性である。簡単に言えば、安眠派の1と目的支援派の一部は、かつて我々が淫獣に対して制裁を下した事件以降に我々に加わった者たちだったのである。目的支援派に加わる者らもほとんどが我々が東欧に到達してから参加した者たちである。東欧以前から我々に参加し、ながい歴史を共有する者らは総じて原理主義派であった。参加時期毎の世代分けと、主張に基づく分類はほぼ一致するのである。我々がもはや単一の目的によって同一化することのできないことを示す決定的な証拠であった。いつしか我々は利害調整という人為的な操作を必要としていたのであった。そのことに今の今まで気付かれてこなかったのは、腕の欠落という目を背け難い具体的なきっかけが生じるまでは、山あり谷あり様々あれど結局“最後はどうにかなってきた”からである。
 だが、我々にはもはやのんびり利害調整をしている時間的余裕もなかった。我々の関心は共通して風香嬢に向いているが、その風香嬢自身に残された時間自体が残り僅かなのだ。我々の内部の対立は、いわば風香嬢の残された僅かな時間の使い方を巡る、時間の争奪戦である。
 かくして我々は互いを牽制し合うようになる。自ずと派閥単位で行進を行うようになる。風香嬢が転びそうになった時には、飛び出しかける目的実践派と安眠派を原理主義派が後ろから羽交い締めにする始末である。残された僅かな理性のおかげでかろうじて暴力沙汰にならないだけで、状況としては文字通りの一触即発であった。なまじ戦闘経験を持つがために、特に原理主義派と目的実践派は「その気になれば実力行使もできる」と思っていた。穏便ではない。かつて我々が憎んだ暴力的牽制は今や我々自身が我々自身の同志の動きを抑制し支配する手段である。
 我々は我々という結束を失おうとしていた。


 このように風香嬢の背後では生臭い動きが続いていたのだが、当の風香嬢自身はといえば、やはりぽろぽろと体を失いながらも前へ前へと邁進するのである。そのひたむきさこそが、我々が我々を我々という括りで一つにすることをかろうじて可能にする最後の根拠であった。
 しかしそのひたむきさも、一つ見方を変えれば執着や妄執である。我々が恋する風香嬢は同時に前時代的な人々の常識を揺さぶる不穏分子である。
 特に旅の舞台を欧州に移して以降が顕著であった。結果的に今の今までは、そういった頭の固い者どもとの悶着は二時間一話完結型の勧善懲悪物語に昇華することが可能であったが、近頃はそれも難しくなりつつあった。そもそもこれまでが上手くいっていたのは、風香嬢と我々が彼らに対して取った戦術が不意打ちであったからだ。唐突に現れ、状況を相手に完全には飲み込ませないままその場から離脱する。このようなゲリラ戦法が主な風香嬢と我々の戦術であった。だが、風香嬢と我々は欧州に入ってもう久しい。インターネット上に風香嬢と我々に関する情報のデータベースが形成されるには十分すぎるくらいの時間と機会があった。対象に関する知識を獲得することは無知から生じる警戒や恐怖を緩和させ、場合によっては人をつけ上がらせるきっかけになる。知らなければこそ怖いものも、知ればただの動く死体である。ゾンビを大量虐殺する仮想体験は一部の者らの間では積極的に盛んに行われているものだ。なるほど、かつて我々が嘲弄したマスコミもこのような効用を持つものであった。
 事前の知識は前時代的人間どもに備えを提供した。だが、彼らの態度をいよいよ硬直化させたのは、既存のゾンビに対する偏見には限られない。風香嬢の容姿である。これは具体的な観察に基づくものであるからこそ、反論の余地がほとんどないのである。
 今や風香嬢の容姿は、女子供が泣いて逃げだすには十分なものであった。原因は前述の通りの気候である。腕がもげているのみならず、皮膚のほとんどが失われ、肉は虫や猛禽に喰われ尽くし、あるのは真白い骨である。歩く骸骨であるが完全に骸骨になりきらないのは、乾ききった黒髪と壊れかかったワンピースとすっかり底の抜けた靴と、肉体が損なわれてもそれでもなお失われない花の香りによるものである。骨自体が香りを持っていたのだった。
 もはや、ちょっと俯けば道行く人に気付かれなかった頃ではない。隠しても隠しきれない程度に風香嬢の体は二度目の死を具現化していたのだ。予算の額自体が宣伝文句になる類の超豪華サスペンスホラーでもお目にかかれないような、生々しいゾンビ。その姿を革命的だと言って喜び手を叩けた時代はもはや過去なのだ。過去なのであった。そう認識し直さざるを得ないのだ。たとえ我々がいくら悔しがろうとも。
 
 最後の街で我々を迎えたのは、U字型に展開した武装集団である。市街地からは少々離れたところではあったが、野次馬は十分にいた。その上空をヘリコプターがけたたましく旋回する。叩きつける風圧が風香嬢を転ばせないか、我々はひどく不安であった。
 風香嬢と我々の到着を待って、武装集団のリーダーと思しき男が、拡声器を通じて呼び掛ける。曰く、立ち止まり、警察の警告に従えとのことである。
 一度立ち止まれば向こう十数年は青空を拝めなくなることは間違いない。我々だけでも、現行の法に照らし合わせてみればお縄につくには十分な理由があった。たとえば跨いだ国の数だけの不法入国がある。ある国では公僕の車に損害を与えた。一応見かけだけは紳士的な男を集団で暴行を働いたこともあった。他にも、風香嬢が歩いた先がたまたま道路であれば、行進の間は車の通行を結果的には一時的にご遠慮願う形になったし、ある一つの観点からの迷惑という視点で考えれば余罪はおそらく我々の記憶の内を遥かに凌駕する量がある。無論これらは建前に過ぎない。本質的な動機は、非科学的な存在というエラーを排除し、秩序を再構築することである。
 しかし我々は彼らの呼び掛けに応えることができない。風香嬢はもちろんのこと、我々もまた我々という複数形の一人称でしか我々自身を表現することができないため、交渉の窓口となれる個人がいないのだ。かつてのように、速やかに期間限定的なリーダーを選出しようにも、今の我々は統一性を欠いている。我々が歯痒く口を閉ざしている間も風香嬢は行進し、風香嬢が行進すれば我々は後を追わざるを得ず、結果、彼らの呼びかけは無視されたという状況が形成される。発砲もやむなし、一触即発である。
 一歩、また一歩。風香嬢は武装集団の間にある僅かな隙間を目指し、歩く。空砲による牽制も風香嬢が歩みを止める作用はもたらさない。
 そしてとうとう――タン、と発砲音がした。撃ったのは風香嬢の正面に立つ一人である。
 しかし一見何の変化もないように見える。若者の勇気ある一撃は一体何に作用したのか。銃弾は確かに風香嬢の右足の甲を貫いた。膝を狙わなかったあるいは狙えなかったのは崇りや怨恨を怖れたためであろうか。
 いずれにせよ、肉体的損害を伴う暴力的牽制は風香嬢の行進を止めることができなかった。それがますます彼らの態度を硬直化させた。構えられた盾どもがぎゅっと圧縮され、そして風香嬢の足が止まる。止まった。
 突然の出来事であり、かつ、事象自体は些細であったため、一瞬その場にいた誰もがその重大性に気付くことができなかった。解釈はいつでも遅れてやってくるものである。
 風香嬢が足を止めた。なぜか。武装集団が緊張し、盾を密集させ、そして、風香嬢の道を閉ざしたからである。その先に道がないとすれば、その次に選択される動作は何か。方向転換および新たな道の模索である。
 瞬時に為された考察と構築された仮説は、ただちに検証された。すなわち風香嬢はおぼつかない足取りで以てその場で反対を向いたのである。結果的に彼らは風香嬢の進行を阻むという目的を達成したことになる。
 一方、風香嬢の方向転換は我々自身にとっても特殊な意味をもっていた。すなわち、皮肉なことにそれは、風香嬢が初めて我々の方を向いた瞬間であり、風香嬢と我々の対面であった。
 我々はその容姿はすっかり損なわれてしまっていることを改めて認識し直さざるを得なかった。風香嬢は元来、並んで立てばきっと成年男子の平均的な身体の肩か胸ほどにしか達さない程度の小柄な娘である。その娘がよくぞここまでひたむきにやって来たものである。今はもう顎の下にかろうじて肉片がこびりついているのみであった。
 衝撃は特に原理主義派において顕著であったようである。無理もなかろう。彼らが風香嬢に恋したときはまだ、風香嬢には多分に生前の面影が残っていたのだから。以来原理主義派は風香嬢の背中だけを見てきた。それに比べて近頃我々に参加した者らが一様に安眠派へと流れていったのもまた一定の妥当性がある。風香嬢の姿は痛ましいのである。憐憫を禁じ得ぬ程に、風香嬢はぼろぼろなのである。人間らしい感情というものがあるとすれば、それはこのような姿を見るにつけ、早く楽にしてあげたいと感じる心であるのかもしれない。だがそれは、これ以上痛ましい姿を見たくないという観察者自身の脆弱さの象徴でもあるのかもしれない。
 我々、特に原理主義派は初めて迷った。我々の内部で紛糾した時でさえ、個人単位では確固たる信念があった。だが今の混乱は個人内での葛藤である。
 我々は風香嬢に何を求めるのか。
 あるいは、風香嬢はどうしたいのか。
 ならば我々はどうするべきなのか。
 一番目の問いが直ちに二番目の問いに転換される辺りが我々の限界である。我々は我々の振る舞いの指針を風香嬢にしか求めることができない。我々の目的は風香嬢を背後十メートルからお慕い申し上げることである――その言葉の意味が根本から問い直されていた。
 我々は迷い、悩む。だがしかし、やはり解決の糸口を提供するのは風香嬢なのである。
 風香嬢は歩む。
 一歩、また一歩と風香嬢がこちらにやってくる。
 我々は二つに割れ、道を作った。
 その道を風香嬢は行く。
 すれ違いざまに残していく花の香りは骨それ自体から漂うものである。十の花よりも甘く、蜂蜜よりもねっとりとした濃い香りである。
 そして風香嬢は我々を通過し、再び我々に背を向ける形となる。我々はその背中に恋をしていた。死してもなお何かを追い求めるひたむきさに恋をした。決して、ただの無目的な徘徊ではあり得ないほどの真剣さがそこにはある。我々は風香嬢と同じ目線で風香嬢が見るものを見ることを欲した。そのことを我々は思いだす。
 風香嬢が行くから我々も行くのだ。
 これは主体性に欠けるものであるか。否、我々の明確な意思である。
 我々は風香嬢に恋をしたその瞬間から、風香嬢に魂を捧げたのである。
 だから、もしも我々が風香嬢に求めるものがあるとすれば、たとえ身勝手なものであってもやはり以下のものである。すなわち、どうか、最期まで我々が恋したままの風香嬢であって欲しい。
 
 その後の顛末は簡潔に述べることにしよう。
 結論から述べれば、我々は武装集団と衝突した。彼らが風香嬢を追って押し寄せたところを我々は一丸となって壁になったのだ。風香嬢の行く道を阻むものには何ものであれ対処しなければならないのだった。
 我々の出自がどのようなものであれ分類上は民間人であるので、極端に悲惨な事態には陥らなかったものの、やはり多少の怪我や我々の一部の拘束を伴った。多少の戦闘経験を活かす余地すらなかった。これらは初めからわかっていたことであり、それ自体はもはや問題ではない。我々の関心事は、一分一秒でも長く武装集団を引き留めておくことである。その一分一秒の分だけ風香嬢は遠くへ行けるのだから。
 
 読者諸君は冒頭で挙げた問いを覚えているだろうか。風香嬢はどこから来て、どこへ行くのか。そして風香嬢は何者なのか。それに対して我々は、前二つに関しては、知らぬ、と突っぱね、残りの一つについては我々が愛して止まない宝であると答えた。
 今なら我々がそのように答えた意図も解してもらえるだろうか。
 とどのつまり、風香嬢に関する属人的情報は問題ではないのである。冒頭で述べた通り、風香という名は我々が勝手にそう呼んでいるに過ぎない。科学的鑑定によって風香嬢の生まれや本当の名を知ることもできるかもしれない。風香嬢の一度目の最期の状況がわかるかもしれない。
 だが、それが一体何だというのか。
 我々は風香嬢の背中に恋をした。ただひたむきに何かを追い求める姿に恋をした。
 たしかに生前の風香嬢の死の際を知ることができれば風香嬢のことを情報としてより深く理解できるかもしれない。風香嬢の歴史を知れば、風香嬢の未練や、風香嬢が真に目指したものも推測できるかもしれない。しかし、そのような情報は風香嬢の本質に対する理解を助けない。
 このながい旅を通じて風香嬢は欲するものを得たのか――この問いに関心を持つのは風香嬢と心を重ね合わせ共感しようとする者である。
 しかしながく旅をすればするほど、この問いを問う意義は失われていく。
 
 ――行けよ、行け。
 ――その腐った足で行けるとこまで行けよ、風香嬢。
 
 この呟きが全てである。気取った言い方をすれば、我々は風香嬢の行くところを行くのみである。
 そして、旅の意義は回顧的に発見されるのである。意義はあらかじめ問われるべきものではない。
 間もなく旅の終わりを迎えた時、我々は豊かな余韻の中で旅路を回顧し、各々が独自のストーリーを読むだろう。


 五.
 
 辿りついたのは浜辺である。
 風香嬢は波打ち際に倒れた。
 星が瞬き始めたばかりの頃であった。
 
 うつぶせた頭部に飛沫が飛ぶ。
 
 風香嬢は右の腕で立ち上がろうと努めたが、それはとうとう叶わなかった。
 叶わないとわかると、それっきり風香嬢は動かなくなった。
 大きく、息を吐いたように見えた。
 
 波の音は止まない。
 風香嬢の傍らで小さな泡が弾ける。